フィレンツェだより番外篇
2015年11月28日



 




「ニオベの子供たち」(部分)
ヴェネツィア,考古学博物館



§2015 ヴェネツィアの旅 - その12 石棺

ヴェネツィア篇で,石棺について言及できるとは思っていなかったが,初めて考古学博物館を見学し,複数の古代石棺を鑑賞することができたので,その感想を述べさせてもらう.


 その前にひとつ,考古学博物館以外の場所で見ることができた石棺を紹介する.下の写真はザニポロ聖堂のファサードにある4つの石棺の1つである.

写真:
元首ヤコポ・ティエポロと
元首ロレンツォ・ティエポロ
親子の墓碑
ザニポロ聖堂ファサード


 4つの石棺は,向かって左からマリーノ・モロシーニ(英語版伊語版ウィキペディア),ヤコポ・ティエポロ(英語版伊語版ウィキペディア)とロレンツォ・ティエポロ(英語版伊語版ウィキペディア)親子,マルコ・ミキエーリ,ダニエーレ・ブオーノとピエトロ・ブオーノ兄弟のもので,モロシーニとティエポロ親子は元首を務めた人物のようだ.

 モロシーニの元首在位は1249年から1253年まで,ヤコポ・ティエポロは1229年から1249年,息子のロレンツォは1268年から1275年まで元首を務めたので,いずれも13世紀の元首と言うことになる.

 ファサードは確かに教会の重要な部分かもしれないが,遺体が入っているのかどうかわからないが,元首だった人物の石棺が,言ってみれば「雨ざらし」になっていることに驚く.

 モロシーニ家からは12世紀,14世紀,17世紀に元首が出たので,計4人の元首を出した家柄ということになる.ティエポロ家は,18世紀の画家のティエポロとの関係は不明だが,少なくとも13世紀に2人の元首を出し,12世紀から14世紀までに4人の元首を出したダンドロ家とともに,当時は名門の家柄だったと思われる.


「ヘラクレスとオンパレ」
 さて,ここからは考古学博物館で観た石棺について報告する.下の写真は,博物館の説明パネルで「ヘラクレスとオンパレ」と紹介されていた石棺パネル断片だ.

 ヘラクレスの浮彫のある石棺パネルは今まで,幾つか見ているが,前頭部が禿げ上がった,中年感に満ちたヘラクレスを見たのは多分初めてだと思う.棍棒とライオンの毛皮を持っているので,ヘラクレスに間違いないだろう.

 一方,女性には何のアトリビュートもないのに,メガラでもデイアネイラでもなく,オンパレとされるのは,なぜだろうか.

 エルミタージュ美術館でオンパレと思われる古代の立像(ギリシア彫刻のローマ時代のコピー)を見ているが,その女性像はヘラクレスのアトリビュートである棍棒を持ち,ライオンの毛皮をまとっていたので,オンパレと判断する根拠はあった.

写真:
石棺パネル断片
「ヘラクレスとオンパレ」
考古学博物館


 オンパレは,奴隷として購入した男がヘラクレスと知り,結婚して子をなしたとされる.二人のポーズにどこかエロティックな雰囲気が漂っていることから,間にいる有翼の幼児をエロスと考えて,オンパレを思わせるのだろうと想像する.現に私も,説明パネル読む前にヘラクレスとオンパレではないかと思った.

 二人の間に生まれたアゲラオンはリュディア王家の祖先となる.

 ヘロドトス『歴史』にも,前王朝に代わって王位に就いたギュゲスからクロイソスに至る代々のリュディア王がヘラクレスの子孫であるとの言及があるが,オンパレの子孫とまでは言っていない.おそらくヘロドトスの時代には言うまでもないような伝承だったのかも知れないが,リュディアが滅びてしまい,その記録が残っていない以上,あくまでもギリシア側の伝承に過ぎない.



 オンパレの図像について,もう少し考えてみる.

 石棺のパネルかどうかはわかないが,「ヘラクレスとオンパレ」を中心に周囲に「十二の功業」を配した浮彫パネルがナポリの国立考古学博物館にあり,英語版ウィキペディアの「オンパレ」からたどり着くウィキメディア・コモンズで写真を確認できる.

 そちらはオンパレの方が若いヘラクレスの肩に手をかけており,オンパレの上半身は裸で,腰の周りの衣を右手で押さえている.

 ヴェネツィアの石棺断片の方は,上半身は裸体ではないが,薄衣で体の線が見え,同じく腰のところで衣を右手で押さえている.両者ともその手の下に局部があるのは,性的誘いの表現かも知れない.

 右手がこのポジションで,左手が胸を隠していれば「羞恥のヴィーナス」(ウェヌス・プディカ)のポーズだ.

 ナポリの浮彫ではオンパレが若いヘラクレスの肩に手を置き,ヴェネツィアの石棺パネルでは中年のヘラクレスがオンパレの肩に手を置いているのは,ヘラクレスの姿に表わされた年齢の点から,片やオンパレに,片やヘラクレスに主導権があるということのようにも思える.

 別の見方もできる.ヴェネツィアの石棺断片では,オンパレの肩に伸ばしたヘラクレスの右腕に彼女の左手がかかっていて,隠れた主導権が,やはり主人であるオンパレにあるというようにも見える.

 いずれにしても,この人間関係からはメガラやデイアネイラではなく,この女性はオンパレとの推定がなされるということであろう.ナポリの浮彫にはエロスと思われる有翼の幼児は登場しない.

 英語版のウィキペディア「オンパレ」に,部分の写真が掲載され,そこからたどれるウィキメディア・コモンズで,スペインのバレンシア自治州から出土した床モザイクの写真を見ることができる.ここでも中央パネルは「ヘラクレスとオンパレ」で,周囲は「十二の功業」である.

 この中央パネルでは,オンパレはライオンの毛皮を被り,玉座に座って棍棒を持ち,ヘラクレスは糸巻きを持って立っている.

 このような図像は,「アレクサンドレイア時代の芸術家の嗜好にかなったか,彼らはヘーラクレースは女装して,糸をつむぐ女の仕事を行ない,オムパレーはヘーラクレースの棍棒をもち,そのライオンの毛皮を身に纏って,男のまねをしている有様を主題にして歌っている」(高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店,1960,pp.88-89)との説明を思わせる.

 マドリッドの国立考古学博物館が所蔵しているこのモザイクで,ヘラクレスは女装していないが,ヘレニズム時代の詩人の作品を根拠に,こうしたモザイクが,ローマ時代に属州ヒスパニアで制作されたものと思われる.

 まだ,確定的な証拠は挙げられないが,こうした類例があるのであれば,やはりこのヴェネツィアの石棺パネルは「ヘラクレスとオンパレ」であろう.博物館の説明パネルに拠れば,紀元後1世紀制作とのことだ.


「クレオビスとビトンの物語」
 2人の若者が女性の乗る荷車を牽いている場面を見れば,古典に関心のある者が真っ先に思いつくのは「クレオビスとビトン」の話だろう.ヘロドトス『歴史』で,賢人ソロンがリュディア王クロイソスに語る「世界中で二番目に幸せな者」として名前の挙がった兄弟の物語だ.

 2013年の3月1日に,ローマのディオクレティアヌス浴場跡の考古学博物館のある旧修道院の回廊で,この物語の浮彫のある墓碑を見ており,そのことは以前報告した.牛車に乗っている母を牛の代わりに牽いて祭礼に向かう場面が描かれている墓碑だった.

 今回,考古学博物館で見ることができた石棺パネル(下の写真)には,より詳細な物語が彫り込まれていて驚く.親孝行な息子たちと,そうした立派な子供を産み育てた母親の幸福な家族の物語は墓碑や石棺にふさわしい題材と言えるだろう.しかし,類例が多いかどうかは調べていない.

写真:石棺パネル「クレオビスとビトンの物語」,考古学博物館


 向かって左端は,牛車を牽いている若者たちで,この場合役目を果たしていない牛も彫り込まれているのが可笑しい.中央は人々が称賛した立派な息子たちに「人間として得られる最善のもの」を与えてくれるよう女神ヘラに祈っている母なのは間違いないだろう.

 彼らに与えられた「最善のもの」が「死」であったことを示しているのが,祭壇の足元ででうつ伏せに倒れている2人の若者の姿であろう.祭壇の右にいる女性は衣が風を孕んでいるので,ヘラの使者である虹の女神イリスであろうと想像する.

 右の2場面は「馬を馴らす」ほど立派に成長していた若者たちと,彼らが幼児の頃,母親に甘えていた姿と想像したい.

 「死」の受容と,幸福な「家族」を2つながら主題とした,石棺にふさわしい浮彫と思いたい.参考書がないので,以上は私の想像なので,当たるも八卦当たらぬも八卦であろう.


「ニオベの物語」
 古典ギリシア文学にホメロスより古い作家はいない.それ以前に口承されていた題材を使っているとは言え,叙事詩『イリアス』,『オデュッセイア』をホメロスという詩人が創作したとすれば,あるいはそれぞれが別の詩人の作品だとしても,『イリアス』が『オデュッセイア』に先行していると考えられている.

 つまり,現存する作品で見る限り,『イリアス』が古典ギリシア文学最古の作品と言うことになる.

 「ニオベの物語」は『イリアス』の最終巻24巻で語られている.

 息子ヘクトルの遺体を引き取りに来たトロイアの老王プリアモスに,ギリシア一の英雄アキレウスがかける慰めながら食事に誘う言葉の中で,要約すると,

 ニオベは息子6人,娘6人の計12人の子を失った
 男の子はアポロンが,女の子はアルテミスが矢で射殺した
 ニオベがアポロンとアルテミスの母レトはよりも多産な自分を自慢したことが理由
 子供たちは葬られることもなく石になって放置されたが,十日目に神々が葬った
 ニオベはシピュロスの山上でで岩と化して,今も悲運を嚙み締めている

(松平千秋訳『イリアス』下,岩波文庫,1992,pp.407-408)

という内容で,私たちがよく知っているニオベの物語のほぼ全容が既にこの中に現れている.

 アキレウスがこれを語った趣旨は,そのニオベですら,「泣き疲れるとやはり食事のことを思った」ので,自分たちも食事をしようというもので,本筋とは無関係であり,そのせいか,この箇所は後世の挿入であるとする説も有力である.

 ウフィッツィ美術館の一室に,巨大なニオベ像を始めとして,彼女の子供たちとされる古代彫刻を集めた部屋があり,何度も見学した.ローマのマッシモ宮殿国立考古学博物館では,おそらくギリシアのオリジナル作品とされる「ニオベの娘」の彫刻を見ている.


写真:「ニオベの子供たちの虐殺」,考古学博物館


 この石棺パネルは,個々の人物造形の巧拙はともかく,全体のまとまり感が見事に思え,非現実的な物語に人間の悲しみを託しているような群像表現として,よくできていると思われる.博物館のプレートに拠れば,紀元後2世紀後半のローマの工房で制作されたと推定されているようだ.

 驕慢に陥って過ちを犯しながらも,理不尽な不幸に耐えて,それでも生きる人間の定めのようなものをこの図像に感じる.こうしたモチーフをローマ人が好んだのかどうかはわからないが,パエトンの失墜とか,ニオベの悲嘆のような石棺パネルの主題を見ると,そう考えずにはいられない.


「ペルセポネ(プロセルピナ)の誘拐」
 下の写真の石棺パネルでは,有翼ではない2人の幼児が持つ花綱(ガーランド/ギルランダ)の中に,馬車の上でペルセポネ(プロセルピナ)を抱えるハデス(プルト),疾駆する馬,それを先導するかのような男性の後ろ姿が見える.

 誘拐されたペルセポネはハデスが食べさせた石榴の実のせいで,地上にずっととどまることができなくなり,冥界の女王となるが,食べた実が少なかったので地上で母と暮らせる期間も持てることになり,その間はデメテルの悲しみも静まって,世界にはまた実りが戻ってくる.季節の起源譚とされる物語だ.

写真:
石棺パネル断片
「ペルセポネの誘拐」場面
考古学博物館


 ところで,右端の男性に関して,咄嗟に思いつくのはヘルメス(メルクリウス)だったが,一連の物語の中でヘルメスが登場するのは,「ホメロス風讃歌」と称される古代小叙事詩群の中の『デメテル讃歌』である.

 ペルセポネの母デメテル(ケレス)は農業と穀物を司る大地母神であり,誘拐を知った彼女の怒りと悲しみによって,世界に不作と飢餓が蔓延したため,危機感を感じたゼウスは使者ヘルメスに
命じて,ハデスを説得して,ペルセポネを地上に連れ戻させる.

 この石棺パネルの場面は明らかに「誘拐」が実行されている最中で,であれば,まだヘルメスの出番ではないのだが,それ以外に思いつかない.

 「ペルセポネ(プロセルピナ)の誘拐」の浮彫のある石棺は,他にもあると思うが,ウェブ検索(prosepina sarcofagoで検索)で最初にヒットするのが,「ラッファダーリの石棺」の伊語版ウィキペディアのページだ.シチリアのアグリジェント県ラッファダーリで出土して,同地のマードレ・ディ・サンタ・オリーヴァ教会に置かれており,メルクリオ(メルクリウス=ヘルメス)がいると説明されているが写真はない.

 ラッファダーリで検索してヒットしたB&Bのホームページをたどって,この石棺の写真を見つけた.パネル中央で,デメテルが保護しているプロセルピナをハデスがさらおうとしているように見え,馬の先に,帽子と杖のアトリビュートで明らかにヘルメスに見える人物がいて,さらに右側に多分アテナと思われる女性がいる.

 左端に松明を持って馬車に乗る女性がおり,3人ではなく1人であることを考えると迷うが,冥界との関係から考えると「復讐の女神たち」(エリニュエス)の1人(エリニュス)であろうか.中央で,馬の向こうから若い女性に手を伸ばす有髯の男性はハデスであろう.馬車の形ははっきりしないが,馬の奥に見える女性と有翼の幼児はアプロディテ(ウェヌス)とエロス(クピド)と思われる.

 「il ratto di proserpina sarcofago」でウェブ検索すると,ウフィッツィ美術館所蔵とされる類似作品の写真が見られる.この石棺パネルでは(向かって)左から,有翼の女性(イリスか),松明を持って蛇の牽く車に乗る女性(エリニュスか),デメテル,アテナ,馬車に乗ってペルセポネをさらうハデス,馬の鼻先にいるヘルメスの順で彫り込まれている.ここまで類例があれば,ヴェネツィアの石棺パネル断片に登場するのもヘルメスで間違いないだろう.

 ラッファダーリの石棺について説明している伊語版ウィキペディアでは紀元後2世紀後半の作品とされており,同時代の作品と思われるヴェネツィアの石棺断片とはずいぶん雰囲気が違うので,こちらにもヘルメスが登場しているとは断言できないが,それ以外に思いつかない.


神話以外が主題の作品
 博物館のプレートに拠れば,下の断片は紀元後3世紀初めの作品で,ローマで出土し,1587年にジョヴァンニ・グリマーニのコレクションに入ったとのことだ.

写真:
「海戦」の石棺断片
考古学博物館


 類似の石棺があるか,「sarcofago battglia navi」で画像検索してみたが,この石棺断片の写真を載せたページが1つヒットしただけで,似たような石棺パネルは見当たらない.そのページには,この石棺は紀元後2世紀のものとしていた.

写真:
「リュサンドラの墓碑」
考古学博物館


 上の写真は,石棺ではなく墓碑であるが,博物館のプレートによれば,紀元前2世紀後半の小アジア地方の工房で制作されたものだ.

 右上に「リュサンドラ」というギリシア文字が見える.ある人物が「妻」リュサンドラの死に際して作らせたものと読み取れる.現在はトルコ共和国に属するスミュルナで出土し,グリマーニのコレクションとなっていたとのことだ.

 墓碑や石棺は,ローマ時代のものであっても,ほとんど全てがオリジナルであろうが,紀元前2世紀でヘレニズム時代とはいえ,ギリシア人の墓碑も見ることができた.ポンペイウスやカラカラの胸像,ミトラ像,興味深い石板等,数は多いとはいえないが,見応えがあり,時間があれば,ヴェネツィアの考古学博物館は,是非,じっくり見学したいスポットである.

 2015年3月のヴェネツィア篇は今回で終了し,次回から8月に行ったフランス中南部の旅について,報告する






心強い味方だった帽子よ 有難う さようなら
2015.3.16 雨のムラーノ島