§北イタリアの旅 - その10 (ラヴェンナ前篇)
この教会は鉄道の駅の近くにあって,旧市街に向かう時には必ず横を通る.いつでも見られそうな気がすることと,旧市街の教会ほど優先順位が高くないことで,ついつい後回しにし,3度目にして初めての拝観となった.
この教会はツァーでの観光予定には入っていなかったが,道を一つ隔てたところに宿をとっていたので,朝食もそこそこに外出し,じっくりと拝観させてもらった.
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会
知識として,この教会が戦災に遭ったことは知っていた.伊語版ウィキペディアに見られる写真のように,鐘楼はかなりの部分が残ったが,本堂は殆んど壊滅状態で,現在の建物は修復されたもである.
もともとは5世紀に皇女にして皇后,皇帝の母でもあったガラ・プラキディアによる創建とされるが,現在の建物の原型は,ロマネスク教会(堂内の半円アーチと木組天井),14世紀にゴシック様式を取り入れた改築が為された.
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写真:
サン・ジョヴァンニ・
エヴァンジェリスタ教会
側廊の壁面下部にずらりと
モザイクのパネルの展示 |
ゴシックの最も顕著な遺産は,教会敷地を取り囲む壁に付された門の大理石のポルターユで,尖頭アーチを四角形の枠が囲み,その上に,さらに三角形のタンパンがある.
伊語版ウィキペディアの説明を参考に,撮って来た写真をそれと照合しながら確認すると,尖頭アーチに囲まれたリュネットには,「ガラ・プラキディアに現れる福音史家ヨハネと天使たち」,尖頭アーチの左右には「受胎告知」,上部のタンパンには,中央に「福音史家ヨハネと皇帝(ウァレンティニアヌス3世と推定)」,向かって右側に「ガラ・プラキディアと兵士たち」,左側に「聖職者たちを伴う聖バルバティアヌス(バルバツィアーノ)」の浮彫が施されている(写真は次回のページの最後に掲載).
ポルターユは14世紀のものなので,ガラ・プラキディアやその息子ウァレンティニアヌス3世,当時ラヴェンナの司教だったバルバティアヌスが生きた時代から900年の時間が過ぎており,想像で教会創建に関わる故事を表現したものに過ぎない.

堂内には,もとは床モザイクだったと思われる,断片のパネルが飾られている.これは,古拙だが,何かを表現したいと言う気迫に満ちており,素晴らしい,ユニコーン,グリフィン,人魚など想像上の動物,実在の鳥獣,植物モティーフ,幾何学模様,何らかの歴史的事件(向かって右端のモザイクには「コンスタンティノープルを」を言うラテン語の対格形が書いてあり,第4回十字軍の際の1204年の同市占領を描いたものとされる)を表しているであろう人物や戦争場面など,見ていて飽きない.5世紀の作品とのことだ.
こうした古拙な床モザイクにも独特の味わいがあり,捨て難いものがあるが,何と言っても,ラヴェンナは芸術性の高いモザイクに溢れている.
モザイクによる楽園のイメージ
今回も郊外のサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂を拝観することができた.6世紀の古いモザイクは後陣(アプス)の穹窿天井(コンク)と,その下部及び周囲の壁面のみだが,いつもながら声も出ないほど圧倒される.
キリストを表す十字架を中心にノアとエリアが描かれ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネは羊の姿で,聖書(マタイ,マルコ,ルカの3つの福音書)に記述された「キリストの変容」を描いていると思われる.
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写真:
明るく,のびやかな空間
サンタポリナーレ・
イン・クラッセ教会 |
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動植物による楽園のイメージは,「イスラムの影響」と言いたいところだが,6世紀にはまだイスラム教は誕生していない.
既に西ローマが滅亡し,コンスタンティノープルに残った東のローマ帝国と,ゲルマン人がイタリアの覇権を争った激動の時代に,人々が救済と楽園を希求し,それが図像化され,宗教心が芸術に結実したのだと思いたい.
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写真:
聖アポリナリスと一緒に
植物たちもオランス
(両手を上げて祈る姿勢) |
ガラ・プラキディア霊廟は一部修復中であったが,「良き羊飼い」(『ヨハネによる福音書』10章)であるキリストを表しているであろうモザイクもじっくり観ることができた.
ガラ・プラキディアは450年に亡くなり,その26年後に西ローマ帝国は滅亡する.若いキリストと牧歌的風景はやはり動乱の時代に,救済と楽園を希求する気持ちの表れと考えて良いのではないか.堂内の統一的なテーマが永遠の生の死に対する勝利だとすれば,なおさらのことと思われる.
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写真:
自然描写の豊かな
「良き羊飼い」のモザイク
ガラ・プラキディア霊廟 |
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サン・ヴィターレ聖堂
ガラ・プラキディア霊廟と同じ敷地にあるサン・ヴィターレ聖堂も3度目の拝観だ.何度来ても,モザイクの素晴らしさに圧倒されるのはもちろんだが,よく見ると,それだけではなく,コズマーティ装飾の床モザイクや,柱頭など興味深い物がたくさんある.
下の写真に見られるフレスコ画装飾などは18世紀のもので新しいが,教会の基本的構造は6世紀のもので,イタリアではルネサンス期以前には珍しいクーポラ(丸屋根)は,ビザンティン建築の影響を受けたものだ.ただし,内側から見ると丸天井でも,外壁はオクタゴン(八角形)で,外屋根もそれに対応するオクタゴン型で,外観はドーム型にはなっていない.
教会の堂内でその中心に立って上を見上げると,最上部はクーポラ(ドーム)で,それをドラム(円筒型壁,イタリア語ではタンブーロ)が支え,さらにその下はオクタゴンに対応する8つのアーチが支え,アーチの奥は半円筒形で穹窿天井を持つエクセドラになっている.
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写真:
サン・ヴィターレ教会
(後陣の前からエクセドラと
ドームを見上げている) |
ギリシア語でエクス(子音の前ではエク)は「外」を意味する語で,多くの場合「~から(中→外)」を意味する前置詞で使われるが,元々副詞なので,「外にある」ことを意味することができる.ヘドラは「座席」の意なので,エクセドラは「戸外の座席」というような意味になるであろう.
ギリシア建築においては,柱廊(ストア)に付随する,湾曲座席を置いて討論などがなされる張り出し部分のことを指し,巨大建築に応用された例として,ローマ皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)が知られる.復原された平面図で見る限り,そこでは,八角形の大屋根を支える壁体に半ドームを冠して付随し,くつろぐ空間を増やす工夫として用いられている.
イスタンブールのアヤソフィア(アギア・ソフィア/ハギア・ソフィア)聖堂は,写真と平面図で見る限り,正方形の四角柱型の構造体の上に大きなドームが乗っていて,後陣部分が東だとすれば,南北はアーケードを含む壁で,東西は半円ドームを冠した張り出しになっていて,それぞれの張り出しに,エクセドラのように見える穹窿天井を持つ空間がそれぞれ3つずつある.その東側の真ん中が,西欧の教会でいう「後陣」(アプス/アプシス)であろう.
これに関して数冊の日本語の本とウェブ・ページを参考にしたが,
シリル・マンゴー,飯田喜四郎(訳)『図説世界の建築史5 ビザンティン建築』本の友社,1999
と(p.69),ウェブ・ページ「ハギア・ソフィア 建築の説明」がエクセドラと言う用語を使用していて,前者ははっきりしないが,後者と合わせて考えると,ほぼ私の理解で良いように思える.
アヤソフィアは,オクタゴン型ではないので,サン・ヴィターレとは異なるが,ドームがあって,それを支える構造の一部にエクセドラを用い,その中の一つが後陣になっていると言う意味では,共通の要素があるように思われる.勉強はこれからだが,3度目の訪問で,ようやく建築に思いが至った.
Gianfranco Malafarina, ed., La Basilica di San Vitale e il Mausoleo di
Galla Placidia / The Basilica of San Vitale and the Mausoleum of Galla
Placidia, Modena: Franco Cosimo Panini, 2008(以下,マラファリーナ)
は,最初にラヴェンナを訪れた時,サン・ヴィターレ聖堂のブックショップで購入した伊英対訳の案内書だが,実家に置いていて津波で流され,後日フィレンツェを再訪した時,ウフィッツィ美術館のブックショップで再入手した.最初にラヴェンナに行ったのは,2007年の秋なので,この出版年が2008年なのは気になるが,今は問題にしない.
いずれにせよ,この本は英訳がついているだけでなく,カラー写真も豊富で,説明も分析的でわかりやすい.
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写真:
モザイクで埋めつくされた
後陣のエクセドラ
アーチ部分の下に
メダイオンが並ぶ |
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サン・ヴィターレの後陣のエクセドラは,他のエクセドラよりも深く,アーチの下には,最上部にキリストの顔,両側に十二使徒を含む聖人たちの顔がメダイオンになって連なっている.
後陣の手前に説教壇があり,その下の床はコズマーティ風のモザイク装飾が施されている.両側には3連アーチに支えられたリュネットがあって,後陣に向かって左側には「天使たちの饗応」と「イサクの犠牲」と言うアブラハムをめぐる物語,右側には「神に羊を捧げるアベルとパンを捧げるメルキセデック」の,いずれも「創世記」に取材したモザイクがある.
リュネットの上には,右側は「エレミアとモーゼ」,左側に「モーゼとイザヤ」のモザイク,さらにその上には3連アーチを中心にそれぞれの左右に1人ずつ計4人の福音史家のモザイクがあって,全体がアーチ型の壁面になっている.
上部の3連アーチの奥は空間で,女性信者用の歩廊(英語ではウィメンズ・ギャラリー,イタリア語ではマトローネオ)になっている.
コズマーティ装飾の床部分は4面ともアーチで囲まれる形になっていて,後陣に向かって左右は2段の3連アーチを含む壁面になっているが,天上は交差リブ・ヴォールトで,中央にキリストを象徴する羊が果実を含む植物文様のメダイオンの中に描かれ,リブで囲われた4面にはそれぞれ天使が描かれている.
湾曲上に張り出した最奥部には,司祭席があり,そこに至る入り口のアーチ下部には,交差する豊饒の角型の植物文様のモザイク,コンク(穹窿天井)には「宇宙の支配者(コスモクラートル)であるキリストと天使たち,聖ウィーターリスと司祭エクレシウス」が描かれている.
キリストは右手に「七つの封印のある本(巻物)」を持ち,右手でウィーターリス(サン・ヴィターレ)に冠を手渡している.エクレシウスはこの聖堂を奉献した司祭とされるので,教会堂を捧げているが,聖人ではないので光輪はない.
教会の名のもとになっているウィーターリスという聖人もローマ時代に殉教した「殉教聖人」だけで3人おり,そのうち妻(ウァレリア)も息子たち(ゲルウァシウスとプロタシウス)も殉教聖人であるミラノ出身の聖人か,奴隷として仕えた主人アグリコラとともにボローニャで殉教した聖人なのか議論があるようだ.このモザイクで見る限り,兵士の格好をしており,であれば,少なくともモザイクの制作者とその注文主にとって,前者であった可能性が高いであろう.
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写真:
東ローマ皇帝ユスティニアヌス
と従者たちのモザイク(部分)
(英語版ウィキペディアは向かって左端の人物を有名な将軍ベリサリウスとしている.また該当項目で,皇帝の右の人物はナルセスとしているが,典拠は示されていない) |
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コンクの下に明かり窓になった3連アーチがあって,それを囲む湾曲壁面の向かって左側に「皇帝ユスティニアヌスと兵士たち,高官たち,司教マクシミアヌスと聖職者たち」,右側に「皇后テオドラと侍女たち,従者たち」の有名なモザイクがある.
マクシミアヌスだけは特定できるように文字も描かれている.この図像を「皇帝と皇后の奉納」(ラテン語でオブラーティオー・アウグスティー・エト・アウグスタエ)と言うそうだが,皇帝も皇后もどちらも豪華な器を持っていて,ユスティニアヌスの方が聖体皿,テオドラの方が聖餐杯であろう.穹窿天井の「宇宙の支配者キリスト」にパンと葡萄酒を奉納する儀式を図像化したものと解釈されているようだ.
世界史の教科書で有名なユスティニアヌスとテオドラのモザイクも,実は中央のキリストのモザイクと一体となって,一つの物語として理解できるように描かれていることを,今回あらためて確認した.多分,そうでない解釈も可能かも知れないが,一応,そのように理解しておく.
サン・ヴィターレ聖堂は,この後陣部分のように「奥が深い」.後陣部分以外の7つのエクセドラはさらに,周囲を周回廊に囲まれていて,マラファリーナの写真で確認すると,この部分は天井がリブの無い交差ヴォールトになっており,床モザイクも残っている部分に関しては見事に思えるし,興味深い石棺も置いてあったようだが,今回はそこまで注意が向かなかった.
今度行くときは,是非,マラファリーナの本の写真と解説でしっかり勉強してから行きたい.繰り返しになるが,サン・ヴィターレ聖堂は,集中式の建造物で,奥が無いように見えて,やはり「奥が深い」.
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首が痛くなるまで ひたすら上を見あげたが
さらに次回に期すものあり
サン・ヴィターレ聖堂
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