フィレンツェだより番外篇
2015年3月2日



 




ピントゥリッキオ(ピントリッキオ)のフレスコ画
「皇帝マクシミヌスの前で哲学者たちを論破する聖カタリナ」(部分)
ヴァティカン宮殿 ボルジアの間



§2014ローマの旅 - その8 ヴァティカン(後篇)中世,ルネッサンス,バロックの時代

前回,ヴァティカンの絵画館を訪れた時は,ジョットですら,かろうじて名を知っている程度で,ラファエロとカラヴァッジョはしっかり見たものの,それ以外は,何でこんな中世の絵ばっかりなんだろうと罰当たりな感想を抱いた.


 その後のフィレンツェ滞在で考えを改め,いつの日かまたヴァティカンの絵画館を訪れ,中世,ルネサンス,バロックの傑作を堪能したいと思い続けていたので,古代彫刻もさることながら,ヴァティカンで最も楽しみにしていたのが絵画館だった.


ステファネスキ祭壇画
 展示は中世の作品から始まり,ジョットの祭壇画はすぐに目にすることができた.両面に描かれた金地板絵の三翼祭壇画で,裏面中央の「玉座のキリスト」の天蓋が,ローマのサン・パウロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂やサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂のキボリウム(小神殿型天蓋付き祭壇装飾)(前者後者)を思わせる.

 2つ聖堂のキボリウムはアルノルフォ・ディ・カンビオ作で,制作は1280年代と1290年代であるから,ジョットの祭壇画(ステファネスキ祭壇画)が1330年頃に描かれたものということは,ジョットがローマで,2つの,もしくはどちらかのキボリウムを見ていた可能性はあるだろう.


ジョット作 「ステファネスキ祭壇画」 
左:裏面 右:表面中央「玉座のペテロ」(部分)


 裏面の向かって左側は「ペテロの殉教」(逆さ磔),右側は「パウロの殉教」(斬首)で,ぞれぞれの板の上部には天使に支えられた円環の中に被昇天のペテロとパウロが描かれている.尖頭部の円環にも聖人か預言者が描かれているが,特定はできないのかも知れない.

 ペテロの殉教場面に描かれたピラミッドは当時実在した建造物らしく,殉教に立ち会う人々の描写も本来は細かく見るべきものがあるようだし,パウロの殉教場面で左上の小高い岩山の上で,被昇天のパウロのヴェールが空気を孕んで落ちて来るのを聖プラウティッラ(英語版伊語版ウィキペディア)が受取ろうとしている描写も,下記の参考書などを読んで,あらためてそうだったかと思ったが,現場では細部には注意を払わなかった.

 裏面は裾絵も全て残っており,3面で玉座の聖母子を中心に左右に1人ずつの天使と6人ずつの聖人が立姿で並んでいるのは,壮観であろう.

 中央パネルの「玉座のキリスト」は天使たちに囲まれており,これが「玉座の聖母子」ならば,フィレンツェやシエナで流行し,ジョット自身の作品もウフィッツィにある「荘厳の聖母子」(マエスタ)になるであろう.

 表面は,中央が「玉座の聖ペテロ」で,初代教皇(鍵)はコズマーティ装飾を施した玉座に腰かけ,両脇には天使がおり,向かって右足許に13世紀末の教皇ケレスティヌス5世,左足許に寄進者である枢機卿ヤコポ・ガエターニ・ステファネスキが跪いている.後者は,この作品と思われる三翼祭壇画を捧げている.

 ケレスティヌスとステファネスキにはそれぞれアテンドしている聖人がいるが,伊語版ウィキペディアに拠れば,前者は4世紀前半の教皇シルウェステル1世(シュルウェステル),後者はステファネスキがサン・ジョルジョ・ヴェラブロ教会の担当枢機卿であったので,聖ゲオルギウスであろうとされている(ベッローシも2聖人には言及している,p.69).

 向かって左の板には左から大ヤコブ(巡礼の杖),パウロ(禿頭),右の板には左からアンデレ(有髯,長髪),福音史家ヨハネ(美形の若者)が佇立している.左右の板はそれぞれ1枚だが,聖人はそれぞれゴシック・ヴォールトのような囲いの中にいるので,五翼祭壇画にも見え,それぞれのゴシック・ヴォールトの間に六葉飾りの円環があり,そこにはそれぞれ聖人か預言者(私にはそれぞれパウロとアンデレに見えるが,伊語版ウィキペディアは特定していない)が描かれ,さらに尖端部近くにも円環があり,そこには天使が描かれている.

 3枚あったはず裾絵(プレデッラ)は1枚のみが現存し,多くの資料では中央に置かれているが,私たちが見た時には向かって左端に嵌められていた.

ルチアーノ・ベッローシ,野村幸弘(訳)『ジョット』東京書籍,1994
サンドリー・バンデーラ・ビストレッティ,尾形喜和子(訳)『ジョット』京都書院,1994

とウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,英語版ウィキペディア,伊語版ウィキペディアを参考にしたが,伊語版ウィキペディアが最も詳しく,他は細かい情報があまりない.

 また,どちらが表なのか裏なのかについては,表を「玉座のキリスト」側とするのが,ベッローシ,伊語版ウィキペディア,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,「玉座のペテロ」側とするのが,ビストレッティ,英語版ウィキペディアであり,ビストレッティは「玉座のペテロ」側が「信者たちの側に向けられていた」根拠として,

 ステファネスキ枢機卿の墓の上に置かれている祭壇は,聖ペテロに奉納されたもので,聖ペテロはこの聖堂の守護聖人でもあり,また教皇庁と教会の象徴でもある.司教座聖堂参事会員の方に向けられた「キリストの像」は,すなわち教皇の原像であった(p.134)

としており,ここでは一応,これに従っておくことにする.

 この祭壇画は,建て替えられて現在の姿になる前のサン・ピエトロ大聖堂の主祭壇にあったということなので,重要な絵であるのは間違いない.しかし,それほどの感銘を得られなかった.

 書架には複数のジョットの参考書があるが,今回参照したのは上記の2冊とウェブページだけだ.いずれもステファネスキ祭壇画に関しては大絶賛に近く,そう言われて,細かく写真を見ているうちに,そんな気もしてきたが,今回はこの絵の素晴らしさに開眼するに至らなかった.


13-14世紀の作品
 ジョット以前の作品も複数あり,私が観られて嬉しかった絵が,アレッツォに初めて行った時に,作品を見られるなら見たいと思って見た(と思う)マルガリート(マルガリトーネ)・ダレッッツォ(英語版伊語版ウィキペディア)が描いたかも知れない「聖フランチェスコ」だった.

 この絵と似た絵がウィキメディア・コモンズに2点写真がある(アレッツォ中近世博物館/シエナ国立絵画館)にある.そこにはヴァティカンの作品はないが,

 カルロ・ピアトランジェリ/他,佐々木英也/他(訳)『ヴァティカン絵画館』岩波書店,1995(以下,『ヴァティカン絵画館』)

に,この作品の写真が収録されており,1270-80年頃の制作としている.腰縄と聖痕によってフランチェスコとわかり,足許には作者の記名があるようだ.芸術性を論じるような作品ではないが,ジュンタ・ピザーノ,コッポ・ディ・マルコヴァルド,グイド・ダ・シエナ,ベルリンギエーリ一族などのジョット以前のトスカーナの画家たちには興味を覚える.

 彫刻が既に遠い先のルネサンスに伍する水準に迫っていると思われるのに,絵画は稚拙感に溢れ,先行するビザンティン美術のレヴェルに遠く及んでいない.

 それでも,聖人に思いを致す簡便な方法として,図像を求めていた庶民の渇望に彼らは応えていたのではないかと想像する.チマブーエやジョットのような芸術家には理想を,それ以前の芸術家たちには現実を反映した救済を求めるのが,当時の庶民の正直な反応だったのではないか.ヴァティカンで観ることができたマルガリトーネの「聖フランチェスコ」を観て,そう思わずにはいられなかった.

 ジュンタ・ピザーノ(英語版伊語版ウィキペディア)の聖人の立姿を真ん中に,左右2つずつ4場面で事績を描いた「聖フランチェスコと死後の4つの奇蹟」も観られて嬉しかった.

写真:
シモーネ・マルティーニ
「祝福するキリスト」


 それらに比べれば,シモーネ・マルティーニ(英語版伊語版ウィキペディア)はジョットに迫る大芸術家である.上の写真のキリスト像だけで,シモーネの芸術性を云々することはできないし,このような小さな作品だと巨匠の真作かどうかも私たちには判断できない.ウェブギャラリー・オヴ・アートにはこの作品の写真はないが,

 ピエルルイージ・レオーネ・デ・カストリス,上平貢(訳)『シモーネ・マルティーニ』京都書院,1994

は,ブルクハルト,ベレンソンと言った伝説の時代の研究者たちがシモーネの作品として,20世紀初頭には疑いの余地のない真作と考えられてきたようだ.デ・カストリスは「実際の制作に工房の協力が介入した余地はない」(p.88)とまで断言し,高く評価している.

 形や様式,ドッチョの影響が濃い時代の特徴から,オルヴィエートで観た祭壇画の尖頭部板絵の一部であると推測する学者もいるとのことだ.

 義兄弟のリッポ・メンミの小さな板絵「キリスト磔刑」もあったが,写真には収めていないので,気づかなかったかも知れない.撮って来たステファネスキ祭壇画の近くの壁に部分的に写っている小さな絵がそれと思われるが,これに気づく心の余裕が無かったのが残念だ.『ヴァティカン絵画館』によって,写真で絵柄は確認できる.次回は是非,じっくり鑑賞したい.



 『ヴァティカン絵画館』は値段が高く,新刊ではとても買えない本だが,神田の源喜堂で手頃な値段で買っていた(よく掘り出し物をする北本駅前の富士書房にも比較的廉価で出ていたが,源喜堂の方が圧倒的に安かった)ので,作者名のプレートなどは写真に収めたりメモを取ったりしなくても良いと思っていたが,実際にはこの本に載っている作品でも観られなかったもの,逆に,写真は撮ったがこの本には掲載されていない作品も少なくなく,特にゴシック絵画は照合できないものが多く,残念だ.

 『ヴァティカン絵画館』の掲載写真を見て,是非観たいと思っていたヴィターレ・ダ・ボローニャの美しい「聖母子」も,目を皿のようにして探したが,見つからなかった.ヴィターレの名前で展示されている別の「聖母子」があり,これは写真に撮ったが,観たかった絵には会えなくて残念だった.

 私がベルナルド・ダッディやヤコポ・デル・カゼンティーノの作品と思った絵が,『ヴァティカン絵画館』で作者を確認することができない.確認できて写真もまずまずなのは,ヤコポ・ディ・チョーネの「聖母戴冠」,サッセッタの「謙譲の聖母」くらいだ.ただし,サッセッタは15世紀の画家だから,中世風だが時代的にはルネサンスの画家だ.

 後者はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに写真がないが,ウィキメディア・コモンズにはあり,類似の祭壇画をコルトーナの司教区博物館で観ているので,一目見てサッセッタの作品だと分かった.まずまず美しい作品だ.ヤコポ・ディ・チョーネの「聖母戴冠」もウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには掲載されていないが,ウィキメディア・コモンズで写真が見られる.

 他に14世紀絵画で,「観た」と言う確信があり,写真で確認できるのは,ジョヴァンニ・デル・ビオンド,マリオット・ディ・ナルドくらいだろうか.

 今回初めて名前を聞く画家の作品も観ることができた.ジョヴァンニ・ボンシの多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」は,上手ではないが,一定以上の大きさでほぼ完璧に残っているので,見応えはあった.簡単に参照できるのは独語版ウィキペディアだけだが,それに拠れば1350年頃までフィレンツェで活躍した画家で,ジョットとマーゾ・ディ・バンコの影響があるそうだ.

 聖母子の顔には不満が残るが,他の聖人たちはまずまずで,玉座はよく描けており,多分,ジョットを意識したのだろう.作品はヴァティカン絵画館,プラートの大聖堂博物館,カリフォルニア州サンディエゴ美術館,コロラド州デンヴァー美術館に現存しているとのことだ.

 またフランチェスクッチオ・ギッシ(英語版仏語版ウィキペディア)の「謙譲の聖母子」は『ヴァティカン絵画館』の写真で見る限り,美しい絵だ.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに1点だけ作品の写真(「死せるキリストと嬰児キリスト礼拝」があり,これもヴァティカン絵画館の収蔵となっている.後者に関しては,自分が撮って来た写真でも確認できるが,フォーカスは別の作品にあった.


国際ゴシック
 15世紀も終わるころには,イタリアでも華やかな国際ゴシックが流行した.その代表はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノであろう.

 彼の作品は『ヴァティカン絵画館』に拠ると4点あり,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにもそのうち2点(「聖ニコラウスと3人の貧しい娘たち」,「難破する船を救う聖ニコラウス」が掲載されている.もともと多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」の一部で,この祭壇画はフィレンツェのサン・ニッコロ・オルトラルノ教会にあったクァラテージ家の礼拝堂のために作成され,「クァラテージ家の祭壇画」と言う通称を持っている.

 伊語版ウィキペディアに再現図があるが,現在は,中央の「聖母子」は英国王室のコレクションとしてロンドン・ナショナル・ギャラリーに寄託されており,両脇の「聖人たち」の4枚のパネルはウフィッツィ美術館にあるので,この「聖人たち」は何度か観ている.この内の1枚が教会の名のもとになっている聖ニコラウスで,裾絵も全てニコラウスの物語になっている.

 ヴァティカンにあるのは,この5枚の裾絵のうち4枚で,他の1枚(ニコラウスの墓前の巡礼者たちの奇蹟)はワシントン・ナショナル・ギャラリーにある.裾絵の中央は「難破する船を救う聖ニコラウス」だったようだ.1425年の作品とされる.

 またフィレンツェの国際ゴシックを代表する画家としてロレンツォ・モナコがおり,『ヴァティカン絵画館』に拠れば1点あるが,これらは観た記憶がなく,写真も撮っていない.この「聖ベネディクトゥスの物語」から,「悪魔の誘惑」と「蘇生」を一場面に描いた作品は1415年頃の制作とされる(『ヴァティカン絵画館』)ので,既に15世紀の作品である.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには掲載されていないが,ウィキメディア・コモンズから辿って行くと写真が見られる.

 ベネディクトゥスも含め,修道士たちが白装束なので,画家自身が属したカマルドリ会(英語版伊語版ウィキペディア)に関連する作品と思われる.

 初期ルネサンスの画家だが,明らかに国際ゴシックの影響を受けているのがマゾリーノとフラ・アンジェリコだろう.前者は2点(「キリスト磔刑」,「聖母永眠」),後者は3点収蔵されており,マゾリーノは1点(「聖母永眠」),フラ・アンジェリコは今回,全て確認できたと思った.ただ,伊語版ウィキペディアにある情報のように,もう1点裾絵(「斬首の宣告を受けた人々を救う聖ニコラウスと聖ニコラウスの死」)があったとすれば,それは見ていない.

写真:
マゾリーノ
「聖母永眠」


 マゾリーノの「聖母永眠」は多分裾絵であろう小さな板絵で,目立たないが,写真で確認すると,横たわる聖母を囲む聖人たちの両脇に2人ずつ立つ白装束の天使の顔が確かにマゾリーノの絵だと思わせるものがあり,日ごろ,好きだと言っている画家の作品に注目できず,もう1点は見逃してしまったことが悔やまれる.

 フラ・アンジェリコの「玉座の聖母子と天使たち,聖ドメニコとアレクサンドリアの聖カタリナ」は,いかにも彼らしい作品で,聖母子の表情,天使たちの衣装,カタリナのきらびやかさの中にあって,ドメニコの白髪,白髭が威厳に満ちており,さすがにドメニコ会の修道士の作品と思わせる.

 その場では,特に魅かれたわけではないが,写真を確認すると,すばらしい作品だ.1435年頃(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,『ヴァティカン絵画館』)の作品とされるが,その出自は明らかではない.いずれも制作年代に確証はないわけだが,1435年頃の彼の作品にはどのようなものがあるだろうか.ごく最近読むことができた,

松浦弘明『イタリア・ルネサンス美術館』東京堂出版,2011(以下,松浦)

が多分,日本語で読める本では,啓蒙的でありながら,印象批評に終わらず,「美術史」を感じさせてくれる,ルネサンス芸術の最良の参考書であろう.ジョットの影響を理解不十分に引き継いだままで革新性のないマンネリ画家(とまでは言っていないが)としてではあっても,私が好きなスピネッロ・アレティーノの作品をかなり詳細に取り上げてくれている(pp.101-110)稀有の本だ.

 後半がどうしても,レオナルド,ミケランジェロ,ラファエロに集約されていき,ボッティチェリには相当のページ数を割いているのに,ギルランダイオについてあまり語ってくれていない点は不満だが,ジョット以前の中世から説き起こして,ルネサンスの3巨匠への流れを,私たち非専門家である読者にほぼ十全に語ってくれ,なおかつそれが成功を収めていると言う意味では類書が無いのではないだろうか.

 しかも,ロレンツォ・モナコとマゾリーノを正当に評価し,歴史の中にきちんと位置づけていると思われる点には賛嘆の念を禁じ得ない.



 松浦は架空の美術館の第14室で,フラ・アンジェリコを論じている.そこで扱われている範囲での最古の作品は,コルトーナの司教区博物館にある「受胎告知」(伊語版ウィキペディア)で,これを1434-35年頃の作品とし,文献的典拠を示して,もともとはブレーシャの教会から注文を受けて,1432年頃に制作中であったであろう「受胎告知」が,現在コルトーナにある作品と推測している.

 最も有名なサン・マルコ修道院の「受胎告知」は1442-1445年頃の作品とされており,約10年を隔てて描かれた両者を比較することによって,画家としての変化,もしくは成長を見ようとしている.前者と良く似た,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノとプラド美術館の「受胎告知」も,やはり1435年前後の作品ということになるだろう.

 これほど有名な芸術家であっても,どの作品がいつ頃,描かれたかは実は自明ではない.

 松浦の第15室ではフィリッポ・リッピが考察対象となっているが,比較参考作品として現在,フィレンツェの旧サン・マルコ修道院美術館所蔵のフラ・アンジェリコ「リナイオーリ祭壇画」(伊語版ウィキペディアに解説)に言及しており,当時の記録から(アルテ・ディ・リナイオーリ=亜麻織物業組合からの注文),この祭壇画は1433年の制作としている.

 また伊語版ウィキペディアには「ベアート・アンジェリコ(=フラ・アンジェリコ)の作品群」と言うページがある.松浦のまじめな論考と合わせて参考にするのは,安直で非学問的かも知れないが,一応以上の目安にはなるだろう.

 そこでは,初期(1418-1429),1430年代,サン・マルコ修道院期(1438-1445),ローマ,オルヴィエート期(1445-1450),フィレンツェでの晩年期(1450-1455)の5期に分け,さらに写本細密画などをその他に分類している.1453年か54年に再びローマに呼ばれ,55年に亡くなって,墓もローマのドメニコ会の教会,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会にあるので,最晩年の作品をフィレンツェに限定するなら,遅くても1454年までであろう.

 ヴァティカンには,公開されていないと聞くが,1447年から55年まで教皇だったニコラウス5世の依頼で描いた,通称ニッコリーナ礼拝堂のフレスコ画「聖ステパノと聖ラウレンティウスの物語」があることを知識として知っている.写真で見る限り,すばらしい作品だと思われる.上の分類では「ローマ,オルヴィエート期」に制作されたものになるが,絵画で観た収蔵作品は,それより前の1430年代に描かれた.

 「玉座の聖母子と天使たち,聖ドメニコとアレクサンドリアの聖カタリナ」は,聖母の表情などを見ても,素人目にも「リナイオーリ祭壇画」や,「コルトーナ三翼祭壇画」(コルトーナ司教区博物館←コルトーナのサン・ドメニコ教会),また私たちがサンクトペテルブルクで観ることができた剥離フレスコ画「聖母子と聖ドメニコ,聖トマス・アクィナス」(エルミタージュ美術館←フィエーゾレのサン・ドメニコ修道院)と同じ頃の作品と想像され,伊語版ウィキペディアのそのように分類している.

 この1430年代の後期に描かれたと考えられるのが,やはり私たちがペルージャで観ることができた「ペルージャ祭壇画」(ウンブリア国立絵画館←ペルージャのサン・ドメニコ教会サン・ニッコロ礼拝堂)で,この裾絵が下の写真の絵を含む3枚の「聖ニコラウスの物語」のパネルで,全てヴァティカン絵画館にある.

写真:
フラ・アンジェリコ作
「バーリの聖ニコラウス伝」
誕生,召命,贈り物の3場面


 しかし,私たちは,このうち祭壇画の下段中央にあったと思われる「難破する船を救う聖ニコラウス」と上の写真の絵しか見ておらず,あと1枚の「斬首を宣告された人々を救う聖ニコラウスと聖ニコラウスの死」は多分見られなかったと思う.少なくとも写真には収めていない.

 素人目にも「難破する船を救う聖ニコラウス」は上で言及したジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの同主題の絵の影響を受けているように見え,伊語版ウィキペディアにもそのような指摘がある.

 1430年代のフラ・アンジェリコ(当時は修道士ジョヴァンニ・ことグィード・ディ・ピエトロ)は,フィエーゾレのサン・ドメニコ修道院にいたのであろうが,それ以前に画家として修業をフィレンツェで積み,1418年にフィエーゾレで修道士となってからも,修業の場も,仕事の場もフィレンツェが主であったように思われ,であれば,1425年にフィレンツェの教会のために描かれたジェンティーレの祭壇画を見ていた可能性は高いだろう.

 一方で,上の写真の絵を観ていると,幾何学的とも思えるほどの線遠近法が意識されており,確かにフラ・アンジェリコの作品は華やかな国際ゴシック風の色彩と,理想化された宗教的情景によって,「中世」感に満ちているように思われるが,一方でやはりルネサンスの新しい時代の画家なのだと思わせられる.

 彼にとっての転機は,またしてもフィレンツェで起った.

 1436年にフィレンツェのサン・マルコ修道院の管理権が別の修道会からフィエーゾレのドメニコ会に移り,再建のための資金をメディチ家のコジモ・イル・ヴェッキオとロレンツォ・イル・ヴェッキオ兄弟が援助した.1443年には教皇エウゲニウス4世臨席のもと献堂式が行なわれたが,内部の装飾作業は,1440年代初頭から50年代まで続けられ,回廊(「磔刑と聖ドメニコ」など),参事会室(「磔刑と聖人たち」),修道士の部屋はフレスコ画で飾られた.それを担当したのがフラ・アンジェリコと,その監督下の助手たちであった(松浦,p.160,など).それらのフレスコ画の中に,階段上の壁画「受胎告知」もある.

 フィレンツェの旧サン・マルコ修道院博物館は,フラ・アンジェリコ作品の宝庫である.

 フィレンツェ周辺の廃絶された教会や修道院などにかつてあって,今は美術館で観られる祭壇画も華やかで感銘深い.しかし,この修道院の数多のフレスコ画こそが,フラ・アンジェリコと言う天才芸術家が指揮監督,作画指導の才能も発揮しながら,元々この場所のために描いたものであり,この空間に足を踏み入れると,この世に現出した宗教と世俗,彼岸と此岸がせめぎ合う世界をこの目で見ることができる.人々がルネサンス芸術とキリスト教に興味を持ち続ける限り,フィレンツェの中でも人を魅了し続ける場所であろう.

 松浦も言っている(p.162)が,その場で「受胎告知」を見た人間は「劇的な出会いに感動」し続けるはずである.フラ・アンジェリコの最高傑作はサン・マルコ修道院の「受胎告知」であると言う確信に変わりはないが,今後も,できれば制作年代による作風の違いにも注意しながら,できるだけ多くの作品を観て行きたい.



 フィレンツェ,サン・マルコ修道院の壁画制作の助手の中にベノッツォ・ゴッツォリ(英語版伊語版ウィキペディア)もいた.コジモ・イル・ヴェッキオが瞑想に訪れたと言う部屋で,「三王礼拝」を描いた.フラ・アンジェリコの最も成功した弟子だが,彼は修道士ではない.

 ヴァティカン絵画館では,祭壇画「腰帯の聖母」を観ることができたが,眼福と言う程のことではなかったように思う.松浦の素晴らしい本も,ゴッツォリは取り上げていない.

 しかし,フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿で,彼の華やかなフレスコ画「三王礼拝」の美しさに心魅かれた人々は納得しないだろう.腕一本で,フィレンツェ,ローマ,トスカーナ全域で活躍した職人魂に満ちたルネサンスの芸術家だ.

 スピネッロ・アレティーノ,ゴッツォリ,ギルランダイオ,ロッビア工房を抜きにしてフィレンツェの,トスカーナのルネサンスを語ることはできない.レオナルドを語る「まくら」としてのヴェロッキオ,ラファエロに「超えられた」師匠としてのペルジーノ,ミケランジェロの「踏み台」になったギルランダイオを語るのはもうやめよう.3巨匠やボッティチェリだけが,ルネサンスの芸術家ではないのだ.

 その意味では,タッデーオ・ガッディ,スピネッロ・アレティーノ,パオロ・ウッチェッロ,アンドレーア・デル・カスターニョをとりあげた松浦は意欲的な著作を示してくれた.それでも,ギルランダイオとペルジーノはボッティチェリやラファエロの引き立て役であり,ゴッツォリとヒントゥリッキオ(英語版伊語版ウィキペディア)は言及すらされていない.

 美術「史」を語るには,歴史的重要性に欠けると言うことであろう.その点は,確かにそうだと思う.松浦ほどの書き手をしても,3巨匠について十全に語りながら,それ以外の画家に有機的な関連をもってスペースを割くのは難しいということだと思う.多くの有益な知見と,専門的な見地を提示してくれる『イタリア・ルネサンス美術館』の価値が減ずる程のことだと思っているわけではない.


「ボルジアの間」のフレスコ画
 絵画館からシスティーナ礼拝堂に行く途中で,サプライズがあった.さすがに練達の日本人ガイド氏の先導があっただけのことはあり,思っても見なかった「ボルジアの間」見学を果たすことができた.

 2011年の夏に北スペインの旅をし,オビエドのアストゥリアス美術館でペドロ・ベルゲーテの「聖母戴冠」を観て,その感想をまとめている時,浮遊感のある被昇天の聖母が天使によって戴冠されている絵柄が他にあるのかどうか少し調べて,「ボルジアの間」にピントゥリッキオ工房が描いた「聖母被昇天」(「腰帯の聖母」型)(下の写真の向かって右端)の写真を参考書で見た.

 その時,写真で比較したゴッツォリの祭壇画の「腰帯の聖母」型の「聖母被昇天」は浮遊感が無いように見え,ピントゥリッキオとは全く異なる作品に思われたが,今回両方を実際に観ることができ,落ち着いて比べて見ると,フレスコ画とテンペラ画の違いを超えて両者は似ているように思われた.

 細かく見るとゴッツォリの絵では聖母を囲む天使たちは,作者がフラ・アンジェリコの弟子であることを思わせ,ピントゥリッキオの絵では向かって左下端のトーマスがペルジーノ影響を思わせる.こうした点も,トスカーナとウンブリアの職人的伝統の中から生まれた芸術家たちであることを想起させる.


「ボルジアの間」のフレスコ画 
左から「受胎告知」,「キリスト復活」,「腰帯の聖母被昇天」


 伊語版ウィキペディアに拠れば,ピントゥリッキオはペルージャで生まれ,フィオレンツォ・ディ・ロレンツォ,バルトロメオ・カポラーリといった地元の画家たちの薫陶を受け,ペルージャ周辺から出た巨匠ペルジーノの助手を務めた可能性が高い.ウンブリアにもその足跡を多く残したゴッツォリの影響も受けたらしい.ピントゥリッキオが1454年頃の生まれ(伊語版ウィキペディア)とすれば,彼はレオナルドより年少である.

 しかし,レオナルドの新しさに比べ,時代が下れば下るほど古くさい画家に思われ,美術「史」的には,多分,谷間に入って論じにくい画家であろう.だが,シエナ大聖堂のピッコロミーニ図書館の「エネーア・シルヴィオ・ピッコロミーニの物語」の眩いばかりのフレスコ画をこの目で見た時の感動は,忘れられない.

 ピッコロミーニ図書館のフレスコ画の最も良い部分の下絵を,ペルジーノ工房の協力者として遥かに後輩のラファエロが提供した(石鍋真澄『誰も知らないラファエッロ』新潮社,2013,p.56,以下,石鍋)と聞くと,後進の天才性を見抜き,何でも利用できるものは利用する職人魂を感じ,それは決してピントゥリッキオの不名誉にはならないだろうと,少なくとも私は思う.

 上の写真の絵の他にも,この画家がマンドルラを描いた例が複数あり,それはそれで彼の個性だったのだと思う.


「荒野のヒエロニュムス」
 ヴァティカン絵画館で最も有名な作品はラファエロの「キリスト変容」を除けば,カラヴァッジョの「キリスト埋葬」とレオナルドの未完の「荒野のヒエロニュムス」(英語版伊語版ウィキペディア)であろう.

写真:
レオナルド・ダ・ヴィンチ作
「ヒエロニュムス」(未完,部分)
右手に持った石で
己の胸を打とうとする瞬間


 未完の作品が,堂々たる傑作として展示されているところにレオナルドのレオナルドたる所以を感じさせる.

 顔のある上半分は,切り離されて古物商でテーブル板として売られていたのを,ナポレオンの叔父で絵画コレクターとして知られたフェッシュ枢機卿が発見し,下の部分は数年後,靴屋の床机として使われていた所を発掘されたとのことである.この話は,

フランチェスカ・デモリーニ,武佐和子(訳)『ダ・ヴィンチ 万能の表現者』昭文社,2007

で知った(p.33).地図や観光案内で有名な会社が「アート・シリーズ」として出している本で,学術論文に引用されるような本と言うよりは啓蒙書だが,情報豊富だ.英語版ウィキペディアにはこの話は伝説とあるが,

 ケネス・クラーク,丸山修吉/大河内賢治(訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ 第2版』法政大学出版局,1981

にも言及されている(p.61)ので,信頼度はともかく,全くの作り話というわけでもないようだ.いずれにせよ,19世紀前半には枢機卿のコレクションに入り,1845年に教皇ピウス9世が入手し,ヴァティカン絵画館に収められた.

 制作年について,デモリーニは1480-82(p.33),クラークは1483年頃(「口絵」9に付された説明),

久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社,1972

は,「記録上の確証が全くないにもかかわらず,かれの確実な作品としてすべての史家から認められている」とし,自身もレオナルドの作品であることは「うたがいない」と断じた上で,

 背景右上の線描の建物が,一四七七年(諸説あり)のアルベルティの手になるサンタ・マリア・ノヴェルラ(ママ,「ル」は小さい)聖堂ファッサード(ママ)であることが指摘されている.したがってこの絵が,その年以降のものであることはたしかだが,様式上からは同一手法の『マギの礼拝』(ママ)よりもさらに後であると思われ,一四八二-三年ころの作と考えられる(pp.54-55)

と根拠も挙げて説明している.

 フェッシュ枢機卿の逸話については久保も触れ,「レオナルドの真筆であることがこれまで一度も疑われたことのない少数の作品の一つ」(p.61)とクラークも言っている.しかも,両者ともに賛辞を惜しんでいない.

 曰く,「かれの主観と客観的な写実の融け合いに寸毫の破綻もない.正確な解剖学的知識,完璧な明暗法や短縮法などの完成された写実技法が,きびしい苦行をかさねるこの聖者の魂の意向をみごとにだしきっている」(久保,p.54),

聖者の壮絶な身振りが支配する全体の構図のすばらしさを味わうことはできる.この人物像は,(中略)レオナルドが創り出したすばらしい人物像であって,シニョレリ的なものと,ミケランジェロ的なものをあわせ持っている.くっきりと描き出されたトルソはシニョレリを思わせるし,ポーズの律動的な連続性という点ではミケランジェロを思わせるものがある」(クラーク,pp.61-62)

と絶賛の言葉を連ねている.

 クラークがルーカ・シニョレッリとミケランジェロの名を挙げているのは,筋肉の量感と躍動感を2つながら備えているということを言いたかったのだと思うが,ルーカは1445年の生まれで,レオナルドより7歳年長だが,ミケランジェロは1475年の生まれで,諸家のあげるこのヒエロニュモスの最も遅い制作年代の1484年を採用するとしても,その時点でミケランジェロは9歳だから,あくまでも「的」と言うことであろう.

 迫力のある絵だとは思うが,私たち素人が久保やクラークのように興奮を覚えるほど心打たることは難しいのではないかと思う.むしろ,素描や習作であれば,そこから無限の可能性を読み取ることができるであろうが,ほぼ形になりかけた作品については評価が難しい.ジョットに続いて,レオナルドに関しても罰当たりな感想を抱いて,罪悪感を感じる.


イル・サッソフェッラート
 ジョヴァンニ=バッティスタ・サルヴィ(英語版伊語版ウィキペディア),マルケ州の出身地にちなんでイル・サッソフェッラートと通称される画家について,今まで考えたことはなかったが,大きな美術館で相当数のイタリア絵画を所蔵しているところでは,多分,どこにも作品があると思われるような画家だ.

 「売れた」画家であろう.このような端整で美しい,破綻のない絵を描く芸術家が多くの注文を受けたことは容易に想像がつく.

写真:
イル・サッソフェラート
「聖母子」


 彼の絵は,今回ボルゲーゼでやはり「聖母子」を観ている.撮ってきた写真を確認すると,その上にカルロ・ドルチ(英語版伊語版ウィキペディア)の「聖母子」(額の形が違うが,良く似た絵がウィーン美術史博物館にあり,その写真がウィキメディア・コモンズにある)が展示されていた.

 多くの人にとって,この2人の画家の作品イメージは重なると思う.

 フィレンツェで生まれ,フィレンツェで亡くなったドルチの絵は,パラティーナ美術館を中心にフィレンツェ周辺で数多く観ることができた.最高傑作はパラティーナ美術館で観た「聖アンデレ磔刑」であろうと思っている.甘美で小さな俗受けのする絵だけを描いていたわけではない.精神性に満ちた大きな宗教画も描く実力のあった画家だ.

 サッソフェッラートはどうだったろうか.今まで,ルーヴル美術館,ポルディ・ペッツォーリ博物館で彼の作品を観てきて,「サッソフェッラート」という名前からは甘美なラファエロ風の聖母子のみが想起される.残念ながら,彼が描いた大きな作品は観ていないし,彼の絵に何かしら心に迫ってくる力を感じたことはない.

 英語版,伊語版のウィキペディアに拠れば,彼の師匠は父タルクィニオ・サルヴィであり,その作品はサッソフェッラートという町のサン・フランチェスコ教会で見られるということなので,職業画家の子として生まれ,その薫陶を受けたことになる.

 ルーヴル美術館には彼の作品が6点あり,それらへの簡潔な解説は同美術館のHPの検索システムで見ることができるが,そのうち2点がラファエロ,1点(受胎告知)がフェデリコ・バロッチ,1点(聖母被昇天)がグイド・レーニの,言わばコピーとも言える絵だ.

 ラファエロを模した2点は,ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある「アルドブランディーニの聖母子」とエルミタージュ美術館所蔵の「コンネスタービレの聖母子」をモデルにしている.他の2点もラファエロ風の聖母子()で,いずれも美しい小品だ.ルーヴルHPの解説によると2はグィド・レーニの影響があるということなので,ルーヴルに6点も作品があるのだから「売れた」画家であるのは間違いないが,この画家に顧客が何を期待していたのかは概ね想像がつく.

 とはいえ,写真も複製機械もない時代に,目の肥えた顧客が満足して,次々に注文が来たわけだから,すぐれた画力を持った芸術家であったことには間違いないだろう.父もドメニキーノやアンニーバレ・カッラッチの影響を受け,本人もフランチェスコ・アルバーニやグィド・レーニといった,まさに,確固とした技術に支えられて,古典的で美しい絵を描くボローニャ派の薫陶を受けたであろうと想像される.

 カッラッチは独創的な天才で,レーニも一時はカラヴァッジョ風の絵を描いていたとは言え,ローマで活躍したボローニャの画家たちにとってラファエロが重要な手本であったことは想像に難くない.

 1609年生まれのサッソフェッラートは,ボローニャ派の中でも圧倒的に年少のグェルチーノよりもさらに18年若い.彼が生まれた年にアンニーバレ・カッラッチが,翌年にカラヴァッジョが亡くなっている.カルロ・ドルチは1616年の生まれなので,だいぶ後進だが,17世紀の権力者や金持ちが,公的な場ではない私室で鑑賞する絵に何を求め,そして,その需要に応えられる画家たちがどのような人びとであったのかを,サッソフェッラートやドルチの作品は教えてくれるような気がする.

 教会や宮殿などの公的な場を飾るボローニャ派やナポリ派の壮大な絵画や,写実的だが奇想に満ち,一目見て生涯忘れらないようなインパクトのあるカラヴァッジョの作品ばかりがバロックだったわけではないことを思わせる.「ラファエロの影響を売りにしたバロックの画家」と一言で言ってしまうには,本当は溢れるような才能があった画家であろうと想像する.

 上の写真の聖母子の下にあるのが,三日月であれば,この絵は「聖母子」でありながら,周りを囲む熾天使たちともに,「無原罪の御宿り」を思わせる図像であろう.類似の絵があったのかどうか私にはわからないが,もし他では見られない絵柄なら,やはり秘めたる独創性を持った画家だったのではないだろうか.

 『ヴァティカン絵画館』に大きく美しい写真が掲載されていて,「聖母子」と言う題目を付されている.解説にはスペイン女王イサベル2世から教皇ピウス9世に寄贈され,画家の名を不動にしたと言った上で,称賛の言葉を連ねている(p.360).理論家としても知られていたらしく,私たちが思うよりは偉大な画家だったのかも知れない.


バロックの時代
 16世紀前半まではイタリア美術を支えたのは,フィレンツェを中心とするトスカーナの芸術家たちであったし,ローマで活躍した画家たちもトスカーナ出身かその周辺で修業した人たちだったが,バロックの時代になると,教皇や枢機卿の出身家系の地縁の影響もあるにしても,ボローニャを中心としたエミリア・ロマーニャ出身の画家たちが圧倒的に多くなり,水準もそちらの方が高い.

 その中にあって,ピサで生まれたオラツィオ・ジェンティレスキ(英語版伊語版ウィキペディア)は一人気を吐いている感じがする貴重な存在だ.彼は現時点では,英語版/伊語版ウィキペディアにも立項されていないジョヴァンニ=バッティスタ・ローミという,フィレンツェ出身で,ピサに移住した芸術家の再婚後の子である.

 「ローミ」と言う姓を聞くと,ルッカのサン・フレディアーノ聖堂,旧グィニージ邸国立博物館,フィレンツェのサント・スピリト聖堂でその作品と出会った画家アウレリオ・ローミ(英語版伊語版ウィキペディア)を想い起こす.

 実はアウレリオはジョヴァンニの息子で,オラツィオの異母兄にあたり,画家としての師匠でもあるようだ.オラツィオは今更言うまでも無い事ではあろうが,トスカーナの職人的芸術家の伝統の中から生まれて来た俊英なのである.

 彼女の娘が,若桑みどりの『女性画家列伝』(岩波新書)にも取り上げられたアルテミジア・ジェンティレスキ(英語版伊語版ウィキペディア)だ.アルテミジアは「女性」と言う枠を超えた天才画家であるのは誰も異論がないであろうが,その父オラツィオが,トスカーナの経済力,政治力が衰えた時代に,ローマやヨーロッパ全域で存在感を持った芸術家であったことはもっと評価されても良いのではないかと私には思われる.

写真:
オラツィオ・ジェンティレスキ
「ホロフェルネスの首を持つ
ユディトと侍女」


 彼は年下のカラヴァッジョの影響を臆面もなく受け入れ,芸術家,創作者としての共感もあったであろうが,まず顧客の嗜好,時代の風潮を意識して,それを作風に反映させる「生活者」であったことが考えられる.それを支えたのは,トスカーナの芸術的伝統の中で育まれた,彼の職人魂であろうと私は思う.

 「芸術」は庶民の水準や評価を遥かに超えるが,間違いなく庶民や時代の嗜好を反映して,それが注文主である聖職者や貴族,商業資本家といった権力者の好みに影響している.それがあってこそ「人間」が織りなす「社会」と「歴史」が成立する.

 相当数観た思われるオラツィオの絵を見て「下手だ」とか「感銘に乏しい」と思ったことは一度も無い.それは娘のアルテミジアに関しても同様である.この親娘は間違いなく,イタリアの職人的伝統の中で育まれ,確かな技術を持った上で,天分に恵まれ,時代の流行を取り入れ,独創性を自ら創出して行く能力と気力があったと思われる.アルテミジアとともにオラツィオの作品にも今後も注目して行きたい.

 上の写真と似た作品がコネティカット州ハートフォードの美術館ウォズワース・アシーニアムにあり,英語版ウィキペディアに写真にが掲載されいるが,そこでは1621年から24年頃描かれたとされている.上の写真も同じ頃の作品かと思われたが,『ヴァティカン絵画館』に拠れば,1611-12年頃の作品とされており,とすればヴァティカンの作品の方が古いと言うか,元の作品と言うことになるのだろうか.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには21点の写真が掲載されているが,この作品は取り上げられていない.しかし,21点のうち6点は,それぞれが同じ絵柄の2点ずつが計3種で,特に驚くべきことではないだろうが,同じ,もしくは似た絵を描いてほしいという注文があったか,本人もしくは周辺が売り込んだかであろう.

 いずれにせよ,それだけ売れた画家だったと言えるだろう.私たちがローマのスパーダ宮殿の絵画館で2度観たオラツィオの「ダヴィデ」と良く似た作品がベルリンの国立博物館にもある(写真)ようだ.ゴリアテの首の向きとか,空の広さと明るさ,山や雲の形など,細かい違いは多いが,一見した印象は同じ絵に思えるだろう.

 1563年にピサで生まれ,1639年にロンドンで亡くなったオラツィオが,データが正しいとすれば,ヴァティカン絵画館の作品を描いたのは50歳直前の頃で,ウォズワース・アシーニアムの絵は60歳前後の制作と言うことになる.76歳くらいまで生き,最後まで外国に呼ばれるほど活躍していたことを考えるといずれも,晩年ではなく円熟期の作品と言えよう.カラヴァッジョの死が1610年なので,少なくともヴァティカンの絵はカラヴァッジェスキの1人として描いたのであろう.

 異母兄である師匠アウレリオは,ピサで生まれたが,フィレンツェで修業し,ブロンズィーノやチーゴリの影響下にあった画家なので,オラツィオの芸術的基盤もフィレンツェにあったことになる.先人からはマニエリスムの画風を学び,時代の風潮を受け容れながらバロックの画家として大成し,古典主義的作風に変容していく.長命だったことが意味を持つ職人的芸術家の典型と言えるのではないだろうか.

写真:
カラヴァッジョ,
グイド・レーニ他 
バロック時代の大作の部屋


 カラヴァッジョについては別に報告するが,ローマの美術館や教会の常として,ボローニャ派の画家たちが描いたバロック絵画が素晴らしい.ドメニキーノ「聖ヒエロニュムスの最後の聖体拝領」(上の写真の向かって左),グイド・レーニ「聖ペテロの磔刑」(上の写真の向かって右),グエルチーノ「悔悟するマグダラのマリアと天使たち」は真に傑作の名に値する.

 変形の部屋で,窓との位置関係に原因があるのか,カラヴァッジョの「キリスト埋葬」は良く写るのに,それ以外の作品はピントの合った写真が撮れなかった.

 上では言及しなかったが,ジョヴァンニ・ベッリーニ「死せるキリストへの嘆き」はすばらしい絵で,彼以降のヴェネツィア派画家たちの傑作も見られる.ただ,ティツィアーノ,ヴェロネーゼの写真で見ると傑作と思われる作品は,今回は観られなかった.

 ラファエロと同じウルビーノ出身の後進フェデリコ・バロッチの「受胎告知」と「エジプト逃避行の途中の休憩」は彼らしくピンクが美しい.


2つの「ラファエロの間」
 これでようやくラファエロに辿り着く.彼はマルケ州ウルビーノで生まれ,ウンブリア州ペルージャ周辺でキャリアを積み,フィレンツェで巨匠たちの影響を受けて成長し,同じトスカーナのシエナでも人脈を築き,遠縁のブラマンテの「引き」も利用しながら,何よりもその天才性を見込まれてローマに呼ばれ,そこで大成した.

 ラファエロを引き立てたのではユリウス2世,レオ10世と言う教皇たちなので,当然ヴァティカンにはラファエロの作品が複数,存在する.

 彼の芸術家としての大成の仕方は興味深い.職人的で,天才肌ではなかったが,宮廷のお抱えの芸術家としての地位を確保し,工房を開いて活躍していた父のもとに生まれ,その薫陶を受けながらも,父の死後は,父を遥かに超えた天分,技量,名声を持ったペルジーノ,レオナルド,ミケランジェロの影響を自分の中に取り込み,他人に好かれる性格だったので,様々な人脈と運に恵まれ,またそれを最大限に活かして,当時最大の芸術保護者だったローマ教皇の寵遇を得た.

 仕事が大規模になれば,有能な助手たちも必要だが,若い巨匠は人望もあり,仕事も提供できるわけだから,史上最強の工房グループと言える「チーム・ラファエロ」とも言うべき,芸術家・職人集団が形成された.

 日本で画集を見ながらラファエロという芸術家のイメージを形成すると,宗教的な制約から解放された,人間味あふれる「聖母子」を描いた画家と思い込んでしまうかもしれない.その面は確かにある.もし複数ある「聖母子」しか作品が残らなかったとしたら,巨匠とは呼ばれないかもしれないが,間違いなく「夭折の天才」として,多くのファンが,今後もずっと生まれ続けるだろう.

 レオナルドの天才性,ミケランジェロの巨人性に比して,ラファエロが同じくルネサンスの3巨匠と言われながらも,数段低い評価をされがちなのは,多くの人が本気でヴァティカンの壁画と「キリスト変容」を自分の目で観ていないことに原因があるように思われる.

 彼の描いた一連の肖像画と「キリスト変容」を観て,それでもラファエロは精神性に乏しい画家と考えるなら,それは,それぞれの好みや主観の反映によるもので,説得してどうなるものでもないから止むを得ないだろう.

 ヴァティカン絵画館所蔵のラファエロ作品は,「聖母戴冠」,「フォリーニョの聖母子」,「聖母戴冠」の裾絵(「三王礼拝」,「受胎告知」,「神殿奉献」),「キリストの埋葬」(ボルゲーゼ美術館)の裾絵(「信仰,慈愛,希望」),「キリスト変容」である.今回,裾絵は観られなかった.

 これらの絵は「ラファエロの間」(the Hall of Raphel)とも称される1室(一番下の写真)に集められており,ここにはさらに,彼の下絵※(ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館に7点現存)に基づいたタピスリー(タペストリー)が展示されている.

(※「ラファエロのカルトン」で日本語版ウィキペディアに立項され,詳細な説明がある.ただし,これは英語版ウィキペディアの翻訳に基づいているようだ.2015.2.28に参照した限りでは,「ラファエロ・サンティ」も挿入写真等は違っているが,本文は英語版の翻訳で,「次期ウルビーノ公爵の母」の「母」を訳し落としたり,キージがチーギと読まれたりしている瑕瑾はあるが,訳文そのものはよく分かって,便利だと思う)

 タピスリーは10点,絵画館に所蔵されているとのことだが,撮って来た写真で確認する限り,今回観られたのは,「奇蹟の漁」,「足の不自由な男の治癒」,「天国の鍵を授かるペテロ」の3点で,いずれも初代教皇とされるペテロに関わる絵柄である.おそらくラファエロの下絵によるものではないであろうが,レオナルドの「最後の晩餐」に基づくと思われるタピスリーもあった.

 タピスリーはそれ自体,芸術としてすばらしいのであろうが,経年劣化は争えず,諸方で見られる傑作に心打たれるまでには至っていない.ラファエロの下絵によるものも,ウェブ上の写真で見られる下絵の方が数段魅力的に思えるが,これはまだまだ職人技への理解が足りないということであろう.



 絵画館収蔵作品の他は,何と言っても,紛らわしいが日本語ではやはり「ラファエロの間」(Raphael Rooms / Srtanze di Raffaello)としか訳しようのない幾つかの広間の壁画,装飾画であろう.

 ヴァティカン博物館は,南北に長い基本的に2層の建物で,上の階と下の階に分かれる.下の階に公開されている博物館があるが,絵画館は一番北にある入口部分から西に延びる別棟になっている.しかし,絵画館から外に出ることなく,渡り廊下を通って,本館(と言う言い方で良いかどうか分からないが)の方に行くと,その最北部にピオ・クレメンティーノ博物館があり,ラオコーン像もある八角形の中庭もある.

 本館は,北から南に向かって「松かさ(ピーニャ)の中庭」,「図書館の中庭」,「ベルヴェデーレの中庭」の3つの中庭が並び,中庭を囲む長い建造物の下の階の西側は図書館,東側はキアーラモンティ博物館から石碑のギャラリーになっている.

 ピオ・クレメンティーノ博物館から「シモネッティの階段」を登り,図書館の上階にあたる部分で,一連の長い廊下のようになっている「燭台のギャラリー」,「タペストリーのギャラリー」,「地図のギャラリー」を大聖堂のある南に向かって歩いて行くと,南端に「ラファエロの間」などがある.その下に「ボルジアの間」があり,西南端で隣接しているのがシスティーナ礼拝堂である.

 2回ヴァティカン博物館を見学(システィーナは都合4回入堂)し,今落ち着いて案内書の地図を見ながら,自分の歩いた経路を再確認し,ようやく,おぼろげながら全体が把握できたような気がするが,その場ではともかく広く,人が多く,自分がどこにいて,どこに見たいものがあるのか,とまどうばかりだ.冷静に整理してみると,意外に単純な構造になっていることに驚く.

 いずれにせよ,大勢の人が流れて行くので,自然と「順路」を辿るように長いギャラリーを歩いて,最初にラファエロは全く関わっていない「無原罪の御宿りの間」に入り,19世紀の画家フランチェスコ・ポデスティの壮大なフレスコ画とオスティア・アンティカから運んだローマ時代の床モザイクを見て,「コンスタンティヌスの間」,「ヘリオドロスの間」,「署名の間」,「ボルゴの火災の間」へと進んで行く.

写真:
「コンスタンティヌスの間」
のフレスコ画
「十字架の幻視」の部分

天使の掲げる十字架の
光の中にギリシア語
「これで勝て」


 「コンスタンティヌスの間」のフレスコ画は壮大なもので,緊密な構成によって統一されているが,完成がラファエロの死後の1524年であることを考えても,彼自身の手になる作品群ではない.

 ただし,下絵はラファエロが描いたようで,例えば「ミルヴィオ橋の戦い」の下絵はルーヴル美術館に現存するようだ(Konrad Oberhuber, Raffaello: L' Opera Pittorica, Milano: Electa, 1999, p.193).四方の壁面には,

 十字架の幻視
 コンスタンティヌスのマクセンティウスに対する戦い(ミルヴィオ橋の戦い)
 コンスタンティヌスの洗礼
 ローマ寄進

が描かれている.十字架の幻視によって神の加護を確信したコンスタンティヌス1世がライヴァルのマクセンティウスにミルヴィオ橋の戦いで勝利し,キリスト教徒となって,ローマを教皇に寄進したという物語であり,皇帝権に対するキリスト教の優位と,世俗権力から譲渡されたローマにその中心を置いたことを図像化している.

 上の写真は「「十字架の幻視」の部分だ.「これで勝て」(エン・トゥートー(イ)・ニーカー)というギリシア語が記された布が翻っているように見えるが,雲間から射す光の中に文字が見えているということらしい.

 この場面には典拠がある.エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』28章2節である.

 真夏の太陽の頃で,一日がすでに午後になりはじめていた頃,コンスタンティヌスによれば,彼はまさしく己の目で,ほかならぬ天に,太陽の上に懸かる,その形状が光で示された十字架のトロパイオンを目にされたのです.それには「これにて勝利せよ」と書かれておりました.彼と兵士全員がその光景を見て驚愕しました.兵士はそのとき,彼がある場所に率いて行く遠征に同道していて,その奇蹟を目にしたのです(秦剛平訳,京都大学学術出版会,2004,p.46)(「書かれておりました」は意訳である旨,訳注に付されている)

 ギリシア語原文を今,参照できないので,秦の訳注を参考にするしかないが,「これ」の前に前置詞エンが無い方がここでの意味に合致するように思われ,この幻視が果たしてミルヴィオ橋の戦いと直接結びつけられているのかどうか(秦は否定的)もわからない.

 しかし,ラファエロ工房の絵では,コンスタンティヌスに勝利に重用な要素として描き込まれており,ローマ教会の伝統では,そのように考えられていたのであろう.

 ギリシア文字の下にある円形4層で十字架を戴いている建物は,現在サンタンジェロ城になっているハドリアヌスの霊廟であろう.十字架は当時はなかったと思うが,わざと付されたのかも知れない.であれば橋は現在のサンタンジェロ橋であり,上の写真では見えにくいがその先にあるのは,やはり現存するアウグストゥス霊廟であろう.ジョットのステファネスキ祭壇画にも描かれていた,現存しないピラミッド状の建造物も描かれている.

 ミルヴィオ橋はこのさらに上流にあり,エウセビオスはこの奇蹟がどこで起こったかは記していないが,ラファエロ工房の絵では,現在のヴァティカン市国付近とされていることがわかる.

写真:
ラファエロ作
フレスコ画「アテネの学堂」

混雑時にガイドの指し棒の
入らない写真を取るのは
難しいかもしれない


 「署名の間」のフレスコ画はラファエロ自身の作である.彼は,ペルジーノやピントゥリッキオを手伝うことによってフレスコ画の訓練を積んでいたではあろうが,これ以前にはペルージャのサン・セヴェーロ教会に未完のまま残し,彼の死後,旧師ペルジーノが完成させた「三位一体と聖人たち」以外に自分の仕事として請け負った経験は無かった.

 しかし,この仕事を見事に成し遂げて,ユリウス2世の信頼を勝ち得,以後の仕事も依頼されるようになった.

 聖体の論議
 アテネの学堂
 パルナッソス
 美徳の寓意像(以上,訳語は石鍋に従っている)

の4場面の他に,ピントゥリッキオの装飾画を思わせる金色に輝く天井画には,それぞれ対応する学問の寓意像がメダイオンの中に描かれている.「神学」,「哲学」,「詩学」,「法学」である.神学と法学は医学を加えれば,中世の伝統的大学を構成する3つの学部名にもなっているが,ギリシアを重んじて哲学と詩学が加えられたのは,まさに人文主義の時代であるからだろう.

 題名は後世付されたものだが,「アテネの学堂」は,レオナルドの顔をしたプラトン,ミケランジェロを思わせるヘラクレイトス,ラファエロの自画像となっているアペレスの他に,ソクラテスとアリストテレスは明らかに古代彫刻を模しており,古代とルネサンスが混然となった世界は,キリスト教を前提とした人文主義の理想を表しているだろう.

 「パルナッソス」でも,ホメロスは古代彫刻を参考にしていると思われ,ローマにいるからこそ,そうした手本を自在に参照することができたのだと思う.

 美徳の寓意像の下には,「ユスティニアヌス帝にローマ法大全を捧げるトリモボニアヌス」,「教皇教令集を承認するグレゴリウス9世」が描かれており,世俗を治めるローマ法と,教会法の両輪を描き,グレゴリウス9世の顔は素人目にもラファエロ自身が肖像画を描いたユリウス2世に見えるので,ここには過去と現在も統合されている.

 部屋全体は,人文主義の要素に満ちているが,「聖体の論議」によって,教会の優位が示されている.

写真:
「アテネの学堂」の中に
描かれたラファエロ自画像
(上の写真の右端部分)
向かって右はソドマとされる


 ルネサンスを代表する開明君主の宮廷に仕える芸術家を父に持つとはいえ,言ってみれば職人階級の中からで出てきたラファエロだが,「署名の間」の図像を見ると,彼の知性と教養に驚かされる.現在のように,ネット上に情報が溢れ,かなりの人が高等教育を受けて,図書館へのアクセスが簡単な時代ではない.彼に古典的教養や,聖書解釈,神学的制約を助言した人物がいる.

 トンマーゾ・インギラーミ(英語版伊語版ウィキペディア)である(石鍋,pp.65, 78).ラファエロが描いた彼の肖像画が,フィレンツェのピッティ宮殿にあるパラティーナ美術館にある.ここのラファエロは名画揃いだが,その中でも,地味だけれども印象に残る作品だ.

 トンマーゾ・インギラーミは,トスカーナ西部のヴォルテッラで生まれ,内乱で父を失った後,フィレンツェで育ち,教皇シクストゥス4世の秘書だった叔父のアントーニオ・インギラーミを頼ってローマに出た.

 16歳だった1486年に,セネカの悲劇『パエドラ』が上演された時,タイトル・ロール(ただし,題名はもう一人の主人公名『ヒッポリュトゥス』だったかも知れない)のパエドラ(ギリシア語ではパイドラ,イタリア語ではフェードラ)を演じ,生涯を通じてこのフェードラが,女性名であるにも関わらず彼の通称となった.

 人文主義者として傑出し,エラスムスとも交流を持ち,1510年にヴァティカン図書館の館長に任命され,1513年のユリウス2世の死去に際して,教皇選挙を支え,その選挙でメディチ家出身のレオ10世が選ばれた.

写真:
「ヘリオドロスの間」
聖ペテロの解放


 「ヘリオドロスの間」の壁面装飾は1511年にユリウス2世から依頼されたが,完成は教皇の死後の1514年であり,その時の教皇は上述のレオ10世である.この部屋には,

 ヘリオドロスの神殿追放
 ボルセーナの秘蹟
 聖ペテロの解放
 教皇レオ1世とアッティラの会見

の4面の壁画があり,上2つはそれぞれ,古代と中世に起こったとされるローマ教会にとって重要な故事に,壁画制作時の教皇ユリウス2世が立ち会っている姿が描かれている.3つ目の作品は,光をたくみに描いて,光に包まれた天使が牢獄につながれた初代教皇のペテロを救い出す美しい絵だ.

 最後の絵で注目すべきは,レオ1世の姿が,やはりラファエロが肖像画を描いているレオ10世の姿で現されていることで,この間に教皇が代替わりしたことを示している.レオ10世ことジョヴァンニ・デ・メディチは「署名の間」の壁画でグレゴリウス9世として描かれたユリウス2世の傍らにも描かれているが,その時はもちろん教皇の姿ではない.

 この作品には工房の有能な助手ジュリオ・ロマーノが重要な役割を果たした可能性を伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートが指摘していて,そうであればこれ以後の作品との関連で都合が良いが,その他参考にした本では言及されていない.

 「ボルゴの火災の間」の壁画は,1517年に完成したのであれば,まだラファエロ存命中で,やはり4面の壁画,

 ボルゴの火災
 オスティアの戦い
 カール大帝の戴冠
 教皇レオ3世の誓い

がある.この部屋の装飾に関しては,ブルーノ・サンティ,石原宏(訳)『ラファエロ』(東京書籍,1995)に解説がある.最初の2つは教皇レオ4世(9世紀半ば)の時の事件であり,3つ目の絵でカールに戴冠している教皇はレオ3世,もちろん4つ目の絵の主人公もレオ3世(9世紀初頭)で,いずれも当時の教皇レオ10世と同名の教皇で,どの絵にもレオ10世が描かれているようだ.

 最初の作品には,サン・ピエトロ大聖堂が現在の姿になる以前の,ファサードにモザイク装飾が施された中世の姿で描かれており,向かって左端に描かれた,老人を背負い子供を連れて逃げる男は,サンティの分析の通りであれば,バロッチの絵(1587年))とベルニーニの彫刻(1618年)に先立つ「亡命のアエネアス」を想起させる図像であると考えられる.

 これもやはり,人文主義の影響と言えるかも知れないが,ヴィジュアルな先例については,古代のものとしては壺絵くらいしか思いつかない.一体何を参考にしたのだろうか.

 いずれにしろ,この部屋のフレスコ画は,工房の助力が中心になった時期の作品と考えられている.石鍋の本を読んで,最も印象に残る用語が「ラファエッロ&カンパニー」(p.88)というものである.彼はローマで才能ある青年から,大工房を率いて,大きな仕事をたくさん請け負う総合芸術家となった.考古学方面にも見識を持ち,建築家としての実績もあるのだから,全くその名に恥じない.

 「ボルゴの火災の間」で感心したのは,ペルジーノ風の天井画だ.「風」という言い方が正しいかどうかはともかく,この天井画はペルジーノ工房の作品で,複数のペルジーノ作品が破却された中,ラファエロは敢てこの天井画を残したようだ.

 ラファエロの本当の意思はわからないが,少なくとも私たちは,この部屋で,若き巨匠を結節点にして,ペルジーノ工房からラファエロ工房への流れを体感することができる.一世を風靡し,ミケランジェロ以前のシスティーナ礼拝堂でも主導的役割を果たした(松浦)ペルジーノは,ラファエロの死後3年生き,弟子だったのか協力者だったのかはともかく,ラファエロが未完のまま遺した,ペルージャのサン・セヴェーロ教会のフレスコ画を完成させる.

写真:
ラファエロ遺作
「キリストの変容」
左下の群像部分


 絵画館にある遺作「キリストの変容」は時代を変える傑作だったが,未完のまま遺された.彼の薫陶を受けた弟子たちの中で,おそらく最も成功を収めたジュリオ・ロマーノが後を継いで完成させたと言われる.

 ジュリオの作品とラファエロ晩年の作品に線を引きにくいのはルーヴル,ボルゲーゼで体験している.ヴァティカン絵画館にも,明らかに「キリスト変容」から多くを学んだ「聖母戴冠」(リンクしたウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真は色に問題がある)があり,やはり工房の有力な一員だったジョヴァン=フランチェスコ・ペンニの手も入っているとされるようだ(Fabrizio Mancinelli, tr., Carol Wasserman, Vatican Museums: Pinacoteca, Firenze: Lito Terrazzi, 1988, p.44).

 優れた水準にある作品と思われるが,それでも「キリスト変容」には遠く及ばず,色彩と構図が似ているだけで,精神性や劇的ダイナミズムに乏しく,時代がペルジーノまで戻ったような感じだ.

 ジュリオがラファエロの死後に描き,彼自身の名で伝わっている作品には,これが本当にラファエロ工房のエースだったのかと思うほど貧相なものが少なくないように思える.マントヴァでテ宮殿のフレスコ画を仕上げ,後世に影響する建築家として大成した芸術家だ.才能に乏しいはずはない.慢心したのでなければ,ラファエロの天才性には遠く及ばなかったということだと思う.

 ラファエロに駄作はない(「ラ・フォルナリーナ」は彼の作品とは思いたくない)が,その中にあっても「キリスト変容」は傑出している.わずか37歳で青年のまま亡くなった巨匠が,この未完の作品で,その前年に亡くなったレオナルド,さらに44年生きるミケランジェロという両巨人の域に達したのだと思いたい.






遺作「キリスト変容」を中心に3作品が並ぶ
画風の変遷が研鑽を重ねた37年の生涯を語る