フィレンツェだより番外篇
2014年8月3日



 




突然の激しい風雨 傘を短く持って聖堂へ
サンタ・マリーア教会
ポンポーザ大修道院


§北イタリアの旅 - その9 (パドヴァ,キオッジャ,ポンポーザ)

毎度のことながら(と言ってもまだ2度目だが)ヴェネツィアを去るにあたっては未練が残る.


 通勤電車の中で,ハンフリーの邦訳書『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』を読んでいて,まもなく読了する.訳文にも内容にも全く不満はないが,ティントレットに偉大さに開眼したと称している今もなお,ヴェネツィアの芸術は,すごく遠い所にあるように思える.

 フィレンツェの芸術に比して,ヴェネツィアの芸術に低い評価を与え,特にティントレットを酷評するヴァザーリの価値観に,知らずして影響を受けているのかも知れない.また,都合数日しか滞在していないヴェネツィアに比べれば,僅か1年とはいえフィレンツェには住んだのだから,個人的にフィレンツェびいきになるのはやむを得ないだろう.

 既に書架にあった,

 Peter Humfrey, Carpaccio, London: Chaucer Press, 2005

と,旅から戻ってすぐに,アメリカ・アマゾンで古書を注文し,最近ようやく入手した,

 Peter Humfrey, Alarpiece in Renaissance Venice, New Haven & London: Yale University Press, 1997

を読んで勉強しよう.ヴェネツィア絵画が好きになれるかどうかは別にして,ルネサンスと言えども,芸術の中心がキリスト教絵画であることには,フィレンツェもヴェネツィアも変わりはない.

 私にとってゴシック絵画の要素を継承する祭壇画は魅力的だ.ジョヴァンニ・ベッリーニはそれに比べれば,清新の気風を湛え,全く違うものに感じられるが,それでもそこにある連続性が理解できると,以後のヴェネツィア派の画家の作品も身近な存在に思えるかも知れない.ポイントはヤコポとジョヴァンニのベッリーニ親子,それとヴィヴァリーニ一族ではないかと予想している.

 そのヴェネツィアのルネサンスにとって,アンドレーア・デル・カスターニョ,アンドレーア・ヴェロッキオ,ヤーコポ・サンソヴィーノ,フランチェスコ・サルヴィアーティといったフィレンツェの芸術家たちの来訪は大きな意味を持ったようだ.それぞれ1442年,1486年,1527年,1539年である.

 サルヴィアーティのヴェネツィア来訪の翌年に,ヴァザーリ自身もヴェネツィアを訪れ,マニエリスムの芸術によってヴェネツィア画壇に大きな影響を与えたとされる.

 フィレンツェの優位はおそらく,ヴァザーリ自身の来訪までで,後は関係は逆転する.フィレンツェからはローカルを超えた芸術家は全くと言って良いほど出なくなる.マニエリスムの時代のアレッサンドロ・アッローリ,バロックの時代のチーゴリなどは,フィレンツェ周辺で見る限り,存在感もあり,多くの佳品を残した画家に思われるが,たとえばローマの美術館などで彼らの作品を観ると,トスカーナ・ローカルな画家と言う印象は免れない.


2回目のパドヴァ
 カスターニョがヴェネツィアを訪れた翌1443年,初期ルネサンス最高の彫刻家であるドナテッロが,当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったパドヴァを訪れた.傭兵隊長ガッタメラータの騎馬像作成のためである.

 彼は1453年までパドヴァに滞在し,サンタントーニオ聖堂(イル・サント)の中央祭壇の彫刻(丸彫浮彫)を制作し,これがフィレンツェのルネサンスが北イタリアに広がって行く大きな契機であるとされる.ポイントは幾何学的均衡,写実性,遠近法だろうか.

 パドヴァのスクァルチョーネ工房にいたのが,マンテーニャ(パドヴァ近郊の生まれで,マントヴァで活躍),マルコ・ゾッポ(ボローニャで活躍)であり,他にもコスメ・トゥーラ(フェッラーラ),カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア生まれでマルケ地方で活躍),ヴィンチェンツォ・フォッパ(ブレーシャ生まれで,ロンバルディア地方で活躍)も居た可能性があるとされる.

 フィレンツェの芸術家たちが,サンタ・マリーア・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂のマザッチョのフレスコ画から影響を受けたように,北イタリアのルネサンスを開いた画家たちは彫刻家ドナテッロの作品を観て感性を養った.

 一方,パドヴァにはそれ以前から,偉大な芸術の伝統があった.後期ゴシック芸術の花が咲いた事にも,フィレンツェの芸術家の影響が見られる.パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂にはあるジョットの一連のフレスコ画である.今回の観光の大きな目玉の一つがスクロヴェーニ拝観であった.

 ジョットの偉大さは言うまでもないし,15分と言う短い拝観時間は,圧倒される思いのうちにあっという間に過ぎてしまい,不全感が残ったのは前回と同じだ.もちろん写真撮影も厳禁で,薄れていく記憶の中に憧憬の念だけが残るこの拝観については,今回は言及しない.ジョットの絵画の持つ様々な特質を越えて,その「美しさ」に深い感銘を新たにした,とだけ言っておこう.


エレミターニ教会
 前回のパドヴァ行でも,そのようなまとめ方をしたが,パドヴァで活躍したジョッテスキ(ジョットの影響を受けた画家たち)が,14世紀のパドヴァ芸術を支えた.グアリエントメナブオイ,アルティキエーロとその他の画家たちである.

 今回,最も魅かれるアルティキエーロの作品は見ていないが,スクロヴェーニ礼拝堂の近くのエレミターニ(隠修士)教会で,メナブオイ(上の写真の向かって左端の礼拝堂)とグアリエント(中央祭壇のある礼拝堂の向かって左側壁)のフレスコ画には再会できた.

写真:
エレミターニ教会
グアリエントのフレスコ画のある
中央祭壇


 正面から見ることができず,時間も限られていたので残念ではあるけれど,細かく見れば,それぞれの地域,個々の画家で特徴の違いはあるわけだが,ジョットが完成し,マザッチョまでの約100年続いた,イタリア・ゴシックのフレスコ画の時代を体感できる空間と言えよう.

 マザッチョに始まり,ギルランダイオが完成して,ミケランジェロが総決算を行うルネサンスのフレスコ画とは全く違う趣の,「最後の中世」を感じさせてくれる.

写真:
マンテーニャの剥離フレスコ画
「聖母被昇天」(部分)
エレミターニ教会

被昇天の聖母の姿が
今まさに視界から消えようと
している


 ルネサンス芸術の大傑作もある.オヴェターリ礼拝堂の,アンドレーア・マンテーニャによるフレスコ画「聖クリストフォロスの物語」である.この作品は第2次大戦の際,パドヴァには,ムッソリーニ失脚後に,ナチス・ドイツの傀儡政権ができたこともあり,爆撃で破壊されたが,市民たちの努力で,破片が集められ,現在残っている部分だけでも,かつてどれほど見事なフレスコ画であったかがわかるまでの補修がなされた.

 ほぼ完全に残っている作品もある.「聖母被昇天」(上の写真)である.天使が作るマンドルラに囲まれて,空中浮遊する聖母の図像である.間違いなく,北イタリアのルネサンスの最高傑作の1つであろう.



 エレミターニ教会は13世紀にアゴスティーノ修道会(聖アウグスティヌス隠修士会)が創設した教会で,教区教会にもなっている.修道院は博物館になっているが,教会は現役で,ミサの時間には意外なほど多くの信者が参集していた.さすがに,信者たちの前で,写真はなかなか取りにくく,今回,時間に余裕があった割には,あまり撮っていない.

 ただ,前回見逃して,今回是非確認しようと思っていたヤーコポ(ジャーコモ)・ダ・カッラーラ2世(英語版伊語版ウィキペディア)の墓碑は,しっかり写真に収めてきた.墓碑彫刻そのものも,確かに当時としては名のあった彫刻家(アンドリオーロ・デ・サンティ)の作品だが,特に下部の碑文が詩人ペトラルカに拠るものであることが,知られているからだ.もともとは同市内のサンタゴスティーノ教会にあったものだが,19世紀にその教会が閉鎖され,エレミターニ教会に移された.

 この墓碑は視覚芸術としても,もちろん重要だと思うが,「カッラーラ家」と「ペトラルカ」と言う2つのキーワードによってより大きな意味を持っているであろう.

写真:
エレミターニ教会
カッラーラ家のヤーコポ2世
の墓碑
下部にペトラルカのラテン詩


 (ダ・)カッラーラ家(カッラレージ)(英語版伊語版ウィキペディア)は,大理石で有名なトスカーナ北部のカッラーラではなく,パドヴァ近郊の現在はドゥーエ・カッラーレ(2つのカッラーラ)と言う自治体になっているカッラーラ・サン・ジョルジョとカッラーラ・サント.ステーファノのうち,伊語版ウィキペディアは前者,英語版ウィキペディアは後者が,カッラーラ家発祥の地としている.

 10世紀と11世紀それぞれに,同名のグンベルトと言う人物が出て,名家への道を歩み始め,政治家として頭角を現し,ヤーコポ(ジャーコモ)1世の時から代々パドヴァの君主(シニョーレ)を世襲した.

 この家系がパドヴァに君臨したのは,ヤーコポ1世が君主になった1318年から,戦いに敗れたフランチェスコ2世(フランチェスコ・ノヴェッロ)がヴェネツィア政府によってに処刑される前年の1405年までであり,100年にも満たない.ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画の完成が1305年,ダンテがフィレンツェを追放されたのが1301年で,ヴェローナを経て1304年に短期間パドヴァに滞在している(R.W.B.ルイス『ダンテ』岩波書店,2005,p.95)が,いずれもカッラーラ家が「君主」になる前のことだ.

 しかし,カッラーラ家は,ペトラルカを保護し,グアリエントに仕事を依頼して,ルネサンス以前のパドヴァの文化を向上させた.

 ヤーコポ1世のライヴァルはヴェローナの君主スカーラ家のカングランデ1世だった.ヤーコポ1世の在世中は,その攻撃をはねのけたが,死後跡をついだマルシリオはパドヴァの君主の地位をカングランデに奪われる.その死後,スカーラ家の係累がこれを継承するも,今度はマルシリオがフィレンツェやヴェネツィアの助力を得て奪回し,ヤーコポ1世の子ウベルティーノ1世に引き継いだ.

 一族の中でも主導権をめぐって競争があったようで,ヤーコポ1世の兄弟ウベルティーノ(ウベルティーノ1世には叔父にあたる別人)の子ニッコロは,伯父(叔父)のヤーコポ1世,従兄弟のマルシリオと対抗して,それなりの勢力を持っていたようだ.このニッコロの子が,ペトラルカが墓碑銘を書いたヤーコポ2世で,彼は1345年ウベルティーノ1世の跡を継いだ遠縁のマリシリエット・パーパファーヴァを刺殺して「君主」となった.

 ペトラルカをパドヴァに招いて保護したのはヤーコポ2世だが,政治家としては暗殺と陰謀を多用した人物で,彼自身も1350年,ヤーコポ1世の非嫡出子グリエルモに刺殺された.

 しかし,「君主」の地位は,ヤーコポ2世の子フランチェスコ1世が,最初の5年間は一族のジャコミーノと共同統治と言う形で継承し,彼は1374年まで生きたペトラルカを保護し続け,領内にあるアルクァに彼を住まわせ,その終焉の地とさせた.

 フランチェスコ1世の治世は1393年まで続き,さらに同名のフランチェスコ2世(ノヴェッロ)に「君主」の位を引き継いだが,フランチェスコ2世とその息子の3世はヴェネツィア共和国の捕虜となって刑死し,都市国家パドヴァもヴェネツィアに併合された.

 マルシリエット・パーパファーヴァの兄弟の家系がヴェネツィア共和国領パドヴァの貴族パーパファーヴァ・デイ・カッラレージ家として続き,20世紀には作家で国営放送会長のノヴェッロ・パーパファーヴァが出た.

 エレミターニ教会には,ヤーコポ2世の墓碑の他に,ヤーコポ2世を「君主」の位につかせないために遠縁のマルシリエットを後継者に指名したウベルティーノ1世の墓碑もある.これもヤーコポ2世の墓碑の作者と同じアンドリオーロ・デ・サンティで,19世紀まではサンタゴスティーノ教会にあった.

 ヤーコポ2世の墓碑銘を現場で読み取るのは難しかったが,幸い,写真に収めたプレートにラテン語の原文と,現代の詩人クラウディオ・ベッリナーティの押韻しない11音節詩行のイタリア語訳が付されていた.

 ラテン語原文は,4行1スタンザの4スタンザからなり,長短短6歩格の詩で,古典ラテン語で書かれているのでもちろん押韻はない.一部IがYに綴られていたりするが,基本的にやさしい古典ラテン語なので,問題なく読めるだろう.余裕のある時に,きちんと読解したい.内容は不運に斃れた英傑の死を嘆くもので,特に感銘深い作品ではないが.


キオッジャ
 キオッジャ(英語版伊語版ウィキペディア)では,カルパッチョの「聖パウロ」のあるサン・ドメニコ教会(伊語版ウィキペディアにはティントレットの「十字架上のキリストに話しかけられるトマス・アクィナス」があると書いている)へ急いだが,教会の扉は閉ざされたままで,その間に開いていた大聖堂も閉まってしまい,これらとその他の教会の外観を眺めた他は,大聖堂の傍の,ゴシックのポルターユと内部の尖頭アーチ,木組み天井が印象深い,小さな,多分,磔刑像を祀るための独立礼拝堂を拝観したのみだ.

 街中の食堂で昼食を取った後は,運河に沿ってゆっくり歩いて時間を潰した.

 キオッジャの起源は不明だが,紀元後1世紀の大プリニウスの『博物誌』(3巻16章121節)にはフォッサ・クローディア(クローディウスの裂け目)という地名への言及があり,キケロを失脚させたクローディウスが町の創建者とすれば,紀元前1世紀のことだが,トロイア戦争の亡命者でアクイレイアやパドヴァの建設者とする伝説で知られるアンテーノールと関係づける伝承もあるようだ.

 いずれにせよ,現在の地名は,クローディアが音韻変化したものとされ,であれば,ラテン語の「明るい」(クラールスclarus)が,イタリア語ではキアーロ(chiaro)になるのと類似の変化なので,説得的だ.プリニウスが言及している地名が本当に現在のキオッジャだとすれば,少なくとも都市ヴェネツィアよりはだいぶ古い歴史を持っていることになる.

 イタリア半島の東側はクロアティアやアルバニアを対岸とするアドリア海に面しているが,アドリア海が最も奥まで入ったと黒に,イタリアとスロヴェニアの国境があり,スロヴェニア,クロアチアとの領土に入り込むようにして,やや東寄りにトリエステが位置し,その少し西がグラードのある潟(ラグーナ)である.この位置がアドリア海の奥まった所のいわば頂点部分と言える.

 グラードから25キロほどの本土部分の最初の所にアクイレイアがあり,さらに50キロほど北北西に進む内陸にウーディネがある.ウーディネの20キロほど北東にチヴィダーレが位置する.既にジュリア・アルプスの麓である.

 グラードの潟から,ヴェネツィアのある潟までは直線距離で約160キロ,ここは相当に広範囲な潟で,ヴェネツィアはほぼその中間に位置しているが,中間部と南端部は湾の対岸のようになっていて,その南端部のヴェネツィアから見てほぼ真南の対岸にキオッジャが位置している.陸路では約50キロの走行が必要だが,海上の直線距離は25キロほどであろうか.「アドリア海の女王」と称されたヴェネツィアの喉元にあたるだろう.

 キオッジャとヴェネツィアの結ぶ線を底辺とする二等辺三角形の頂点の位置にパドヴァがある.

写真:
運河には数多の船が繋留され,
いくつもの橋がかかっている
小島の町 キオッジャ


 「キオッジャの戦い」という歴史的事件がある.1378年から1381年の間に行われた,当時海洋国家としてライヴァル関係にあったヴェネツィアとジェノヴァの戦いで,自らの喉元に進出してきたライヴァル国家を打ち破ることで,ヴェネツィアは地中海貿易の主導権を完全に掌握した.

 ジェノヴァはかって,自らが破ったピサほどの没落ではないにせよ,海洋国家としてに主導権を完全に失った.その後,金融業に活路を見出して繁栄を取戻し,現在はイタリア有数の工業地帯を後背地する貿易港としても栄えているが,14世紀後半の時点で,ヴェネツィアとの力関係では完全に劣勢に陥った.

 様々な要因はあるだろうが,キオッジャの戦いがその契機の一つになったのは間違いないだろう.この時,パドヴァのカッラーラ家はジェノヴァに味方して,ヴェネツィアに敵対した.結果としては,ヴェネツィアによるパドヴァ併合(1405年)を促進することになっただろう.

 この時,少なくとも,アドリア海と東地中海では,ヴェネツィアの制海権を背景とする貿易の独占状態がほぼ実現したことになると考えて良いのだろうか.いずれにしても,1453年にオスマン・トルコによってコンスタンティノープルが占領され,東地中海のイスラムの大帝国が成立するのはまもなくのことであり,さらにその約40年後の1492年にはジェノヴァ人とされるコロンブスによる「新大陸発見」があるので,ようやく確立したヴェネツィアの覇権も恒久的ではない.


ポンポーザ
 繰り返しになるが,今回のツァーに参加しようと思った主たる動機は,ポンポーザに連れて行ってくれることだった.この地のベネディクト会修道院の蔵書には,私の研究対象であるローマ時代の哲学者にして政治家セネカが,ギリシア悲劇をラテン語で翻案した作品群の写本があった.

 古代の作品は,ほとんど全てが中世に書写された羊皮紙写本で後世に伝えられたが,セネカの悲劇の最も重要な写本である通称エトルスクス(E写本)が,11世紀にこの修道院にあったことが知られている.

 写本は,その後メディチ家が入手し,ローマにあったこともあるが,現在はフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に付属するラウレンティアーナ図書館にある.この修道院には多くのラテン古典の写本があったことが知られているが,修道院自体が17世紀には閉鎖され,一時は廃墟のようになっていたわけなので,もう古典の写本の類は一切残っていない.

 単に所蔵していただけなのか,あるいはこの修道院で有力写本の筆写も行われていたのかわかないが,ともかく私にとってはポンポーザと言う地名には魔術的な響きがあった.

写真:
大修道院教会の外壁の
テラコッタの唐草文様装飾


 イタリアの中部と北部に分かつ大河がポー河で,ラテン語名のパドゥス川を語源として,以北をトランスパダナ(パドゥス川を越えた地域)といい,そもそもローマ時代には,イタリアの内には数えられず,ガリア・キサルピーナ(アルプスのこちら側のガリア)と称され,ケルト人など非ラテン人が住む地域であった.

 アルプスに源流を発して,ロンバルディア平原を潤すように流れるポー川は,アドリア海に注ぐが,その直前一帯に大きな湿原を形成する.ポンポーザはそうした湿地帯に浮かぶ「島」であった.それでも中世初期にはエミリア・ロマーニャの肥沃な穀倉地帯の一角にあって,7世紀の創建と推定され,9世紀にはそれに言及した文書も存在するこの修道院は11世紀に最盛期を迎えた.

 大河にはよくあることであろうが,ポー川の河道が大きく変わることにより,単なる低湿地,沼沢地と化してしまい,マラリアが猖獗を極めたこともあって,12世紀以降は衰退の一途となる.


大修道院教会
 大修道院教会は,全体としてはロマネスク様式で,1方向にのみ下る屋根がかかるナルテックス(拝廊)があるのは,ラヴェンナの2つのサンタポリナーレ聖堂によく似ている.ただ,ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌォーヴォもサンタポリナーレ・イン・クラッセも,鐘楼はシリンダー型といわれる円筒形であるのに対して,こちらは四角錘の上に,円錐の屋根が乗ったロマネスク・ロンバルディア型に分類されるらしい.

 長い四角錘の上に円錐形もしくはそれに類似する屋根が乗っている鐘楼は今回,アクイレイアとグラードで見ているが,これらは窓が最上層の部分にしかなく,修道院教会の鐘楼は上部を軽くするために下の層から徐々に何層にもわたって窓が増えていくタイプのラヴェンナやローマで見た鐘楼と共通しているように思われる.むしろ,今回見ることができた鐘楼の中ではラヴェンナのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の鐘楼が最も良く似ているように思われる.

 サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの鐘楼は10世紀のもので,高さ42メートル,ポンポーザの鐘楼は1063年の建築で48メートル(いずれも伊語版ウィキペディアの該当箇所)で,近い時期に似た形で造られたということは影響関係があるのだろうか.サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタも場合も,ラヴェンナの教会の鐘楼でありながら,シリンダー型ではないということはロンバルディアの様式の影響を受けているということだろうか.

 ミラノの古い教会ではサンタンブロージョ聖堂の鐘楼は四角錘だが,円錐型の屋根は載っていない.サンテウストルジョ聖堂の鐘楼が四角錘の上の円錐屋根があるタイプだが,窓が下から徐々に増えてくるタイプではない.サン・マルコ教会も四角錘の上に円錐屋根があるタイプの鐘楼だが,それほど高い建物ではないように見える.サン・ゴッタルド・イン・コルテ教会の鐘楼は丈が高く,円錐型の屋根も載っているが,本体部分は優雅な八角錘で,14世紀の建造だそうだが,まったく違うタイプの鐘楼だろう.

 ミラノ以外に訪れたロンバルディアの都市はカスティリオーネ・オローナだけなので,今のところ他に材料は持っていない.カスティリオーネの参事会教会の鐘楼は四角錘の本体の上に円錐屋根が乗るタイプだが,丈が低く,窓が下から増えて行くタイプではない.

 1つの窓に仕切りがなく開口部分が1つなら,イタリア語でモノフォラ,仕切りがあって2つならビフォラ,3つならトリフォラ,4つならクァドリフォラ,さらにたくさんの場合はポリフォラという名称があるようだ.該当のイタリア語を電子辞書に入っているオックスフォード伊英辞典で引くと1つ目のものはsingle-lancet window,2つ目のものはmullioned window,3つ目はmullioned window with three lightsで3つ目はthreeをfourにするだけの言い換えとなるようで,英語はイタリア語のように一語であらわせないのかも知れない.ポリフォラは辞書登録がなかった.

写真:
大修道院教会と鐘楼
教会の向かい側にある
「修道院長の裁判所」
(パラッツォ・デッラ・
ラジョーネ)から


 ポンポーザの鐘楼は,基層の上に煉瓦の初層があり,4層まではモノフォラだが,窓が段々大きくなり,5層はビフォラ,6層と7層はトリフォラ,8層と9層はクァドリフォラで,同じ数なら上層の窓は下層の窓より大きい.

 よく比較の対象とされるらしい,フォルリのサン・メルクリアーレ大修道院教会の鐘楼は高さ75メートルとポンポーザの鐘楼よりも遥かに高いが,四角錘の本体に円錐屋根が乗るタイプで,確かに形は似ている.ただ窓は,最上層から,クァドリフォラ,トリフォラ,ビフォラが続き,2層下にモノフォラ,さらに2層下にビフォラがある他は,ごく小さなモノフォラが散在して,ポンポーザのように漸層的な印象はない.

 最もよく似ていると思われるラヴェンナのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の鐘楼でも,完全に漸層的なのは最上部3層のみで,比較してみると,ポンポーザの鐘楼は色々な意味でユニークな感じがする.

 サン・メルクリアーレには遥かに及ばないとしても,山が無いエミリア・ロマーニャの平原ではポンポーザの鐘楼は旅人のランドマークとなり,彼らに宿を供することも,この修道院の大きな収入源だったと聞いた.セネカの写本とは全く関係ないが,この鐘楼は非常に印象に残る.

写真:外壁に埋め込まれた陶器の装飾
    左)ポンポーザ大修道院教会のファサード  
    右)ボローニャのサン・フランチェスコ聖堂の塔 こちらはずっと新しいものだろう


 東方的な感じのする,唐草模様,鳥獣(孔雀,鷲,ライオン,生命の樹とグリフィンなど)と言った宗教的象徴性を感じさせる浮彫装飾,ところどころに嵌め込まれた陶器とその周囲の放射光型の模様とそれを囲む円環装飾印象に残る.

 この陶器装飾には当時高価であったエジプト産陶器が使われていると,

 金沢百枝/小澤実『イタリア古寺巡礼 ミラノ→ヴェネツィア』新潮社,2010(以下,金沢の執筆部分は金沢,小澤の執筆部分は小澤,写真等を参照する際は金沢/小澤)

に言及がある(p.117).

 ポンポーザに関しては,日本人の拝観記で参考になるものが少なくないが,そのうちの一つは特に参考になる.多くの人が心魅かれるということであろう.

 ポンポーザ大修道院の最盛期を現出した人物が,グイードという名の修道院長で,後に列聖されるが,同時期に,この修道院にもう一人,有名なグイードがいた.アレッツォのグイードという修道士で,西洋音楽の基礎である音階名を創出し,現在の5線譜につながる4線譜を発明した音楽家として知られる.後者に関しては小澤が詳述している(pp.118-119).



 大修道院教会は基本的にロマネスクで,堂内の床モザイクは,オトラント大聖堂で観たようなロマネスクの素朴な感じの鳥獣を描いたものの他に,コズマーティ風の幾何学的装飾もある.

 後陣や壁面を飾る旧約聖書,新約聖書の物語は,巨匠ヴィターレ・ダ・ボローニャとその工房による作品で,大作ではあるが,ジョットの完璧さと比べると,多くの点で物足りないように思える.それでもジョット以後のゴシックのフレスコ画を堪能させてくれる貴重な空間だ.

 堂内は全て撮影禁止なので,写真はないが,見るべき作品であろう.ヴィターレが好きな私だが,この教会に関しては,床モザイクにより魅かれる.

写真:
中庭から見える
ジョット派の画家の「磔刑」
参事会室の内部は撮影禁止
入口はゴシックの尖頭アーチ
両脇にビフォラの窓


 教会の隣りに回廊があり,その奥の教会に隣接せする部屋が参事会室(サーラ・カピトラーレ),その隣が博物館,そこから回廊を囲んで直角に連続する建物の中に「食堂」がある.

 参事会室には,ジョット派の画家による磔刑図と聖人たちを描いたフレスコ画,食堂には「玉座のキリストと聖人たち」を中心に,向かって左側に「最後の晩餐」,右側に「聖グイードの食事の奇蹟」を主題としたフレスコ画がある.

 食堂の作品はピエトロ・ダ・リミニに帰せられたことこともあったが,概ね14世紀にジョットの影響を受けた「リミニ派」の画家の作とされる.現地で入手できる案内書も,金沢/小澤(pp.114-115に「聖グイードの食事の奇蹟」の写真)もその立場だ.伊語版ウィキペディアがわざわざ「トレンティーノの親方」の可能性に言及しているのは,何か有力な根拠があるだろうか.しかし,この親方も「リミニ派の画匠」と説明されており,いずれにしてもリミニ周辺で活躍した画家の作品である可能性が高いのであろう・

 「リミニ派」に関して,特にこれと言うイメージを持っていないが,今後は「聖グイードの奇蹟の食事」の向かって左側に書かれた3人の貴族の典雅な姿と鮮やかな色彩が,私の「リミニ派」のイメージにつながるであろう.

 参事会室のフレスコ画でも「聖ベネディクト」と「聖グイード」を描いた作品は特に印象に残る.剥落が激しく,顔がもう分からなくなっているが「キリスト磔刑」もいかにもジョット風で好感が持てる.食堂と,教会の堂内で2つの「最後の晩餐」が見られたのも嬉しい.

 自由行動の時間になって,何度も参事会室と食堂のフレスコ画を観て,最後に,思い出すようにして博物館を見せてもらった.不勉強で特にこれというものには巡り合わなかったが,もしかしたら,この空間のどこかに古典の写本があり,修道士が筆写を行なったかも知れないと想像すると,その想像が誤解と思い込みによるものだったとしても,ポンポーザに来ることができた良かったと思わずにいられなかった.






雨こそ降ったが
どことなく明るい雰囲気
ポンポーザ大修道院