§北イタリアの旅 - その13 (モデナ)
古代都市ムティナは,アエミリア街道の要衝で,カエサル暗殺後の元老院派のブルトゥス,カエサル派のアントニウスの戦いで知られるが,現在もエミリア・ロマーニャ州の中核都市の一つで,今はモデナ(モーデナ)(英語版/伊語版ウィキペディア)と言う. |
モデナの大聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)は是非一度訪れて見たかった.
フィレンツェ滞在中の2007年9月,ヴェローナへ小旅行に出た際,マントヴァから戻ったヴェローナの宿のTVで,不世出のテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの死を知った.葬儀は彼の故郷モデナの大聖堂で行われたが,それをフィレンツェの寓居のTVで見た.
TV中継のためもあってか堂内は煌々として,白く明るい空間に思え,やはり白い外観は以前から写真で見て知っていたので,偉大な芸術家の死への悲しみとは別に,モデナをいつの日か訪れたいと言う気持ちが募った.
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写真:
モデナもポルティコの
多い街 |
今回,全く予習できなかった他の諸都市に比べて,モデナ大聖堂に関しては,少し予習もし,ロマネスクの芸術家ヴィリジェルモ親方の名も覚えたので,知識と期待が相乗効果を生んでいた.
拝観の感想を率直に言えば,モデナ大聖堂の外観はすばらしいが,堂内はパヴァロッティの葬儀の時はやはり考え得る限りの照明が使用されていたのであろう,実際はひたすら暗く,期待したほど芸術作品も多くないように思えた.
しかし,それはこちらの勝手な思い込みが生んだ結果であり,モデナ大聖堂が素晴らしいものとして客観的な評価を得ていることは,世界遺産に登録されていることからも明白だろう.
ラヴェンナの回で触れた,小川熙『イタリア12小都市物語』(以下,小川)でも,モデナは3番目に取りあげられているが,多くの日本人は私も含めてモデナに関して何を知っているわけでもなく,普段はその名が口にのぼることも少ないだろう.小川による説明は充実しており,十全以上だと思うので,これを参考にしながら,あくまでも自分の目で見た感想を述べてみたい.
モデナという都市
バスを降りて,モデナの街を少し歩いた.エステ家(英語版/伊語版ウィキペディア)がフェッラーラから移って来て,公爵領の首都となったことを証しする公爵宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)(英語版/伊語版ウィキペディア)も,外観のみだが遠くから見学したが,17世紀から建設が始まったので,最も古い要素でもバロックであり,魅力に乏しい.
機会があったら,是非訪れたいエステ美術館(ガレリア・エステンセ)(英語版/伊語版ウィキペディア)は今回は予定になかった.ここを実際に訪れた小川は失望を隠していないが,私はコスメ・トゥーラが1点あるだけでも是非行きたい.
モデナと言えば,自動車産業(フェッラーリ,ランボルギーニなど)や,バルサミコ酢といった特産品があって,18万もの人口が維持できているのであろう.日本の県庁所在地でも20万を切るところは五指に満たないくらいあるが,それでも18万以下の所はないようである.もちろん,市町村合併を繰り返し,面積も本来の市域よりだいぶ広くなった日本の都市とは単純に比べられないが,いずれにしてもモデナは大都市ではない.
ちなみに,モデナ県の県庁所在地でもあるコムーネとしてのモデナの人口密度は1㎢あたり約1000人(伊語版ウィキペディア,2014年8月30日参照,以下人口密度の参照日時同じ),人口は30万超の盛岡市の人口密度が約340人(日本語版ウィキペディア)なので,「都市」としての充実度はやはりイタリアの都市の方が高いだろう.
人口25万人のヴェローナは,人口密度1250人超(伊語版ウィキペディア)で,規模としてはモデナより少し大きなだけだ.それでも,ロマネスクのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂,カステルヴェッキオ美術館という大きな見どころに留まらず,大聖堂,サン・フェルモ聖堂,サンタナスタージア聖堂をはじめ,他にも魅力的な見どころが幾つもある.
それに比してモデナはどうだろうか.伊語版ウィキペディアの整理参照ページ「モデナの教会」には,ごく少数の教会しか挙げられておらず,そこにリンクされている個々の教会の紹介ページを見ても,あまり魅力的とは思えない.
中小都市が魅力的なイタリアにあって,モデナが人を惹きつける力の源泉は,1にも2にも大聖堂であるように思われる.
モデナ大聖堂
現在の大聖堂の献堂は1184年だが,着工は1099年,完成は1319年とされる(伊語版ウィキペディア).
設計はコモ湖周辺出身の建築家ランフランコ(17世紀の画家ジョヴァンニ・ランフランコとはもちろん全く別人)(英語版/伊語版ウィキペディア),教会外側に多く残る傑作彫刻の制作者はヴィリジェルモ親方(英語版/伊語版ウィキペディア)とされ,いずれも12世紀初頭に大聖堂の建築と装飾に関わったロマネスクの芸術家である.
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写真:
モデナ大聖堂
ファサード |
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ファサードに5つもバラ窓を持つウーディネの大聖堂を見て「一つ目小僧」のようだとの感想を持ったが,モデナ大聖堂はアンバランスなほど大きなバラ窓が1つだけあり,まさに「一つ目小僧」のように思えた.
バラ窓は13世紀の追加で,ゴシックの時代に属するものであり,イタリアを代表するロマネスク建築でありながら,少なくとも私にはゴシックのイメージを抱かせるのは,多分,このバラ窓のせいだろう.
もっとも,バラ窓の起源(日本語版ウィキペディア「バラ窓」も簡潔で参考になる)は諸説あるが,ロマネスクの時代には既にあって,ゴシックの時代にファサードの装飾として盛んに造られた.
モデナ大聖堂に関する参考書としては,ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂に関して参考にした本と同じシリーズ(「イタリアの驚異」Mirabilia
Italiae)で,編著者も同じ,
Gianfranco Malafarina, ed., Il Duomo di Modena / The Cathedral of Modena,
Modena: Franco Cosimo Parini, 2003(以下,マラファリーナ)
があり,そこには「カンピオーネ出身の職人に拠るロマネスクのバラ窓」と言う説明もある(マラファリーナ,p.121)
これだけ立派なバラ窓だと,ステンドグラスを期待させるが,堂内から見た時の記憶がほとんどなく,ウィキメディア・コモンズ等で写真を見ても,色鮮やかなステンドグラスはないようだった.しかし,マラファリーナの写真を見ると,装飾十字架状にステンドグラスが入れられていて,上は「父なる神」,下に「聖ゲミニアヌス」,向かって左右に天使と聖母で「受胎告知」が描かれている.
この彩色のガラス絵と装飾は,15世紀のモデナ出身のジョヴァンニ・ディ・ピエロ(ピエトロ)・ファッロッピに拠るとあった(マラファリーナ,pp.87, 121).この芸術家はボローニャのサン・ペトロニオ聖堂で感銘を受けたフレスコ画を描いたジョヴァンニ・ダ・モデナを指す(伊語版ウィキペディア)ようだ.オペラ・グラスを持参していたので,ステンドグラスもしっかり見れば良かった.
堂内で記憶に残る芸術作品と言えば,フェッラーラ出身の巨匠ドッソ・ドッシの「聖セバスティアヌスの殉教」,14世紀モデナの地元の画家と言って良いのだろうかセラフィーノ・デ・セラフィーニ作の多翼祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」,やはりフィレンツェの芸術家ドッチョ・ディ・アゴスティーノの彫刻「聖ゲミニアヌス」(モデナの守護聖人サン・ジェミニアーノ)(聖人について:英語版/伊語版ウィキペディア)が言及されるべきであろうか.
絵以外では,ヴェローナのサンタナスタージア聖堂にもその作品があったミケーレ・ダ・フィレンツェ(ウィキペディアに情報がないのでヴェローナの回と同様,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにリンクしたが,別のウェブページの情報が詳しい)のテラコッタによる多翼祭壇飾り「キリスト磔刑と聖母子,聖人たち」が見られた.
ランフランコ,ヴィリジェルモはコモ湖周辺の出身である可能性が高い.この地域から出た匠たちは「コモ周辺の親方たち」(マエストリ・コマチーニ)と称されるようであるが,モデナ大聖堂で彼らの仕事を引き継いだのは,アンセルモ・ダ・カンピオーネ,エンリーコ・ダ・カンピオーネ,アッリーゴ・ダ・カンピオーネなど「カンピオーネ出身の親方たち」(マエストリ・カンピオネージ)と総称される,現在はスイス領になっているルガーノ湖周辺のイタリア飛び地領カンピオーネ出身の工人集団である.
説教壇や内陣の仕切り壁の「最後の晩餐」など,彼らによる興味深い作品も少なくない.その作品も注目されるべきであろう.堂内は撮影禁止なので,紹介写真はない.リンクしているウェブページの写真を参照されたい.
大聖堂建設のパワー
宮下孝晴『イタリア美術鑑賞紀行 1 ヴェネツィア・ミラノ編』(美術出版社,1993)にはモデナは取り上げられていないが,
金沢百枝/小澤実『イタリア古寺巡礼 ミラノ→ヴェネツィア』新潮社,2010(以下,美術に関しては金沢,歴史に関しては小澤,写真など全体に言及する場合は金沢/小澤)
池田健二『イタリア・ロマネスクへの旅』(中公新書)中央公論新社,2009(以下,池田)
にはモデナ大聖堂が比較的詳細に取りあげられている.
金沢,小澤,池田ともに強調しているのは,この聖堂の建設の推進者は当時形成途上にあったコムーネと言う自治体の構成員であったモデナの市民たちだったと言うことである.
現在残っている,古代末期,中世初期,プレロマネスクの教会建築に際して,音頭を取り,資金を供出し,職人を雇ったのは一体誰だっただろうか. |
教会についての聖書の記述を見てみると,新約聖書の中で,イエスがユダヤ教の集会所で旧約聖書(イザヤ書)を朗読する場面(たとえば『ルカによる福音書』4章など)では,集会所はギリシア語原文ではシュナゴーゲー(ラテン語訳もほぼそのままだが,ラテン語形のシュナゴーガ)となっていて,新共同訳では「会堂」と訳されている.ユダヤ教の「教会」を意味するシナゴーグの語源である.
一方,同じくルカが書いたとされる『使徒言行録』では,後に回心してキリスト教を広める功労者となるパウロが,当時はサウロという名でキリスト教徒を迫害していたことを記して,「一方,サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし,男女を問わず引き出して牢へと送っていた」(3章3節)とある.ここで「教会」と訳されているギリシア語原文はエクレシア(エックレーシアー)(ラテン語訳もほぼそのままだが,ラテン語形のエックレーシア)である.
この語は,本来は「集会」とそこに集まる人々を指すと思われるが,訳文からもわかるように上記の引用では明らかにキリスト教徒が集まっている場所を示している.この語からイタリア語のキエーザ,フランス語のエグリーズが派生した(英語のチャーチ,ドイツ語のキルヒェは「主の」を意味する別のギリシア語の形容詞キューリアコスから).
キリスト教が非公認だった時代に,私宅の一角に同信の人たちが集まったのが,後世のキリスト教会堂の始まりだったであろう.その痕跡を残す最古の例と思われる遺跡が,現在はシリアに属していて,20世紀に重要な考古学的発見があったので,「砂漠の中のポンペイ」と称されるドゥラ=エウロポスに残っている.
現存する最古のシナゴーグも,この近くで見つかっているし,兵士に信者の多いミトラ教の礼拝所も発見されているので,パルティア帝国とせめぎ合っていたローマ帝国の東の辺境にあって,重要な軍事拠点であったことが察せられる.
これらの,最古のシナゴーグもキリスト教会も,3世紀前半には既に存在していた.
このキリスト教会遺跡では,最古の例であろう「良き羊飼い」として図像化されたキリストを始めとするフレスコ画も見つかっている.おそらく一般民家だった中庭のある2階建ての建物に,明らかに洗礼堂(独立していないので洗礼室というべきであろうか)がある1階部分が教会堂として,2階部分は住居として使われていたと想像される(英語版ウィキペディアと尚樹啓太郎『教会堂の成立 キリスト教世界の歴史的記念碑序説』東海大学出版会,1968,pp.29-32).
おそらくローマでも,非公認の時代にはそのような形で教会が維持されたであろう.
ところが,313年にキリスト教が公認され,皇帝が率先して多くの教会堂を建設する時代が到来し,エルサレム,コンスタンティノープルなど帝国諸都市で,教会堂建設が相次いだ.
建築様式に関して注目すべきは,ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂,また聖ペテロ殉教の地に建てられたヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂など,バジリカ様式(英語版/伊語版ウィキペディア)だったであろう諸教会である.
長方形の建物の奥に半円形の「後陣」(アプシス/アプス)(英語版/伊語版ウィキペディア)があるバジリカ形式は,ローマで共和政後期から帝政期にかけて多用された建築形式で,さらに後世バジリカという名称は,教皇によって何らかの特権を与えられた重要な教会堂に用いられるようになった(尚樹,前掲書,p.68).
しかし,今は,一体誰が教会を建設する際に主体的役割を果たしたかという点に絞って考えてみたい.この頃は,皇帝であり,皇帝に支持された教皇などの聖職者であったことは重要であろう.また,ラヴェンナのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタはガラ・プラキディア,サンタポリナーレ・ヌオーヴォの原型はテオドリックといった権力者もしくはその周辺人物が創建に関わり,その他のラヴェンナの古代末期の教会建設は,当時有力な金融業者の資金が支えたことが知られている.
前回,ボローニャのサント・ステファノ教会群の報告のために,その歴史を僅かながら勉強し,名称等の変遷について知識を得た際に,頭をよぎったのは,それぞれの時代に,それらの教会を誰が創建,改築,再建し,支えたのであろうかという疑問だった.
この問題は,あらゆる教会に関してあてはまる疑問だが,今すぐに,一定の結論を出すことはできない. |
敢えて大雑把に言うと,初めは個人の住居に間借りしていたにすぎない教会は,権力と結びつくことによって,権力者,それと深い関係を持つ聖職者,後に修道会が力を持つようになると修道院によって,大きな伽藍へと発展した.
モデナ大聖堂のように,在俗の非権力者である市民たちが教会建設の主導権を握るためには,市民たちが経済力を持つ「都市」の発達が必須であったろうと思われる.モデナ大聖堂は,市民たちが建設に関わる都市教会の初期の実例と考えて良いのだろう.
シエナの大聖堂,フィレンツェの大聖堂の着工は,13世紀,特に後者はまもなく14世紀になる頃である.ピサ大聖堂の建設開始はモデナに先行しているようだが,それでもやはり11世紀半ば過ぎに都市としての実力をつけ始めた頃である.
イタリアのロマネスク
イタリアの有名なロマネスク教会は,比較的地方の中心都市にあることが多いように思われる.ミラノ(サンタンブロージョ),パヴィア(サン・ミケーレ),パルマ(大聖堂),モデナ(大聖堂),ヴェローナ(サン・ゼーノ・マッジョーレ),ピサ(大聖堂),ルッカ(大聖堂),フィレンツェ(サン・ミニアート・アル・モンテ),アレッツォ(サンタ・マリーア・デッラ・ピエーヴェ)などはそのような例と言えよう.
一方,
辻本敬子/ダーリング益代『図説 ロマネスクの教会堂』河出書房新社,2003 |
で取り上げられているフランスの諸教会名とその位置を示した地図を見ると,大都市の教会は皆無であり,取り上げなかった教会の位置を示した地図を見ても,「都市」と言えるのは,ディジョン,アルル,トゥールーズのみと言えよう.これらの場合も,サンティアゴ巡礼の巡礼路と深い関係を持っている可能性がある.
池田には同じ中公新書に『フランス・ロマネスクへの旅』,『スペイン・ロマネスク』があるが,それらを見ても,ロマネスクの教会はイタリア以外では,サンティアゴ巡礼とのつながりを想起させる. 池田のスペイン編では,オビエド,レオン,サンティアゴ・デ・コンポステーラと言った都市が取りあげられているが,オビエド以外は巡礼路にあり,オビエドで取り上げられた教会は,国王の礼拝堂だったプレロマネスクの教会である.
イタリアにもサンティアゴ巡礼に向かう人々はいたし,ローマなどへの巡礼もあった.
フィレンツェのサン・レミージョ教会は,ローマに巡礼に向かうフランス人に便宜を提供したとされ,現存する教会は14世紀に再建されたゴシックの教会だが,前身はロマネスクの時代にも存在したようだ.
現在,中規模以上の都市である場合も,ロマネスクの時代に既に,経済力を持つ市民たちが中心的存在になるような状況だったとは限らない.
それでも,「ロマネスク教会」の所在地を他のヨーロッパ諸地域と比較すると,イタリアのロマネスクは,都市と経済の発達のもと,市民たちが都市への帰属意識を自分たちの信仰に結びつけたところに特徴がある,という推定は可能なのではないかと思う.
ゴシックの時代になると,イタリアだけではなく,その他の地域でも都市の大聖堂が教会建築の主流となる.その時代には,今度はイタリアでは托鉢修道会の教会が各都市に建設されるようになる.
確かにロマネスクもゴシックも,教会建築を中心とする芸術の面からは,イタリアは発祥の地とは言えないかも知れないが,他地域に発祥した芸術傾向を受容して,独自な形に変容させ,自分たちに文化を開花させたという意味で,イタリアのロマネスク,ゴシックは興味深い現象であり,モデナ大聖堂はその端緒の一つと言えるのではなかろうか.
それを支えたのが,都市の経済力であり,市民たちの気概であり,コモ湖周辺や,ルガーノ湖周辺出身の工人たちの技術と芸術性であっただろう.

上の写真の浮彫は,モデナ大聖堂のファサードにヴィリジェルモ親方が施した作品で,向かって左から,「天地創造」,「アダムの誕生」,「イヴの誕生」,「アダムとイヴの誘惑」である.
アダムが禁断の果実を口にしながら,既に羞恥心を象徴するイチジクの葉を身にまとっており,その表情に庶民的なユーモア感覚が感じられる.貴族趣味の作品をつくろうと思えば簡単にできたであろうに,それを敢えてせず,またそれが許された所に,イタリアのロマネスクを感じる.
下の写真は,守護聖人ゲミニアヌスの物語になっている.向かって左から順に,ローマ皇帝ヨウィアヌスの娘の悪魔祓いを行い,皇帝夫妻に感謝され,モデナに帰還したことを描いている(マラファリーナ,p.113).写真には写っていない左端は皇帝に呼ばれて東方に馬で向かう場面,その隣は船で向かう場面,右端には彼の埋葬が彫り込まれている.
聖人の物語が彫られた面と直角に接する下の面は,「神秘の小羊」を2人天使が支え,そのそれぞれの外側にパウロと洗礼者ヨハネが彫り込まれている.

この浮彫彫刻は,ピアッツァ・グランデに面している南側に2つある入口のうち,「諸君主の門」(ポルタ・デイ・プリンチーピ)の楣石(まぐさいし)に彫られている.
楣石は,出入り口の上部に水平に渡した石のことを言い,英語ではリンテルだが,通常はフランス語のラントーが使われる.イタリア語ではアルキトラーヴェと言うようだが,このイタリア語に対応する英語のアーキトレイヴ(梁)は,意味の範囲が異なるため,「楣石」をイタリア語で限定的にピアッタバンダとも言うらしい.
マラファリーナは上の写真の部分をアルキトラーヴェと言っており,英訳もアーキトレイヴとなっている.英語版ウィキペディアのアーキトレイヴを見ても,それでも良いようだ.ここでは通常のラントー(池田,など)と言わずに楣石ということにする.
楣石のアーチ部分には人間や動物を囲い込む植物文様の浮彫が施されている.アーチの下の両側の柱状の部分は,英語ではジャムで,jambと綴るのでジャンブとも読むようだし,ドアジャムdoorjambと言う語も使うらしい.
この語源となったフランス語のジャンブ(jambe)は「脚」の意味で,やはり建築用語にも使われるが,「脚」と言う日常語なので,ピエール・ド・タイユpierre de tailleと特化した言い方もあるようだ.池田の用語解説は「側柱」としており,分かり易いので,これを使わせてもらうと,側柱の正面にはやはり同様の植物文様,それと直角に交わる内側には十二使徒と,聖ペトロニウスと彼の助祭の浮彫がある.
この部分は,ヴィリジェルモの作ではなく,「聖ゲミニアヌスの親方」(マエストロ・ディ・サン・ジェミニアーノ),「神の小羊の親方」(マエストロ・デッラーニュス・デイ)とされる.いずれも,この部分の作品にちなむ命名とすれば,他に作例はないのかも知れない.すばらしい完成度だと思う.
「プロテュルム」
門にかかる張り出した部分を英語ではポーチ,イタリア語ではプロティーロと言う.
前者が一般的であるのに対し,後者はロマネスク建築に特化された用語で,日本語版ウィキペディアでは「プロティロ」で立項し,「柱廊式玄関」,「車寄せ」などの訳語があるとしている.この訳語については,強いて言えば前者の方がましだが,「玄関」と言われると,禅宗起源の「玄妙な道に入る関門」(大辞泉)の語源が頭をよぎり,ピンと来ない.
池田の用語解説には「プロテュルム」prothyrumとあり,「教会の正面に張り出した小玄関で,ライオンの彫像,円柱,切妻屋根で構成される」と定義している.ギリシア語のプロ(前),テュラ(扉)からの造語で,プロテュロンと言うギリシア語の中性名詞をラテン語形にしたものであろう.英語ではプロサイラムとなるであろう.「プロテュルム」を使うことにする.
さて,「諸君主の門」のプロテュルムは2層になっており,下層に入口があり,上記の浮彫が施されている.下層を支える2本の柱の下部にはそれぞれライオンの彫刻があり,柱を背中で支えているように見える.
このライオンの造形を小川は詳しく取り上げている(pp.70-74).イタリア語でスティローフォロと言うことも言及されている.
小川が狛犬との関わりで興味深いと言っているように,私もヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂と大聖堂,アッシジのサン・ロレンツォ教会で,門の前に置かれた一対のライオンを見て以来,狛犬を連想しながら意識してきた.ヴェローナの場合は柱を支えるスティーロフォロになっているが,アッシジではライオンの像が置かれているだけだったように思うが,この教会でイタリアのロマネスクを初めて意識した.
昨年,ローマのサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会で,後から置いただけかも知れないが,入り口のところに置かれた一対の小さなライオン像が,阿吽の形になっているのを見て,ますます狛犬を意識したが,これに関して,今の所,特に新しい知見はない.
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写真:
南側ファサードには
2つのプロテュルムがある |
モデナ大聖堂には,ファサード(西側)に1つ,南側面に2つ,北側面に1つ,それぞれプロテュルムがあり,それを支える柱にスティーロフォロが施された入口がある.南側面のもう1つの入口は「王の門」(ポルタ・レージア),北側面の入口は「魚市場の門」(ポルタ・デッラ・ペスケリーア)と言われている.
「王の門」は,13世紀にカンピオーネの職人たちによって付加された.「王の」とあるが,誰か国王に関係してるのではなく,中世のラテン語の用法で「主要な門」を意味するらしい(マラファリーナ,p.114).やはり2層構造で,下層には捻じれ装飾の飾り柱があり,それに連続するアーチとともに幾何学的でとても美しい.上層には3連窓のポルティコがあり,柱頭上層はコリント式,下層はコリント式とイオニア式混合のコンポジット式である.そのコンポジット式柱頭を持つ柱をスティローフォロのライオンが支えている.
スティローフォロがあるのは,ファサードの門も,「魚市場の門」も同様だが,ファサードのライオンは,たてがみがはっきりしていて,その他の門のライオンと違い,少しロマネスク風とは違うかも知れない.
人気の図柄
鳩,孔雀と言ったキリスト教の象徴的動物でもないのに,人魚と鶏は人気の図柄のようだ.下の写真のモザイクはラヴェンナのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの堂内に展示されていた床モザイクの断片パネルで,浮彫の鶏は,「魚市場の門」の楣石,人魚は鐘楼の壁にあったものだ.人魚は柱頭飾りにも見られる.
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写真:
モザイクと共通の
モチーフ |
この鶏の浮彫の向かって左隣は想像上の動物である海馬(前半身が馬で,尾がイルカのヒッポカンプス)に跨る人物,鶏の右隣は楣石の中央で植物文様,その右は一対の孔雀で,右端は「コウノトリと狐」という寓話的なテーマになっている.
楣石の上にかかるアーチの内側の部分をアーキヴォルトと英語では言うようだが,そこには「アーサー王伝説」の可能性がある騎士物語が彫り込まれている.これについては「モデナ大聖堂」に関するウィキペディアでは,英語版でも,伊語版でもフォーカスして説明しており,一読の価値がある(マラファリーナはあっさりした説明).
鐘楼(英語版/伊語版ウィキペディア)はギルランディーナの愛称を持ち,やはり世界遺産に登録されている.1179年に5層構造で完成したが,その後,ボローニャへの対抗心から,アッリーゴ・ダ・カンピオーネの設計による八角構造の先端部を付加した(英語版ウィキペディア).
モデナのランドマークになっていることは理解できるが,ポンポーザやラヴェンナで見た煉瓦外壁の鐘楼の方が私の好みに合う.
ラテン語碑文
下の写真の浮彫は,向かって左がエノク,エリア(エリヤ)と,旧約聖書の預言者※であることが,人物の下の文字のよってわかるが,中央の石版に刻まれた文字は何だろうか.(※厳密には正典部分に関する限り,エノクは預言者ではないが,新約の『ユダの手紙』で彼の預言に言及があり,中世には預言者として扱われていたであろう.日本語版ウィキペディア「エノク」参照)
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写真:
ヴィリジェルモ自身を讃える
銘文を預言者2人に持たせて
ファサードにつけた |
幸いに,
Cecilia Monaco, Modena: Piazza Grande, Roma: Libreria dello Stato, 2005(以下,モナコ)
に活字に転写し,イタリア語訳を付した解説がある.
それを参考にしながら読解すると「神の受肉から数えて,1100年に1年足りない年の,9月13日の5日前に,蟹座が勝ち誇りながら双子座の軌道を乗り越える間に,輝かしいゲミニアヌスの,この家は築かれている.ヴィリジェルモ(ウィリゲルムス)よ,あなたがそれほどの名誉に値するかを,今やあなたの彫刻が明らかにしますように」(説明のための直訳)となるように私には思われる.
CLARETは自動詞のclareoなら直説法・現在だが,他動詞のclaroなら接続法・現在の形で,QUANTO以下は名詞節の間接疑問文(SISは間接疑問を示す接続法・現在・2人称・単数)であろうから,CLARETはそれを目的語とする他動詞でその主語は「あなたの彫刻」であり,文全体は接続法・現在に拠る祈願と願望を意味する文と解釈できる.
その点,金沢の「ヴィリジェルモよ,あまたの彫刻家のなかで,最も偉大な栄誉に値すると証す」(p.143),は,わかりやすいが,「証す」の主語は一体何だろうと思いながら読んだ.モナコのイタリア語訳では,私が目的語と考えた名詞節を主語と考えている.
なるほど,これであれば,「あなたの彫刻」を奪格(sculturaの語尾が主格なら短い「ア」,奪格なら長い「アー」)と取り,「あなたの彫刻によって」,「あなたがどれほどの名誉に値するかが」,「明らかである」となり,動詞は直説法で,この文章は「事実」を述べていることになる.
小川は,「ヴィリジェルモ,いまやそなたの彫刻は,他の彫刻家たちのなかでそなたがいかに多くの栄誉に値するかを示している」としており,これだと,間接疑問文は目的語になっていて,「あなたの彫刻」は主格で,これが最も私の解釈に近いが,その場合,動詞は接続法になって,上記の私の直訳のようになると思う.自動詞と同じ形の他動詞もあるなら,直説法で良く,その場合は小川のような解釈が正解だろう.
実は,他にも幾つか疑問がある,古典語ならconscenditとなるべき綴りは,consenditとc無しで綴られており,これは当時の発音を反映しているのであろうし,前置詞subをsupとしているのも,実際の発音からの類推であろう.現在分詞のovantesは私は「勝ち誇って」と言う副詞的同格に訳し,モナコもtrionfalmenteと副詞に訳しているが,もしこれが主語の「蟹座」の同格なら単数形のovansとなるべきで,ovantesだと複数の主格か対格になる.星座で星が複数あるから複数形にしているのかとも思ったが,動詞は単数形になっているので,文法的不整合に思われる.
さらにmille Dei carnis monos centu(m) minus annisは,anni post mille nonaginta
novemqueと同じく,西暦1099年の意味であるとわざわざ解釈しているページ(monos centum minusでグーグル検索)がある程,ラテン語としては奇異な表現に思える.monosはラテン語ではなくギリシア語であろうし,「1年前」と取るためには,格が何格なのかを考えなければならない.
今まで,ラテン語の碑文を直接読もうと考えたことはなかったので,碑文を誇らかに典拠資料とする西洋史の人たちの学会発表を聞いても,欧米の研究者が活字化した碑文集に基づきながら,独自な見解と称することに,やや白けた気持ちを持っていたが,若い研究者たちがそのレヴェルを遥かに越えて行こうとしているのを見て,自分もなるべくなら碑文を直接解釈できるようでありりたいと思うに至った.
大学でラテン語を教えている(最近は誰もやりたがらないので,ギリシア語を担当して,ラテン語は大学院の講読を除いて,希望する先生方にお任せしているが)のだから,碑文も読めて当たり前と思われるかも知れないが,実際には,試行錯誤しながら自ら碑文を読むのは,日本人の研究者では一部の篤志家か,欧米の大学院で学んだ若い優秀な人たちに限られるのではないかと思う.五十の手習いではあるが,私もチャレンジしたい.もとより,誤読の批判は覚悟の上だ.
ラテン語と言っても使われた時代は長いし,使った人たちの教養水準も様々だ.ラテン語を使用していたからと言って,誰もがキケロやウェルギリウスを読んで,そのラテン語をスタンダードと考えていたわけではない.ラテン語の碑文を2,3読むだけでも,ヨーロッパの歴史の奥深さを感じられるだろう.
煉瓦と漆喰と大理石
堂内の写真をマラファリーナ等で参照すると,柱と壁面は石ではなく煉瓦積みであることに驚く.金沢には「聖堂は煉瓦造りですが,外壁は大理石を化粧貼りしています」(p.142)とあり,これは全く思いも寄らなかった.ミラノとカスティリオーネ・オローナで煉瓦でできた教会を複数見ており,よく考えればポンポーザの修道院教会も,ラヴェンナの諸教会も,ボローニャのサント・ステファノ教会群もいずれもそうである.
金沢を良く読むと,チヴィダーレに関する記述で「中世において,漆喰という素材は大理石の代用品でした.例えば,煉瓦造の聖堂の場合,予算が潤沢なら壁に大理石を貼って煉瓦を隠しますが,資金がなければ漆喰を塗ります」(p.78),またポンポーザの修道院長グイドについて「清貧志向は建築にも表れています.グイドは煉瓦やテラコッタという安価な素材にこだわりました.ミラノのサンタンブロージョやラヴェンナの諸聖堂の外壁も煉瓦ですが,それらは大理石や漆喰といった当初の壁が剥がれ,下地が見えているに過ぎません」(p.116)と述べられている.
今まで,相当数のイタリアの教会を見てきて,外壁に関しては,漠然と大理石等の石を思い浮かべていたが,言われてみれば確かに,煉瓦の素材としての重要性に気づくべきであった.ロンバルディアでは煉瓦積みが,その地方の教会の特色であると思い,ラヴェンナやローマでロマネスクの鐘楼が煉瓦積みであることに気づきながら,教会の建築素材としての煉瓦についてあまり考えたことがなかった.
フィレンツェの教会でも,サンタ・マリーア・マッジョーレ,サンティ・アポストリ,サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ,サン・レミージョなど,自分が好きな,比較的小規模な教会は化粧外壁が無くなったのかも知れないが,少なくとも現存の外壁は煉瓦積みであることを隠しておらず,サンタ・マリーア・ノヴェッラやサンタ・クローチェなどの大教会でも,ファサードから回り込めば,すぐに煉瓦積みの部分が見えていたのに,全く迂闊なことだった.
煉瓦外壁が全く見えないモデナ大聖堂で,それに気づくとは,我ながらあきれるばかりだが,ある意味で新鮮な体験をしたように思える.
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初めて観るヴィリジェルモの彫刻
若干の戸惑い,なくもなく
モデナ大聖堂
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