フィレンツェだより番外篇
2015年12月20日



 




サンタンドレ大聖堂 王の門のタンパン
ボルドー



§2015 フランス中南部の旅 - その3 ボルドー

ボルドー(英語版仏語版ウィキペディア)は,直接見た感じでは大都会である.


 様々な統計で見ると人口はそうでもないが,都市としての風格とか,地域圏における行政機能,経済的役割を考えると,やはり大都会と言いたくなる.空港もあり,街中にトラムが走り,交通渋滞も相当なもので,とても人口が僅か24万程度の都市とは思えない.

 しかし,一口にボルドーと言っても,単純にボルドー市のことを指すとは限らない.ボルドー市をはじめ周辺の基礎自治体(コミューヌ)がひとつにまとまって,ボルドー都市圏(日本語版ウィキペディア「ボルドー」の訳語)(英語版仏語版ウィキペディア)を形成している.これにはメトロポール(英語ではメトロポリス)と言う語が使われており,まさに大都市圏ということであろう.人口は74万人弱(仏語版ウィキペディア,2012年の統計)である.

 自治体の合併が奨励されて,日本の地方の中小都市は巨大になったが,ボルドーの場合も,ボルドー市単体ではなく「ボルドー都市圏」で,日本の県庁所在地レヴェルの単位として理解できるような気がする.

 この「都市圏」の面積を確認してみたところ,1273平方キロもあった.盛岡市の3分の4倍の広さだが,盛岡市の面積をその分広げても,30万弱の人口が74万にはならない.

 しかし,政令指定都市レヴェルになると,たとえば人口が70万強でボルドー都市圏と同じくらいの相模原市は,面積は328平方キロとボルドー都市圏の4分の1しかない.仙台,広島(それぞれ日本語版ウィキペディア参照)もボルドー都市圏ほどは広くないところに,人口は100万を超しており,川崎市に至っては,143平方キロの面積で,人口は倍近く(147万人強)もある.

 「都市圏」の規模を示そうと,あれこれ比較した結果,人口稠密な日本の政令指定都市とくらべると決して大都会とは言えないということが分かったが,もともとこういう考察を始めたのは,ボルドーの町を自分で歩いて,都会と実感したからであって,人口密度で勝る日本の大都市に,ボルドーのような大都市感があるかどうかは,そもそも別問題だったかもしれない.


ボルドーの歴史
 歴史性という点から見ると,ボルドーを首府とするアキテーヌ地域圏は,ケルト民族であるガリア人の一派アクィーターニー族の居住地であり,この部族の名はカエサルの『ガリア戦記』の有名な冒頭部分にも言及されている.

 ボルドー市内をその下流が流れるガロンヌ川も,ガルムナ川として『ガリア戦記』に登場する.

 都市としての起源となる古代のブルディガラ(もしくはブルデガラ)は,仏語版ウィキペディアによれば紀元前300年頃(ただし典拠は示されていない)とされるが,ガフィオ『羅仏辞典』(旧版)によれば,地名の初出はマルティアリスの諷刺詩集で,これが紀元後1世紀(102年死亡)の作品なので,それほど古い言及ではない.

 ガフィオが次に引用しているのが,4世紀の詩人アウソニウスで,ボルドー出身の彼は晩年現在のサンテミリオンにあたる地域の近傍に隠居した.

 アウソニウスの作品集は羅英対訳のロウブ古典叢書に収められており(全2巻),その冒頭に作者に読者に向けた作品があり,そこで彼は「ブルディガラ」で生まれたと語っている.

 ブルティガラは紀元前60年にローマの支配下に入り,錫と鉛の取引で栄え,属州アクィタニアの首府となった.276年と409年にヴァンダル族,409年に西ゴート族,414年にフランク族の侵略を受け,その間の歴史は不明だが,6世紀にはメロヴィング朝フランク王国治下の大司教座都市となった.585年頃,フランク王国内のヴァスコニア公爵領が成立した.

 ヴァスコニアと言う名称は,ラテン語でバスク人を意味するウァスコネスに由来し,ガフィオに拠れば,初出はプリニウスの『博物誌』(後1世紀)で,そこから派生したウァスコニアの初出はノラのパウリヌスの『詩集』(4世紀後半から5世紀)である.

 ウァスコニアが当時はヴァスコニアと発音されていたかも知れず,そこから,現在はガスコーニュ(英語版仏語版ウィキペディア)と言われている地方名ができた.

 732年にウマイヤ朝のアル・アンダルス(アンダルシア)総督アブドゥル・ラーマンの侵略を受ける.その時のこの地方の支配者はアキテーヌ公爵ウード(オド)で,彼は,最終的にカール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで,イスラム勢力を駆逐するのに貢献し,ヴァスコニア(ガスコーニュ)とアクィタニア(アキテーヌ)の領主としての地位を全うし,735年の退位後,息子のフナルド(ウナール)にその地位を譲り,引退先の修道院で亡くなった.

 フナルドは744年までその地位にあり,息子のワイオファルが継承した.彼はフランク王国のピピン短躯王に叛旗を翻し,その地域はその後も中央政権に反抗的な姿勢を示した.しかし,フランク王国でカール大帝なども強力な君主が出たことにより,順次その領域に組み込まれていった.


イングランドとの関係
 ボルドーは,フランス国内にあってイングランドと関係の深い地域である.

 後述するサンタンドレ大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)は,12世紀に建設が始まり,完成は16世紀になってからだが,1096年に教皇ウルバヌス2世によって聖別され,1137年にはアキテーヌのエレオノール(アリエノール/エレアノール)がフランス国王ルイ7世とこの教会で結婚した.

 アキテーヌ公爵領という広い地域の相続権を持っていたエレオノールがルイとの婚姻を解消し,ノルマンディー公アンジュー伯を兼ねるアンリと結婚したのが1152年,その2年後にアンリがイングランド国王ヘンリー2世となることにより,中世封建制の時代で,現在の統一主権国家と大きく事情が異なるとは言え,フランス国内にイングランドの影響下にある広大な領域が出現した.

 ヘンリー2世とエレオノールの間に,リチャード1世(獅子心王)とジョン王(失地王)が生まれ,ジョンの子がヘンリー3世,その後順番にエドワード1世,同2世,同3世と嫡出子相続が行われ,エドワード3世の子が有名な黒太子(ブラック・プリンス)エドワードである.

 彼は王位に就く前に亡くなったが,嫡出子の1人がリチャード2世となる.ただ,リチャードは廃位されて,それがバラ戦争の遠因となる.

 リチャードを廃位したのは,従兄弟のヘンリー4世(ヘンリー・オヴ・ボリンブルック)で,彼の父が黒太子の弟ランカスター公爵ジョン・オヴ・ゴーントである.この間の事情は,必ずしも史実の通りではないであろうが,シェイクスピアの史劇『リチャード2世』,『ヘンリー4世』を読むとある程度は察せられよう.1980年前後にNHKでBBC制作の『リチャード2世』を,TVを持っていなかったので叔父の家で見せてもらった時,劇作として完成度はともかく深く印象に刻まれた.

 バラ戦争は1455年から1487年までの出来事であるが,それに先立つ百年戦争(1337-1453)は,フランスでカペー朝が断絶し,分家のフィリップ6世がヴァロア朝を開いた時に,イングランド国王エドワード3世母系からフィリップ4世の直系の孫であることを根拠にフランス王の継承権を主張したことに始まる.

 歴代フランス国王の努力と,イングランド側のジョン王の失政も要因となって,かつてヘンリー2世がフランスに持っていた広大な領地は,その時点ではガスコーニュ地方のみとなっていたが,エドワード黒太子がガスコーニュ地方の首邑ボルドーを根拠地として活躍し,領地を拡大する.

 百年戦争は,1453年にボルドーの近くで行われたカスティヨンの戦いで,フランスが決定的な勝利を収め,帰趨を決するとともに,ボルドーもフランス王国の支配下に入った.



 百年戦争が終結した時のイングランド王はヘンリー6世である.彼はヘンリー4世から続くランカスター朝の継承者であったが,ヨーク公リチャードが起こしたバラ戦争で,リチャードの子エドワードの簒奪を許すことになる.ヨーク公リチャードは,リチャード2世で絶えたプランタジネット朝のエドワード3世のひ孫にあたり,結局,戦死して王位には就けなかったが,その子エドワードがイングランド国王エドワード4世となった.

 その後も戦いは続き,ヘンリー6世は一時復位するが,1471年テュークスベリーの戦いで敗北を喫し,ロンドン塔で獄死する.復位したエドワード4世の死後,エドワード5世が即位するが,叔父が簒奪してリチャード3世となる.

 その後,ランカスター家の血筋を引くリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーがボズワースの戦いでリチャード3世を破り,テューダー王朝を開いてヘンリー7世となる.ウェールズ出身のこの家系から,英国国教会を創設したヘンリー8世,繁栄を実現し,イングランドのルネサンスを現出したエリザベス1世が出た.

 脱線が過ぎたが,こうした歴史的背景のもとボルドーはフランス国内にあってイングランドと関係の深い地域だが,その関係性の重要な要素にワインの輸出があり,フランス国王がボルドーの力を抑制するために,ボルドーからイングランドへのワイン輸出を禁じたほどである(英語版ウィキペディア).

 フランス貴族が幼いルイ14世と宰相マザランに叛旗を翻したフロンドの乱に際しても,最後に鎮圧された(1653年)のがボルドーであり,この町はどちらかと言えば,パリの王権に対して野党的であったと思われる.

 ボルドーやサンテミリオンが属するジロンド県はフランス革命の際の創設で,フランス革命期に大きな役割を果たしたジロンド派(ジロンド党)も気にはなるが,今回の旅行とは関係がないので,縁があれば別の機会に学び,考えることにする.


サンタンドレ大聖堂
 ボルドーで見たかったのは,大聖堂と美術館だけだったが,もう少し事前に勉強していたなら,それ以外にも興味深いものがあったことは容易に察せられた筈だ.しかし,どっちみち,時間は限られていたので,今回は大聖堂と美術館が見られて,満足だ.

写真:
サンタンドレ大聖堂


 サンタンドレ大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)は,その大きさには圧倒される.その後に美術館に行く予定がなければ,自由時間を利用してゆっくり堂内を見学したいところだったが,美術館の閉館時間が迫っていて,ゴシックの堂内やタンパン(トップの写真)をざっと見た程度の拝観になり,やや不全感は残った.また機会もあるだろう.帰国後,フランスのアマゾンで,

 Philippe Araguas, La Cathédrale Saint André de Borrdeaux:, Paris: Éditions du Patrimonie, 2001(以下,アラギュア)

を購入した.

 下の写真の絵は,現地ガイド(国籍はわからないが,民族としては日本人でいらした)が,“名前は忘れたが,ルーベンスに次ぐフランドルの偉大な画家”の作品と解説されたので,とりあえず写真に収めた.

写真:
ヤコブ・ヨルダーンス
「キリスト磔刑」
17世紀前半
サンタンドレ大聖堂


 アラギュアに拠れば,ヤコブ・ヨルダーンス(日本語版ウィキペディア「ヤーコブ・ヨルダーンス」も詳細)の作品である.これと言って感動はないが,確かにインパクトはある.キリストの磔刑の姿は類例があるかどうかわからないが,腕の横に伸ばされる形ではないのが,斬新に見える.

 キリストの上部見える布には,ヘブライ語,ギリシア語,ラテン語で「ナザレのイエス,ユダヤ人の王」と描かれている.

 大聖堂の拝観後,皆さんと別れ,ボルドー美術館に向かった.


ボルドー美術館
 ボルドー美術館では,おなじみの画家の作品をいくつも見ることができた.下の写真は,ピエトロ・ダ・コルトーナの「聖母子」で,もとはルイ15世のコレクションで,革命後国家の財産となり,ボルドー美術館に寄託され,現在は完全にこの美術館に移管された作品だ.

 実は,ボルドー美術館で観た作品の中では,この絵が一番好きだ.

写真:
ピエトロ・ダ・コルトーナ
「聖母子」
1641年頃


 この美術館にはルーカ・ジョルダーノの作品も2点(「神学者の論争」と「哲学者の論争」)あり,ルーカとピエトロの作品は,ヨーロッパのどこの美術館にもあると思われるほど多作だ.

 しかし,大巨匠の名を冠した作品であっても,多作な作家であればなお,画力の劣る工房助手の手が入っているのは明らかで,がっかりさせられることも少なくない中で,ピエトロ・ダ・コルトーナの作品は,どれも必ず一定水準以上に仕上がっていると思う.

 画家が誠実な人だったのか,工房に優秀な助手が一杯いたのかは調べる気力もないが,ともかく,私はこの画家の絵が,わかりやすくて好きだ.幼子イエスの動きが不自然にも思えるが,若い聖母はロマの女性のように野性味に溢れ,その意味でもこの絵は平凡な作品ではないと思う.

写真:
ルーベンス
「ガニュメデスの誘拐」


 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに,上の写真とほぼ同じ絵柄の作品の写真が掲載され,ウィーンのシュヴァルツェンベルク宮殿所蔵で,1611-12年の作としている.

 ボルドー美術館の作品の制作年代は美術館の説明板にもなかったが,バイエルン選帝侯マクシミリアンのコレクションにあったそうなので,出筋はそれなりに確かなものだろう.真作とは限らないが,写真で見比べる限り,ウィーンの作品に劣っているようには思われない.

 鷲の姿になったゼウスが,トロイアの王子ガニュメデスを誘拐し,オリュンポスでネクタル(「神酒」と言う訳で良いかどうか,神々の飲む物)神々にをつぎ,ゼウスの酒杯を捧持する役を与えた.ギリシアで盛んだったとされる少年愛を最高神も実践したとする神話であろう.

 この主題の有名な作品としては,16世紀のコッレッジョの(ウィーン美術史美術館,1531年頃)があり,17世紀のレンブラントの作品(ドレスデン美術館,1635年)もあるが,それらは「少年」と言うより,「幼児」に見える.その意味では,ルーベンスの描くガニュメデスが本来の伝承に近いのではないだろうか.

 私も視覚的には,コッレッジョが描くタイプの幼児を思い浮かべることが多い.普段,ルーベンスの描く絵に特に感心しないが,この点には心魅かれた.

 これまでもルーベンスの絵をたくさん見てきたが,興味がひかれた作品は,フィレンツェのピッティ宮殿パラティーナ美術館の通称「4人の哲学者」くらいだ.と言っても,もっぱら関心は4人のフランドル人の男たちの背後に飾られた伝セネカとして知られる古代彫刻にあった.

 この胸像は現在はセネカではないと考えられているが,セネカだと思われたからこそ,多くの古代模刻が残っているのだろう.ルーベンスも古代模刻の1つを購入して持っていたと言われる.

 パラティーナで何度もこの絵を見ていながら,迂闊にも注意を怠っていて,今回ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説を読んで初めて知ったのだが,この絵にはさらに興味深いことがあった.描かれた4人の男性は,向かって左から,ルーベンス本人,兄フィリップス,大古典学者リプシウス(日本語版ウィキペディア「ユストゥス・リプシウス」が詳細),ヤン・ファン・デン・ヴォウヴェルで,フィリップスとヴォウヴェル(ヴォフェリウス)は2人ともリプシウスで弟子とのことである.

 リプシウスの名は,古典学を学ぶ者であればどこかで必ず聞く名前である.ルネサンス以降の古典学の伝統の中で燦然と輝く人物だ.「哲学者たち」と言う画題(もちろん画家本人に拠るものではないであろう)を意識しすぎて,画家本人の兄を含め,「古典学者たち」の絵であったことに思いが至らず,不明を恥じるばかりだ.

 私たちがイメージする「哲学者」とは違うわけだが,それでもリプシウスは哲学者セネカの著作集を校訂し,セネカが信奉したストア哲学の本を書き,政治論集を著し,歴史的著作も残しており,広い意味で「哲学者」と言っても間違いではないし,時代を代表する大学者とその弟子たちは「哲学者」と受け取られたのであろう.

 近代哲学の創始者とも言えるルネ・デカルトの誕生が1596年,リプシウスは1547年,画家ルーベンスは1577年の生まれで,いずれもデカルトよりも先人になる.私たちは,どうしても「哲学者」と言うとカントやヘーゲルのような大学の教職にあった近代ドイツの職業学者を連想するが,デカルトは教職についたことがない.リプシウスは今の国名で言うと,ベルギー,オランダ,ドイツの有名諸大学で教授職を務めたが,担当講座は「哲学」ではなかったであろう.もちろん中世以来「哲学」を担当する教授は各大学にいたであろうが,「哲学者」は必ずしも職業ではなかったのである.

今,このことにこだわり,ルーベンスの兄がリプシウスの弟子であったことになぜ注目するかと言えば,今までまったく気にもとめなかったルーベンスの持つ教養のバックグラウンドが俄かに気になったからだ.


 書架に,

 ヤーコプ・ブルクハルト,新井靖一(訳)『ルーベンス回想』(ちくま学芸文庫)筑摩書房,2012
 クリスティン・ローゼ・ベルキン,高橋裕子(訳)『リュベンス』(岩波 世界の美術)岩波書店,2003
 岩淵潤子『ルーベンスが見たヨーロッパ』(ちくまライブラリー)筑摩書房,1993

があり,ベルキンがもっとも詳しく語ってくれるが,ブルクハルト,岩淵にも言及があるように,ルーベンスの父は,パドヴァとローマの大学で学んだ法律家であり,彼自らが亡命先のドイツで子供たちにラテン語を教えたようだ.

 一族の故郷アントワープ(アントウェルペン)に戻ってからも,ルーベンスは高名な学者が開いたラテン語を教える学校に通い,傑出した生徒だった(この証言者は後にリプシウス校訂のセネカ著作集を出版したバルタザール・モレトゥス)ようだ.ギリシア語に関してはそれほどの充実度ではなかったかも知れないが,彼はラテン語の古典を徹底的に叩き込まれた.

 ベルキンは,「この少年時代のアカデミックな訓練が,のちのリュベンスの学問の土台となる.成人したリュベンスは広くさまざまなラテン語文献を読み,学者の文通相手との手紙は流暢なラテン語でしたためた」(p.20)としている.

 実は,書架に,

 Wolfgang Stechow, Rubens and Classical Tradition, Harvard University Press, 1968

と言う本もある.駒場の東大で学会があった時,駅前の古書店で偶然買った本だが,と言うことは日本にルーベンスと古典の関係に興味を持った人がいたということだと思う.今回は時間切れで参照していない.リプシウスや父のヤンが,どのように当時のカトリックとカルヴァン派プロテスタントの対立に揺れ動いたかも興味深いが,今回はルーベンスについてはここまでとする.

写真:
ティツィアーノ
「ルクレティアの凌辱」
1570年代


 ティツィアーノのこの作品は,ボルドー美術館に関する紹介には必ずと言って良いほどでてくるが,ティツィアーノの古典題材の作品は,ギリシア神話を扱ったものであれ,ローマ史を扱ったものであれ,自分と相性が良いとは思えない.やはりティツィアーノに関しては宗教画を鑑賞したい.

 ジュリオ・ロマーノがマントヴァのテ宮殿に「タルクィニウスとルクレティア」を題材にしたフレスコ画(1536年)を描いており,ティツィアーノが直接それを見たかどうかは不明だが,ジョルジョ・ギージによる版画を参照したのではないかと言う説があるようだ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).しかし,ジュリオ・ロマーノの絵は,それほど優れた作品とは思えず,ティツィアーノに影響を与えたとした,あくまでも絵柄の問題であろう.

 ティツィアーノは同じ主題で似たような絵を描いている.ケンブリッジのフィッツウィリアム博物館にある作品はセクストゥス・タルクィニウスの剣を持つ右手は,上に挙げられている.ボルドーのルクレティアは顔を背けているが,ケンブリッジのルクレティアはタルクィニウスに向けられている.

 もう1作,ウィーンの絵画芸術アカデミーにある作品では,タルクィニウスは腕を挙げているが,ケンブリッジの絵では伸ばされている腕が,肘を曲げて突き刺そうとする体勢になっている.ウィーンのルクレティアは顔を背けるには至っていないが,タルクィニウスの顔を見てもいない.他の2作では裸体のルクレティアがウィーンの作品では着衣である.

 現場で観た時よりは,写真で反芻してみると,ボルドーの作品も決して悪くはないと思う.まずまず,観られて良かった.絵としての評価は保留したい.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートはケンブリッジの作品を詳しく解説し,ボルドーとウィーンの作品に関しては「ティツィアーノと彼の工房はこの主題で幾つかの作品を生産した」と言っているだけなので,ケンブリッジの絵が巨匠の作品で,その他は工房が関わった比重が高いと考えていると言うことであろうか.

 ティツィアーノの古典主題画に関しては,常にこのような問題がつきまとう.

 胸に手を当てて荒野で悔悟するマグダラのマリアの絵も複数ある(エルミタージュ美術館パラティーナ美術館カポディモンテ美術館).エルミタージュとパラティーナの作品は直接見たし,カポディモンテの作品も特別展で見た.パラティーナの作品が何度も見てなじみがあるが,今思えばエルミタージュの絵が最も優れているように思える.ラテン語で「ティティアヌス」と言うサインがある.

 これらと同じ絵柄の作品がボルドー美術館にもあった.さすがに説明板も「工房作品」としており,だいぶ品下るように思われるが,こうした絵に需要があって,傑作に見えなくても似た絵がほしいという要望があったのだということはわかる.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説に拠れば,エルミタージュの作品は,1565年頃の制作で,ティツィアーノが死ぬまで手元に置き,息子のポンポーニオが家に残っていた全ての作品とともにクリストフォロ・バルバリーゴに売却し,1850年にバルバリーゴのコレクションをロシアが買った.

 エルミタージュの美術作品と言うと,エカテリーナ2世を想い起すが,彼女の治世は1796年までで,1850年の皇帝は彼女の孫のニコライ1世である.エカテリーナはこの作品を見ていない.

 パラティーナの「マグダラのマリア」が最も古く,1532年頃の制作で,注文主はウルビーノ公爵だったフランチェスコ・マリーア・・デッラ・ローヴェレだった(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートはフェデリコ・マリーアとしているが,フランチェスコの間違いであろう.2015年12月12日参照).フランチェスコのひ孫のヴィットーリアがトスカーナ大公フェルディナンド2世に嫁し,現在ウフィッツィ美術館にあるやはりティツィアーノの作品「ウルビーノのヴィーナス」(フランチェスコの息子グイドバルドの注文)とともにフィレンツェに移されたのであろうか.

 カポディモンテの作品は,1567年に枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼに贈与されたものとされる.ティツィアーノは息子に聖職禄を付与してもらうため,教皇パウルス3世とその一族ファルネーゼ家のために絵を描いた.その中の1点と言って良いのであろう.

 最も古いパラティーナ所蔵の作品に関するウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説には,ティツィアーノ工房が無数の模作を生産したとあり,ボルドーだけではなく,その他の美術館に多くの工房作品の「マグダラのマリア」があるのであろう.

写真:
ムリーリョ
「幼子イエスを崇める
 パドヴァのアントニウス」
1675年


 ティツィアーノの「ルクレティアの凌辱」に比べると,ムリーリョの作品は,私がムリーリョの絵が好きだと思うイメージ通りの作品で,満足した.

 彼のアントニウスの絵はセビリア大聖堂で見ている.切り取られて盗まれたことのある部分を戻したりした状態のせいもあるかも知れないが,大きさの点でも,セビリアの作品の方がより幻想的に見える.どちらも幻視と言う神秘体験の絵であり,現実にはあり得ないのだが,聖人と画家の両方の崇高さに打たれる.

写真:
ラヴィニア・フォンターナ
「座って本をめくる男性の肖像」
1577-78年


 巨匠たちの作品であれば,さほどの水準でなくても,フォーカスされることもあるかも知れないが,ラヴィニア・フォンターナの絵は,そこにあって見られただけで嬉しい.

 父が画家で,そのもとで修業したが,父を超えて芸術家として大成した.ボローニャで偉大な画家たちの影響を受けながら,実力を磨き,ローマに活躍の場を得た.

 やはり父を越えた女性画家アルテミジア・ジェンティレスキの先駆的存在と言えるかも知れないが,アルテミジアの父オラツィオは巨匠と呼びたいほど魅力的な画家であるのに対し,ラヴィニアの父プロスペロにはそれほどの名声はない.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに4点見られる彼の作品(全て個人像なので実物を見たことはない)を写真で見る限り,当時としては一定水準以上の画力を持っていたであろうと思われるが,それでも,やはりラヴィニアの方が良い絵を描いていると私には思える.

 この肖像画は一見,破綻がないだけの平凡な絵にも見えるが,奥行き感と言い,色彩のバランスと柔らかさ,木や紙の質感と言い,ラヴィニアは意外なほど偉大な才能を秘めていたのではないかと思わせる.時代はマニエリスムなのに,17世紀のオランダ絵画を先取りしているような写実性と,見る者の詩心を掻き立てるような寂寥感に満ちた絵だ.

 モデルの男の,現代風に言えばカメラ目線で自信に満ちた表情は,芸術家の自己表現に材料を提供したに過ぎない.描かせた本人は,画家を遥かに超える社会的地位を持っていたのであろうが,この絵の主役は画面に現れないラヴィニアだと思う.この絵を見るためにだけ,ボルドー美術館を訪れる意味がある,と私は思う.今後,彼女の絵に出会えた時は心して鑑賞したい.

 ラヴィニア(ラヴィーニア)という名は古典のラウィニア(ラーウィーニア)という名前からきており,滅亡したトロイアの王族アエネアスが,イタリアにやって来て結婚した相手がラウィニアだった.

 偶然ではあろうが,アルテミジア・ジェンティレスキの名も,古典からのものだ.ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館で「グリゼルダの親方」の描いた「アルテミシア」について報告した際に少し触れたが,この名のもととなったアルテミシアと言う名の有名な女性は少なくとも2人()いる.

 短時間だったが,ボルドー美術館で充実した鑑賞をした.近代以降の傑作もあるのだが,それは別館に展示されており,今回はあきらめた.私たちはそれで満足だったが,旅をご一緒した大阪からいらしたご夫妻と美術館で出会ったので,後でお話しを伺うと,駆け足で近代絵画の方も鑑賞なさったと言うことだった.驚嘆すべきエネルギーと美術への愛好心に敬服するばかりだ.



 この日は晴天で気温も上がり,徒歩の市内観光はなるべく日陰を歩きたい気分だった.広大なカンコンス広場に案内されたとき,現地ガイドの方が「ボルドーの3M」を教えてくださった.モンテーニュ,モンテスキュー,モーリヤックだそうで,この3人の彫像が広場にはあった.

 カンカン照りの広場を横切ってモンテスキューの像を見に行く気力はなかったが,モンテーニュの方は木陰の中を歩いてそばまで行った.彼は,ボルドー近郊の城で生まれ育ち,父も本人もボルドーの市長を務めた.

 学生時代,妻も私も出席していた故・松浪信三郎教授の演習は,先生の翻訳(河出書房新社)を使ってモンテーニュの『エセー』を読むというものであった.その頃より今はもっとモンテーニュに深い興味を抱いており,モンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』(岩波文庫に邦訳)も興味がある.そうしたことを整理しながら,ボルドーをまたいつの日か訪れて見たい.






モンテーニュ 向かい側にはモンテスキュー
ボルドー カンコンス広場