フィレンツェだより番外篇
2015年12月6日



 





コルドリエ修道院をカメラに収める
中世の町 サンテミリオン



§2015 フランス中南部の旅 - その2 サンテミリオン

ボルドー空港に夜8時過ぎに到着し,市内のホテルに1泊,翌日バスに乗ってサンテミリオンへ行くことから観光は始まった.サンテミリオン(英語版仏語版ウィキペディア)は,近隣の都会「ボルドー」の名を高からしめるワインの産地である.


 ボルドーでは自由時間に美術館に行くことを計画していたので,朝食後,バスの出発までの空き時間を利用して美術館の場所を確かめに行った.宿から徒歩で10分くらいのところで,入り口を確認し,すぐにホテルに戻ったが,すでに美術館への期待で胸は一杯だった.しかし,まずはサンテミリオンの観光だ.


フランスの自治体の区分,名称
 イタリアでは「州」をレジョーネ(regione)と称するが,フランスに関しては同じ語源の名称(région)の定訳が「地域圏」となっている.

 地域圏の下に「県」(département),その下に「郡」(arrondissement),さらに下に「小郡」(canton)があり,日本語版ウィキペディア「サンテミリオン」でも確認できるが,サンテミリオンはアキテーヌ地域圏,ジロンド県,リヴルヌ郡,リヴルヌ小郡に属している基礎自治体(commune)である.

 イタリアの場合は,州の下に県(provincia)があり,その下が日本の市町村にあたるコムーネ(comune)だが,イタリアの「州」とフランスの「地域圏」,イタリアのコムーネとフランスの「基礎自治体」が語源を同じくしている.

 英語でも「地域」(region)は自治体ではないが,語としては共通であり,common (s)と言う語にも共有地と言うような意味合いがある.また英語では自治体にあたる語は,municipality (-ies)があるが,これはイタリア語にもムニチパリタ(municipalità)と言う語がある.ただし自治体の意味で使うのは稀だと『伊和中辞典』にあり,むしろ形容詞のムニチパーレ(municipale)は良く使わるような印象を持つ.

 これらの殆どはラテン語に遡る語源を持つ.英語で市,町,村に対応するcity, town, villageのうちtownを除く2語がラテン語語源である.地方名称にこれだけラテン語語源の語が用いられるのは,「ローマ帝国」のご威光と言いたいところだが,イタリア語やフランス語はそもそもラテン語から生じた言語で,英語はある時期フランス語の影響下にあったので,そう言うのはあまり意味のないことかも知れない.

 フランスの地方自治体の段階の多さは,フランスという国の大きさを物語っているように思える.フランスでは「小郡」にあたる同じ語が,スイスに関しては「州」と訳される.

写真:
大劇場
ボルドー


 大都市ボルドーは,サンテミリオンと同じアキテーヌ地域圏ジロンド県に属しているが,地域圏の首府(日本語版ウィキペディア「ボルドー」)で,県庁所在地である.郡も小郡もボルドーと言うようで,いずれも郡庁の所在地となっている.同じ基礎自治体でもボルドーは24万人超,サンテミリオンは1914人(いずれも仏語版ウィキペディアで,2012年のデータ)で,ボルドーが圧倒的に大きい.

 人口が30万弱なら日本では大都市ではないが,人口30万を少し切る盛岡市(日本語版ウィキペディア,2015年のデータ)の面積が900平方キロ弱,ボルドーが490平方キロ弱で,人口密度の違いと,さらに周辺の基礎自治体の経済や行政機能を担っていることを考えると,ボルドーは日本の中小の県庁所在地に比較しても「大都市」の風格を持っているといえる.実際の印象も大きな街だった.これに関しては次回のボルドーの回で言及する.

 サンテミリオンは,日本の感覚で言うと「村」程度の人口で,周辺に広がるブドウ畑を見ていると,「美しい村」と言う印象を持つが,中心部は,中世からの歴史を持つ立派な「都市」に見える.


聖エミリオン
 サンテミリオンという地名は,聖エミリオンという聖人の名にちなんでいるが,この名はラテン語では何というのか.サンテミリオンの参事会教会にあるツーリストインフォメーションの売店で買った,

 Antoine Lebègue, Angela Caldwell tr., Visiting Saint-Émilion, Bordeaux: Édition Sud Ouest, 2010(以下,ルベーグ)

には,エミリアヌスとあり,仏語版ウィキペディアにも同様の情報があるが,であれば,ラテン語の元の形はアエミリアヌスであろう.大体エミリアヌスがラテン語なら,フランス語ではエミリアンになるのではないだろうか.

 しかし,既に8世紀の人物なので,古典ラテン語の綴りや発音にこだわる必要もないであろう.一応,聖エミリオンとしておく.ブルターニュ出身の隠修士で,この地にやってきて洞穴での平穏な修道生活を送ったとのことである.

 彼が暮らしたとされる「洞穴」を実際に見ることができた.地下に降りた空間で,「洞穴」は正確な言い方ではないが,このあたりは,石灰岩を切り出して,周辺地域の家を建てるのに使ったようで,石を切り出した地下空間がたくさんあるらしい.その中の一つで,聖エミリオンは修道生活を送ったと考えて良いのだろう.


モノリト教会
 現地ガイドの案内で,最初に上述のエミリオンの隠遁所(エルミタージュ),その後,トリニテ礼拝堂,石切り場を利用した地下墓室,モノリト教会を見てまわった.これらの場所は一般公開されておらず,ガイド付きツァーによってのみ見学できる.

 モノリト教会は, フランス語では,エグリーズ・モノリト,英語ではmonolithic churchで,それぞれウィキペディアに立項されている.日本語の案内書では英語式に「モノリス」と称する場合もあるようだ.

 モノスはギリシア語で「一つだけの」,リトスは「石」で,複数の石を積み上げたり,組み合わせたりせずに,大きな石灰岩塊をくりぬいてつくられたので,そのように言うようだ.英語の辞書にはmonolithが登録され,一枚岩の石柱,記念碑などの意味としている.monolithicと言う形容詞形もある.

 仏語版ウィキペディアは簡単な説明と個々の教会へのリンクだが,英語版はそれよりは詳細で多少の情報が得られる.アルメニア,エチオピア,ブルガリア,フィンランドに「モノリト」の有名な教会や修道院があり,日本でも良く知られているカッパドキアの教会群もこれにあたるようだ.フランスに関しても,サンテミリオンの他に教会が1つ,礼拝堂が2つ紹介されている.

写真:
モノリト教会の鐘楼
角度は異なるが,
下の写真に続く
写真:
石灰岩を刳りぬいて
作られたモノリト教会
この上に鐘楼が建っている


 残念なことに,ゴシック期のポルターユとタンパンは修復中で,目の細かい網と足場のせいで見ることができなかった.厳密に言えば網の間から覗いて,足場の間のところどころは見えたのだが,これは見たうちに入らないだろう.ルベーグに拠れば,タンパンの浮彫は「最後の審判」と「死者たちの復活」とのことだ.14世紀の作品なので,ゴシック期の浮彫と言うことになる.

 教会の上に聳える鐘楼は見事なものだが,もちろんこれは一枚岩ではない.

 モノリト教会の後陣部分に興味深い浮彫があった.写真で紹介したいところだが,ガイドツァーで見学できる場所は全て撮影禁止だったので,自分で撮った写真はない.ウィキペディア,ウィキメディア・コモンズにも画像はなかったが,画像検索で,この浮彫の写真を見つけた.

 現地ガイドの説明では,怪物と戦っているのは「龍と戦うゲオルギウス」,ヴァイオリンを奏しているの「ダヴィデ」とのことであった.それぞれ根拠のある見解だが,あまり納得が行かなかった.ルベーグにこの浮彫を写真付きで紹介したコラムがあるが,ゲオルギウスとダヴィデへの言及は無く,諸説あって定めがたいとの趣旨と理解した.

 教会の後陣にある浮彫なので,聖書に関連があると推測するが,別の場所にあれば,特にキリスト教主題と考えなくても良いであろう.

 ヴァイオリンのような弦楽器を弾いている男性像は,古拙な魅力に溢れていた.堂内には多くのフレスコ画があったらしいが,フランス革命後,硝石の工場として利用されていて,ほとんどの絵は消滅してしまったとのことだ(ルベーグ,p.13).


参事会教会,トリニテ礼拝堂
 修復の覆いの隙間から覗いたモノリト教会のポルターユよりも,比較的じっくり見ることができた参事会教会のポルターユの方が印象に残っているのは当然のことだろう.

 モノリト教会は全体がゴシック的だが,こちらはポルターユがそうであるように,ロマネスクの特徴が見られ,シンプルで力強く,魅力的だ.14世紀の回廊(一番下の写真)も良く見ると尖頭アーチだがロマネスクの半円アーチを思わせるものもあり,それと向かい合うアーチは明確に尖頭アーチ)で,装飾も含めゴシック的なのと対照的に思える.

写真:
参事会教会
ポルターユ


 アウグスティヌス(フランス語ではオギュスタン)修道会の修道参事会の教会として創建されたが,現在はこの地域の教区教会である(仏語版ウィキペディア).

 12世紀の創建なので,オリジナルにはロマネスク教会であっただろうが,完成したのは16世紀で,ゴシックやルネサンスの要素が混じっていると思われる.具体的にルネサンスの痕跡がどこにあるかは撮ってきた写真を見てもわからないが,交差リヴ・ヴォールト,尖頭アーチ,三つ葉模様,四つ葉模様,火炎装飾などは,明らかにゴシックの遺産であろう.

 堂内には,油彩画と思われる祭壇画もあるが,絵の様子から見ると,バロック以降のものと思われる.しかし,情報が全く得られていないので,誰がいつ描いたものかは今のところ不明だ.

写真:
色鮮やかな
フレスコ画断片
「聖カタリナの物語」


 堂内に複数残るフレスコ画はロマネスク期のものと思いたい.ルベーグにはこのフレスコ画「聖カタリナの物語」の写真を載せたコラムがあるが,制作時期の情報はない.しかし,上の写真の向かって左側にある付け柱に描かれた聖母(頭上に省略形でサンクタ・マリアとある)の衣装が12世紀風であるとの言及があり,よく読むと本文に「13世紀の壁画」とあった.

 別の場所には,ヨハネと聖母を左右に配した磔刑図のフレスコ画もある.制作時はゴシックの時期に入っているが,ロマネスクの遺産と思いたい.

写真:
トリニテ礼拝堂後陣


 トリニテ礼拝堂(シャペル・ド・ラ・トリニテ)に関しては,仏語版ウィキペディアにもまだ立項されておらず(もしくは立項はされているが,記載がない.2015年12月5日閲覧),ルベーグが参照できる唯一の資料だ.

 それに拠れば13世紀の創建で,内部は尖頭アーチやリブ・ヴォールトなどゴシック様式だ,ただ,後陣に残っているフレスコ画はロマネスク風に見えた.撮影禁止で,ルベーグにも詳しい紹介はないので,残念ながらこれ以上はわからない.

 グーグルの画像検索で,何が描いてあるかかろうじてわかる写真が見つかる.「聖母子」と「キリスト磔刑」はよくわかるが,その他は描かれている内容を理解するに至っていない.現地ガイドの人が説明してくれたのに,聞き逃したかも知れない.

 フランス語でこの礼拝堂を詳しく紹介したウェブページを妻が見つけてくれた.それに拠れば,この後陣半穹窿のフレスコ画は,5つの区画に別れ,中央は「4福音史家の象徴物に囲まれた荘厳のキリスト」で,そこから向かって右に「聖母子」,「磔刑」となり,「荘厳のキリスト」から左側に「洗礼者ヨハネ」,「神に選ばれた人を聖人に紹介する天使」とのことで,うち4面の下部に怪物が描かれている.また,ほぼ消えているが,後陣の向かって右の壁に「僧衣をまとった聖人」,右に「クリストフォルスの肩に乗ったキリスト」が描かれているとのことだ.

 このページからは,トリニテ礼拝堂に関する,相当量の情報が得られる.大学の2年生までのたった2年間であっても,フランス語を多少なりとも学んだことは,やはり意味があると思われる(ちなみに,このページの場合は表示言語を選択できるようになっており,英語でも読める).


世界遺産となった中世の町
 サンテミリオンは,現在の(2012年の統計)人口が2000人に満たない小さな町だが,ワインで栄え,自治組織であるラ・ジュラード(仏語版ウィキペディア「サンテミリオン」に詳しい説明)もよく知られており,風格としては歴史遺産の街と言っても良いであろう.

 ドメニコ会修道院跡や,フランチェスコ会のフランスにおける会派コルドリエ会の修道院跡などは,自由時間に外観だけの見学にとどまった.特に後者の回廊(英語版仏語版ウィキペディア)は有名な建築らしく,見られなくて残念だ.

写真:
ラ・カデーヌ門


 上の写真のラ・カデーヌ門は13世紀の建造で,尖頭アーチになっているので,ゴシックの遺産だ.

 この門に下の通りの名前もラ・カデーヌ通りであるが,名前の元は,見張りの番人がここにかけた「鎖」に由来すると考えられているようだ.英語のchainの語源は多分フランス語のシェーヌ(chaine)であろう.それをさらに遡るとラテン語のカテーナ(catena)に行く着く.現代のフランス語のシェーヌよりもカデーヌの方が語形的にもラテン語に近いように思える.

 街をじっくり観光した後,シャトー・カンテナックを見学した.フランス語ではワインのボルドー地方のワイン醸造所を,「城」を意味するシャトーと称する(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』の4b).ここで,試飲したうえでワインを2本購入した.しかるべき記念日を迎えるまで,茅屋で待機中である.






ゴシックだがロマネスクの遺風も感じさせる
サンテミリオン参事会教会の回廊