§2015 フランス中南部の旅 - その5 サルラ
サルラでは「ラ・ボエシーの家」を見ることになっていた.サルラについては何の予備知識もなかったが,この地出身のエティエンヌ・ド・ラ・ボエシーの名には聞き覚えがあった. |
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(英語版/仏語版ウィキペディア)は16世紀の思想家,詩人,人文学者であり,大著『エセー』を書き,ボルドーの市長を務めたミシェル・ド・モンテーニュ(英語版/仏語版ウィキペディア)が彼の親友であった.
ラ・ボエシーとモンテーニュ
読んだことはないが,ラ・ボエシーが16歳の時に書いたとされる著書『自発的隷従論』には邦訳(山上浩嗣訳,ちくま学芸文庫,2013)があり,モンテーニュが『エセー』の中でこの書物に言及しながら,「友情について」(第一巻第二十八章)という比較的長い随想を展開している.
この随想は,当時の過激思想を奉じて,社会の転覆を図る可能性があると危惧される人々に,ラ・ボエシーの論考が利用されることを怖れた,一種の弁護になっており,論考に卓越性の萌芽を認めるものの,決してラ・ボエシーの本質を表わしたものではないという趣旨が目立つ.
これには,フランス国王が暗殺され,ユグノー戦争が行われているという時代背景があり,現代的視点からはラ・ボエシーの著作は興味深いものであろうが,モンテーニュの時代には,本人や友人の立場を危うくする可能性もあっただろう.
モンテーニュ自身も改宗ユダヤ人を祖先とする可能性のある家系に生まれ,少なくとも母はイベリア半島を逃れた改宗ユダヤ人の子孫であったとされ※,本人も公職にあってカトリックとプロテスタントの間に立って両者の和解に腐心したことを念頭に置く必要がある.
(※父系については,英語版ウィキペディアが2002年にパリのフラマリオン社から出版されたソフィー・ジャマ『モンテーニュに見られるユダヤ人の歴史』を論拠として挙げ,母系についてはロベール・オーロット『モンテーニュとエセー』白水社文庫クセジュ1992で「おそらく」としながら言及しており,仏語版ウィキペディアもマドレーヌ・ラザールの1992年出版の『ミシェル・ド・モンテーニュ』を論拠にその可能性を示唆.日本語版ウィキペディアは論拠を示さず,「ユダヤ系フランス人」とし,母方は「セファルディムユダヤ人の家系」としている.2015年12月30日参照)
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写真:
「ラ・ボエシーの家」に掲げられたプレート 「ミシェル・モンテーニュ(ママ)の有名な友人エティエンヌ・ラボエシー(ママ)がこの家で1530年の11月1日に生まれた」と(ラテン語ではなく)フランス語で書かれている |
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「友情について」は,友情論の歴史においてもプラトン,アリストテレス,キケロとともに必ず言及される(高橋英夫『友情の文学誌』岩波新書,清水真木『友情を疑う』中公新書など)雄編であるが,ここでは思想的内容に立ち入ることは控える.
ただ,3歳年上で,ボルドーの高等法院の同僚法官として出会い,その死まで僅か6年の付き合いだったラ・ボエシーへの思いの深さには感動する.複数存在する翻訳の中で,学生時代,ご担当の演習に出席させてもらったことも一つの理由であるが,河出書房新社の「世界の大思想」シリーズの松浪信三郎訳が最もピンと来るので,それを参照させてもらう.
「彼は臨終の際に,ねんごろな依頼のことばで,私をその蔵書と遺稿の相続人にすると遺言した」,「われわれはこの友情を神の許し給うかぎり,二人のあいだで完全無欠なものとしてはぐくんだ」,「このような友情をきずきあげるには,多くの偶然が働かなければならないから,運命が三世紀に一度でもそれに到達すれば,それだけですでにたいしたことである」
個人の資質については,「彼は,自分の心に絶対的に刻み込まれたいま一つの信念をもっていた.それは,自分が生まれた国の法律に,きわめて敬虔に,服従するという信念である.いまだかつて彼ほど善良な市民はなかった.彼ほど平和を愛し,現代の混乱や革新を敵とした者はなかった.彼はその才能を,混乱や革新をますます煽動するために提供するよりも,むしろそれらを鎮めるために用いたに違いない」と述べ,激動の時代にプロパガンダとして利用される懸念のある友人の若書きの著書への弁明をも盛り込んでいる.
しかし,その前後に「もし彼がいずれかを選ばなければならないとしたら,当然サルラックよりもヴェネチア(ママ)に生まれることを望んだであろう」(割注省略),「彼の精神は,現代とは異なる時代の模範にもとづいてつくられていた」とも語っている.(サルラックについては,茅屋の書架にある『エセー』の唯一のフランス語版であるプレヤード版を参照すると確かにSarlacとあるので,当時はサルラSarlatではなく,そのように綴ってサルラックと発音したのであろう.)
なぜヴェネツィアかと言えば,ヴェネツィアが共和国だったからであろう(プレヤード版の注解も同意見).つまり,資質として,王制よりも共和制を望み,時代を先取りするほど革新的な志向を持っていたが,王国の法律官僚として,職務上の義務と体制の安定を望む常識人でもあったとモンテーニュは言おうとしているのだと思う.
「友情について」の直後の第一巻第二十九章は短いが,過激思想と受け取られる可能性のある友人の著書への弁護の役割をも果たしている前章とのバランスをとるために,「堅苦しい著作のかわりに,同じ年ごろにつくられたもっと陽気で他の作品を,ここに入れることにしよう」として「エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(ママ)の二十九編のソネット」になっており,「これらの詩編は,彼がもっと若いころにつくった作品だけに,何かしら一だんと生気にあふれ,沸騰するようなものをもっていますし,美しく高貴な情熱に燃えています」と讃えている.
松浪訳が準拠している1588年刊行の第3版ではソネットは削除されているが,それ以前には実際にソネットが引用され,プレヤード版には補注に全作が引用されている.興味深いが,これを今読解して評価するだけの時間もフランス語力もないので,後日のこととする.
当時のフランス詩壇をリードしていたピエール・ド・ロンサールはラ・ボエシーの6歳年長,ロンサールが中心であったプレヤード派の一人であり,『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)を書いたジョワシャン・デュ・ベレーが8歳年長の同時代人であり,そうした一流の詩人たちとも交流しながら,文学作品をフランス語で書いただけでなく,クセノポンやプルタルコスなどギリシア語作品を研究,翻訳した人文主義者でもあった.
モンテーニュは抜群のラテン語力を持っていたが,ギリシア語に関してはきちんと学ぶ機会がなく,好きな思想家であったプルタルコスの作品もジャック・アミヨのフランス語訳で読んでいた.それだけではないのはもちろんだが,モンテーニュのラ・ボエシーへの敬意の中には,ギリシア語を読めるから,という要素があったと想像しても許されるだろう.
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写真:
ラ・ボエシーの家
16世紀 |
上の写真で上部が三角のファサードの家が「ラ・ボエシーの家」だ.中央に一つ上の写真で紹介した白いプレートがある.
地階(日本風には1階)は絵を展示していたように思う.撮ってきた写真で確認すると,入り口向かって左側にはバナーがあり,そこには「ブリュノ・プレテ」と言う名前が記されているが,その下は小さくて字が読めない.
ウィキペディアには立項されていないが,この人物が1955年にパリで生まれたリトグラフ作家であることは,ウェブページで確認できた.そもそも最初にヒットするのは,いつまで見られるかわからないが,この特別展の紹介ページだ.この地階を会場として,たまたま特別展が開催されていたということであろう.
地階,1階(日本風には2階)正面の装飾がルネサンス風で興味深い.人文主義者のラ・ボエシーが生まれた家にふさわしい.
サン・サセルド大聖堂
サン・サセルド大聖堂(英語版/仏語版ウィキペディア)は,サセルドの綴りはsacerdosで,これが普通名詞なら,ラテン語のサケルドスで「祭司」と言う意味になるが,これは固有名詞で,サセルドというフランスの聖人は2人いるらしい.
この教会の名のもとになっているのは,通称リモージュのサセルド(英語版/仏語版ウィキペディア)と言われる人で,サルラ近傍のカルヴィアックで生まれ,修道士となり,リモージュの司教(711-716年)となった7世紀後半から8世紀前半の人物のようだ.
英語版ウィキペディアにも,フランス語版ウィキペディアにも母も聖人であった旨が記されていて,名前も挙げられているが,母子ともになぜ聖人に列せられたかは情報がない.故郷で死にたいと思って帰郷の途についたが,途中で亡くなり,故郷の修道院に葬られた.
10世紀にサルラ大聖堂に遺骸が移されたとあるが,その一方で現在のサルラ大聖堂の建設開始は13世紀とされる.ただし,鐘楼は12世紀のロマネスク建築とされる.
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写真:
サン・サセルド大聖堂 |
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上の写真を見てもらえば分かるように,ファサードは同時に鐘楼であるようだ.堂内は全体的にゴシックで,リブ・ヴォールトと尖頭アーチが目立つのに比べ,確かにこの鐘楼は屋根の下に半円アーチが見られるので,それほど古いものとは思えなかったが,教科書的理解ではロマネスクの遺産と言えるかも知れない.屋根は間違いなく後補であろうし,時計はもちろん後世の付加である.入り口の2本角柱にはイオニア式柱頭があり,多分ルネサンス期のものであろう.
大聖堂の完成は17世紀とのことなので,基本はゴシックだが,ロマネスク,ルネサンス,確認できないがバロックの要素もあるということだと思う.
堂内には,これと言って目を見張る芸術作品があるわけではないようだが,パイプ・オルガンは,18世紀の有名なオルガン制作者一族レピーヌ家の一員,ジャン=フランソワ・レピーヌの作品とのことだ.堂内の荒涼とした感じは,やはりフランス革命の嵐を経たものと思われるが,オルガンの制作が1752年であれば,その嵐を乗り越えたものと想像される.
司教区は1317年の創設で,アルビジョワ十字軍に拠るカタリ派(英語版/仏語版ウィキペディア)鎮圧の後処理の意味が大きかったようだ.フランス革命後の1801年にこの教区は廃止され,ペリグー司教区に吸収されたようなので,現在は司教座聖堂ではないことになるだろう.
ゴシックの館
「ジソン館」(Manoir de Gisson)は,現在は博物館(下の写真でも赤いバナーが見える)になっていて,英語も選択できるHPもある.
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写真:
ジソン館
13世紀に遡る |
マヌワールは「[中世の領主の]館,屋敷」(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』)の意味で,ジソンは固有名詞であろう.家名であろうと想像する.
辞書に拠れば,マヌワールは「châteauシャトーのように要塞化されず,hôtelオテルと異なり田園にある」とされ,コロンジュ・ラ・ルージュの建物の幾つかにもこの名称が使われていた.コロンジュ・ラ・ルージュはともかく,サルラは「田園」とは言えないからか,仏語版ウィキペディアはオテルと言う語を使っている.
英語で「荘園」を意味するmanorはこの語を語源としており,屋敷,館の場合はmanor-houseマナー・ハウスになるであろう.いずれにせよ,HPの説明を信じるなら,この館は13世紀に遡り,「民家」と言うのは躊躇されるが,宮殿でも教会でもないゴシック建築はやはり貴重であろう.
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写真:
右側:オテル・ド・ヴァサル
15世紀の建物
左側:オテル・ドプラモン
三羽のガチョウ広場 |
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上の写真の(向かって)右側の建物に関しては仏語版ウィキペディアにも説明はないが,この建物には説明のバナーがあり,それには,Hôtel de Vassal(ヴァサルは固有名詞ではなく「封臣」の意)とあり,四角い塔と,その脇の連結小塔に特徴がある15世紀の建造物とされている.
仏語版ウィキペディアにも言及されていないが,ウィキメディア・コモンズで,オテル・ド・ヴァサルとオテル・ド・プラモンのそれぞれ複数の写真が見られる.オテル・ド・プラモンのゴシック装飾の窓がなかなかの出来だと思う.
旧サント・マリー教会 旧サント・マリー教会に関しては,仏語版ウィキペディアにも殆ど情報がないが,現在は堂内は市場になっており,これはジャン・ヌーヴェルという現代の有名な建築家の設計によるということだ.
外観に関しては堂々たるゴシック建築に見えるが,情報がないので,「sarlat sainte marie eglise」で検索したら,写真付きの英語ページがヒットした.それに拠れば,起源は12世紀だが,1365年に破却され,14世紀,15世紀を通じて再建された.「南方ゴシック」的な特徴のユニークな建築と評価されている.
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写真: 旧サント・マリー教会 |
「南方ゴシック」は,英語ではSouthern Gothicだが,これで立項されている英語版ウィキペディアの内容はアメリカ文学の「南部ゴシック小説」で,「フランス・ゴシック建築」のページをヒントに再検索すると仏語版ウィキペディアの「南仏ゴシック」にたどり着く.
アルビジョワ十字軍後に建てられ,要塞のように見える堅固な外観に特徴があるのが「南仏ゴシック」だとすれば,確かにこの建物はそうした雰囲気を湛えている.鐘楼には特にその特徴を感じる.
アルビジョワ十字軍(13世紀前半)によるカタリ派の殲滅,ユグノー戦争(16世紀))による内戦,フランス革命(18世紀末から19世紀前半)の際の宗教施設の破却と言った,イタリアの諸教会とは違う歴史をフランス南部の諸教会は背負っている.
フランス革命以降,集会所,武器工場,郵便局,ヘルスセンター(この語は和製英語だと思っていたが違うようだ)に転用された歴史を考えると,有名建築家の設計により,市場として市民や観光客に親しまれているのは,この建物にとって幸せなことかも知れない.
サルラという町 サルラ(英語版/仏語版ウィキペディア)はアキテーヌ地域圏のドルドーニュ県に属しているが,革命以前の旧州名では,この地域はペリゴール(英語版/仏語版ウィキペディア)といい,行政区分とは別にこの地名は生きている.
さらにこのペリゴール地方が,「緑のペリゴール」(北),「白いペリゴール」(中央),「緋色のペリゴール」(南西),「黒いペリゴール」(南東)の4つの地域に分けられ,サルラは「黒いペリゴール」の首邑である.
町の起源は,9世紀には確実に存在したベネディクト会修道院の創建にあるとされ,886年にカロリング朝西ローマ皇帝で東西フランクの王を兼ねたカール3世肥満王(シャルル・ル・グロ)の保護下に入った.
ドルドーニュ川やその支流から遠かったので,この時代以後にヨーロッパを席巻したヴァイキングの襲来を避けることができ,修道院は13世紀に最盛期を迎えたが,1318年に新たな司教区が設けられ,修道院教会はサルラのサン・サセルド大聖堂となった.
14世紀以降,革命期までは司教と行政官が権力を持つ司教座都市として繁栄を見た.
行政官は,古代ローマ史では「執政官」と訳される同じ語(consul)だが,これを仏和辞典で引くと,「[フランス革命以前の南フランスで貴族・商人など各階層から選ばれた]地方行政官;[特に商人たちによって互選された]商事裁判機関の判事」(『ロワイヤル仏和中辞典』の2)と説明されている.
百年戦争で重要な拠点として,兵士,弾薬,食料を供給したが,1360年にエドワード3世とジャン2世の子シャルル(後にシャルル5世)の間で結ばれたブレティニ条約(英語版/仏語版ウィキペディア)で一時期イングランドの支配下に入った.
10年後にはフランス軍の将軍(「元帥」コネターブルと言う地位であったようだ)ベルトラン・デュ・ゲクラン(英語版/仏語版ウィキペディア)の活躍により,フランス王国の支配下に戻った.
サルラについて,『地球の歩き方 フランス '11~'12』(ダイヤモンド社,2010)では,「中世からルネサンス,17世紀の混在して残る町並みで知られるサルラ.13~14世紀に商業の中心として繁栄し,百年戦争の間に荒れ果てた建物の修復を行ったり,その後増築したことによって独特の建築物が生まれた.1962年の「マルロー法」(当時の文化相アンドレ・マルローが提唱した歴史的町並み保存のための法律)適用第1号となり,見事に復元された美しい町全体が博物館のよう」と説明されている.
マルロー(英語版/仏語版ウィキペディア)(日本語版ウィキペディア「アンドレ・マルロー」も詳細なうえ,英語版,仏語版にはない作品の日本語訳情報,日本人を多く含む著者による関連書籍情報が網羅的で素晴らしい.ずっと残してほしい)はノーベル文学賞はとっていないようだが,ゴンクール賞というフランスの作家の最高の栄誉に1933年に輝いている.
彼が1974年に来日した頃には,翻訳も多く出され,影響力もあったが,少なくとも,今の日本ではあまり読まれなくなった作家と言えるだろう.第二次世界大戦中のレジスタンスの活動でも知られ,戦後は政治家としても活動した.彼の文化政策は特に知られており,フランスの文化を語るときに,よく聞く名前と言える.
文化財の保護に関して作家の名前が出てくる事例として,コンクに代表されるロマネスク芸術の「再発見」に19世紀の作家プロスペル・メリメの名前が出てくるのと双璧だろう.
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写真:
「死者たちのランタン」 |
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最後に町の「黄色い」外観に言及したい.上で紹介してきた写真でお気づきだと思うが,赤砂岩の町コロンジュ・ラ・ルージュの次にこの町を訪れて,サルラの黄色さには目を見張った.これについては,参考書にもウェブページにも何の言及が無かったが,観光案内のウェブページで,黄色い石灰岩であることが分かった.
これまでも,イタリアのサレント地方のピエトラ・レッチェーゼ(柔らかな白),プラートの緑大理石,アッシジ近くのスパシオ山や,ヴェローナのピンク大理石などを見てきて,地元の石に無関心だったわけではないが,今回は広い範囲を移動して,次に訪れる町ごとにガラリと異なる印象があって,石がこれほどまでに町の風景に影響することに驚いた.
ギリシアではパロス島大理石が有名だが,アテネのパルテノン神殿では,アッティカ地方ペンテリコン産大理石が使われた.材質が大事であるのは間違いないが,石は運ぶ手間ひまを考えると,近くで調達できるに越したことはない.古代神殿の多くが中世の教会その他の建材に転用されたのも,石の持つ性質(堅牢さと移動の難しさ)に殆どの原因があるだろう.
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写真:
サルラの名物はフォアグラ
土産物の店頭には
ガチョウの小物が並ぶ |
サルラのロマネスクの遺産としては,大聖堂の裏手の「死者たちのランタン」(一つ上の写真)もしくは「聖ベルナルドゥスの塔」が12世紀のものとされている(仏語版ウィキペディア「サルラ」).他には,上述の大聖堂の鐘楼くらいだろうか.鐘楼に関しては,
Jean Secret, Perigord Roman, Zodiaque, 1968
に僅かに言及があるので,これは一部に修復,後補がであっても,間違いなくロマネスクの遺産と言って良いであろう.
アルビジョワ十字軍や,百年戦争,ユグノー戦争,フランス革命と教会建築が蒙ってきた災禍は,自然災害も含めれば数限りなく,古いものが残って行くには,多くの困難を乗り越えなければならない.それでも上の本に写真で紹介され,詳しい解説がなされている教会も複数あり,いつの日かそれらを拝観できる僥倖にめぐりあうこともあるかも知れない.
サルラはフォワグラが名物である.「美食の旅」なので,もちろんいただいた.上の写真のように土産物にもガチョウの小物があり,「三羽のガチョウ広場」にはガチョウの銅像もあった.

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