§2015 フランス中南部の旅 - その6 ラ・ロック・ガジャック,サン・シル・ラポピー
観光4日目(8月23日)は「フランスの最も美しい村」を2つ回る予定になっていたが,天気には恵まれず,小雨の一日となった. |
雨は一時,本降りになり,その時は難儀に思えたが,後になってみれば,それはそれで風情のある景色を見ることができたように思う.2つの村は行った順に,ラ・ロック・ガジャックとサン・シル・ラポピーである.
ラ・ロック・ガジャック
ラ・ロック・ガジャック(英語版/仏語版ウィキペディア)は,アキテーヌ地域圏ドルドーニュ県サルラ・ラ・カネダ郡サルラ・ラ・カネダ小郡に属する基礎自治体で,人口は2012年の統計で438人(仏語版ウィキペディア),2008年の統計で412人(英語版ウィキペディア)なので(ちなみにあまり情報がないのでリンクしないが伊語版ウィキペディアは2009年の統計で431人),「村」と言って良い小さな自治体である.
日本からの観光客も少なくないようで,多くのブログやHPでこの町の美しい写真が紹介されている.しかし,村に関する情報は仏語版ウィキペディア以外にはあまりなく,それに拠れば,中世には1500人の人口を数えるほど栄えたそうだ.ドルドーニュ川が豊かで,漁師や船主が生業が得られたことに拠る.
この時代にLauze(瓦として利用される火山性の石という意味だと思う)で屋根を葺いた教会が建てられた(現在もこの石瓦で葺かれた建物はあちらこちらで見られる).百年戦争に際しては,サルラの歴代司教がこの村に避難してきたようだ.
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写真:
川岸に見られる板状節理
このタイプの石が瓦に
用いられるという説明を
船で聞いたような気がする |
ガリレオ・ガリレイの友人となった人物も出たタルド家の館※も歴史的建造物として残っている,と言うような内容の後,仏語版ウィキペディアはいきなり20世紀の話になる.それほど顕著な歴史的事件はこの村にはなかったと考えて良いのだろう.
(※前回のサルラで,manoirについて少し解説を加えたが,タルド家の館も,ウィキメディア・コモンズではchâteauとして紹介されているけれども,ラ・ロック・ガジャックのウィキペディアにあるようにmanoirでよいだろう.仏語版ウィキペディア「manoir」/英語版ウィキペディア「manor house」では事例も紹介されており,日本語版ウィキペディア「マナーハウス」は簡潔でわかりやすい.)
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写真:
ラ・ロック・ガジャックの
家並み |
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歴史的建造物もおそらく新しい建物も,その殆どはサルラと同じように黄色い石灰岩でできているのであろう,雨の日で視界が悪いなか,その黄色い外壁が印象に残った.
屋根の色については,ウィキメディア・コモンズにある写真と撮ってきた写真見ると,教会の一部とタルド館とを除いて海老茶のような赤である.サルラの町全体の写真を確認したわけではないが,多くの建造物の屋根は黒いスレート瓦だったように思えるので,黄色い外壁に赤い屋根は,もしかしたらラ・ロック・ガジャックの特徴と言えるかも知れない.
ドルドーニュ川沿いの街道には岩壁が迫っており,そこにへばりつくように「村」は存在しているが,その上方を仰ぎ見ると,「穴居人の砦」と称される遺跡がある.仏語版ウィキペディアからたどっていける写真の説明では,タルド館(15世紀)の上方にある中世の城塞跡(12世紀)のことで,原始時代の穴居人がいた跡ということではないらしい.原始時代にはあり得ないと思われる石積みの城壁が見られるが,黄色いので,これも黄色石灰石であろうと想像する.
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写真:
カステルノー城の近く
まで行って
船はUターンする |
私は川の遊覧は初めての体験だと思う.猊鼻渓や保津川の傍まで行ったことはあっても川下りはしたことがない.大阪水上バス・クルーズも経験がない.ヴェネツィアでは運河の移動手段として船を利用したが,遊覧ではない.昨年の11月に倉敷に行き,紅葉が美しかったので川船流しを体験しようと思ったが,申し込んだのが遅くて予約が満杯だった.
ウェブ上の日本語に拠る旅行体験記(「ラ・ロック・ガジャック」でグーグル検索すると,複数の充実した紹介が読める)にもあるように,ドルドーニュ川クルーズは,美しい川と川岸に並ぶ村の姿の両方を満喫できる.
雨の降る中であってもドルドーニュ川は美しかった.流れにしだれかかる木の枝,木々の間から覗く岩肌,水面に戯れる水鳥,時間に余裕があり,機会に恵まれれば,もう一度体験してみたい.
フランス語で,川を行く運送船をガバール(gabarre)と言うようだ.ガバール・カミナードとレ・ガバール・ノルベールの2つの業者が船を出し,仏,英,蘭,独,伊,西,露,中,日の各国語による音声ガイドが用意されている.前者のパンフレットを入手して参考にしているが,撮ってきた写真から推測すると,乗ったのはどうやら後者のようだ.7キロ,1時間のクルーズだった.
折り返し点の橋の所から見上げたところにあるカステルノー城(英語版/仏語版ウィキペディア)は,ラ・ロック・ガジャックと同じアキテーヌ地域圏ドルドーニュ県サルラ・ラ・カネダ郡に属しているが,小郡はヴァレ・ドルドーニュ,基礎自治体はカステルノー・ラ・シャペル(英語版/仏語版ウィキペディア)となっている.
この城の最も古い部分は12世紀の建設で,アルビジョワ十字軍の際にシモン・ド・モンフォールが占領し,百年戦争の際は,城主たちはイギリス側につき,フランス側で戦った川向こうのベナック城(英語版/仏語版ウィキペディア)とは敵対関係にあったとのことだ.1442年にフランス側の手に落ちた.現在は,中世の戦争に関する博物館になっている.
『地球の歩き方』に「ドルドーニュ渓谷の旅」と言う特集ページがあり,そこではカステルノー城とベナック城との敵対関係が紹介されている.ベナック城は地域圏と県,郡までは同じだが,サルラ・ラ・カネダ小郡に属する基礎自治体ベナック・エ・カズナック(英語版/仏語版ウィキペディア)にある.
サン・シル・ラポピー サン・シル・ラポピー(英語版/仏語版ウィキペディア)はミディ・ピレネ地域圏ロット県カオール郡コス・エ・ヴァレ小郡(英語版ウィキペディアはサン・ジェリー小郡)に属する基礎自治体だ.
2012年の統計では217人(仏語版ウィキペディア),1999年の統計では207人の人口しかなく,「村」と言うより集落だが,観光客でにぎわっているし,立派な教会や重厚な民家があって,さびれた感じは全くない.
ミディ・ピレネ地域圏の中でも,ロット県全域とタルン・エ・ガロンヌ県北半,アキテーヌ地域圏ドルドーニュ県とリムーザン地域圏コレーズ県の幾つか基礎自治体は,革命以前の旧州名でとケルシー地方と称されている.
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写真:
サン・シール教会から
つづく城壁 |
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茅屋の書架に,
Mrrguerite Vidal / Jean Maury / Jean Porcher, Quercy Roman, Zodiaque,
1959
がある.「時代の夜」とでも訳せばよいのか,ラ・ニュイ・デ・タン(la nuit des temps )という叢書で,ロマネスク教会を丹念に回って,主要な教会の美しい写真と詳細な解説を掲載している.既にコロンジュ・ラ・ルージュの回でリムーザン地方,サルラの回でペリゴール地方を紹介した巻を挙げた.
このシリーズは,神田の源喜堂で10数冊を廉価で入手し,老後の楽しみと思って,直接実家に送ってもらい,帰省の際にパラパラめくって楽しんでいたが,津波で流された.
最近,ロマネスクへの思いが強くなって,古書価も送料も高いけれども,フランス・アマゾンで月に数冊ずつ入手し,以前持っていた巻数は越えた.全巻揃えたいところだが,イタリアやスペインの諸地域のロマネスク教会を扱った巻は古書価が高く,当面入手の見込みはない.カナダのアマゾンで,新刊価格で出ていたので注文したが,アマゾンによくある在庫切れ状態なので,多分ここからは手に入らないだろう.でも,カナダのアマゾンで関連書籍を廉価に入手できたから,カナダ・アマゾンに特に不満はない.
この巻で紹介されているケルシー地方には,フランスのロマネスク教会の中でも屈指の有名教会であるモワサックのサン・ピエール教会があり,サン・シル・ラポピーのサン・シール教会が写真付きで紹介されるはずもなく,コロンジュ・ラ・ルージュやサルラの教会は,写真はなくても総括ページで紹介されていたが,サン・シール教会は総括ページにすら言及はなく,地図のところに,“ロマネスクの遺産が部分的に残る教会”の印がついているだけだった.
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写真:
サン・シール教会 ポルターユ |
ポルターユは半円アーチで,これはロマネスクの遺産であろう.堂内は大分新しくなっており,リブ・ヴォールト天井なので,ゴシック以降の改築が施されているであろう.漆喰で塗り固められた堂内には,新しい木彫が複数あり,あくまでも想像だが,フランス革命の時にはやはり破壊を蒙ったのではないと思われる.
その中で,堂内では唯一ロマネスクの遺産の可能性のあるのは,下の写真のおそらく「ユディトとホロフェルヌス」であろう柱頭彫刻だ.残念ながら私は見逃してしまい,妻が撮ってくれた写真で確認できるのみだ.
あまり情報がないが,あるウェブページを参照すると,12世紀に遡るロマネスクの教区教会をゴシック様式に改築したのが,現在の教会のようだ.
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写真:
ホロフェルヌスの首を持つ
ユディトだろうか |
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教会の名の元にもなり,村の名前の由来にもなっているのでは幼児でありながら殉教者となった聖クリアコス(英語版/仏語版ウィキペディア)のようだ.小アジアのタルソスで304年に母ユリエッタ(ユリッタ)とともに殉教したとされる.
聖クリアコスについて,英語版ウィキペディアはアラム語名からQuriaqosと言う綴りを復元しているが,これをラテン語綴りでCyriacusキュリアクスとすると別の聖人名になるので,この聖人のラテン語綴りはCyricusキュリクスになるようだ.
フランス語ではサン・シール(Saint CirqもしくはSaint Cyr)となるが,Saint Cyrの綴りで元の名前が違う別聖人(英語版/仏語版ウィキペディア)もいて,ややこしい.サン・キール(ク)(Saint Quirc),サン・シルグ(Saint Cirgues)と綴られる場合もあり,それに由来する教会や地名もあるようだ.
ラテン語のキュリクスはイタリア語ではQuiricoクィリコもしくはChiricoキリコになる.聖人の名は教会名になり,教会名は地名になるので,20世紀の芸術家ジョルジュ・デ・キリコの祖先は,あるいはこの聖人の名を冠した教会のある土地の出身かも知れない.同じことがフランスでも言える.フランス語名サン・シール(Saint
CirqもしくはSaint Cyr),サン・シルグ(Saint Cirgues)の名を冠した地名は相当数ある.
Sain Cirqと言う綴りの町は7つあって,うちサン・シル・ラ・ポピーを含む3つがロット県,1つがロット・エ・ガロンヌ県,その他もミディ・ピレネ地域圏,アキテーヌ地域圏にあって,アキテーヌより南のロット川,ガロンヌ川,ドルドーニュ川周辺地域で崇敬を集めたと想像されるが,詳しい情報は得られていない.同じロット県にサン・シルグという町も一つある.
サン・シル・ラ・ポピーのサン・シール教会にも,新しいものだが,この母子の聖人の像と,彼らを描いたステンドグラスがあり,この幼児(3歳説の他に生後3か月説もある)聖人の名に由来することは間違いないだろう.
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写真:
崖の上にある町である
ことが実感できる風景
眼下にはロット川 |
この町を愛した有名人としてはシュール・レアリスムの思想家で作家のアンドレ・ブルトンがいるようだ.この中世の雰囲気を湛える町と超現実主義思想がどのように結びつくのか想像もつかないが,私たちが現代の流行として受け入れたものの背景に,見えない古代や中世が隠れていると思うことにしよう.
しかし,この美しい村とブルトンのつながりは,多分個人の好みと言うことだろう.ロット川から百メートルの高さの丘にある村,シュルレアリストならずとも,ここに住みたいと思う人は少なくないだろう.
ウェブ検索でヒットするページに,サン・シル・ラポピーに関して,驚くほど詳細な説明がなされている日本語ページがある.これに勝る解説は今のところ欧文ページでも見つけられない.旅行前に読んでいればと悔やまれるが,最初は何も知らないで行った方が良いかも知れない.
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写真:
大きな道もない
こじんまりとした
小さな可愛い町 |
添乗員のItさんに教えてもらった土産物店で,夏休み中に開催された公開ゼミ(高校生と受験生が対象)で活躍してくれたゼミ生へのお土産に,レーズンチョコを買った.試食させてもらったところ,ワインに浸したレーズンの香りもよく,ちょっと高級だったが,まとめて買うことでディスカウントもあったので思い切った.感じの良い店だった.
学生さんたちの記憶に残るかどうかわからないが,お土産の包みにはサン・シル・ラポピーと地名がプリントされていた.「フランスの最も美しい村」の中でも屈指の人気を誇る村で,日本人も多く訪れるようだから,いつか彼らが訪れる日が来るかもしれない.多分,私たちは最初で最後だと思うが,良い思い出をもらった.
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「フランスの最も美しい村」のひとつ
サン・シル・ラポピー
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