フィレンツェだより番外篇
2015年12月28日



 




煉瓦ではなく赤砂岩でできた町
コロンジュ・ラ・ルージュ



§2015 フランス中南部の旅 - その4 ラスコー,コロンジュ・ラ・ルージュ

今回の旅行で良かったことの一つは,「フランスの最も美しい村」を4つも訪れることができたことだ.


 「フランスの最も美しい村」(英語版仏語版ウィキペディア,公式サイトの英語ページもあり,日本語版ウィキペディアの「フランスの最も美しい村」も参考になる)は,どこも交通の便はあまり良くないところにあって,自分個人で行くことはおそらくないと思う.

 今回訪れた4つの中にはコンクも含まれるので,二度と行くことはないと言う程ではないが,それ以外の村は,名前を聞くのも初めてだったし,再び訪れる機会があるかどうか分からないので,稀有の体験ができたといえるだろう.

 今回はその一つ,観光2日目(8月22日)に行ったコロンジュ・ラ・ルージュについて報告するが,その前に,原始時代の壁画で有名なラスコー洞窟(英語版仏語版ウィキペディア)について報告する.


ラスコーⅡ
 2011年の北スペインの旅行で,アルタミラ洞窟の博物館を訪れた際,洞窟の精巧なレプリカを見て,原始の芸術の水準の高さに驚嘆の念を覚えた.今回のラスコーも,保存のため本物は公開されていないのはアルタミラの場合と同様で,見ることができたのは「ラスコーII」と言うレプリカだったが,ここでも再び深い感銘を覚えた.

 アルタミラの時は,興味はないけれども旅程に組み込まれているので仕方なく付き合う,という不遜な態度で臨み,その素晴らしさに,見学後,購入する予定のなかった英訳版の案内書や絵葉書をあれこれ買ってしまったくらいの衝撃があった.その体験から,今回は初めから楽しみにしていたが,期待に全く違わない素晴らしい体験ができた.

 精巧なものとは言え,レプリカに過ぎないのに,岩の凹凸や亀裂を巧みに利用し,自然の造形とともに呼吸するように描かれた馬や牛は躍動感に溢れており,こうした表現方法が自明だった高い文化と,それを自在に操る才能に溢れた芸術家,そしてその力量を見抜く鑑賞者たちがいたことは容易に想像された.

写真:
この奥にラスコーⅡの
入り口がある


 今回は予定通り,英訳版案内書,

 Brigitte & Gilles Delluc, tr., Angela Caldwell, Lascaux, Bordeaux: Éditions Sud Ouest, 2015

を購入した.写真,解説ともに充実した案内書だ.日本語版ウィキペディア「ラスコー洞窟」は簡潔だが,必要最低限以上の情報が得られる.

 ラスコーIIでいただいた,英,西,独,蘭の4か国語訳付きのパンフレットに拠れば,本物は1963年から保存を優先して閉ざされ,そこから200メートル離れた場所に忠実な3次元コピーが1983年から公開されているのが,このラスコーIIと言うことになる.

 オリジナルは17000年前のものと言うことであれば,エジプトやメソポタミアに古代文明が栄え始めてから約5000年,その優に3倍以上昔だから確かに古い.ラスコーIII建設の計画もあると聞いたが,いずれにしても,今後とも保存を優先してほしい.コピーで十分に満足できる.

 英語ガイドだったので,おそらくフランス人以外の観光客がその回の案内の対象だったのだと思うが,次々と質問が出て,皆さん熱心なのに感心した.今後も人気観光スポットであり続けるだろう.

写真:
ラスコー洞窟のある
モンティニャックの町
ヴェゼール川渓谷


 ラスコー洞窟IIからの移動中,バスの中から見えたモンティニャック(英語版仏語版ウィキペディア)の町が魅力的に思えた.

 アキテーヌ地域圏ドルドーニュ県サルラ・ラ・カネダ郡ヴァレ・ドゥ・ロム小郡(英語版ウィキペディアはモンティニャック小郡)に属する基礎自治体で,人口は2012年に2804人(仏語版ウィキペディア),2008年に2852人(英語版ウィキペディア)とのことで,これが正しければ,過疎化というほどではないが人口は減少傾向にあると考えて良いのだろうか.

 旧石器時代から人が住んでいたことは,ラスコーが近傍にあることからも察せられるが,11世紀から14世紀まではペリゴール伯爵の主要な拠点の一つであった.

 当時の遺産としては,現在はモンティニャック城の塔を含む城跡が残るのみで,他にはクーロンジュ城の一部が14世紀,13世紀創建のサン・ピーエル・エス・リアン教会の鐘楼が14世紀に遡り,その他は20世紀初頭の再建であることが察せられるように,多くは古くて17世紀以降の建築がほとんどのようだ.

 とは言え,バスの車窓から見ただけだが,この町は美しかったので,機会があれば,ゆっくり散策して見たいと思わせる景観に思われた.


コロンジュ・ラ・ルージュ
 次に訪れたのは,冒頭で触れた「フランスで最も美しい村」のひとつ,コロンジュ・ラ・ルージュ(英語版仏語版ウィキペディア)(日本語版ウィキペディア「コロンジュ=ラ=ルージュ」も有益)だ.

 赤砂岩の建物群と,後述するサン・ピエール教会のタンパンが最も印象に残るが,赤い壁に緑がつたう風景そのものが独特で,「フランスの最も美しい村」の一つであることに恥じない.

 コロンジュ・ラ・ルージュは,リムーザン地域圏コレーズ県ブリーヴ・ラ・ガヤルド郡ミディ・コレズィアン小郡(英語版と日本語版はメサック小郡)に属する基礎自治体で,英語,仏語,日本語のウィキペディアはそれぞれ,2008年,2012年,2011年の統計に基づいて人口が460人,480人,475人としている(2015年12月25日参照).

 これで見る限り,漸増とも横ばいとも取れるが,観光客が集まり,それを対象にした飲食店,土産物屋などの従業員が近隣から通勤していると思われるので,日中は賑やかだ.

写真:
赤砂岩の家が並ぶ
コロンジュ・ラ・ルージュの町

巡礼のルートにあって
サンチャゴのホタテも見える


 現地でもらった簡便な観光地図の裏に英語の説明があり,ウェブの情報と総合すると,この村の歴史は以下のようにまとめられる.

 8世紀にポワトゥー地方(英語版仏語版ウィキペディア)のサン・サヴール・ド・シャルー修道院(英語版仏語版ウィキペディア)の修道士たちが分院(小修道院)(英語版仏語版ウィキペディア)を作ったことが,この村の起源と考えられ,農民,職人,商人が集まって村を形成し,サンティアゴ巡礼においてロカマドゥール(英語版仏語版ウィキペディア)の次に位置する宿駅として栄えた.

 この地は,9世紀からテュレンヌ子爵領に編入され,14世紀に子爵もしくは国王から司法に関する特権を付与され,司法関係者がここに邸宅を築いた.明らかに庶民的ではない邸宅が複数あるのはその名残であろう.

 16世紀後半のフランス宗教戦争(ユグノー戦争)(英語版仏語版ウィキペディア)の時期も無事切り抜けたが,1738年に子爵領はフランス国王に売却されて,特権は廃止され,フランス革命では,小修道院が破却されて,村は衰退したが,現在は,1982年に当時の村長シャルル・セラックが発案した「フランスの最も美しい村」の当初からのメンバーとして観光業に拠って栄えている.

 記述を比較すると,英語版,日本語版のウィキペディアは仏語版に拠っているようであり,仏語版ウィキペディアで典拠になっているのも一部は観光案内のウェブ・ページで,これらがどこまで信頼できるかは確信がない.

 コロンジュ・ラ・ルージュの「ルージュ」は,日本では「口紅」の意味で知られているように,「赤い」と言う意味で,村の主要な建物が,この地で産する赤砂岩によってできているため,町全体が赤く見えることに由来するのは明らかだ.

 今回の旅行で,町によって建築物を構成する石の色が黒かったり,灰色であったり,黄色だったりして,それが町の印象を決定づける大きな要素のひとつになっていることに驚いたが,この村の全体的に赤が優勢な風景には特に目を見張った.

写真:
サン・ピエール教会


 コロンジュ・ラ・ルージュのサン・ピエール教会に関しては仏語版ウィキペディアには一応は独立して立項されているが,説明はほとんどなく(2015年12月25日参照)(そこからリンクされているウィキメディア・コモンズのページでかなりの写真が見られる),英語版と仏語版ウィキペディアのコロンジュ全体のページに数行の紹介がある.

 また,書架にある,

 Jean Maury / Marie-Madeleine S. Gautiers / Jean Porcher, Limousin Roman, Zodiaque, 1960

に僅かだが紹介がある(p.28).

写真:
サン・ピエール教会の
タンパン(部分)

人間味に溢れる造形
タンパンの空間に美しく
収まる天使
羽,衣装の襞,袖口のレース
など,細部の表現も美しい


 タンパンは12世紀と古く,教会の他の部分は町の殆どの建築物と同様に赤砂岩でできているが,ここだけ白い石に彫刻されている.上部は「キリスト昇天」とその両脇に侍する2人の天使,さらに昇天するキリストをを指さす2人の天使たち,下部は聖母と(多分,イスカリオテのユダを除く)11使徒である.

 この教会は16世紀の宗教戦争の際に,タンパンが隠され,20世紀に現状に復元されたと言われる.そのせいではないであろうが,やや変則的な構造で,ポルターユはファサードに向かって右側である南に偏って設けられており,堂内は平面構造の2つの身廊から成っていて,それぞれの身廊の奥には祭壇があって,宗教戦争の最中にはカトリックとプロテスタントそれぞれの祭壇として使われたとされる.

 しかし,現状は見た目にはどちらもカトリックの装飾(一方は下の写真のピエタ像と受難の浮彫,もう一方の祭壇は聖人像に囲まれた木彫のキリスト磔刑像)であり,どちらがどちらかは情報がないのでわからない.

写真:
南側の礼拝堂の祭壇
17世紀末
ピエタ像の背後の浮彫は
「キリストの受難」


 堂内はリブ・ヴォールト構造が目立つのでゴシック風だが,尖塔鐘楼は12世紀に遡るロマネスクの遺産であり,リムーザン地域圏でも最古の鐘楼の一つとされる.とんがり屋根は修復か付加されたものだろうから全体的にも新しく見えるが,由緒ある塔と知って凝視すると,ロマネスクの半円アーチを多用したユニークな建築に思われる.

 教会の屋根から上の部分に,4面それぞれに2つの半円アーチの窓が2つずつある層が2層(2層目は,扶壁となる外側の重厚なアーチと,立派な柱頭の柱に支えられた内側のアーチの二重構造),その上に半円アーチ窓に切り妻型の屋根がついた窓型装飾(壁は塞がっている)が4面に1つずつ,その上の層は多分オクタゴン(八角形)型で,一面おきに小さな窓がそれぞれに1つずつあって,最上部は多分スレート葺きのとんがり屋根という鐘楼は,少なくとも今までに見た記憶はない.屋根の上には十字架ではなく風見鶏が乗っているが,これは中世のオリジナルではないだろう.

写真:
サン・ピエール教会
ロマネスクの鐘楼


 教会の北隣に道と空き地を挟んで,「悔悟者たちの礼拝堂」がある.

 教会にも木彫磔刑像が複数あったが,この礼拝堂にも木彫磔刑像があり,コピーのようにも見える修道士聖人の絵もあったが,最も興味深かったのは一見中世のテラコッタ彫刻に見えるが,実は16世紀の木彫である小さな聖マクシマン像だった.

 聖マクシマンは,4世紀にポワティエ近郊のシイー生まれで,異端とされるアリウス派と戦って,現在はドイツに属するトリアー(フランス語でトレーヴ)の司教となった聖人とのことだ.出身地の近傍で崇敬されているローカル・セイントと言って良いであろう.

 この礼拝堂に関してはウェブ情報が複数あり,そのうちの一つで写真が見られる.「黒い悔悟者同信会」(ペニタン・ノワール)(「悔悟者同信会」を紹介した英語版ウィキペディアの一部でblack penitentsとして説明)の礼拝堂で,15世紀の建造と言う情報があるが,であれば,現存するコロンジュ・ラ・ルージュの建造物としては,サン・ピエール教会の次に注目されて良いであろう.

 どのような信仰形態であったかはともかく,草の根の宗教施設を見ることができて,とりあえず嬉しい.






木彫の磔刑像がいくつもあった
サン・ピエール教会