§2015 ヴェネツィアの旅 - その7 マルチャーナ図書館大広間,国立考古学博物館
2008年2月にコッレル博物館を訪ねた時には分からなかったが,同じ入場料で国立考古学博物館とマルチャーナ図書館の大広間が見られる.そもそも現在はコッレル博物館と総督宮殿はコンバインド・チケットになっているので,チケットを買うと,これらが全部見られる. |
コッレルで入場券を買うとき,係員が総督宮殿は見たかと尋ねてきて,昨日見たと言うと,ではその券を見せろと言われた.二重に払うことのないようにとの配慮だったようだが,団体行動だったので半券を貰っておらず,シークレット・ツァー(一般公開の部分も見られる)で見学したと説明すると,それはコンバインド・チケットとは別のものらしく,新たにコッレルと総督宮殿を両方見られる券を購入することになった.
時間がなかったので,総督宮殿の再見学はしなかったが,今思えば,短時間でも,もう一度見学すれば良かった.
前回,どうやって考古学博物館とマルチャーナ図書館大広間を見ないで済ませたのか不思議だが,とにかく,立派な展示,見事な天井画,壁画装飾が見られて,嬉しいサプライズだった.
サン・マルコ広場を囲む建築
コッレル博物館の入り口はサン・マルコ広場の西の一角をなす建物にあるが,この,サン・マルコ広場を挟んで大聖堂の向かい側にはかつてサン・ジェミニアーノ教会があった.この教会は1807年に廃絶し,ヴェネツィアを征服,支配していたナポレオンのために「ナポレオン翼」(伊語ではアーラ・ナポレオニカ,英語ではナポレオニック・ウィング)が建設された.
ヴェネツィア共和国がカンポ・フォルミオ条約で消滅した1797年の時点では,ナポレオンはまだ,「総裁政府」が支配するフランス共和国の1将軍に過ぎなかった.しかし,彼のイタリア遠征によって,フランス大革命(1789年)後の対仏大同盟諸国に対してフランスが優位に立つことができたことは間違いなく,この条約もナポレオンが,総裁政府の指示を仰がずに主導した.
フランスはこの時,ヴェネツィアを含むヴェネト地方をオーストリアに支配させるという懐柔策によって,第1次対仏大同盟を崩壊せしめた.しかし,この条約の成果は現実の政治情勢の前で有為転変の様相を見せる.フランス国内もまた,ナポレオンがブリュメールのクーデターで総裁政府を倒し,その結果成立した「統領(執政)政府」の中心的存在となって,1804年に「皇帝」ナポレオン1世となる.
以上の経過に関しては,日本語版ウィキペディア「ナポレオン」とそこからのリンク,及び,
樺山紘一『エロイカの世紀 近代をつくった英雄たち』(講談社現代新書)2002
を参照した.ロシア遠征の失敗を契機に,ナポレオンがその帝国を失ったのが1814年,流刑先のエルバ島を脱出しての「100日天下」の後に,ワーテルローでの敗戦と最終的失脚は1815年である.ということは,「ナポレオン翼」は彼のフランス皇帝在位中の建設ということになる.
このナポレオン翼の地上階(日本式には1階)の階段を登ったところにチケット・オフィスがあり,彫刻を見ながら南に進み,突き当りを左に曲がると,同じ建物の続きのように見えるが,そこからは新行政館(レ・プロクラティエ・ヌオーヴェ)で,その1,2階(日本式には2,3階)にコッレル博物館があり,国立考古学博物館は1階(日本式には2階)にある.
マルチャーナ図書館の大広間は,入り口から順路をたどって,新行政館1階(日本式には2階)の国立考古学博物館の部屋を通り抜けた先にあり,順路的にはそこから少し戻って,階段を上がって,日本式にいうと3階の絵画コレクションにたどり着くので,つい同じ建物内だと思ってしまうが,そうではない.
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写真:
サン・マルコ小広場の風景
右)マルチャーナ図書館
左)総督宮殿 |
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外から見るとわかりやすいが,マルチャーナ図書館(サン・マルコ図書館)は,総督宮殿の向かい側の建物で,サン・マルコ小広場(ピアッツェッタ)に面して,南(海側)に向かって延びている.以前にも言及したが,ヤーコポ・サンソヴィーノ(英語版/伊語版ウィキペディア)の作で,「ナポレオン翼」のために破却されたサン・ジェミニアーノ教会も,創建は古いが,16世紀にこれを改築したのはサンソヴィーノであった.
フィレンツェの出身のサンソヴィーノは,15世紀にフィレンツェの芸術をも取り入れながら,独特のルネサンスを育んだ後の16世紀のヴェネツィアに,さらにトスカーナのルネサンスを持ち込んだ.彼が改築したサン・ジェミニアーノ教会が破却されてからは,ピアッツェッタ(小広場)が彼の空間である.私たちの鑑賞は十分ではないが,ゴシック優勢のヴェネツィアにあってルネサンスを現出したサンソヴィーノの最高傑作がマルチャーナ図書館と言っても良いだろう.
新行政館は,パッラーディオの活躍したヴィチェンツァで生まれ,彼の影響を受けたヴィンチェンツォ・スカモッツィ(英語版/伊語版ウィキペディア)が設計,建設に着手し,1640年にその弟子にあたるバルダッサーレ・ロンゲーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)が完成させた.
建築にはまだまだ疎いが,16世紀から17世紀のヴェネツィア芸術について考える時,パッラーディオ,スカモッツィ,ロンゲーナという流れを避けては通れないであろう.
今回の文脈には関係が薄いが,サンマルコ広場の北側で,新行政館の向かいにある旧行政館(レ・プロクラティエ・ヴェッキエ)は,マウロ・コドゥッシ(英語版/伊語版ウィキペディア)を始め,16世紀の複数の建築家が関わった建造物である.
ビザンティン,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス,バロック,新古典主義と,サン・マルコ広場周辺の建築には見るべきものがたくさんあり,それらをじっくり鑑賞してこそ,サン・マルコ広場の本当の良さを理解できるのかも知れない.
それでも,実際に広場の中に立てば,それらの個々の知識を超えたところで,全体的な感銘に浸ることができるのも,サン・マルコ広場の良さであろう.勉強は少し遅れたとしても,感動があれば,いずれついてくるであろうと思う.
マルチャーナ図書館大広間
マルチャーナ図書館といえば,ホメロス『イリアス』のもっとも貴重な写本とされる通称「ヴェネツィアA写本」を所蔵している有名な施設である.
これまでも,シモーネ・マルティーニが挿絵を描いたウェルギリウスの写本のあるミラノのアンブロジアーナ図書館,セネカの悲劇のエトルスクス写本のあるフィレンツェのラウレンティアーナ図書館という,自分の専門分野に直結する本を所蔵する図書館に行ったことはあったが,あくまで一般の見学者としてであった.
いつの日か,これらの図書館で古典の有力写本を閲覧するというアカデミックな体験をしてみたいと思うが,それを今まで必要と感じてこなかったあたりが,私の研究者としての限界かもしれない.それが今後改善するかどうか不明だ.
図書館自体の入り口は小広場側にあって,コッレル博物館の入場口の方から見学できるのは大広間だけだが,十分見ごたえはあった.
天井画は7人の画家の手によるもので,その中にはヴェロネーゼ,ゼロッティなどの総督宮殿で仕事をした画家たちもおり,一瞬やはり「チーム・ヴェロネーゼ」の作品かとも思ったが,違うようだ.
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写真:
マルチャーナ図書館
大広間 |
トップの写真のキャプションが甚だ曖昧なものになったのには訳があった.
上の大広間の写真で私が手にしている説明ボードには,この絵はティントレットの「哲学者」とあった(と思う).壁にずらりとあった「哲学者」たちの絵の中で,この絵が一等優れているように思え,「さすがティントレット」と思いながら,暗い中,これを写すために何回もシャッターを切った.
しかし,この報告を書くにあたって,マルチャーナ図書館の装飾画に関して参考書が全くないので,グーグルの画像検索で,ウィキメディア・コモンズに至り,その紹介ページにたどり着くと,そこにはヴェロネーゼの「アリストテレス」とある.
この大広間にヴェロネーゼの「プラトン」と「アリストテレス」があることは,様々な情報源から知ることができるが,ウェブ上にあるヴェロネーゼの作品をリストアップした写真付きページでは,「プラトン」と並べてこの作品を「アリストテレス」として掲載している.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは,ティントレットの別の「哲学者」の絵を掲載した上で,この作品を,やはりヴェロネーゼの「アリストテレス」とし,その一方で,同じ絵の「部分」の写真を掲載し,ティントレント「哲学者」(部分)と記している.
マルチャーナ図書館の装飾画を複数紹介しながら,この絵をティントレットの「哲学者」(フォロゾーフォ)とするページもあった.
茅屋の書架にヴェロネーゼの全作品を紹介しているとする,
Remigio Marini, tr., Ada Carella, Tout l' œuvre peint de Veronese, Paris:
Flammarion, 1970
には,マルチャーナ図書館のヴェロネーゼ作品が小さな白黒写真で紹介されているが,上記の作品はない.「プラトン」の方はあって,上記のwebページと一致する.この本で「アリストテレス」として紹介されている絵は,グーグルの画像検索でヒットするページでは,今度はヴェロネーゼの「プラトン」としている.
作者はティントレットかヴェロネーゼか,描かれた「哲学者」はプラトンかアリストテレスか,それとも特定できない「哲学者」か.実物をこの目で見て,「さすがにティントレットは大したものだ」と思って何枚も写真を撮った私たちとしては,そう信じたいが,書架にあるほとんど唯一のティントレットの参考書,
Tom Nichols, Tintoretto: Tradition and Identity, London: Reaktion Books,
1999
によっても,周辺的な情報が得られだけで,そのものずばりの写真は掲載されていないので,今のところペンディングである.
オデュッセウス
考古学博物館は期待以上の水準だった.まず,目を見張ったのは「オデュッセウス」の丸彫り彫刻だ.
オデュッセウス(ウリクセス)を現した古代図像としては,ヴォルッテッラの考古学博物館で,帆柱に縛られてセイレンの誘惑に耐える姿の浮彫を複数見ている.火葬後にお骨を収める小さな骨灰棺の浮彫だ.
一つ目巨人ポリュペモスの目を潰すオデュッセウスは好んで壺絵に描かれたようで,これまでも複数見ているが,「セイレンの誘惑に耐えるオデュッセウス」の壺絵は写真でしか見たことがない.この図像は,モザイクにもあるようだが,それも見ていない.テロ事件で有名になったチュニジアのバルド美術館にあるらしい.
壺絵としては,「レーソスの馬を盗むディオメデスとオデュッセウス」(ナポリ国立考古学博物館,前360年頃)も写真で見る限り立派なものだ.オデュッセウスは,彼を他の人物から区別する印となるピロス(ピーロス)と称される短い円錐形の帽子を被っている.
よく似ていて混同されがちな「プリュギア(フリュギア)帽」は,先端が曲がって下を向いている.古代の図像でプリュギア帽を被っているのはトロイアの王子パリスか,大地母神キュベレの恋人アッティス,それと少し時代は下るがローマ時代のミトラ神であろう.
またプリュギア帽には「東方」的イメージがあり,ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂の「三王礼拝」のモザイクの三王がプリュギア帽を被っているのも,それが理由であろう.
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写真:
前後から撮影した
オデュッセウス |
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先端が曲がっていないピロスを見て,オデュッセウスと認識できるのは,たとえ写真であっても古代から近代までの複数の図像を見ているからで,この像もすぐに,オデュッセウスであろうと見当がついた.
説明プレートには「オデュッセウスの小像」(スタトゥエッタ・ディ・ウリッセ)とあり,紀元前3世紀前半のオリジナルからの,紀元後2世紀のローマ時代の模刻とある.オリジナルは「ペルガモン派」の作品と考えられており,であれば,ローマのカピトリーニ博物館の「瀕死のガリア人」,アルテンプス宮殿国立考古学博物館の「自害するガリア人」と同じ流派ということになる.
あたりを見回すと,昨年の夏,アルテンプス宮殿の特別展で観た3体のガリア人の彫刻があった(2つ下の写真).これらの彫刻にもオデュッセウス像とほぼ同じ説明があり,ローマで出土した彫刻で,1523年にドメニコ・グリマーニ(英語版/伊語版ウィキペディア)に遺贈されたとある.オデュッセウス像の説明には,出土地の情報は無いが,やはりドメニコ・グリマーニの遺贈とある.
ドメニコ・グリマーニとはどういう人物か.総督宮殿のティツィアーノ作「聖マルコ立ち合いのもと「信仰」に拝跪する元首アントニオ・グリマーニ」には,晩年に元首に選任され,僅か2年間在位したアントニオ・グリマーニが描かれている.彼の息子がドメニコ・グリマーニである.
父アントニオが1521年に元首に就任したとき,ドメニコは枢機卿であった.彼が枢機卿に選任された時の教皇,ボルジア家出身のアレクサンデル6世は1503年に亡くなり,同年,後任のピウス3世もすぐに亡くなり,後継者となったユリウス2世が1513年まで在位する.
1520年のラファエロ逝去が一応のイタリア・ルネサンスの区切りとされるので,政治的にも芸術面でも激動と革新の時代にドメニコ・グリマーニは生きたことになる.
父アントニオの元首就任は,ドメニコが枢機卿になった1493年の二十数年後であるので,まったく無関係ではないかもしれないが,父の権力で高位を得たわけではない.むしろ,父の方が息子たちに負うところがあったかもしれない.ドメニコの枢機卿職位獲得にはアントニオが相当のお金を出したらしいが,であっても,ドメニコの若き人文主義者としての名声も与かって力あったであろう.
アントニオは1499年にオスマン・トルコとの戦争で「連合艦隊総司令官」(塩野七生の訳語)に任命されたが,ゾンキオの海戦で敗北を喫し,ケルソ島への流刑に処された.そこからローマに逃れ,そこでヴェネツィア復帰の準備ができたのは,ドメニコらがローマで枢要な地位にあったお蔭とされる.
アントニオが元首になった1521年は,ユリウス2世の後継者でメディチ家出身のレオ10世が亡くなった年だ.レオ10世の逝去が12月1日,アントニオの就位が6月6日なので,約半年は,教皇レオ10世と元首アントニオ・グリマーニは共存していたことになる.
ルターの「宗教改革」の開始がレオ10世在位中の1517年,アントニオのローマ逃亡とヴェネツィア復帰が1509年なので,宗教改革の時は,元首就任以前のアントニオはおそらく行政官としてヴェネツィアにいたのであろう.
同じ1517年から20年まで,ドメニコはヴェネト州ヴィットリオ・ヴェネトのチェネーダ司教職という由緒ある職務についており,その前はウーディネの司教区管理官(と言う理解で良いのか)だったようだ.フリウリ地方やヴェネト地方に常駐していたかどうかはわからない.
レオ10世死去後の教皇選挙(コンクラーヴェ)の時には病を得ており,23年にローマで亡くなった.一旦,ローマのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に葬られたが,後にヴェネツィアのサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会に移葬された.ドメニコの死は8月23日,それに先立つ同年の5月7日に元首アントニオも亡くなった.
この時代,権力者たちは人文主義と視覚芸術に理解があり,古代,中世,ルネサンスの文学作品を読み,思想を研究し,絵画,彫刻を愛した.
ドメニコの古代芸術収集に関しては,今のところ,詳しい情報が得られていないが,ヴェネツィアの国立考古学博物館の収蔵品は,ドメニコ・グリマーニがヴェネツィア共和国に遺贈した作品群が出発点である.それほど詳細ではないが,同博物館の紹介ページもあり,それによってオデュッセウス像は第8室にあったことが確認できる.
「レダと白鳥」
オデュッセウス像と同じ第8室で目に付いたのが,下の写真の「レダと白鳥」である.説明プレートに拠れば,ハドリアヌス帝治世下末期の紀元後130年代の模刻で,オリジナルは紀元前1世紀中頃のアッティカ派彫刻とされている.
この先品はドメニコの甥で,アクイレイア総大司教の地位にあったジョヴァンニ・グリマーニの贈与によるものとされる.
白鳥に変身したゼウスがスパルタ王テュンダレウスの妃レダと交わっている少し露骨な作品だ.神話では,この後,レダは卵を産み,そこからヘレネが生まれ,巡り巡ってトロイア戦争の遠因となる.
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写真:
「レダと白鳥」 |
アリストテレスは『詩学』の中で,初めから終わりまで脈絡を考えずに語るのではなく,主題を中心とする統一感を核に作品を創り上げたホメロスの技巧を称賛しており,アリストテレスを直接読んではいなかっただろうが,間接的にその文学感の影響を受けたローマの詩人ホラティウスが稚拙な詩を語るのに「卵から」という句を使っているのは,このことに由来している.ヘレネがトロイア戦争の原因だとしても,彼女が卵から生まれたことから語り始めるのは,統一感を欠いた作品を創り上げる結果しか生まないという趣旨であろう.
「レダと白鳥」の神話で,卵からヘレネとクリュタイメストラ(クリュタイムネストラ)という女の双子と,カストルとポリュデウケスという男の双子が生まれたが,ヘレネだけでなく,その他の3人も多くの少なからぬ物語の主人公となっていることもあり,多くの芸術家にインスピレーションを与えた.
若い頃,一時期,英文学を学んだので,ウィリアム・バトラー・イェイツの少し変則的なソネット「レダと白鳥」を読んだ.そこに込められた寓意に関しては,英文学者の書いた本を参考にしてほしいが,参考書に乗っていた古風な浮彫の写真が印象に残った.詩人がその浮彫を見たと書いてあったかどうかは思い出せないが,ぼやけた白黒写真を見て,こんな芸術性のかけらもないようなものからでも詩人は霊感を得るのだろうかと不思議に思った.
詩そのものも,イングランド帝国主義とアイルランドの関係性を示唆したかも知れない寓意性が鼻について,それほど好きな作品ではないが,古代図像かも知れないその浮彫に関しても好意的な印象は持たなかった.
ウェブ検索で古代図像を探すと,神話そのものが古いわりには,ローマ時代のものが殆どのようだが,ヘレネが卵から生まれるのレダが見ている壺絵が見つかった.キール博物館所蔵作品が前4世紀半ば,アテネ国立考古学博物館所蔵作品が前5世紀末で,「レダと白鳥」の現存図像に比べると古い.
さらに探すと,「レダと白鳥」の壺絵もあるようだ.ポール・ゲッティ美術館所蔵の,プーリア州出土の作品(全体/レダと白鳥)は前340年頃の作品とされる.まもなくヘレニズム時代だが,古典期の最末期と言う言い方もできるだろうか.リンクしたウィキメディア・コモンズの写真を見てもらうとわかるように,レダの上にギリシア文字で「ΛΗΔΑ」とあり,さらに後方の翼のついた冠とサンダルを身に着けた若い男性の頭上にも「ΥΜΝΟΣ」とあり,これをこのまま読むと英語のhymnの語源となったヒュムノスという語で意味は「賛歌」となる.
しかし,写真を拡大しても読み取れないが,Νの(向かって)右肩に小さな文字のようなものが見え,これは気のせいかも知れないがΜの右肩にも何かの痕跡が見えるように思われる.もし,私の推測通りの文字が小さく書き込まれているのであれば,この人物は結婚の神ヒュメナイオスであろう.私は修士論文を2回書くというご苦労様なキャリアを経ているが,最初の修士論文で古代の祝婚歌が十六世紀の英文学の祝婚歌に与えた影響について勉強したので,これは見逃せない.
単なる励ましの言葉ではあろうが,この論文を提出して西上し,私たちにとってはカリスマである故・岡道男先生が,数多の間違いを指摘してくださりながらも,「力作」と言ってくださったので,自分としてはこのテーマに思い入れがある.
ヒュメナイオスという語は,『イリアス』の中にすでに結婚を祝う行列の歌として登場しており,古典ギリシア語でも古い語だ.ホメロスではまだ擬人化された痕跡が見られないだけではなく,現存する古典期の文学作品には「神」としての言及はないようだが,古典作品への古注には見られ,ピンダロスや,ヘレニズム時代のカッリマコスの作品に登場したことが推測される.
文学作品そのものの初出としては新しいが,カトゥッルスの『詩集』61番(前1世紀半ば)では,はっきり結婚の神とされている.また,セネカの悲劇『メデア』(後1世紀後半)の合唱隊の入場歌が祝婚歌になっており,そこで神として祈願の対象となっている.
私はヒュメナイオスの図像があることも知らなかったので,これが「ヒュムノス」(擬人化も考えられないことはない)ではなく,「ヒュメナイオス」であれば,自分にとっても貴重な情報ということになる.カトゥッルスの作品では,おそらく何か図像を前提にしたのであろう神格化がなされており,前1世紀のローマ文学で初めて創出されたとは考えられない.
通常,有翼の帽子とサンダルはヘルメスのアトリビュートであり,それを神から借りたペルセウスの場合も有りうるが,ヒュメナイオスだと思いたい.ただ,冷静になって考えるとΥΠΝΟΣ(ヒュプノス)と読めるようにも思う.であれば,「眠り」の擬人化でこれも文脈的にはある程度説明がつくが,アトリビュートとの整合性を考えなければならないけれども,多分,「眠り」で説明ができるように思う.少し,興奮しすぎて,冷静さを欠いた.
少し,脱線したが,他にも「レダと白鳥」の古代の図像として,ベルリンの博物館所蔵の古代のランプの浮彫,アテネ国立考古学博物館の類似作品(前者は後1-3世紀,後者は後3世紀),どちらもナポリの国立考古学博物館が所蔵しているエルコラーノ(古代はヘルクラネウム),カステッランマーレ・ディ・スタービア(古代はスタビアエ)に残っていたフレスコ画(前者/後者),ルーヴル美術館所蔵の前1世紀から後1世紀のものとされる銀製の鏡,ローマ時代の床モザイクとしては,チュニジアのエル・ジェムの考古学博物館所蔵の作品(写真の向かって右側),キプロス島のパポス(パフォス)の考古学公園の床モザイク,マドリッドの考古学博物館所蔵のもの,意外な所では古代のデウロコルトルムであった北仏ランスに残る「マルス門」の3つのアーチのうちの1つの天井部分の浅浮彫もある.
石棺に関しては,「レダと白鳥」の浮彫のあるものをロレンツォ・デ・メディチが所有していたと英語版ウィキペディア(日本語版ウィキペディア「レダと白鳥」も)が書いているが,他には今のところ情報がなく,「leda swan sarcophagus」で画像検索すると,おそらくエルサレムの考古学博物館の見事な浮彫のある石棺が野ざらしになっている写真に行きつく.
丸彫りの古代彫刻も,カピトリーニ博物館,プラド美術館,エルミタージュ美術館,ポール・ゲッティ美術館,イェール大学美術館に,女性が左手で衣を掲げ,右手で白鳥を抱えている作品がある.いずれも紀元前4世紀のティモテオスの原作の紀元後1世紀から2世紀のローマ時代の模刻とのことだ.
ポール・ゲッティとイェールは行ったことがないし,プラドは写真撮影禁止だったから確認できないが,間違いなく見ていないと思う.カピトリーニとエルミタージュに関しては,随分時間をかけて鑑賞し,写真もたくさん撮ってきたが,それらを全部確認しても,この作品の写真はない.見落としたか,展示していなかったかわからないが,少し残念な気がする.
前4世紀に名のある彫刻家が創って,その模刻が少なくとも3点残っているのであれば,古典期からの図柄ということになろう.写真との比較ではあるが,これらと比べても,ヴェネツィアの国立考古学博物館の彫刻は,意図したであろうエロティシズムを保持しながらも,下品に堕すことなく見事な作品になっていると思う.
ダイナミックな動きのある肢体
下の写真の3体のガリア人像とは,昨年(2014年8月)のアルテンプス宮殿の特別展以来の再会だ.アルテンプス宮殿の特別展は撮影禁止だったが,常設の彫刻や石棺と一緒の部屋に置かれていれば,それらを撮った際に一緒に写ってしまうものもあり,アルテンプスの報告の回では遠景の写真を紹介した.今回は単体でそれぞれしっかり写真に収めることができた.

写真:(左上)膝をつくガリア人 (右上)倒れるガリア人 (中央)死せるガリア人 |
すべてローマ時代の模刻とはいえ,もともとはペルガモンの王宮か神殿を飾っていたわけだから,「ガリア人」といっても,ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』に描かれた「ガリア人」よりは古い時代の戦士たちだ.
オリジナルでないのは残念なことだが,優れた模刻の持つ迫真性に圧倒される.
上述のオデュッセウス像も「ペルガモン派」の作品の模刻とのことだったが,ペルガモン派の影響を受けながらも,模刻ではなく,ローマ時代のオリジナル作品と考える有力な説があるのが,ヴァティカンの「ラオコーン像」だ.
この「ラオコーン像」との関連で,多くの注目を集めているのが,ラツィオ州スペルロンガ(英語版/伊語版ウィキペディア)で発見された彫刻群(英語版/伊語版ウィキペディア)である.
英語版ウィキペディアはローマ時代のオリジナル,伊語版ウィキペディアはヘレニズム時代原作の模刻と,立場は異にするようだが,掲載の写真で見る限り,やはり躍動感に溢れた彫刻で,そこではオデュッセウスが泥酔した巨人ポリュペモスの目を潰そうとする場面が再現されている.このオデュッセウスもピロスを被っている.
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写真:
踊るヘルマフロディトス |
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ヴァティカンのラオコーン像を制作したとプリニウスが言っているハゲサンドロスたちはロドス島の出身とされているが,上の写真のヘルマフロディトス(ヘルマプロディトス)も説明プレートに拠れば,紀元前2世紀末の「ロドス派」の原作の,紀元後2世紀の模刻で,ジョヴァンニ・グリマーニが寄贈したものとのことだ.
うつ伏せになってふくよかな腰部を見せながら,反対側に回ると男性器がついているタイプのヘルマフロディトス像は,マッシモ宮殿国立考古学博物館,ルーヴル美術館,エルミタージュ美術館で観ているが,「踊るサテュロス」を中心とする一群の彫刻に含まれていた可能性のある動的なヘルマフロディトスは初めて観た(と思う).
乳房が強調されているが,様々な角度からこの彫刻の写真を撮ったのに,男性器は確認できなかった.
石棺に関しては,別途報告するが,この博物館の彫刻群は,ローマの考古学博物館より展示数が少なく,じっくり鑑賞することができたこともあってか,満足度が高かった.
他にも魅力的な作品が少なくなかったが,ここで取り上げた,オデュッセウス,レダと白鳥,3体のガリア人,踊るヘルマフロディトスが心に刻まれた.
「ジャーヴスの長持ちの親方」
下の写真の長持ちの蓋は,考古学博物館ではなく,コッレル博物館に所蔵,展示されているものであるが,15世紀の作品で,ボッカッチョ『デカメロン』の第2日目第7話,バビロニア皇帝の娘アラティエルの物語が描かれているようだ.
作者は「ジャーヴスの長持ちの親方」とされ,場合によっては,15世紀初頭に生まれ,1465年まで生きたフィレンツェの画家アポロニオ・ディ・ジョヴァンニに特定することもあるようだ.もし,アポロニオであれば,華やかな作品とはいえ,国際ゴシックの時代が終わった初期ルネサンスの画匠で,フラ・アンジェリコなどの影響を受けたフィレンツェ芸術の申し子であると言えよう.
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写真:
長持ちの蓋に描かれた
「アラティエルの物語」
コッレル博物館 |
『デカメロン』におけるこの物語は,要するにバビロニアをアラビア軍が攻めて来た時,ガルボ王の助力で事なきを得るが,ガルボ王の希望で輿入れをすることになったアラティエルが,嵐にあって遭難し,命は助かったが,様々な男性遍歴をせざるを得なくなり,最終的にはガルボ王と幸福な結婚をするというものである(柏熊達生(訳)『デカメロン』ちくま文庫,上巻,pp.212-243).
めでたい話には違いないが,フィレンツェの上流階級の結婚の嫁入り道具に描かれた絵柄としては,「人生はこんなもの」と言うやや冷めた視点があるように思える.
コッレル博物館の案内書にも「ジャーヴスの長持ちの親方」というニュー・ヘイヴンにある作品の作者によるものという説明があるだけで,写真の掲載もないので,もっとじっくりと見てくれば良かったと少し悔やまれる.
ニュー・ヘイヴンという地名は,イェール大学がある場所で,大学付属の図書館には立派なイタリア・ルネサンス絵画のコレクションがあり,複数の立派な「長持ち」(カッソーネ)もあるらしい.このコレクションの基礎を作ったのが,ジェイムズ・ジャクソン・ジャーヴスで,19世紀アメリカの有名な美術コレクターである.
彼に関しては,以前にも一度言及したことがあるが,
瀬木真一『ビッグ・コレクター』(新潮選書)新潮社,1979
の第1章に「最初の個人コレクター」と言う副題を付して,ジャーヴスを取り上げている.
イェールに彼のコレクションが委譲された背景は彼にとっては不本意なものだったようだが,初期ルネサンスの傑作が二束三文で売られていた時代に,独学による目利きで収集を敢行したジャーヴスの功績は高く評価されて良い.実現は難しいが,アメリカの美術館,博物館にもいつの日か行きたいものだと思う.
なお,上の写真の作品の上部を写真付きで,簡単に解説したページがあり,写真は大きくないが一応参考になる.そこには1400年から1425年の作品とあり,であれば,国際ゴシックがまだ優勢な時代であり,この作者をアポロニオ・ディ・ジョヴァンニと特定するためには,時期が早いように思われる.
初期キリスト教芸術
さて,再び,考古学博物館の古代作品である.ただし,破損を蒙っているこの箱をよく見ると,光輪のある聖人や十字架が見えるので,これは初期キリスト教芸術の作品である.
博物館は,この箱のために特別なコーナーを作り,大きな説明板や動画による説明を用いて,重要作品として展示していた.
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写真:
スマゲルの小箱 |
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幸いなことにウェブページに動画付きの英語解説(伊語解説の英訳であろう)がある.写真は全くないが,伊語版ウィキペディアにも詳しい解説がある.
1906年,クロアチアのスマゲル(ポーラ)の聖ヘルマゴラス教会の祭壇で発見された,おそらく聖遺物を収める箱で,大理石の浮彫と銀細工の装飾が施された5世紀の作品で,古代末期のローマ芸術が,初期キリスト教に転用されていく貴重な資料であるばかりでなく,作品としての水準も高いとされる.芸術的価値に関しては,にわかに理解しがたいが,意匠を凝らした,手の込んだ細工ものであるのは確かだ.
様々な仮説の一つとして,上の写真中央は,コンスタンティヌス大帝と母后ヘレナが使徒ペテロの墓(ローマのサン・ピエトロ大聖堂がそこに建設される)を訪問する場面が彫られており,その他の面は,コンスタンティヌスの子孫ではないが,キリスト教を国教化したテオドシウス帝の娘であり,ローマを最終的に東西分裂させたアルカディウスとホノリウスの異母妹にして,ラヴェンナの霊廟の主としても有名なガラ・プラキディアが一連の画面の主人公となる物語が展開しているとされる.
彼女とその息子で後にウァレンティニアヌス3世となる幼児,成人したウァレンティニアヌスとその妻リキニア・エウドクシア,彼らの娘エウドキアが登場しているのではないかとされる.
工芸史,キリスト教美術,西ローマ帝国最後の時代の歴史とキリスト教と言う多くのことをここから学ぶことができるようだが,まだまだそれを実現する知識と理解力が私にはない.いつの日か,この小箱をじっくり鑑賞したことが,しみじみと良かったと思える日が来ることを信じたい.
ヴェネツィアでコッレル博物館を訪ねたら,よほど時間に余裕がない場合でない限り,同じ建物の中にあることではあるし,ショートカットしたりせず,考古学博物館もしっかり見学した方が良い.
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3体のガリヤ人の展示のある部屋で
国立考古学博物館
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