§2015 フランス中南部の旅 - その7 コンク (その1-サント・フォア教会外観)
ついにコンクに来た.しかも宿の真ん前にサント・フォワ教会があり,窓を開けるとすぐに教会が見えた. |
コンク(英語版/仏語版ウィキペディア)は,ミディ・ピレネー地域圏アヴェロン県ロデーズ郡ロット・エ・ドゥルドゥー小郡(英語版と日本語版は「コンク小郡」2016年1月5日参照)に属する基礎自治体で,「フランスの最も美しい村」に登録されている.
人口は2012年の統計で262人(仏語版ウィキペディア.ただし人口推移表は2013年までで,それによれば255人),2008年の統計で281人,2011年の統計で261人(日本語版ウィキペディア「コンク」)で,こうして並べると,漸減傾向が読み取れるが,母数が少ないので,この程度で漸減かどうかはわからない.
この稿を書いているうちに,年をまたいで2016年になった.
フランスの「地域圏」は22から,13に統合,再編され,コンクはミディ・ピレネー地域圏から,ラングドック=ルシヨン=ミディ・ピレネー地域圏(英語版/仏語版ウィキペディア)の所属となった.県,郡,小郡はそのままのようだ.
「コンク」の仏語版ウィキペディア(2016年1月10日参照)も更新され,2013年の人口統計が示されたが,上記の推移表どおり255人になっている.
人口推移表は英語版ウィキペディアにもあり,1793年から2008年までの間の飛び飛びのデータが掲載されている.仏語版は1793年から2013年までで,同じ年から始まるところから見ても,両者に異なるソースが存在するとは思いにくいが,数値が異なる年がある.
最も大きく異なるのは1793年で,英語版は1055人,仏語版は803人で,最大人口は英語版では1856年の1388人,仏語版では1851年の1483人である.1968年には両者とも479人と,統計上初めて500人を切っており,巡礼の地で,観光地としても有名だが,長い年月に過疎化が進行していったことが分かる.
最初,コンクが「フランスの最も美しい村」のひとつと聞いて,「えっ,村?」と思ったが,人口からすると,前回紹介したサン・シル・ラ・ポピーより数十人多く,ラ・ロック・ガジャックよりも170人ほど少ない,立派に「村」である.
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写真:
コンクの村
中央にひときわ大きな
サント・フォワ教会 |
私は震災前に既に「過疎」と言われていた地域の出身だが,それでも在学当時,小学校の生徒数は800人を超えていたから,これほど立派な遺産を持ち,これほど有名な「村」の人口が僅か300人に満たないということがなかなか信じられない.
在籍した陸前高田市立第一中学校は3学年で600人くらいの生徒数だったので,後にも先にも生涯ただ一度の立候補だが,生徒会長に当選した私は,この基礎自治体の長を「遥かに」超す得票数を選挙で得た経験があることになる.
なお,2016年1月1日から基礎自治体も合併により,コンク・アン・ルエルグ(英語版はまだ反映していないが,日本語版は既に言及している.2016年1月12日参照)となったようだ.合併後の人口は2013年統計で1680人とあるので,大規模な合併と言えるだろう.私が当選した時の得票数では,この基礎自治体の首長に選ばれるのは無理だ.
サント・フォア教会
サン・シル・ラ・ポピーでも,サンテミリオンでも教会を拝観することができて,幸福感を味わったが,コンクのサント・フォア教会(英語版/仏語版ウィキペディア)は別格だ.19世紀以降の修復が随所にあるとは言え,大部分がロマネスクの遺産である.
観光バスの車窓からその雄姿が見えた時,宿に向かって坂道を降りながら後ろ姿を眺めた時,宿の窓を開けたら目の前に側面が見えた時,そして満を持してファサードの前の広場に立った時,ひたすら感動に打ち震えた.

左上の写真は,サント・フォワ教会を後陣側から撮ったもので,後陣の周囲に放射状に祭室のある周歩廊があることが外観から分かる.右上の写真は,その祭室の一つを内部から撮ったものだ.ゴシックの華やかなステンドグラスに比べ,シンプルで地味な窓ガラスに見えるが,実はこれは現代を代表する芸術家の作品である.
今回,堂内と教会近くの博物館のブックショップで買った,
Claire Delma / Jean-Claude Fau, trr., Rory O'Meara / Marie-Héclène Labrouse,
Conques, Millau: Édition du Beffroi, 1989(以下,ダルマ&フォー)
Frère Jean-Régis Harmel, Conques: Un religieux raconte son village, Ivry-sur-Seine:Les
Éditions de l' Atelier, 2014(以下,アルメル)
とウェブページを参考にする.
それらに拠れば,教会の窓に嵌め込まれたガラスは,現代の芸術家ピエール・スラージュ(英語版は見つからないが,日本語版ウィキペディア「ピエール・スラージュ」はあってくれて助かる.しかし,サント・フォア教会は「セイント・フォワ大修道院」とあり,ソースは何か不思議な感じがする.2016年1月7日参照)が作成したもので,作業は1987年に始まり,1994年に終了した.
スラージュは1919年にコンクと同じロデーズ県のロデーズに生まれた地元出身の芸術家だが.現代フランスの枠を超えて,世界に飛翔した芸術家とのことだ.
芸術的に優れているかどうかは私にはわからないが,堂内の雰囲気に良く合ったデザインではないかと思う.

写真:サント・フォワ教会のタンパン「最後の審判」 12世紀前半 |
サント・フォア教会といえば,何をおいてもタンパン(テュンパヌム/ティンパナム)の浮彫彫刻である.写真では何度も見ているが,実際に観ることができた感動はおそらく生涯忘れることはないだろう.
過多なほどの情報がある現代とは違う中世の頃,サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者たちがこの教会のファサードの前に立ち,タンパンを仰ぎ見た時の感動はどれほどであったろうか.目指すスペインの最果てまではまだ遥かな道のりがあるにせよ,ここにたどり着くまで峠や難所を越えて歩いてきたのだ.
どんなに理性的な人であっても,所詮人間は感情に左右される動物である.長い徒歩の旅の途中で,この浮彫彫刻を見て,死後の自分の運命を思わない人がいるとは思えない.
写真で見るだけなら,あるいは観光バスや自家用車やレンタカーで観光に来るなら,啓蒙主義時代以降の教育で得た知識を前提とした,客観的,美術的な鑑賞に徹することができるかもしれない.しかし,サンティアゴへの巡礼を志し,キリストに思いを馳せている巡礼者なら,厳しい道のりを思い,感激の涙を流したことであろう.
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写真:
「最後の審判のキリスト」 |
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タンパンの中央はマンドルラの中の堂々たるキリストで,顔は立派だが,手がアンバランスに長いように思える.施無畏印と与願印のように見えるが,多分右手は天国行き,左手は地獄行き,と言う審判を示しているのであろう.
初期キリスト教は,ユダヤ教から偶像崇拝忌避の思想を引き継いでいたが,ギリシア,ローマの神像作成の伝統は社会に脈々と生きていて,結局はキリストや聖人の姿が浮彫や絵に表現されることになる.その際に有髯壮年のキリストのモデルになったのは,古代のゼウス,髭の無い青年のキリストのモデルはアポロンと考えられている.
サント・フォワ教会のタンパンのキリストは,キリスト教的背景を捨象すれば,ゼウスだと言われても何の違和感もない.

写真:天使に迎えられて天国に行く人々(左),地獄へ行く人々(右) |
上の写真はトップに揚げた「魂の計量」の下の部分で,計量の結果,天国の門を入る人と,怪物に飲み込まれて地獄に行く人が左右に分かれる場面が描かれている.
左端の人物は摩耗もあって写真の角度によっては老人のようにも見えるが,実は若者の顔立ちで,光輪があり,よく見ると翼があるので,「神に選ばれた人々を天国の門で迎える天使」(ダルマ&フォー,p.38)とのことである.
この区画の上部の帯に記されたラテン語はニール・メトゥエンテースと読める.「何の憂いも無い人々」と読めるが,主格(主語もしくは主格補語になる形)か対格(目的語になる形)かは,同形なのでわからない.呼格(呼びかけの形)も同形だが,ずっと左側からたどっていくと,おそらく主格補語になっていると思われる.
写真右側の怪物はレヴィアタン(リヴィアサン)とされる.こうした図像の神学的根拠を聞いてみたいような気もするが,キリスト教徒ではないので,ここでは興味深い浮彫だったということで,先に進みたい.
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写真:
修道院長に手を
引かれるカール大帝
(シャルルマーニュ) |
この浮彫のカール大帝(シャルルマーニュ)は随分年を取っているように見えるが,浮彫の制作は大帝の死から300年後なので,本人を見た人はいない.おそらく大男で,武芸にも秀でていたであろう皇帝が,子どものように聖職者に手を引かれた猫背の老人として表現されている.同時代のフランス国王や,地元の封建領主をこのように描くのは難しいかも知れない.
ティツィアーノの「教皇パウルス3世とその孫たち」を思い出す.高齢の肖像とは言え,やり手の教皇は猿のように見え,聖職者であるにもかかわらず,権力や栄爵を分与した「孫たち」とともに描かれている国家肖像画には,何か意味があったに違いないと,後世の私たちに思わせる何かがある.
このカール大帝の姿に,世俗の権力に対する教会の優位という寓意を読み取ることは容易だと思うが,むしろ,職人の目から見た人間の相対化と考えたい誘惑にかられる.首を前に突き出しているのは,帝権を象徴する冠の重さに耐えかねているとも見える.専門家ではないので,失笑を覚悟で,敢えて個人的感想を優先させてもらえば,生身の人間を表現する職人の,寓意を借りた自己主張のようなものを読み取りたい.
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写真:
跪く聖フォア
上に中世風綴りのラテン語で
「天の喜びへと」
下には「敬神」(博士論文の
テーマだった)という語も見える |
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聖フォワ(英語版/仏語版ウィキペディア)の「フォワ」は,固有名詞としてはFoyと綴る.現代フランス語ではfoiと綴り,「信頼,信用」の意味が最も使用頻度が高い(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』では最初の項目)であろうが,英語のfaithと同じ語なので,「信仰」と言う意味もある.
ラテン語のfidesフィデースが元の語で,もちろん「信用,信義,信頼,信仰」の意味である.
聖フォワはラテン語ではサンクタ・フィデス(長音省略),英語ではセイント・フェイス,スペイン語ではサンタ・フェとなり,イタリア語ではサンタ・フェーデになる.
スペイン語のサンタ・フェは地名として複数の場所に反映しており,耳にしたことがある方も多いであろう.イタリア語のサンタ・フェーデの方は,教会名も地名も記憶が無いが,「santa
fede italia」ウェブ検索すると,ピエモンテ州トリノ県カヴァニョーロにあるサンタ・フェーデ大修道院がヒットする.
聖フォワは,アキテーヌ・リムーザン・ポワトゥー・シャラント地域圏ロット・エ・ガロンヌ県アジャン郡に属する基礎自治体アジャン(英語版/仏語版ウィキペディア)出身で,紀元後3世紀の後半に生まれ,3世紀末もしくは有名なディオクレティアヌ帝の迫害で303年に12歳で殉教したとされる.
303年に亡くなったとすればミラノ勅令まで,あと10年というところだった.誰がどの時期に亡くなっても痛ましいことに変わりはないが,余計に哀れな感じがする.拷問されても異教の犠牲を拒否し,焼き網で焼かれての殉教だったようだ.
彼女の殉教物語を謳い上げた『サンタ・フェ(聖フォア)の歌』という11世紀の作品が残っている.当時の南仏語の方言としてのカタルーニャ方言で書かれた詩だが,驚くべきことに,これを研究した日本人がいて,それをまとめた本も出版されている.
杉富士雄『「聖女フォワの歌』とその研究』新東京書房,1966 |
である.
さらに驚くべきことに,実は私はこの本を持っている.古いことを研究した本なら何でも有り難く,古代,中世について日本語で書かれた本をみつけると,とにかく買いこんだ関西在住時代に,多分大阪の古本屋で入手したと思う.恥ずかしい話だが,一度も読んだことがなく,研究室で埃をかぶっている.
1966年と言えば私は小学校2年生で,その時代にこんな本が出て,それから30年後くらいの講師時代に岩手県生まれの私が大阪でこの本を買った.非科学的な言い方だが,「縁」と言うものを感じる.万難を排して読破するつもりだ.
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写真:
右から聖母マリア
聖ペテロ,隠修士ダドン |
アルメルの案内書にコンクに関連する年表が掲載されている.アルメルはアジャンでフォワが殉教した年を303年とし,そこから始めて計25の年代を挙げている.
795年頃,隠修士ダドンがコンクに隠棲し,ベネディクト会規則を採用して修道院を創始し,サン・ソヴールに献じたコンクの初代教会が建てられた.
カール大帝と関わる史実上の言及はないが,当時の西欧に君臨していたのは,800年に西ローマ皇帝として戴冠したフランク王カール1世であり,コンクの教会の守護者に擬せられることには,願望も含まれているかも知れないが,当然の成り行きと言えよう.
アルメルが「ルイ敬虔王」(Louis le Pieux)と言っている,日本では現代ドイツ語式にルートヴィヒと発音される人物が814年に帝位を継承し,819年に彼がコンクの修道院教会に保護を与え,寄進をしたことは確認できるようだ.
866年にいわゆる「聖なる盗み」(フルタ・サクラ)によって,アジャンの修道院教会から聖フォワの聖遺物(遺体)がコンクにもたらされた.アルメルはこれをtranslation
furtive(トランスラシオン・フュルティーヴ)「密かな移動」と言っている.この「移動」(英語のtranslation)と言う語は聖遺物の遷移に関しての専門用語のようである.
著者のアルメルが修道士だからだろうか,「聖なる盗み」に関して,当時ガロンヌ川沿岸地方を荒していたヴァイキングの略奪から守る意味があったのではないかとしている.人口に膾炙した物語では,修道士アロニスド(アリウィスクス)が,アジャンで10年かけて信頼を得,聖遺物の管理人となり,その上でこれを秘かにコンクに持ち帰ったとされる.
この年表の25項目のうち5項目が1100年代,12世紀の記事である.この時代に,サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の途上の地として繁栄し,ロマネスクのサント・フォワ教会が現在の姿の基盤が作られた.その証拠が,付属する博物館にある有名な,宝石をちりばめた聖フォワの像であろう.
写真で見たときは,悪趣味の代表のように思っていたが,実物を観ることができ,思っていた以上に,立派なものに思えた.信仰と崇敬の力であろうと想像する.
12世紀の記事の後は1537年の「Sécularisation」(セキュラリザション)であるが,これは修道院財産の教会以外のいわゆる「世俗」への売却を意味するらしい.この教会を支える修道院はこの時点で廃絶したのであろう.
1567年には宗教戦争(ユグノー戦争)の過程で,プロテスタントの放火があったとされる.メディチ家から輿入れしたカトリーヌ(カテリーナ)の息子シャルル9世(英語版/仏語版ウィキペディア)の統治下であった.彼の時代にサン・バルテルミーの虐殺があり,彼の死後弟アンリ3世が即位するが暗殺され,ヴァロア朝は断絶し,ブルボン朝のアンリ4世が即位する.激動の時代である.
フランス革命に際しても,フランスの他の歴史的教会と同様に破壊を蒙ったが,1837年作家のプロスペル・メリメ(英語版/仏語版ウィキペディア)が視察官としてこの地を訪れ,その価値を再評価した.
荒れ果てていたサント・フォワ教会と修道院は,その後,相当の修復を施されて,現在の姿になった.賛否はあるだろうが,それによって観光資源としての価値も高まり,ツーリズムとの連動で,サンティアゴへの巡礼の人々がコンクに立ち寄るようになった.
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写真:
サント・フォア教会
左の道の奥が宿泊した
ホテル「サント・フォア」 |
大学1年生の時,故・小林路易(ルイ)先生がクラス担任で,妻も私も先生からフランス語の文法を習った.2年生の時はメリメの『マテオ・ファルコネ』と『トレドの真珠』を読む授業をご担当下さった.同じ年に,非常勤講師にいらしていた学習院教授の高木先生の授業で,ジョルジュ・シムノン『スリッパの恋人』読了後,メリメの『カルメン』が教材だった.シムノンは何が面白いのか,その時は理解できなかったが,『カルメン』は傑作に思えた.メリメと言う作家には,その時から心酔し続けている.
コンクのサント・フォア教会のファサードの前に立ち,タンパンの浮彫彫刻を見て,メリメの遺徳を慕うことができた.感慨深い.
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窓を開けると目の前に教会
ホテル「サント・フォア」
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