§2015 フランス中南部の旅 - その9 コンク (その3 巡礼の道)
コンクに滞在した3日間に多くの巡礼者の姿を見かけた.一人旅の人が少なくなかった.上の写真の男性とは,少しだけ言葉を交わした.「ヴァランスから来た」とおっしゃっていた(と思う). |
ヴァランスという響きに,若い頃のジャン=ジャック・ルソーを保護し,愛人でもあったマダム・ド・ヴァランスを連想したが,後で確認したら,こちらはWarensと綴り,都市ヴァランスはValenceと綴るので,日本語で書くと同じように聞こえるが,何の関連もない.
「ヴァランス」がどういう都市なのか,少し調べてみた.オーヴェルニュ・ローヌ・アルプ地域圏ドローム県ヴァランス郡に属する基礎自治体で,2013年の統計で人口は6万2千人弱(仏語版ウィキペディア)で,人口規模から言えば小都市だが,ネット上にある写真を見ると,そこそこの都会に見える.ここから多くの有名人が出ているようで,人文・教養分野では,20世紀の哲学者ポール・リクールがここで生まれたとのことだ.
そうしたことはともかく,今,コンクとの関係で重要に思われるのは,ヴァランスの位置だ.フランスの地図を広げてみると,ヴァランスは,ル・ピュイの南にあり,ヴァランスからずっと南にはアルルがある.距離的にはル・ピュイの方が圧倒的に近い.
「ル・ピュイの道」
中世の頃,現在の国名で言うとフランスにあたる地域から,スペインの北西端ガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラに行くための巡礼路の起点は4つあったとされる.パリ,ヴェズレー,アルル,そしてル・ピュイである.
ヴァランスの人は,ル・ピュイを起点としてサンティアゴに向かう.その途中に,コンク,モワサックがあり,現在の国境で言うとフランス側の最後にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポールからイバニェタ峠(シーズ峠)を越えて,スペインに入る.
アルルから出発すると,トゥールーズを経て,ソンポール峠でピレネー山脈を越え,スペインに入って,プエンテ・ラ・レイナで,イバニェタ峠を越える他の3つの巡礼路と合流する.
2011年の夏の旅で,サン・ジャン・ピエ・ド・ポール,イバニェタ峠を越えてスペインに入り,ロンセスバジェス(ロンスヴォー),パンプローナ,4つの巡礼路が一つになるプエンテ・ラ・レイナに行った.そのあとは,ブルゴス,レオン,最後はもちろんサンティアゴ・デ・コンポステーラだった.
アルルに行ったのは2011年の3月だった.トゥールーズはこの両方の旅で,観光なしで立ち寄った.今回の旅では,ボルドー,コンク,ル・ピュイが巡礼路にある町(都市)である.
巡礼の道を意識して旅先を選んでいる訳ではないが,こうしてロマネスクに関心を持ち,いつかヴェズレー,モワサックにも行きたいと思えば,自ずと,巡礼が歴史的に果たした役割,それによって生み出されたものについても関心が醸成されていくように思う.
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写真:
コンクを見下ろす
礼拝堂まで辿り着いた
「ル・ピュイの道」を辿る
巡礼たち |
現在では,巡礼路を全て歩かなくとも,自動車道,鉄道もあり,サンティアゴには空港もある.しかし,(私の聞き違いでなければ)ヴァランスから歩く巡礼者は,まずル・ピュイを目指し,そこから峠や谷を越えてコンクに至り,サンティアゴへの道を踏破しようとする.
ル・ピュイからコンクに近づくと,まず山間の上の写真の祠堂に至る.上の写真はコンクからズームして撮った.私たちは実際に行っていないので想像だが,そこからサント・フォワ教会の偉観が見えるであろうと思われる.
そこから一旦,ドゥルドゥー川の渓谷におり,通称「ローマ橋」を渡って,再びコンクを目指して急峻な坂道を上がる,
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写真:
サン・ロック礼拝堂 |
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その坂道を登り切った小高い地点に,上の写真の16世紀の創建とされるサン・ロック礼拝堂がある.そこから少し下って,再び坂道を登るとコンクの城門があり,そこから緩やかな坂を少し行くとコンクの中心に至り,サント・フォワ教会が眼前に姿を現す.
道は真っ直ぐ,教会前の広場に通じていて,巡礼者はそこでタンパンの浮彫彫刻「最後の審判」を目にする.
位置だけを記した単純な地図で見ると,サンティアゴ・デ・コンポステーラが遥か遠くにあるのに比べ,ル・ピュイとコンクは目と鼻の先にあるように見える.しかし,実際は,ル・ピュイとコンクの間にも山と谷が幾つもあって,徒歩の巡礼者は大変な思いをして到達するものと思われる.

現地のガイドさんがサント・フォワ教会以外の見どころとして挙げたのが,この「ローマ橋」だった(仏語版ウィキペディアも2016年2月12日段階ではまだ書きかけ項目だが,いつか充実するかも知れないので,一応リンクしておく).
通称からしてローマ時代からの橋が残っているのかと思ったが,少なくとも現在の橋は,古くても15世紀の建造らしく,イタリアなら中世ではなくルネサンス時代の橋ということになる.幾つかのウェブページの情報しかないので,正確かどうかわからないが,1410年に完成したのであれば,百年戦争が1453年のコンスタンティノープル陥落と同年に終わるので,フランスでは「中世の橋」と言って良いだろう.
ローマ時代のものではなかったが,橋には独特の魅力があり,15世紀初頭のものなら,私たちには十分以上に古く,これを実際に渡り,川岸まで降りて,何枚も写真を撮ることができ,じっくり鑑賞できて嬉しかった.
シンプルで力強く
今回の旅で,後陣に放射状に祭室のある周歩廊を持つタイプの巡礼教会を幾つか見ることができた.下の写真はタンパンの下の扉を入り,正面から奥に向かって撮影したもので,周歩廊の祭室の窓が明るい.
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写真:
ナルテックスから
内陣に向かって |
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辻本&ダーリングに「上心アーチ」と言う語が出てくる.概ね,真っ直ぐな柱の部分が長く,アーチが上方に乗っているタイプの構造であろうことは想像がつくが,この日本語でウェブ検索すると,ロマネスク建築に関して,貴重な情報をわかりやすく説明した日本語ページがヒットする.
それに拠れば,「足高アーチ」とも言い,英語ではstilted archと言うようだが,ウェブページでそのフランス語訳,イタリア語訳を検索しても説得力のある用語が見当たらない.
いずれにせよ「上心アーチ」と言う用語には欧語以上の説得力があり,上の写真を見ながら言葉を覚えると,多分容易に頭に入るだろう.ただこの用語でカヴァーされるアーチも一様ではないようなので,私の理解があまりにも素朴すぎる(と,先輩,後輩たちからは良く言われる)かも知れないが,それほど間違ってはいないだろう.
しかし,そうした些末な知識を越えて,ともかく,このサント・フォワ教会の身廊をナルッテクス(拝廊/玄関廊)から,内陣,後陣の方を見上げた光景は,感動の一言につきる.サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂のロマネスク身廊も素晴らしかったが,壁面は柱と同色の柱頭彫刻以外にこれといった装飾がほとんど目に入らない,この荘厳だが単純な様子は心に迫ってくる.
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写真:
12世紀のロマネスク
様式の鉄のフェンス |
これは聖歌隊席の鉄製の柵だ.鉄製のフェンスの芸術性を意識したことはなかったが,それでも12世紀の遺産と聞けば,有難みが違うように思える.
渦巻きと言えば,古代以来のケルト文様を想起させる.関係があるかどうかはわからないが,南フランスにもケルト人が住んでいて,ローマ文化を受け入れ,言語もラテン系に変わったが,基層はケルト人と考えて良いだろう.それがこの文様につながっているかどうかは単純には言えないであろうが,そう思いながら,写真を眺めていると,しみじみと良いものを見たような気持になる.
関心の間口は,できれば広く持ちたいと思うが,こうした装飾に関して,自分で良いものであると気が付くのは,少なくとも私の場合はほとんど不可能なので,誰かにその由緒や,価値を語ってもらって初めて,じっくり鑑賞する気持ちになれる.このフェンスに関しては,ウェブページにも欧文参考書にも取り上げられているので,その点は大変良かった.
サント・フォワ教会の修道院
教会の向かって右手(南)に,修道院とその回廊がある.かつては南フランスでも屈指の美しい回廊であったとされているが,修道院廃絶後19世紀まで放置され,地元住民の石切り場となっていたので,多くの部分が失われた.
現在の姿は残っている素材を組み合わて復元されたものである.それでも,オリジナルな部分が柱頭彫刻を含めてかなり遺っている.
下の写真は,教会の南側翼廊の西側出口から出て,旧回廊の東側から,復元された西側のアーケードを見ている.中庭中央の井戸も復元されたもののようだが,見事な石造芸術に思える.
回廊に宝物館の入り口があり,有名な聖フォワ像もここで見られる.
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写真:
修道院回廊
この奥の宝物館に
サント・フォアの
聖遺物がある |
堂外の装飾はタンパン以外にも柱頭彫刻や浮彫など見るべきものがあり,特に,ベゴン3世の墓(下の写真)は目を引いた.
彼が修道院長の時(1087年から1107年)から,コンクの修道院と教会は今のような形になっていった.タンパンの浮彫彫刻でカール大帝の手を引いている杖を持った人物をベゴン3世と考える人もいるようだ.ただし,マールはベネディクト修道会の開祖ベネディクトとし,アルメルの案内書は修道院長オルドリックとし,タンパンの特化したパンフレットでは名前を挙げずに修道院長としている.
ベゴンと言う名の修道院長も3人いるが,オルドリックと言う名の修道院長も2人いて,いずれも11世紀の人物だが,オルドリック2世はベゴン3世の前の前の修道院長のようである.
タンパンで,キリストに向かってカール大帝の前にいる3人の人物に関して,私たちは2つのページで,アルメル等を参照して,聖母マリア,使徒ペテロ,コンクの初代修道院長に擬せられる隠修士ダドンとしたが,マールはこのダドンをT型の杖を持っているので,エジプトの修道院長アントニウスとしている.
こうした人物の特定には諸説あるということであろうが,カール大帝の手を引く人物をデルマ&フォーの英訳案内書は「おそらくベゴン」と言っており,日本語のウェブページでコンクについて,大変詳細に教えてくれるページがあるが,「ベゴン3世でしょう」と推測している.
根拠が示されていないので,当否はともかく,それほどベゴン3世はこの修道院と教会の歴史にとって重要な人物ということになるだろう.
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写真:
大修道院長ベゴン3世の
壁龕墓
中央の浮彫は「栄冠を
与えられるサント・フォア」 |
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2つ前のページで,16世紀には修道院は廃絶したのだろうという当面の理解を述べたが,ダドン以来のベネディクト派修道会は途絶えたが,上記ページに拠れば,「アウグスティヌス会則に従う在俗の聖堂参事会員たち」が住み着き,宗教戦争におけるプロテスタントの略奪や疫病を経てもなお修道院は続いたが,フランス革命の際に国民議会から修道院が解散を命じられ(1792年),その時点で,一端コンクの修道院は閉鎖されたようである.
メリメによる「再発見」(1837年)の後,荒れ果てていた修道院と教会には修復が施され,プレモントレ会という修道会の修道士たちによって,修道院も復興し,一時期中断もあったようだが,現在に至っているようである.
教会の後陣の後ろにある大きな建物が,現在の修道士たちの住まいであろうと想像するが確認していない.プレモントレ会の修道士服は白いようだが,オルガンを演奏した修道士も白い修道士服を着ていた.
まだまだ勉強が足りず,見きれなかったもの,語りきれていないことは数多あるし,理解もおそらく正確ではないだろう.上記日本語ウェブページを見ると,コンクについて詳細な理解をしておられる方が日本におられるようだし,様々な機会をとらえて,コンク,サント・フォワ教会,ロマネスクについて,少しずつ勉強して行きたい.
コンクにまた行きたいだろうか.もちろん,チャンスがあれば何度でも行きたいが,それは難しいだろうから,あと一回は,もう少し勉強した後に行きたいと言っておくことにする.
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念願だったコンク
また来る日まで
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