フィレンツェだより番外篇
2016年2月12日



 




動植物が絡み合うロマネスクの柱頭
サント・フォア教会



§2015 フランス中南部の旅 - その8 コンク (その2 サント・フォア教会の堂内)

ロマネスクの柱頭彫刻を見たいと思うようになったのは,いつの頃からだろう.最初に見たのはいつ,どこでだったろうか.


 2007年のフィレンツェ滞在の1年間で,それまでの人生では考えられなかったほどハイペースで多くの美術作品に出会った.宗教芸術にのめり込むようなったのも思いもよらないことだった.

 それでも,ロマネスクの柱頭彫刻なるものが魅力的であることを,まだ知らなかった.そもそも,そのようなものがあることすら意識していなかった.


ロマネスクとの出会い
 2007年の滞在中に見たロマネスク建築と言えば,フィレンツエのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂,ルッカの大聖堂,ピサの大聖堂,オトラントの大聖堂といった,いわばイタリアのロマネスクを代表する諸教会だ.しかし,特にロマネスクにフォーカスして見学したわけではない.

 サン・ミニアート・アル・モンテとオトラント大聖堂の地下祭室にはロマネスクの柱頭彫刻があり,多少関心を引かれたが,記憶をたどり,写真等で確認しても,基本的にアカンサス模様のコリント式もしくはその変形の装飾彫刻で,おそらくフィレンツェのサンティ・アポストリ教会の堂内の柱と同様,古代もしくは中世初期の建築の再利用ではないかと思われる.

 意識して柱頭彫刻に興味を持ち,なおかつそれをロマネスクの遺産と認識したのは,ミラノのサンタンブロージョ聖堂だと思う.2008年3月と2009年9月に拝観し,そのたびに深い感銘を覚え,なおかつ柱頭彫刻の写真も意識して撮ったが,それでもまだ,一通りの鑑賞にとどまった.

 ロマネスクの柱頭彫刻はヴェローナのサン・ゼーノ聖堂の地下祭室にもあった.2007年9月と2008年9月の2回拝観し,写真に収めたのは2回目の時だ.1回目ならサン・ゼーノが早く,2回目で初めて気づいたのであれば,サンタンブロージョの方が先と言うことになる.

 2011年9月に北スペインを訪れ,サンティジャーナ・デル・マールのサンタ・フリアナ参事会教会の修道院回廊で,相当数の柱頭彫刻を見ることができ,写真に収め,なおかつ帰国後スペイン・アマゾン等で買い込んだ参考書で勉強もした.

 北スペインの旅では,オビエドでプレロマネスと言われるアストゥリアス建築の教会を2つ観ることもできた.

 最近では2014年にモデナを訪ねた時に,モデナ大聖堂でロマネスク彫刻をたくさん見た.堂内は撮影禁止だったが,外にある柱頭彫刻は写真に収めた.この時は既に,明確にロマネスクに興味を抱いていた.こうして少しずつロマネスクへの関心が本物になっていった.


サント・フォワ教会の柱頭彫刻
 今回の旅で撮影が禁止されていた教会は,サンテミリオンのモノリト教会とトリニテ礼拝堂のみで,複数拝観したロマネスク教会と修道院回廊では相当数の柱頭彫刻を写真に収めることできた.

 修道院の回廊の柱頭彫刻はそれほど高い位置には無く,鑑賞も撮影も比較的容易で,障害があるとすれば暗すぎるにせよ,明るすぎるにせよ,日光の光量であろうと思われる.サント・フォワ教会でも外壁や修道院回廊で多くの柱頭彫刻を見て,写真に収めたが,何といっても魅力的なのは堂内の柱頭彫刻だ.しかし,堂内は薄暗く,柱は信じがたいほど高く,オペラグラスを使わないと肉眼で鑑賞することは難しい.

 今はデジタル・カメラのおかげで,光が足りれば素人でもそこそこの写真を撮ることができる.私たちの使用しているのは,コンデジと称される一番小さなカメラだが,それでもズームして撮れば,自分の記録用としてなら十分満足のいく写真を撮ることができる.正直,肉眼だけで見て,記憶だけでこれについて考察するのは至難の技だろう.


左) 両側にケンタウロスのいるセイレン  右) 人と植物が編まれた網模様(夜の撮影)


 そうした状況で,通常の拝観では上がることのできない,教会の側廊の両側上部にあるトリブーナ(英語ではトリビューン)を歩くチャンスがあった.夜,修道士の演奏するオルガン・コンサートが開催され,その際,希望者は,喜捨と言うよりも地元で教会管理に尽力している人たちが集める一種の入場料を払うことで,トリブーナに上がらせてもらえる.

 トリブーナは相当な高さにあるので,そこから堂内を見下ろすと,高所恐怖症の私は足がすくむ思いがした.それでもトリブーナを歩くという貴重な体験ができたうえ,下からは見え辛かった柱頭彫刻を比較的近いところから見ることができた.

写真:
オルガン演奏を聴きながら
夜のトリブーナを歩く


 トリブーナ逍遥の際にパンフレット,

 Conques: Pas à pas dans la forêt des chapiteaux(以下,「パンフレット」)

をいただいた.これは主要な柱頭彫刻のカラー写真と,何が彫り込まれているかの解説があり,どこにあるのかもきちんと説明している,家宝にしたいと思う程の重要資料だ.

 この「パンフレット」と参考資料をもとに,幾つかの柱頭彫刻の主題について,新たに学習したこと,思いついたことを整理してみる.


闘いのシーン
 下の左側の柱頭は,騎士が楯と槍を持って馬上試合のように戦闘しており,写真では見えにくいが,騎士たちの後ろには棍棒を振り回す歩兵がいる.「パンフレット」には粗削りな出来だが,中世の武勲詩を彷彿とさせると説明されている.

 右側の柱頭では,兜をつけ,楯を持つ徒歩(かち)の兵士が片や槍,片や剣を振るって闘っている.「パンフレット」では「封建時代の暴力への非難を見るべきか」と説明されているが,これは断罪が含意されていると言っているのか,あるいは修辞疑問で,そのように見る必要がないと言っているのか文意が不明である.


左) 騎士の闘い  右) 歩兵の闘い


 しかし,「非難」とは思いもよらなかった.なるほど戦闘は好ましいことではないが,であれば,騎士たちの戦いも同断であろう.教会内に戦闘シーンが描かれれば,必然的に暴力批判が読み取れると言うことかも知れない.

 現在,少しでも「ロマネスク」について知識を得ようと思い,通勤電車の中で,

 エミール・マール,田中仁彦/他(訳)『ロマネスクの図像学』上,下,国書刊行会,1996(以下,マール)


を読んでいるが,マールは,コンクのこれらの柱頭彫刻に,それほど強い主張ではないが,『ロランの歌』などの中世の英雄叙事詩(武勲詩)への連想を働かせている.(下巻,pp.124-125).

 タンパンにある「落馬する鎧武者」の浮彫については,寄進をしぶり,暴君的振る舞いをする封建領主への意趣返しであるとされている.そちらは地獄に落とされているのだから,意図は明白であろう.


「アレクサンドロス大王の昇天」
 下の写真の左側の柱頭は,翼のある動物の首に掛けた紐あるいは棒のようなものを握った人物のいる,シンプルで力強い造形の彫刻だ.これについて「パンフレット」には,アサンション・ダレクサンドルとあった.

 アレクサンデルとは一体誰か?同名のラテン語名の聖人もいるようだが,パンフレットには中央の人物の両脇の鳥が「鷲」もしくは「グリフィン」とあり,キリスト教関係の図像には見えない.それに,もしこれがキリスト教主題であるなら「昇天ascension」という語が用いられるのはキリストのみで,その他のケースは,聖母が天に迎えられた場合のように「被昇天」(フランス語ではアソンプションassomption)という表現になるはずである.

 聖人以外の可能性もみて調べてみると,アレクサンドロス大王が中世ロマンスの主人公となり,昇天する話があることが分かった.


左) アレクサンドロス大王の昇天  右) 聖フォアの逮捕


 「パンフレット」には原典情報はなかったが,ウェブページで「ascention d' Alexandre」で検索した結果と,教会近くの博物館のブックショップで購入した,

 Frère Jean-Régis Harmel et Julien Philippoteau, Les Chapiteaux de Conques, Montpellier: JF Impression, 2015(以下,アルメル&フィリッポトー)

に情報(p.16)があった.もともと紀元後3世紀のエジプトのギリシア人カリステネス(カッリステネース)の名で伝わった書物に由来のある物語のようである.幸いにこの本には邦訳がある.

 伝カリステネス,橋本隆夫(訳)『アレクサンドロス大王物語』(叢書アレクサンドリア図書館VII)国文社,2000


である.それには,大王の死を語った箇所で,

 アレクサンドロスがこのこと以外にもそのほかあれこれとたくさん語ったあとで,空中に霧があらわれ,天から海へ大きな星が落ちてき,それとともに一羽の鷲が舞いおりた.バビュロンにある,ゼウスの像と呼ばれている像が振動した.星はまた天の方角へ登って行った.[それに従って鷲も舞いあがった.星が天にかくれると]ただちにアレクサンドロスは永遠の眠りについた.

とあり,さらにこの箇所に対する訳注で,

 アレクサンドロスの神格化を説明する場面.ティールによればローマでは皇帝の像が焼かれたあと,その薪の山から,皇帝から新しく神として天に運んでいく鷲を飛び立たせた.これはオリエント的なしきたりに従っているようにみえる.(本文とともにpp.202-203)

と説明されている.本文の角括弧は,底本の校訂者の補った箇所とあり,この作品の原典テクストを持っていないので,今確かめることはできないが,これらの情報を総合すると,古代にもローマ皇帝の場合になぞらえて,アレクサンドロスに関しても,鷲が彼を天に運んだとする伝承があったことがわかる.

 アルメル&フィリッポトーには,マールへの言及もあったので,邦訳書の巻末索引で「アレクサンドロス大王」の登場箇所を確かめたところ,下巻に詳しい説明があった.

 それに拠れば,伝(「偽」としている)カリステネスのギリシア語著作を,4世紀にユリウス・ウァレリウスがラテン語訳し,それを参照して書かれたと思われる『アレクサンドロス物語』※が,12世紀のフランスでアルベリック・ド・ブザンソンとアレクサンドル・ド・ベルネーによって著わされ,それらに基づいて,旅芸人たちが広場に集まった人々にアレクサンドロスの伝説を披露し,こうした「フランスが作り出した物語」(p.55)の痕跡がイタリアの芸術の中に残され,オトラント大聖堂の床モザイクに「天に昇るアレクサンドロス」が描かれたとのことだ.

(※英語版ウィキペディアにAlexander Romanceと言う項目があり,そこそこの情報は得られるが,12世紀フランスの韻文ロマンスに関しては今のところウェブページからは詳しい情報は得られない.2016年2月2日)
 
 私たちは2007年の8月にオトラント大聖堂で床モザイクを見ているが,この図柄を見た記憶はないし,写真も撮っていない.この時は床モザイクの上にミサ等の儀式の参列者用の椅子が並べられていて,モザイクの全貌は見られなかった.

 もしかしたら,今年の夏にオトラントを再訪できるかも知れないので,大聖堂の床モザイクを見られるのであれば,アレクサンドロスの昇天も是非見てみたい.

 マールに掲載されたオトラント大聖堂のモザイクの写真(p.58)に拠れば,ラテン語で「アレクサンドロス王」(Alexander Rex)と言う文字が描かれており,その人物は王冠を被って,両脇にグリフィン(グリフォン)を従えて,昇天しているように見える.

 「otranto mosaico alessadro」で画像検索すると,写真が見られるページが複数見つかる.どうも同じプーリア州のトラーニ大聖堂にも同主題の床モザイクがあるようだ.

 いずれにせよ,アレクサンドロスが鷲かグリフィンに運ばれて「昇天」する物語があり,教会の装飾にもその図像が採用された例が複数あったことは間違いない.

 そうであれば,コンクのこの柱頭浮彫も「アレクサンドロス大王の昇天」で間違いないと思われるが,異教徒の昇天は教義的には受け容れ難いであろうから,「パンフレット」は「魂の高まり」の寓意としている.

 マールは,

 教会がこの伝説を受け入れたのは,おそらくそこに一つの象徴を読みとったからであろう.アレクサンドロスは人間の傲慢の象徴,神からその秘密を奪い取ろうとする学問の象徴である.人間は天に昇り,不敵にも神秘の領域に入り込もうとする.しかし,この領域には限りはなく,結局人間はまた新たな神秘の前に立ち止まらざるを得ないのだ.(p.58)

と説明している.最後の部分は,中世フランスの韻文ロマンスで,アレクサンドロスが七日のあいだ空に昇り続けたが,精霊と出会って,「地上のこともわからないのに,なぜ天上のことを知りたがるのか」と諭されて人間界にもどったとされている(p.56)ことを前提としている.


旧約聖書』を題材にした彫刻
 『旧約聖書』に典拠のある図像を描いた柱頭彫刻もいくつかある.

 下の左の柱頭は「イサクの犠牲」を主題としている.「イサクの犠牲」と言えば,古いところではラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク,フィレンツェの洗礼堂の扉パネルのコンクールのために出品されたブルネレスキとギベルティの銅板パネル(どちらも現在はバルジェッロ博物館),カラヴァッジョの油彩画(ウフィッツィ美術館)がとりあえず思い浮かぶ.

 ミケランジェロの素描がカーザ・ブオナッローティにあるようだが,多分展示されていなくて観ていないと思う.

 カラヴァッジョ作とされる「イサクの犠牲」はウフィッツィ美術館以外にもう一つ,ローレンスヴィルのジョンソン・コレクションの作品をエルミタージュ美術館の特別展「グエルチーノからカラヴァッジョまで」で見ている.エルミタージュでは同主題のレンブラントの油彩画も見ており,個人的にはカラヴァッジョより,こちらの方が良かった.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで検索すると,パラティーナ美術館にチーゴリの油彩画があり,なかなかの作品だと思うが,観た記憶が無い.ウェブ・オヴ・ギャラリー・オヴ・アートがドナテッロの作品としている,風化しているような彫刻も観た記憶がなかったが,撮ってきた写真を確認すると確かに観ている.他にも幾つか見ていると思うが,思い出せない.


左) アブラハムによるイサクの犠牲  右) 預言者ダニエルとハバクク


 自分が観たと確認できる作品のうち,ラヴェンナのモザイク(6世紀)が最古,レンブラント(1635年)が最も新しいであろうか.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,レオンのサン・イシドーロ教会のタンパンに「イサクの犠牲」の浮彫があったようだ.もう一つの入り口のタンパンは見ているが,「イサクの犠牲」のタンパンは修復中の覆いがかかっていたので見ていない.

 ロマネスクの時代がこの図像の始まりでないことは自明だが,この時代に盛んに制作された図像の一つと考えても許されるであろう.

 今回,このコンクの柱頭彫刻の他に,イソワールのサントロストモワーヌ教会の外壁浮彫,クレールモン・フェランのノートルダム・デュ・ポール教会のタンパンの脇にある柱頭浮彫と,2つの新たな「イサクの犠牲」の作例を得た.

 ハバククの彫刻は,フィレンツェ大聖堂の博物館でドナテッロの作品(大聖堂壁面には現在はコピーが置かれている),ローマのサンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂でベルーニの作品を観ているが,他には思い当たらない.

 ダニエルに関しては,北スペインのサンティジャーナ・デル・マールのサンタ・フリアナ参事会教会の回廊の柱頭彫刻,上述のサンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のベルニーニの彫刻くらいしか思い出せない.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはモデナ大聖堂の外壁彫刻(上がダニエル,下がザカリアか)が紹介されており,これは多分観ているのだと思う.


『新約聖書』を題材にした彫刻
 『新約聖書』に題材を取った柱頭彫刻も多い.下の左側の柱頭が,アルメル&フィリッポトーの言うように,『マタイ伝』(マタイに拠る福音書)16章のイエスがペテロに「天の国の鍵」を授けると言っている場面であるとすれば,これは『新約聖書』に語られた一場面ということになる.

 しかし,「パンフレット」が言っているように,これがアッピア街道でペテロがイエスの幻で出会って,「主よ,どこに行かれるのですか」と言っている場面であれば,『新約聖書』ではなく,正典には採用されなかった『ペテロ行伝』の記述に基づいていることになる.

 「ペテロの召命」であれば,弟のアンデレが一緒にいるはずなので,これがペテロとキリストの出会いの場面とすれば上記2つのいずれかということになる.


左) ペテロとイエスの出会い  右) ペテロの解放


 上の右側の柱頭彫刻は,ヴァティカンにあるラファエロにフレスコ画でも有名な「天使によるペテロの牢獄からの解放」の場面を描いたものだ.

 『使徒行伝』(使徒言行録)の12章に,ヘロデ王の迫害で牢に入れられたペテロが天使によって解放される場面が祖述されている.ラファエロのフレスコ画は「光が牢の中を照らした」(7節)と言う記述を絵画で再現しているが,さすがに柱頭彫刻では光を感じることはできない.

 この柱頭彫刻が「ペテロの解放」であることは「パンフレット」もアルメル&フィリッポトーも一致している.

 ラファエロ以前にこれを表現した絵や彫刻を観たことがあるかどうか覚えていない,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,チェンニ・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニ写本彩色画(ボルティモア,ウォルターズ美術館,1370年代),より古いものとしてはグイード・ディ・グラツィアーノ祭壇画の一場面(シエナ国立絵画館,1280年代)があるようだ.

 後者は観た可能性もあるわけだが,思い出せないし,シエナの国立絵画館は少なくとも私たちが行った時は撮影禁止だったので,撮ってきた写真もない.1280年代にこの図像があったのであれば,ドゥッチョもジョットも描いた可能性があったわけだが,描いたか描かなかったか,描かなかったとすればなぜなのかはわからない.

 いずれにしても,サント・フォワの柱頭彫刻の百数十年後にシエナでテンペラの祭壇画にこの図像を採用した画家がいて,その約90年後に彩色写本に挿絵を描いた画家がいて,その約140年後にラファエロがヴァティカンでフレスコ画を描いた.

 言葉では語られていた「光」を目に見える形で表現したのはラファエロが最初なのだろうか.バロック期には,カラヴァッジョ,ランフランコ,ホントホルスト,グエルチーノ.ルーカ・ジョルダーノがこの主題を描いたようである.テネブリズムの技法を発揮するには絶好の画題だったのであろう.


左) 2つの杯を持つイエス  右) 受胎告知(夜の撮影)


 イエス・キリストが2つの杯を持つ話は多分,『新約聖書』にないであろう.「パンフレット」に拠れば光輪に十字架があるので,2つの杯を持つ人物は間違いなくイエスであろう.

 「パンフレット」は聖餐式を意味する図像とし,アルメル&フィリッポトーは「木曜日の晩餐」(=最後の晩餐)を現し,「聖体の秘跡」を意味するとしている.しかし,どうして杯は2つなのかは説明されていない.

 「受胎告知」は『ルカ伝』(ルカによる福音書)に物語られる場面であり,これは『聖書』に典拠のある図像と言うことになる.

写真:
3人の人物のいる
「受胎告知」の彫刻


 堂内の翼廊北側の壁面には,もう一つの「受胎告知」の彫刻がある.トリブーナの下の2つの窓の外側の2連アーチを支えている中央の付け柱の先端を飾る彫刻で,窓のアーチとほぼ同じ高さ8メートルという高い場所にある.

 2連アーチの向かって左側を支える柱の先端にはイザヤ,右側の柱の先端には洗礼者ヨハネの像がある.前者は左手に杖を持ち,右手で巻物を開示し,その巻物にはラテン語で「エッサイの株から一つの芽が萌え出で,その根から一つの若枝が育ち」で始まる『イザヤ書』11章1節が引用されており,後者は冊子本を持っていて,そこには「ヨハネは言った,見よ,神の仔羊」(ヨハンネス・アイト・エッケ・アグヌス・デイ)(『ヨハネ伝』1章29節)と刻まれている(「パンフレット」とアルメル&フィリッポトーを参照).

 この彫刻は,タンパンの浮彫と同じ作者に拠るかも知れない12世紀初頭の作品で,マリアの後方には糸玉のようなものを持った侍女も彫り込まれている.類例があるかどうかわからないが,天使と聖母マリアの他に3人目の人物がいる「受胎告知」を私は初めて見た.

 3人がいるのは植物文様の柱頭を持つ柱に支えられた2連アーケードの下で,全体は銃眼狭間を頂く中世城郭風の建造物になっている.もし史実として「受胎告知」があったとしても,ローマ支配化のイスラエルではあり得ない光景であろう.

 この彫刻は昼でも常に照明で照らされていた.北側だからだろうか,確かに昼でもやや暗い場所であった.堂内に足を踏み入れたとき,チェリストがここで演奏していた.


「ロマネスク建築」について,少々学習する
 なかなか建築のことまで勉強しきれないが,外観,堂内ともに,サント・フォワ教会の威容には圧倒された.改修,修復を経ているとは言え,ロマネスクを代表する教会の名に恥じないであろうと思われる.

 巡礼路のロマネスク教会と言えば,山間の小さな教会を想像するし,巨大な教会建築が出現したのは,ゴシックの建築技術革新を経てのことだと思っていたので,山間の小集落の中の巨大な構造物であるサント・フォワ教会を見て驚いた.

 聖ヤコブ巡礼の終着点サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂も,外観の殆どはバロック時代の改築,増築に拠る姿であるとは言え,堂内は巨大なロマネスク教会だ.一度それを観た経験があるので,驚天動地とまではいかないが,コンクと言う「村」にこの教会が聳え立っていることに,やはり驚嘆と感動を抑えきれない.

 巡礼路の途中にある教会だからこそ,サント・フォワ教会のような構造(特に後陣の周歩廊とトリブーナ)になることは,マールにも言及されている.マールは,こうした巡礼路の教会の原型になったのは,フランス革命の際に破壊されたトゥールのサン・マルタン聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)であると言っている(下巻,pp.102-109).

 マールに拠ると.ロマネスク芸術とその後継のゴシック芸術を多く(「殆ど」と言い換えても良いかもしれない)はフランスに起源を持っている.イタリアのロマネスクもスペインのロマネスクも,オリエントやヘレニズムの影響を自家薬籠中のものとし独自性も加えた,南フランス,北フランス発生の芸術が伝播していったものであるということになる.

 これに関しては,私も単純にそうだとは思えないし,現在は異論も少なくないようだ.

 ただ,マールの論考は精緻であるだけでなく,当時の限られた先行研究を踏まえながら,綿密な調査を経た資料を使っており,彼の考察は巨人のような迫力を感じさせ,邦訳で読んでいるに過ぎない私も深い感銘を禁じ得ない.

 ロマネスクの芸術について,私がマールに反論するためには,七回生まれ変わってもまだ足りないであろうが,それでも,ごく部分的な範囲に過ぎないが,イタリアやスペインでロマネスク芸術の一端に触れた経験から,間違いなくイタリアにもスペインにも,単にフランスの影響だけとは言い切れないロマネスク芸術があるように思われる.

 しかし,こうした大きな議論は私の力を超えているのでさておいて,今回の学習項目を最後に記す.

 辻本敬子/ダーリング益代『図説 ロマネスクの教会堂』河出書房新社,2003(以下,辻本&ダーリング)


は,今回,行きの飛行機の中で,熟読玩味して大いに勉強させてもらった.大変わかりやすく,立派な本だと思う.ただ,建築のことなので,理解するのが難しい部分があり,また実際に見ていない教会に関しては,なかなかピンと来ない.

 それでも,コンクのサント・フォア教会に関しては,今回,じっくりと拝観することができたので,「なるほど,これか」と思った部分は少なくない.

 その一つが「スキンチ」(squinch)と言う英語である(より原音に近いカタカナ表記はスクィンチであろうが慣用に従う).

写真:
サント・フォワ教会の
オクタゴン型の屋根と
それを支える「スキンチ」


 ローマのパンテオンのような丸い躯体に丸屋根(ドーム)をかけるのはそれほどでもないが,方形(矩形)の建物に丸屋根をかけるのには特殊な工夫がいる.

 まず,バロックの教会を想い起すと,四隅にはペンデンティヴと称される構造がある.この語は英語で,これを電子辞書の「ジーニアス英和大辞典」に拠れば「ペンデンティヴ,穹隅(きゅうぐう).≪正方形の平面上にドームを架けるために設ける,四隅の球面三角形の部分≫」と説明されている.

 それをフランス語では,旺文社「ロワイヤル仏和中辞典」でpendentif(パンダンティフ)を引くと1番目の意味は「ペンダント,首飾り」で,2番目に「ペンデンティヴ,穹隅(きゅうぐう」と訳語をつけた上で,「ドームの円形面から多角形面への下降部を形づくる3角形の天井面」と説明している.

 したがって,フランス語では英語のペンデンティヴと同語源のパンダンティフと言う語を使うようである.いずれもラテン語の「ぶら下がる」と言う動詞の現在分詞から造語されているであろう.

 では,イタリア語では何というのだろうか.たとえばペンデンティーヴォと言うような語が想定されるが,少なくとも小学館『伊和中辞典』にはこの語の登録はなく,フランス語のパンダンティフと同じ綴りが,フランス語由来の「ペンダント」の意味としているだけである.

 もちろん,イタリア語にもラテン語由来の「ぶら下がる」という動詞ペンデレは存在し,その分詞から派生したペンデンテという形容詞形は,「ぶら下がっている」という意味から英語由来で日本語にもなっているペンディングと同じ「懸案の,未決定の」という意味まである.

 調べたところ,イタリア語で建築用語としての「ペンデンティヴ,穹隅」はペンナッキオ(pennacchio)と言うようだ.簡単だが写真付きで伊語版ウィキペディアに立項されている.日本語でペンデンティヴと言っているものであることは『伊和中辞典』でも確認できる.

 さて,本題のスキンチだが,これをイタリア語では何というか.『和伊中辞典』,squinchで『オックスフォード英伊辞典』をひいても,イタリア語で建築用語のスキンチを意味する語が見当たらず,伊語版ウィキペディアの上記ペンナッキオのページで,ペンナッキオ・ア・トロンバ(pennacchio a tromba)と言われているのが,これにあたるのではないかと見当をつけた.

 スキンチをフランス語ではトロンプ(trompe)と言うらしいことは,辻本&ダーリングからも推察されるが,『ロワイヤル仏和中辞典』でこの語を引くと,1番目の項目は「らっぱ,警笛,クラクション」であり,英語trumpet由来の日本語トランペット(フランス語では若干綴りが異なりトロンペットtrompette)と同語源であることが推察される.ようやく5番目に建築用語として「スキンチ,隅迫(せ)り持ち」とある.詳しい説明はないが,一応,フランス語ではこのように言うと理解して良いだろう.

 ペンナッキオ・ア・トロンバの「トロンバ」を『伊和中辞典』で引くと,やはり第1義は「トランペット」で,フランス語と同じで「管」と言う語義はあるが,少なくとも『伊和中辞典』にはこの語だけでスキンチの意味になることは書かれていない.

 では日本語ではスキンチはどうなるか.ペンデンティヴが日本語ウィキペディアに「穹隅」として立項されているので,そこからたどって行くと「入隅迫持」(いりすみせりもち)と言うページにたどり着く.これがスキンチにあたる用語のようだ.

 「穹隅」も普段お目にかからない語だが,まだしもイメージが湧き,語感も悪くない.もっとも,ペンデンティヴは多分日本語として定着しているであろう.一方,「入隅迫持」は,まず何と読むのかに迷った上に,そもそもイメージが湧きにくい.当面は,スキンチと言う英語由来のカタカナ語で,多くの写真や,実際の建築を見ながら,イメージを定着させて行くしかないであろう.

 squinchで『ジーニアス英和大辞典』を引くと,「スキンチ,入隅迫持(いりすみせりもち)」と訳語を列挙し,「方形の空間にドームを架けるため,入隅の部分に設けるアーチ;squinch archとも言う」と説明されている.辻本&ダーリングの解説は,

 スキンチ(トロンプ)は四角い平面を多角形にする近似的な手法である.一般的にロマネスク建築では,アーチ状あるいは半ドーム状で四角形の四隅に四五度の角度で配置され,上部を八角形に変える.(p.41)

となっている.なかなか言葉だけでは理解が難しいが,当面は上の写真に見られるサント・フォワ教会のオクタゴン型屋根を支える構造がスキンチ,ローマで数多く見たバロック教会の丸天井を支える四隅の「球面三角形」(辻本&ダーリングの訳語)をペンデンティヴと理解しておこう.

 西欧ではペンデンティヴはルネサンス,バロック期の建築からだと思うが,ビザンティンではハギア・ソフィアなどに古くから使われているようだ.スキンチは西欧ではロマネスク期に特徴的だが,ササン朝ペルシアの建築に既に見られ,イスラム建築ではずっと以前から多用されていたようである.

 西欧における例として英語版ウィキペディアは,私たちが赤い丸屋根の外観しか見ていない,パレルモのサン・カタルド教会をあげている.確かにこの教会はイスラム建築の影響を受けているのは容易に想像されるが,この教会の完成は1154年とあり,であれば,西欧でも当にロマネスクの時代であり,ここからロマネスクのスキンチ使用が始まったとは言えないだろうし.もちろん英語版ウィキペディアもそう言っているわけではない.

 英語版ウィキペディアには「スキンチ」の語源はペルシア語であると言っている.ギリシア,ローマの建築に先例がないとすれば,西アジア,イスラム圏からの影響と考えて良いのであろうと思う.勉強は果てしなく続く.






聖具室の入り口のある壁面
聖女の殉教を描いた15世紀のフレスコ画