§2015 フランス中南部の旅 - その10 イソワール
ツァーの観光予定にイソワールは入っていなかったが,時間的に余裕のある時には寄ることもあるらしい.幸運にも,私たちも寄ってもらえることになった. |
イソワール(英語版/仏語版ウィキペディア)は,オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏,ピュイ・ド・ドーム県,イソワール郡,同名の小郡に属する基礎自治体で,人口は2013年の統計で14300人弱(仏語版ウィキペディア)で,日本ならちょっと大きな「村」か「町」だ.
ここで観るべきは,オーベルニュ派教会の中で最大の教会とされる(『地球の歩き方』,p.502),サントストロモワーヌ教会(英語版には立項無し/仏語版ウィキペディア)である.もともとは修道院教会(abbey chrch)だが,現在は教区教会(parish church)になっている.古い時代の平面図にはある回廊等は今はない.
教会の後陣の前の駐車場のところでバスを降りたが,駐車場は車で一杯で,あたりには多くの集合住宅もあり,ちょっとした小都市と言う感じだった.コンクのサント・フォワとは異なり,町中の教会と言って良いだろう.

写真: サントストロモワーヌ教会 左)ファサード 右)後陣 |
この稿を書くにあたって,『地球の歩き方』,前以てバスの中で添乗員さんにもらった日本語パンフレット「オーヴェルニュ地方のロマネスク教会 主要な5つの教会」(以下,「5つの教会」)の他に,教会のブックショップで買った英訳版案内書,
Raoul Ollier, Issoire: Saint-Austromoine Abbey Church, Parish of Saint-Austromoine,
2004 (2)(以下,オリエ)
と,高速道路のサーヴィス・エリア売店で買った,
Noël Graveline, Trésor de l' Auvergne Romane, Beaumont: Édirions Debaisieux,
1997(以下,グラヴリーヌ)
それと「時代の夜」(?)シリーズの,
Bernard Craplet, Auvergne Romane, Zodiaque, 1972 (4)(以下,クラプレ)
を適宜参照する.
「オーヴェルニュ」
オーヴェルニュ地方には,通称「五大教会」と言われる歴史遺産がある.それは,
クレルモンフェランのサント・マリー・デュ・ポール聖堂(次回,紹介)
オルシヴァールのノートル・ダーム聖堂
サン・ネクテール教会(イソワール郡ル・サンシー小郡サン・ネクテール))
ノートル・ダーム・ド・サン・サテュルナン教会(クレルモンフェラン郡オルシーヌ小郡サン・サテュルナン)
とイソワールのサントストロモワーヌ教会である.全てピュイ・ド・ドーム県内にある.
現在は統合により,より広域の地域圏に属しているが,昨年まではオーヴェルニュ地域圏というまとまりの中にあり,オーヴェルニュの語源は,古代ガリアにいたケルト人アルウェルニー族の名に由来している.
アルウェルニー族出身の英雄が,ガリア諸部族を率いて,ユリウス・カエサル指揮下のローマ軍と大決戦を行なったことで知られるウェルキンゲトリクスである.
今から20年以上前に,堺の実業家の藤村さんが大阪で開いていた古典語教室エリニカでラテン語を教えていたが,ある日,受講者の一人がフランスのお土産としてラテン語で書かれたコミック本を下さった.「アステリックス」(一応,英語版ウィキペディアにリンクしておくが,日本語版でも「アステリックス」で立項されており,十分以上の情報が得られる)と言う題名だが,同名の主人公はウェルキンゲトリクスを反映していると聞いた.
さすが,フランスだからラテン語の漫画があるのかと単純に思っていたが,どうやら原作はフランス語で,ラテン語版は多くの翻訳の一つに過ぎないようだ.
カエサルと戦って囚われの身となり,凱旋式の見世物となった上に,処刑された悲劇の英雄だが,今はジャンヌ・ダルクほどではないかも知れないけれども,フランスのナショナリズムを支える民族の英雄的存在と言って良いのだろうか.
コミカルな物語の主人公にどのように反映しているのかは,いただいた本も津波で流れ,その後は何語訳(一部は日本語訳もあるようだ)も見ていないので,わからない.
今回の旅で寄ったクレルモンフェランにはウェルキンゲトリックスの騎馬像があるはずだが,それも見ていない.この騎馬像はもちろん近代の作で,ニューヨークの有名な「自由の女神」(1884年)の作者フレデリック・バルトルディに拠る.「自由の女神」の方は巨大なブロンズ像なので,意匠をバルトルディが担当し,「建設」はエッフェル塔の設計者として知られるギュスターヴ・エッフェルが担当したらしい.
当然ながら本人を見て作ったのではない.ただし,彼の肖像と名を刻した古代貨幣があるようなので,それが真実の姿を反映したものなら,ギリシア人,ローマ人以外で顔かたちの伝わる稀有な古代人と言うことになる.
ここでウェルキンゲトリクスに関して,何かを語るだけの時間も能力もないが,「オーヴェルニュ」と言う私たちに一定のイメージを与える地名の語源が,古代ケルト人の部族名に由来していることは,やはりきちんと認識すべきだろう.
ジョゼフ・カントルーブと言う作曲家について,明確に語れる日本人は少ないだろうし,私もそれはできないが,「オーヴェルニュの歌」と言う同地の民謡に取材した近代歌曲集が好きだという人も少なくはなく,その人たちはおそらくカントルーブの人名とオーヴェルニュと言う地名を結びつけるであろう(日本語版ウィキペディアにも「ジョゼフ・カントルーブ」と「オーヴェルニュの歌」が立項されていて,篤学の士による十全の情報が得られる).
カントルーブは,「ヴェルサンジェトリクス」(ウェルギンゲトリクスのフランス語読み)と言うオペラを作曲し,1933年にパリのオペラ座で上演された.私は,このオペラの存在も知らなかったし,CDやDVDで鑑賞できるのかどうかもわからない.
 |
|
写真:
クレルモンフェランの歩道に
埋め込まれたメダル
左上)ウルバヌス2世
中央)パスカル
右上)ウェルキンゲトリクス
|
未だにパリを中心とする均一な統一体としてイメージされることの多い「フランス」だが,実は,地方,地方の独自性が強く,そうした多様性がフランスと言う大国を支える原動力となっていると思われる.
オーヴェルニュの独自性を,非キリスト教徒だった(そもそもキリストが生まれる約半世紀前だ)ウェルキンゲトリクスに求めるのは意味がないだろう.しかし,フランスの中でも,「大きな田舎」と言うイメージが強いオーヴェルニュに,ロマネスクの美しい花が咲いたことをこの目で見て,「フランス」の重層性に思いをいたすことには,大いに意味があるだろう.
ロマネスク芸術はオーヴェルニュで発生したわけではなく,この地には伝播して来たのだ.
個性的な装飾には何かしらのケルト文化の名残があるかも知れないが,それも,現在のフランスのほぼ全土にケルト人が蟠踞していたのだから,ケルト性がオーヴェルニュの独自性の一旦を支えているとしても,それはフランスの他地域も同様である.
ケルト人(ガリア人)の中で,アルウェルニー族にどのような個性があったかまでは分からない.しかし,一時的にでも,全ガリアに指導性を発揮した英雄を出した有力部族だから,後進が引き継ぐような独自性が何かしらあったかも知れないと今は想像するのみだ.
サントストロモワーヌ教会
拝観はまず堂外から始まった.オーヴェルニュ・ロマネスクの見事な後陣の外観は,やや装飾過多にも思えるが,この際,ここから様々な特徴を学んで,「ロマネスク」理解の糧とできるならば,「良し」としなければならないだろう.
|
写真:
オーヴェルニュ派の教会の
特徴を備える後陣
3本の柱のある壁龕
星形の石モザイク
かんな屑モディリオン |
 |
後陣外壁には「黄道十二宮」の浮彫がある.下の写真の「双子座」などは,あまりにも状態が良く,おそらくレプリカであろうと思ったが,多少風化が感じられるものもあり,オリジナルもあるのか,あるいは全てがレプリカで,本物はどこかの博物館にあるのか,と思いながら写真を撮った.
ウェブで検索すると,現存する教会の隣にあった修道院を利用し,現代フランスの有名に中世史家ジョルジュ・デュビーの名を冠した博物館があり,「黄道十二宮」の浮彫のオリジナルはここにあるようだ.
 |
|
写真:
後陣外壁の
黄道十二宮の浮彫
のうち「双子座」 |
撮ってきた写真とオリエで確認すると,少なくとも,後陣の周歩廊にある放射状祭室の外壁に見られる「乙女座」と「天秤座」には,それを明示するラテン語文字も見られる.
オリエによれば,「黄道十二宮」は古代エジプトに遡る異教図像ではあるが,太陽をイエス・キリストに見立てれば,十二宮は十二使徒に対応し,十二は四元素の4に三位一体の3をかけた神秘数になるので,容易にキリスト教に取り入れやすいとのことだ.
宗教や神話にしばしば見受けられるこのような融合を興味深く思う.個人としては,日本人のメンタリティの深層にあるであろう(そう思っているだけかも知れないが)自然宗教に魅かれるので,無神論者であるつもりは全くないし,お勉強の対象として,キリスト教にも仏教にも関心を持っており,イスラムについては全く知らないが,ヘレニズム的地中海文化を引き継いで,ヨーロッパ中世に影響を与えたことを考えると,イスラムにも興味を魅かれる.
北側の外壁には3つの浮彫がある.「風化」と言うべきなのか,人物の顔が分からない状態になっているが,オリエに説明があって,絵柄については納得した.3つとも旧約聖書のアブラハムに関するもので,下に写っていないもう一つは,アブラハムをめぐる「パンの奇跡」である.
|
写真:
制作年代不詳の
アブラハムの物語の
2つの浮彫
左:3人の天使のアブラハム訪問
右:イサクの犠牲 |
 |
堂内については,柱頭彫刻を始めとする堂内の彩色のけばけばしさに驚いた.前以て「5つの教会」のパンフレットの写真で見ていたので,ある程度,心の準備はできていたが,私たちの「ロマネスク」のイメージとは,およそかけ離れた多色の世界に思わず唸ってしまった.
色鮮やかな彩色は19世紀の修復の結果だが,中世はこのようであったろうと考えられている姿を「復元」したものである.
私たちの「ロマネスク」観を覆してしまう程衝撃的な彩色だが,もともとこのようであったのであれば,文句を言う筋合いではない.天平の仏たちにも,ギリシア神殿の彫刻にも目の覚めるような色がついていたことは,間違いないであろうし.
辻本&ダーリング(p.55)に拠れば,彩色は図像を読みやすくするものであり,こうした図像は祭壇付近で行われる典礼と関連を持って,一つのまとまりを持って配置されているようだ.下の写真は後陣を囲む周歩廊にある柱頭彫刻で,主題は『新約聖書』に取材した「イエスの生涯」と言うことであろう.


写真: 左)「復活」 右)「イエスの出現/トマスの不信」 |
「最後の晩餐」は写真の右面の左側に,十字架模様のある光輪の人物がいて,若い弟子が寄りかかっているので,イエスとヨハネとわかる.イエスの右側の人物はペテロであろうと思う.さらにその右の角のところにいる人物には光輪がないので,ユダで間違いないだろう.
「受難」の左面の中心にいる手を縄で柱に縛り付けられた裸の人物は,光輪に十字架模様があるので「笞打ち」の場面のキリストなのは間違いないが,右面の3人の聖人は誰なのかわからない.真ん中は若いのでヨハネのように思えるが,オリエは女性で「聖母か?」としている.心なしか呆然としているように思えるのは,キリストの捕縛と処刑を傍観するしかなかった自分たちの無力さを表現していると思ったが,オリエは「悲しみの表現」としている.
 |
|
写真:
良き羊飼いと
グリーンマン |
上の写真は,側廊の柱頭彫刻である.「良き羊飼い」がキリストを意味するのであれば,一つの柱頭に複数いるのはおかしいようにも思うが,一種のパターン化された装飾だと考えればよいのだろうか.オリエはただ「羊を担ぐ人」としている.
「グリーンマン」という言い方は,オリエに出てこないが,日本語著書から学んだ.それらの著作については,次回クレルモンフェランのサント・マリー・デュポールを取り上げ,「オーヴェルニュ・ロマネスク」について少し整理する時に触れる.最近入手した強い味方,
益田朋幸・喜多崎親(編著)『岩波西洋美術用語辞典』岩波書店,2005 |
には「グリーン・マン」で立項され,「人間の顔に葉が生えた,あるいは葉の中に人の顔がある装飾文様を言う」と定義し,「古代ローマにも見られるが,ゴシック聖堂装飾にしばしば用いられた」と説明し,付録に図版があるが,ロマネスクへの言及はない.
日本語版ウィキペディア(2016年2月26日参照)には「グリーンマン」で立項され,「中世ヨーロッパの美術に現れる、葉で覆われた、あるいは、葉で形作られた人間」と定義され,「主に、ロマネスク建築やゴシック建築の柱や壁に彫られる彫刻のモチーフとなる。顔や体が葉で覆われるだけでなく、口などから蔦が生えていることもある」,「キリスト教以前のケルト神話などの、森林・樹木へのアニミズムの名残で、ケルト神話のケルヌンノスやローマ神話のシルウァーヌスと関係があると考えられている」と説明されている.
英語版ウィキペディアに拠れば,この語の初出は,1939年に『フォークロア』と言う雑誌の50号に掲載された「教会建築におけるグリーンマン」(この論文はpdf化されていてネット上で見ることができる)とのことである.
著者はレイディ・ラグランとあるだけで,詳しくはわからないが,英語版ウィキペディアのリンクは,おそらく夫であろう第4代ラグラン男爵にたどり着く.『文化英雄 伝承・神話・劇』と言う邦訳題名(大場啓仁訳,太陽社,1973)で知られる英雄論を書いたアマチュア文化人類学者である.したがってレイディはロードに対応する男爵夫人を意味している.
男爵夫人の実名ジュリア・ハミルトンは英語版ウィキペディアからわかるが,1923年の生まれとあるように見え,上記論文の発表時は16歳だったことになる.第4代男爵の方は1885年の生まれでで,その時54歳になる.
天才的な16歳の女性がこの論文を書いたか,夫であるロードが,レイディの名義で書いたか,あるいは英語版ウィキペディアにあるジュリア・ハミルトンの前に男爵夫人だった女性がいるか,それとも英語版ウィキペディアの生没年が間違っているか,あれこれ考えながら更に検索を続けると,
「lady raglan julia hamilton」と入力して,National Portrait Galleryのページに辿り着いた.
そのページには,ジュリア・サマーセット(旧姓ハミルトン)の写真と簡単な説明があり,1901年の生まれとある.であれば,論文発表当時38歳,第4代男爵との年齢差は16歳だ.現代なら少し珍しい年齢差だが,ジュリア本人も男爵家の生まれで,20世紀前半のイギリスの貴族社会ではあり得ただろうし,少なくとも結婚と著作には不足のない年齢で,こちらが正解だろう.それと多分1923年という英語版ウィキペディアの情報は,結婚した年齢ではないかと思うに至った.であれば,22歳の女性と38歳の男性の結婚は確かに有り得るだろう.
無駄な時間を使ったが,それでも,授業でも時々言及している『文化英雄』の著者の妻が,「グリーンマン」の造語者であることには興味を持った.
上の写真の柱頭彫刻では,「良き羊飼い」の間にいるグリーンマンは,口からおそらく「棕櫚」と思われる木を吐き出している,もしくは,生えさせている.勝利と栄光,また最終的にはそこに通ずる殉教を意味することが多い,棕櫚の木であれば,キリスト教主題と言えないことはない.
しかし,2頭のメス(とオリエは言っており,確かに髯や胸毛はないが,乳房があるように見えない)のケンタウロスが,間に生えている樹木の果実が生えた枝を握っている柱頭彫刻や,2頭のオスのケンタウロス(髯がある)がそれぞれウサギを捕らえている柱頭彫刻などは,異教的図像と言えるだろうから,何らかの寓意を読み取るべきなのかも知れない.
「猿回し」のように見える柱頭彫刻もある.オリエに拠れば,2人の罪人を捕らえているサタンで,猿回しに見えると考える人もいると言う説明になっている.リンクした画像のあるページには,ドイツ語で「彼女の髪を掴む二人の男ををとらえている女性」と言うような説明がある.様々な考えがあると言うことだろう.
いずれにせよ翼廊で見られる柱頭彫刻は,おそらくキリスト教的寓意は何か考えられたのかも知れないが,多様な動植物,人物,怪物の浮彫を見せてくれる.
聖オストロモワーヌ
堂内を見た後,クリプタを見学した.そこに下の写真の聖遺物入れが置かれていた.七宝(エマイユ)の工芸品は,中世に多く作られたらしい.
この聖遺物を収めるエマイユの箱はロマネスクの遺産かと思ったが,制作は13世紀(オリエ)とのことなので,時代は既にゴシックで,おそらくリモージュで制作され,1853年頃に,当時の修道院長が聖オストロモワーヌの聖遺物(遺骨であろうか)を収める容器にしたとのことだ.
蓋の部分には,マグダラのマリアの前に現れた復活のイエス,下部にはキリストの墓を訪れた聖女たちと天使が描かれてる.1983年に盗まれ,1990年にホノルルで発見され,1992年に元あった,現在の場所(地下祭室)に戻されたと,オリエは説明している.
|
写真:
サントストロモワーヌの
聖遺物入れ |
 |
「クレルモンの聖オストロモワーヌ」(英語版/仏語版ウィキペディア)は,ラテン語ではアウストレモニウスもしくはストレモニウスで,ラテン語のアウステルとギリシア語のモノスから造語であれば,「南から来た修道士」と言うような意味になるだろうか.
とすると,3世紀に教皇ファビアヌスがガリア地方に派遣した7人の聖職者たちの一人で,クレルモンの司教となった人物と,トゥールのグレゴリウスの著わした『フランク人の歴史』1巻30章(英語版ウィキペディアから英訳原典のページが見られる)を典拠に,その実在性を信じても良いかも知れない.
その他の伝承は,ずっと後世に伝説を集成した文書や口碑をもとに,殉教者としたり,証聖者としたりするもので,いずれも根拠に乏しい.それでも,ガリアで殉教した聖人を改宗させたと言う伝承などは,オーヴェルニュ地方にキリスト教を広めるのに尽くした聖人として,地元で崇敬され続けたことを伝えるものだろう.
19世紀末の新しい作品だが,サントストロモワーヌ教会後陣で見られるステンドグラスには,彼の起こした奇跡とともに,彼が斧で斬首される様子が描かれている.『フランク人の歴史』では平和の内に亡くなったとされているが,少なくともこの教会では殉教者と考えられていたと言って良いのだろう.
ブックショップの「最後の審判」
辞去する際にブックショップに寄った.ブックショップはナルテックスと言って良いのかどうかわからないが,ファサードの扉を開けて,すぐ右側のところにあり,中に入るとすぐに壁面の大きなフレスコ画が目に入った.
芸術性がどうのこうのと言う作品ではないが,色彩がかなりはっきり残っている(後補の可能性もあるだろうが)「最後の審判」だ.キリストが口から右(向かって左)に「百合」,左に「剣」を出している図像を少なくとも私は見たことがなかったが,百合が天国,剣が地獄行きの審判を象徴しているであろう.
赤いマントの大天使ミカエルが目立ち,天国よりも地獄が強調されて見える中,画面(向かって)左下で,死者たちが墓から甦る様子が面白い.
 |
|
写真:
フレスコ画「最後の審判」
15世紀 |
ブックショップは品揃え,店番ともに,当たりはずれが大きく,一般にフランスよりはイタリアの方が圧倒的に感じが良いが,この教会の店番の年配女性がたいへん感じの良い方で,つたないフランス語で言葉を交わし,良い思い出になった.極彩色の堂内には面食らったが,予定外の拝観のイソワールには良い印象だけが残った.
|

19世紀に内装された後陣
やはり祭室付き周歩廊がある
|
|

|
|