§2014ローマの旅 - その14 ヘラクレス
古代の絵画,彫刻において,最も多く彫られ,描かれたのは誰か.現存する作品で見る限り,間違いなくヘラクレス(ヘルクレス)であろう. |
もちろん,ヘラクレスを直接見て,彫ったり,描いたりした作品はあろうはずもないから,容貌も様々な,筋肉質で長身のたくましい壮年男性が,アトリビュートとともに描かれて,はじめてヘラクレスとの同定が可能だと思われる.
多くの場合,そのアトリビュートとはライオンの毛皮と棍棒であろう.
ライオンを被ったヘラクレス
トップの写真は,ラツィオ州チェルヴェテリで発見された赤絵式(赤像式)のアッティカ陶器で,紀元前500年から480年の作品とされる.
ヘラクレスはライオンの毛皮を被り,ライオンの口の中から彼の顔がのぞいている.ライオンの毛皮は彼のアトリビュートであるが,必ず被っているとは限らないし,彫刻作品では腕にかけているものも多いように思う.
ヘラクレスと老人の絵を見て,何か有名な物語を思い起こすことはできなかったが,「hercules oldman vase」で画像検査してヒットしたページに情報があった.所蔵がヴィラ・ジュリアとなっているので同じ壺だろう.
ペリケ(ペリケー)と言う型で,アンフォラのように2つの取っ手がついているが,首がすぼまっていて,口に輪縁があり,底にも輪縁があって,自立できるようになっている.
参照した上記ページの解説に拠れば,老人は「ゲラス」(ゲーラス)という神で,この名は「老齢」という普通名詞である.「老人」はギリシア語では「ゲロン」(ゲローン)になる.「夜」の女神ニュックスの子で,人を死に導くとされるが,高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店,1960)には立項されていない.
前8世紀末か前7世紀初頭の詩人ヘシオドス(ヘーシオドス)の『神統記』(テオゴニアー)の275行にニュックスの子どもたちの1人として列挙されている.「忌まわしい」(岩波文庫の廣川洋一の訳語.『イリアス』冒頭でアキレウスの「怒り」に付された修飾語と同じウーロメノス)と言う形容詞が付されている.
M.L.West, ed., Hesiod Theogony, Oxford UNiversity Press, 1966
の注解(p.230)によれば,壺絵では痩せ細った老人として描かれるとしているので,図像的には珍しくないのかも知れない.ただ,ウェストの注解にはヘラクレスへの言及はない.
ヘラクレスも神ならぬ身では死を免れないということなのか,あるいは後に神になって不死の身となるヘラクレスの前では,「老齢」は弱々しい存在に過ぎないということなのか,どちらかと言えば後者に思えるが,絵を見ただけでは断定はできない.
上記ページ拠れば,ルーヴル美術館所蔵のオルペ(取ってが一つついた,ワインを注ぐ細身の器.ギリシャ陶器の形状については英語版ウィキペディア「ギリシア陶器形状分類」参照)に,「棍棒でゲラスに殴り掛かるヘラクレス」の絵が描かれている.ただし,それを紹介したページに行くと,オルペではなくペリケとある.
普段,壺絵を描いた画家だ誰かということをあまり気にしていないが,ヴィラ・ジュリアの「ヘラクレスとゲラス」は「マッチュの画家」,ルーヴルの「ゲラスに棍棒で殴り掛かるヘラクレス」は「ゲラスの画家」の作品とされるようだ.英語版ウィキペディアに「ギリシア陶器画画家一覧」があるが,どちらの画家も詳細は,今の所情報が得られない.
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写真:
カピトリーニ博物館
「ヘラクレスの姿のコンモドゥス」
2世紀後半 |
2007年10月に初めて,カピトリーニ博物館を訪れた時も,この胸像は印象に残った.ただし,その時点が,この胸像がヘラクレスの姿(ライオンの毛皮と棍棒)で描かれた,皇帝コンモドゥス(日本語版ウィキペディア「コンモドゥス」も詳細)の胸像だとは知らなかった.
コンモドゥスは,五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスの息子で,力自慢が過ぎて自ら剣闘士として群衆の前に立ったことで知られ,最後は暴君として暗殺される.哲人皇帝も後継者の選択と,息子の教育には失敗したと言うことであろう.
コンモドゥスの在位は紀元後177年から192年と,意外に長い(ただし,最初の3年間は父と共同統治)が,ヘラクレスの姿の胸像は,父の死の180年から暗殺までの間に制作されたのであろう.彼は死後,元老院から「記憶の抹殺」の宣告を受け,多くの肖像が破壊,削除されたので,複数あったと思われる「ヘラクレスの姿のコンモドゥス」はカピトリーニに残るものが現存する唯一の作品とのことである.
左手に持っているのは,ヘスペリデスの林檎とのことだ.胸部の下の意匠は,アマゾン族の楯と豊饒の角,最下部には黄道十二宮のシンボルで装飾された球,その両側には跪くアマゾネス(ただし,1体のみ現存),写真には写っていないが,胸像の両側にトリトンの姿の若者たちが脇侍のように置かれている(以上,博物館のHPの解説参照).
力の象徴であるヘラクレスの姿で表される君主像はヘレニズム時代からあり,ローマ文学最高の叙事詩『アエネイス』でも,ユリウス・カエサルの祖先とされるアエネアスの寓喩としてのヘラクレスが意識されており,同じカピトリーニ博物館でも,後に皇帝となる幼児期のカラカラを,「蛇を絞め殺す嬰児ヘラクレス」として表現した大理石小像がある.
ヘラクレスの「十二の難業(功業)」
カピトリーニ博物館でも興味深いコリント式陶器を見ることができたが,ヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館で観ることができたギリシャ陶器が質量ともに圧倒的であった.下の写真はいずれも黒絵式(黒像式)なので,紀元前6世紀のアッティカ式陶器であろう.
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写真:
3つの陶器すべて
ヴィラ・ジュリア・
エトルリア博物館 |
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「ヘラクレスとケルベロス,エウリュステウス」(上の写真の上段)は,画像検索から辿り着いたページに拠ると,紀元前530年から500年くらいの制作で,チェルヴェテリ出土とのことだ.ヒュドリアと言う型の一種の水差しで,運搬用の2つの水平取っ手と,水を注ぐ時に使う,1つの垂直取っ手に特徴があるようだ.上の写真では,2つの水平取っ手は確認できるが,垂直取っ手は裏側にあるのだろうか.
しかもこのタイプのヒュドリアは,エトルリアのカエレ(チェルヴェテリ)出土のものは「カエレのヒュドリア」と総称されるようで,当然このヒュドリアもそれに属する.
描かれているのは,通常ヘラクレスの「十二の難業(功業)」(ドーデカトロス)の最後に位置づけられる,冥界の番犬ケルベロス(3頭3尾の怪物)を地上に連れてくるというエピソードで,ヘラクレスの同世代の親族で,ミュケナイの王エウリュステウスが,自分の命令が実現したにもかかわらず,ケルベロスを見た恐怖から,甕の中に身を隠してしまう.
これと同じ場面を描いた,やはり「カエレのヒュドリア」に属する陶器がルーヴル美術館にあり,「鷲の画家」の作品とされるこちらの方が有名であろう.
「レルネのヒュドラ(水蛇)を退治するヘラクレスとイオラス」(上の写真の下段左)は,画像検索から辿り着いたページを参照すると,黒絵式のアンフォラで,チェルヴェテリの出土,紀元前530年から480年くらいの制作,「ミシガンの画家」が作者の可能性があるとされる.
通常「十二の難業」の2番目になるレルネの水蛇は,多頭の怪物で,首を切断してもすぐに再生するので,退治は難航し,ヘラクレスが首を切った後,甥のイオラス(弟エピクレスの子で忠実な御者)が,松明でその傷跡を焼き,再生を防いでようやく,怪物を殺すことができた.エウリュステウスは,ヘラクレス1人の力で成し遂げたことではないので,難業の1つに数えることを拒否したともされる.
上の写真では,向かって右側がライオンの毛皮を被っているのでヘラクレス,左側の鎧武者が松明を持っているのでイオラスということが分かる.
ルーヴル美術館には,「プリンストンの画家」に帰属される同種の絵柄のアンフォラがあり,ヘラクレスとイオラスの左右が反対になっていて,英雄の背後に守護神としての女神アテナがいて,また水蛇の足元に蟹が描かれているのが面白い.この蟹はヘラクレスの継母ヘラが難業の妨害のために送り込んだとされる.
上段右側の写真の「ネメアの獅子と格闘するヘラクレス」も黒絵式のアッティカ陶器で,やはり画像検索から辿り着いたページに拠ると,前550年から500年頃の作品で,作者は「ブーローニュの画家」とされる.ヘラクレスの左側の人物はイオラス,ライオンの右側は女神アテナと思われる.
「難業」以外のエピソード
下の写真上段も,黒絵式のアンフォラで,図柄は「キュクノスを倒すヘラクレス」である.画像検索から辿り着いたページに拠ると,前520年から510年頃の制作で,壺絵を体系的に研究し,整理,分類したジョン・ビアズリーによって,「アケロオスの画家」もしくは「レアグロス・グループ」の作品とされた.
「キュクノス退治」は,「十二の難業」以外の功業,いわゆるパレルガに属し,デルポイ参詣者を襲って奉納物を奪う野盗であったキュクノスをアポロンの命令で,イオラスとともに,アテナの守護を得て退治する物語である.上の写真では,ヘラクレスの背後にはアテナ,キュクノスの後ろにはヘルメスがいる.それぞれギリシア文字による記名があるので,神と人物の同定には問題がないが,軍神アレスの子であるキュクノスの後ろにどうしてヘルメスがいるのかは不明だ.
ギリシア語でキュクノスは「白鳥」の意だが,高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』二[登録された4人にキュクノスのうち,このアレスの子キュクノスだけが白鳥と関係づけられていない.
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写真:
「キュクノスを倒すヘラクレス」
ヴィラ・ジュリア・エトルリア
博物館 |
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写真:
「竪琴奏でるヘラクレス」 ヴィラ・ジュリア・エトルリア
博物館
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下段の壺絵にも,画像検索で辿り着くページがあり,それに拠れば,前550年から500年の間に制作されたアンフォラで,ヘルメスとアテナの間で,ヘラクレスが竪琴(キタラ)を奏でている.ビアズリーによって「リュシッピデスの画家」の作品とされる.
今回,ヴィラ・ジュリアで,陶器画の目玉作品とも言うべき,「ヘルメスの立ち会いのもとサルペドンの遺体を運ぶ有翼のヒュプノス(眠り)と死(タナトス)」(これと同型同種で作者も同じと考えられているメトロポリタン美術館所蔵の作品は英語版ウィキペディアに立項)は見ることができなかったが,やまほどアッティカ式の陶器画を見ることができた.
ここに紹介したヘラクレスの陶器画は,ヘラクレスの絵柄に限ってもごく一部に過ぎないが,わずか5つの黒絵式の陶器と1つの赤絵式陶器に関して,専門書も参考にせず,ウェブ情報を整理するだけでも,けっこう勉強になった.
澤柳大五郎『ギリシア神話と壺繪』(SD選書6)鹿島研究所出版会,1966
には,もちろん,ヘラクレスの章があり,「十二の難業」についても,少なくとも紀元前5世紀半ばの,オリュンピアのゼウス神殿の浮彫彫刻に12のパネルがあったことをはじめ,有益な情報が分かりやすく整理されている.しかし,何分にも割り当てられたページ数では情報量に限りがあり,その点は残念だ.
浮彫の題材としての「十二の難業」
下の写真は,ボルゲーゼ美術館で観ることができた,ローマ時代の石棺パネルである.
ヘラクレスの「十二の難業」のうちの5つが高浮彫になっており,円柱とアーチで区切られた5つの場面は,向かって左から「ネメアの獅子」,「レルネの水蛇」,「エリュマントス山の猪」,「ケリュネイアの牡鹿」,「スティンパロス湖の猛禽」をそれぞれ退治する場面であるのは,明らかだ.
レルネの水蛇は多頭怪物なのに,1つしか描かれていないのは,スペースを考慮した省略表現であろうし,右端の場面では鳥は彫られていないが,弓に矢をつがえて構えるヘラクレスが猛禽を打ち落とそうとしている場面であろう.

写真:ローマ時代の石棺パネル (ボルゲーゼ美術館) |
紀元後160年頃の制作と言う,
Paolo Moreno / Chiara Stefani, Galleria Borghese, Milano: Touring Club
Italiano, 2000
の情報を信ずるなら,マルクス・アウレリウス帝の治世下で,上で紹介したヘラクレスの姿のコンモドゥス胸像よりは少し古い作品ということになろう.
下部の浅浮彫は,両端をテラモン(人型柱)に囲まれた狩りの場面で,2頭の猟犬が猪に襲い掛かっている以外の3場面は人が(こちらから見て)左側から,豹(であろう,多分),猪,牡牛に槍を突き立てている.

同じ部屋に別々に展示されているが,上の写真のパネルは,おそらく同じ石棺の反対側であろうと思われる.
下部の浅浮彫はやはり,両端をテラモンに囲まれた狩りの場面だが,1頭の猟犬を真ん中に,左右対称に人が猛獣に槍を突き立てている.猛獣は左から牡牛,猪,ライオン,鹿であろう.
上部には5つ場面が彫られており,石棺の長辺面の2面にそれぞれ5つ,短辺面にそれぞれ1つの場面があるとすると,計12の場面となり,石棺全体で「十二の難業」の全てが彫られているのであろうと推測されるが,短辺面の2つは見られていないし,こちら側は,反対側よりも場面の特定が難しい.
左端は,大きな動物を抑え込んでいるので,「クレタの牡牛」か「ディオメデスの牝馬」で,多分前者ではないかと思う.太くて短い前脚に蹄があり,ヘラクレスが角を抑えているように見える.
左から2番目は男性を圧伏しているように見え,「ゲリュオンの牛」でゲリュオンを倒した場面かと思う.難を言えば,ゲリュオンは3頭3身の怪物で,ヘラクレスに弓矢で射殺されたことになっているので,当たっていないかも知れない.
その次の抑えつけられている人物は,明らかに楯を持っている女性なので,「アマゾン族の女王ヒッポリュテの腰帯」の話の場面であろう.
右から2番目は,ヘラクレスが大蛇の口を裂こうとしているように見えるので,この大蛇がラドン(ラードーン)だとすれば,この大蛇が守っていた「ヘスペリデスの黄金の林檎」の物語を表しているだろう.
とすれば,十二の難業のうち,残っているのは,前述の「ディオメデスの牝馬」の他に,「アウゲイアス(アウゲイアース)の家畜小屋掃除」と「地獄の番犬ケルベロス」と言うことになるが,右端の浮彫はこの3つの話のどれにあてはまるであろうか.
明らかに比較的大きな動物を押さえつけているように見えるので,ディオメデスの牝馬(人食いの猛獣),ケルベロスは可能性があるだろう.家畜小屋の掃除に関しても,そこにいる馬か牛だと考えれば,あてはまるかも知れない.写真を拡大して見ると,牛よりはしなやかな足に蹄があり,馬であるのはほぼ間違いないだろう.
であれば,おそらく「ディオメデスの牝馬」でほぼ決まりではないかと思ったが,上記の案内書は,これを「ケンタウロス」としている.
ヘラクレスとケンタウロスと言えば,英雄の妻デアイネイラ(デーイアネイラ)に横恋慕して殺され,後にはヘラクレスの死の原因ともなったネッソスが有名だが,「十二の難業」の中にこれを位置づけるのは難しい.
しかし,「ディオメデスの牝馬」とするには,馬を圧伏する場面を想起しにくい(人食いの荒々しい馬だが,所有者であるディオメデスを食わせることでおとなしくさせた)上に,馬は四頭立ての馬車をひくために四頭いて,それぞれ名前もついているので,案内書の著者が,下半身は馬(上半身は人間)のケンタウロスとしたのも,十分合理性がある.
だとすると,これらは「十二の難業」とほぼ重なるが,その全ての場面に対応するのではないことになり,このパネルの他の場面についても,上で述べた以外の可能性も出てくる.特に左から2つ目は「十二の難業」の一つに特定しようと,あやふやな根拠でゲリュオンとした(案内書は,こちらの場面に関しては右2つの大蛇とケンタウロス以外は特定していない)が,分からなくなってくる.
アルテンプス宮殿でも「十二の難業」を描いているとされる石棺パネル(下の写真,ウィキメディア・コモンズにも写真)を見たので,比較してみる.

描かれているのは9場面,向かって左から,おそらく「ネメアの獅子」,「レルネの水蛇」,「エリュマントス山の猪」,「ケリュネイアの牡鹿」,「スティンパロス湖の猛禽」,「アマゾン族女王の腰帯」,一つ場面不詳の単独像(根拠は不明だが,あるウェブページでは「アウゲイアスの家畜小屋掃除」としている),「クレタの牡牛」,そして右端に「ディオメデスの牝馬」(馬は四頭)となる.
ボルゲーゼの石棺は,エピソードごとに列柱とアーチで区切ったスペースの関係で馬が一頭しか彫られていない(レルネの水蛇も多頭のはずが,女性の顔1つのみだが,アルテンプスの石棺では女性の顔と,少なくとも3つの蛇頭が彫り込まれている)と考えれば,やはり右端はアルテンプスで見た石棺同様「ディオメデスの牝馬」であり,全体で「十二の難業」の浮彫ではないだろうか.
なお,ボルゲーゼの2つの石棺パネルには,それぞれ「蓋」部分にあたるパネルが乗せられており,両端には,石棺の蓋によく見られる風の神の顔の装飾があり,その間に浅浮彫が施されている.最初のパネルの上に置かれた浅浮彫は「トロイア戦争におけるアマゾン族」,2つ目のパネルの上に置かれた浅浮彫は「オリュンポスでゼウスに披露される幼いアポロンとアルテミス」だ.両者は明かに高さが違うので,同じ「蓋」の反対側ではないであろう.
下のパネルが同じ石棺の反対側だとすれば,上の「蓋」部分のパネルは別の石棺の「蓋」部分と考えた方が良いのだろう.案内書では,一方は「2世紀」,もう一方は「150年頃」と制作年代を推測している.
ボルゲーゼ家の古代コレクションは,ナポレオンと姻戚関係となったこともあって,良質なものはフランスに売られ,その多くはルーヴル美術館にあるが,ボルゲーゼ宮殿に残っているものもなかなかの佳品が多いように思える.いつの日か,これについても資料を参照して,勉強してみたい.
ヘラクレスの彫刻・塑像
ブロンズに鍍金したヘラクレス像も少なくとも2つ見ることができた.
ヴァティカン(ピオ・クレメンティーノ)のヘラクレス像(下の写真の左側)は,ポンペイウス劇場跡で,1864年に発掘された.
この像にはFCSという刻銘があり,これはFulgor Conditum Summanium(フルゴル・コンディトゥム・スンマーニウム)の略称である.スンマーヌスは,ラテン語の「最高の」(スンムス)という最上級の形容詞から造られた語で,高い場所で雷電を放つ最高神ユピテル(ゼウス)の形容語で,「ユピテルから放たれた雷光」を意味すると考えられる.雷に打たれたので,地中に埋められたとも考えられているようだ.
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写真:
左)ヴァティカン博物館
(ピオ・クレメンティーノ)
右)カピトリーニ博物館 |
右側のカピトリーニの作品に関しては,
The Capitoline Museum: Guiide, Milano: Electa, 2006
にも解説(p.130)があるが,全く同じ文面が博物館の英語ページに掲載されている.それらに拠れば,この像は,パラティーノの丘のテヴェレ川沿いの麓にあるフォルム・ボアリウムから出土した.ここには「勝利者ヘラクレスの神殿」が現存しており,ヘラクレス像出土の場所としてふさわしい.
上の2つのヘラクレス像はどちらも,紀元前2世紀のヘレニズム時代の作品だが,前4世紀ギリシアの彫刻家リュシッポスの作品を何らかの形で反映しているとされる.リュシッポスの作品は,上の写真に見られるように「片脚重心」(コントラポスト)の特徴があるとされる.どちらも右手にはヘスペリデスの黄金の林檎を持っていたと考えられている.
ヘラクレスは片手に大きな棍棒を持っているので,それが不自然にならないせいか,有名なファルネーゼのヘラクレス(ナポリ考古学博物館所蔵だが,ローマのカラカラ浴場跡で出土)をはじめ,コントラポストの作品が多いように思える.ファルネーゼのヘラクレスもローマ時代の模刻だが,原作はリュシッポスの作品と考えられている.
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写真:
ヴァティカン博物館
(キアーラモンティ博物館) |
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キアーラモンティで見たヘラクレス像(上の写真)もなかなか立派だ.やはり片脚重心で,片手に棍棒,もう一方の手にライオンの毛皮を持っている.ファルネーゼのヘラクレスに比べれば少しスリムだ.ライオンが猪に襲い掛かっている浮彫のある石棺断片の上に置かれている.根拠は分からないが,この像の写真を乗せたウェブページには紀元後1世紀の作品とある.
キアーラモンティで見られるヘラクレス像としては,大勢の息子の1人である幼児のテレポス(テーレポス)抱いているヘラクレス像がより有名なようだが,これは見た記憶がない.前4世紀の原作のローマ時代の模刻で,16世紀にカンポ・デ・フィオーリ広場で発掘されたとのことだ.
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写真:
「若いヘラクレス」 アルテンプス宮殿 |
アルテンプス宮殿の古代コレクションは,ルドヴィージ=ボンコンパーニ家,マッテイ家,ドラーゴ家のコレクションによって充実したものとなっているが,アルテンプス家所有のものは,散逸して,世界各地の博物館がその名品を入手しているとのことだ.
上の写真の若いヘラクレスの坐像は,アルテンプス家のコレクションで残ったものの一つとされ,中庭の回廊を飾っている.
今回アルテンプス宮殿で撮って来た写真を確認しても,前回見たはずの「棍棒とライオンの毛皮を持つ髯の無いヘラクレス」,「レルネの水蛇の傷跡に松明を押し当てるヘラクレス」(水蛇と松明はルネサンス時代の後補)は見落としたか,今回は観た記憶がないが,前回は確かに両方とも観ている.
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写真:
「ヘルマ柱の姿で豊饒の角を
持つヘラクレス」 アルテンプス宮殿 |
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ヘルマ柱型のヘラクレス像が珍しいのか,珍しくないのか私には知識が乏しいが,少なくとも私は他では見たことがない.
ウィキメディア・コモンズに写真があり,その解説に拠れば,前5世紀のオリジナルからのローマ時代の模刻とのことだ.ただし,そこで言っているように前2世紀のものとすれば,ローマン・コピーとしては相当古く,そもそも前2世紀には既にローマは大国だが,まだ「ヘレニズム時代」であり,「ローマ時代」とは言えないだろう.
ギリシアのペンテリコス大理石でできていて,表面が荒れているのは長年風雨に曝されていたからとのことだ.
この解説は英,仏,伊語で書かれていて,英語,伊語は「紀元前」だが,仏語は「ap.J.C.」とあり,これは「紀元後」であろう.写真を撮った人の名前は,仏語(マリーと言う名)のようなので,「紀元後」が正解なのではないかと思う.紀元前2世紀のローマン・コピーが実在するかどうか不明にして知らないが,ちょっと早いなあと言う感じがする.
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写真:
神殿の屋根飾りの
ヘラクレス(左)
ヴィラ・ジュリア・エトルリア
博物館 |
3つ前のページでヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館の報告をした際,ポルトナッチョのメネルウァ(ミネルウァ/アテナ)神殿の屋根装飾のテラコッタを紹介した.アルテミスの神獣であるケリュネイアの鹿を巡って,アルテミスの兄であるアポロン(エトルリア語:アプル)とヘラクレス(エトルリア語:ヘルクル)が争っている場面で,前回は,圧倒的に有名なアポロン像と,対峙するヘラクレスの後姿の写真を掲載したが,ここではヘラクレス像の正面の姿の写真を紹介する.
足元の大きな壺のように見えるのは,頭部が欠けているがケリュネイアの鹿であろう.ヘラクレスの頭部も欠けている.ギリシアにもあったのかも知れないが,テラコッタのエトルリア独特の造形に思える.トップの壺絵の写真と同様ライオンの毛皮は,首のところで脚を結び,腰のところでX形に合せられている.
ギリシアのヘラクレス崇拝が,エトルリアのヘルクル崇拝となり,ローマでもヘルクレス崇拝として流行となった.
喜劇などに出てくる「メヘルクレー」(神かけて/神に誓って/何てことだ)というラテン語の言い回しが日常的になっていたことがそれを物語っているし,牛の取引が行われいた,ティベリス川の川港であった,上述のフォルム・ボアリウムに「勝利者ヘラクレス(ヘルクレス)」の神殿があったこともその現れであろう.
ヘラクレスと言う英雄崇拝をめぐっては,ギリシア,エトルリア,ローマにはっきりした連続性が認められ,もしかしたら,「主神の子」が人間界で生きて,天界で神となると言うストーリーは,ローマ人がキリスト教を受け容れる素地を形成していたかも知れない.
「救済の英雄」ヘラクレスは,イエス・キリストとは随分キャラクターが違うようにも思えるが,「苦難を経て栄光に至る」その姿は,両者に共通のものであろう.
昨年のローマ旅行後,新しい校務が加わり,授業も減らない状態が続き,その間にまだ実現していないが出版の仕事も進め,論文も2本書いたので,「2014 ローマの旅」篇は予想外に時間がかかった.
既に今年の3月に新たにヴェネツィアに旅し,充実の観光を果たすことができたので,引き続き「2015 ヴェネツィアの旅」篇を書いていくことにする.
意識は既にヴェネツィアに向かっているが,それにしてもローマ何度行っても(既に6回行っている),まだまだ見たいものが尽きない.時間とお金の算段をして,元気なうちに何度かローマを訪れたい.
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古代,神殿のあったカンピドリオの丘で
フォロ・ロマーノを眼下に
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