フィレンツェだより番外篇
2014年7月30日



 




通路を跨ぐ部屋の窓もヴェネツィア風
ヴェネツィア



§北イタリアの旅 - その8 (ヴェネツィア後編)

自由時間に,前ページで言及した以外にも複数の教会を訪ねることができた


 サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂はサン・ロッコ同信会の近くにあり,宿に帰る途中に再訪が叶った.前回は,写真撮影可だったが,今回は,管理方針が変わったか,入堂料を取って拝観できる教会は全て写真撮影不可となっていた.

 中央祭壇のティツィアーノ「聖母被昇天」,聖具室のジョヴァンニ・ベッリーニ「聖母子と聖人たち」に,あらためて感動した.この聖堂を「傑作の森」と呼びたいくらいで,ヴェネツィアに行ったら,必ず訪れたい場所であろう.

 他に,サン・バルナバ教会サン・トマ教会サン・ポーロ教会サン・シルヴェストロ教会サン・サルヴァドール教会を訪ねた.このうち,拝観できたのは,サン・ポーロとサン・サルヴァドールだけで,他は外観を見ただけに終わった.

 博物館のように入堂料を払って拝観するサン・ポーロには,ジャン=ドメニコ・ティエポロの作品群が,それこそ博物館のように展示されている一室があり,堂内でも幾つかの芸術作品に出会えた.サン・サルヴァドールでは,ローマの特別展で出会ったティツィアーノの「受胎告知」に再会できた.いずれも,写真撮影は禁じられていた.

 ティツィアーノの「受胎告知」は,ティントレットの傑作で埋めつくされたサン・ロッコ同信会の日本式に言うと2階部分の祭壇部近くでも1点観ることができた.サン・ロッコの作品が1530年代であるのに,サン・サルヴァドールの「受胎告知」は30年近く後の60年代の作品で,画家の死が64年なので,最晩年の作品ということになる.「最」に近い晩年の50年代後半の「受胎告知」もナポリのカポディモンテ博物館にあるようだが,見たことがない(と思う).

 サン・サルヴァドールの作品に魅かれる.ローマの特別展も光を落とした展示だったが,雨の日の夕方の暗い堂内での鑑賞には独特の雰囲気がある.それと気づかず,通り過ぎてしまわなかったのは本当に幸いだった.


イタリアのゴシック建築
 ヴェネティアン・ゴシックの傑作として知られるカ・ドーロは,有力な商人貴族のマリーノ・コンタリーニのために,当時のヴェネツィアを代表する建築家ジョヴァンニ・ボン(ボーノ)と息子のバルトロメオ・ボンが設計した.1412年のことなので,フィレンツェでは初期ルネサンスが始まろうとする頃だ.ヴェネツィアの「メイン・ストリート」とも言うべきカナール・グランデに面していて,全景を見るには水上からが最適だろう.

写真:
カ・ドーロ


 フィレンツェのルネサンスは,人文主義の萌芽に支えられた文学に関しては,14世紀後半にボッカッチョが活躍しており,15世紀を前に始まっていたと言って良いであろう.一方,視覚芸術に関しては,まず彫刻の分野において,1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のブロンズ・パネル制作者の伝説的な公募コンクールからルネサンスが始まったとされる.

 このコンクールでギベルティと同点首位で,共作するように言われたブルネレスキは,辞退して建築家の道を歩み始めたとされる.

 ブルネレスキは,後にフィレンツェ初期ルネサンス最高の彫刻家となるドナテッロとともにローマに行き,古代ローマの遺跡や遺物を見て大いに刺激を受けたとされている(1402‐04年).このローマ体験が,ルネサンス建築として花開くのは,捨て子養育院の開廊の設計を待たねばならず,それは1419年以後のことであり,その意味では,フィレンツェでも1412年にはまだ「ルネサンス建築」は始まっていなかったと言える.

 1412年丁度ごろに,フィレンツェやミラノで建てられた宮殿,邸宅,教会などは参考書を見てもわからない.

 Lorenzo Capellini, Architectural Guides: Florence, Torino: Umberto Allemandi, 1998 (2)
 Lorenzo Capellini, Architectural Guides: Milano, Torino: Umberto Allemandi, 1999

を参照しても,フィレンツェとその周辺では,ガッルッツォチェルトーザ修道院が14世紀後半の建築として挙げられた後,サンタ・トリニタ聖堂の聖具室が1420年にギベルティによって設計されたとされるのが,1412年に一番近い建築だ.上掲書で見る限り,ミラノ周辺では同時代の建築は有名なものがなく,少なくとも現存していない.

 ゴシック建築の特徴としては,高く聳える尖塔,光を取り込むステンドグラスに彩られた薄い壁体,それを支えるための飛び梁(フライング・バットレス),天井を支える交差リブ・ヴォールトとなどが挙げられ,スペインで観たゴシック建築聖堂などは,まさにこうした特徴を備えていた.

 それに対し,イタリアではこれらを全て備えた建築としてはミラノ大聖堂が挙げられるが,この建設が始まったのは1387年とされ,数十年後にはルネサンス建築の流行が始まろうとした頃である.

 フィレンツェではそれに先立って,ドメニコ会のサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,フランチェスコ会のサンタ・クローチェ聖堂,大聖堂が代表的なゴシック建築である.

 ノヴェッラ聖堂は,ファサードはロマネスクを意識したルネサンスだが,堂内と躯体はゴシックであり,クローチェ聖堂は,ファサードはネオ・ゴシックだが,やはり堂内に入るとゴシック教会であることがわかる.大聖堂もファサードは19世紀のネオ・ゴシック,クーポラは初期ルネサンスだが,堂内と側壁,後陣,鐘楼はゴシック建築である.鐘楼の設計はジョットなので,ゴシック(ゴティコ)と言う語を前代を貶める用語として使い始めたヴァザーリは革新者ジョットの設計した建築をゴシックと言ったら納得しないかも知れないが,やはり,ゴシックを感じさせる.

 では,上記のような特徴の他に,例えばジョットの鐘楼にゴシックを感じさせるものはなんだろうか.「尖頭アーチ(アーチ:英語版伊語版ウィキペディア)」(pointed arch / cusped arch)であろう.アーチの最古の使用は紀元前2千年紀のメソポタミアで,建築に多用して定着させたのはエトルリア人,それを引き継いで普及させたのはローマ人かも知れないが,これに関してはウェブページから情報を得られるくらいの知識も無いので,古い話は今は措くことにする.

 ロマネスク建築は,アーチを使い,厚い壁体と組み合わせることによって,教会建築の花を咲かせた.しかし,丸型(半円)アーチの場合,頂点にかかる力を大きなアーチでは支えきれない場合が出て,次代のゴシック建築はそれを,尖頭を導入することで解決した.構造のことは私にはわからないが,頂点にかかる力をうまく逃がすことができるらしい.

 アクイレイアの大聖堂はロマネスクよりも古い初期キリスト教建築の名残りが見られるが,それでも尖頭アーチが見られる部分は,明らかにゴシック時代の増改築とされる.

 小さいが交差リブ・ヴォールトが見事なフィレンツェのサン・レミージョ教会でも,尖頭アーチが見られ,同様に堂内に入れば,サンタ・トリニタ聖堂でも交差リブ・ヴォールトと尖頭アーチがある.

 フィレンツェ同様,ヴェネツィアでもゴシック様式が導入されたのは,フランチェスコ会のサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂と,ドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂とされる.

 そもそもイタリアでのゴシック建築の嚆矢は,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂とされる.ヴェネツィアの2つの聖堂は,見た目にも,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂や,フィレンツェの諸教会とは違うヴェネツィア風の建築であろう.


ヴェネティアン・ゴシック
 今回,「ヴェネツィア風ゴシック」について感想を述べてみようと思った理由は,

 Edoardo Arslam, tr., Anne Engel, Gothic Architecture in Venice, London & New York: Phaidon Press, 1972(以下,アルスラン)

のような本もあるように,ヴェネティアン・ゴシックに関しては,それに特化した紹介も少なくなく,イタリア文化について考える際に重要なトピックであろうと,漸くにして気づいたということだ.もちろん,これに関して,何かまとまった考えを抱き,意見を述べるほど,建築についても,ゴシックに関しても,専門的知識があるわけではないので,単なる感想を簡単にまとめるにとどまる.

写真:
カ・ドーロの開廊(ロッジャ)
両側にS字型カーヴを持つ
オージー・アーチ
(ogee arch)
に華やかな三つ葉と
四つ葉の装飾モティーフ


 上の写真のアーチ部分の上部は,英語ではオジー・アーチと言われるものであろうと思われる.ogeeは,電子辞書の『ジーニアス英和辞典』には,「オジー,葱花(そうか)繰形(くりがた)《S字形のように反転曲線を持つ繰形》」と説明されている.

 先端に近い部分が両側とも内向きであれば,オジー・アーチ,外向きであればリヴァース・オジー・アーチ,前者をイタリア語ではアルコ・オジヴァーレ・コンヴェッソ(凸状の),後者はアルコ・オジヴァーレ・コンカーヴォ(凹状の)と言うようだ(英語版と伊語版のウィキペディア).

 もしカ・ドーロの開廊のアーチ装飾が,これらのタイプに分類されるなら,どちらかと言えば後者が近いように思う.むしろトランプのスペード(子どもの頃「三つ葉」と言っていた)に似ているように思える.これらについては,どんな参考書を読んで良いのかわからないが,「望遠郷」には,アーチや柱頭の代表的な物を4ページに渡って紹介したページがある(pp.100-103.)

 「三つ葉」模様のアーチ装飾を英語でトレフォイル(trefoil)と言い,「四つ葉」(quatrefoil)とともに,ヴェネツィア風ゴシックの特徴的装飾として欠かせないものであるようだ.さらにアーチ上部の外枠部分をエクストラドス(extrados)と言い,エクストラドスの頂点が尖頭型になっているのが尖頭アーチで,外枠そのものが装飾的であるのがオジー・アーチなどということになる.

 いずれにしても「ゴシック」を感じさせる主たる要因は尖頭アーチであると言い切って良いであろう.尖頭アーチが躯体を支える構造の一部である教会の場合にくらべて,ヴェネツィアで目立つのは開廊や窓などのオジー・アーチと三つ葉,四つ葉モティーフによる装飾で,多くの場合,それらは教会ではない邸宅などの世俗建築に用いられている.

写真:
サン・ザッカーリア教会の後陣

穹窿天井のフレスコ画は
ジェローラモ・ペッレグリーニ
「聖ザカリアの栄光」
17世紀後半


 サン・ザッカーリア教会の後陣を天井を支える尖頭アーチは,アーチ自体は単純な尖頭アーチで,どのアーチにも,構造的な意味があるのかどうかは不明だが,真ん中に装飾的な柱が加えられているし,トレフォイル(三つ葉)による装飾も見られる.ファサードも,堂内身廊のアーチもルネサンス建築と思われ,後陣の尖頭アーチが本当にゴシックのものかどうかは今のところ情報がない.

 博物館になっているサン・タラージオ礼拝堂の「後陣」に描かれたカスターニョのフレスコ画は,古風だがルネサンスの芸術で,「後陣」はおそらく,ルネサンスの増改築の前のゴシック教会の後陣だったように思われる.やはり尖頭アーチが支えている.

写真:
ポルタ・デッラ・カルタ
左:サン・マルコ聖堂
右:総督宮殿


 総督宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)のサン・マルコ広場に面した開廊には,オジー・アーチであろう装飾的なアーチが並び,開廊の下のポルティコのアーチは,単純な尖頭アーチになっている.

 上の写真の中央は「布告門」とか,「文書門」と訳される,総督宮殿の入口であるポルタ・デッラ・カルタで,カ・ドーロを設計したジョヴァンニとバルトロメオのボン(ボーノ)親子の作品である.

 父ジョヴァンニの没年は1442年以降とされる(伊語版ウィキペディア)が,フィレンツェの初期ルネサンスを代表する,と言うよりはルネサンス建築の代名詞であるフィリッポ・ブルネレスキの没年が1446年とされるので,カ・ドーロにせよ,ポルタ・デッラ・カルタにせよ,地域によってはルネサンス建築が開花しようとしている頃の「ゴシック建築」と言うことになる.

 教会建築でもスペインではゴシック愛好がかなり遅くまで続くので,「好み」と言い切ってしまって良いのかも知れないが,やはりそれだけ優れた邸宅建築が続き,後に続く人々も建築家にそのような注文を出し続けたということだろう.

 フィレンツェでは,残っていないだけなのかも知れないが,教会はともかく,邸宅はルネサンス以降の建築が多く,ゴシックの時代のものはなかなか思いつかない.教皇党宮殿(パラージオ・ディ・パルテ・グエルファ)には尖頭アーチの装飾窓がある.

 また,洗礼堂のあるサン・ジョヴァンニ広場に面したビガッロ開廊(ロッジャ・デル・ビガッロ)にも尖頭アーチの装飾(オジー・アーチを使っている)と壁龕があり,地階部分は大きな2つの半円アーチがあるが,単純な尖頭アーチの入口の残っている.オルサンミケーレ教会も概ね半円アーチが使われているが,地階の壁龕と中層階,上層階の窓には尖頭アーチと三つ葉装飾が多用されている.半円アーチでも装飾がゴシック的な感じがする.教会ではあるが元々は世俗建築だった(穀物市場だったとされる)ようだ.

しかし,フィレンツェの町を歩いていて,尖頭アーチを意識することは,少なくとも私は全く無かった.


 今回特に,水上タクシーや水上バス(ヴァポレット)に乗ることができて,運河から建物を見上げる体験をしたので,余計に,世俗建築のゴシック装飾が目に入った.それに先立ってヴィチェンツァでも,パッラーディオの建築もさることながら,ヴェネツィア風であろうゴシック装飾の邸宅に大いに心魅かれた.


フランチェスコ・フォスカリ
 総督宮殿のポルタ・デッラ・カルタは,年代的に新しいばかりでなく,狭い壁面に過剰な装飾が施されているように見え,「ゴシック」という語に私が感じる武骨感に乏しい.

 扉上の聖マルコの象徴物である有翼のライオンの前に跪いている人物は総督(元首)フランチェスコ・フォスカリで,彼はフィレンツェと連携してフランチェスコ・スフォルツァ率いるミラノの脅威を退け,文化面でもアンドレーア・デル・カスターニョを招く(1443年)など,言って見れば,フィレンツェのルネサンスをヴェネツィアに受容する旗振り役となった人物と言えよう.

 彼の在位中にヴェネツィアはイタリア本土での領土が最大となり,傭兵隊長として有名なガッタメラータことエラーズモ・ダ・ナルニとバルトロメオ・コッレオーニが活躍した.前者の没年が1443年,後者はその時,40代の壮年で,両者ともフィレンツェの芸術家に手になるブロンズの騎馬像で知られる.

 前者の彫像(1446-53年)はドナテッロの作でパドヴァのサンタントーニオ聖堂の前にあり,後者の彫像はヴェロッキオの作でヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の広場にある.ただし,後者の彫像ができたのはコッレオーニの死後の1480年以降で,これはフォスカリのあずかり知らぬことだが,それにしても,ヴェネツィアのルネサンスにはやはりフィレンツェの影響の意識的受容が大きな意味を持っていることになる.

 息子ヤーコポの収賄事件に連座して総督の座を追われ,翌1457年に失意のうちに亡くなったとはいえ,人望も厚く,人気もある総督であったので,彼は後継総督の手で,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂に葬られた.彼の大きな墓碑は,フィレンツェ近郊の生まれで,ドナテッロの弟子だった可能性があるが,多くの仕事は現在のクロアチアでなされた彫刻家ニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノの作であり,最後までフィレンツェの芸術が彼と深く関係した.

 ドナテッロやヴェロッキオが純粋にフィレンツェの芸術をヴェネト州にもたらしたのに比して,ニッコロの場合は,墓碑の様式も,オジー・アーチが装飾に使われるなど,やはりヴェネツィア風ゴシックを取り入れているように思う.彼の肖像画を描いたラッザーロ・バスティアーニの作品にも国際ゴシックの遺風が残っているよう見えるが,この時期のヴェネツィアの芸術は,フィレンツェ・ルネサンスを積極的に受け入れたフォスカリの周辺でも,ゴシックの特徴が濃厚と言えよう.

 伊語版ウィキペディア「後期ゴシック」(タルド・ゴティコ)に拠れば,「後期」の範囲は,1370年頃以降,場合によっては15世紀のかなり遅くまでに及び,相互に重なる部分もあるがゴティコ・インテルナツィオナーレ(「国際ゴシック」),ゴティコ・フィオリート(「華麗ゴシック」と訳して良いだろうか),ゴティコ・コルテーゼ(「宮廷ゴシック」だろうか),ゴティコ・フィアンメッジャンテ(「火焔様式」と訳されることもあるフランス語のフランボワイヤンと言う語を使って「フランボワイヤン・ゴシック」とでも訳すべきか)などに分類され,カ・ドーロやポルタ・デッラ・カルタを説明する時,ゴティコ・フィオリートと言う語(英語では florid gothic)が良く使われるようだ.

 ヴェネツィアにおけるゴティコ・フィオリートの傑作として,カ・フォスカリが挙げられる.もともとあった建物(カーザ・デッレ・ドゥーエ・トッリ「双塔邸」)を1452年にフランチェスコ・フォスカリが購入し,バルトロメオ・ボンに全面改築を依頼して,現在の姿になった.

 この邸宅には現在はヴェネツィア大学(ウニヴェルシタ・カ・フォスカリ・ヴェネツィア)が入っている.依頼者のフォスカリがこの邸宅に住んだのは伊語版ウィキペディアによれば死の直前のほんの数日,日本語版ウィキペディア「カ・フォスカリ」に拠れば7日間だけだったとのことだ.


サン・マルコ広場のヴェネツィア風ゴシック
 フランチェスコ・フォスカリの失脚と死は1456年と1457年であり,レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生は1452年,豪華王ロレンツォ・デ・メディチの誕生が1449年,その祖父コジモの死が1464年で,フォスカリがヴェネツィアに招いたフィレンツェの芸術家アンドレーア・デル・カスターニョも1457年に亡くなっているが,フィレンツェの初期ルネサンスを代表するパオロ・ウッチェッロ,ドナテッロ,ルーカ・デッラ・ロッビアらは,まだしばらく活躍する.

 忘れてはならないのは,1453年にオスマン・トルコによって,ビザンティン帝国が完全に滅ぼされたことである.もともとコンスタンティノープルの政権と深いつながりを持ち,初期にはその庇護を利用して商業国家としての勢力を拡大したヴェネツィアは,サン・マルコ聖堂を始めとして,ビザンティン文化の深い影響を受けている.

 もともと北東イタリアに位置しており,周辺には先進都市もあったヴェネツィアが,地域的多様性を持つとは言え,イタリアで生まれた文化の中で成長したことは言うまでもないだろうが,ラヴェンナなど東ローマ帝国の総督府があった特殊な町は別格として,ヴェネツィアは圧倒的にビザンティンの影響を受けている.

 しかし,その庇護を脱し,「アドリア海の女王」となり,地中海貿易に進出していく過程で,もちろんビザンティンやイスラムの影響を受け続けたことは間違いないだろうが,アルプスの向こうから来たゴシック,ヴェネツィアにとっては南方に位置するフィレンツェのルネサンスを受容してヴェネツィア独自の文化をさらに磨き上げた.

 既にイタリア・ルネサンスの花が咲こうとしている時代の「ヴェネツィア風ゴシック」は雄弁にそれを物語ってくれるように思われる.

写真:
右上:サン・マルコ聖堂の鐘楼
右下:鐘楼の小開廊
左:サン・マルコ図書館


 ヴェネツィアの中心はサン・マルコ広場で,ここにサン・マルコ聖堂も総督宮殿もある.前者がロマネスクの時代にビザンティンの影響を受けた建造物とすれば,後者はゴシックの時代に今の姿ができ,その完成形が「ヴェネツィア風ゴシック」と言って良いかも知れない.この広場に高く聳えるのが,サン・マルコ聖堂の鐘楼である.

 落雷(1489年)や地震(1511年)に襲われたこの鐘楼の,現在の姿の原形ができたのは16世紀前半であり,さすがにゴシックの時代は終わっている.再建を任された建築家はピエトロ・ボンで,バルトロメオの息子とされる.他にはサン・ロッコ同信会の建物が彼の作品とされるので,同時代には評価された建築家と言えよう.ただし,現在の鐘楼は,1902年の完全崩壊を受けた1912年の再建であるが,その姿は1513年に完成した時と同じものとされる.

 鐘楼の下に小さいが美しい開廊がある(上の写真).「鐘楼の小開廊」(ロッジェッタ・デル・カンパニーレ」)とも,「サンソヴィーノの小開廊」とも呼ばれる.後者の呼称によって察せられるように,設計者はフィレンツェの芸術家ヤーコポ・サンソヴィーノ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 ヤーコポ・サンソヴィーノは本姓はタッティでありながら,血縁の全くない師匠のアンドレーア・サンソヴィーノ(英語版伊語版ウィキペディア)からその名乗りを引き継いだもので,そもそもサンソヴィーノと言う名も,アンドレーアがアレッツォの近くのモンテ・サン・サヴィーノと言う町の出身で,若干発音が変化した通称となったようである.

 アンドレーアにも,ポルトガルのコインブラ大聖堂(日本語版ウィキペディア「コインブラの旧大聖堂」は伊語版より遥かに詳細)の側壁の門ポルタ・エスペシオーサなどの作品(ポルトガル語版ウィキペディアでは別の作者)もあるようだが,基本的には建築家と言うよりは彫刻家と言って良いだろう.

 私たちが目で見て,思い出せるのは.フィレンツェの洗礼堂の「天国の門」の上に飾られた「キリスト洗礼」(ただし,「天国の門」同様,もとの場所にあるのはコピーで,本物は大聖堂博物館にある),ローマのサンタゴスティーノ聖堂の柱に描かれたラファエロのフレスコ画の近くにある「聖母子と聖アンナ」の大理石彫刻だ.

 それに対し,ヤーコポは,彼の彫刻作品に関しても,今回ヴィチェンツァで見ているし,可能性としてはフィレンツェのバルジェッロ博物館でも彼の作品(聖母子聖ヤコブバッカス)を見ているかも知れないが,彼の偉大さはやはり建築家としての業績に拠るのであろうと思われる.

 確かに彼はヴェネツィアでも彫刻作品を多数残しているが,それは彼の建築に付随するものである場合が多いようだ.ティツィアーノの「受胎告知」に再会したサン・サルヴァドール教会に,「総督フランチェスコ・ヴェニエルの墓碑」があったようだが,残念ながら見逃した可能性が高い.この墓碑にもヴェネツィア的特徴はあるのかも知れないが,簡素な古典主義的外観は写真で見る限り,フィレンツェのルネサンス芸術の系譜を引くもののように思われる.

 「鐘楼の小開廊」も幾何学的均衡感に支えられたルネサンス芸術であるが,同じくサンソヴィーノ設計のサン・マルコ図書館(ビブリオテーカ・ナツィオナーレ・マルチャーナ)とともに,対峙するサン・マルコ聖堂や総督宮殿と違和感なく調和している.サンソヴィーノ芸術のサン・マルコ広場における存在感は相当大きなものと思われる.古典学者垂涎のホメロスの写本(通称ヴェネツィアA写本)もサン・マルコ図書館にあり,この建物をパッラーディオは絶賛したとのことである.

写真:
ファサードにある5つの
扉の向かって一番右側

上部の穹窿天井には
「アレクサンドリアを出発
する聖マルコの遺体」の
モザイク(17世紀)


 サン・マルコ聖堂は西側にファサードがあり,5つのポルターユがある.それぞれにアーチがかかっていて,穹窿天井(英語ではコンクもしくはコンカ,イタリア語ではカティーノ)のある奥行きのある空間になっている.

 奥まったところにはまたアーチがあって,その下に扉があるが,5つのうち両端の2つは奥のアーチが玉ねぎ型の尖頭アーチで,それぞれの端から2つ目は,奥も半円アーチだが,その上部にカ・ドーロの開廊のような3連の装飾的オジー・アーチが付されている.中央のポルターユを除いて,すべてヴェネツィア風ゴシックの装飾が施されている.

 コンクのモザイクは17世紀から19世紀の作で新しいが,向かって左端のポルターユは「聖アリピウスのポルターユ」(ポルターレ・ディ・サンタリピオ)という名前がついており,ここのコンクのモザイク「聖マルコの遺体を聖堂に搬送する行列」は13世紀もので古い.玉ねぎ型アーチの下の浮彫装飾も魅力的だ.

 それにくらべれば,向かって右端のポルターユ(上の写真)は,地味だが,ビザンティン建築の様式で知られるサン・マルコ聖堂にあって,ともかく聖アリピウスのポルターユと並んでヴェネツィア風ゴシックの装飾が,施されている部分として注目に値するだろう.


町を歩いて
 ヴェネツィアの町を歩いていると,ヴェネツィア風ゴシックの装飾に目が行く.ところが,写真や参考書,ウェブページなどで確認すると,邸宅建築は意外にルネサンスやバロック,あるいはそれ以降のものが多い.有名な邸宅や宗教建築は,ヴェネツィアの遅いゴシック期以降に改築,新築されていて,もしかしたらヴェネツィア風ゴシックの装飾は実際のところ,それほど多くないのかも知れない.

 それでも,街の中の宗教的モニュメントや一般の建造物には,たとえ後でとってつけたようなものであっても,「ヴェネツィア風ゴシック」と認識される特徴を備えたものが少なくないように思える.

 僅かに2度,それぞれ1泊と2泊しただけのヴェネツィア滞在であり,何がわかろうはずもないが,前回も,今回もかなりの距離を地図を見ながら(地図を見るのはもっぱら妻だが)自分の足で歩いて,「ヴェネツィア風ゴシック」がこの街の魅力のかなりの部分を支えているという印象を受けた.

写真:
ゴシック風装飾のある門


 上の写真は,カステッロ地区のサン・プロヴォロ広場とサン・ザッカーリア広場の間の通りにあるゴシック風装飾のある門で,他に情報がないが,あるウェブ・ページには制作者はバルトロメオ・ボンの可能性がある,ゴティコ・フィオリート(華麗ゴシック)様式の作品とされ,聖母子と聖人たち(聖マルコと洗礼者ヨハネ)の浮彫と玉ねぎ型のアーチの上には,「父なる神」の像もある.

 バルトロメオの作品とする根拠は不明だし,他に情報が見つからないが,おもわずそう思いたくなるほど目を惹く.

写真:
カ・フォスカリ
ヴェネツィア大学の入口


 ヴェネツィアでフィレンツェ・ルネサンス受容を推進しながら,地元の建築家にはヴェネツィア風ゴシックの様式を残した建物を注文していた総督(元首)フランチェスコ・フォスカリが,死の直前の数日間住んだというカ・フォスカリは,今回はそのヴェネツィア風ゴシックの外観を運河側から見るチャンスがなかった.上の写真は陸側の入口だ.「カ・フォスカリ大学」と言う文字が読み取れるので,何か新しい感じもあるが,プット(有翼の幼児)が両脇から支える紋章(ステンマ)は,4分の3は削り取られているが,ヴェネツィアを象徴する聖マルコのライオンは向かって左上に残っている.

 このポルターユのエクストラドスが尖頭アーチになっていることは見た目に明らかだが,尖端から下に向かう前に一旦内側に曲がっていて,であれば,リヴァース・オジー・アーチ(アルコ・オジヴァーレ・コンカーヴォ)であろうかとも思うが,英語版,伊語版のウィキペディアに示された概念図などを見ても,そのものズバリではないように思え,上掲のアルスランでは,「三つ葉装飾を使わない,単純な屈曲アーチ」(simple inflected arch, not trefoiled)(p.155)という言い方も見られるので,上でオジー・アーチと言ってしまったのが正しいかどうかわからない.違うような気がするが,自分の理解のプロセスと言うことで,そのままにしておく.


「マルコ・ポーロの家」
 アルスランの上掲ページには,「マルコ・ポーロの家」とそれに囲まれた「百万氏の第2の中庭」への言及がある.アルスランによれば14世紀の痕跡が見られるということなので,フォスカリやボン父子が活躍した15世紀前半から中ごろより前の時代のヴェネツィア風ゴシックということになる.

 マルコ・ポーロはアジアから帰還した後,ジェノヴァとの戦争で捕虜になり,最終的な帰国は1299年とされ,サン・ジョヴァンニ・クリソストモ(グリソストモ)地区の父と叔父が購入していた屋敷に住んだのが,下の「中庭」の周辺であったらしい.マルコ・ポーロが住んだ家かどうかはわかない(この「中庭」を運河の方に出たところに,「マルコ・ポーロの家」と言う1881年のプレートがある)が,地域的にも,時代から言っても可能性は皆無ではない.

 日本で『東方見聞録』と言う呼ばれている書物は,現存最古の写本は中世フランス語に拠るものだが,題名はフランス語では「世界の数々の驚異の書」,イタリア語では「イル・ミリオーネ」(百万の人)とされており,後者は口述者(筆記者はルスティケッロ・ダ・ピーザ)であるマルコが語る異国の物語が,ヴェネツィア市民たちにおおげさに聞こえたのでついた仇名とされることが多い.一応「百万氏」と訳しておく(英語版,伊語版,日本語版ウィキペディアの「マルコ・ポーロ」を参照した.このうち英語版には,この「中庭」への言及があり,写真も載っている).

 「中庭」の名称に使われているミリオンはミリオーネの別形であろう.

 この家に関するアルスランの記述は,少しわかりにくかったので,完全には理解していないが,下の写真の向かって右側の2層目の明かり窓(light window)が,「三つ葉装飾の無い,単純な屈曲アーチ」と言うことであろうと思われる.アルスランは3つと言っているが,4つある.写真には写っていないが,3層目にもシンプルな尖頭アーチの窓が1つある.

 しかし,現場ではこちらには目が行かず,写真中央の三つ葉装飾がある4連の明かり窓に目が行った.既に「窓」として機能していないものもあるが,このような装飾アーチがオジー・アーチであろうと思ったのだが,アルスランの言い方を応用すれば「三つ葉装飾が施された屈曲アーチ」(trefoiled inflected arch)と言うことになろうか.



 時間も限られ,にわか勉強程度では補強にもならないほど元々の知識が不足しているので,半端な報告になってしまった.アルスランの著書は,系統だって歴史的経緯を整理し,イスラムやイングランドなどの影響を指摘し,1450年前後まで続くゴティコ・フィオリート(アルスランの英訳本でははflorid gothicではなくfloriated gothicと訳されている)で頂点を迎えるように論が構成されているように思える.折角の蔵書なので,今後きちんと読んで勉強したい.






コルテ・セコンダ・デル・ミリオン(百万氏の第2の中庭)で
2つのグループのガイドが説明中
少し離れて「マルコ・ポーロの家」の窓にカメラを向ける