フィレンツェだより番外篇
2015年11月1日



 




雨に濡れたサンティ・マリーア・エ・ドナート教会後陣
帽子の最後の写真 (撮影:フリータイムの日)



§2015 ヴェネツィアの旅 - その10 島めぐり

いつかヴェネツィア本島だけではなく,他の島々にも行ってみたいと思っていた.


 今回のツァーには,ボートを仕立てて一日かけて島を巡る予定が組み込まれていて,ムラーノ島,ブラーノ島,サン・フランチェスコ・デル・デゼルト島,トルチェッロ島に行くことができた.大変満足している.

 ムラーノ島では,サンティ・マリーア・エ・ドナート教会,ガラス博物館,ブラーノ島ではサン・マルティーノ教会,立派なコレクションも展示しているレースの店,サン・フランチェスコ・デル・デゼルト島ではフランチェスコ会の修道院,トルチェッロ島では,サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂とサンタ・フォスカ教会を見学することできた.

 一番語りやすいサン・フランチェスコ・デル・デゼルト島の修道院から語り始めることにする.


サン・フランチェスコ・デル・デゼルト島
 事実かどうか確認していないが,島の名の由来は,第4回十字軍に同行したフランチェスコが,イスラム教徒の王にキリストの福音を説いた東方からの帰途,平安のうちに祈りかつ瞑想する場所として,世俗的環境から遠いこの地を選び,滞在したことによるものだそうだ.

 聖人の死後,ヴェネツィア貴族でグラード総大司教アンジェロ・バロッツィの親族だったヴェネツィア貴族ヤコポ・ミキエルが,フランチェスコ会(小さな兄弟団)に寄贈し,修道院が作られた.

 15世紀に居住環境の問題で放棄され,その後,オーストリア人が火薬庫として使っていたが,1858年にフランチェスコ会修道院が再建され,現在に至っているとのことだ.

写真:
サン・フランチェスコ・
デル・デゼルト島


 現地に着くと,茶色に腰帯のフランチェスコ会の修道服の下からジーンズを履いた脚がのぞく,恰幅も血色も良い修道士が修道院と教会を案内してくれた.現在,島に住んでいるのは,4人の修道士だけだそうだ.

 ウィキメディア・コモンズにある写真を見ると,狭い島ではあるが,修道士の居住部分まで含むとかなり大きな建築物があるようだ.私たち見学できたのは,教会と,2つある回廊のうちの1つだけで,教会と回廊のある中庭はゴシックの雰囲気を漂わせており,あるいは古い時代のものかも知れないが,情報はない.

 最後に,あちらこちらに現代芸術の作品が置かれている庭を散策した.庭園から見えるラグーナの様子は絶景で,遠くない先にブラーノ島の教会の鐘楼が見えた.

写真:
サン・フランチェスコ・
デル・デゼルト島から
ラグーナの向こうに
ブラーノ島を望む



ブラーノ島
 バルダッサーレ・ガルッピ(英語版伊語版ウィキペディア)は,現在はヴィヴァルディほど有名ではないが,彼の器楽曲,オペラは天才としか言いようのない傑作に満ちている.

 ブラーノ島に着いてすぐサプライズがあった.その名もバルダッサーレ・ガルッピ広場にガルッピの像があった.

 ガルッピのCDを何枚も集め,オペラの放送があれば録画し,DVDが出ればそれを購入していた私だが,彼がブラーノ島に出身だということは全く知らなかった.あるいは,CDの解説等にしれが書いてあるのを読んでいたとしても,ブラーノ島の具体的なイメージがなかったので,知識として定着していなかった.

写真:
ガルッピの胸像の
台座に腰かけて
女性が子供をあやして
いた


 ガルッピ広場に面して,サン・マルティーノ・ヴェスコーヴォ教会(英語版ウィキペディアにはまだ立項されていない)がある.サン・フランチェスコ・デル・デゼルトから見えた鐘楼は,この教会の鐘楼で,ブラーノ島のランドマークだ.

 鐘楼の建築は1703年から1714年の間で,設計者としてはアンドレーア・ティラーリ(英語版伊語版ウィキペディア)の名が挙げられている.複数の作品がヴェネツィアに残る,当時のヴェネツィアの有名な建築家であるが,確証はないようだ.

 教会の外観もユニークだ.広場に面した側面に,ポルターユがあって,そこが入り口になっているようで,通常の教会のファサードにあたる部分には入り口はない.ファサードにあたる部分の上部に,ヴェネツィアに特徴的な半円形に2本の縦仕切りのある窓があるが,それは塞がれている.

 ポルターユのある側面の上部には,3つの半円形2本縦仕切りに見える窓が3つあるが,どれもその形に見えるように3つの窓を組み合わせた構成になっている.こちらには窓ガラスがはめ込まれていて,採光の役割を果たしている.

写真:
ジャン=バッティスタ・
ティエポロ
「キリスト磔刑」


 ツァーの皆さんと一緒にレースの店に行った後,少し自由時間があったので,拝観させてもらった.葬儀の直後だったようだ.

 堂内は修復工事の覆いがあり,全て見られたわけではないが,ティエポロの「キリスト磔刑」(上の写真),パルマ・イル・ジョーヴァネの「聖ロクス,セバスティアヌス,大修道院長アントニウス」は,覆いのかかった場所の向こう側だったが,かろうじて観ることができた.

 教会外側のプレートには,「G.マンスエーティ,J.パルマ・イル・ジョーヴァネ,A.ザンキ,F.フォンテバッソ,G.B.ティエポロの作品」があると記してあり,さらに喜捨で入手(記憶が曖昧だが,自動販売機形式だったような気がする)した,伊英対訳版の小冊子,

 Luigi Vitturi, Chiesa Parrochiale S. Martino Vescovo di Burano Venezia: Cenni Storico-Artistici, n.p., n.d.

に拠れば,堂内には,パルマとティエポロのほかに,フランチェスコ・フォンテバッソ(英語版伊語版ウィキペディア)の「牧人礼拝」,ジョヴァンニ・マンスエーティ(英語版伊語版ウィキペディア)の「聖母の婚約」,「三王礼拝」,「エジプト退避」,ジローラモ・ダ・サンタクローチェの「聖マルコと聖人たち」,アントニオ・ザンキ(英語版伊語版ウィキペディア)に帰属するとされる「司教聖アルバヌスと聖人たち」,「司教聖アルバヌスの奇跡」があるとされる.

 以上の絵の中で,撮ってきた写真と対応するのは,フォンテバッソの「牧人礼拝」のみで,その他は多分見ていない.写真に写っていたが,上記の中には入っていない名前を特定できなヴェネツィア派の画家の絵もある.それなりに,印象に残る絵だった.

 フォンテバッソの「牧人礼拝」は,水準以上の端正な絵だった.この画家は1707年にヴェネツィアで生まれた画家で,セバスティアーノ・リッチの工房が修業の場だったようだ.ティエポロは1697年生まれで1770年が没年,フォンテバッソは1769年に亡くなったので,ほぼ同時代人ということになる.

 後期ヴェネツィア派を代表はしないであろうが,一定の評価を受け,相当の作品を後世に残した.リッチの弟子で,ティエポロの同時代人であるだけに,教会に宗教画を描き,貴族の館に装飾フレスコ画を描いた画家のようだ.

 ティエポロほどの膨大な作品リストにはならないが,伊語版ウィキペディアには12点の作品名と所蔵先が,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには7点の作品の写真が掲載され,その所蔵先の情報がある.前者にはルーヴル・美術館所蔵の「聖ヒエロニュムスの前に現れた聖母」,後者にはエルミタージュ美術館所蔵の「最後の晩餐」があり,見た可能性は皆無ではないが,それぞれの美術館で撮ってきた(どちらも撮影可なので)写真の中にはない.記憶をたどっても多分見ていないと思う.

 ウーディネ大聖堂のサンティ・ジョヴァンニ・エ・エウスターキオ礼拝堂に祭壇画「洗礼者ヨハネと聖エウスタキウス」を描いていて,ウーディネ大聖堂で撮った写真を確認すると,しっかり観ているし,そもそも,ウーディネに行った時の報告のページで言及している.この大聖堂にはティエポロ作品が少なくとも3点あるが,これについては写真を紹介している

 短い自由時間,葬儀の後の慌ただしさ,修復工事の覆いと,どれを取ってもじっくり感は望むべくもない拝観ではあったが,地元の,それほど有名なわけでもない教会で,巨匠や中堅どころの画家たちの,地味ではあるが,誠実に描かれた宗教画を鑑賞できるのは,イタリアの町を歩くときの代え難い喜びと言えよう.


トルチェッロ島
 サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)については,大聖堂という名称は保持されているようだが,この島に定住している住民は極めて少数であり,名目上の大聖堂で,実際は博物館と言ってよく,聖堂(バジリカ)が一般的なようなのでこちらを使うことにする.

写真:
サンタ・フォスカ教会(右)
サンタ・マリーア・
 アッスンタ大聖堂(左奥)
トルチェッロ島


 この堂内のモザイクが,今回の島めぐりの目玉と言って良いだろう.私も楽しみだった.しかし,写真撮影は禁止なので,自分で撮った写真が無く,なかなか現場の感銘がよみがえってこない.

 英訳版の案内書,

 Torcello: The Basilica of Santa Maria Assunta with the Bell Tower and the Church of Santa Fosca, Saonara (PD): Casa Editrice il prato, 2013

を聖堂のブックショップで絵葉書とともに入手できたが,小冊子型でそれほどの情報量はない.

 後陣半穹窿の部分のモザイクは,金地の中に聖母子が静謐な姿で立ち,両脇には「母」と「神の」を意味するギリシア語の省略形があるだけのすっきりしたモザイクだ.聖母は左手に嬰児イエスを抱え,右手でイエスを指し示し,イエスは右手で祝福を行い,左手に巻物を持っている.

 ロシア旅行の際に,イコンについて少し勉強したが,その際に学んだホディギトリア(オディギトリア)型の聖母子であろう.このタイプの聖母子について英語版ウィキペディアの該当項目を参照すると,確かにトルチェッロ大聖堂の後陣の聖母子の写真もある.

 半穹窿の上部の壁には,向かって左側に大天使ガブリエル,右側に聖母で「受胎告知」が描かれ,ホディギトリアの聖母子の下部にあたる湾曲壁面には十二使徒のモザイク,聖母子の真下は窓になっているが,その下部には聖ヘリオドルスの上半身のみのモザイクがある.

 ファサード裏は壁面全体がモザイクになっており,最上部の三角形の壁面が「キリスト磔刑」,その下は順に「冥府降り」,「最後の審判」と続く.

 「冥府降り」では,中央のキリストがアダムの手を引き,アダムの背後には赤い修道服を来たマグダラのマリアのようなイヴがいる.イヴの背後には王冠の人物が2人いて,上記案内書にはダヴィデとソロモンとある.アダムの反対側の人物はイエスを指差しているので,洗礼者ヨハネであろう.この画面の両側には,それぞれ大天使がおり,上記案内書に拠れは,ビザンティン皇帝のような豪奢な衣をまとった姿である.

 「冥府降り」はギリシア語ではカタバシスと言い,古典文学では「冥界行」と訳され,『オデュッセイア』,ギリシア悲劇,『アエネイス』などで重要なモティーフである.

 「冥府降り」の下の場面は,マンドルラの中にいるキリストの両脇で,聖母と洗礼者が人類のための取り成しをしており,それを囲むように,福音史家と使徒たち,天使たちがいる.これが「最後の審判」になっているのであろうと思われる.

 その下の段では,中央で,アダムとイヴが大天使たちにうながされて,熾天使たちが侍する玉座の聖十字架を拝跪している.その向かって左側は,2人の天使の喇叭に促されて墓から目覚める死者たち,野獣の口から甦る死者たちのモザイク,右側には世界の終わりに星のまたたく天空を巻物のようにまとめる天使,右端はやはり2人の天使の喇叭に促されて海から甦る水死者たちのモザイクがあり,その中にはコルヌコピアを抱いた異教の女神の姿もある.海の寓意ということであろうか.上記案内書にはローマ時代の別荘の床モザイクをコピーしたものと推測されている(pp.46-47).

 さらに下の段は,中央に大天使ミカエルと,ミカエルの持つ天秤の皿を棒でつついて干渉しようとしている悪魔たち,向かって右側は地獄,左側が天国が描かれている.大天使ミカエルの下には扉があり,上のリュネットにはオランスの聖母の上半身のモザイク(頭部の両側には「母」と「神の」と言うギリシア語の省略形の文字)がある.

 天国の場面は上下2段構成で,上段には賛仰の姿で3グループの群像を構成する聖人たち,下段は2つの場面からなっている.

 中央の扉寄りの場面は「天国の扉」で,右側に大天使ミカエル,左側には「良き盗人」(上記案内書,p.48.おそらくイエスと一緒に磔刑になり悔い改めた男であろう)がおり,扉の手前に鍵を持ったペテロが拝跪している.その左の場面には,右側にオランスの聖母,左側には2本の木(棕櫚であろうか)の間で椅子に腰かけるアブラハムが描かれている.アブラハムの周辺には小さな人間たちがいて,膝の上に子供が乗っている.この子供は人間の家系としては彼の子孫にあたるイエスであろうか.

 地獄の場面の2段構成で,上段は権力者(ビザンティン皇帝のような姿もある)や聖職者を含む罪人たちは地獄の業火に追い立てる,火を反映してか赤い姿の2人の天使たち,業火の中には地獄の王がアンティクリストと思われる子供を膝の上に乗せている.

 下段も計6場面(右端上部は何も描かれていなければ5場面)に別れ,上部は「7つの大罪」の寓意,下部は有象無象の罪人たちが描かれている.

 現場では,場面場面を細かく見て,理解するに至らなかったが,ウィキペディアの写真と上記案内書により,まずまざずの理解ができたのではないかと思う.もちろん,私の知識ではわからないか,誤解している場面も少なからずあるだろう.

 一見古拙に見えたモザイクの一つひとつの場面をしっかり確認してみて,人間の表現意欲の旺盛さに驚く.


ムラーノ島
 今回,ムラーノ島には一日あいだを置いて2回行き,サンティ・マリーア・エ・ドナート聖堂の堂内に入ったのは,最初に行った終日フリータイムの雨の日だ.9時に開くと同時に拝観するつもりでヴァポレットに乗り,開いた直後くらいに入堂したこともあって,他に拝観者はおらず,中にいたのは修理関係者だけだった.

 内部は簡素で,見るべきものと言っても,後陣半穹窿の「オランスの聖母」のモザイクと,床モザイクくらいだったと思うが,数人の関係者が内陣で打ち合わせをしている中,邪魔にならないように見学させてもらった現場感も含め,観光客に満ちた博物館になってしまっているトルチェッロ島のサンタ・マリーア・アッスンタ聖堂に比べて好感度が高い.

 やはり,向かって左上に「母」(メーテール),右上に「神の」(テウー)という省略文字があるだけの「オランスの聖母」が,雨天の暗い日の午前中のかすかな光を受けて,鈍く光る金地モザイクの中に佇む姿はひたすら美しい.

写真:
サンティ・マリーア・
 エ・ドナート教会
2回目は晴天


  ウィキメディア・コモンズの写真を参照すると半穹窿の下の湾曲壁面にはフレスコ画があるようだが,暗かったこともあり,印象に残っていない.

 堂内で,喜捨によっていただいた粗末なコピーの英語版パンフレット(執筆者はガブリエーレ・マッツッコとあるので,以下,マッツッコ)に拠れば,このフレスコ画は4人の福音史家(向かって左からマタイ,マルコ,ヨハネ,ルカ)で,作者はニッコロ・ディ・ピエトロとある.

 これがニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニであれば,フィレンツェの画家がムラーノ島まで来た(フレスコ画なので現場でないと描けない)ことになり,おもしろいのだが,多分,1389-1419年にヴェネツィアで活動した画家の方であろう.

 この画家の作品は,アカデミア美術館に「玉座の聖母子と奏楽の天使たち」,「聖ラウレンティウス」,「三王の到着」,グリザ-ユの「玉座の聖母子と女性人たち」が所蔵されており,後の2点を観たことは,今回撮って来た写真で確認できる.

 ウィキメディア・コモンズの写真で見る限り,アカデミアの4点の板絵にくらべて,サンティ・マリーア・エ・ドナートのフレスコ画は随分立派で,思わず,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの作品と思いたくなる.彼は1415年に亡くなっているので,ヴェネツィアのニッコロ・ディ・ピエトロとほぼ同時代人ということになる.

 また,ファサード裏には,フランチェスコ・ボナッツァの油彩カンヴァス画「弟子たちの足を洗うキリスト」,「使徒たちの聖体拝領」があったようだ.伊語版ウィキペディア(英語版には立項されているいない)には,彫刻以外の作品情報はないが,ピエトロ・ブランドレーゼ(名前以外の情報は今のところ無い)と言う人物に拠れば,カメオの浮彫,モザイク,絵画も手掛けたとのことなので,その作例を観ることができたのに,まったく注意を払っていなかった.



 中央祭壇には,教会の名のもとともなっている聖人「エウレアのドナトゥス(英語版伊語版ウィキペディア)」(英語版ウィキペディアは「アレッツォのドナトゥス」英語版伊語版ウィキペディア)の遺体を収めた棺がある.

 聖人の棺の両側には,聖ロレンツォ・ジュスティニアーニと聖ヘリオドロスの像があり,前者はジェズイーティ教会のファサードで出会った彫刻家イル・カビアンカことフランチェスコ・ペンソ(英語版伊語版ウィキペディア)の作品,後者は,同じくジェズイーティ教会に作品を遺したピエトロ・バラッタ(英語版伊語版ウィキペディア)の作品とのことだ.

 カビアンカ(マッキャイオーリ派のヴィンチェンツォ・カビアンカとは別人)は,1666年にヴェネツィアで生まれ,1737年に同地で亡くなった.ピアッツェッタより16年くらい年長だが,セバスティアーノ・リッチより7歳年下なので,この場合後期ヴェネツィア派の芸術家と考えて良いのであろうか.大きな美術の流れとしては,バロックから新古典主義への移行期に生きた彫刻家と言えるようだ.

 それに対し,バラッタは1668年に生まれ,1729年に亡くなったので,同じ時代に生きたが,生まれたのも亡くなったのも,大理石の産地として有名なカッラーラなので,出自はトスカーナということになる.

 カッラーラ出身の彫刻家と言うと,フィレンツェで複数の作品を観ているピエトロ・タッカ(英語版伊語版ウィキペディア)を想い起させるが,カビアンカの91年前に生まれたタッカはバラッタの師匠ではありえないだろう.

 1590年生まれで69歳年長だから,祖父か曾祖父の世代になるフランチェスコ・バラッタ(英語版伊語版)はジャン=ロレンツォ・ベルニーニの協力者で,兄弟も彫刻家である.特に弟のジョヴァンニ・バラッタ(英語版伊語版ウィキペディア)はフィレンツェ,リヴォルノなどトスカーナで活躍している.

 2007年7月にルッカのサン・フレディアーノ聖堂で撮ってきた写真を確認すると,後陣に向かって左側の礼拝堂の一つにあったジョヴァンニの浮彫の天使たちを観ている.どのような作品かは伊語版ウィキペディアの同聖堂のページ掲載の写真でわかる.

 ピエトロとジョヴァンニの父イシドーロ,その兄弟のフランシスコ・イル・ジョーヴァネ,父と同世代であろうジョヴァンニ・マリーアも彫刻家と言うことだ.またピエトロとジョヴァンニ兄弟の従姉妹マリーア・マッダレーナ・カルージの息子ジョヴァンニ・アントニオ・チベイ(と読むのか,Cybeiと綴る)は,18世紀にトスカーナ,ローマ,ヨーロッパ各地の教会,宮殿で仕事を請け負い,カッラーラ美術学院の初代校長となって,成功を収めた芸術家のようだ.

 ピエトロの師匠が誰だったのかは今のところ情報が得られていないが,弟のジョヴァンニに関しては,師匠筋としてジョヴァン=バッティスタ・フォッジーニ(英語版伊語版ウィキペディア),カミッロ・ルスコーニの名が挙げられている(伊語版ウィキペディア).

 フォッジーニはフィレンツェ生まれで,フィレンツェを中心に活躍し,フィレンツェで亡くなった彫刻家だが,少年時代はローマで修業しているので,師の系譜にピエトロ・タッカがいるということはないようだが,ピエトロ・タッカの息子フェルディナンドの死後,タッカ工房をフォッジーニが引き継いだと英語版ウィキペディアにあり,ここでわずかながら,バラッタ一族と,カッラーラの先人タッカが,かすかな縁で結びつく.

 カミッロ・ルスコーニ(英語版伊語版ウィキペディア)は,ミラノ生まれでローマで活躍したが,本貫地は,現在はスイスに属しているティチーノ州で,フォッジーニの師匠のエルコレ・フェッラータもコモ湖周辺の出身なので,例によって,現在はスイスのイタリア語圏北部ロンバルディアにたどり着く.

 こうした彫刻家の系譜に関しては,生まれ育った環境や,修業で習得可能な技術の継承の影響は小さくなくとも,結局は個人の才能に拠るものが大きく,絵画の師弟関係ほどは明確にできないと思う一方で,どれほど才能があっても,絵画に劣らず少年時代の修業は成功の必須条件であろうから,今後,丁寧に実作を観て,作者と時代をしっかり把握することで,もう少し,意味のようなものが見えてくるかも知れないとも思う.

 上にあげた彫刻家の作品は,調べるとあちらこちらで見ている可能性が高いのに,作者名にも作品そのものにもあまり注目してこなかった.

 バロックから新古典主義の芸術に関しては,イタリアではローマに傑作が集中しているような印象があるが,ローマで活躍した芸術家も,ローマでは活躍の場を得ていない彫刻家も,ローマ以外の地方に,地味だけれども傑作を残していることに気付く.



 ヴェネツィアでカッラーラ出身の彫刻家の作品に出会った意外感に打たれ,少し立ち止まって考えてみた.

 偶然の要素も強く,何らかの結論を出すようなことではないように思うが,たとえば,かたやヴェネツィアで,かたやトスカーナで活躍したピエトロとジョヴァンニのバラッタ兄弟の作品を足掛かりに,それぞれの個性,活躍した地域の流行や志向,まわりにいた人たちの影響を考察することで,あるいは,何か新しい知見が得られるかも知れない.

 ピエトロ・バラッタはカッラーラで生まれ,カッラーラで亡くなったが,活躍の足場はヴェネツィアであった.

 弟子にあたるフランチェスコ・ロッバ(英語版伊語版ウィキペディア)は,スロヴェニアやクロアチアに活躍の場を求めたが,ヴェネツィアで生まれ,ヴェネツィアで亡くなった.1698年に生まれ,1757年に亡くなったので,やはり,ヴェネツィア共和国の最後の光芒の中の芸術家である.

 ムラーノ島のサンティ・マリーア・エ・ドナート聖堂は,12世紀に再建されたロマネスクの時代の建物と,ビザンティン美術の影響を受けた堂内のモザイク,暗い中で目を凝らして観た床モザイクのみが注目すべきものであるように思われ,実際,私がしたのもそのような仕方の拝観であった.

 しかし,ガイドブックの情報や先入観にとらわれない目で拝観すると,地域に根差した教会に,国際的な活躍をした芸術家たちの痕跡を観ることができる.

 ピエトロ・バラッタは,美術史の大海に埋もれてしまった彫刻家かも知れないが,カッラーラの彫刻家一族に生まれ,ヴェネツィアに活躍の場を求め,そこにしっかりと痕跡を遺した.

 次回は,ジェズイーティでもムラーノ島でも,こうした芸術家たちの作品をしっかり自分の目で確かめようと思う.

写真:
ガラス博物館
ムラーノ島


 ガラス博物館は,司教館だった建物にあるようで,中庭には古い遺物もあり,それも興味深かった.室内装飾やガラスの展示そのものも素晴らしく,良い体験だった.

 これについては,別の機会に感想を述べることとし,ここでは,博物館を見た後,制作の実演を見学した工房で,ヴェネツィアン・グラスの特徴の一つである赤いグラス6脚を購入したことを書き添えるにとどめる.






記念に手編みレースが角に入った
ハンカチを2枚買った
ブラーノ島