フィレンツェだより番外篇
2015年10月22日



 




ティツィアーノ作 「聖霊降臨」(部分)
サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会



§2015 ヴェネツィアの旅 - その9 ヴェネツィア本島の教会(後篇)

自由行動の日に拝観したい教会は,幾つもあった.しかし,ヴェネツィアに教会は数多あり,充実した見学をしようと思えば,見どころを絞るしかない.カンナレージョ区に行くことは旅に出る前に決めていた.


 ドルソドゥーロ区も魅力的な教会が多いし,カ・レッツォニコにもまだ行っていないので,候補だったが,ティツィアーノの「聖ラウレンティウスの殉教」とティントレットの「聖母被昇天」(1555年)のあるサンタ・マリーア・アッスンタ教会(英語版伊語版ウィキペディア)を拝観することにして,カンナレージョ区を選択した. 

 理由はもう一つあった.ツァーでは,島めぐりの日にムラーノ島のサンティ・マリーア・エ・ドナート教会に行くことになっていたが,素晴らしいモザイクのある堂内には入らず,外観だけの見学予定だった.カンナレージョ区からムラーノ島は近いので,最初にヴァポレットでまっすぐムラーノ島に行き,ドナート教会を拝観し,それからヴァポレットでカンナレージョ区に移動する計画を立てた.

 ドナート教会の見学については次の“島めぐり”の回に報告する.



 自由行動の日はあいにく一日雨だった.ヴァポレットには既に抵抗なく乗れるようになっていたが,サン・ザッカーリアの船着場からムラーノ島までは結構時間がかかった.ジョヴァンニ・ベッリーニの作品が2点(「聖母被昇天」とバルバリーゴ祭壇画と称される「玉座の聖母子と聖人たち」)あるサン・ピエトロ・マルティーレ教会(英語版伊語版ウィキペディア)は断念して,サンティ・マリーア・エ・ドナート教会だけを拝観して,カンナレージョ区に移動することにした.

 それでも,乗降に心の余裕が無かったのか,ムラーノ島から本島に戻って,フォンダメンテ・ヌオーヴェの船着場で降りた時に,フィレンツェの“カシーネの森の市”で買った中国製の帽子を船に忘れたことに気付いた.

 「フィレンツェだより」の古いのページを見ると,多分,2007年10月16日に購入し,11月にピサに行った時に斜塔の前で撮った写真では,これを被っている.人工皮革で内側はボア生地,雨の日,風の日に随分活躍してもらった.中国製とは言え,イタリアで買ったものだから,イタリアで無事役目を全うすることができたと思ってあきらめることにする.

 船着場から,折り畳み傘の骨が折れそうな風の中,ジェズイーティ教会に向かった.


サンタ・マリーア・アッスンタ教会(ジェズイーティ教会)
 サンタ・マリーア・アッスンタ教会はイエズス会の教会なので,イ・ジェズイーティと言う通称を持っている(以下,ジェズイーティ教会).

 堂内は写真撮影禁止で紹介できないのが残念だが,すぐに「ラウレンティウスの殉教」を見つけて,その前に行った.何度も特別展で観た作品だが,礼拝堂で改め観て,そのすばらしさに感嘆の声をあげた.

 ジェズイーティ教会は1728年の献堂で,であれば16世紀のこの作品が何故ここにあるのかと疑問に思うが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説には,廃絶したクローチフェーリ教会にあったと説明されている.

 現在,ジェズイーティ教会の前には「クローチフェーリ祈祷堂」があり,パルマ・イル・ジョーヴァネの祭壇画を蔵する小さな博物館になっている.建物は古くても16世紀のものであろうが,その起源は12世紀に遡るというので,廃絶したクローチフェーリ教会がここにあったのであれば,1550年代後半に描かれたとされる作品をかつては飾っていたとしても不思議はない.

 同じことはティントレットの「聖母被昇天」にも言える.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは,この作品もクローチフェーリ教会にあったと説明している.注文主が最初に依頼しようとしたヴェロネーゼ風の作品に仕上がっているとの解説もある.そう言われれば,アカデミア美術館所蔵の同主題作品の写真と比較して,あるいはそうかも知れないと思わせるものがある.

 しかし,後者もティントレットにしてはヴェロネーゼ風と言えなくもない.後者が先行しているかも知れない(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)が,いずれも1550年代の作品で,ティントレットは後進のヴェロネーゼを意識していたことの証明にはなるかも知れない.

 残念ながら,アカデミアの「聖母被昇天」は今回,見ることができなかった.



 ティツィアーノの「聖ラウレンティウスの殉教」は,もう1作,スペインのエル・エスコリアルにある.

 2011年にエル・エスコリアルには行ったが,この作品を見たかどうかは覚えていない.サン・ロレンソ聖堂の中央祭壇にあったとすれば見た可能性は高いが,聖堂にあったのか,修道院,宮殿の公開部分にあったのか,それともその時は展示されていなかったのか,情けないことに思い出せない.

 西語版ウィキペディアの「エル・エスコリアル聖堂」に掲載されている写真では,中央祭壇にはスペインらしく大きなレタブロが飾られていて,その絵の一つは「聖ラウレンティウス」だが,描いたのはペッレグリーノ・ティバルディ(英語版伊語版ウィキペディア)で,ティツィアーノの作品ではない.

 ティツィアーノの作品を2点(「最後の晩餐」と「聖マルガリータ」)紹介している英語版案内書にも,「聖ラウレンティウスの殉教」への言及はあるが,所在の説明も写真も無い.ティバルディの同主題作品は写真付きで紹介しているのに奇異なことだ.

 ティツィアーノの弟子を標榜し,「スペインのティツィアーノ」を称されたナバレーテの作品を複数見ることができたのに,ティツィアーノ自身の作品を見た記憶が全くなく,残念だ.

 エル・エスコリアルにあるとされるティツィアーノ作「聖ラウレンティウスの殉教」は1567年,ジェズイーティ教会の同主題作品は,1550年代の後半とされるので,後者が先行している.前者の方がリアルな絵に思えるが,コリント式柱頭を持つローマ神殿が描かれた後者には静謐感があり,異教にも多少の敬意のようなものを感じ,キリスト教徒でない私には好感が持てる.

写真:
ティントレット
「イエスの神殿奉献」
アカデミア美術館


 ジェズイーティ教会の堂内は広く,前もって知っていたティツィアーノとティントレットの作品を観るのに一杯一杯で,しっかりした鑑賞はできなかった.案内書を売るコーナーなどはなかったので,現地で調達した参考資料はないが,前以てイタリア・アマゾンで入手して,事前には予習できなかった

 Simona Bianca Savini / Andrea Gallo, Chiesa dei Giesuiti: Arte e Devozione, Venezia: Marsilio Editori, 2002(以下,サヴィーニ&ガッロ)

が書架にあるので,これによって,多少の知識は得られる.写真が白黒で残念だが,有名は絵はウェブページにカラー写真があるので,説明が読めるだけでも,参考になる.

 これを読むと,上記の他にティントレットの「イエスの神殿奉献」もかつてあったようだが,現在はアカデミア美術館の所蔵だ.今回鑑賞もでき,写真にも収めた(上の写真).

 他に有名な画家の作品としては,パルマ・イル・ジョーヴァネの「大天使ラファエロとトビアス,魂を天へと導く天使たち」,「洗礼者ヨハネの殉教」,「聖ヘレナの聖十字架発見」,「クローチフェーリ修道会を創建する教皇聖クレトゥスと修道会を再確認するイェルサレム司教聖キュリアクス」,「マナの降下」があったようだ.

 パルマ・イル・ジョーヴァネの5作品のうち,4作は聖具室にあるようで,聖具室は行っていないのでもちろん見ていないが,最初の作品も見た記憶がない.

 他にはピエトロ・リーベリ(英語版伊語版ウィキペディア)「東方で説教するフランシスコ・ザビエル」,アントニオ・バレストラ「聖霊,聖母,聖マルコと,イエズス会士聖人スタニスラオ・コストカ,ルイージ・ゴンザーガ.フランチェスコ・ボルジア」,フランチェスコ・フォンテバッソ(英語版伊語版ウィキペディア)とルイージ・ドリニ(個人名はルドヴィーコでも良いが,もとはルイ・ドリニと言うフランス人)(英語版仏語版伊語版)ウィキペディアの天井装飾画があるようだ.

 彫刻作品としてジュゼッペ・ポッツォの中央祭壇,ジュセッペ・トッレッティ(もしくはトッレット)(英語版伊語版ウィキペディア)の「天使に支えられた球上の父なる神と子なるキリスト」,「大天使ガブリエル」,「大天使セラフィエル」(大天使は4人で全ての名前を知っていると思っていたが,7人いるとする考えもあり,この天使はその1人),ピエトロ・バラッタ「イエズス会憲章を記述するイグナティウス・デ・ロヨラ」があったようだ.これらは堂内にある作品なので,見たのだと思うが,やはり記憶にはない.

 ジュゼッペ(・アントニオ)・ポッツォは,バロックの巨匠アンドレーア・ポッツォ(英語版伊語版ウィキペディア)の3歳下の弟らしいが,詳しいことはわからない.兄がイエズス会の修道士で,弟は跣足カルメル会の修道士のようだが,この場合の仕事先はイエズス会の教会だった.

 兄弟ともにトレントの生まれで,兄はウィーンで亡くなり,弟はヴェネツィアで死んだ.弟の没年は兄の死後12年経った1721年とのことだ.兄に関してはウェブ上にもたくさんの資料があるが,弟に関してはサヴィーニ&ガッロと,あるウェブページ,英語版ウィキペディアのアンドレーアのページのみだ.

写真:
ジェズイーティ教会


 ファサードと屋根の上にある彫刻に関してもサヴィーニ&ガッロから情報が得られる.

 教会前の広場から上掲のファサードの写真は撮ったが,バロック風に見える新しい外観と思い,その魅力に気づくことが無かった.要するに撮った写真を見ながら,参考書によって整理して後日の再訪に備えるということだ.

 ファサードの扉の左側はピエトロ・バラッタの「聖ペテロ」,右側はアントニオ・タルシア(英語版伊語版ウィキペディア)の「聖パウロ」,左端にはフランチェスコ・ペンソ(通称イル・カビアンカ)(英語版伊語版ウィキペディア)の「大ヤコブ」,右端はジュゼッペ・グロッペッリとパオロ・グロッペッリ「聖マタイ」の彫像がある.

 ファサード下部は上記の彫像の両側にコリント式柱頭の柱があり,その上は軒蛇腹になっており,8本の柱の上にまた彫像がある.向かって左からカビアンカの「福音史家ヨハネ」,タルシアの「聖トマス」,ジュゼッペ・グロッペッリとパオロ・グロッペッリの「小ヤコブ」,ジュゼッペ・ツィミニアーニ「聖タダイ」,フィリッポ・カッタージオ「聖ピリポ」,フランチェスコ・ベルナルドーニ「聖バルトロマイ」,ピエトロ・カッラーロ「聖シモン」,カビアンカの「聖アンデレ」とある.ファサー下部の4体と合わせて十二使徒の彫像と言うことになる.

 これらの彫刻家の中で,2人のグロッペッリ,ツィミニアーニ,カッタージオ,ベルナルドーニに関しては,情報が得られない.

 サヴィーニ&ガッロにはベルナルドーニの生没年(1669-1703)が示され,木彫も手掛ける彫刻家で,ピアッツェッタの姻族(義兄?)とある.これだけでは巨匠ピアッツェッタのことかどうかは分からないが,ベルナルドーニが巨匠より14歳年長であること,巨匠の父ジャーコモも木彫も手掛ける彫刻家(サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の拝観報告で言及)だったことを考え合わせると,可能性のある推測としては,ジャーコモ・ピアッツェッタより29歳年下のベルナルドーニはジャーコモの弟子で,その娘(多分,巨匠の姉)と結婚したということかも知れない.

 ジェズイーティ教会に深く関わったピエトロ・バラッタ,ジュゼッペ・トッレッティは,サンクトペテルブルクの「夏の庭園」(英語版伊語版ウィキペディア)でも彫刻を作成しており,そのチームの中に2人のグロッペッリの名も伊語版ウィキペディアでは挙げられている.ただし,詳しい情報はない.

 屋根の上の彫刻は,中央の聖母を中心に左右に天使たちを配した「聖母被昇天」の場面であり,作者はトッレッティである.やはり,「夏の庭園」で仕事をしたフランチェスコ・ボナッツァもファサードの装飾に関わったらしいが,今は彼の作品はここでは見られない.


マドンナ・デッロルト教会
 ジェズイーティ教会を設計したのは,ドメニコ・ロッシ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 私たちはまだ見ていないサン・スターエ教会(英語版伊語版ウィキペディア)が彼の代表作で,サン・スターエの方が先行しているが,それでも1709年の建築で,18世紀にもなってバロック風なのは,やや時代遅れの感もあるが,コリント式柱頭の装飾円柱を基調にしたファサードは,すっきりしていて,新古典主義の時代が近いことを予感させる.

 それに比べると,マドンナ・デッロルト教会(英語版伊語版ウィキペディア)(以下,オルト教会)は,ファサードも煉瓦積みで,ロンバルディア風,ヴェネト風で,北イタリア感に満ちている.

 このタイプは,あまりトスカーナやローマでは見ていないように思う.特に両端にそれぞれ1つずつと,堂内では身廊にあたる中央に3つの尖塔をいただいている姿は,ヴェネト風の教会建築の特徴なのではないかと思う.

写真:
マドンナ・デッロルト教会


 ファサード中央に3つの小尖塔がある煉瓦積みの教会としては,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂,サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂がある.規模はこれら教会よりは小さいが,よく見るとオルト教会のファサード装飾は,より美しいと思わせる工夫が施してある.

 小尖塔が両端に加えられているだけなく,身廊と2つの翼廊を区切っている装飾角柱,バラ窓やポルターユ,翼廊正面の飾り窓に白大理石のほかに,ヴェローナ産であろうピンク大理石を併用して,両聖堂の簡素,剛健な印象に比べて,派手ではないが華やかな感じを出すのに成功している.

 このオルト教会の華やかなポルターユも,ザニポロ聖堂の簡素なポルターユもバルトロメオ・ボン(ボーノ)の作品とのことだ.

 左右の翼廊部分の上部の白い枠(連続した「壁龕」と言って良いのだろうか)の中に6人ずつの,おそらく十二使徒であろう彫像がある.伊語版ウィキペディアのバルトロメオの父ジョヴァンニのページでは,これらの彫像がジョヴァンニの作品であるかのように写真を掲載しているが,テクストではファサードの彫刻制作に軽く触れているだけで,具体的に,どの作品と言及していない.

 オルト教会に関しては,堂内の券売所で購入した英訳版案内書,

 Giandomenico Romanelli, tr., David Kerr, The Church of the Madonna dell' Orto: Tintoretto's Triumph, Venezia: Marsilio Editori, 2012(以下,ロマネッリ)

を参考にできる.ロマネッリに拠れば,十二使徒の彫像の作成者はダッレ・マゼーニェ工房の周辺の職人たちとされている.それ以上の説明はないが,ダッレ・マゼーニェの名で,年代的にあてはまるのはピエルパオロ・ダッレ・マゼーニェであろうか.ヴェネツィアで14世紀から15世紀にかけて活躍した彫刻家で建築家とのことだ.

 彼の兄にあたるのであろうか,ヤコベッロ・ダッレ・マゼーニェは1350年頃から1409年までヴェネツィアで活動した彫刻家で,ボローニャの市立中世博物館で観た法学者ジョヴァンニ・ダ・レニャーノの墓碑パネル(2008年1月12日のページで写真を紹介しているが,この時は作者の名前までは確認していない)の作者とされる.

 バルトロメオ・ボンのポルターユの頂には,聖クリストフォロスの像があり,ロンバルディア出身の建築家で彫刻家のマッテーオ・ラヴェルティの作品とされる(伊語版ウィキペディア).ロマネッリはラヴェルティの周辺の彫刻家の作としているが,いずれにしても,関係者の作と考えられている.もともとウミリアート会の教会であった時には,聖クリストフォロスに献じられていたことに拠るのであろう.

 ポルターユの外枠であるオジー・アーチ(葱花線繰形アーチ)の両端はコリント式柱頭を持つ円柱で,それぞれの上にさらに土台が乗っていて,その上には向かって左に大天使ガブリエル,右には聖母と,受胎告知になっている.ロマネッリは,ルネサンスの彫刻家の作品だが,作者については様々な議論があるとしているが,伊語版ウィキペディアはニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノの作とし,クリストフォロスとガブリエルがニッコロ・ディ・ジョヴァンニ,聖母はアントニオ・リッツォの作としている.

 5つの小尖塔にはそれぞれ壁龕が付されおり,その中に寓意像(向かって右から賢慮,慈愛,信仰,希望,節度)が収められているが,壁龕はゴシックのもので,彫像はムラーノ島のサント・ステーファノ教会にあった(ロマネッリ,p.6)18世紀の新しい作品とのことだ(英語版,伊語版ウィキペディア).

 左右の翼廊部正面の縦仕切りのある窓も尖塔アーチに,四つ葉,三つ葉モティーフの装飾が施され,いかにもヴェネティアン・ゴシック風で美しい.雨と風の中を,午後にコッレル博物館を見たいという気持ちに急かされながらの拝観だったので,これらをじっくり鑑賞することができず,その点は非常に残念だ.



  オルト教会もジェズイーティ教会同様,18の教会の連合体「コーラス」(英語版HP)に入っているので,ロマネッリの案内書もその名を冠しているが,この連合体に入っている教会は,全て撮影禁止である.

 ここにはティントレットの墓があり,彼の絵がたくさん堂内に飾られている.その中で一番の傑作はどの作品かと問われても答えようがないが,「聖母の神殿奉献」はアカデミア美術館のティツィアーノ作品との対比もあり,一番見たかった作品で,実際,見ごたえがあった.

 後陣にもティントレットの作品が複数ある.半穹窿はリブ・ヴォールトで,リブを支える柱頭付きの付け柱によって5つに分割された壁面の左右両端にはガラスをはめ込んだ半円アーチの大きな窓があり,内側の3面には大きなカンヴァス画があって,中央の「受胎告知」はパルマ・イル・ジョーヴァネ,向かって左の「聖ペテロへの聖十字架の出現」,右の「聖パウロの殉教」はティントレットの作品である.

 その上の穹窿壁面のリブとリブの間には尖塔アーチの形をした5つの寓意画があり,向かって左から「賢慮」,「正義」,「信仰」,「強さ」,「節制」で,中央の「信仰」がピエトロ・リッチの作品,他はティントレットの作品である.

 後陣は,この5本リブの天井と,その手前の4本リブの天井が連続する空間だが,4本リブの天井の左右の壁面には尖塔アーチの形をした高さ15メートルに及ぶ巨大なカンヴァス画があり,向かって左側が「最後の審判」,右側が「黄金の牡牛像の崇拝と律法の石板を拝受するモーセ」で,ともにティントレットの作品だ.

 これは見事と言うしかなく,ただただ圧倒されるばかりだった.1560年以降の作品とされ,ミケランジェロの「最後の審判」が1541年に完成しているので,時間的にはその影響は十分に考えられる.

 総督宮殿でティントレットの「天国」を初めて観た時,やはり頭に浮かんだのはミケランジェロの「最後の審判」だった.伝記的事実として,ティントレットはローマに行って,ミケランジェロの作品を見たのだろうか.実物を見ていないとすれば,何らかの方法で,ミケランジェロの「最後の審判」の絵柄やその迫力を知ることができたのだろうか.それとも,世代差があるとは言え,重なる時代を生きた天才同士なので,通じ合う表現方法を獲得したのだろうか.



 ヴァザーリはティントレットを評価しなかったようで,そうした考えは現在にも少しは残っているかも知れない.

 東京書籍から出版された「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」は,もともとフィレンツェの出版社が企画したシリーズの翻訳で,30冊からなっているが,ヴェネツィア派ではジョヴァンニ・ベッリーニ,カルパッチョ,ティツィアーノはそれぞれ1冊が割り当てられているが,ティントレットはこのシリーズから外されている.

 トスカーナの芸術家は,ロッビア一族,ベノッツォ・ゴッツォリ,ルーカ・シニョレッリ,アンドレア・デル・サルトはそれぞれ1冊が割り振られ,2人で1冊だが,ポントルモとロッソ・フィオレンティーノも取り上げられている.

 これらトスカーナの芸術家たちは,みな私の好きな芸術家たちだし,こういう比較は無意味かもしれないが,ティントレットと彼らは一体どちらがビッグネームだろうか.

 単なる偶然に過ぎないかもしれないが,デル・サルトはヴァザーリの師匠,ルーカ・シニョレッリはヴァザーリの親族である.私たちが,イタリア・ルネサンス絵画に興味を抱くと,知らず知らずのうちにヴァザーリが意図した芸術観に深く影響されていく可能性はないだろうか.

 私もフィレンツェ滞在からイタリア芸術への愛好が始まったので,いまだに基本はフィレンツェ,トスカーナの芸術と思っていて,相対的にヴェネツィア派が苦手だという意識も続いている.ティントレットは,苦手なヴェネツィア派の中でも最も苦手な一人と思っていた.

 しかし,前回のサン・ロッコ同信会,今回のアカデミア美術館見学とマドンナ・デッロルト教会拝観で,ティントレットのミケランジェロを思わせる巨人性を思わずにはいられない.

 美の極致とも言うべきジョヴァンニ・ベッリーニ,画家の王者と称されるティツィアーノ,端正で破綻のないヴェロネーゼにくらべて,ティントレットは大胆な構図を惰性のように多用し,一見安直なテネブリズムで実力不足を糊塗する,大量生産を旨とした作家というような印象を持っていた.もちろん,そうした偏見を持っていたのは私だけかも知れない.

 しかし,プロの画家と言えども,仕事を受注して初めて作品を手がけていく時代の人だ.仕事を受注することによって,自分の才能を数多くの作品に結実させ,その才能のために空白となる時間を恐れた人ではなかっただろうか.

 写真で見て苦手だったティントレットの絵に,「画鬼」とも言うべき天才の迫力を感じないではいられない.

 染物職人(ティントーレ)の息子だからティントレットと通称されたが,本姓はロブスティで,イタリアで良くあるタイプの複数形の姓である.単数形のロブストは英語のrobustにあたる語で,祖先が頑健な肉体を持っていたからかも知れない.彼のよく知られた自画像(ルーヴル美術館,1588年)を見ても,齢70を越して,寂しげな表情の中に,尽きない表現意欲を感じさせる.

 まだまだヴェネツィアには未見の彼の作品がある.今後,ヴェネツィアに行く機会があるとすれば,その有力な動機の一つは,ティントレットの未見の作品を少しでも多く観ること,彼の傑作を二見,三見することになるだろう.

 この教会には,ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」が1点あったそうだが,1994年に盗難にあったまま行方知れずとのことである.ティツィアーノの名で伝わる「大天使ラファエロとトビアス」もあるが,アカデミア美術館の同主題作品同様,巨匠本人ではなく周辺にいた才能の劣る画家の作品と思われる.ティントレットの作品も上記以外に複数あり,チーマとパルマ・イル・ジョーヴァネの作品は一見に値する.

 ヴェネツィアに行ったら,マドンナ・デッロルト教会,行くべし,である.巨匠はここに眠っている.この教会はヴェネツィア人である彼の教区教会でもあった.素人の下手な写真であっても,撮影させてくれたらもっと良いのだが,それぞれの考えでこれはやむを得ないだろう.


サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂
 最終日の朝,出発まで少し時間があったので,ヴァポレットに乗り,サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂(以下,サルーテ聖堂)(英語版伊語版ウィキペディア)を目指した.

 聖堂が開くのは9時,ヴァポレットの1回券の有効時間は60分だ.開くと同時に入り,40分くらい拝観して,有効時間内に戻ってくる計算をして,時間を見計らってヴァポレットに乗った.

 9時少し前にサルーテの船着場について,聖堂が開くまで近くを散策した.19世紀に廃絶したが,ゴシック風の立派な外観の建物が残るサン・グレゴリオ教会を見て,さらに行くと,名前も確認できなかったが祈祷堂があったので,少しだけ拝観した.

 その祈祷堂は一般家屋にルネサンス風のファサードが組み込まれているような形で,堂内には祭壇と祭壇画があったが,絵はかなり褪色が進んでいて絵柄はよくわからなかった.黒人女性の大きな写真があったが,おそらくカトリックの祈祷堂であろうから,あるいはアフリカで活躍する女性宗教者かも知れない.

 撮ってきたサン・グレゴリオ教会のファサードの写真を見ると,ファサードはピンクと白の石を組み合わせた装飾が施され,オジー・アーチをいただくポルターユ,縦仕切りと四つ葉装飾がある両側の長い窓はヴェネティアン・ゴシックで,中央上部にはバラ窓がある.内部にはフレスコ画が残っているとのことだが,現役の教会ではなく,博物館にもなっていないので,拝観の手立てはないであろう.橋で渡れる運河をはさんでサルーテ聖堂の向かい側になる後陣も見事だ.

写真:
サンタ・マリーア・デッラ・
サルーテ教会
八角形の堂内


 時間通り, サルーテ聖堂が開いたので入堂したが,ティツィアーノやティントレットの傑作絵画がある聖具室が開くのは10時とのことで,見られなかった(堂内を掃除している方に教えていただいた).

 オクタゴン(八角形)の集中型の堂内は,どこが中央祭壇か,未だに理解できていないが,堂内に飾られた祭壇画は見事だった.

 ピエトロ・リーベリ「受胎告知」1674年
 ティツィアーノ「聖霊降臨」
 ルーカ・ジョルダーノ「聖母誕生」1674年
 同「聖母被昇天」1667年
 同「聖母の神殿奉献」1674年

は,撮ってきた写真とプレートで確認できる.もう1点写真は撮れたが,プレートが無かったか撮り忘れたかした祭壇画が一点あり,上部に聖三位一体,中央に天使に支えられたフランチェスコ会修道士(百合を手にしているので,パドヴァのアントニウスであろう),下方向かって左側に聖人と思われる盛装の女性(服装の立派さはアレクサンドリアのカタリナ,胸に手を当てて悔悟しているような姿はマグダラのマリアにも見えるが別の聖人かも知れないし,あるいは寄進者もしくはその家族かも知れない)が描かれている.

 「santa maria della salute venezui antonio padova」でウェブ検索すると,1771年に出版されたヴェネツィア絵画についての本のコピーを公開したページに行き当たり,そこにはピエトロ・リーベリがサルーテ聖堂にパドヴァのアントニウスの絵を描いたとあるようなので,この作品もリーベリの作品と考えて良いのだろう.

 ピエトロ・リーベリ(英語版伊語版ウィキペディア)は,英語版ウィキペディア(この画家に関しては伊語版よりもずっと詳しい)に拠れば,1605年にパドヴァに生まれ,1687年にヴェネツィアで亡くなった画家で,サルーテ聖堂に「ヴェネツィアとともに祈るパドヴァの聖アントニウス」と描いたとある.これが,その通りであれば,聖人に思われた女性は都市国家ヴェネツィアの寓意ということになる.

 この画家の絵はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに6点写真が掲載されているが,私たちが見たことがあるのは,ザニポロ聖堂の「キリスト磔刑とマグダラのマリア」だけだ.この絵の写真は英語版ウィキペディアにはないが,情報量が極端に少ない伊語版ウィキペディアには掲載されている.世紀の傑作とは言えないかも知れないが,大胆な構図と躍動感で人目はひくだろう.

 彼は1662年に元首フランチェスコ・モリーノによって騎士に叙されている.また,ピアッツェッタが18世紀後半に美術アカデミー(現在のアカデミア美術館のもととなる)の基礎を築く前の時代の美術アカデミーの初代校長になったと英語版ウィキペディアにあるが,そこからのリンクは1750年創設のアカデミーになっていて,情報として信頼がおけない.

 いずれにせよ,今は多分,忘れられた芸術家と言って良いかもしれないが,当時はヴェネツィアで栄光に包まれた画家生活を送ったのだろう.

 私はザニポロで1点,サルーテで2点この人の作品を観たわけだが,技術は確かでも,バロックの平凡な画家と言う印象はぬぐえない.それでも教会で複数の作品を観ることで来た画家には,心動かされなくても,愛着は芽生える.

 伊語版ウィキペディアに参考文献として2013年に出版されたモノグラフが挙げられていたので,イタリア,イギリス,アメリカのアマゾンを探したが,新刊では入手できないようで,最近場合によっては買えるようになったイタリア・アマゾンの古書を注文してみた.届いたら,少し勉強してみるつもりだ.



 リーベリ同様,ヴェネツィアのバロックの芸術家が,サルーテ聖堂を設計した.バルダッサーレ・ロンゲーナ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 英語版ウィキペディアでは1598年,伊語版では1596年か97年の生まれとされ,どちらも没年は1682年としている.当時としては長命な建築家だったことになる.ヴェネツィアで生まれ,ヴェネツィアで亡くなったが,師匠はアンドレーア・パッラーディオの弟子だったヴィンチェンツォ・スカモッツィ(英語版伊語版ウィキペディア)とする立場もあるようだが,伊語版ウィキペディアがより詳しく,父であるメルキセデックの工房で修業し,アレッサンドロ・ヴィットーリア(英語版伊語版ウィキペディア)とスカモッツィの影響を受けたとしている.

 ヴィットーリアは偉大な彫刻家ではあっても,建築家としての業績は知られていない.建築と彫刻の両方に秀でたヤコポ・サンソヴィーノに師事して,多くの建築家のプロジェクトに彫刻家として関わっており,ヴィットーリアの影響は,建築そのものと言うよりも,建築に彫刻をどう活かすかということであろう.

 それにしてもヴィットーリアが亡くなった1608年には,ロンゲーナは最も早い生年を採用しても14歳になるかならないかである.いかに,学校ではなく工房で年少から修業を積む時代とは言え,弟子とするには無理があるだろう.

 それ比べれば,スカモッツィは1616年まで生きている(シェイクスピアと同じ没年)ので,才能に溢れた若者が多感な時代に多大な影響を受けた可能性は高いだろう.サン・マルコ広場で,大聖堂から見て左側にある,コッレル博物館が入っている「新政庁」の建物はスカモッツィが取り掛かり,ロンゲーナが完成させたとされる.

 1630年にヴェネツィアでペストが流行し,31年までに市内で46000人,ラグーナ周辺の地域では10万人弱の犠牲者が出た(英語版ウィキペディア).その際にヴェネツィアの元老院は,疫病からの救済を祈願して聖母に捧げる教会の建設を決めた.それがサルーテ教会であり,コンペティションの結果ロンゲーナの案が採用され,31年に建設が開始され,長命のロンゲーナが亡くなる前年の81年に完成した.

 建築に関して私が何か言う筋合いではないが,アカデミア美術館に向かってカナール・グランデを渡るアカデミア橋から見えるサルーテ聖堂を含む絶景は,ミケランジェロ広場から見たフィレンツェ大聖堂の姿がフィレンツェの町を最も雄弁に語ってくれるのと同様に,ヴェネツィアの町を想い起すときに,サン・マルコ広場,リアルト橋と並んで代表的な風景であろう.

 個人的な好みとしては教会建築は古いほど興味を覚えるが,サルーテ聖堂の優雅な姿は,バロックの建築としては,上品で美しい,と私も思う.

写真:
ティツィアーノ
「聖霊降臨」


 聖具室のティツィアーノ作「アベルを殺すカイン」,「ゴリアテを倒したダヴィデ」,「イサクの犠牲」,「玉座の聖マルコと聖人たち」他と,ティントレットの「カナの婚礼」は見られなかったが,「聖霊降臨」を観ることができたのは嬉しかった.

 この作品には工房の助手の手が入っていて,ティツィアーノ作品としての標準に達していない(Ruggero Rugoro, Venice: Where to Find, Firenze: Scala, 2003, p.51・・以下,ルーゴロ)とする立場もあるようだし,「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」というシリーズの24巻『ティツィアーノ』(東京書籍,1995)でも,聖具室の「聖マルコと聖人たち」,「イサクの犠牲」は取り上げられているのに,この作品は写真も掲載されていないが,私は好きだ.

 聖母を始めとして個々の人物の顔には不満が残るうえ,群像表現もティツィアーノにしては稚拙かも知れないし,アーチ型の天井も遠近法が成功していないように思われる.

 それでも,朝の光が窓から差し込む堂内でこの作品を観た私には,聖霊を表す鳩から降り注ぐ光を浴びる聖母たちの姿に人々の救済への希望が集約されているようで,サルーテ聖堂の堂内を飾るのにふさわしい作品に感じられた.

 しかし,この絵はティツィアーノの名を冠している以上,16世紀の作品であり,サルーテ聖堂創設のずっと前に描かれたことになる.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはほとんど情報がないが,1545年頃の作品としている.上記のルーゴロは少し詳しく,1541年頃に同主題の作品が描かれたが,劣化してしまったために1556年頃に改めて描かれ,サント・スピリト・イン・イーゾラの修道院に収められたとしている.

 現在,聖具室に収めらている諸作品もサント・スピリト・イン・イーゾラにあったらしく,その中でも最も若い頃の作品とされる「聖マルコと聖人たち」」1510年頃の作とされるので,この修道院および教会とティツィアーノの関係は随分長く続いたことになる.

 1656年にこの修道院は閉鎖され,ここにあった絵画作品等は,サルーテ聖堂に移管された(伊語版ウィキペディア)とのことである.ただし,ティントレットの「カナの婚礼」はジェズイーティ教会にある「聖母被昇天」と同じくクローチフェーリ修道院にあったようだ.

 宗教画も,オリジナルに描かれた場所にあるとは限らないわけだが,「聖霊降臨」は絵柄を意識した大理石の祭壇に収められており,まるで最初からその祭壇のために描かれたかのように飾られている.巨匠の傑作との判断留保する多くの評言に接しながらも,私がこの作品に好感を持つのも,オリジナルな場所ではないとは言え,飾られるのにふさわしい場所に,もとからあったかのように収まっていることが大きな理由であろう.

写真:
ティツィアーノ
「洗礼者ヨハネ」
アカデミア美術館


 今回,相当数のティツィアーノの作品を観ることができたが,最晩年の「ピエタ」は別格としても,心打たれる作品はサン・サルヴァドール教会の「受胎告知」,ジェズイーティ教会の「聖ラウレンティウスの殉教」だ.

 後者はもともとそこにあったわけではないが,それでも教会に飾られた作品が心を打つように思われる.アカデミアで観た「洗礼者ヨハネ」もかつて特別展で出会った作品で,もともとはヴェネツィアのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会のために描かれたものとのことなので,もちろん,特別展で観ても,美術館で観ても傑作だと思うが,できれば教会で観たかったと思う.

 採光がすばらしいサルーテ聖堂の朝の光の中で,「聖霊降臨」を観る悦びは,芸術作品としての完成度を超えて,私たちにせまってくるものがある.こうした配置をしたのがロンゲーナであったかどうかは今のところ,情報がない.

写真:
ルーカ・ジョルダーノ
「聖母マリアの神殿奉献」


 「聖霊降臨」の事情とは異なり,リーベリの2作とジョルダーノの3作はもともとサルーテ聖堂のために描かれたものだ.リーベリは,現在はともかく当時は評価の高かった画家であり,ジョルダーノは,ティツィアーノには及ばないまでも,イタリア絵画史上に燦然と輝く巨匠である.

 リーベリの絵は今見れば地味な印象は免れないし,ジョルダーノの作品も,新しいだけに数多くの作品が諸方で見られる画家の絵なので,あるいは有難みにかけるかも知れないが,この聖堂にルーカの作品があることを知らなかったので,巨匠の一定以上の水準を保った作品を複数観ることができて嬉しかった.

 特に,ヴェネツィアでティツィアーノとティントレットの,ローマでヴェネツィア出身のカルロ・サラチェーニの「聖母の神殿奉献」を観た後なので,ナポリ派の画家がヴェネツィアで描いた「聖母の神殿奉献」は心に刻まれた.

 華やかでルーカらしい絵だが,青い衣をまとった小さな聖母はティツィアーノの描いた絵を思わせ,何かしらの影響はあったのではないかと思わせられる.

 イタリアの教会を観て,心に残る体験は初めてではないが,サルーテ聖堂拝観は,その中でも最良に近い印象が残った.是非,もう一度訪れ,今度は是非,聖具室の諸作品も鑑賞したい.


サンタ・マリーア・デイ・ミラコリ教会
 サンタ・マリーア・デイ・ミラコリ教会(英語版伊語版ウィキペディア)(以下,ミラコリ教会)は,「ヴェネツィア・ルネサンスの宝石箱」と言われる.その美しい外観を写真で見て,ずっと憧れていたが,3度目のヴェネツィア行でようやく実物を目にすることができた.

 3日目,アカデミア美術館とフラーリ教会のツァー観光が終了した後,リアルト橋の船着場でヴァポレットを降りて,ザニポロ聖堂に向かう途中に立ち寄った.

写真:
サンタ・マリーア・デイ・
ミラコリ教会


 「コーラス」に加盟しているミラコリ教会の拝観には入堂料がいる.今回は外観をじっくり鑑賞して,入り口から堂内を覗いて,絵画作品などがほとんどないことを確認して,先を急いだ.次回は観るべきポイントをしっかり押さえて,堂内もじっくり見るつもりだ.

 Paola Modesti, Santa Maria dei Miracoli: Un' Architettura all' Antica nel tTardo Quttrocento, Venezia: Marsilio, 2009

を入手した.「コーラス」のシリーズの1冊で読みやすい.

 アカデミア美術館で観たジョヴァンニ・ベッリーニの「受胎告知」はこの教会のオルガンの扉絵だったそうだ.この案内書では冷静に「工房作品」と断じているが,昔,NHKで放映したルネサンス芸術紹介番組で故・若桑みどりが取り上げたのを見て以来,憧れ続けた作品だ.

 確かにベッリーニの他の作品と比べと「?」と思う点も全くないではないし,アカデミアの案内書を読んでも,作者同定には多くの議論があるようだ.しかし,アカデミアで観ることができて,嬉しかった作品の一つであることは間違いない.

写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ工房
(カルパッチョ工房説も)
「受胎告知」
アカデミア美術館


 今は,床や壁面の石が織りなす装飾を愛でるべく,がらんどうになっている教会で,それはそれで鑑賞に堪えるが,かつてはベッリーニもしくはその工房が制作した傑作絵画があった.次回は,心して堂内拝観も実現しよう.

 ミラコリ教会の設計者はピエトロ・ロンバルド(英語版伊語版ウィキペディア)で,協力者には息子たちの他,アレッサンドロ・ヴィットーリアの名も挙がっている.彼らを始め,多くの教会を設計,建築した建築家たち,また,彼らと協力して,堂外,堂内を飾った彫刻家たちにもフォーカスした勉強が次の目標の一つだ.






何度も撮っても実物に勝るものなし
サン・ザッカーリア教会