§北イタリアの旅 - その12 (ボローニャ)
単なる通過や立ち寄りを除いて,実質的に2度目の訪問となるボローニャだったが,タイトな日程の団体旅行であり,落ち着いて様々なものを観るということはできなかった. |
そうした中でも,
サン・フランチェスコ聖堂 (英語版/伊語版ウィキペディア)の裏手の外観
ゴシックからルネサンスを感じさせる街並
サン・ペトロニオ聖堂の三王礼拝堂のフレスコ画
サント・ステファノ教会群
については,具体的な感想を持つくらいの鑑賞ができた.特に,後二者に関しては,比較的丁寧に観ることができたと思う.サン・フランチェスコ聖堂は,またいつか機会があれば,外観もじっくり見て,堂内も拝観したい.
三王礼拝堂(カッペッラ・デイ・レ・マージ)
サン・ペトロニオ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)は街の中心にあって守護聖人を記念しているが,ドゥオーモではなく,大聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)は別にある.それでも,この教会がボローニャで最も重要な教会であるのは間違いない
伊語版ウィキペディアに拠れば,ヨーロッパではローマのサン・ピエトロ大聖堂,ロンドンのセイント・ポール大聖堂,セビージャ大聖堂,ミラノとフィレンツェのドォーモに続く大きさとのことだ.
堂内で見られる有名な画家の作品としては,パルミジャニーノ(「聖ロクスと寄進者」),アミーコ・アスペルティーニ(オルガンの扉絵「聖ペトロニウスの生涯」,「ピエタと聖人たち」,どちらもウェブ上の紹介ページに写真),ロレンツォ・コスタ(「玉座の聖母子と聖人たち」)などがあるが,今回はコスタの作品しか見られなかったと思う.前回同様,撮影禁止で,写真は紹介できないので,ウェブ上の写真をご覧いただきたい.
堂内に複数ある礼拝堂の中で,注目すべきは「三王礼拝堂(カッペッラ・デイ・レ・マージ)」(もしくはボロニーニ礼拝堂)である. |
小学館『伊和中辞典』に拠れば,マーゴmagoの複数形はマーギmaghiになるはずだが,伊語版ウィキペディアも,教会のブックショップで購入した案内書,
Carlo Degli Esposti, La Cappella dei Re Magi nella Basilica di San Petronio,
Bologna: Basilica di San petronio, 2007(以下,デリ・エスポスティ)
もmagiと綴っているので,マージと読むのであろう.方言的特徴であろうか(このように書いたが実は方言形ではなく,正しくイタリア語標準形であるとのご指摘があった.何でも学ぶプロセスなので,この記述はこのまま残しておく.下記参照).
(後日:いつも有益な情報を下さる方からご指摘があった.イタリア語では「東方三博士の博士,賢人」は単数形がmagio,複数形がmagiであり,決して方言的ではなく,標準形である.辞書を良く調べればわかることだったが,イタリア語では「魔法使い,魔術師」を意味するmago,複数形maghiとは区別される.ラテン語ではどちらもマグスmagus,複数形マギーmagiであるのとは事情を異にする.もとのペルシア語形も大きな希英辞典を引けば確認できるが,それはペルシア語を勉強したことが無い以上,あくまでも確認で,わかるのはギリシア語形までだ.古典代ギリシア語では単数形はマゴス,複数形はマゴイである.英語は単数形magusメイガス,複数形magiメイジャイで,O.ヘンリーの有名な『賢者の贈り物』の原題はThe Gift of the Magiはこれにちなんでいる.)(2015/1/1)
サン・ペトロニオ聖堂自体は入場料不要だが,この礼拝堂は大きく柵で囲い,見学料を取って,英語(もしくはイタリア語)のイヤホン・ガイド付きで入場するようになっている.前回は,お昼休みに入る直前に入堂し,この礼拝堂も遠くから眺めただけだったが,こういうシステムではなかったような気がするけれども,覚えていない.
わずかな自由時間に,躊躇なくサン・ペトロニオ聖堂に駆け込んだが,お金を使って,この礼拝堂に時間を割くどうかは一瞬迷った.が,結局,見学料を払ってイヤホン・ガイドを借りた.これは,すばらしい体験だった.サン・ペトロニオを訪れた人は必ずやこの礼拝堂に入り,近くからジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコ画を観るべきだ.
身廊から礼拝堂を正面に見ると,壁面には多翼祭壇画の形をした彩色木彫祭壇があり,壁にはステンドグラスを嵌め込んだ2連窓(ビフォラ)があって,窓は尖頭アーチなので,ゴシックを感じさせる.
2連窓のステンドグラスは,それぞれ2列6面に諸聖人の姿が並び,列の上部は装飾的尖頭アーチ型のステンドグラス,さらに上にグローリア型の装飾のステンドグラスがあって,向かって左はガブリエル,右はマリアの「受胎告知」の絵柄になっている,
「受胎告知」の上,この尖頭アーチ型の壁の上部中央にある円形のステンドグラスには,司教の姿なので,多分聖ペトロニウスであろう人物が描かれており,これらのステンドグラスの周囲の壁面には,「聖ペトロニウスの物語」のフレスコ画が描かれている.
正面の壁に向かって左側には,「天国と地獄」(上部がマンドルラの中の「聖母戴冠」を中心とする「天国」で,下部が「地獄」),右側には「三王礼拝の物語」のフレスコ画が描かれている.ちなみに三王は老・壮・青の三世代だが,3人とも白人で人種表現はない.
素人目にはジョット風に見えるが,制作が1410年頃であれば,ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画からは既に100年ちょっと経っており,時代の流行は全く別だっただろう.トスカーナでは,スピネッロ・アレティーノがシエナのプッブリコ宮殿にフレスコ画「教皇アレクサンデル3世の生涯」を描いたのが1407年,ロレンツォ・モナコがフィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂のバルトリーニ=サリンベーニ礼拝堂にフレスコ画「聖母の物語」を描いたのは1420年頃だとすると,前者は最後のジョッテスキ,後者は国際ゴシックである.
ジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコ画が,その間(スピネッロの主要なフレスコ画は1390年代)の作品であるなら,特に古くさく感じられることはなかったと思う.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに解説があり,このフレスコ画の「ペトロニウスの出発」はスクロヴェーニの「エリザベト訪問」の影響を受けていると言っている.これは直接ではなく,同郷の先人であるトンマーゾ・ダ・モデナを通じてのことと推測されている.
アーニョロ・ガッディの影響を通じて国際ゴシック的傾向も見られるそうだが,根拠は示されていない.ただ,デリ・エスポスティの写真で見ると,「小石を口に入れて悔悛の情を示す騎士に許しを与えるペトロニウス」に描かれた聖人の顔は,ずっと修復中で,写真でしか見たことがないアーニョロのフレスコ画「真の十字架の物語」(フィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂)の登場人物たち(特に,父タッデーオと思われる人物の後ろに立つ白髯戴帽の老人)に似ているようにも思う.
同じジョッテスキでも父のタッデーオやマーゾ・ディ・バンコの絵よりも,柔らかな表情が描かれているところが国際ゴシック的な要素なのだろうか.
ジョヴァンニがフィレンツェに行って,アーニョロの作品を見た証拠はないのだから,時代の流行に敏感だったと考えて良いのだろうか.スピネッロはアーニョロと同世代だが,その影響は間違いなくある(こちらは間違いなく実作を見ているだろう)だろうから,スピネッロの絵が好きな私が,ジョヴァンニのフレスコ画を観て好感を持つのも,一応納得できる.
デリ・エスポスティに拠れば,多翼祭壇飾りの彩色と裾絵などはヤコポ・ディ・パオロが担当し,彼はステンド・グラスの下絵も描き(オリジナルは彼の下絵をも元にした無名の職人,一部はヤコポ・デ・パオロの様式を意識した19世紀のもの),フレスコ画も一部ジョヴァンニと共作したとのことだ.
ヤコポ・ディ・パオロの作品は,前回のボローニャ旅行でも国立絵画館で複数見ているが,特に作風を了解しているわけではない.しかし,祭壇飾りの裾絵は力量のある画家であったことを充分に感じさせる.
「7つの教会」
サン・ペトロニオ聖堂が面したマッジョーレ広場から雑踏を歩いて,サント・ステファノ教会群についた.全体としてサント・ステファノ聖堂(バジリカ)と称するが,同じ敷地に壁面を共有し合いながら建つ,複数の教会,礼拝堂,中庭などからなる複合体である.
「7つの教会」からなるとよく説明されるようだが,「7つ」について,なかなかはっきりとした説明が無い.それに言及しているウェブページを参照すると,
1 |
クローチェフィッソ(磔刑のキリスト)教会 |
キエーザ・デル・クローチェフィッソ
(「クローチフィッソ」とされることが多い) |
2 |
同教会内の地下教会 |
クリプタ |
3 |
聖墳墓教会 |
キエーザ・デル・サン・セポルクロ
(その他の資料ではバジリカ) |
4 |
ピラトの中庭 |
コルティーレ・ディ・ピラート |
5 |
「三位一体」もしくは「殉教」教会 |
キエーザ・ディ・サンティッシマ・トリニタ・
オ・ デルデル・ マルティリウム |
6 |
サンティ・ヴィターレ・エド・アグリコラ教会 |
キエーザ
(他の資料ではバジリカ) |
7 |
回廊(キオストロ)と博物館(包帯の礼拝堂) |
カッペッラ・デッラ・ベンダ
(他の資料ではキエーザ) |
と整理されている.これらは他の資料にももちろん言及されている.しかし,「7つの教会」というには,7は「キエーザ」と称されることもあるようなので良いとしても,4が気になるが一応,これで納得しておく(下記のボルギでは「第2の教会」セコンダ・キエーザと説明されている).
「7つの教会」と言う呼称は,今回最も依拠すべき資料,
Beatrice Borghi, In Viaggio verso la Terra Santa: La Basilica di Santo
Stefano in Bologna, Argelato (BO): Minerva Edizioni, 2010(以下,ボルギ)
にも言及されている(p.35).しかし,そこに示された名称の変遷を見ると,「7つの教会」の中でも特に重要と思われる1,3,6の3つの教会は,それぞれが時代によって名称が異なっていたようだ.
たとえば,キリスト教会としては最も古いと思われるサンティ・ヴィターレ・エ(ド)・アグリコラ教会は,1019年にはこの名称であったが,1141年にはサンティシドーロ(聖イシドルス),14世紀末にはサン・ピエトロ,19世紀にはサンティ・ピエトロ・エ・パオロという名称になり,1942年に最初の名前にもどったとされている.
敷地内の博物館にあるブックショップで購入した,
Abazzia di Santo Stefano: Sancta Jerusalem Bononiensis, Congregazione
Benedettina del Brasile, n.d.(以下,『案内書』)
には,19世紀以前のこの教会群の復原想像図が6時代にわけて掲載されているが,それに拠れば,当初は外壁と回廊で囲まれた,円形の屋根無し列柱神殿が,そして5世紀までには,殉教聖人ウィタリス(ウィーターリス)とアグリコラを記念する教会が既にあったようだ.
現在,この教会はサンティ・ヴィターレ・エ(ド)・アグリコラ聖堂(バジリカ)もしくは教会(キエーザ)と呼ばれているが,もちろん4世紀の創建当時のものではなく,8世紀の改修を経て,11世紀にロンバルディア・ロマネスク様式で本格的に再建され,それが現在の姿のもとになっている.がらんどうのような堂内で,古格に満ちた雰囲気はあるが,現役の教会とは言えないだろう.
「7つの教会」の中で,クローチフィッソ教会が明らかに現役の教会(ウェブページ等の写真を参考にすると,クリプタでもミサ等が行われるようだ)で,その他は,もしかしたら宗教行事はある(伊語版ウィキペディア)のかも知れないが,教会群全体が一種の博物館のようになっているように思われる.
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写真:
3つのファサードが並ぶ
サンティ・ヴィターレ・エ(ド)・
アグリコラ聖堂(バジリカ)
聖墳墓聖堂(バジリカ)
クローチフィッソ教会(キエーザ) |
サント・ステファノ教会群の拝観の順路は,ポルティコのある建物に囲まれたサント・ステファノ広場から,クローチフィッソ教会(上の写真の一番右)に入堂する.
クリプタの前から聖墳墓教会(写真中央)に入ると,その北側の壁の出口からサンティ・ヴィターレ・エド・アグリコラ聖堂(写真左)に行ける.東側のピラトの中庭の方に出ると,その先にはトリニタ教会がある.
ピラトの中庭の周辺には幾つかの礼拝堂があり,中庭からもトリニタ教会からも南側の回廊に出ることができる.回廊の東側に博物館とベンダ礼拝堂(もしくは教会)がある.
修道院の回廊
回廊はベネディクト会の修道院のもので,2層になっている.初層は俗人のため,上層は修道士たちの祈りと瞑想の場で,堅牢な初層と,繊細な上層の対照がおもしろいようだ.
修道院が現在も現役のようで,そのためかどうかはわかないが,上層は見学の対象とはなっていなかった.少なくとも私たちは見なかった.『案内書』に写真がある(p.26)が,細身の2重列柱に囲まれ,見事な木組み天井のある美しい空間だ.
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写真:
井戸のある,修道院の回廊 |
この回廊にある井戸は16世紀のもので新しい.見上げた先にある鐘楼は,13世紀の建造だが,19世紀の改築を経ている.回廊の初層は10世紀まで遡るプレロマネスク,上層はロマネスクとゴシックにまたがる12世紀の建造とのことだ.
13世紀後半にボローニャ大学に学んだダンテが,この回廊に通ったという言い伝えもあるらしい.
「ピラトの中庭」
鐘楼に近い向かって右手のアーチから修道院回廊を出ると,もう一つの開空間である「ピラトの中庭」に出る.ピラトによるイエスの裁判の席については,『ヨハネ福音書』19章13節に「敷石」(ヘブライ語でガバタ,ギリシア語でリトストロトス)という名で言及されているが,「ピラトの中庭」は,それを想起させるためにつけられた呼称とされる.
サント・ステファノ教会群自体を,「聖エルサレム」と総称することもあり,古くは9世紀末の記録にあるようだ.
サント・ステファノ教会群の成立過程には不明な点が多いが,ボローニャ(当時はボノニア)司教だった聖ペトロニウスが,殉教者ステパノを記念する教会をイシス礼拝所の上に創建しようとした時には,上述のように既に,イシス礼拝所の隣りにサンティ・ヴィターレ・エ(ド)・アグリコラ教会があったようだ.
名称の由来は,教会創建の際,巡礼に行ったエルサレムをボローニャに再現したいという聖ペトロニウスの思いにあるのかと想像したが,実際にはボローニャで中世に起こった,キリスト受難に思いを新たにする運動と関連してのことらしい.
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写真:
「ピラトの中庭」から見た
聖墳墓教会と
中庭の水槽 |
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この庭に残る大理石の水槽(ヴァスカ)は「ピラトのたらい(カティーノ)」と称されている(上の写真の向かって左手前).
これは,『マタイによる福音書』27章24節で,何とかイエスの処刑を回避しようとしてユダヤ人に相談したピラトは,群衆のイエス処刑の確固たる意思を目の前にして,「それ以上言っても無駄なばかりか,かえって騒動が起こりそうなのを見て,水を持って来させ,群衆の前で手を洗って言った.「この人の血について,わたしには責任がない.お前たちの問題だ」」(新共同訳)としたことを想い起こさせる.その後,ユダヤ人たちは,「その血の責任は,我々と子孫にある」と応えているので,あるいは,中世のユダヤ人迫害の時期と関連するかも知れない.
水槽自体は,8世紀前半のランゴバルド族がこの地方を支配していた時代のものらしく,この教会に残る遺産の中でも,これはかなり古いものと言うことになる.
周囲の柱廊はロンバルディア・ロマネスク様式で,聖墳墓教会に向かって左側の柱廊に1つのアーチ型の窓があり,そこにある飾り柱の上に雄鶏の彫刻がある.イエスが「鶏が鳴く前に,三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペテロに予言し(『マタイによる福音書』26章34節,他すべての福音書),その通りになる(同69-75節)ことを思い起こさせるもので,「聖ペテロの雄鶏」と言われており,14世紀の作品とのことだ.
聖ペトロニウス ボローニャの守護聖人ペトロニウス(サン・ペトローニオ)は,450年頃が没年とされるので,5世紀の人物と言って良いだろう.聖書をラテン語に訳したヒエロニュムスが420年,キリスト教神学を確立した思想家アウグスティヌスが430年に亡くなっているので,大きな意味では同時代人と言うことになる.
繰り返しなるが,ガラ・プラキディアの没年が450年で,西ローマ帝国の滅亡が476年である.激動の古代末期に,19年間ボローニャ(ラテン語ではボノニア)の司教を務めた.
同時代人であるリヨンの司教エウケリウスの手紙と,ヒエロニュムスの『著名人列伝』を増補したマルセイユの司祭ゲンナディウスの証言によって実在性は保証されている.それらに拠れば,彼は高徳の人で,ローマ貴族の家系に,帝国の高官を務めた同名の父のもとに生まれ,彼自身のエリートの経歴を歩みながらも,巡礼としてエルサレムを訪れたようだ.
432年にボローニャ司教に選任されると,サント・ステファノ教会を創建したとされるが,記録的な証拠はなく,サント・ステファノと言う名前だったかどうかもわからない.そこには異教の女神イシスの神殿があったとされる.もともとエジプトの神だが,救済を希求するローマの民衆がこれを信仰した.イシス信仰は,ミトラ信仰,マニ教,キリスト教とともに東方から来て,ローマ帝国を席巻した有力宗教だった.
聖墳墓教会
「ピラトの中庭」から見る聖墳墓教会の外壁(トップの写真)が美しい.建物全体の八角形の外観もよくわかる.
堂内は,同心円状に並ぶ列柱と外壁に支えられたがらんどうのようで,列柱上部の2連窓を配した壁の外側は周回廊になっている.中心には神殿型の構造物がある(下の写真).
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写真:
聖墳墓教会の内部にある
「神殿」 |
この教会についてボルギの整理するところによれば,イシス神殿のあった場所が5世紀にキリスト教の洗礼堂となり,1019年のサント・ステファノ教会,1520年にサン・セポルクロとなった(ただし,サント・セポルクロとある).とすれば,聖墳墓(サン・セポルクロ)と言う教会の呼称も11世紀以降と言うことになる.
堂内中央に聳え立っているのは,キリストが受難したゴルゴタの丘(イル・モンテ・カルヴァリオ)を意味し,付された階段もキリスト受難の登攀路を表しているとされる.ただし階段やその手すりの先端のライオンは19世紀制作のロマネスク風の付加物とのことだ.
写真の向かって左側の構築物の壁面に鷲(左)とライオン(右)の浮彫が施されている.写真では見えないが,そのさらに左の直角に交わる面には天使と牛の浮彫がある.もちろん4人の福音書記者の象徴物だ.
中央の演壇上の構築物の正面には左から「3人の敬虔な女性」,「イエスの復活を告げる天使」,「眠りこける3人の墓番の兵士」の浮彫が施されている.「天使」の浮彫の下の扉の奥にはペトロニウスの「墓」(セポルクロではなくトンバtomba,英語のtomb)があるとされる.
「イエスの復活」に関しては,4つの福音書はそれぞれ少しずつ違い,『マタイによる福音書』では,「マグダラのマリアともう一人のマリア」がイエスの墓を訪れると,地震が起こり,天使が現れ,番兵たちが恐ろしさのあまり死人のようになって,天使がイエスの復活を告げ,仲間たちに知らせるように命じ,2人が帰る途中にイエスが現れる.
『マルコによる福音書』では,「マグダラのマリア,ヤコブの母マリア,サロメ」の3人の女性が,イエスの遺体に香油を塗りに行くと,石棺の大きな蓋がすでに転がっていて,天使がイエスの復活を告げ,ペテロに報告するように命じる.しかし,女性たちは恐ろしさのあまり誰にも言えず,別の日にイエスがマグダラのマリアに現れ,彼女がそのことを仲間に告げるが誰も信じなかった.さらに2人の弟子に現れる,彼らが仲間に報告するが,この時も誰も信じなかった.11人の弟子が食事をしている時にイエスが現れ,宣教を命じた.このあたりの箇所は,テクストが乱れているようで,新共同訳だけみても,それは隠されていない.
『ルカによる福音書』では,「マグダラのマリア,ヨハナ,ヤコブの母マリア」,そして一緒にいた他の女性たちが香料を持って墓に行くと,「輝く衣を着た二人の人」(後に続く「エマオ」の食事の記事で,「天使」と言われている)がイエスの復活を告げ,女性たちが使徒たちに報告するが誰も信じなかった.その中でペテロが墓に行って,そこに遺体がなく,亜麻布だけが遺されているの確認したが,驚いて帰宅しただけだった.その後,名前を挙げられていない2人の弟子が,道中イエスと一緒になり,食事もともにしてその復活を認識した.
『ヨハネによる福音書』では,まずマグダラのマリアがイエスの墓に行くと,墓から石が取りのけられており,ペテロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」に告げ,2人は墓に行ったが,亜麻布が置かれているのを確認するのにとどまった(ここには「信じた」との語があるが,日本語で読んでも意味はわかりにくい).墓の外で泣いているマグダラのマリアに,白い衣を着た2人の天使が現れ,彼女が振り向くと,イエスが現れた. その後,有名な「我に触れるな」の記述があり,イエスはその復活を弟子たちのところに告げるように命じ,マグダラのマリアはその通りにした.
このように4つの福音書を比較しても,復活の目撃者の人数,天使の数,番兵たちの描写は必ずしも一定のものでないことはよくわかる.この教会の浮彫は,それらを総合して,最も流布していた伝承に基づいているのだろう.13世紀の作とされる.
フレスコ画
聖墳墓教会の天井には,ルッカの芸術家ベルリンギエーロ・ベルリンギエーリの息子マルコのフレスコ画が描かれていたらしいが,19世紀初頭にフィリッポ・ペドリーニにフレスコ画が描かれる際に除去された.ペドリーニのフレスコ画も今は残っていない(ボルギには多分,19世紀末のものであろう写真がある)が,マルコ・ベルリンギエーリの作品の断片はここの博物館に残っていて,写真は『案内書』にもボルギにも掲載されているが,私は見た記憶がない.
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写真:
ジュゼッペ・マリア・クレスピ
のフレスコ画
「聖ステファノ」(左端)
「ピラトの中庭」のコンソラ
ツィオーネ(慰め)礼拝堂 |
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「ピラトの中庭」の柱廊の,「聖ペテロの雄鶏」の彫刻のある窓とその対になっている窓に囲まれて,「コンソラツィオーネ礼拝堂が」あり,そこには「慰めの聖母」にフレスコ画断片の両脇に「聖ステファノ」と「聖ラウレンティウス」が描かれている.他の資料には情報がないが,ボルギの写真紹介には,ジュゼッペ=マリーア・クレスピ(英語版/伊語版ウィキペディア)の作品としている.
以前から注目している画家であり,彼のフレスコ画を見たことが無かったので,事前に知って,かなり期待していたが,傑作とは思えない.ボルギでも本文では一か所(p.41)しか触れられていないので,果たして彼の作品かどうかは確信がない.
堂内の天井には,やはりボローニャの画家バルトロメオ・チェージのフレスコ画が描かれており,この礼拝堂全体の装飾もチェージが担当したらしい.
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写真:
フレスコ画断片,礼拝堂に
見応えを感じたトリニタ教会
(別名カルヴァリオ
あるいはマルティリオ
あるいはクローチェ教会) |
トリニタ教会では,彩色木彫の「三王礼拝」(14世紀)が華やかで目を惹くが,床模様,列柱,フレスコ画の断片が注目に値する.人魚が彫り込まれたロマネスクの柱頭や,聖ペテロの彫刻なども興味深い.後者はどの資料(ボルギとウィキメディア・コモンズに写真)にも年代が示されていないが,前者はロマネスクの遺産であろう.
フレスコ画断片や「三王礼拝」の木彫はゴシックの作品だが,ボローニャのロマネスクを代表するとさせるサント・ステファノ教会群にあって,この教会が最もロマネスクを感じさせる.
石棺
ピラトの中庭にある複数の礼拝堂の中の一つに,石棺が置かれており,特に注目されるような浮彫があるわけではないが,蓋にもストリジラトゥーラの装飾が施されているのが珍しく思えた.
この礼拝堂はサンタ・ジュリアーナ礼拝堂と言うらしい.「聖ユリアナ」と言う聖人は複数いるが,どれもボローニャとの関係は見出されない.
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写真:
聖ユリアナの石棺
蓋までストリジラトゥーラ
「ピラトの中庭」 |
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石棺の上方にラテン語が記入された石版があり,それを読むと「ECCE CORPUS S IULIANE VIDUE」(単独のSの上に省略があることを示す「~」と言う記号)とある.これを,小文字も使って,学校で習う古典ラテン語の綴りに直すと「Ecce,
corpus sanctae Iulianae viduae」(見よ,寡婦である聖ユリアナの体なり)となるであろう.
ボルギはこのユリアナは誰かを考察しており(p.56),大体聖ペトロニウスの周辺の人物と結論づけられるようで,であれば5世紀の人物ということになるが,カトリック教会全体が公認している聖人ではないようだ.
この教会群には他にも幾つか興味深い石棺があるようで,特にサンティ・ヴィターレ・エ(ド)・アグリコラ教会にあるらしい両聖人のそれぞれの石棺は,ウィキメディア・コモンズなどの写真で見ると目を惹く浮彫が施されているが,今回は全く気づかなかった.
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写真:
クローチフィッソ教会の
突き当りにあるクリプタ
聖ヴィターレと聖アグリコラ
の聖遺物が祀られている |
日本語のウェブページでは,ブログ「遥かなシャルトル」の訪問記が詳細で,『案内書』などに掲載された平面図や各時代の想像復元図も示されていて,参考になった.
博物館
ベンダ礼拝堂(もしくは教会)は,聖母が鞭打たれて傷ついたイエスの治療に使ったとされる包帯(ベンダ)という聖遺物の伝承による命名らしいが,この礼拝堂(もしくは教会)にあたる部分は見ていない.
それとつながっている複数の部屋が博物館になっていて,主としてゴシック絵画が展示されている.
サン・ペトロニオ礼拝堂の「三王礼拝堂」で仕事をしたヤコポ・ディ・パオロの携帯用三翼祭壇画(「玉座の聖母子と聖人たちを中心に,「受胎告知」,「ピエタのキリスト」),クローチフィッソ教会の中央礼拝堂に掲げられた磔刑図の作者シモーネ・デ・クローチフィッシの「聖母子」と聖人たちを描いた複数の祭壇画,そして,ルネサンスの画家インノチェンツォ・ダ・イーモラ作とされる「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」が印象に残る.
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写真:
シモーネ・デ・クローチフィッシ作
「磔刑図」
クローチフィッソ教会中央礼拝堂 |
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その中で,見事に思えたのが,ミケーレ・ディ・マッテーオ(ミケーレ・ランベルティ)の「聖ペトロニウスと聖ステファノの生涯の場面」(下の写真)だった.細かく見ると傑作とは言えないかもしれないが,中央のペトロニウスは立派だ.
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写真:
ミケーレ・ディ・マッテーオ
「聖ペトロニウスと聖ステファノ
の生涯の場面」(15世紀)
博物館の展示作品 |
「ボローニャ派」
教会内に残るフレスコ画の断片はたとえ上手でなくても貴重な作品だと思うが,名のある画家としては,アンドレーア・ダ・ボローニャの「聖ウルスラと仲間たち」がトリニタ教会で見られた.特にすぐれた作品ではなく,無名の画家の未熟な作品と言われても納得するが,色が鮮やかに残っている.
アンドレーアはミケーレ・デ・クローチフィッシの周辺にいて,ポンポーザ修道院やアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の下部教会にあるサンタ・カテリーナ礼拝堂でも仕事した(伊語版ウィキペディア)ということなので,見られる作品はチェックしておく意味はあるだろう.
さらに,やはり教会内で観ることができた比較的美しいフレスコ画断片の「聖母子」には目を見はった.作者はリッポ・ディ・ダルマシオとのことだった.初めて町を歩いたボローニャで,サン・マルティーノ聖堂を訪ねた時,父ダルマシオ・スカンナベッキとともに出会うことができた画家だ.
17世紀に花咲く「ボローニャ派」の系譜をゴシック期から辿ってみたい誘惑に駆られるが,簡単に整理してみるにとどめる.ボローニャの国立絵画館その他で,見ることができる中世,ルネサンス.バロックの絵画と比較しながら,いつの日か,じっくりと考察してみたい.
最後のカルヴェール(現在はベルギーとは言え,アントワープはフランス語圏ではないので,たとえばデニス・カルフェールトと言うような発音になるのだろうか.「ドゥニ・カルヴェール」でグーグル検索すると「フィレンツェだより」が上位でヒットするので,多分発音が違うのだろう.イタリア語の呼称はディオニージオ・フィアンミンゴになるようだ)のもとで,ドメニキーノが修業を始めたらしいので,これでようやく17世紀の輝かしい「ボローニャ派」の系譜に辿り着くことになる.
ドメニキーノは1581年の生まれで,彼に先行するカッラッチ一族は,巨匠アンニーバレが1560年,その兄アゴスティーノが1557年,従兄のルドヴィーコが1555年の生まれで,最年長のルドヴィーコはプロスペーロ・フォンターナのもとで修業を始めたとのことだ.1582年にカッラッチ一族が開設した美術アカデミーが「ボローニャ派」繁栄の基礎をつくる.
グイド・レーニは1575年,フランチェスコ・アルバーニとジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ出身)は1582年,グエルチーノ(フェッラーラ県チェント出身)は1591年の生まれで,彼ら全員がローマで活躍して,17世紀前半のイタリア芸術の屋台骨となる.
彼らとヴィターレ・ダ・ボローニャを直接結び付けることは乱暴すぎるし,見当はずれだが,年代順に整理し,師弟関係をたどって行くと,中世,ルネサンス,バロックの芸術都市ボローニャの伝統が見えてくるように思える.
上記にまとめた画家たちの他に,15世紀のトンマーゾ・ガレッリ(画像つきのpdf論文がある),16世紀半ば近くまで活躍したフェッラーラ出身のミケーレ・コルテッリーニの作品も博物館で見ることができた.
ガレッリの作品は,テンペラの板絵で祭壇画もしくはその一部であろう,「修道院長」,「8人の聖人」,「ピエタのキリスト」の他に,この人の作である可能性が言及されただけだが「最後の晩餐」(油彩)が.いずれも小品なので,まとめて展示されていた.特に佳品とは思えないが,マルコ・ゾッポの同時代人で,その影響が見られるのだろうか.
前回,ボローニャに来たとき,マルコ・ゾッポの磔刑像を中心とする小特別展を見た.パドヴァのスクァルチョーネ工房の影響がボローニャにもあり,ボローニャのルネサンスを推進する力の一つになったと言う趣旨だったと理解している.トンマーゾ・ガレッリもその流れの中にいる一人と理解して良いのだろうか.
コルテッリーニの作品は,「聖母とヨハネに支えられた死せるキリスト」の両脇に「聖ペテロ」,「洗礼者ヨハネ」が並べられている.板にテンペラの祭壇画の一部であろうが,もともとこの組合せだったかはわからない.一見,中世の絵のように古くさい感じがしたが,ガロファロの追随者ということで,良く見るとルネサンスの画家であり,中央の絵はガロファロ,両脇の聖人はエルコレ・デイ・ロベルティの画風を想起させる.なるほど,フェッラーラの芸術山脈に連なる人に思える.
フェッラーラやモデナ,周辺の小都市や村々からの芸術家を取り込みながら,すばらしい成果を挙げて行った.最古の大学を生み,学問の興隆で知られるボローニャは,イタリアを代表する眩しいほどの芸術都市でもあると言う認識を新たにした.
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またいつの日か,今度はじっくり観たい
サント・ステフォノ教会群
ボローニャ
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