§北イタリアの旅 - その11 (ラヴェンナ後篇)
何度見ても(まだ3度目だが),ラヴェンナのモザイクは素晴しい.今更だが,ラヴェンナで見られるモザイクを整理してみる. |
ガラ・プラキディア霊廟
オルトドッシ(正統派)洗礼堂(ネオニアーノ洗礼堂)
アリアーニ(アリウス派)洗礼堂
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
サンタンドレーア礼拝堂(大司教博物館)
サン・ヴィターレ聖堂
他に,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会で床モザイクのパネル,石の絨毯博物館でビザンティン支配下の時代(6世紀)の邸宅の床モザイクが見られる.
以上のモザイクは,キリスト教がローマで優勢になって以後のもので,その中では,ガラ・プラキディア霊廟のモザイクが霊廟創建時の5世紀のものとすれば,最古のものであろう.
東西ローマ帝国の時代
ガラ・プラキディアは,最後の統一ローマ帝国の皇帝で,キリスト教を国教化したテオドシウス1世の娘だ.兄弟であるアルカディウスがコンスタンティノープルに,ホノリウスがミラノに宮廷を置いて,ローマ帝国が最終的に東西に分裂した(395年)時代を生きた.
以前も書いたが,彼女の最初の夫は,後に西ゴート族の王となったアタウルフで,アタウルフが暗殺された後に再婚した夫は,兄ホノリウスの共治皇帝となるコンスタンティウス(単独皇帝ではないが,皇帝としては3世)である.
彼との間にウァレンティニアヌスという息子とホノリアと言う娘を儲け,兄の死後,甥である東ローマ皇帝テオドシウス2世によって,ウァレンティニアヌス(皇帝としては3世)が西ローマ皇帝に指名(423年)される.
これらの王朝の継承関係は,一見,煩瑣で面倒なことに思えるが,ミラノからラヴェンナに宮廷を遷した(402年)ホノリウス以降,誰がラヴェンナの支配者であったかは,それぞれの時代の芸術と深く関係を持つように思われる.
ガラ・プラキディアの死が450年(約60歳),ウァレンティニアヌス3世が暗殺されて,テオドシウス1世から始まる「王朝」が断絶したのが455年,以後,「最後の」西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスまで20年間で9人の皇帝が,あるいは自分の力と軍隊の支持で即位し,あるいは異民族出身の将軍である実力者に擁立される.
というのは,やはり実力者であったロムルス・アウグストゥルスの父オレステスに追放されたユリウス・ネポス帝が480年まで生き,ゼノンは彼を正式な西ローマ皇帝と認め続けたものの,追放されて以後は西ローマの支配地域を実効支配することはなく,皇帝ではない支配者が,西の皇帝を戴くことなくイタリアを支配するようになった476年がやはり,「西ローマ滅亡」の年であろう.
伝説上の建国者ロムルス王で始まり,同名のロムルスで歴史を終えたと言葉遊び的に表現されることもある(モンタネッリ,塩野七生)が,2人のロムルスには,たとえ伝説や,名目上であっても「ローマ」に君臨したと言う以外の共通点はない.もちろん,そのようにまとめた作家たちも,それはよく分かった上でのことであろう.
テオドリックから,ユスティニアヌスへ
「イタリア王」となったオドアケルも,より大きな勢力を背景として,個人としても英雄的資質に恵まれた東ゴート族の王テオドリックに倒される(493年).高校の世界史の教科書などでは,東ゴート族がイタリアに「東ゴート王国」を建設したとされ,実質的にはその通りであろうが,オドアケルを打倒したテオドリックは,事実上「イタリア王」となった.
軍隊がこの称号を名乗らせ,最初はその承認を渋っていた東ローマの皇帝もこれを追認した,と言う経緯をたどったようだ.(松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』白水社,1994,p.88.また,訳者が付けた項目名以外に「イタリア王」と言う直接の言及はないが,エドワード・ギボン,朱牟田夏雄/中野好之(訳)『ローマ帝国衰亡史6』ちくま文庫,1996,p.025)
いずれにしても,最後の西ローマ皇帝たちと一人の「イタリア王」の後を受けて,5世紀末から6世紀前半のラヴェンナの支配者となったのは「大王」とも称されるテオドリックであった.
彼の墓廟がラヴェンナに残っている.また,サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂の南壁面西端のモザイクには,彼の宮殿が描かれ,向かい側の北壁面西端のモザイクにはクラッセの港が描かれている.
モザイクにで描かれた宮殿には,それ以前には全身像だったと思われる人物の痕跡(トップの写真では手)が見られる.具体的に宗教性を持った絵柄でなくても,その人物がテオドリックの関係者であれば,同じキリスト教でもニカイアの公会議以来異端とされていたアリウス派の信者であっただろう.
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写真:
右端の「テオドリックの宮殿」
から左端の天使に囲まれた
キリストまで
聖マルティヌスを先頭に
26人の聖人が並ぶモザイク |
テオドリックの死(528年)後,なおテオドリックの孫,娘,甥,孫娘の婿がラヴェンナに君臨するが,最後のウィティゲスが,東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が派遣した将軍ベリサリウスに降伏して,東ゴート族のラヴェンナ支配は終わった(540年).
なお,残党がポー川以北に勢力を保ち,東ゴート王国は残り,トティラのような英雄も出て,ナポリを陥落させ,ローマを攻囲したりするが,これもユスティニアヌスが派遣したナルセスに敗れ(552年か553年),最後の抵抗も鎮圧されて(561年か562年)東ゴート王国は消滅した.
ユスティニアヌスの在位は527年から565年,彼の最大の試練であった「ニカの乱」が532年で,この危機をテオドラ,ベリサリウス,ナルセスに支えられて乗り越えた後,彼の治世が輝かしいものになっていく.テオドリックの死後4年で,ユスティニアヌスの政権基盤が固まり,東ゴートを排除して,イタリア支配権を回復し,地中世界に短期間であっても覇権を確立していったことになる.
したがって,東ゴート王国の後に,ラヴェンナの支配者となったのは,直接の統治ではないが,ユスティニアヌスだったことになる.
この2つの時代の切り替わりが端的に現れているのが,ラヴェンナに残る2つの古代末期の洗礼堂かもしれない.大聖堂の敷地にあるネオニアーノ(オルトドッシ)洗礼堂(英語版/伊語版ウィキペディア)と,市内のスピリト・サント(聖霊)教会のすぐ側にあるアリアーニ礼拝堂の相違について考えてみる.
2つの洗礼堂
「端的に」と言ったが,実は,どれほど違っていて,特に,5世紀末から6世紀前半のテオドリックの支配下に造られたであろう後者の,どこにアリウス派の特徴が現れているのか,正直な所,良くわかっていない.
両者とも八角形の建築物で,円天井に「キリストの洗礼」を描いたメダイオンのモザイクを中心に,十二人の使徒たちのモザイクが同心円状にが並んでいる.ただし,どちらにも明らかにパウロと思われる人物がいるので,ユダを除いた十二使徒にパウロが加わったものと思われる.
メダイオンの中に描かれているのは,川に浸るイエス,洗礼を施すヨハネ,それを見守る老人の姿に擬人化されたヨルダン川で,天上から鳩が降下している点も共通している.
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写真:
ネオニアーノ(オルトドッシ)
洗礼堂の天井モザイク |
伊語版ウィキペディアと,
Deborah Mauskopf Deliyannis, Ravenna in Late Antiquity, Cambridge University
Press, 2010
を参考にしながら,後補も少なくないようなので,単純には比較できないであろうが,相違点を列挙してみる.
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ネオニアーノ洗礼堂 |
アリアーニ洗礼堂 |
キリスト |
有髯の大人 |
両性具有的な若者 |
洗礼者 |
イエスに対して右側 |
左側(両者とも洗礼を施す手は右手) |
洗礼者の持ち物 |
宝石をちりばめた十字架 |
先の曲がったただの杖 |
ヨルダン川の擬人像 |
半身(下半身は水中)で小さく |
全身で大きい |
ヨルダン川の持ち物 |
葦を左手,衣服を両手に持つ |
葦だけを右手に,体を拭く布は玉座に |
メダイオンの外周 |
使徒たちだけ |
使徒の他に十字架を置いた玉座 |
使徒たちの持ち物 |
全員が王冠を持つ |
ペテロは鍵,パウロは律法を捧げ持つ |
使徒たちの光輪 |
光輪は無い |
全員に光輪があり,色が一部異なる |
使徒たちの名 |
一人ひとり名前が記されている |
記されていない |
背景 |
洗礼の場面だけ金地(他は青) |
全て金地 |
ペテロとパウロ |
イエスの足元の位置にいる |
上部の玉座の両脇 |
王冠 |
ペテロとパウロを先頭に使徒たちは
イエスに捧げる |
ペテロとパウロを先頭に使徒たちは
玉座に捧げる |
イエスの向き |
確信はないが西向き |
確信はないが東向き |
他にも,幾つか気づくことはあるが,絵の巧拙や,洗礼場面と円環状の使徒たちの絵の外にある装飾(後者は全く残っていない)は措くことにする.前者では,使徒たちの円の外側にさらに大きな円があって,「空の玉座」と「祭壇」のモティーフが交互に4つずつ描かれている.
これらの違いが制作者の方針や注文主の嗜好を反映したものなのか,アタナシウス派(正統派)とアリウス派の教義上の違いに拠るものなのかを推測するのは,私の力を遥かに超えている.
後者で洗礼者がイエスの左にいるのはアリウス派の儀式を反映しているかも知れないし,使徒たちが行列して王冠を捧げるのがイエスではなく,十字架を置いた玉座であるのは,子なるキリストの神性を否定し,三位一体を受け容れないアリウス派の教義を反映しているかも知れない.
しかし,そうだとしたら,『マタイ伝』(28章18-20節)で,イエスが「わたしは天と地の一切の権能を預かっている.だから,あなたがたは行って,すべての民をわたしの弟子にしなさい.彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け,あなたがたに命じておいたことを守るように教えなさい」(新共同訳)とあり,これが言ってみれば入信の際の「洗礼」の根拠になっていることを,アリウス派はどう解釈したのか.もし,別の解釈があったのなら,なぜ洗礼堂を造り,「イエスの洗礼」の図像を高価なモザイクで描かせたのであろうか.
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写真:
キリストに洗礼を授ける
洗礼者ヨハネ
(上の写真の中央) |
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洗礼者ヨハネの顔は圧倒的にネアニアーノ洗礼堂の方(上の写真)が良い.アリアーニ洗礼堂のモザイクでも使徒たちの顔は洗練されているのに,洗礼者ヨハネの顔は,味わいはあるがマンガのようだ.
写真の頭に続く,毛衣をまとった洗礼者の堂々たる筋肉質の体躯も目を惹く.古拙感を漂わせるアリアーニ礼拝堂の洗礼場面も捨て難いが,ネアニアーノ洗礼堂の洗練されたモザイクの芸術性にはやはり心魅かれる.ただし,今回参照した日本語のウェブページで最も充実した紹介によると,上記の相違点の比較で言及した洗礼者が持っている十字架は19世紀に付加されたものとのことだ.
先に少し,もとはアリウス派の聖堂であったサンタポリナーレのモザイクが,ビザンチンの時代に入って改変されたことについて言及したが,同じように,テオドリック支配下の5世紀末から6世紀に制作されたアリアーニ洗礼堂のモザイクは,ビザンティンの支配下に入ってからの建てられたネアニアーノ洗礼堂に先行するものと思い込んでいた.
しかし,上記の日本語ウェブページに拠れば「キリストの洗礼」は4世紀のモザイクとのことだ.ほぼ同じ内容が,
小川熙『イタリア12小都市物語』里文出版,2007(以下,小川) |
に書かれていた.ウェブページの筆者と本の著者は同じ方で,経歴を見ると,美学・美術史を学んで,「藝術新潮」の編集者となり,その後イタリアで長く学び,澁澤龍雄のイタリア旅行の先達となり,美術に関する著書も複数ある.信頼すべきであろう.ただ,ウェブページにはある「4世紀の作品」と言う説明付きの写真は本には無い.
そこで,
ジョン・ラウデン,益田朋幸(訳)『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』岩波書店,2000(以下,ラウデン) |
が書架にあったのを思いだし,参照して見た.「イコノクラスム以前の美術」としてまとめられた諸章のうち第3章が「異教徒と銀行家 ラヴェンナと西方世界」となっており,おそらく日本語で読めるものでは群を抜いて参考になるであろう(ただし,p.106にガラ・プラキディアの2番目の夫コンスタンティウスを「簒奪者」としているのは,疑問に思う.ホノリウスが認めた共治皇帝だったはずだ.また,p.118にテオドリックの娘アマラスンタが536年まで生きて,直接ウィティゲスに権力委譲したというのも誤解であろうと思われる).
ネオニアーノ礼拝堂のモザイクに関して,ラウデンには,はっきりと458年頃という年代が示されており(pp.112-115),アリアーニ礼拝堂のモザイクはそれを参照しているとして,制作年代も500-525年頃とされている(pp.125-126).後者に関して,前者と比較して,
もっとも異なっているのは,使徒たちが行進する先頭に玉座の十字架描かれている点である.しかしこれとても,それほど目立ちはしないが初期モザイクにはよく採用される要素である.したがって図像学上,アリオス派(ママ)洗礼堂はその手本と同様に正統的であった,ということになろう.異端思想を抹殺するために,図像を改変する必要はなかったのだ.(p.125)
と断言している.
今まで漠然と,2つの洗礼堂は教義的な相違を反映していると思っていたし,なおかつ,先行していたのはアリアーニ洗礼堂のモザイクで,740年の東ゴート族のラヴェンナ明け渡し以後に改変を蒙ったと思い込んでいたので,これは自分の勘違いを正してくれる,大変心強く説得力のある記述に思える.
それでもなお,上に列挙した相違に関する疑問は残るが,これに関しては,ひとまずここまでとする.
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオーヴォのモザイクは,明らかに一部に大幅な改変が施されているが,これもラウデンは,「正統と異端をめぐる闘争」に言及し,説得的な推論(例えば,「アリオス派の諸聖人」や「テオドリクス(ママ)王と女王を先頭にした廷臣」の行列など)を展開しながら,概ね「変更された点から推測するに,もっとも受け入れがたいとされたのはアリオス派的要素ではなく,テオドリクス個人に関わる図像であったようだ」(p.125)としている.
テオドリックの支配と死の直後くらいの時代までに制作されたのが,両側の壁の最上部に描かれたモザイクで,『新約聖書』の「福音書」に取材し,北壁の西(ファサード裏)から東(後陣)に「ベテスダ池の奇蹟」から始まり「カナの婚礼」に終る「キリストの奇蹟」,南壁の東から西に「最後の晩餐」(下の写真)から「トマスの不信」に至る「キリストの受難と復活」とそれぞれ13の場面が展開し,両端とそれぞれの場面の間に,王冠を天蓋のようなもの(ラウデンに拠れば「貝型のニッチ」)が覆い,その上に中央には十字架,両脇に鳩という同じ絵柄のモザイクが配されている.
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写真:
モザイク最古の「最後の晩餐」
右側の7人の使徒が右端の
使徒(おそらくユダ)を見ている |
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上から2列目の窓のある列には,両壁面にそれぞれ16人の,旧約預言者たち,もしくは使徒,福音史家と思われる男性像が描かれているが,名前は書かれていないので,同定は難しい(ラウデンにも「不可能」とある.p.121).
窓の上部にはそれぞれ向かい合う一対の鳩のモザイクがあり,窓のあるアーチの内側にも華やかな装飾が施されいる.
ここまではテオドリック支配の時代からその直後までに造られたままであろうが,上から3列目(4列目もあったようだが,地盤沈下に対応して床面を上げたために破却されたらしい)には明らかに改変が施されている.
その端的な表れが,上述したように南壁西端のテオドリックの宮殿(PALATIVMの文字が記されている)に残る手で,そこにはテオドリックに関係する人物の姿が描かれていたことを示している.「宮殿」と北壁西端の「クラッセの港」は,ほぼ原形通り残してあるかも知れないが,ラウデンがアリウス派の聖人たちや,テオドリックの一族と廷臣たちの行列だった可能性を示唆しているその他の部分は,全く作り直されたようだ.
西から東に向かって南壁には,宮殿の後,ペテロとパウロに始まる25人の殉教聖人たちの行列(東→西)とその先頭に立つ聖マルティヌス(小川を含め「26人の殉教者」とする記述が多いが,マルティヌスは殉教者ではない.ラウデンは「男性聖者」)と言う構成の一群の男性たちが描かれ,その先(東端)には,両脇を各2人の天使に囲まれた「玉座の救世主」キリストが描かれている.
この教会はもともと,テオドリックの宮殿に近い場所に,アリウス派の聖堂として建堂されたが,540年の東ローマ帝国のラヴェンナ回復以後の561年頃に,司教アグネルスが,正統派(当時はまだローマ・カトリックと東方正教に分離していないので,便宜的に「正統派」としておく)の教会堂に改宗する際,正統派キリスト教信仰の布教に尽くした聖人トゥールのマルティヌスを記念する聖堂とした.
男性聖人たちの先頭で,玉座のキリストに王冠を捧げ,キリストの衣と同じ紫の布を身にまとっている聖マルティヌス像は,そのことを示している.ちなみに司教アグネルスは,歴代の司教たちの事績を整理して,ラヴェンナの古代末期から中世初期を知るために貴重な資料を残し,研究者たちに典拠を提供している9世紀の歴史家でラヴェンナ出身のアンドレアス・アグネルスとは別人である.
9世紀に,郊外にあって聖アポリナリスの聖遺物を護持していたサンタポリナーレ(・イン・クラッセ)聖堂から,この教会に聖遺物を移して(856年),サンタポリナーレ・ヌオーヴォ(新しい聖アポリナリス)聖堂と改称された.
北壁の上から三列目のモザイクは,クラッセ港に始まり,22人の女性聖人たちの行列は,やはり頭の上にそれぞれの名前が記されているが,どの人物も同じに見える.その先頭に「三王礼拝」(「三王」とされるのはずっと後世なので,正確ではないが,言いやすいのでこの名称を用いる)のモザイク(下の写真)があり,さらに2人ずつの天使を両脇に控えさせた「玉座の聖母子」が東端にある.この聖母の顔はビザンティン風に見える.
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写真:
三王礼拝のモザイク
背景に,たわわに実を
つけたナツメヤシの木 |
「三王礼拝」
サンティアゴ・デ・コンポステーラで教会巡りをした時,サン・フィス・デ・ソロビオ教会のファサードのタンパンに「三王礼拝」の浮彫があり,三王の1人の顔が黒く塗られているのを見た.
この浮彫は1316年の作品とのことだったが,三王の描かれ方が気になって,調べたところ,ヨー三王がロッパ,アフリカ,アジアからそれぞれ来たという伝説ができ,その中の1人が黒人に描かれるようになるのは,15世紀後半くらいから,との情報を得た(久保尋二『「マギの礼拝」図像研究 西洋美術のこころとかたち』すぐ書房,1990).
たまたま,その年の芸大のラテン語の授業に,中世美術の研究者Nさんが出席していていたので,「三王礼拝」における人種別表現や世代別表現の起源はいつなのだろうかとお尋ねした.
丁寧にお答えくださり,ウェブ上にある論文を紹介してくださった.この論文にも世代別表現の古い例として,このモザイクに言及し,写真も掲載している.この論文に拠れば,文献上,世代別三王が定着するのは8世紀くらいとのことで,論文の著者が520年頃とするラヴェンナのモザイクは圧倒的に古い作例ということになろうか.
ラウデンその他によって,古いモザイクにも近代の改変や付加が施されている例が少なくないことを知ったが,老人(白髪と白髯),若者(髯が無い),中年(茶色の髪と髯)という世代差をもって描かれているのが後世の改変でなければ,世代別三王の最古の例と言うことになるのだろうか.
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写真:
皇后テオドラのモザイク
衣装の裾に「三王礼拝」
サン・ヴィターレ聖堂 |
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ラヴェンナには,石棺の浮彫彫刻の「三王礼拝」が少なくとも2つ(サン・ヴィターレ聖堂の拝廊,大司教博物館)があるようだ.今回はどちらにも近くまで行きながら,あるいは見ていたかも知れないが,気づかなかった.
また,サン・ヴィターレの後陣側壁のモザイクで,テオドラの衣装の裾の装飾が,「三王礼拝」(上の写真)になっている.世代別表現がなされているどうか全く分からないが,フリュギア(プリュギア)帽を被っているように見えるのは共通で,向きが反対だが,三王の姿勢もサンタポリナーレ・ヌオーヴォのモザイクに似ているように思える.
サンタポリナーレ・ヌオーヴォのモザイクは,ラウデンに拠れば,創建時のままなら500年頃,アグネルスによる改変後であれば561年頃の制作で,サン・ヴィターレの献堂が547年なので,両者の中間の時代に制作された可能性が高いが,ラウデンは,
3人のマギを含む男女の殉教者の行列は,オリジナルの図像を改変したものであり,天使にはさまれた玉座のキリストと聖母子だけが当初のままである(p.123)
としているので,これが正しければ,サンタポリナーレ・ヌオーヴォの「三王礼拝」は,サン・ヴィターレのテオドラのモザイクの後ということになるだろうか.いずれにしても,はっきりとした記録のない作品の年代確定は難しく,様式等によって判定を下すのは,専門家の仕事としても相当の困難を伴うであろう.
私がビザンティン風と感じた聖母の顔は,ビザンティンの影響が濃厚な改変以前のものとされている.やはり素人の思い込みには警戒が必要だ.
多くのモザイクを見て感動もし,多少の勉強をして学ぶ所も少なくなかったが,自分が勉強を深めて行こうと思っている古代末期から中世初期に関して,視覚芸術の点からも知識を積み重ねて行きたいという思いを新たにした.
大聖堂と大司教博物館
ラヴェンナにもルネサンス以降の「地元の画家たち」はおり,彼らの作品も美術館等で見られるが,絵画史に名を残して,多くの人が知っているような有名な画家の作品は少ない.おそらく市立美術館のグエルチーノの「聖ロムアルドゥス(ロムアルド)」(聖人に関する伊語版/英語版ウィキペディアにグエルチーノ作品の写真)と,大聖堂に飾られたグイド・レーニの「マナを集めるユダヤの民の中のモーゼ」(下の写真)くらいであろう.
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写真:
グイド・レーニ
マナを集めるユダヤの民
の中のモーゼ
ドゥオーモ |
グエルチーノの作品は,最初にラヴェンナを訪れた時見たが,この時,大聖堂の堂内を比較的余裕を持って拝観しながら,レーニの作品は見ておらず,それが心残りだった.2回目の訪問はツァーで,ラヴェンナでは自由時間はなかったので大聖堂には行っていない.3度目の今回,自由時間は僅か半日だったが,小さな町なので,今までに多くのものを見ているから,今まで見ていない所や,前回までに見落としている物を中心に見学を敢行した.
大聖堂は,ホノリウス帝の時代に,「熊」と言う意味の名を持つ司教ウルスス(イタリア語ではオルソ)が献堂し,キリストの復活(アナスタシス)を記念した聖堂が原形とされる.司教の名にちなんで,古代末期創建の教会はバジリカ・ウルシアーナ(ウルスス創建の聖堂)と通称される.ネオニアーノ洗礼堂もこれに付随するものであった.
現在の大聖堂は1749年の献堂で新しいものだが,伊語版ウィキペディアに拠れば,やはり「イエスの復活」(リズッレツィオーネ・ディ・ジェズ)を記念するものであるようだ.「ラヴェンナ=チェルヴィア大司教区」という管区を担当する大司教が司式する教会(この場合「大司教座聖堂」と言い切って良いだろうか)である.
この大司教区を解説した伊語版ウィキペディアには,ラヴェンナの古代末期から現代に至るまでの司教たちの長いリストが掲載されていて,解説に拠れば「大司教」は,サン・ヴィターレ聖堂のモザイクでユスティニアヌスの側近くに描かれたマクシミアヌス(英語版/伊語版ウィキペディア)が任命された546年からのようだ.
彼は10年間その地位にあり,その間に,サン・ヴィターレ聖堂とサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の献堂が行われ(547年),大司教博物館の宝物となっている象牙製の「マクシミアヌスの司教座」が制作された.
政治的手腕で地位を獲得した宗教的人徳に乏しい人物との評価もあり,現在はクロアティアに属しているアドリア海対岸のプーラ(ギリシア語ではポライ,ラテン語ではポラ)出身であることが原因ではないであろうが,ラヴェンナ市民の支持が当初得られなかったらしい.現在は,ローマ・カトリック,東方正教のどちらでも聖人とされており,困難な時代にラヴェンナの繁栄を支え,芸術を開花させた功績は小さくはないだろう.
マクシミアヌスの後任が司教アグネルスで,彼が「大司教」だったかどうかは今の所情報がないが,マクシミアヌスの次の13年間,ラヴェンナの宗教と芸術を支えた.貴族出身の俗人で家庭を持っていたが,妻の死後,聖職者となった.彼を助祭に補任したのが,サン・ヴィターレ聖堂の後陣半穹窿天井の「宇宙の支配者キリスト」に教会堂を捧げている司教エクレシウスであった.
大聖堂には「キリストの僕である司教アグネルスがこの祭壇を作った」と最上部にラテン語の銘文が刻まれた通称「アグネルスの説教壇」(アンボーネ・デル・ヴェスコーヴォ・アニェッロ)が残っており,これは前々回も見たし,今回も比較的丁寧に見て写真にも収めた.
バジリカ・ウルシアーナは完全に破壊されたので,堂内も全く新しいが,それでも床の象嵌模様はもしかしたら古いかも知れないし,幾つか残っている石棺も興味深い.石棺については今回の旅行報告の最終回で言及する.
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写真:大司教(arcivescovile)博物館の入り口のライオン
番をしているのか 中の宝物は撮影禁止なので代わりに
(阿吽にはなっていない)
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大聖堂の「司教アグネルスの説教壇」と同タイプの説教壇が大司教博物館にある.サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会にあったものらしいが,博物館は写真厳禁なので,今回入手できた図録
Giovanni Gardini / Paola Novara, Le Collezioni del Museo Arcivescovile
di Ravenna, Museo Arcivescovile di Ravenna, 2011
に掲載された写真を見ることである程度,思い出すことができる.
「アグネルスの説教壇」の場合,側面から見ると中央に湾曲面があり,それを支えるように両端に柱状の面が付されている.模様は連続しており,柱状の面と湾曲面が連続して横6段に分かれ,その上部に碑銘が刻まれている.湾曲面は縦4列,柱状部分はそれぞれ1列で,計36面のパネルがある.基本的に各段は3列ずつ同方向に向かい合う同じ浅浮彫が施されているのはどちらにも共通している.
最上段は小羊,2段目は孔雀,3段目が鹿,4段目が鳩,5段目が家鴨,6段目が魚(伊語版ウィキペディアの説明は5段目と6段目が逆だが,誤解だろう)で,これは博物館の説教壇も良く似ている.
ただ「アグネルスの説教壇」がこれで尽きているのに対し,博物館の説教壇は,横は5段で,浅浮彫の動物は上から,小羊,鹿,孔雀,家鴨,魚のようで,両端の柱状部分の最上段がそれぞれ子羊ではなく,オランスの姿勢の人物が彫り込まれ,2段目の両端も鹿ではなく鳩になっていると思われる.人物は碑銘によってそれぞれ向かって左がヨハネ,右がパウロであることがわかる.
よく見ると博物館の説教壇にも最下段に上から数えて6段目があるが,湾曲部分には枠のみで浮彫はなく,柱状部分には枠も無い.堂内で見た時は,さほどとも思わなかったが,こうしてくらべて見ると,やはり「アグネルスの説教壇」の方が完成度が高く洗練されているように思われる.
博物館の説教壇のラテン語碑銘には,大司教マリニアヌスの時代に,アデオダトゥスという人物(プリームス・ストラートルとあるが「第1の馬丁」では意味がわからないので,何か特別の身分なのだと思う)が作った(厳密には「アグネルスの説教壇」の場合と同様,報酬を払って職人に「作らせた」)とある.
上記のラヴェンナ司教リストに拠れば,マリニアヌスの在職は595年から606年,アグネルスの在職は556年(もしくは557年)から569年(もしくは570年)までなので,碑銘を信じるなら,大聖堂の説教壇の方が30年ほど古い作品と言うことになる.
現場で説教壇に特に感銘を受けたわけではなく,時間とともに記憶が薄れていくが,博物館の図録の写真と解説(ラテン語の碑銘を活字化し,イタリア語の訳もつけいてる)を見て,明らかに似ているものを比較してみることに興味を覚えたのは,2つの洗礼堂のそれぞれの洗礼のモザイクの場合と同様である.
前回は見られず(修復か何かの理由で,少なくともその日は非公開だった),この博物館で今回どうしても見たかったのが,「大司教の礼拝堂」(カッペッラ・アルチヴェスコヴィーレ)もしくは「聖アンドレア礼拝堂」(カッペッラ・ディ・サンタンドレーア)(英語版/伊語版ウィキペディア)のモザイクであった.
伝承ではラヴェンナ司教であった有名な聖人で教会博士,クリュソロゴス(「黄金の言葉」と言う説教の巧みさを意味するであろう形容詞)という添え名を持つペトルス1世(433-450年在職)(英語版/伊語版ウィキペディア)が作ったとされるが,ラウデンに拠ればペトルス2世(494-519年在職)の時代のものとしている.
前者であれば,ガラ・プラキディアが生きた時代,後者であればテオドリックが君臨した時期である.ラヴェンナの支配者がアリウス派を信仰していた時代に,正統派の信仰を守った司教たちの礼拝堂であるが,そうした教義上のことよりも,この礼拝堂に残るモザイクの見事さを写真で見て心魅かれていた.
ロシアでイコンを見て,聖人像の肖像性について考えた時に,この礼拝堂のモザイクの情報に思い当たった.それもあって,今回はどうしても見たかったわけだが,実際に観てみると,おそらく相当な修復を経ているのだとは思うが,あまりの美しさに,肖像性の確認などどうでもよくなった.
交差ヴォールト天井の中心にイエス・キリストのギリシア語の頭文字のモノグラム(イオータΙとキーΧ)を記したメダイオンがあり,それを4人の天使が支え,手足を伸ばしたその天使たちを区切りにした4つスペースに福音書記者たちの象徴物が描かれている.その天井を4つのアーチが支え,そのアーチの奥は,入り口,その向かい側が後陣,左右にそれぞれ壁龕があり,入り口は奥行きがありバレル・ヴォールトの天井は,パターン化された鳥や花が散りばめられたモザイクで装飾されている.
天井の下の壁の上部には20行に及ぶ長短短六歩格のラテン詩(「光はここに生まれ,ここに囚われ,ここで自由の身となって支配する」と読める詩句に始まるが,全文は今の所,どこにも掲載されたいない)が,青字に金文字で描かれ,天井の下を通って外に出る際に見上げるリュネットには,「私は道であり,真理であり,命である」と『ヨハネによる福音書』の一節をラテン語で記した本を左手に持ち,肩で支える十字架を下部を右手に持った若い戦士の姿のキリストが右足でライオンを,左足で蛇を踏みしめている図像がやはりモザイクになっている.
後陣の半穹窿天井には青地に金色の十字架と金色と白の星々が描かれ,左右の壁龕にはモザイクはなく,それぞれのリュネットには16世紀の地元の実力派画家ルーカ・ロンギのフレスコ画「キリスト昇天」と「キリスト降架」が描かれていて,前者の下部には2連の明かり窓がある.
これらの中で,最も注目に値するのが,アーチの内側に描かれた多数のメダイオンの中のキリストと聖人たちの肖像である.どの聖人も個性的には描かれているが,名前が書かれていなければ誰が誰だかわからない.しかし,これらの中で,ペテロとパウロは際立って特徴的で,多くの人がそれと認識するであろう.
ラヴェンナで見られる多くのペテロ像,パウロ像が,前者は短く整えた白髪と髯,後者は後退した額と長い顔に茶色の髯を特徴としている.これらが彼らの本当の肖像を反映しているのか,ある時確立されたイメージが後世に引き継がれていったのか,おそらく後者であろうとは思いつつも,誰にも結論は出せないだろう.これ以上,話を長くしないために,ここでは踏み込まない.
しかし,この礼拝堂の圧倒的な美しさに比べれば,そんなことは些末な問題に思える.観ることができて本当に良かった.
7年ぶりとなると,入館システムも変わったようで,単独券はなく,洗礼堂やその他の建築遺産とのコンバインド・チケットになっており,受付の女性は,私たちがツァーで他の見どころを既に見たことを知ると,その際のガイドは誰か覚えているかと問うてきた.
訥々とした英語に,時折愛嬌で達者な日本語を交える白髪の小柄な老ガイドの名を,私の貧しいイタリア体験で初めて聞いたエルマンノ(英語ではハーマン,フランス語ではエルマン,ドイツ語ではある世代以上の日本人の多くが知っている作家ヘッセのファーストネームであるヘルマン)と覚えていた.それを告げると,受付の女性はガイド協会(だろう,多分)に電話して,その人物が確かにその日,私たちの告げた人数の日本人の団体を案内して,複数の教会や洗礼堂を拝観させたことを確認して,私たちがコンバインド・チケットを持っているものとして,入館させてくれた.
もともと,割高になってもチケットを購入して入館するつもりだったので,意表をつかれた感じではあったが,私のラヴェンナに対する好感度がさらに高まったことは言うまでもない.私たち個人に対しても,名前も覚えてしまうほど,熱弁をふるって様々なことを教えてくれたエルマンノ翁と受付の女性に心から感謝したい.
石の絨毯邸博物館
見ておくべきところとして挙げたもう一つの課題が「石の絨毯邸博物館」(ドムス・デイ・タッペ―ティ・ディ・ピエトラ)であった.これも市街地が小さな街なので,短い自由時間で簡単に歩いて辿り着くことができた.
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写真:
石の絨毯邸博物館 |
外観は新しいが創建は古いサンテウフェミア(聖エウフェミア)教会がこの博物館の入口になっている.教会の中を通って,ブックショップを兼ねる券売所に向かい,見学料を払って階段を降りると,見事な床モザイクが見られる.概ね抽象的に図案化された植物文様にも思えるが,円,楕円,正方形がパターン化されているようでもあり,特に人文主義的な知識を必要とするものではない.
ただ,4人の男性が手を繋いで,輪になって踊っている傍らで,若者が葦笛を吹いているパネルは,花冠や頭巾に意味があるとすれば,読み取ってみたい誘惑にかられる.ブックショップで買った英訳版の案内書と,渡されたイタリア語のパンフレットには「季節の精たちの舞踏」(「精」はラテン語のゲニウス,イタリア語のジェーニオ,英語のジーニアスなので,もともと男性名詞.「地霊」や「精霊」の意味で使われる)とある.
また,杖によりかかって立つ若者の傍らに2頭の羊と2本の樹があり,樹上にはそれぞれ鳩がとまっているいるのは,やはり「良き羊飼い」であろう.こちらはキリスト教的な図像ということになる.
写真撮影は禁止だったので,それぞれ伊語版ウィキペディアの写真にリンクしておく.
良いものを見た.当初,キリスト教以前のローマ帝政期か,古ければ共和政時代のものと思っていたので,思い込みも解消することができた.
他には,サン・ヴィターレ聖堂に隣接していたベネディクト会修道院を利用した国立博物館(伊語版ウィキペディア/案内ページ)をまだ訪ねていないが,次の機会には是非訪れたい.
それにしても,2007年からすでに3回もラヴェンナを訪れることができた.確かに,学問的関心を寄せるローマ末期の宮廷詩人がそこにいた可能性はあって,自分の専門と多少とも関係はあるわけだが,クラウディアヌスがいた痕跡は全く残っていない.
それでもラヴェンナに行きたいのは,この街の持っている静謐だが,秘めたるエネルギーを感じさせる空気に魅せらているからだろう.
ホノリウスがミラノからラヴェンナに宮廷を遷したのが401年,有力な保護者であったスティリコの404年以降の業績が,彼の作品で全く言及されていないことから,404年に亡くなったと推測されている.それでも,それまでの3年間は何らかの形でラヴェンナにいた可能性は高いと考えるべきだろう.
ヴァンダル族の血をひいているが,帝国の支柱であった将軍スティリコが,愚帝ホノリウスに殺され,西ローマが滅亡へと向かうのが408年,現在見ることができるラヴェンナの文化遺産は殆んどが,それから10年以上が経ってからのものだが,やはりラヴェンナには魅かれ続けるだろう.
鐘楼
「石の絨毯邸博物館」のあるサンテウフェミア教会は全く新しい外観だが,鐘楼はロマネスクを感じさせる煉瓦外壁の四角柱型であった.近傍のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会は,上述した大司教博物館の説教壇があった由緒ある教会と思われるが,外観はサンテウフェミアのように明るい外壁の新しい建物だ.しかし,鐘楼は煉瓦外壁のシリンダー型である.
下の写真を見てもらっても,向かって左からサンタポリナーレ・ヌオーヴォ,大聖堂,サン・ヴィターレの鐘楼が円筒形のものが多いと気づくだろう.サン・ヴィターレの鐘楼には丸屋根があり,「ラヴェンナ型」と言うのは躊躇される.10世紀の建造ということで思ったよりも古いが,1688年の地震の後,大規模な修復が施されているらしい.

尖った丸屋根もさることながら,左2つの鐘楼では下から,ビフォラ(2連窓),トリフォラ(3連窓)を使って上部の重量を軽くする工夫がなされていて,サン・ヴィターレの鐘楼にはこれがない.サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの鐘楼にはトリフォラはないが,小規模な割に1層だけだがビフォラがあり,シリンダー型と相俟って,「ラヴェンナ型」を思わせる.
郊外のサンタポリナーレ・イン・クラッセの鐘楼は上4層が,下からビフォラ,トリフォラ,トリフォラ,トリフォラになっていて,シリンダー型であり,やはり「ラヴェンナ型」であろう.上の写真でもわかるように,同じトリフォラでも上層ほど窓が大きい.サンタポリナーレ・イン・クラッセも同様である.
シリンダー型ばかりではなく,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会とサン・フランチェスコ聖堂の鐘楼は,四角柱で下から,ビフォラ,トリフォラとなっていく.サン・フランチェスコの鐘楼は最後の3層が下から,ビフォラ,トリフォラ,クァドリフォラ(4連窓)になっており,ローマでよく見たタイプに似ているが,サン・ヴィターレの鐘楼よりは,煉瓦の外壁がより「ラヴェンナ型」を思わせる.
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの鐘楼は,煉瓦外壁で,ビフォラ,トリフォラのある四角柱の本体に三角錐の屋根がついているので,ポンポーザと同じロマネスク・ロンバルディア型であろうか.
いずれにしても,私たちがラヴェンナと言う名から想い起こす鐘楼は,シリンダー型で煉瓦外壁で,下から上にビフォラ,トリフォラとなっていくタイプであろう.鐘楼(カンパニーレ)にも地域的個性を感じさせ,その地域内でもまた多様であるところがイタリアらしい.
イタリア人の故郷自慢をカンパニリズモと言うが,故郷の町や村の鐘楼(カンパニーレ)の音が最も良い音だと自慢するところから来ていると聞いたことがある.俗説かも知れないが,音もさることながら,多様だが地方的特性を持つ鐘楼に愛着を感じるのは理解できるような気がする.
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サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会
3度目にして漸く実現した拝観
ラヴェンナ
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