フィレンツェだより番外篇
2015年11月23日



 




マンテーニャ 「聖母被昇天」(部分)
エレミターニ教会 パドヴァ



§2015 ヴェネツィアの旅 - その11 小遠足

ツァーには,日帰りで同じヴェネト州のパドヴァとヴィチェンツァに行き,ジョット,マンテーニャ,パッラーディオの作品を一日で鑑賞しようという欲張った企画が組まれていた.しかし,実のところ,私が一番楽しみにしていたのは,パドヴァ市立博物館の見学だった.


 市立博物館には2007年に一度行っている.当時よりも,古代の陶器画について少し知識が増し,関心も高まった今,考古学コレクションを堪能した上で,グァリエント,ミケーレ・ジャンボーノなどの中世からルネサンス初期の画家の作品をじっくりと観て,余裕を持って16世紀以降の作品を鑑賞したいと思った.

写真:
水上タクシーで
トロンケットまで行き
そこからバスでパドヴァへ


 ヴェネツィア本島に車は入れないので,バスに乗るには少し離れたところにある駐車場まで移動しなくてはならない.主な駐車場は2つ,鉄道駅サンタ・ルチーア駅の近くにあるローマ広場(ピアッツァーレ・ローマ)と,トロンケットだ.

 トロンケット(英語版伊語版ウィキペディア)は,ヴェネツィア本島西端に1960年代に造られた人口の島で,こことローマ広場を結ぶ英語名の交通機関(所要時間3分のケーブルカーの一種だが写真ではモノレールのように見える)(英語版伊語版ウィキペディア)もある.今回は水上タクシーでトロンケットまで行き,ここで観光バスに乗って,パドヴァに向かった.


パドヴァ市立博物館
 写真については前回同様,撮影不可だったし,せわしない見学だったので,不全感は残ったが,ある程度ポイントを押さえて鑑賞できたと思う.

 グァリエントの天使たち(一例),ミケーレ・ジャンボーノの聖人たち,何といっても前回は前以て知識が無かったので,おざなりに見てしまったフランチェスコ・スクァルチョーネ(英語版伊語版ウィキペディア)の多翼祭壇画「聖ヒエロニュムスと聖人たち」を意識して観ることができた.

 スクァルチョーネの祭壇画(リンクしたウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真はヒエロニュムスの顔が随分修復してあるように見えるが,実際はどうだったか思い出せない)は,素人目には決して上手な絵とは思えない.

 しかし,彼の工房からはアンドレア・マンテーニャとマルコ・ゾッポが出た上,ヴィンチェンツォ・フォッパ,コスメ・トゥーラ,カルロ・クリヴェッリがそこで修業や仕事をした可能性がある.ドナテッロのパドヴァでの活動を契機として北イタリアにも広がったルネサンス芸術の最初期を支えたのがスクァルチョーネ工房で,そこに北イタリアのルネサンスを創って行った画家たちがいたことを思うと,たとえ,親方の実力がそれほどとは思えなくて,襟を正して観るべき絵であろう.

 今回も特に作品自体に感銘は受けなかった.次回があればだが,次回はもう少し丁寧に見られればと思う.

 ミケーレ・ジャンボーノの作品は写真で見るとそうでもないが,その場ではすごく良い作品を観ることができたように思えた.「眼福」と言う言葉を仏教美術専攻の同僚から教えてもらったが,まさに眼福のように思えた.

 写真で見ても,現場で観ても心打たれるのがグァリエントの天使たちで,これは素晴らしいと思う.彼は多分,天才だったのだろう.


3度目のスクロヴェーニ礼拝堂
 昨年に続き,これで計3度目のスクロヴェーニ礼拝堂だ.相変わらず,言葉もない.ジョットに偉大さに圧倒されるばかりだ.

 英語版伊語版ウィキペディアのリンクを貼っておく.英語版が簡潔でわかりやすいが,伊語版には,ジョット作とされる個々の場面の絵を解説したページへにリンクする写真付き一覧表がついていて,すぐれものである.

写真:
ガイドさんの後について
前方のスクロヴェーニ
礼拝堂に向かって歩く


 同じツァーに参加されている方から,90年代にスクロヴェーニを訪れた時の様子をお聞きした.相当様子が変わっているようで,驚いておられた.90年代以降に大規模な修復をしたのだろう.

 渡辺晋輔『ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂』小学館,2005(以下,渡辺)

には,スクロヴェーニ礼拝堂(渡辺にはところどころ「聖堂」とある)は2001年から2002年に修復されたとある.私たちが初めてスクロヴェーニに行ったのは2007年で,修復以後である.渡辺が使用している写真は,修復以前のものだそうだが,十分美しい.それでも,90年代に見学された方の話では,すごく印象が変わっているということなので,やはり大掛かりな修復がなされたのであろう.

同年の出版だが,書架に,

 Gianfranco Malafarina, La Cappella degli Scrovegni a Padova, Modena: Franco Cosimo Panini, 2005(以下,マラファリーナ)

がある.この本の写真が修復以後のものかどうかははっきりしないが,たとえば「キリスト哀悼」の写真を比べると,聖母の衣の青色がマラファリーナの方がはっきりとした「ジョットの青」であり,渡辺の写真は鮮明な青には見えない.伊語版ウィキペディアに掲載されている写真(詳細ページのテクストはドイツ語になっているが)は渡辺に近い.と言うことは渡辺の印刷が問題なのではなく,確かにこの色だった時期があると言うことだろうと推測する.

 ただ,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにある3種類の関連写真()を見ると,聖母の衣は1は渡辺やウィキペディアに近く,2,3ははっきりと「青」に見える.これは「見える」ということで,はっきりそうだとは言えないので,やはり色の問題は難しいと思う.

 ただ,ジョットの場合,特にスクロヴェーニ礼拝堂では,「青」が重要な意味を持っていることは間違いないだろうから,修復のポイントもかなりの部分は,ここに意味があったのではないかと思う.

 「博士たちの間のイエス」(渡辺では「少年イエスと学者たち」)の場面に写真を比べると,マラファリーナの写真は渡辺のそれよりも新しいように思う.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真はやはり渡辺よりも新しく見える.


エレミターニ教会
 エレミターニ教会(英語版伊語版ウィキペディア)も3回目だが,グアリエントとマンテーニャのフレスコ画以外に,何があるのか把握しきれていない.アメリカ・アマゾンで,

 Anna Maria Spiazzi, La Chiesa degli Eremitani a Padova, Milano: Electa, 1991(以下,スピアッツィ)

の古書を購入したが,オヴェターリ礼拝堂(英語版伊語版ウィキペディア)のマンテーニャのフレスコ画に関しては詳しい情報があるが,明らかに触れられていない作品も多く,残念ながら,今回はそれほど役に立っていない.

 スピアッツィに紹介されているメナブオイのフレスコ画は確認できていない.メナブオイは初めてパドヴァに来た時に大聖堂の洗礼堂で見事なフレスコ画を見て以来,ほとんど作例に出会わない画家である.エレミターニ堂内のフレスコ画断片にはずっと興味を惹かれていて,写真もそこそこ撮れているのに,残念なことだ.

 ただ,現地で写真を撮ってきたプレートに書かれている説明によって,中央礼拝堂の左隣のサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ礼拝堂(別名サングィナッチ礼拝堂)に,メナブオイが作者である可能性のフレスコ画があることは確認している.

 礼拝堂の右側壁面上部は,名前が伝わらない14世紀前半の画家のフレスコ画「聖母子と聖人たち」で,その下の「玉座の聖母子と聖人たち,および寄進者」のフレスコ画がメナブオイ作の可能性があるとのことだ.左端にいる剣を持った人物が寄進者でエンリーコ・スピッセル(現代ドイツ語風の発音だとハインリッヒ・シュピッサーだろうか)というカッラーラ家に仕えたドイツ人とのことだ.

 しかし,このフレスコ画は,撮ってきた写真で見ても,剥落が進んでいて,メナブオイ作という確信が持てるような立派な絵には見えない.

 その反対側の壁面にもフレスコ画があるが,作者はわからない.そのフレスコ画に被さって設置された石棺付きの墓碑は,礼拝堂の別名のもととなったイラーリオ・サングィナッチのもので,1381年に亡くなった,フィレンツェとボローニャでポデスタ(英語版伊語版ウィキペディア)と言う名称の,他都市出身の行政長官を務めた人物とされる.



 ウェブページなどで見られる写真を参照しつつ,記憶を辿ると,この教会は,これをバジリカ式と言うかどうかは確信がないが,ラテン十字型でも,T型十字型でもない,細長い単廊式の教会である.

 中央礼拝堂に向かって左にはサングィナッチ礼拝堂,右にはフランチェスコ・ドットの墓碑があるドット礼拝堂があり,ドット礼拝堂のさらに右側にもう一つ,マンテーニャの作品で知られるオヴェターリ礼拝堂がある(左はサングィナッチ礼拝堂のみ).

 オヴェターリ礼拝堂は翼廊というよりは,右側壁につけたした感じで,それは,右側壁にある幾つかの礼拝堂にも同じことが言える.左側壁の外は修道院の回廊で,修道院が現在市立博物館になっているように見える.

 伊語版ウィキペディアに拠れば,聖具室もあり,ここにはグイド・レーニの絵もあるとされるが,もちろん未見で,聖具室がどこだったかも確認していない.以前の報告ページの写真を確認すると,サングィナッチ礼拝堂の手前の側壁にポルターユ型の大理石装飾で囲まれた木製扉があるので,その先が聖具室なのであろうと想像する.

 右側壁に幾つか付された礼拝堂の1つが,コルテッリエーリ礼拝堂で,そこに上述のメナブオイが描いた「諸徳の像」があるようだ.スピアッツィに掲載(p.13)されている写真を見ると,ジョットの描く人物像の輪郭がぼんやりとなって,丸顔になったような女性二人の絵で,2007年に同じパドヴァの大聖堂隣の洗礼堂で観たメナブオイの作品の特徴が表れているように思える.

 今まであまり気にしていなかったが,伊語版ウィキペディアのメナブオイのページ(英語版はほとんど情報がないが,伊語版は詳細)から写真を見ることができる.スピアッツィには2人の写真しかないが,伊語版ウィキペディアの写真は顔が不完全な1人を踏まえて4人の写真と周辺の剥落したフレスコ画が見られる.

 ほとんどの礼拝堂を除き,断片的フレスコ画と墓碑はほとんど写真に収めたつもりだったが,このコルテッリエーリ礼拝堂とメネブオイのフレスコ画に関しては写真も撮っていないし,どこにあったのかすら確認ができない.

 3度見た教会で,採光も比較的良く,自由に見させてもらっているのに全体像が把握しきれていないのは大変残念だ.

 エレミターニは,第二次大戦の爆撃で破損したマンテーニャのフレスコ画は,破損してなお見事だし,奇跡的に保存の良いグアリエントのフレスコ画も立派だ.3回も拝観していながら,今更だが,それらの作品を繰り返し鑑賞することはもちろんのこと,それ以外の堂内すべての礼拝堂,全ての墓碑,すべてのフレスコ画をきちんと把握できるような拝観が今後の課題だ.

写真:
墓碑
エレミターニ教会


 教会の壁面に見られる墓碑については,ザニポロ聖堂で見事なものを観て,一層関心を深めたが,エレミターニ教会の墓碑も独特だ.

 上の写真の墓碑の作者がボニーノ・ダ・カンピオーネ(英語版伊語版ウィキペディア)であり,中央の聖母子のフレスコ画の作者がステファノ・ダ・フェッラーラ(英語版伊語版ウィキペディア)であるとの情報がある.

 ボニーノ・ダ・カンピオーネに作品としては,今までミラノのスフォルツェスコ博物館で「ベルナルボ・ヴィスコンティ騎馬像」を観ており,簡単な報告を以前している.

 ステファノ・ダ・フェッラーラという画家に関しては初めて聞くが,伊語版ウィキペディアに拠れば,最初の活動記録が1349年,最後の記録が1376年で,ステファノ・ディ・ベネデットとも称されるようで,であれば父の名がベネデットで,出身はフェッラーラと言うことであろう.

 この墓碑には壁龕に2点,そして屋根の両端と中央に3点の彩色彫刻があるが,すぐ隣にある墓碑にも似たような彩色彫刻がある.それぞれ墓碑と彩色彫刻には調和が感じられるものの,両方とも同じ作者によるものとは思えない.しかし,情報がないので,「見た」と言う報告にとどめる.



 中央祭壇にある大きな彩色磔刑像の作者に関して,今まで情報を確認していなかったが,ニコレット・セミテコロの作品と考えられているようだ.この画家に関しては,予備知識は全くない.

 リンクした伊語版ウィキペディアは,テクスト内の言及は無いが,ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂(ザニポロ聖堂)の中央礼拝堂の右側壁にある元首ミケーレ・モロシーニ(英語版伊語版ウィキペディア)の墓碑の写真を掲載しており,この一部を構成する「キリスト磔刑と聖人たち,寄進者たち」のモザイクの作者が彼であれば(カッチンの案内書には「トスカーナ派」として,?を付している),全く初めて出会う画家と言うわけではないことになる.

写真:
ニコレット・セミテコロ作?
ミケーレ・モロシーニの墓碑
のモザイク
ヴェネツィア,ザニポロ聖堂
中央祭壇右側壁前方


 そもそも,この磔刑像も少なくとも3度観ているわけだから,「初めて」ではもちろん無いのだが,作者を意識して観たことがなかったので,どうしてもそういう感想を抱く.探すとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも2点写真が掲載され,簡単な伝記も付されている.ヴェネツィアの画家で,1353年から70年までの活動記録があるようだ.

 元首モロシーニは1382年が没年なので,墓碑の制作年はそれ以降であろうから,上記の活動記録の範囲外ということになる.伊語版ウィキペディアのモロシーニの紹介ページには,この墓碑の写真が掲載され,リンクされている写真の解説ページでは,作者はセミテコロとされている.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに写真が掲載されているセミテコロの作品は,いずれもパドヴァ大聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)のサン・セバスティアーノ礼拝堂にあった聖遺物箱の装飾パネルで,4枚が現在聖具室に保管されているとのことだ.

 2007年10月18日に大聖堂を拝観しているが,外観も堂内も新しく,あまり熱心に見ていない.メナブオイのフレスコ画のある洗礼堂はそれが目当てで行ったので,しっかり拝観したが,やはり近くにある司教区博物館は,ロマの青年につきまとわれたこともあり,見学していない.伊語版ウィキペディアに拠れば,セミテコロの聖遺物箱装飾パネルはこちらにあるとされている,

 セミテコロの他にメネブオイの「聖母子」,パオロ・ヴェネツィアーノの「聖母子」などの14世紀絵画,ジョルジョ・スキアヴォーネの「聖人たち」などの15世紀絵画など,興味を魅かれる作品が複数あるようだ.ティエポロの「パオラのフランチェスコ」もあるとのことである.次回,パドヴァに行くことがあれば,是非見学したい.


パドヴァ大学
 パドヴァ大学(英語版伊語版ウィキペディア)は,ボローニャ大学(英語版伊語版ウィキペディア)と並ぶイタリアの名門大学であり,この空間にいられることは,それなりに嬉しい.

 しかし,前回もそうだったが,特に内部は見学していない.ガリレオ・ガリレイが教授職にあり,数学や天文学を教えたことは知識としては知っているが,ここで何か彼の遺した痕跡が見られるわけではないであろう.

写真:
パドヴァ大学


 1222年にボローニャ大学を去った教員団と学生によって創設された.オックスフォードの起源はパリ大学から,ケンブリッジ大学の起源はオックスフォードからの分離とされており,こうした起源は大学にとっては不名誉なことではない.ワセダは慶応から分かれたわけではないが,大隈重信が
学校創設を考えた時点では福沢諭吉の影響を受けていたとされ,京都大学が創設される時には,東京大学とは異なる性格の大学を目指していたと良く言われる.

 大学史を特に勉強したわけではないが,栄枯盛衰はそれぞれあってもワセダは慶応ではなくワセダであり,京大は東大の亜流ではない歴史を歩んでいることを考えると,先行する大学への敬意を持ちつつ,独自性を打ち立てようとする建学は,大学という組織の持つ社会的意義を体現していると思う.

 単にエリート官僚や政治家が育てば良いだけなら,大学はいらないだろう.政治や行政に批判的視点を維持しつつ,学の独立を堅持して,そこで将来の官僚や政治家も学ぶからこそ,社会が客観的視点を保持して,均衡を保つことができる.


カッフェ・ペドロッキ
 カッフェ・ペドロッキ(英語版伊語版ウィキペディア)は,17世紀にヨーロッパ各地でカフェができ始めた頃に,ベルガモ出身のフランチェスコ・ペドロッキが1772年に始めたコーヒー店を起源としている.

 現在の建物は,フランチェスコの息子アントーニオが建築家のジュゼッペ・ヤッペッリ(英語版伊語版ウィキペディア)に設計を依頼して1831年に完成した.

写真:
カッフェ・ペドロッキ
パドヴァ大学側から撮影


 ジュゼッペ・ヤッペッリは,ボローニャ出身の建築家だった父の子としてヴェネツィアで生まれ,ヴェネツィアで亡くなったが,仕事はパドヴァが多かったようである.カフェ・ペドロッキが彼の代表作品のようだ.

 素人目にもネオ・ゴシックと新古典主義の折衷のように見えるが,安定した姿で,決して無節操に組み合わせた感じはない.伊語版ウィキペディアには,彼が手掛けた庭園や公園のリストもある,この方面でも活躍した建築家と言えよう.

 2007年10月にはパドヴァ・カードで2階(イタリア式には1階)を見学できるはずだったが,時間が折り合わず見送った.今回この1階で昼食を取ることができた.私たちもそうだが,他にも観光客が少なくなく,もともとの雰囲気が完全に保持されてきたわけではないだろうが,それでも地元の人たちもここに集い,それなりの雰囲気を感じさせるので,良い体験だったと思う.


パッラーディオの作品
 今回,ヴィチェンツァで見ることができたパッラーディオの作品は,テアトロ・オリンピコと,バジリカおよびそれとシニョーリ広場で向かい合っているロッジャ・デル・カピタニアート,テアトロ・オリンピコ周辺のキエーリカーティ宮殿,それにカーザ・コゴッロ(英語版伊語版ウィキペディア))のみだ.

 前回,カーザ・コゴッロは,テアトロ・オリンピコからサンタ・コローナ教会に移動する途中で興味を引かれて,写真に収めたら,後でパッラーディオ作品と分かった.その時の報告ページでは写真も紹介しておらず,英語版ウィキペディアにリンクしただけだった.

 今回は日本語がとても堪能な現地ガイドの方が紹介し,中庭にも少し入って,中の様子も説明してくださった.仮面の形をしたのぞき穴の写真も撮ることができた.これ自体はパッラーディオの芸術性とはあまり関係がないが,それだけ前回よりも詳しく見ることができた,とは言えるだろう.

 1559年に設計開始とのことなので,見た目にはそれほど古いとは思えないが,自分が生まれる400年も前の建築であることに改めて驚く.フィレンツェで最初に住んだアパートも築400年というのは話半分に聞いていたが,あながち大げさとは言えないだろう.日本で築400年超の民家があれば,それこそ国宝級であろう.パッラーディオという大芸術家の設計でなかったとしても,またイタリアではそれほどめずらしい古さではないとしても,私たちには十分驚嘆に値する.


写真:ゲーテが称賛したカーザ・コゴッロ 左からファサード,中庭,仮面の覗き穴


 この「家」のファサードの初層は,イオニア式柱頭を持つ飾り柱に挟まれたアーチがあり,飾り柱の両側の壁には,縦長長方形(矩形)の開口部がある.この形は,バジリカに見られる,いわゆる「パッラーディオ式窓」(パラディアン・ウィンドウ:電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』でPalladian windoowを引くと「≪主に米≫パラディオ式窓≪中央に広いアーチ型の窓,左右に狭い矩形の窓を配置した大きな窓≫)の形になっているように見える.

 専門的には,この初層はセルリオ様式(セルリアーナ)と考える(福田晴虔『パッラーディオ』鹿島出版会,1979,p.120,以下,福田)ようだ.「セルリアーナ」で立項している伊語版ウィキペディアを参考に自分なりに言い換えると,「左右対称に,楣を冠した開口部が付随するアーチを構成要素とし,アーチと矩形開口部の間に円柱が置かれる」建築構造と考えて良いであろうか.

 「セルリアーナ」からたどれるウィキメディア・コモンズや,画像検索で見られる多くの写真を見比べると,思ったより多様なようだ.アーチと矩形開口部の間にあった円柱が,矩形開口部間に置かれる(アーチと両側の矩形開口部からなるユニットが連続し,そのユニット間に円柱がある)と,ヴィチェンツァのバジリカ(一番下の写真)を構成するモティーフになると思われるが,カーザ・コゴッロのファサード初層は,アーチと両側の矩形開口部の間に円柱があるので,「セルリアーナ」なのであろう.

 とすれば,テアトロ・オリンピコの広間(スカモッツィ設計)の,下の写真向かって左側の壁面もセルリアーナと言うことになろうか.写真向かって右側の壁面の左側にも同じような装飾が見られるが,これは円柱が両側の矩形開口部の外側に置かれているので,バジリカと同じタイプと言うことになろう.このモティーフは下の写真の右側の開口部を超えて,さらに右側に連続している.ただし,この部屋の装飾はすべて,寓意像とともに壁面に描かれたフレスコ画である.

写真:
テアトロ・オリンピコの広間

フレスコ画装飾は
フランチェスコ・マッフェイ
英語版伊語版
ウィキペディア)(1637年)


 テアトロ・オリンピコは2度目の見学である.前回も広間や,ブックショップのある部屋のフリーズ(壁と天井の間の蛇腹)の単色のフレスコ画(作者不詳,1595年頃)まで比較的丁寧に見ているが,今回は何を目当てに見たらよいのかと,とまどう.

 イタリア語台本の『オイディプス王』がこの劇場の初演演目だったが,パッラーディオは1585年の劇場の完成を待つことなく既に亡くなっており,弟子筋のスカモッツィが完成させた後だった.

 フリーズのモノクロのフレスコ画には様々な場面が描かれている.こけら落としの『オイディプス王』上演(1585年)の様子,それ以前にヴィチェンツァの人文主義者たちによる文化サークル,アカデミア・オリンピカ主催によってバジリカで上演された,シエナの人文主義者アレッサンドロ・ピッコロミーニ作の喜劇『変わらぬ愛』の場面(1561年),パッラーディオという名前の名付け親であり,保護者であったジャン=ジョルジョ・トリッシーノ作の悲劇『ソフォニスバ』(1562年)の上演時の様子(下の写真).


写真:(向かって)左から『変わらぬ愛』,『ソフォニスバ』,『オイディプス王』上演の様子


 私たちはテアトロ・オリンピコを,新しい建築と感じるが,この劇場を1585年に天正遣欧使節が訪れたと聞くと,俄かにそれが,やはり随分昔にできたものであることに驚く.彼らがこの劇場を訪れた様子も,単色フレスコ画に描かれている.この劇場が完成は,関ケ原の戦いの15年前だった.

 舞台奥には,ローマ時代の劇場を意識した固定背景(福田の用語)があるが,ローマ劇場との顕著な違いは,遠近法と目の錯覚を利用した,奥行き感であろう.

写真:
目の錯覚の種明かし
テアトロ・オリンピコ


 このような工夫は,古代のものではなく,遠近法の洗練を前提としたルネサンスからマニエリスムの時代の特徴と言って良いのではないかと思われる.

 テアトロ・オリンピコは古代を意識した建築ではあるが,多くのルネサンス建築や,後代の新古典主義の建築と同様に,古代と同じものではあり得ない.そもそも,古代の建築も多様なのだから,それを範とするルネサンス建築も多様で,天才的芸術家が創作に関わる以上,個性的で独自なものになるのは理の当然であろう.

写真:
サンタ・マリーア・イン・
フォーロ・デイ・セルヴィ教会
ヴィチェンツァ


 この教会は,前回短時間だが拝観できたので紹介したが,ポルターユの制作に関わった職人の1人に,建築家になる以前の,まだパッラーディオとは名乗っていなかった石工アンドレーア・ディ・ピエトロがいた可能性があるとされる.

 堂内にはバルトロメオ・モンターニャの息子ベネデットの祭壇画もあるが,今回は自由時間が無かったので見ていない.そもそも開いていない時間帯だったようだ.

 目立つ場所にあるわりには,あまり紹介されていないが,ポルターユと複数の彫刻を備えたファサード,垣間見える煉瓦を積み上げた躯体,後ろに控える鐘楼のバランスが良い.ヴィチェンツァに行けば,バジリカのあるシニョーリ広場には必ず行くであろうから,しばし目を向ける価値があるでのはないかと思う.






ダイエー北本店で買った毛糸帽が
ピンチヒッターで登場
シニョーリ広場 バジリカ前 ヴィチェンツァ