§2015 ヴェネツィアの旅 - その6 コッレル博物館
コッレル博物館はこれで2回目だが,写真撮影可となっていたので,今回は自分たちが撮ってきた写真を示して,幾つかの絵画作品について考えることができる. |
コッレル博物館は,所蔵点数こそアカデミア美術館より少ないが,魅力的な展示が多い.前回はカノーヴァの彫刻と,室内装飾,絵画作品を見ただけだったが,今回は同じ建物内にある国立考古学博物館と,マルチャーナ図書館の広間も見たので,これに関しては別途報告する.
2つの「エンジェル・ピエタ」
「ヴェネツィア派」の特徴は?と尋ねられて,反射的に「油彩画」と答える人も少なくないだろう.しかし,考えて見れば,古い時代にはヴェネツィアでもモザイクやフレスコ画以外は基本的にテンペラ画であったわけだし,16世紀になれば,イタリアの他の諸地域でも油彩画が主流になるので,この答は15世紀後半のごく短い時期を想定していることになる.
それでも,北方絵画の影響で油彩画が急速に普及し始めたのは,イタリアではおそらくヴェネツィアが最初であったであろう.ことはそう単純ではないようだが,以前は,シチリア出身の画家アントネッロ・ダ・メッシーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)がフランドル地方で油彩画の技法を身に着け,彼のヴェネツィア滞在が同地で油彩画が普及する契機となったと言われていた.
そのわりにはヴェネツィアにはアントネッロの作品はほとんど残っておらず,私の記憶では下の写真の「ピエタ」くらいしか思いつかない.
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写真:
アントネッロ・ダ・メッシーナ
「ピエタ」 油彩 |
ウェブ・ギャリー・オヴ・アートに掲載されている写真は少ないが,例によって伊語版ウィキペディアに,網羅しているかどうかは別として詳細な作品リストがある.それらで確認しても,私たちが直接見たことのあるアントネッロの作品は,この「ピエタ」以外にはボルゲーゼとルーヴルにある「男の肖像」(ボルゲーゼ/ルーヴル),スフォルツァ城美術館の「聖ベルナルドゥス」くらいだ.
肖像画は地味なので,絵画の実作者や研究者が見れば,幾つもの独創性に気付くのではあろうが,少なくとも私には,肖像画だけでは彼の卓越性を理解することはできない.しかし,この「ピエタ」は,その卓越性が喧伝されていることもあってそう思うのかも知れないが,アントネッロの才能を余すところなく,表現しているように思われる.
天使が両脇からキリストを支える,いわゆる「エンジェル・ピエタ」だが,背後にもう一人天使がいる.なぜ,キリストや天使の顔だけが破損しているのは,事情は分からないが,キリストの肌,腰布の襞,風景,肉体のしなやかさを感じさせる柔らかな構図は見る者を虜にするだろう.
風景の中にある建物は,メッシーナのサン・フランチェスコ教会の後陣だそうである(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).アントネッロは1475年と76年にヴェネツィアに滞在し,この作品を75年に制作したと考えられている.やはりヴェネツィアに残る,唯一のアントネッロの作品のようだ.
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写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
「二人の天使に支えられる
死せるキリスト」(「ピエタ」)
テンペラ画 |
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アントネッロの作品と全く異なった雰囲気を持つこのエンジェル・ピエタは,1460年頃の作品(英語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)で,こちらは板にテンペラで描かれている.
マンテーニャの影響が色濃く見られ,場合によっては,フェッラーラの画家たちの影響も指摘される.ベッリーニの複数あるピエタの中で,特に優れた作品との印象はないが,それでも背後の風景など,見るべきものは多いように思う.アントネッロがヴェネツィアに来る前から,ヴェネツィアの絵画には北方芸術の影響があったのであろう.
この2つのエンジェル・ピエタをきっかけとして,ベッリーニのテンペラ画から油彩への移行について考えてみる.
英語版ウィキペディアの「ジョヴァンニ・ベッリーニ」の作品一覧(伊語版には見た限りない.2015年9月20日参照)には各作品の制作年代と,テンペラ画か油彩画か技法が記されており,それがどれほど正確なものかわからないが,これを見る限り,75年以前の作品は全てテンペラ画であり,75年以降は,テンペラ画も描いているようだが,圧倒的に油彩のカンヴァス画が多くなる.
「ピエタ」を主題とする作品については,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで,ベッリーニの「ピエタ」で検索(アッチェント・グラーヴェ無しの「bellini
pieta」で検索できる)してみると,殆どはテンペラ画だが,アカデミアの「ピエタ」をはじめ油彩の作品もいくつかある.「ペーザロの祭壇画」も板に油彩画である.
2008年夏に収蔵先のペーザロの市立博物館を訪ねた時,この祭壇画はローマ出張中だったので,本体は見ていないが,上部に付された「ピエタ」(ニコデモ,アリマタヤのヨセフ,マグダラのマリアと思われる人物が死せるキリストの周辺にいる)にあたる部分は,ヴァティカン博物館に収蔵,展示されており,これは昨夏ヴァティカンでじっくり鑑賞できた.ペテロを思わせる禿頭有髯のニコデモであろう人物の存在感が素晴らしく,感銘を受けた.
ペーザロの祭壇画の制作年代は1471年から74年とあり,今,考えている,アントネッロのヴェネツィア滞在以後,その影響でベッリーニが油彩を描くようになったと言う仮説には都合が悪い.伊語版ウィキペディアのペーザロの祭壇画を独立して立項したページでは1471-83頃となっているが,それにしても75年以降とは断定されない.
ジョヴァンニの義兄弟(姉妹の夫)であるマンテーニャに関しては,伊語版ウィキペディアの制作年代と画材情報を記した作品一覧を見る限り,没年1506年の作品にいたるまで全てテンペラ画で,彼が構想し,ロレンツォ・コスタが完成させた「調和の王国のイザベッラ・デステ」(ルーヴル美術館)のみがカンヴァスに油彩画だ.それでも,後になるほど,板にテンペラだけでなく,カンヴァスにテンペラの作品が増えるようだ.
マンテーニャは死の1506年までテンペラ画を描き続けたが,ジョヴァンニ・ベッリーニは前述のように,75年以降の作品は殆どが油彩画となる.グローリオーサ聖堂の祭壇画,ザッカーリア教会の祭壇画,サン・ジョッベ祭壇画,ヴィチェンツァのサンタ・コローナ教会の祭壇画など,ベッリーニの最高傑作と思われる宗教画はどれも油彩画だ.
やはりエンジェル・ピエタが上部に付された,サン・ザニポロ聖堂の「聖ヴィンチェンツォ・フェッレル祭壇画」は,1464年から68年に描かれた板にテンペラの作品なので,この祭壇画を初めて見た時の感動を思うと,単純には言い切れないが,油彩画の技法は,ジョヴァンニ・ベッリーニの才能を開花させる可能性を広げたと言えるだろう.
コスメ・トゥーラ
さて,私たちのアイドルとも言うべきコスメ・トゥーラ(英語版/伊語版ウィキペディア)(日本語版ウィキペディア「コスメ・トゥーラ」も有益だ.英語版の訳と思われる)である.
コスメの作品は見られれば全て嬉しい.わけてもコッレルの「ピエタ」(下の写真)は,私たちのコスメ体験の出発点となった絵である.
繰り返しになるが,ラヴェンナへの乗り換えの空き時間に立ち寄っただけのボローニャ駅の観光案内所のカウンターに置かれていた宣伝冊子の表紙がこの絵で,宣伝チラシに使用される写真といえば美しいもの,という思い込みを覆す強烈なインパクトがあった.
近代的「美」の規準を作ったはずであるルネサンス期の画家が描いた作品で,その特別展に対する関心を喚起する使命を負った宣伝冊子の表紙に用いられた絵ともなれば,おそらくは代表作のひとつであり,これまで慣れ親しんできた範疇を超えた「美」を表現していることを考えないではいられなかった.
この特別展を見ることはないだろうと,その時は思ったが,結局,2か月後の12月,この特別展の会期終了が迫った頃,私たちはフェッラーラに行った.間違いなく宣伝効果はあったのだ.

この,「コスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサ ボルソ・デステの時代のフェッラーラ芸術」という特別展で,内容充実の大きな図録を,会場割引料金で購入し,老後の楽しみのために実家の1番良い書架に保存していたが,津波で流され,アメリカ・アマゾンで高い古書価で再入手した.
それに拠れば,テオドーロ・コッレル(コッレール)が19世紀前半にこの作品を入手し,1859年までは,ルーカ・ドランダの絵とされていたとのことだ.
オランダのライデン(レイデン)出身の画家にして版画家であるルーカ(ルーカス)の作品は,「ルーカ・ダ・レイダ」で立項されている伊語版ウィキペディアからたどっていくと,ウィキメディア・コモンズのページで相当数の写真が見られる.私が見る限り,そこにコスメ・トゥーラの絵によく似た作品は見られないように思う.
いずれにせよ,19世紀までこの作品を継承してきた人々が,コスメの作品と認識していなかったことに,絵画に関する趣味の移り変わりと,芸術家への評価の転変を感じる.
私にはまだ最初の衝撃が尾を引いて,コスメの絵を万人が評価するのかどうか確信が持てない.だが,イタリアの美術館での彼の作品の扱いを見ると,既に,再評価開始の時代は終わって,北イタリアのルネサンスを代表する画家としての名声が確立しているように思われる.
これまでに見てきたコスメ・トゥーラの作品は,何歳くらいの時に描かれたものなのか,整理してみる.
まず,現在確認される,彼のもっとも古い作品はどれだろうか.例によって,伊語版ウィキペディアには,推定制作年代順に並べられた作品一覧があり,それを参照すると,初期作品として1450年代に描かれた(1430年代前半生まれのコスメは1450年にはまだ十代の可能性がある)とされるものがあり,伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートがともに,1452年としているのがワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「庭園の聖母子」である.
上記の特別展図録では1455年以前あるので,年代は文献的証拠ではなく,推定によるものであろう.最も,これがコスメの作品とされるようになったのは,特別展図録に拠れば,1917年の特別展からとのことでる.
コスメ・トゥーラに関する参考書は,上記の図録の他に,
Marcello Toffanello, Cosmè Tura, Firenze; Giunti Editore, 2007(以下,トッファネッロ)
Stephen Cambell, Cosmè Tura: Style, Politics and the Renaissance City,
1450-1495, New Haven: Yale University Press, 1997(以下,キャンベル)
Joseph Manca, Cosmè Tura: The Life and Art of a Painter in Estense Ferrara,
Oxford: Clarendon Press, 2000(以下,マンカ)
が書架にある.トッファネッロはART DOSSIERという薄型冊子のシリーズの一般向け紹介書で,キャンベルとマンカは研究書で比較的詳細だが,2007年の特別展以後の公刊はトッファネッロのみだ.
マンカには白黒の作品写真と,それに対応する説明があり,この作品の来歴(ただし1917年以前のことはわからないようだ)を紹介し,1450年代の作品とされる根拠を述べた上で,年代を下げる説も紹介し,本人も1460年から70年の間の作品としている(p.165).
キャンベルは1452年から56年の作品としているが,根拠は示されていない.トッファネッロでは,これ以前とされるコスメ作品は紹介されていないので,マンカ以外の多くの人は,現存最古のコスメ作品と考えていると思われる.
コッレルの「ピエタ」については,トッファネッロは1455年から60年の作品と考えており,であれば画家20代の頃の,初期作品と言うことになる.マンカは1472年作とする説も紹介しながら,自身は1460年代とするのが妥当と考えているようだ.特別展図録は1460年頃としている.
アカデミア美術館の「黄道十二宮の聖母子」を,特別展図録とトッファネッロは1470年頃,マンカは1460年代後半とする説も示しながら,1470年代の作品とするのを妥当としている.1470年に40歳くらいだったとすれば,円熟期の中期の作品と言うことになる.
イタリア・ルネサンスに対する彼の最大の貢献であるかも知れないスキファノイア宮殿の壁画装飾は,彼一人の業績ではなく,彼を中心とするフェッラーラの画家たちが関わっているが,1476年から84年の仕事と考えられている.
特別展図録は,この壁画を取り上げ,一面一面丁寧に紹介しているが,フランチェスコ・デル・コッサ,エルコレ・デ・ロベルティらの名前を挙げ,コスメの作とはしていない.トッファネッロには写真の紹介もない.これについては文献的証拠があるのであろうから,コスメは40代後半から50代前半の巨匠として,総監督にあたったと考えて良いのであろう.
スキファノイアの壁画の直前(伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは1474年)もしくは同時期(トッファネッロは1475年から79年)の彼の大作として「ロヴェレッラ祭壇画」がある.
この作品は,完全な形では現存しておらず,中央パネルと考えられている「玉座の聖母子と奏楽の天使たち」はロンドンナショナルギャラリー,このパネルを中心とする大きな長方形の祭壇画の上部にあったリュネット画と考えられている「ピエタ」はルーヴル美術館,中央パネルの向かって左側のパネルの一部と考えられている「聖ゲオルギウス」の顔はサン・ディエゴ美術館,「聖パウロ,聖マウレリウスと枢機卿バルトロメオ・ロヴェレッラ」はローマのコロンナ宮殿,6面あったと考えられる円形に近い裾絵パネルのうち3面が現存し,「エジプト退避」はメトロポリタン美術館,「キリスト割礼」はボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館,「三王礼拝」はマサチューセッツ州ケンブリッジのフォッグ美術館にある.
2007年の特別展で見ることができたのは,「エジプト退避」と「キリスト割礼」のみで,「ピエタ」はルーヴル美術館で2011年に見ているが,その他は見たことはない.
ロンドン・ナショナル・ギャラリーは,学生時代の1982年に訪れているが,コスメ・トゥーラの名前も知らなかったので,見たかどうかは定かではない.コロンナ宮殿で,「聖母子」と「受胎告知の聖母」と言う2つのコスメ作品を見て,そのことは以前報告しているが,「聖パウロ,聖マウレリウスと枢機卿バルトロメオ・ロヴェレッラ」は見ていない.
フェッラーラ市外のサン・ジョルジョ・フオーリ・レ・ムーラ教会に,かつてこの祭壇画はあった.フェッラーラ司教だったロレンツォ・ロヴェレッラと,その兄弟で同教会に付随するオリヴェート会修道院の院長で,枢機卿となったバルトロメオの注文に拠るものらしい.コスメ・トゥーラは1485年に亡くなるに際し,この教会への埋葬を希望し,叶えられた.
画家本人が埋葬されている教会にあった祭壇画がばらばらにされて,1パネルを除いてイタリア国外に切り売りされたのは悲しいことだが,この祭壇画は1709年に何らかの爆発で破壊され,教会から外されたとのことなので,やむを得ない事情もあったのだろう.むしろ,これらの絵をめぐりめぐって入手した諸国の美術館のイタリア美術を愛好する気持ちを高く評価したい.
ルーヴルにある「ピエタ」は周辺に聖人たちがいるが,聖母がイエスの遺体を膝の上に抱いているので,コッレルの「ピエタ」同様に,ミケランジェロのヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」,ジョヴァンニ・ベッリーニのアカデミア美術館の「ピエタ」に先立つ,北方芸術のイタリアへの影響の早い例と言えよう.私たちは,ミケランジェロの彫刻で良く知っている姿なので,不思議には思わないが,コスメ・トゥーラがなぜこのタイプの「ピエタ」を少なくとも2点描いたのかは誰かに教えてほしいような気がする.
より遅いと思われるロヴェレッラ祭壇画が描かれた頃にミケランジェロは生まれ,その20数年後にヴァティカンのピエタを作成している.芸術に様々な革新が起こったこの時代の20年はやはり大きな意味があるだろう.
コスメ・トゥーラは「エンジェル・ピエタ」に分類されるタイプの「ピエタ」も描いている.ウィーン美術史博物館の所蔵で,マンカは1460年代,伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは1474年,トッファネッロは1480年から85年と全くバラバラの制作年代推定がなされている.見たことはないが,写真で見るとヘブライ文字のようなもの石棺に刻まれており,その点は,コッレルの「ピエタ」と共通している(キャンベル,p.16).
コロンナ宮殿の祭壇画パネルやウィーンの「エンジェル・ピエタ」以外にも,まだまだ見られていない作品も少なくない.中でもロンドン・ナショナル・ギャラリーの「ミューズ」(キャンベルと英語版ウィキペディアは叙事詩のミューズ「カリオペ」と断定し,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは「カリオペ」として疑問符をつけ,伊語版ウィキペディアは「カリオペ」として独立したページに立項,トッファネッロは恋愛のミューズ「エラト」として疑問符,マンカは2段組み9ページに渡る論考とともに「ミューズ」)は是非見たい.
舞踊のミューズ「テルプシコレ」(伊語版ウィキペディアに立項)の絵は,ミラノのポルディ・ペッツオーリ美術館で観ている.伊語版ウィキペディアは2点のミューズをどちらも1460年の作と断定していて,であれば,わかりやすいのだが,作者と制作年代には様々な議論があるようだ.
いずれにしても,コスメ・トゥーラの真髄に迫りたいと思うなら,「玉座の聖母子と奏楽の天使たち」と「ミューズ」と言う美しい2つの作品を所蔵,展示しているロンドン・ナショナル・ギャラリーに行かねばならないだろう.
2つの磔刑
ジョヴァンニ・ベッリーニの作品はコッレルに4点あるが,全てテンペラ画で,若い頃の作品と考えられている.「ピエタ」と,「キリスト磔刑」,「聖母子」は観ることができたが,「キリスト変容」(英語版/伊語版ウィキペディア)は外されていた.
「キリスト磔刑」(英語版/伊語版ウィキペディア)は,ティツィアーノの「受胎告知」を毎日のように見に行ったので,私たちには親しみのあるサン・サルヴァドール教会(英語版/伊語版ウィキペディア)にもともとはあったらしい.
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写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
「キリスト磔刑」,テンペラ画 |
初期作品と言うことで,父ヤコポ,義兄弟マンテーニャの影響が濃いとされるが,やはり父とは一線を画するルネサンス絵画のように思える.鮮やかな色彩がヴェネツィアの伝統を想起させ,精緻な風景が北方絵画の影響を思わせるのであろう.小品ながら,見ることができて嬉しい作品だ.
父ヤコポの「キリスト磔刑」(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはアカデミア美術館所蔵とされている)もコッレルに展示されている.
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写真:
フーゴー・ファン・デル・グース
「磔刑」,油彩 |
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未だにフランドルのオランダ系の画家たちの固有名詞は定かではない.北方絵画に関する参考書は全くと言っていいほど無い我が家に,日本語の本として唯一架蔵されている
岡部紘三『フランドルの美術 カンパンからブリューゲルまで』かわさき市民アカデミー出版部,2006(以下,岡部)
には,「フーホ」と「ヴァン」言う表記が見られるが,日本語ウィキペディアは多くの場合,原語に自信のある人が書いていると推測されるので,地方差,時代差などあるかも知れないが,日本語ウィキペディアの「フーゴー・ファン・デル・グース」の表記を使わせてもらい,以下では「ファン・デル・グース」と称する.
ファン・デル・グースといえば,ウフィッツィ美術館に「ポルティナーリ祭壇画」(英語版/伊語版ウィキペディア)という傑作があり,この作品がフィレンツェに来たことで,ギルランダイオなどフィレンツェ・ルネサンスの画家たちに大きな影響を与えたことが知られている.
しかし,何分にもコッレルの「キリスト磔刑」は小品で,これがどれほど同時代にインパクトを与え,人々に感銘を与えたかには思いが至らない.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,この作品は1470年頃の作品で,上のジョヴァンニ・ベッリーニの「キリスト磔刑」よりは後に描かれた油彩画で,ジョヴァンニが油彩を採用する以前の絵である.また,ポルティナーリ祭壇画が,1476年から79年に描かれたとすれば(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート),コッレルのこの作品が先行している.
聖母子
北方絵画については,今回,ディルク・ボウツ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「聖母子」(1455年から60年)も見ることができた.イタリアの美術館で観る北方絵画に関しては,まだまだ勉強が足りない.どこかの時点で,ベルギー,オランダの美術館にも行ってみたい.
岡部に拠れば.「ボウツは祭壇画のほかにいくつかの聖母画をのこしています」(p.41)とのことなので,コッレルの「聖母子」もその中の1点と言うことであろう.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに,アントワープの美術館にある「聖母子」(屋外にいる)の写真があり,岡部でロンドン・ナショナル・ギャラリーにある「室内の聖母子」の白黒写真が見られる.それらにくらべてコッレルの聖母子は屋外にいるのか室内にいるのかはっきりしないが,背景は緑色の幕のようでもあり,とすれば部分だけが残っているのかも知れない.
しかし,こうした小さな「聖母子」は,教会よりも,有力者が個人の礼拝のために注文するケースも多いだろうから,様々なケースが考えられ,にわかに判断できない.嬰児キリストが可愛らしく,佳品だと思う.
コッレルには,他にもステファノ・ディ・サンタニェーゼ,ヤコベッロ・デル・フィオーレ,ミケーレ・ジャンボーノ,バルトロメオ・ヴィヴァリーニ,バルトロメオ・モンターニャ,伝ラッザーロ・バスティアーニのそれぞれ特徴のある「聖母子」があり,見ごたえがある.ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」の圧倒的な魅力は,言うまでもないが,その他の画家の「聖母子」もそれぞれ素晴らしかった.
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写真:
ロレンツォ・ロット
「聖母子と二人の天使」 |
さて,またしても,予想を裏切るロットの作品である.よく見れば,斬新な点もあるのだろうが,どうしても,ロットには時代の最先端を行くイメージを抱いてしまうので,多くの案内書や図録で見ても(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには掲載されていない),これがロットの才能をいかんなく発揮した作品かどうかは確信が持てない.しかし,ともかく彼の作品を見ることができたことは嬉しい.
『ヴェネツィア 「美の遺産」を旅する』世界文化社,2011
は,2011年9月から,2012年11月にかけてに東京,名古屋,仙台,松山,京都,広島を巡回して開催された「世界遺産ヴェネツィア展 魅惑の芸術 千年の都」の「公式MOOK」とされているが,これに拠れば,上の聖母子(「天使より戴冠される聖母子」とある)は,仙台と松山で展示されたらしい.
私の記憶では,東京では江戸・東京博物館で開催され,私も見に行ったが,当然ながら,ロットのこの絵は見ていない.その代わり,今回は総督宮殿で見られなかったカルパッチョの「サン・マルコの獅子」を見ている(東京,名古屋のみの展示).
ヴェネツィアの元首たち
ラッザーロ・バスティアーニは,パドヴァで生まれ,主としてヴェネツィアで活躍した画家で,ヴィットーレ・カルパッチョの師匠だったかも知れない.だとすれば,カルパッチョの華やかな画風は,ラッザーロから継承したものかも知れない.
ミラノのポルディ・ペッツォーリ博物館で,「謙譲の聖母子」と出会って以来,注目しているが,今回,アカデミア美術館で「聖ヒエロニュムスの聖体拝領」,「聖ヒエロニュムスの葬儀」,「サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大同信会への聖十字架の寄贈」を比較的じっくり鑑賞することができた.古風に見えるが,遠近法を自家薬籠中のものとしたルネサンスの画家と言えよう.
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写真:
ラッザーロ・バスティアーニ
「元首フランチェスコ・フォスカリ」 |
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フランチェスコ・フォスカリ(英語版/伊語版ウィキペディア)については,昨年ヴェネツィアを訪れ,ヴェネツィアのゴシックとルネサンスについて考えた報告でも少し,言及しているが,アンドレーア・デル・カスターニョやヴェロッキオを招き,ヴェネツィアの文化にフィレンツェのルネサンスを取り入れることに貢献した政治家だ.息子の醜聞に連座して,死の直前に元首の地位を失ったとはいえ,死後も根強い人気を維持した.
その悲劇は,1821年に英詩人ジョージ・ゴードン・バイロンが「二人のフォスカリ」と言う劇を書き,1844年にジュゼッペ・ヴェルディが同名のオペラを創作した.
1457年に辞職したフォスカリの後任は,パスクァーレ・マリピエーロ(62年まで),クリストフォロ・モーロ(71年まで),ニッコロ・トロン(73年まで),ニッコロ・マルチェッロ(74年まで),ピエトロ・モチェニーゴ(76年まで),アンドレーア・ヴェンドラミン(78年まで)と続き,その次の元首がジョヴァンニ・モチェニーゴ(英語版/伊語版ウィキペディア)である.
コッレルにはもう1点,元首の肖像がある.ジェンティーレ・ベッリーニが描いた「ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像」である.
ややこしいことに,フランチェスコ・フォスカリの前任者はトンマーゾ・モチェニーゴという人物で,15世紀にモチェニーゴ姓の元首が3人いたことになる.
ピエトロとジョヴァンニは兄弟で,父の名はレオナルドとあるので,トンマーゾとの関係は,わからなかったが,伊語版ウィキペディアの「モチェニーゴ家」というページにある系図によれば,元首トンマーゾとレオナルドは兄弟のようだ.後者が先に亡くなっているが.どちらが先に生まれたのかは,レオナルドの生年が「?」になっているのでわからない.
この家系からは,15世紀の3人の元首の直接の子孫ではないが,16世紀に1人,18世紀に3人,いずれもアルヴィーゼと言う名の元首が輩出している.
ヴェネツィアの歴史は常に激動の時代を背景にしていることは,塩野七生の本を読んで思いいたるので,どの元首の時代に何が起こったのかを学ぶことが,ヴェネツィアと言う都市を理解するために必要であろう.しかし,今はその時間と能力に欠けている.
15世紀の3人のモチェニーゴ家出身の元首の墓は,いずれもザニポロ聖堂にあり,トンマーゾの墓碑は,ドナテッロの影響を受けたフィレンツェとフィエーゾレの彫刻家,ピエトロの墓碑はピエトロ・ロンバルド,ジョヴァンニの墓碑はトゥッリオ・ロンバルドによって作られた.これらの墓碑を見て,フィレンツェ・ルネサンスの影響を受けながら,ヴェネツィアのルネサンスが形成されていく過程の一端を知ることができるように思える.
今回,コッレル博物館を自由時間にじっくり見ることができた.ゴシック,国際ゴシックの分野も立派な作品があり,パオロ・ヴェネツィアーノ,ロレンツォ・ヴェネツィアーノ,ステファノ・ディ・サンタニェーゼの作品を鑑賞できた.かなりの満足を得た上に,写真を撮ることもできたが,金地板絵は,反射して,自分が撮ってきた写真で反芻することはなかなか難しい.
しかし,少なくとも,今回展示されていた作品と,図録に写真がある作品に関しては,ほぼ何があって,何が立派か,何が資料的に貴重かという整理が少しできるようになった.大きな成果と言うべきだろう.
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カノーヴァの初期の名作 「ダイダロスとイカロス」
コッレル博物館
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