フィレンツェだより番外篇
2015年2月18日



 




ベルヴェデーレのアポロン(頭部)
ミケランジェロの「最後の審判」のキリストの顔は
これを参考にしたと云われる



§2014ローマの旅 - その7 ヴァティカン(前篇 古代芸術)

2度目のヴァティカン博物館は,ガイドさんの解説で一回りした後,許可を得て,システィーナ礼拝堂の出口でツァーを離れ,絵画館からシスティーナ礼拝堂まで,もう一度自分の足で見て回った.しかし,今回も予習が足りず,不全感の残る鑑賞となった.


 雨に祟られた中,3時間も並んだ前回に比べれば,予約してもらった上に,案内もしてもらって,その意味でストレスは少なかったが,館内の混雑ぶりは驚くほどで,かろうじて絵画館が,ラファエロの部屋を除くと空いていたくらいだ.

 2006年は持参のデジカメが壊れ,当時まだあった24枚撮りのインスタント・カメラで数枚の写真を撮ったが,現像した大部分は実家に置いていて津波で流されたので,前回の記録は記憶の中にあるだけだ.


「ベルヴェデーレのアポロン」と「ラオコーン像」
 古代芸術は,やはりピオ・クレメンティーノ博物館が最大の見もので,中でもベルヴェデーレのアポロン(アポッローン)とラオコーン(ラーオコオーン)が群を抜く注目度なのは間違いないだろう.

 諸川春樹(責任編集)『イメージの探求学I 彫刻の解剖学 ドナテッロからカノーヴァへ』ありな書房,2010

に,

 松浦弘明「《ラオコオン》 ルネサンスを変えた古代彫刻の発見」(以下,松浦)

と言う論文が収録されており,参考になった.

 それに拠れば,ラオコーンがヘレニズム時代のオリジナルかどうかは議論があるようだが,ベルヴェデーレのアポロンは前4世紀のオリジナルからのローマ時代のコピーとのことだ(p.27).また同じ本に掲載されている,

 金山弘昌「《アポロンとダフネ》 ベルニーニとバロック」(以下,金山)

にもそのような説明(p.206)があり,松浦はミケランジェロの「ダヴィデ像」,金山はベルニーニの「アポロンとダフネ」への「ベルヴェデーレのアポロン」の影響に言及している.ベルニーニの「アポロンとダフネ」に関しては,多くの参考書で写真付きで比較されており,並べて見ると,余りにも似ていて驚く.

写真:
ベルヴェデーレのアポロン
ピオ・クレメンティーノ博物館


 さらに,松浦は,ミケランジェロに関しては,「最後の審判」のキリストへの影響は,従来から指摘されてきた(同論文の注31)としている.

 ラオコーン像が発見される以前に,ミケランジェロに影響を与え,ラオコーン像発見の相当後になってもベルニーニの創造にヒントを提供するなど,「ベルヴェデーレのアポロン」の美術史に与えた影響は,この像のオリジナルと推測されているブロンズ像が造られた時代や,大理石の模刻が造られたローマ時代よりも,ルネサンスにおいて大きかったことがわかる.

 今となっては,美しいが平凡な古代彫刻にも見えるけれども,古代彫刻がそれほど多く参考にできなかった時代には大きなインパクトを持って芸術家たちの霊感の源泉となった.オリジナルの作者も,大理石の模刻をした無名の彫刻家も,それを造った時には想像もしなかったであろうが,以て瞑すべしと言うべきだろう.

 今のところ私は,石棺の浮彫の方がより興味深い.

写真:
ラオコーン
ピオ・クレメンティーノ博物館


 「ラオコーンと彼の子供たち」(以下,慣用に従い音引きを一部保持して,ラオコーン像)に関しても,ヘレニズム時代かそれ以前に制作されたブロンズ像のコピーであるとの説が有力視されたこともある.しかし,

 サルヴァトーレ・セッティス,芳賀京子/日向太郎(訳)『ラオコーン 名声と様式』三元社,2006(以下,セッティス)

に拠れば,

 署名の数からして三人の中で最も有名であった(あるいは最も活発に活動していた)アタノドロスを中心とし,確実に紀元前四二年以降に(これは彼がロドス島で,フィリッポスとアガウリスのブロンズ像に単独で署名した年である)イタリアに移住した.《ラオコーン》はロドスではなくイタリアの地の工房内で制作されたに違いない.「紀元前四〇~二〇年頃」という年代は,既に他の研究者たちも主張している(p.65)

ということになり,これを信じ,オクタウィアヌス・カエサルが「元首」の称号を得て,「ローマ帝国」が成立する紀元前27年からが「ローマ時代」と考えるなら,この作品はヘレニズム時代の最末期からローマ時代の最初期に造られたことになる.

 もちろん,模刻ではなくオリジナルの作品である,とセッティスをはじめ多くの研究者が今は考えているようだ.

 ただし,セッティスが主として批判の対象としているアンドレエの精緻な研究によって,これをヘレニズム時代のブロンズ作品からのコピーと考える立場の根強くあり,松浦もこれを否定していない(p.16).


プリニウスの記述
 上記の引用文において,文脈なしでは全く分からないのが,アタナドロスを含む「三人」と言う用語だろう.孫引きだが,さらに別の文を引用する.

 そして,それ以外の大多数を占める大理石彫刻家は,名声に値しない者たちである.すぐれた作品の場合ですら,そこに複数の作家が手を加える場合は,それが個々の名声にとっては仇となる.というのも,彼らのうちの誰ひとりとしてすべての栄光を独り占めすることはできないからであり,すべての人の名前を公平に挙げることは不可能だからである.ティトゥス帝の邸宅にあるラオコーン像が,これにあたる.これは絵画,ブロンズ彫像のあらゆる作品よりも高く評価すべきである.ひとつの石から彼と息子たちと大蛇の驚くべきからみ具合を,共通見解によって,作り出したのは,ロドス人ハゲサンドロス,ポリュドロス,アテノドロスら,最高の芸術家たちである.(セッティス,p.58)(下線,宮城)

 この引用文は,古代ローマの偉大な文筆家プリニウスの『博物誌』36巻37章からのものである.

  Nec deinde multo plurium fama est, quorundam claritati in operibus eximiis obstante numero artificum, quoniam nec unus occupat gloriam nec plures pariter nuncupari possunt, sicut in Laocoonte, qui est in Titi imperatoris domo, opus omnibus et picturae et statuariae artis praeferendum. Ex uno lapide eum ac liberos draconumque mirabiles nexus de consilii sententia fecere summi artifices Hagesander et Polydorus et Athenodorus Rhodii.

(ラテン文の引用は,ウェブ上のLatin Libraryが『博物誌』を網羅していなかったので,タフツ大学の古典テクストページPerseusに拠る.これが依拠した1906年刊行のトイブナー版では36巻11章になっているが,書架にある羅英対訳のロウブ古典叢書でも,セッティス,英語版ウィキペディアと同じ36巻37章である.Perseusはギリシア古典を参照するときに重宝しているが,ラテン語テクストもあることには今回初めて気づいた.各単語が辞書にリンクされているので,便利であるが,まだ,固有名詞の語頭大文字書きなどは徹底されておらず,多少,注意を要する.上記はロウブ版とセッティス引用原文を参考にして一部を大文字に直した)(下線,宮城)


 セッティスの地の文で「アタノドロス」,プリニウスの引用訳文で「アテノドロス」となっているのは,女神アテナ(アテーナー)(最後の「ナー」に曲アクセント)は,ドーリス方言ではアターナー(「ター」に鋭アクセント),イオニア方言ではアテーネー(「テー」に鋭アクセント),ホメロスの叙事詩ではアテーナイエー(「ナイ」に鋭アクセント)となり,アテノドロス(アテーノドーロス)でも,アタノドロス(アターノドーロス)でもいずれも,「女神アテネの賜物(を授かった男)」の意で,前者はアッティカ方言もしくはイオニア方言形,後者はドーリス方言形である.

 当時のロドス島ではドーリス方言が使用され,後述する碑文ではアタノドロスと記され,プリニウスのラテン文ではアテノドルス(アテーノドールス)とアッティカ方言形に基づいて,ラテン語語尾にした形で引用され,それを訳文ではギリシア語語尾に戻しているので,表記が微妙に違っている.

 ラオコーン像の発見については,松浦(p.19)に簡潔にまとめらている,

 発掘年:一五〇六年一月一四日
 発見者:フェリーチェ・デ・フレーディス
 発見場所:ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂近くのカポッチェと呼ばれる地区の葡萄畑.かつて皇帝ティトゥスの浴場があったとされる.
 発掘後の反応:すぐに古代の著名文献,ウェルギリウスの『アエネーイス』とプリニウスの『博物誌』と関連づけられ大評判となったが,最終的には教皇ユリウス二世が購入し,ヴァティカンのベルヴェデーレの彫刻庭園に置かれることになった.


 発見場所に関してはウィキメディア・コモンズに地図があり,ローマの七つの丘の一つであるエスクィリーノの丘(モンス・エスクィリーヌスもしくはコッリス・エスクィリーヌス)の南端突起部であるオッピアーノの丘(モンス・オッピウス)で,近くにあるサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂は,ローマで捕えられた聖ペテロ(サン・ピエトロ)が繋がれた「鎖」(ヴィンコリ)を聖遺物とする教会である.

 セッティスの推測通りなら,ラオコーン像の制作は紀元前30年の前後10年,ペテロの殉教は,伝承に拠れば,ネロ帝のキリスト教徒迫害のあった紀元後67年,プリニウスがラオコーン像を見た可能性のある邸宅の所有者ティトゥス帝の在位は紀元後79年から81年で,プリニウスは79年のヴェスヴィオ(ウェスウィウス,ヴェズーヴィオ)火山噴火の際に被害者救出に向かって,有毒ガスを吸って亡くなるので,「皇帝」(ただし原語は「指揮官」)であったティトゥスの屋敷で彼が「ラオコーン」見た可能性があるのは紀元後79年のみである.

さらに細かく見ると,ティトゥス帝の即位は6月24日,プリニウスの死は噴火と同日の8月24日とされるので,ティトゥスが「皇帝」であった時に見たのなら,この2カ月の間ということになる.


 当時,プリニウスは艦隊司令長官の重職にあり,ナポリ湾に面したミセヌム(ミセーヌム)におり,彼がいつから司令長官の職にあったかわからないが,ローマの皇帝の私邸に伺候するチャンスがこの2か月間にどれだけあったかわからない(「見た」経験がティトゥスの即位以前だった可能性は排除できない)けれども,入館料を払えば,博物館,美術館で有名な芸術作品を鑑賞できる現代と違い,多くの偶然を経て,プリニウスの記述が残ったように思われる.



 上の引用文の「一つの石から」(Ex uno lapide)という記述については,これをひと塊の石からと解すると,実際に残っているラオコーン像は5つの石塊で造られた部分からなっており(ロウブ版の訳注など),文字通りに考えると,プリニウスの記述とは矛盾することになる.

 しかし,プリニウスは大理石像の賞賛表現として類句を4か所で使っており,その中の一つは「同じ石から」(ex eodem lapide)という表現になっていることから,セッティスは「一つの石から」も「唯一つの石材から彫られた」と解する(p.56).この立場は,ラオコーン像がコピーかどうかの結論を異にするアンドレエも同じようだ(セッティス,p.13).

 セッティスが「共通見解によって」としている句(de consilii sententia)にも,他の解釈がある.

 セッティスに拠れば,アンドレエは「コンシリウムの同意によって」と解釈し,「コピーの制作がコンシリウム・プリンキピス,すなわち皇帝ティトゥスの諮問会によって決議された」と考えている(p.13).これはconsiliumというラテン語が「意見」と言う意味も「会議」と言う意味も持っていることに起因しており,「会議」とする意見も昔からあったようだ.

 ただ,もしティトゥスが皇帝で,その諮問会が同意してこの彫刻が制作されたと考えると,現存のラオコーン像は,先に挙げた2か月間に絞られることになるのだろうか.ティトゥス帝即位の2か月後に,プリニウスは亡くなっているのだから.

 ロウブ版の英訳はin accordance with an agreed planとなっており,この英訳に基づいた,日本語訳,中野定雄/中野里美/中野美代『プリニウスの博物誌』雄山閣も「一致したプランに従って」としている.だから,これが通常の解釈であるとは言えないが,「諮問会の同意」と言う解釈には,ティトゥス帝の即位時期と,プリニウスの死亡時期の点から疑問に思う.

 しかし,ドイツの学問的伝統の中で育ったアンドレエはそれは百も承知であったろうし,セッティスもその点からの反論はしていないので,素朴過ぎる疑問なのかも知れない.

 さらに最後に下線を付した部分で,作者として「最高の芸術家」で,「ロドス人」ハゲサンドロス(ハゲサンデル),ポリュドロス(ポリュドルス),アテノドロス(アタノドロス/アテノドルス)の名を挙げている.多くの人が考えているように,16世紀初頭にローマで発掘されたラオコーン像が,プリニウスが報告している作品と同一であれば,作者も明らかであることになる.


古代美術への情熱

 われわれはこれを見て血の気が引き,逃げ去ったが,大蛇は針路を
 ラオコオンに狙い定める.まず,二人の幼い
 息子の体に二匹がそれぞれ輪を巻きつけて
 絡め取る.哀れな者たちに噛みついて貪り喰らう.
 次いで,武器を手にして救助に駆けつけたラオコオン自身を
 つかまえ,巨大なとぐろで締めつける,いまや,
 胴へも二重に巻きつき,首のまわりにも二重に鱗立つ
 背を巻きつけ,頭とうなじを高々と差し上げた.
 ラオコオンも懸命に両手で結び目を引き裂こうとして
 リボンが血膿と黒い毒にまみれ,
 その刹那,星の高みへ恐ろしい叫び声を上げる.(『アエネイス』2巻212-222行)
 (ウェルギリウス,岡道男・高橋宏幸(訳)『アエネイス』京都大学学術出版会,2001,p.63)


 活版印刷は既に盛んで,古典のテクストが数多く印刷されていたとはいえ,現在のように誰もが,テクストや翻訳,解説にウェブページや図書館でアクセスできるわけではない16世紀初頭に,プリニウスの記述に思い至るのは,おそらく古典への精通度の高い人たちであったろうが,『アエネイス』の方は,ラテン語を学んだ人であれば,殆んどの人が知っていただろう.たとえ本文を読んでいなくても,トロイアの木馬の搬入を阻止しようとして,女神アテナ(ミネルウァ)の神罰を受けた神話は知っていた可能性は高い.

 トロイア戦争に関係する逸話でありながら,ホメロスには出て来ず,「叙事詩の輪」(epic cycle)と称される作品群の中に『イリオス(イリオン)の陥落』があり,ラオコーンの物語はここに語られていたとされる.しかし,この作品は現存せず,粗筋の要約が知られているだけだ.その意味でも,『アエネイス』の持つ意味は大きい.

 では,そこに最後に語られている「恐ろしい叫び声」を上げた瞬間が,現存のラオコーン像に表現されているのだろうか.

写真:
「ラオコーン像」頭部


 それについて,

 かかる魂は,非常にはげしい苦しみを受けているラオコオンの顔面にあらわれている.いや,顔面だけではない.その苦痛は,からだのあらゆる筋肉や腱にあらわれていて,顔やその他の部分を見ないでも,苦しげに凝縮した腹部を見ただけでおのずと感じとられる.にもかかわらずこの苦痛は,顔面や全体の姿勢に,荒々しく表現されているわけではけっしてない.このラオコオンは,ヴェルギリウスの書いたラオコオンのように,おそろしい叫び声をあげてはいない.口の開き方を見れば,それができないことがよくわかる(レッシング,斎藤栄治(訳)『ラオコオン 絵画と文学の限界について』岩波文庫,1970,pp.15-16,以下『ラオコオン』)

と言った人物がいる.ヴィンケルマンである.レッシングはこの引用の直前にも「海の表面がどれほど荒れ狂っていようとも,その底はいつも静かであるように,ギリシア人の手に成る人物の表情は,あらゆる激情にもかかわらず,偉大なそして端正な魂を示している」という言葉を引用し,ヴィンケルマンの考えるギリシアの絵画並びに彫刻の特徴は「姿勢ならびに表情における高貴な単純さと静かな偉大さ」にあるとしている.

 この引用の原本(p.36に上記部分の訳)は,

ヴィンケルマン,澤柳大五郎(訳)『ギリシア美術模倣論』座右宝刊行会,1976


で,ヴィンケルマンがこの『ギリシア美術模倣論』を発表した1755年,満年齢で37歳,現在なら青年と言って良い年頃だった.これが彼の出世作となり,ザクセン選帝侯フリードリッヒ=アウグスト2世(ポーランド王としてはアウグスト3世)の援助を得て,ローマで研究できることになった.いわば,これがこの後に続く,古代ギリシアを理想とする「新古典主義」の出発点と言えるかも知れない.

 驚くべきことに,ヴィンケルマンはこの時,初めてローマに行くことができた.と言うことは,彼は出世作において,ラオコーン像に言及した時に,実物を見たことがなかったことになる.

 レッシングの『ラオコオン』の出版は1766年,その時はヴィンケルマンはローマで古代美術研究の大家となって,大著『古代美術史』(1764年)を発表した後である.著者自身の記述と訳注によると,こちらも読んでいたようで,『ラオコオン』26章は『古代美術史』への言及から始まる.

 そこでレッシングが最も関心を持っていたのは,ヴィンケルマンがラオコーン像の制作年代をいつ頃と考えているかだった.

 訳注に拠れば,レッシングは『ラオコオン』25章までを『古代美術史』出版以前に書いたとしているとのことだ(p.317訳注(一)).レッシングは,ヴィンケルマンが「ギリシアの美術が絶頂にあった時代,すなわちアレクサンドロス時代のものである」と想定しているとした上で,

 ラオコオンの作者たちは,初期のローマ皇帝の治下に仕事をしたのであって,少なくとも,ヴィンケルマン氏が言うほど古い時代の人ではけっしてない(p.331)

と断じている.『ラオコオン』を達意の日本語にした斎藤栄治の訳注も素晴らしい.彼は解説で,

 ヴィンケルマンがこの群像を古典期のものと推定したのにたいして,レッシングはローマ帝政のころの作と推定している.しかし今では,ヘレニズムの最末期,前四,五十年ごろのものであることが明らかにされている.つまりヴィンケルマンの推定は数百年,上の方に大きくずれており,レッシングのそれは約七,八十年,下にずれていたことになる.この作品の製作年代についての推定は,本書の中心をなす問題ではないが,この彫刻の原作はおろかその写しさえも見る機会を持たなかったレッシングが,もっぱら文献と論理によって問いつめてゆくその推理の過程は非常に興味ふかい.(p.371)

と述べている.推理の過程には私も感銘を受けたが,それ以上に驚かされたのは,レッシングはイタリアに行ったことがなく,実物を見ていないだけではなく,写真も無い時代なので,模刻か版画でラオコーン像のイメージを確認するしかない状況で,多分,参考にできたのは版画だけだったであろうことだ.

 ラオコーン像の模刻は,ウフィッツィ美術館にバッチョ・バンディネッリの大理石像,フォンテーヌブロー城のプリマティッチョ作のブロンズ像が良く知られており,私も前者は見ている.また,ミラノのアンブロジアーナ絵画館にも複製があったのを覚えている.同館の図録に拠れば,プリマティッチョのブロンズ・コピーを元にレオーネ・レオーニが石膏複製をつくり,それをミラノに持ち帰ったものかも知れない.

 レッシングがローマに行ったことがなくても,場合によっては,複数あった可能性がある模刻もしくはその複製を見ることができた可能性が無かったとは言えない.しかし,『ラオコオン』のすぐれた訳業を成し遂げ,そのために多くの参考文献や研究書を読んだ斎藤がそう言う以上,やはりレッシングはラオコーン像の版画図版しか見ていなかったものと思われる.

 ヴィンケルマンは1755年にローマに行くことができ,七年戦争の影響でザクセン選帝侯の援助が期待できなくなったので,枢機卿の私邸の司書を務めながら長期間滞在し,しかもローマでした最初の仕事は,ラオコーンその他のベルヴェデーレの彫刻群の報告書を書くことであったわけだから,もちろん,実物をつぶさに何度も観たであろう.

 しかし,出世作をまとめ,そこでラオコーン像に言及した段階では,実物を見たことはなく,もしかしたら後のレッシング同様,印刷版画図版でしか知らなかったかも知れない.

 新古典主義の祖となり,ローマ美術を越えて,ギリシア美術を再評価したヴィンケルマンが,ラオコーン像に,彼にとってギリシア的理想である静謐さを読み取り,これを最末期とは言え,ヘレニズム以前の古典期の作品と考えたことが,大変興味深い.

 しかし,ヴィンケルマンがドイツ語で『古代美術史』を書いたことから,ドイツで学問的な美術史学が発達し,多くの文人や思想家も影響を受けたことにはやはり大きな意味があるだろう.



 日本も,明治以来,西欧の影響を受け,今は人文教養系の学問の中では,例外的とも思える繁栄(本が売れる,大学院への進学希望者が少なくない)を見ている美術史学の分野もその典型と言えよう.今回,古代美術の歴史をおさらいするために,

澤柳大五郎『ギリシアの美術』岩波新書,1964


を読み返し,ヴィンケルマンやレッシングを翻訳できる背景の中から,日本でも優れた文化教養の伝統が醸成されたことに改めて思いを致した.

 澤柳は,自分でもしつこいほど「古典ギリシア語が読めない」と繰り返しており,多少とも古典を学ぶ者としては,日本の西洋文化受容が未だに熟成していない過渡期の研究者のように思われたが,難解な内容を達意の名文にまとめる文才と言い,少なくとも私には透徹しているように思われる史観と言い,日本における西洋学のパイオニアの名に恥じない学者に今は思える.

 そのギリシア・オリジナル尊重は当然としても,ややもすればローマ軽視に思われる姿勢には今も多少の反感は覚えるが,一時的にでも,この偉人を旧制高校文化の悪弊の遺物のように思ったことが悔やまれる.日本の西洋古代美術研究も学問的には進歩し,セッティスを訳した芳賀や日向のような古典語に通じた美術研究者や,美術に明るい古典学者が輩出する時代にあっても,パイオニアとしての澤柳の重要性と影響力は褪せないであろうと思うに至った.古典古代文化に興味ある者はすべからく『ギリシアの美術』を読むべきだろう.

 その澤柳が同書で,ラオコーン像に関して,「ヘレニズム期の最末期,紀元前四,五〇年頃のものであることが今日では明らか」,「私の滞欧中には再修復のため板囲いに覆われて見られなかった」,「曾てミケランジェロ,ヴィンケルマン,レシング(ママ),ゲーテに与えたような感銘を今日の人人には与えないであろう」(いずれもp.250)と述べていることは興味深い.

 最初の年代推定は,斎藤の解説にもあるように,1980年頃まではほぼそのような見解が定説だったのだろう.基本的に年代には大きく異なるわけではないが,アンドレエ(1988)が紀元前140年頃のペルガモンで作成されたブロンズ原作の模刻とし,それに対してセッティス(1999)がギリシア人彫刻家がイタリアで造ったものであると反論,松浦(2010)はこの問題の解決は「非常に困難」とまとめているのが,現状を反映しているだろう.

 この背景には1957年に発見された,ローマとナポリの間にあるラツィオ州南方のスペルロンガで,スエトニウスの『ローマ皇帝伝』にも言及されているティベリウス帝の別荘跡の彫刻群の研究が進展したことがあるだろう.

 松浦にも言及(p.16)があるが,セッティスは写真(p.9)も挙げて,この遺跡から見つかったプリニウスがラオコーン像の作者とした3人の名を刻んだギリシア語碑文に言及している.

 セッティスに拠れば,これを根拠にラオコーン像制作過程に対する現在の殆んどの研究にとっての前提とも言うべき学説をまとめ上げたのはアンドレエであり,セッティスはさらに「係累学(プロソポグラフィー)的研究」(第IV章)の視点から踏み込んで,当時の彫刻家や工房の状況を論じ,プリニウスのテクスト分析することによって,紀元前44年にユリウス・カエサルを暗殺したガイウス・カッシウス・ロンギヌスが,それにつづく内乱に際してロドス島を劫略し,その際にロドスに拠点を持っていた彫刻家たちがイタリアに移住し,ラオコーン像をイタリアで制作したと推定している.

 ただ,その場合でも,ティベリウスが皇帝になる紀元後14年まではまだだいぶ時間があるので,スペルロンガの彫刻群(の一部)とラオコーン像が同時期に造られたのであれば,前者がティベリウス帝の時代にスペルロンガにあり,後者がティトゥス帝の時代にローマにあったことにはまだまだ補足的な説明がいるように思える.ティベリウスは紀元前42年の生まれなので,皇帝になる以前の彼もしくはその代理人が制作を依頼した可能性は無いとは言えない.

 私が考えて結論が出るようなことではないので,これくらいでラオコーン像に関しては終わりにするが,様々なことを考えさせられた.


古代彫刻のある部屋
 ヴィンケルマンが最初にローマに来て,ラオコーン像とともにそれに関する報告をまとめたのが,ベルヴェデーレのトルソ(トルソ:小学館『伊和中辞典』2「胴体だけの彫刻」)だった.

 彫刻家であるミケランジェロが彼の絵画において,人体を描くときに大いに影響を受けたことが知られている.

写真:
ベルヴェデーレのトルソ
「ミューズの間」


 確かに大変な迫力を持っている.「アテネ人ネストルの子アポロニオス」と言う刻銘があり,ヘラクレスに同定されたことも,自殺を思案するアイアスとされることもあるようだが,確証はないだろう.

 英語版ウィキペディアによれば,ボローニャの画家アミーコ・アスペルティーニの素描があるそうだ.ミケランジェロとほぼ同世代だが全く作風を異にする画家が,関心を持っていたことが興味深い.そもそもアミーコがローマに行った(行っていなければ直接見た上での素描は描けないだろう)ということが驚きだ.ルッカでフレスコ画(行かなければ描けない)を描いているのだから,ローマまで行っても不思議はないが,情報としては確認が必要だろう.

写真:
「円形の間」
壁龕の彫刻(向かって左から)
ヘラクレス
ケレス
アンティノオス


 ピオ・クレメンティーノ博物館はラオコーン像のある屋外のベルヴェデーレの中庭の「八角形の中庭」だけではなく,館内にも「ミューズの間」(ベルヴェデーレのトルソは今はここに置かれている),「円形の間」など,まだまだ見るべきものが多く,今回は実際にたくさんの古代彫刻,床モザイク,石棺などが観られたが,それに対する感想は,まとめ切れないので,後日のこととする.

写真:
キアーラモンティ博物館


 前回ヴァティカンに行った2006年も,ヴァティカン内でピオ・クレメンティーノ博物館に隣接するキアーラモンティ博物館で,その古代彫刻コレクションに圧倒された.しかし,今回も前回同様,重要な作品を観ることはできなかった.

 ここには,ウィキメディア・コモンズを参照する限り,ブラッチョ・ヌオーヴォ(新しい腕)と言う名称のコーナーには「プリーマ・ポルタのアウグストゥス」,「豊饒の角を持つ女神フォルトゥーナ」,「悲劇作家ソポクレス」の立像などがあり,是非観たいと思っている作品が複数あるが,残念ながら,上の写真の奥は閉ざされており,他にも行き方があるのかも知れないが,垣間見ることも叶わなかった.

 ギリシア彫刻の模刻でも「蜥蜴を殺すアポロン」(アポロン・サウロクトノス)や,「クニドスのアプロディテ」など有名な作品がどこにあったのかも確認できず,残念だった.後で考えると近くまで行ったのに,古代のフレスコ画「アルドブランディーニの婚礼図」も見逃してしまった.

 エトルリア関係の遺産のあるグレゴリアーノ・エトルスコ博物館はどこにあったのか,未だにわからないし,やはり古代彫刻を集めたグレゴリアーノ・プロファーノ博物館は,前回も今回も入口まで行ったのに,閉館だった.

 ヴァティカン博物館は広く,収蔵作品が多いので,その場に行って考えようとすると,自分がどこにいるのか,何を見ようとしていたのか,一体その日に何が見られるのか,パニック状態になる.入館前の大行列,入館してからの大混雑がそれに拍車をかける.事前の予習は必須だろう.

 ちなみにキアーラモンティは19世紀初頭の教皇ピウス7世の家名に由来するようだ.


ホメロスの肖像
 今回,カピトリーニとヴァティカンで,多くの古代胸像を観ることができ,写真にも収めた.これがオリジナルと言われているものは今まで見たことがないので,おそらく全てがローマ時代の模刻と思われる.ただ,模刻であっても,系統別に整理して,よりオリジナルに近いもの,より出来の良いものを選ぶことはできるのかも知れない.


カピトリーニ博物館のホメロス
(テュアナのアポロニオス型) 
 ヴァティカン博物館のホメロス
(エピメニデス型)


 G.M.A.Richter, abridged and revised by R.R.R.Smith, The Portraits of the Greeks, Phaidon Press, 1984(以下,リヒター)

に採録されている作品は少ないが,今回ヴァティカンで観ることできた上の写真の胸像は掲載され,解説があった.ホメロスの胸像は大きく4つのタイプに分類されている.

1.  エピメニデス型
   最古の型のホメロス胸像であり,7体が現存し,ミュンヘンとヴァティカン(上の写真,向かって右)のものが最良.ヘッドバンドをして,上部の髪は放射状になっている.目をつぶって沈思しているようであり,洞窟の中で40年以上眠っていたと言うクレタの予言者エピメニデスの像と考えられていたこともあって,この名称になっている.髪型などからオリジナルは紀元前450年くらいまで遡る可能性があるとされる.「美しい老人」(カロス・ゲローン)として表現されている.
 2. モデナ型
   モデナ(エステンセ博物館)とベルリンに2体のブロンズ製胸像が残っていて,モデナの方が状態が良いからか,この名称がある.どちらもギリシアのオリジナルで,モデナの作品にはギリシア語でホメロスと刻まれている.昨年モデナには行ったが,大聖堂しか見ていないので,このタイプの作品を見たことはない.

 中年男性で,頭には細い髪紐が巻かれ,紐の上部の髪は放射状,下部は額の真ん中で分けられている.紀元前4世紀頃の作品と考えらるが,ローマ時代の模刻が全くなく,モデナの刻銘以外にホメロスと同定する証拠はない.写真で見る限り,これを見てホメロスと思えるかどうか分からないと思うのは,日頃参照しているホメロス関係の本の図版に採用されていないからだろう.
 3. テュアナのアポロニオス型
   約13体ほどが現存し,カピトリーニ博物館の作品(上の写真,向かって左)が最良とされる.巻き毛が長く,こめかみを越えて,肩まで伸びているが,耳は出ている.額には波打つような皺が刻まれ,左肩に襞のある衣が掛けられている.以前は,テュアナのアポロニオスだと思われていたので,この名称があるようだ..

 オリジナルは紀元前300年頃の作品で,これがホメロスと同定されるのは,現在はトルコ共和国の属する小アジアの黒海沿岸地域パフラゴニア(パプラゴニア)の,ペルシア王ダレイオス3世の姪で,この地方のギリシア人領主たちと結婚したアマストリスの名に因んだ同名の都市付近で出土したローマ時代の銅貨に刻まれた「ホメロス」と言う刻銘のある銅貨(リヒターの写真と同じものはないように思われるが,日本語も記された古代硬貨のページに複数の同種硬貨の写真)
 4. ヘレニズム期制作盲人型
   22体が現存しており,カピトリーニと大英博物館のものが優れているとされる.盲目の老人で,ヘッドバンドをして,両脇はこめかみや耳の一部を蔽って,後頭部は首筋まで髪が伸びているが,前頭は禿げあがり,口髭が上唇にかかっている.オリジナルは紀元前2世紀のペルガモンで造られたと考えられている.


 上記の4つのタイプのうち,1は前回も見たかも知れないが,初めて意識したものだし,2は見たことがない.3のタイプも,カピトリーニで観て,写真も撮っていたが,ホメロスだと思っていなかった.今回,リヒター掲載の写真とじっくり比べて見て,この作品をホメロス(テュアナのアポロニオス型)と判断した.

 この作品があった,カピトリーニの「哲学者たちの間」には,向かい側に他の4つのホメロス胸像があったので,もし,これがホメロスの胸像だとすると,その向かって左隣に置かれていた胸像もホメロス像の可能性があり,そうすると,「哲学者の間」に6つのホメロス胸像があったことになる.

 リヒターで4に分類され,写真も掲載されている作品はMC559(MCはムゼーイ・カピトリーニの頭文字であろう)という番号が付与され,ウィキメディア・コモンズにも写真があった.そこには,MC557MC558の写真もあり,これらは自分の目でも確認しているが,確かにどれも4のタイプの属するようではあるが,MC557は右肩をブローチで止めた衣を着ており,MC558は後頭部に布を被り,それが両肩に襞のある衣として下がっているが,胸は露わになっているという違いがある.

 しかし,1のタイプのホメロスに似ていると私には思われたMC560は,ウィキメディア・コモンズではソポクレスとされており,そうすると,カピトリーニの「哲学の間」のホメロス胸像は,ヘレニズム期制作盲人型(ウィキメディア・コモンズではペルガモン型)が3体,もし,上の左の写真の胸像がテュアナのアポロニオス型のホメロスで,その胸像の向かって左に置かれていたものも同形の模刻だとすれば,合計5体だったことになる.

 「テュアナのアポロニオス型ホメロス胸像」をまとめたウェブページで紹介されているのは,ナポリ国立考古学博物館の作品の写真だが,カピトリーニにも2体あるとしている.

 このページでは,マッシモ宮殿国立考古学博物館にも1体あるとしており,ウィキメディア・コモンズでもその写真を紹介している.喜劇作家のメナンドロスと両面を形成しているヘルマ柱のようだが,マッシモ宮殿に3回行って一度も見ていないし,書架にある分厚い全作品写真掲載と称する図録にも見当たらない.

 いずれにせよ,ホメロスと言う人物は実在性が確かではなく,いたとしても(作品があるのだから,それにあたる人物がいたのは間違いないだろうが),紀元前8世紀の人で,現在残るホメロス胸像は全てローマ時代のコピーで,その原作も古くても紀元前5世紀半ばであるから,本人を見て造られた作品は一つもない.

 今まで,様々なタイプのホメロス胸像のどれを見てもホメロスに見えると思ってきたが,今回,4つのタイプを学習して,少なくともテュアナのアポロニオス型の胸像をホメロスだと認識していなかったことが分かった.エピメニデス型は目をつぶっている(盲目とは断定されていない)ので,かろうじてホメロスだと思ったが,自分が様々あると思っていたホメロス胸像の殆んどは,ヘレニズム期制作盲人型(ペルガモン型)で,前頭が禿げあがっていることと,盲人に見えることが,ホメロスだと思わせる共通点だと言うことが良くわかったような気がする.

 ラファエロの壁画「パルナッソス」の古代詩人も,アングルの「ホメロスの戴冠」の主人公も,ピエール・ピューグのホメロス胸像も全て,ヘレニズム期制作盲人型(ペルガモン型)に由来するものであることは明らかになったように思う.

 それにしても,カピトリーニの3つのヘレニズム期制作盲人型(ペルガモン型)ホメロス胸像は少しずつタイプが違っており,それを一つに分類することにはなお疑問が残る.しかし,これ以上の材料を持っていないので,これについてはこれまでとする.

写真:
ルーチョ・フォンターナ
「聖母マリア」


 前回,ヴァティカンを訪れた時には,「新しい絵画や彫刻もあるんだ」と思ったくらいでそそくさと通り過ぎたが,今回は少し心に余裕があったせいか,20世紀の芸術にも心魅かれた.多くはやはり宗教的主題の作品のようだが,制作意図に思いが至らなくても,十分以上に目を見張らせられる作品が多かったように思う.

 ヴァティカンに置かれ,題目が「聖母マリア」である以上,上の写真は多分,聖母なのだと思うが,聖母でなければならない必然性よりも,画家としても芸術理論家としても知られる芸術家ルーチョ・フォンターナ(英語版伊語版ウィキペディア)の造形力の高さと精神性に圧倒される.

 日本語版ウィキペディア「ルーチョ・フォンタナ」(ママ)が箇条書きに整理してあって分かり易い.それに拠れば,イタリア人の父とイタリア系アルゼンチン人の母の間に,アルゼンチンのロサリオで生まれ,イタリアで学び,両国を中心に世界的に活躍した.イタリアでの活動拠点はミラノだったが,少年期を過ごし,終焉の地となったのはロンバルディア州ヴァレーゼで,彼がロマネスクの時代以前からの北西イタリアの職人的芸術家たちの系譜に属するかどうかは,時代が違い過ぎて何とも言えないが,ロサリオにあった父ルイージ・フォンターナとその盟友ジョヴァンニ・スカラヴェッリの工房で修業時代を過ごしたと言われれば,なるほど,やはり,イタリア芸術を支える伝統の中から生まれた人なのだと思ってしまう.

 たまたま,アルゼンチン生まれだが,血筋的にはイタリア人である教皇が就位した後だが,この作品はそれ以前からヴァティカンにあったものだ.インパクトが強烈で,観ただけでも心に残る作品が,作家の背景とイタリアの歴史を感じさせるところに,芸術というものが持つ文化性を感じる.それはそれで仕方がない,知らなくても良いが,知ることができると知りたくなってしまう.芸術そのもの価値と必然的連関があるかどうかは,神のみぞ知る,であろう.






「コンスタンティヌスの間」にて
昔と違い,今は床もしっかり確認する