§2015 ヴェネツィアの旅 - その8 ヴェネツィア本島の教会(前篇)
今回の旅で最も満足したことは,自由時間を利用して,他の人はあまり興味を持たないような小さな教会も幾つか見て回ったことだ. |
こうした小さな教会の紹介を前篇とし,後篇では少し規模の大きな教会を幾つか取り上げ,〝島めぐり”の回で,島の教会に触れることで,教会篇の報告をまとめることにする.
「ヴィヴァルディの教会」
最初にヴェネツィアに旅した時も,あちこちで「ヴィヴァルディ」と言う名前を見たが,アントニオ・ヴィヴァルディ(英語版/伊語版/日本語版「アントニオ・ヴィヴァルディ」も独自で詳細,有益)が音楽指導者として関わった教会については何の知識もなかった.
「ヴィヴァルディの教会」と俗称されるのは,サンタ・マリーア・デッラ・ヴィジタツィオーネ教会(「ご訪問」の聖マリア教会),もしくはサンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会,通称「ピエタ教会」(キエーザ・デッラ・ピエタ)(英語版/伊語版ウィキペディア)である.
サン・マルコ小広場(ピアッツェッタ)を運河の前まで進み,総督宮殿の角を左に曲がり,スキアヴォーニ河岸(リーヴァ)を歩き,橋を3つ渡ると,このピエタ教会に着く.
現在の教会の創始は1745年とあって,一瞬,あれっと思った.ヴィヴァルディがウィーンで貧窮死したのが1741年だからだ.
しかし,この教会には母体があった.ピエタ病院と孤児院(オスペダーレ・デッラ・ピエタ)(英語版/伊語版ウィキペディア/日本語版ウィキペディアにも「ピエタ院」で立項)で,古くは十字軍に参加する兵士たちに提供された宿から始まり,十字軍終息ともに,孤児院として社会的役割を果たした.ヴィヴァルディはここで音楽指導者として活躍した.
孤児の少女たちに音楽教育を施す学校の機能も兼ね備えたこの孤児院で,1703年から指導に携わり,最初はヴァイオリンを教えたようだが,やがて音楽全般の指導にあたり,中断を交えながら1740年まで務めた.中断があるとは言え,37年に渡って1つの職に関わるというのは大変なことだ.
ヴィヴァルディは聖職者となり,司祭にも叙階され,「赤毛の司祭」とのあだ名があったくらいであった.健康上の理由(伊語版と日本語版ウィキペディアは「喘息」)で,ミサの司式を免除されたが,生涯聖職にはとどまったらしい.
父ジョヴァンニ=バッティスタは,ブレーシャの仕立て屋の子として生まれたが,父の死後ヴェネツィアに出て,理髪師を生業としながら,ヴァイオリンの名手として知られ,サン・マルコ聖堂の楽隊などで活躍した.
父ジョヴァンニ=バッティスタと親交があった,作曲家として知られるジョヴァンニ・レグレンツィ(英語版/伊語版ウィキペディア)がアントニオ・ヴィヴァルディの師匠だったという説もある.レグレンツィは,ベルガモ県のクルゾーネ生まれで,ベルガモ,フェッラーラ,ミラノ,パルマ,ボローニャ,ウィーンで仕事をし,ヴェネツィアでサン・マルコ聖堂の楽師長になった.
サン・マルコでレグレンツィが職を得たのが,1681年,楽師長になったのが1685年,ヴェネツィアで亡くなったのが1690年で,この時点で,1678年生まれのアントニオは12歳なので,いかに早熟でも作曲を師事するのは難しいかも知れないが,何かしらの影響はあったかも知れない.
アントニオの父,ジョヴァンニ=バッティスタも作曲家レグレンツィも,ヴェネツィアの影響下にあるとは言え,現在はロンバルディア州に属している地域の出身である.アントニオが生まれた119年後にヴェネツィア共和国は消滅するが,この時点では,まだ政治的,経済的,文化的求心力があったものと思われる.
書架にヴィヴァルディを単独で扱った本が無かったので,インターネットの「日本の古本屋」で,
ロラン・ド・カンデ,戸口幸策(訳)『ヴィヴァルディ』白水社,1970
を入手した.アマゾンでも,ものすごく古書価が高かったので,それにくらべると安価ではあったが,元値よりも高い本を,普段の方針に反して買ったのは,ヴィヴァルディという,自分にとってはほぼ自明のように思われた作曲家の伝記的事実に関して,あまりにも知識がなかったことに我ながら驚いたからだ.
この本の本格的な勉強は今後を待つが,出版年は古い(原著の公刊は1967年)けれども,古文書にもあたった丁寧な調査に基づいた本のようだ.作曲家との関係は完全に証明はできないようだが,「ヴィヴァルディ」と言う姓は北イタリアを中心に多く存在し,ヴェネツィアのライヴァルだったジェノヴァでは16世紀に元首になった人物もいたとのことで,こんなことまで調べるのかと感心した.
この本は,ヴィヴァルディの音楽や当時の評判も詳しく述べられており,現在の研究水準はもっと上がっているのではあろうが,なにぶん,日本語で読めるヴィヴァルディのモノグラフィーは精々3冊くらいしかないようなので,図書館等で参照できるのであれば,この本は是非読んだ方が良い.勤務先の図書館情報検索によれば1冊架蔵しているようだ.
ヴィヴァルディの音楽には毀誉褒貶があるかも知れないが,一般の日本人が知っているクラシック音楽の作曲家としては,バッハ,モーツァルト,ベートーヴェンの次くらいに位置するグループにいるであろう.
劇作家のカルロ・ゴルドーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)は1707年ヴェネツィア生まれで,ヴェネツィア共和国消滅の僅かに以前の1793年にパリで亡くなっている.生年で29年,没年で52年,ヴィヴァルディが先行しているが,彼らはヴェネツィア共和国という女神ミネルヴァが黄昏を迎えた時に,飛翔したフクロウたちだったと言えようか.
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写真:
ピエタ教会 |
新しい版を購入していないので,随分前に買った本だが.
『地球の歩き方 ミラノ ヴェネツィアと湖水地方 '07~'08』ダイヤモンド社,2007
に,ピエタ教会の情報として「イベント開催時のみオープン」(p.220)とあり,実際に行ってみると,扉は開いており,受付のようなコーナーもあったが,CDを販売しているだけで,この日は堂内は鉄柵で閉ざされていた.
上の写真は,鉄柵の間からカメラを入れて撮ったものだ.なので,作品自体の鑑賞はしっかりできていない.ティエポロの天井画があることは情報として知っていたので,撮影禁止でないことを確認して写真だけは撮ってきた.
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写真:
ジャン=バッティスタ・ティエポロ
天井フレスコ画「聖母戴冠」
ピエタ教会 |
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画家のジャン=バッティスタ(ジョヴァンニ=バッティスタ)ティエポロ(英語版/伊語版ウィキペディア)は1696年の生まれで,1770年に亡くなった.ヴィヴァルディとゴルドーニの中間の世代の,やはり黄昏に飛んだフクロウの一羽だったと言えよう.
先人であるセバスティアーノ・リッチ(英語版/伊語版ウィキペディア)が,1659年の生まれで1734年まで,ジャン=バッティスタ(ジョヴァンニ=バッティスタ)・ピアッツェッタ(英語版/伊語版ウィキペディア)が1682年もしくは83年の生まれで,1754年まで生きた.
ティエポロと同世代のカナレット(英語版/伊語版ウィキペディア)は,1697年生まれで,没年が1768年,やや後進にあたるフランチェスコ・グァルディ(英語版/伊語版ウィキペディア)は,1712年の生まれで,1793年に亡くなったので,以上あげた「フクロウたち」は全員が,ヴェネツィア共和国が地上に存在した時代の芸術家ということになる.
ジャン=バッティスタの息子ジャン=ドメニコ・ティエポロ(英語版/伊語版ウィキペディア)は,没年が1803年なので,ヴェネツィア共和国滅亡後に亡くなった芸術家ということになる.
他に思いつく芸術家としてアントニオ・カノーヴァ(英語版/伊語版ウィキペディア/日本語版「アントニオ・カノーヴァ」も詳細)がいるが,カノーヴァは少し若くて,1757年の生まれなので,97年のヴェネツィア共和国滅亡の際には40歳で,1822年に65歳で亡くなるまでなお25年生きる.
彼らのうち,リッチはベッルーノ,カノーヴァがトレヴィーゾ県ポッサーニョの生まれで,他はヴェネツィア生まれだ.ベッルーノもポッサーニョも現在はヴェネト州であり,当時はヴェネツィア共和国領であったはずだ.消滅の間際にも,なおこれだけの芸術家が領内から輩出したことに驚嘆と畏敬の念を覚える.
堂内には他にもティエポロやピアッツェッタの作品があるという情報もあるが,案内書やウェブページによって違うことが書いてあるので,いつの日か,この目で確認するまでは,上の写真の天井画のみかろうじて見ることができた,と言う状況のままである.
ピエタ教会のファサードはよく見ると,なかなかの芸術性に富んでいるように思われる.ジャイアント・オーダーのように見える大きな4本の柱はそれぞれコリント式の柱頭で飾られ,基層部分の両側には透かし彫りの丸窓があって,ギリシア神殿風の破風にも透かし彫りの丸窓がある.
入り口は,コリント式柱頭を持つ柱が楣を支え,その内側には上部が半円のアーチ,上部にはルネサンス風の装飾三角破風がある.ドーリス式を思わせるシンプルな柱頭に支えられたルネサンス風半円アーチの窓が,ファサードの両側にあって,そのそれぞれの上下に植物文様の透かし彫りがある正方形の窓が付されている.
入り口の三角破風の上には,方形の枠に囲まれた見事な浮彫があって,その図柄は,子供たちを愛護している聖母に,天使が拝跪しているように見える.キリストの死を悼むピエタではなく,孤児たちに対する聖母に慈愛を意味するピエタの図像であろう.
現在のピエタ教会を設計したのは,ジョルジョ・マッサーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)で,1687年生まれ,1766年死亡,生没地はいずれもヴェネツィアである.リッチ,ヴィヴァルディ,ピアッツェッタより年少,上記その他の芸術家たちよりは年長で,彼もまたやはりヴェネツィア共和国の黄昏に飛んだ「フクロウ」たちの1羽だったことになろう.
マッサーリの作品としては,ドメニコ会の教会サンタ・マリーア・デル・ロザーリオ教会(ジェズアーティ教会)(英語版/伊語版ウィキペディア)があり,同教会について詳細に解説した英語版ウィキペディアには,ドイツ出身でアメリカで活躍した美術史家のルドルフ・ウィットコウアーが,マッサーリを「18世紀前半のヴェネツィアで最も偉大な建築家」と評したことに触れている.
今まで,それがどこにあるかも意識したことがなかったのに,俄かに称揚を始めるようで,我ながら軽薄なことに思えるが,ピエタ教会には,ヴィヴァルディ,マッサーリ,ティエポロと黄昏のヴェネツィア共和国の最後の光芒とも言うべき芸術家たちが関わっていたことになる.
3回もヴェネツィアに行って,ピエタ教会の外観は1枚も写真に撮っていない.イタリアには,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス,バロック,各時代の見事な建築が数多あり,古代遺跡もあるので,より古い由緒の建築に目が行きがちで,ピエタ教会のように1745年に建設が始まった新しい教会はついつい,おざなりに見てしまう.
実際に,カナーレ・グランデに通ずるサン・マルコ運河に面して建つピエタ教会のファサードを正面からきれいに撮ろうと思ったら,ヴァポレットか何かに乗って運河の上から撮るしかないかもしれないが,次回,内部拝観も含めて挑戦したい.
今回見学した教会
外観を見ただけのものを含めると相当数の教会を初めて見たが,自由時間は主としてツァーとしての観光が終了した後の夕方の時間帯で,ホテルを拠点として徒歩で回るため,地域的にはサン・マルコ区,カステッロ区の教会にほぼ限定された.例外は,一日あった自由行動の日で,行ったことのないカンナレージョ区の教会をヴァポレットを利用して回った.
新たに堂内拝観を果たすことができた本島の教会は,
サンティ・アポストリ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ズリアン教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ(グリゾストーモ)教会
サンタ・マリーア・デッラ・コンソラツィオーネ教会
サンタ・マリーア・アッスンタ教会(通称ジェズイーティ教会)
マドンナ・デッロルト教会
サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会
であるが,このうち写真撮影可だったのは,サンティ・アポストリとサンタ・マリーア・デッラ・コンソラツィオーネ,サンタ・マリーア・デッラ・サルーテのみであった.
開いておらず,外観だけを見て写真に収めることができた教会は,
サン・ファンティン教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ロレンツォ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ルーカ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ベネート(ベネデット)教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・リーオ教会(サン・レオーネ教会)(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ジョヴァンニ・ノーヴォ(ヌォーヴォ)教会(伊語版ウィキペディア)
サン・カンチャーノ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サンタ・マリーア・デイ・ミラコリ教会
サンタ・マリーア・デイ・デレリッティ教会(伊語版ウィキペディア)
サン・グレゴリオ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・モイゼ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
であった.
この他に,2度目,3度目の拝観を果たした,サン・マルコ大聖堂,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂,サンティ・パオロ・エ・ジョヴァンニ聖堂,サンタ・マリーア・フォルモーザ教会,サン・サルヴァドール教会があり,さらに島嶼部の諸教会とパドヴァのエレミターニ教会を拝観しているので,やはり,イタリアに来る醍醐味は教会拝観だなと思う.堂内を見られないのは残念だが,ファサード,後陣など外観だけでもまずまずの満足感が得られる.
例えば,最終日の朝,ヴァポレットに乗って,サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会を拝観に行った時,教会が空くのを待っている間に散歩して見つけたサン・グレゴリオは,ベネディクト会の修道院とともに19世紀に廃絶した教会だが,ゴシック様式のファサードと後陣は見応えがあった.
伊語版ウィキペディアに「ヴェネツィアの教会」(英語版もある)と言うページがあり,地区別に整理されていて,そこから各教会の紹介ページを見ることができる.上記の教会名のところに,有名どころ以外はリンクしておくので,写真だけでも見てもらえばと思う.
サンティ・アポストリ教会
サンティ・アポストリでは,ティエポロの「聖ルキアの聖体拝領」を見ることができた.その他にも,ドメニコ・マッジョット(英語版/伊語版ウィキペディア)「アレクサンドリアの聖カタリナ,大修道院長アントニウス,ヒエロニュムス,ジョヴァンニ・ネポムチェーノ」,セバスティアーノ・サンティ(英語版/伊語版ウィキペディア)「使徒たちの間のキリスト」,チェーザレ・ダ・コネリアーノ「最後の晩餐」,ジュゼッペ・トッレットの彫刻「聖ペテロ」,「聖パウロ」を鑑賞し,写真に収めることができた.
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写真:
サンティ・アポストリ教会
ジャン=バッティスタ・ティエポロ
「聖ルキアの聖体拝領」 |
マッジョットはピアッツェッタの工房で育った画家で,生年が1713年,没年が1794年なので,上記の芸術家たちの中では,フランチェスコ・グァルディが1歳年長の同世代で,やはりヴェネツィア共和国が滅亡する前に亡くなった.
どことどこにあったと今すぐに名前を挙げることはできないが,ヴェネツィアの諸方でこの画家の作品を見ることができたように思う.ただし,息子のフランチェスコ・マッジョット(英語版/伊語版ウィキペディア)もヴェネツィア生まれ(1738年)のヴェネツィアで亡くなった(1805年)画家で,佳品と言える宗教画を遺しているようなので,父の作品か,息子の作品かを確認しなければならないだろう.
作風や得意分野が違うティエポロ親子の作品を見て,父ジャン=バッティスタの作品か,息子ジャン=ドメニコの作品か全く見分けがつかないことは,今では少なくなったとは思うが,マッジョット親子に関しては,この目で両者の作品を見る経験を重ねない限りは,それぞれの個性を把握することはできないだろう.
セバスティアーノ・サンティは1789年ムラーノ島の生まれで,1866年ヴェネツィアで亡くなった画家だ.フランチェスコ・マッジョットの没年が1805年で,ジャン=ドメニコ・ティエポロの死の2年後で,彼らはヴェネツィア共和国滅亡後に亡くなった,黄昏に飛ぶフクロウたちの第2世代と言えるであろうが,サンティは8歳の時に「いとも晴朗なる国」(ラ・セレニッシマ)と称された祖国が消滅した.
彼はピアッツェッタが創始した美術学校の出身で,その意味でも新しい世代の画家と言える.
チェーザレ・ダ・コネリアーノに関しては,今のところ,英語版ウィキペディアにしか情報がなく,それに拠れば,サンティ・アポストリの「最後の晩餐」のみが作品として知られているという画家だ.教会内の案内板でも,英語版ウィキペディアでも16世紀半ばに活動したことしかわからない.
彼はティツィアーノの同時代人にあたるが,イル・ポルデノーネや,その弟子でコネリアーノ出身のフランチェスコ・ベッカルッツィとの関係も,同じくコネリアーノ出身の先人チーマ・ダ・コネリアーノやその息子たちとの関係も不明とのことだ.いずれにしろ,この教会にある絵画としては随分古い方の作品ということになる.
他にも伝ヴェロネーゼの「マナの降下」,ジローラモ・カンパーニャ(英語版/伊語版ウィキペディア)の彫刻「天使たち」があり,前者は写真も撮ったが,よく写らなかった.ヴェロネーゼの作品ではないとしても,しっかり見てくれば良かった,と多少悔やまれる.
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写真:
サンティ・アポストリ教会
14世紀のフレスコ画
「キリスト降架」
「キリスト哀悼」 |
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14世紀のフレスコ画断片は,特に芸術性をどうこう言うようなものではないとは思うが,ヴェネツィアでは古いフレスコ画は珍しいので,一応写真に収めた.
サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ(グリゾストーモ)教会 サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ(グリゾストーモ)教会(英語版/伊語版ウィキペディア)は,何といってもジョヴァンニ・ベッリーニの「聖クリソトフォロス,聖ヒエロニュムス,トゥールーズの聖ルイ」である.
1513年に描かれたいうことで,1516年に亡くなったベッリーニの晩年の作品と言うことになる.もちろんベッリーニの作品と知って見に行ったこともあるが,絵の前でしばし立ち止まることになる立派な作品だ.私は傑作だと思う.
中央上部で岩の上に座って読書(もしくは聖書の翻訳)をする老人のヒエロニュムスは,本当なら中近東の荒涼たる世界にいるはずだが,どちらかというと北イタリアのような風景の中にいて,それは角柱に支えられたアーチの向こう側の光景である.こちら側との境界であるアーチの柱の両内側にはクリストフォロスとルイがいる.構図上のバランスを取るためか,嬰児キリスト(=世界)を肩に担う巨人クリストフォロスと司教姿の優男のルイがほぼ同じ身長に描かれている.
人物の描写は割合に写実的に見えるのに,その佇まいと構図が幻想的な世界を創り上げていて,現実味を感じさせながら,人を別世界に引き込むような不思議な絵に見える.
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写真:
サン・ジョヴァンニ・
クリソストーモ教会 |
教会の創建は1080年,1475年の火災で焼失し,1497年に再建が始まり,1525年に完成した.建築家はこの時代を代表する建築家の一人マリオ・コドゥッシ(英語版/伊語版ウィキペディア)とその息子ドメニコであった.
上の写真の向かって右側がファサードだが,狭い通りなので写真は撮りにくい.飾り柱のように見えるファサードの四角い柱はコリント式の柱頭だが,少し後の完成(16世紀後半)の,コドゥッシの作品ではない鐘楼の柱頭は,イオニア式が用いられている.
堂内の柱も角柱だが,飾り柱ではなく,構造上意味のある柱で,柱頭は簡素なコリント式とイオニア式を組み合わせたコンポジット式である.柱の途中なので,柱頭と言うのは躊躇するが,ドーリス式柱頭を模した装飾も見られる.いずれにしてもヴェネツィアの少し遅いルネサンス建築であることが想像される.
壁の色がオリジナルがどうかは情報がないが,それだけ見ていると,16世紀前半の建築とは思えない新しさを感じる.
外観からすると,新しい教会と思い込んで,見逃してしまっても不思議はないが,ベッリーニの祭壇画は間違いなく傑作だし,今回,残念にも見逃してしまった,中央祭壇に飾られたセバスティアーノ・デル・ピオンボの「聖人たち」(ヨハネス・クリュソストモス,洗礼者ヨハネ,福音史家ヨハネ,テオドロス,マグダラのマリア,ルキア,アレクサンドリアのカタリナ)の華やかな絵が見られる.
トゥッリオ・ロンバルド(英語版/伊語版ウィキペディア)の大理石祭壇彫刻「聖母戴冠」があるとされているが,これも確認していない.
今回はともかくジョヴァンニ・ベッリーニの絵を見ることに照準を合わせていたので,その他の情報収集が不足だった.次回に楽しみを残した.堂内撮影禁止が残念だが,これも仕方がない.
ファーヴァ教会
サンタ・マリーア・デッラ・コンソラツィオーネ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)(通称のファーヴァ教会を用いる)のファサードは,大理石等による装飾が全く施されておらず,武骨な感じがあって,「より古いものを見たい」という気持ちからすると,かなり好感度が高い.
しかし,この教会が現在の姿になったのは意外にも新しく,1711年にアントニオ・ガスパーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)の設計により着工され,後陣や内陣は1750年にジョルジョ・マッサーリが完成させたとのことである.
完成後半世紀を経ずして,ヴェネツィア共和国は消滅する.
古く見えるのは,未完成ということらしい.マッサーリは上で言及したように,ピエタ教会を現在の姿にした建築家であり,ガスパーリは1723年に亡くなったその先人である.マッサーリは現在もヴェネツィアに残る有名な建造物を複数設計しており,ガスパーリが設計した邸宅もいくつか現存しているようである.
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写真:
ジャン=バッティスタ・ピアッツェッタ
「聖フィリッポ・ネーリの前に現れた
聖母子」
ファーヴァ教会 |
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英語版も伊語版もウィキペディアには,ティエポロとピアッツェッタ以外の,この教会の絵画作品の情報はないが,幸いなことに,撮影可だったので,説明版も写真に収めてきた.全部ではないが,幾つかは把握できる.
ヤコポ・アミゴーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)「エリザベト訪問」(1743年)
ジャンベッティーノ・チニャローリ(英語版/伊語版ウィキペディア)「聖母子と聖グレゴリオ・バルバリーゴ」(1761年)
グレゴリオ・ラッザリーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)「磔刑のキリストと聖母マリア,福音史家ヨハネ,マグダラのマリア」(1731年頃)
があったことがわかる.それぞれ,よく描けた絵だと思うが,下の写真の「聖母子と聖フランチェスコ・ディ・サーレス(フランソワ・ド・サール)」を見ても,ピアッツェッタやティエポロの影響を思わせ,この時代の流行を想起させる.
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写真:
ヤコポ・アミゴーニ
「聖母子と聖フランチェスコ・
ディ・サーレス」
ファーヴァ教会
1743年 |
しかし,意外にも1682年生まれのアミゴーニは,ルーカ・ジョルダーノやフランチェスコ・ソリメーナと言ったナポリ派の画家の影響が見られるとされ,生まれも「ナポリもしくはヴェネツィア」(英語版と伊語版のウィキペディア)となっている.
ピアッツェッタと同年の生まれであり,もちろんティエポロより年長だ.そう考えると,ピアッツェッタやティエポロの絵に共通する,朧げな空気の中に,独特の色彩感覚によって浮遊感のある画面を構成する表現方法は,彼らに先行してあり,それを集大成して,それぞれの個性をそこに活かしたのがピアッツェッタやティエポロということになるのだろうか.
アミゴーニがナポリ派の影響を受けているとしても,この教会で観ることができた2点の作品に関しては,ルーカ・ジョルダーノやソリメーナとの類似を感じることはできない.私にとっては,あくまでもヴェネツィアで観ることができた,黄昏のヴェネツィアの画家に思える.
しかし,ドイツで活躍し,パリにもその足跡を残し,マドリッドで亡くなったアミゴーニの経歴を知ると,ヴェネツィアで観ることができて,その空気になじんでいるからと言って,単純にヴェネツィアの画家と思い込むことは避けなければならないだろう.
ラッザリーニはヴェネツィアで生まれ,ヴェネト地方の小都市で亡くなったのでヴェネツィアの画家と言っても良いと思うが,1657年の生まれで,後期ヴェネツィア派の最初の巨匠とされるセバスティアーノ・リッチより2歳年長で,ピアッツェッタより25歳くらい年長である上に,ティエポロの最初の師匠だったようである.したがって,私たちが後期ヴェネツィア派と認識する画家たちより一時代前の画家と考えて良いかも知れない.
ラッザリーニの父は理髪師だったようだが,姉のエリザベッタが成功した画家(仏語版ウィキペディアに立項されているが情報は少ない)だった.しかしわずかに3歳年長の姉が師匠だったわけはなく,ジェノヴァ出身の画家フランチェスコ・ローザ,ヴェネツィア出身のジローラモ・フォラボスコに学び,ピエトロ・デッラ・ヴェッキア(英語版/伊語版ウィキペディア)の工房で仕事をした.
この,1603年生まれのバロックの画家デッラ・ヴェッキアの師匠がパドヴァニーノことアレッサンドロ・ヴァロターリ(英語版/伊語版ウィキペディア)で,ここでようやく既知の画家にたどり着く.
パドヴァニーノの父で師匠のダーリオ・ヴァロターリ(英語版/伊語版ウィキペディア)は,パドヴァではなくヴェローナ・ローカルの画家で建築家だったようだが,画家就業時代にはヴェロネーゼの弟子で,ヴェネト地方出身でヴェネツィアで活躍した巨匠の系譜に連なる,
チニャローリは,時代は違うがパドヴァニーノの父のようにヴェローナで生まれ,ヴェローナで亡くなった画家だ.1706年生まれで,ティエポロよりも15歳年下で,没年は同じ1770年である.ヴェローナ生まれだが,ボローニャ,トリノ,ベルガモでも活躍したサンテ・プルナーリ(英語版/伊語版ウィキペディア)のもとで修業し,ヴェネツィアの画家アントニオ・バレストラ(英語版/伊語版ウィキペディア)の門下で学んだ.
バレストラの大きくて美しい「牧人礼拝」を私たちはサン・ザッカーリア教会で観ている.バレストラもまたヴェローナで生まれヴェローナで亡くなった画家だ.私たちはヴェローナのカステルヴェッキオ美術館で2度充実した鑑賞を果たしているが,この画家がヴェローナの芸術家だったとは全く知らなかった.
一体どこで学んだのか考えると,ヴェネツィアしか考えにくいが,アントニオ・ベッルッチ(英語版/伊語版ウィキペディア)に学び,その後ローマでカルロ・マラッタ(英語版/伊語版ウィキペディア)の工房で修業した.その仕事はヴェネツィア共和国支配下の諸都市で行われたが,その修業時代には当時のローマ芸術の影響も受けた.
師匠筋にあたるベッルッチは,ヴェネト地方の現在のトレヴィーゾ県にある小邑ピエーヴェ・ディ・ソリーゴで生まれ,そこで亡くなったが,活躍の場は主としてヴェネツィアでドイツやイングランドでも仕事をした.修行の場も現在のクロアチアだったようで,地元に根差しながらも,国際的に活躍した画家とも言えよう.英語版ウィキペディアには弟子だった可能性のある画家としてバレストラの他にアミゴーニの名を挙げている.
ファーヴァ教会で出会った画家からたどって,何人かの初めて知る画家の名前に行き着いた.私が知らなかっただけで,これらの画家の殆どはウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも複数の作品の写真と解説が掲載されている.
ヴェネツィアで彼らの作品を見られる美術館としてカ・レッツォニコ(英語版/伊語版ウィキペディア)の18世紀(1700年代)ヴェネツィア博物館があるようだ.まだ訪れたことはないが,黄昏のヴェネツィアの魅力を知るためには,重要な博物館であり,今回初めて知った芸術家たちへの理解を深めるためにもその見学は必須であろう.
カ・レッツォニコの設計はサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会の設計者バルダッサーレ・ロンゲーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)であり,完成させたのはピエタ教会の設計者マッサーリである.
色々調べてみると堂々巡りのように同じ芸術家の名前にたどり着く.しかし,この連鎖は決して空しいものではない.なじみがない今はバラバラに思える知識が,いつの日か15世紀から16世紀の黄金期のヴェネツィア芸術と18世紀の黄昏の輝きを結び付けて,「ヴェネツィア」と言う巨大な体系を,たとえその一端であっても理解する鍵を私に与えてくれると信じたい.
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鐘楼のデザインが印象的な
サンタ・マリーア・フォルモーザ教会
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