フィレンツェだより番外篇
2015年3月31日



 




カラヴァッジョ作 「キリストの埋葬」
ヴァティカン博物館絵画館



§2014ローマの旅 - その9 カラヴァッジョの作品

カラヴァッジョについて,今さら私ごときが何をか言わんやという気持ちはあるが,何せ,ボルゲーゼで写真を撮らせてもらえるというサプライズがあったので,また少し語らせてもらうことにする.


 今思えばもったいない事だったが,2006年に初めてローマに行き,ヴァティカン(実際には「バチカン」と発音しているのにこのように書くのは,ペダンティックな感じもするが,これで通しているので,今後もこのように表記する)博物館を訪れた時,特に絵画に興味があった訳でもなく,印象に残った作品はほとんどなかった.

 それでも,ラファエロの「キリスト変容」とカラヴァッジョの「キリスト埋葬」は,さすがに注意して観たと思う.



 カラヴァッジョに関しては,ともかく2001年に目黒の東京都庭園美術館で開催された特別展「カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」を見るまで,特に何と言うイメージも予備知識もなかった.

 学部の役職の一端を初めて拝命し,様々な業務で慌ただしくしていた中,わざわざ時間を作って,近くもない美術館にわざわざ足を運んだのだから,カラヴァッジョを評判の高い画家と,どこかで聞いていたのだと思う.

 最終日だったので,すごい混雑だった.カラヴァッジョとその追随者たちの作品を観て,追随者たちに比べると,巨匠の作品は圧倒的に優れているという印象を与える展示に感心し,なるほどカラヴァッジョと言う画家は高い評価を得ている芸術家なのだと認識した.

 図録を見ると追随者たちに「カラヴァッジェスキ」と言う用語を使っているが,私の中でその語が定着するのは2007年のイタリア滞在後だ.

 特別展以前に,どういう脈絡だったか覚えていないが,授業に美術に興味のある学生が少なからずいたので,たまたま持っていたデレク・ジャーマン監督の「カラヴァッジョ」のVHSを教室で観たことがあった.所定時間より前に始めても休み時間までくいこむ長い作品だったが,自分の印象としては地味な映画を50人くらいの学生が熱心に観てくれたことに驚いた.

 繰り返しになるが,現在はカラヴァッジェスキの画家たちにも深い興味を抱いており,今,庭園美術館の特別展を観ることができたら,ジョヴァンニ・バリオーネ,カルロ・サラチェーニ.オラツィオ・ボルジャンニ,スパダリーノの作品をじっくり鑑賞したに違いない.

 今では,「巨匠」に近い存在と心の中では思っているオラツィオ・ジェンティレスキの作品も観ていたことに驚く.この「エジプト逃避途上の休息」という作品は,特別展図録には個人蔵とあるが,殆んど同じ絵柄の作品がルーヴル美術館にあるようだ.撮って来た写真を確認すると確かにある.図録に拠ればウィーン美術史博物館にもあるとのことだ.

 しかも,これらの人物はカラヴァッジョの人生と深く関わりを持っており,裁判沙汰にまでなった敵対者のバリオーニはカラヴァッジョに関する貴重な伝記資料も残しているとのことだ.

 上には名前を上げなかったが,ローマではカラヴァッジョの「子分」格で,カラヴァッジョに逃亡先先のシチリアで仕事の世話をしたとされるマリオ・ミンニーティの作品も2点あり,バッティステッロ・カラッチョーロ,バルトロメオ・マンフレーディの作品も2点ずつ来ていて,今更ながら,つくづく勿体ないことをしていたと思う.

 何分にも,カラヴァッジョの魅力にその時初めて目覚めたわけだから,止むを得ないだろう.



 これも繰り返しになるが,庭園美術館の特別展で,観ることができたカラヴァッジョの作品は,

 「果物(メランゴロ)をむく少年」(ローマ,個人蔵,1593年)
 「果物かごを持つ少年」(ボルゲーゼ美術館,1593-94年頃)
 「ナルキッソス」(バルベリーニ宮殿古典絵画館,1597-99年)
 「執筆する聖ヒエロニュムス」(ボルゲーゼ美術館,1605年頃)
 「祈る聖フランチェスコ」(クレモナ,市立アラ・ポンツォーネ美術館,1606-10年)
 「瞑想の聖フランチェスコ」(バルベリーニ宮殿古典絵画館寄託,1603/5-6年)
 「マグダラのマリアの法悦」(ローマ,個人蔵,1606年)
 「エマオの饗宴」(ミラノ,ブレラ絵画館,1606年)

の8点だ.傑作に思われ,とりわけ印象に残ったのは,「執筆するヒエロニュムス」と「エマオの饗宴」で,後に,前者はボルゲーゼで3回,後者はブレラで2回観ている.また,「祈る聖フランチェスコ」(または「瞑想のフランチェスコ」)もエルミタージュの特別展で1回観ている.

 「果物かごを持つ少年」もボルゲーゼで3回,「ナルキッソス」もバルベリーニで2回観ているし,それなりに心魅かれてもいるが,最初の作品は,その後,観ていない.今,図録を見返しても特に魅力を感じないが,図録解説にはイコノロジー(図像解釈学)が示されており,このローマ個人蔵の写真は,

 宮下規久朗『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品』東京美術,2009(以下,『もっと知りたい』)


にカラー写真が掲載されている.ITと印刷技術が進歩し,コストの削減も実現しているからだろうか,テクストよりも,まず写真でという場合は,ウェブページとこの本で,相当カラヴァッジョとカラヴァッジェスキに関して学べる.

 この本は,実は文章も気力の充実を感じさせ,大いに勉強になる.タイトルが少々安直なので躊躇していたが,思い切って購入したところ,得られるものが多かった.ともかく参照がしやすく,思っても見なかった知識を授けて貰える.例によって,他に

 宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』角川書店,2007(以下,『旅』)
 同『カラヴァッジョ巡礼』新潮社,2010(以下,『巡礼』)


も参照している.


「蛇の聖母」,「ロレートの聖母」
 下の2枚の絵の聖母はモデルが同じ人物(『もっと知りたい』p.56に拠れば,レーナという女性)とされる.

 左の絵は,教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会が注文し,サン・ピエトロ大聖堂の礼拝堂に飾られることになっていて(『もっと知りたい』p.56,『旅』p.149),実際に飾られたが,クレームがついてはずされ,画家の保護者の一人だった枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼが入手したらしい.

 右の絵は描かれた当時から現在に至るまで,サンタゴスティーノ聖堂のカヴァレッティ礼拝堂にあり続けている.

  左:「蛇の聖母」(馬丁の聖母)(部分) ボルゲーゼ美術館
右:「ロレートの聖母」(部分) サンタゴスティーノ教会
 


 教会で観られるカラヴァッジョ作品は,私の知る限り,ローマでは,サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会コンタリーニ礼拝堂の聖マタイ三部作,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のチェラージ礼拝堂の「聖ペテロの磔刑」と「聖パウロの回心」である.

 観光の目玉としてカラヴァッジョにフォーカスされる度合いが最も高いのは,三部作のあるフランチェージ教会で,集客(と言っては怒られるが)力では圧倒的に思える.

 サンタゴスティーノは他の2教会に比べてカラヴァッジョ作品は1つしかないが,他にもラファエロ,サンソヴィーノ,ランフランコ,グエルチーノなど大物芸術家の作品があるし,カンポ・マルツィオという歴史的にはローマの下町的な場所にあって,言葉は悪いが都市社会の底辺付近にいる人々の心の支えとなっていた背景もあって,参拝する人の絶えない信仰の場である.

 カヴァレッティ礼拝堂の前が常に人で埋まっているという感じこそないが,扉を開けてすぐ左手の礼拝堂にあるこの「ロレートの聖母」に,イタリアの庶民の信仰が凝縮されているように思える.

 巡礼者たちの前に現れる聖母子はもちろん幻視であって,彼らは時空を共有していないが,そうした物理法則を超えた力が宗教だとすれば,現実にはあり得ない光景を教会と言う場で現前させてくれるのが,芸術の力と言うことができ,サンタゴスティーノ聖堂は,そうした宗教と芸術を体現した場所と言えるように思う.



 「蛇の聖母」がサン・ピエトロの礼拝堂から外されたことに関する,推測可能な理由の一つとして,聖母子の向かって右側にいる聖アンナが「みすぼらしい老婆」(『もっと知りたい』p.56)であることが挙げられるらしい.

 絶大な世俗権力を得たとは言え,キリスト教が真に弱者の味方であるならば,決して望ましくないこととは思えないが,教皇庁馬丁組合の同信会も自分たちの守護聖人には気高く,美しくあってほしいというのも,やはり庶民出身の人たち(だと思う)の正直な願望であろうから,それについて何か言うつもりはないが.

 「蛇の聖母」でアンナのモデルとなった老女が,「ロレートの聖母」で巡礼の男の右側にいる母親のような女性のモデルでもあると考えられているようだ.


ペテロの禿頭を追う
 有髯禿頭の老聖人と言う意味では,フランチェージ教会の天使の教えで福音書を記すマタイと,ボルゲーゼ美術館の執筆するヒエロニュムスも似ていると思えないこともないが,今の所,ぞれぞれのモデルに関する情報はないし,前頭部の形が違うので,モデルがいたとしても,別の人物であろう.

  左:「聖マタイと天使」(部分) サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会
右:「執筆する聖ヒエロニュムス」(部分) ボルゲーゼ美術館
 


 ペテロとパウロについては,誰が描いたにせよ,おそらく共通と思われる特徴として,前者は白髪有髯(髯も白いが,殆んどの場合禿頭ではない),後者は禿頭有髯(髪と髯は白くない)は,それらは少なくともラヴェンナのモザイクや,シナイ半島の修道院の蜜蠟画に遡り,少なくとも古代末期からの安定したイメージということができるだろう.

 カラヴァッジョのポポロ聖堂の「聖ペテロの磔刑」は,白髪有髯で,あくまでも印象だが,多血質を感じさせる老人である.ただし,あまり見た記憶の無い禿頭のペテロである.「パウロの回心」では若い頃の聖人が描かれているので,禿頭ではなく髯はない.

 禿頭のペテロをグーグルの画像検索(saint peter)で探してみると,メトロポリタン美術館所蔵で,カラヴァッジョ作とされる「ペテロの否認」(メトロポリタン美術館,1610年頃)が見出される.

 この作品は,写真で見る限り,素人目には未完成感が漂っているように見え,真作かどうか疑問を抱いてしまうが,専門家は「荒々しい筆触で,緊迫した人物の描出されている」と評価した上で,「真筆かどうか判断に迷う部分もあるが,半分影に沈んだ女性の表情は見事で,カラヴァッジョの晩年様式に合致する」(『旅』pp.222-223)と言っている.

 イエス存命中の出来事なので,若干,若さを出そうとしてか,髪も髯も白くない.

 カラヴァッジョ作とされながら,ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にあって,第二次大戦で失われた「オリーヴ山のキリスト」の中のペテロが禿頭であり,ルーヴル美術館の「聖母の永眠」で,聖母のまわりを囲む聖人たちの前列に3人の禿頭の人物がいるが,そのうちの一人(真ん中か)がペテロであろうと思われる.

 カラヴァッジョ作とされることもある「ペテロとアンデレの召命」は,ペテロが頭頂部は禿げているが,前頭部にには白髪がかなり残っており,これが伝統的なペテロのイメージに近いように思われる.

 しかし,宮下は『カラヴァッジョ巡礼』において,ダブリンの「キリストの捕縛」20世紀再発見の真作であるのと対照して,「質的に問題があり,明らかに模作」と断じている(p.124).

 ヴァティカン絵画館で,カラヴァッジョの「キリストの埋葬」(トップの写真)の傍らで,勝るとも劣らぬ光彩を放っているグイド・レーニの「ペテロの磔刑」の聖人は禿頭だ.レーニの作品では,ブレラ絵画館所蔵の「ペテロとパウロ」が年齢差を出す工夫なのか,ペテロは禿頭の老人.パウロは黒い髪を蓄えた壮年の人物に描かれている.

 英語版ウィキペディア「聖ペテロ」に幾つかの絵が紹介されており,バロックの画家ではジョヴァンニ・ランフランコの「ペテロの解放」(バーミンガム美術館,1620年頃)が目をひくが,この聖人は禿頭である.一方,同じ主題を扱ったラファエロのフレスコ画には「蓬髪」感ただよう豊かな白髪の人物が描かれている.

 ラファエロ以前の画家では,レオナルドの「最後の晩餐」のペテロは,豊かな白髪とは言い難いが,禿頭とまでは言えないように思う(本人に拠ると思われる部分的写しではかなり禿げあがっているように見える).

 同じ「最後の晩餐」でもギルランダイオの描くペテロは,前頭部には白髪を残しているが,頭頂部を丸く剃り上げた修道士のような髪型になっている.これは,フィレンツェのサン・マルコ修道院,オンニサンティ修道院の2つの作品ともそうであり,見たことがなく写真が不鮮明でわかりにくいが,バディア・パッシニャーノの「最後の晩餐」のペテロはそのような髪型か,もしくは後述の三重型の髪型に見える(後者であろう).

 ギルランダイオは,システィーナ礼拝堂のフレスコ画「使徒の召命」でも,ルッカ大聖堂の祭壇画でもペテロを修道士型の髪型に描いている.自然にそうなったと考えたのか,聖人がわざとそのような髪型にしたと考えたのかは,絵からは推測できないが,綺麗に整えられているのを見ると,少なくとも画家は後者と考えたのではないかと思われる.

 ペルジーノの下絵によるフォリーニョ修道院の「最後の晩餐」のペテロは修道士型の髪型ではないが,相当に額が後退している.

 ペルジーノがシスティーナ礼拝堂に描いたキリストから天国の鍵を授かるペテロは,既に「禿頭」と言っても良いほど,髪は両脇と後頭部にしか残っていない.ボッティチェリの「ピエタ」(ミュンヘン,アルテ・ピナコテーク,1490年頃)の向かって左端に書き添えられた人物は鍵を持っているのでペテロであろうが,ペルジーノの場合と同じような禿頭である.

 ミケランジェロ「最後の審判」のペテロは,前髪の残る禿頭だが,ギルランダイオの場合よりは,自然な感じがする.未見の作品だが,やはりヴァティカンの教皇宮殿パオリーナ礼拝堂の「ペテロの磔刑」は,意識して前髪を残して整えた髪型に思われる.

 そもそも,上に掲げた写真で比較対照しているのは,マタイとヒエロニュムスなのに,ペテロの話になってしまったが,私の貧しい経験で,ペテロは白髪が豊かに残った顔に描かれるのが当然だと思っていたので,カラヴァッジョの「ペテロの磔刑」は例外的なのかと思っていたが,今まで見た作品でも15世紀後半以降のものは,禿頭のペテロが主流だったようだ.

 同じフィレンツェの「最後の晩餐」でも,1447年の制作とされるカスターニョの作品では,ペテロはもし,イエスの胸にもたれるヨハネの向かって左隣のナイフを持った人物だとすれば,豊かな白髪の人物として描かれているように思われるが,イエスの右隣の人物が発している言葉が「主よ,それは誰ですか」だとすれば,この人物がペテロで,彼は前頭部に髪を残して,頭頂部には毛が無い,一種の修道士型の髪型と言えるかも知れない.

 初期ルネサンスの巨匠としてはマザッチョのフレスコ画(フィレンツェ,サンタ・マリーア・デル・カルミネ聖堂)が有名で,そこには複数のペテロ像が描かれているが,「新受洗者たちの洗礼」と「施しとアナニヤの死」が,聖人の後頭部まで描かれている.うまく言えないが,ギルランダイオが周辺に残した白髪が三重冠のようになっているように見え,結論から言うと禿頭ではない.

 あまりこだわると泥沼にはまってしまうが,国際ゴシックのロレンツォ・モナコも禿頭のペテロ像(個人蔵,1405年頃)を描いている.用語が不正確かも知れないが,上記で述べた修道士型で,ロレンツォは祭壇画でも写本細密画でも修道士型の髪型ペテロを描いていて,特に後者はキリストが鍵を授けながら,ペテロの剃り上げた頭頂部を撫でており,これは出色の出来だ.

 ジョット作かどうかは議論があるようだが,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上部教会のファサード裏の「聖霊降臨」のフレスコ画の上にあるメダイオンの中の禿頭の人物を,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート(2015/3/29参照)ではペテロであるとしている.しかし,この人物は禿頭であるだけでなく,髯が白くない.ファサード裏の全体写真を見ると,対応している「キリスト昇天」の上のメダイオンの中の人物が白髪で明らかにペテロなので,上記の人物はパウロであろう.ペテロと思われる人物は禿げていない.

 今回ヴァティカンで詳しく見ることができたステファネスキ祭壇画のペテロの磔刑の場面と,裾絵(中央の裾絵の向かって左端)の2か所にペテロが描かれているが,いずれも有髪である.

 ジョットの前の世代の偉大な彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオ作とされるブロンズのペテロ像がサン・ピエトロ大聖堂に置かれているが,有髪である.ただしブロンズなので,白髪かどうかはわからない.1300年頃の作品とされるので,ジョットがパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂にフレスコ画を描く数年前になる.

 スクロヴェーニのフレスコ画では,「洗足」と「最後の晩餐」で,いずれもペテロは有髪である.ボローニャ国立絵画館の祭壇画も含めて,ジョットもしくはその工房の描いたペテロは白髪有髯で,髪型としてはマザッチョが描いたペテロとほぼ同じに見える.

 14世紀半ば頃に描かれたオルカーニャの祭壇画(フィレンツェ,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,ストロッツィ礼拝堂)でも,跪いて鍵を授かるペテロの髪型は,先輩のジョット,後進のマザッチョと同じ三重型で,シエナ派でも,ドゥッチョの祭壇画の一部の「ペテロの否認」,「キリストの変容」,シモーネ・マルティーニ作オルヴィエートの祭壇画のペテロも同様に思える.

 ルーヴルで観たリッポ・メンミ,アヴィニョンで観たタッデーオ・ディ・バルトロのペテロ像もほぼ同じなので,これがゴシックの時代のペテロの髪型で,マザッチョはそれを踏襲したと考えて良いであろうか.

 とすると,ロレンツォ・モナコのペテロ像(頭頂部を剃り,周辺にのみ白髪が残る)は,斬新だったのかも知れない.それを踏襲したのはギルランダイオ以外にいるのだろうか.

 きりがないので,終わりにするが,ヴェネツィアの画家たちはゴシック期のパオロ・ヴェネツィアーノ,ロレンツォ・ヴェネツィアーノは白髪の厚い巻き毛,国際ゴシックのヤコポ・ベッリーニのペテロは後退して額が秀でた白髪,ジョヴァンニ・ベッリーニ以下のルネサンス期の画家たちのペテロは概ね禿頭のようであるが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートを検索しただけなので,あるいは早とちりかも知れない.

 ジョヴァンニ・ベッリーニとヴェロネーゼは「キリストの変容」(前者後者)においては,写真で見る限り有髪のペテロを描いている.初期のジョヴァンニに影響を与えたマンテーニャのサン・ゼーノ祭壇画のペテロ(向かって左側)も有髪に見える.

こうして見ると,英語版ウィキペディア「聖ペテロ」の下段にある図像についての簡潔な説明が言うように,15世紀を境にして,有髪と禿頭のペテロの割合が変わると考えて良いかも知れない.


 16世紀末でも,私たちもエルミタージュで観ることができたエル・グレコの「使徒ペテロとパウロ」(1592年頃)のように,ある意味で古代から伝統を踏襲した図像もあり,一概には言えないであろうが,一応,上のような結論で当面納得することにする.


「禿頭のマタイ」
 ペテロにこだわったのは,ペテロの方が図像的に安定しているという思い込みがあったからだが,本当の問題は「禿頭のマタイ」だったはずだ.果たして,マタイはどのように描かれれば,多くの人がマタイと思うであろうか.

 典型と言えるかどうかわからないが,盛期ルネサンスのギルランダイオ(もしくは工房)が描いた「聖マタイ像」(1486-90年)を,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のトルナブォーニ礼拝堂の天井に見ることができる.ヴォールト天井の4面にそれぞれ描かれた聖人は,アトリビュートである石筆と書物を手にしていることで4福音史家と分かるが,マタイ,マルコ,ルカ,ヨハネの識別は,それぞれの象徴物である,天使(有翼の人物),ライオン,牛,鷲によって初めて可能になる.

 この絵の場合,福音史家と象徴物は一緒に描かれているが,福音史家の姿はなく,象徴物だけが描かれるケースもある.フィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂のペルッツィ礼拝堂のジョット工房の天井画(1320年)がそうである.

 一方,最後のジョッテスキの1人スピネッロ・アレティーノが,同じフィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の聖具室に描いた4福音史家の天井画(1388年)は,象徴物とともに人物も描かれ,天使(有翼の人物)が傍らにいることによってマタイと特定される人物は禿頭である.

 このタイプの絵でより古い作品としては,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上部教会に描かれたチマブーエの天井画(1277-80年)があり,そのうちのマタイは頭上に天使がおり,サンクトゥス・マッテウスと言うラテン文字が書かれているので,それとわかる.セッコの技法で描かれたためか色落ちしていてわかりにくいが,髪は豊かではないけれども禿頭ではない.

 チマブーエとスピネッロの中間よりはだいぶスピネッロ寄りだが,ゴシックの時代にフィレンツェでフレスコ画にマタイを描いた人物として,アンドレーア・ボナイウート(アンドレーア・ダ・フィレンツェ)がいる.サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院,緑の回廊のスペイン人礼拝堂(後世の命名)に描かれた「トマス・アクイナスの勝利」で,玉座のトマス(足許のターバンの人物はアヴェロエス)の向かってすぐ左がマタイとされる(足もとにラテン語で記名)が,有髪有髯である.

 限られた情報なので,断定はできないが,ペテロのように古代末期の肖像根拠のないマタイに関しては,アトリビュートとしては筆記具と福音書もあるが,象徴物と記名によって判断するしかないように思われる.十二使徒の1人なので,最後の晩餐には加わっているが,ジョットやドッチョの「最後の晩餐」に禿頭の人物はおらず,ギルランダイオの3つ「最後の晩餐」では禿頭人物の数は絵によって異なる.

 カスターニョの「最後の晩餐」では,修道士型とはいえ,禿頭の可能性があるのはペテロだけなので,ギルランダイオ以降の「最後の晩餐」(アンドレア・デル・サルトではペテロではない1名,フランチャビージョはペテロのみ,ペルジーノはペテロを含む3名,ヤコポ・バッサーノはペテロを含む2名,レアンドロ・バッサーノはペテロを含む5名以上)に不特定数の禿頭人物が描かれたのかと思われた.

 しかし,さらに様々見てみるとアーニョロ・ガッディ(1395年頃))(ペテロではない2名),ピエトロ・ロレンゼッティ(1320年頃))(ペテロではない2名で,1名は修道士型)の「最後の晩餐」には禿頭に人物が出て来るので,これに時代的傾向を読み取るのはお手上げとなった.

 レオナルドの「最後の晩餐」は人物が特定されており,アンデレとシモンが禿頭で,ペテロも上では「禿頭とまでは言えない」と言ったが,かなり薄い頭髪で,場合によっては禿頭とも見える.しかし,マタイ(向かって右から3人目の青い服の人物)は有髪である.

写真:
カラヴァッジョ作
「マタイの殉教」(部分)
サン・ルイージ・デイ・
フランチェージ教会


 カラヴァッジョ以前に「聖マタイの召命」を描いた画家としては,ジュスト・デ・メナブオイ(9面のうちの中央の絵)(1378年頃),ヴィットーレ・カルパッチョ(1502年),カヴァリエール・ダルピーノ(1592年頃)が挙げられるが,いずれも,マタイは有髪と思われる.

今のところ,スピネッロ以前に禿頭のマタイを描いた例が見つからない.1000年頃の写本細密画,シチリア島チェファルー大聖堂後陣の11世紀のモザイクを見ても,マタイは有髪である.


 スピネッロ以後では,ロレンツォ・モナコの祭壇画(1407-9年頃)),フラ・アンジェリコのコルトーナ祭壇画(1430年頃))に禿頭のマタイ(筆記具と福音書がアトリビュートだが,それ以外の根拠は私には不明)が見られる.

 フラ・アンジェリコは,現在シャンティーのコンデ博物館所蔵の祭壇画パネルに聖マタイ(1420年代前半)(有翼の人物もしくは天使が耳元にいて,筆記具と福音書を持っている)を描いているが,白髪有髯で禿げてはいない.また,ヴァティカンの教皇宮殿のニッコリーナ礼拝堂に,スピネッロと同様の天井画を描いているが,4福音史家のうちヨハネとルカが禿頭で,マルコも老人だが,マタイは有髪有髯(白くない)の壮年(象徴物で人物は特定できる)に描かれている,

 同様の天井画はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで,ビッチ・ディ・ロレンツォ(アレッツォのサン・フランチェスコ教会バッチ礼拝堂,1447年頃),フラ・アンジェリコの弟子のベノッツォ・ゴッツォリ(サン・ジミニャーノのサンタゴスティーノ教会,1465年頃)の絵(ビッチゴッツォリ)が見られるが,いずれもマタイは禿頭ではない.


フィジーノの作品の影響
 禿頭のマタイに特化して更に探すと,アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ「聖マタイ」(ヴェネツィア,アカデミア美術館,1480年頃),ティツィアーノ「聖マタイ」(ヴェネツィア,サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂)(16世紀前半),ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノ「聖マタイと天使」(ミラノ,サン・ラッファエーレ・アルカンジェロ教会,1586-8年頃)の写真をウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで見ることができる.

 驚いたのは,フィジーノの作品だ.この写真を見た時,最初は驚くことなく,カラヴァッジョの追随者が描いた作品だと思った.「聖マタイと天使」の失われた第1作に酷似して見えたからだ.

 しかし,その制作年代と画家についての伊語版ウィキペディアを見て,驚いた.フィジーノはカラヴァッジョよりも18年年長の1553年生まれ,カラヴァッジョの「聖マタイと天使」よりもフィジーノの同主題作品が15年前後先行している.フィジーノの当該作品が描かれた頃,後の天才画家は10代後半になったばかりの少年で,1584年から88年までミラノの画家シモーネ・ペテルザーノ(ペテルツァーノ)の工房にいた(『旅』p.22).ということはミラノで,この作品を見ていた可能性がある.

ペテルザーノが「キリスト降架」(1573-78年頃)を描いたサン・フェデーレ教会と,フィジーノが「聖マタイと天使」を描いたサン・ラッファエーレ教会は,実際にミラノの旧市街を歩いて見ると,ごく近い場所にあり,ペテルザーノの工房がどこにあったか情報が得られていないが,動機は不明でも,工房にいて画業を志していた以上,教会と言う公開の場に飾られた,当時の新進気鋭の画家の作品を見に行ったことは十分に考えられる.

 「フィジーノ カラヴァッジョ」で日本語検索すると,宮下規久朗が,フィジーノの「金属製の皿に置かれた桃と葡萄の葉」(個人蔵,1591-4年)に,2008年と2009年の講演「知られざる静物画の魅力」(西洋美術館),「カラヴァッジョとイタリア静物画の発生」(兵庫県立美術館)で言及していることがわかるが,今のところ,「マタイと天使」に関する言及は見つからない.専門的な本や論文を読んでいないので,何とも言えないが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに写真があり,伊語版ウィキペディアに言及があるくらいのことなので,専門家の間では良く知られているのであろう.

 「Figino Caravaggio」で欧文検索すると,フィジーノとカラヴァッジョ(第1作)の「マタイと天使」の写真を比較紹介しているページも見つかる.一応,書架にある欧語文献も確かめたが,

 Helen Langdon, Caravaggio: A Life, New York:, Farrar, Straus and Giroux, 1998

にフィジーノへの言及があるが,「マタイと天使」には触れていない.ただし,カラヴァッジョの「蛇の聖母」にフィジーノの同主題作品の影響を示唆している(p.24).この絵もウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに写真があり,ミラノのサンタントーニオ・アバーテ教会にあり,1590年頃の作品とされている.

 1590年には,カラヴァッジョはまだミラノにいた可能性があるので,あるいはこの作品を見ていたかも知れない.サン・ラッファエーレ教会も,サンタントーニオ教会も2009年9月にミラノで拝観しており,後者は特にじっくり観させてもらったが,フィジーノ作品は記憶にないし,写真も撮っていない.

 カラヴァッジョ作品と先行諸作品を比べたページでは,ペテルザーノの「ピエタ」ととカラヴァッジョの「キリストの埋葬」などと並んで,フィジーノの「蛇の聖母」がカラヴァッジョの「蛇の聖母」と比較されている.

 カラヴァッジョ以降では,シモーネ・カンタリーニ(1645-8年)とフランス・ハルス(1625年頃))が禿頭のマタイ(カンタリーニハルス)を描いているが,レンブラントのマタイ(1661年)は老人でも禿げていない.グイド・レーニの「マタイと天使」も白髪非禿頭の老人を描いている.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,他にもサヴォルド(1534年頃),アンニーバレ・カッラッチ(1588年)が描いたマタイ(サヴォルドカッラッチ)の絵が紹介されているが,いずれも髪も髯も黒々とした壮年の姿である.

 グエルチーノの「聖マタイと天使」(カピトリーニ博物館,1621-2年)はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには紹介されていないが,白髪非禿頭の初老の人物として描かれている.グエルチーノの作品はカピトリーニでも観ており,現在(2015年5月末日まで)西洋美術館で開催されているグエルチーノ展にも来ているが,この特別展に関しては,別に感想を述べる.


ヒエロニュムス
 本来ならば,ヒエロニュムスについても,少し調べてみたいが,この聖人の場合,枢機卿の帽子を被っていない限り,禿頭の場合が殆んどと思われる.

 カラヴァッジョはトラブルを起こして,ジェノヴァに亡命までしたが,その解決に力を尽くしてくれた新任のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に,「執筆するヒエロニュムス」を献じたとされる(『旅』pp.146-7).

 しかし,この作品にシピオーネに対する肖像性はない.作品として先行している「イサクの犠牲」(ウフィッツィ美術館,1601-2年)のアブラハムは,上のヒエロニュムスに似ているように思われる(ウェブ・ギャラリー・オブ・アートはフランチェージ教会の「聖マタイと天使」のマタイに似ていると言っている).

 ホセ(フセペ)・デ・リベーラのヒエロニュムス像を複数観て,それぞれ感銘を受けたことは以前も書いた.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに1点のエッチングを含め5点紹介されているが,現在はカラヴァッジョ作として殆んどの人が疑わないボルゲーゼの「執筆するヒエロニュムス」も,19世紀の記録にリベーラの作品とされており(特別展図録,p.76),カラヴァッジョへの帰属は20世紀になってからだ.

 リベーラの絵も好きだし,その描いたヒエロニュムスの殆んど全てに感銘を受けるが,「執筆するヒエロニュムス」はカラヴァッジョの最高傑作と思いたい.

 彼はマルタ島でも同主題作品を描いており,やはり聖人は禿頭だが,モデルはカラヴァッジョがその肖像画(ルーヴル美術館,1608年頃)も描いているマルタ騎士団長アロフ・ド・ヴィニャクールと考えられている(『旅』p.185).

 また,宮下の上記3著作には私が読んだ限り言及はないが,モンセラットの博物館の「聖ヒエロニュムス」は執筆はしていないけれども,ボルゲーゼのヒエロニュムスに良く似ていて,これを観ることができた時は,感銘を受けた.たとえ,真作でないとしても私は好きだ.


カラヴァッジョの自画像
 特定はされないにしても,カラヴァッジョが描いた禿頭の聖人たちには,おそらくモデルがいたであろう.彼の描く人物の迫真性は,作者の周辺にいた実在の人物をモデルとしているからだと断ずるのは早計にしても,そう言い切ってしまいたいほど,彼の描く人物は観る者の心を打つ.

 38歳で亡くなったカラヴァッジョは禿げる間もなかったかも知れない.カジーノ・ルドヴィージの天井画に描き込まれた海神,「マタイの殉教」(1600年)でその様子を覗き込む男(左下の写真),「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」(1610年頃)のゴリアテの首,どの自画像も髪も髯も黒々(本当は茶色かも知れないが)とはしているが,21歳の頃から38歳で亡くなる1610年頃まで,若々しさをあまり感じさせない容貌だったように思える.

  左:「聖マタイの殉教」(部分) サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会
右:「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」(部分) ボルゲーゼ美術館


 『もっと知りたい』には「自画像の変遷」というページ(p.89)があり,海神を除く8つの自画像が時系列に並べられている.

 「キリストの捕縛」(ダブリン,ナショナル・ギャラリー,1601年),「ラザロの復活」(メッシーナ,州立美術館,1609年),「聖ウルスラの殉教」(ナポリ,パラッツォ・ゼヴェロス・スティリアーノ美術館,1609年)に描かれた横顔は,眉が濃く,鼻梁の高い青年の顔だが,特に1番目と,2番目を比べると心なしか皺が深くなっているように思える.

写真:
「病めるバッカス」
ボルゲーゼ美術館
1594年頃


 「病めるバッカス」はもし,バリオーネが伝えたように,鏡を見ながら自身を描いたものだとすれば,彼の最初の自画像と言うことになるだろうが,1594年の作であれば,既に23歳くらいの青年のはずなのに,この少年のような表情は,後の大作に描き込まれた自画像とは全く違った印象を受ける.

 土気色の肌ゆえに「病める」と言う通称になっているが,「病のためではなく芸術家特有のメランコリー気質をあらわすものと言われる」との指摘もある(『もっと知りたい』p.11,『旅』pp.46-7,『巡礼』p.34).意味があるのかどうかわからないが,キリスト教的図像解釈もあるようだ.

 私は,この絵は妖しげで卑しい感じがして,嫌いだった.

 それでも,自信過剰だが,それに見合う天才性を備えた画家が,生産的であっても不幸な結末を迎える人生の二十歳を越した青年の頃に,両親も既になく,血族との恩愛も絶ち,もしかしたらミラノには帰れない事情も抱えていたかも知れない自分を,いたいけな少年のような姿で描いたことに心魅かれる.


「洗礼者ヨハネ」
 洗礼者ヨハネは,カラヴァッジョが好んで描いたか,あるいは多くの注文を受けた主題である.英語版ウィキペディアは「洗礼者ヨハネ(カラヴァッジョ)」を立項し,真作ではないと考えられる作品も含めてわかりやすくまとめている.

 真作とは多くの人が考えていないであろう,トレド大聖堂聖具室の「洗礼者ヨハネ」,うり2つのカピトリーニ博物館とドーリア・パンフィーリ美術館の「洗礼者ヨハネ」(一応,前者が真作とされるが,私としては後者も捨て難い),コルシーニ美術館の「洗礼者ヨハネ」を観ている.

 へそ曲がりなことを言うようだが,私は未見のカンザス・シティー,ネルソン・アトキンズ美術館所蔵の「洗礼者ヨハネ」が1番好きだ.

写真:
「洗礼者ヨハネ」
ボルゲーゼ美術館


 上の写真のボルゲーゼ美術館所蔵作品は,美術館で3回,西洋美術館の特別展で1回の計4回観ている.

 彼がずっと手元に持っていたこの絵は,根拠薄弱な容疑で投獄されている間,船に置かれていた荷物の中にあったが,次の停泊先のポルト・エルコレまで運ばれてしまい,釈放された天才は,それを求めて強行軍でマラリアの猖獗地を歩き,ポルト・エルコレには到達したが,熱病で死んだ.宮下が言うように,画家は恩赦を得る材料として(『旅』pp.228-30)この絵を必要としたのかも知れない.

 十字架ではなく,ただの棒を持ち,小羊ではなく成獣の牡羊が傍らにおり,ヨハネに擬せられた少年は羊を指差してもいない(『旅』p.231).これがヨハネと認識されるのは,画家が多くのヨハネ(斬首場面は,サロメの盆に乗った首()の絵を含む)を描いたこと,彼が描いた少年もしくは若者のヨハネが赤い布を身に纏い,羊が側にいることに支えられているだろう.

 キリストを象徴する羊を夢想しているように見えるのは,宮下が言うように,「救世主の到来と恩赦の希求」を表している(『もっと知りたい』p.87,『旅』p.231,『巡礼』p.36もほぼ同趣旨)のかも知れない.

 彼が最後まで手放さなかったこの絵は,一見,達観と頽廃が読み取れ,それ故にこそ,今まで私はこの作品が苦手だった.

 モデルは記憶の中にいたのかも知れないが,彼は幸福ではなく,成功を夢見ていた少年時代を回顧していたのではないだろうか.成功は得たが,その代償も何度も払った.無名のその頃の方がまだ幸福で,貧しい故にこそ救済を希求できた自分の少年時代を,死の予感の中で懐かしがったかも知れないと思ってしまう.

 この絵の正確な理解は,多分,先行研究を踏まえた宮下の解説の通りであろうが,制作意図はそうであっても,意識下では,二十代前半のカラヴァッジョが鏡を見ながらも,少年の姿で自分を描いたように,自分には無かった(とは断言できないが)幸福な少年時代を,洗礼者よりも,羊飼いの姿のヨハネに託したと想像したい.






カピトリーニの2作品
多くの画家に影響を遺した 38年の生涯