フィレンツェだより番外篇
2014年7月13日



 




ジョヴァンニ・ベッリーニ 「玉座の聖母と聖人たち」(部分)
サン・ザッカーリア教会



§北イタリアの旅 - その7 (ヴェネツィア前篇)

ジョヴァンニ・ベッリーニの絵は美しい.ヴェネツィア派の傑作をたくさん見ると食傷する私も,ジョヴァンニの作品は幾つ見ても飽きない.


 ジョヴァンニ・ベッリーニ(ジャンベッリーノと言うのはやはり気恥ずかしい)の他にヴェネツィアの画家の中で好きなのは,ゴシックの画家たちや,国際ゴシックの流行をヴェネツィアその他で活かしたヤーコポ・ベッリーニ,ヤコベッロ・デル・フィオーレ,カルロ・クリヴェッリ,新しい流行を取り入れながらも古くさく見える絵を描き続けたヴィヴァリーニ一族だ.

 そしてもうひとり,決して古くさくはないが,古格を備えたヴィットーレ・カルパッチョがいる.


カルパッチョ
 カルパッチョの名を知ったのは,イタリア滞在中のことだ.それ以前にも,写真で彼の作品を見ていたようだが,実際に作品を観た記憶はない.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,ウフィッツィに少なくとも素描を含む2点があり,ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館にも少なくとも1点あるようなので,最初の出会いはフィレンツェかヴェローナの可能性もあるが,いずれも観た記憶がない.

 本格的な出会いは2008年,滞在中たった一度だけ行ったヴェネツィアだっただろう.アカデミア美術館と総督宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ),コッレル美術館で観たカルパッチョの作品は,その名前とともに,私の心に深い印象を残した.

 その後,ミラノのブレラ絵画館,アヴィニョンのプティ・パレ美術館,パリのルーヴル美術館で彼の作品を観る機会があった.

 2011年に江戸東京博物館で開催された特別展「魅惑の芸術 千年の都 世界遺産ヴェネツィア展」でも,総督宮殿の「サン・マルコのライオン」,コレル美術館の「二人の貴婦人」(「娼婦」ではなく,「貴婦人」とされることに関しては,同特別展図録参照)(英語版伊語版ウィキペディア),「聖母子と洗礼者ヨハネ」,また同美術館所蔵で,特別展図録では「フェッラーラないしはボローニャの画家」の作品とされているが,カルパッチョ作とされることもある「赤いベレー帽を被る貴族の男」を見ている.



 2008年の一泊旅行で観た作品の他にも,ヴェネツィアにはまだ複数のカルパッチョの作品があることを知っていたので,今回の2日間のヴェネツィア滞在では,カルパッチョを観ることが漠然としたテーマのひとつであった.

 カ・ドーロのフランケッティ美術館では「受胎告知」(真作ではなく,帰属作品とされることもあるようだ)を見ることができたし,アカデミア美術館では「聖ウルスラの物語」(英語版伊語版ウィキペディア)と再会した.この作品は見応えがある.「キリストの神殿奉献」も佳品であろう.

 カルパッチョは,私たちがミラノで出会い,写真も紹介したパドヴァ出身の画家ラッザーロ・バスティアーニ(彼の作品も上記特別展に2点来ていたことは図録で確認できるが記憶にない)の工房で修業したようだが,ベッリーニ兄弟の影響があることは,アカデミア美術館の連作物語画,祭壇画から,素人目にも明らかだろう.

写真:
サン・ジョルジョ・デイ・スキアヴォーニ
同信会のファサード浮彫彫刻
「聖母子と聖人たち」(上)
(聖人は洗礼者と聖カタリナ)
「龍を退治するゲオルギウス」(下)
イオニア式柱頭の装飾柱なので
ルネサンス以降(15-16世紀)


 観たいと思っていたサン・ジョルジョ・デイ・スキアヴォーニ同信会(スクオーラ)の堂内に描かれた一連の作品も,自由時間を利用して首尾よく観ることができた.

 伊語版ウィキペディアでは,この連作を次のように分類して,それぞれ紹介ページにリンクしている.

 1.ゲッセマネの祈り
 2.聖マタイの召命
 3.書斎の聖アウグスティヌス
 4.修道院での聖ヒエロニュムスとライオン
 5.聖ヒエロニュムスの葬儀
 6.聖ゲオルギウスと龍
 7.ゲオルギウスの勝利
 8.シレナ人たちの洗礼
 9.怪獣を鎮まらせる聖トリュフォネ

 このうち,1-7は良く知られているので,説明の必要はないだろうし,私も観た時に特に不明な点は無かった.8に関しては,6,7との連続性から,シレナ人と言うのが,北アフリカの町の人たちで,『黄金伝説』の「聖ゲオルギウス伝」で言及されている(原文を見ていないので,「シレナ」は人文書院版の訳語)ことを付記するべきであろう.9に関しては,全く初めて知る話だった.

 聖トリュフォネ(英語版伊語版ウィキペディア)は,3世紀のプリュギア(小アジア)のカンプサダ出身の聖人で,その名は「やさしさ」を意味するギリシア語に由来するとのことだ.少年時代にガチョウを世話したことから,動物の病を癒す,「報酬を受け取らない聖人」(ギリシア語で「ハギオイ・アナルギュロイ」と言い,メディチ家の守護聖人としても知られるコスマスとダミアヌスも入る)に分類される.デキウス帝の迫害の時に,後世,公会議で有名となるニカイアに連行され,異教徒の属州総督リキウスを改宗させたが,結局,拷問の後,斬首の刑に処された殉教聖人だ(以上,英語版ウィキペディア).


「書斎の聖アウグスティヌス」
 今回の旅行で観ることができたカルパッチョの作品では,このサン・ジョルジョ同信会の絵が最も印象に残る.特に,これまで何度も写真で見た「聖ゲオルギウスと龍」は,実際に観ることができた作品の中で最高傑作に思える.

 同じく写真では何度も見ている「書斎の聖アウグスティヌス」は,カルパッチョと同時代の人文主義者たちの書斎を想起させる以外に,何の予備知識もなければ,一体何が描かれているのだろうかと疑問が湧いてくる.

 これについては,もちろん,ウェブページ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,英語版,伊語版ウィキペディア)にも情報があるが,幸いにも,日本語で読むことができる参考書が存在する.

 フランチェスコ・ヴァルカノーヴァ,篠塚二三男(訳)『カルパッチョ』(イタリア・ルネサンスの巨匠たち23)東京書籍,1995(以下,ヴァルカノーヴァ)


 それに拠れば,アウグスティヌスがヒエロニュムスに手紙を書いていると,ヒエロニュムスが自分はこれから天に召されると語る声が聞こえたと言う奇蹟の場面が描かれている.両者は同時代人であり,手紙をかわしたことは『黄金伝説』のそれぞれの項目にも言及されている.しかし,私が見た限り,『黄金伝説』にはこの奇蹟に関する記事はない.

 あるいはカルパッチョが『黄金伝説』の他に典拠にしたとヴァルカノーヴァが言っている,15世紀末のペトルス・デ・ナタリブス(ピエトロ・デ・ナターリ)(名前の表記は伊語版ウィキペディアを参考にした)の『聖人目録』,1485年にヴェネツィアで出版された『聖ヒエロニュムスの生涯と死』に述べられているかも知れない.

 先行するアントネッロ・ダ・メッシーナの「書斎の聖ヒエロニュムス」(1475年頃,ロンドン・ナショナル・ギャラリー)の影響を受けているのであろうが,アントネッロの作品の徹底した静謐さに比べ,画面向かって右端で顔をあげて耳を澄ます聖人,左下で聖人を見上げる白い子犬,背景の祭壇によって構成される奥行きのある三角形が,静謐な空間に聴こえるはずのない声が聴こえた瞬間の動きを表現していて,カルパッチョ作品の独創性が感じられる.

 その前日にカステルフランコで観たジョルジョーネ作とされるフレスコ画(1496-1500年頃)のある部屋や,博物館内に復元された人文主義者の書斎を思い起こすとともに,フィレンツェのオンニサンティ教会のギルランダイオ作の「聖ヒエロニュムス」,ボッティチェリ作の「聖アウグスティヌス」(どちらも1480年)を連想しないではいられない.人文主義が時代の流行現象だったのだ.

 スキアヴォーニ同信会の仕事は1502年から1507年になされ,「書斎の聖アウグスティヌス」は1502年に描かれたとされており(伊語版ウィキペディア),キリスト教的主題に人文主義の嗜好を織り込んだ,いかにもルネサンス的作品と言えよう.ヴェネツィアで最も観たかった作品を観ることができて嬉しかった.

 受付で,英訳版案内書

 Guido Perocco, Guide to the "Scuola Dalmata" of St. George and St. Tryphone Called S. Giorgio degli Schiavoni, Mestre: Grafiche Liberalato, 2013

を購入した.それに拠れば,日本式に言うと1階には一連のカルパッチョ作品の他に,教会で言えば中央祭壇にあたるところに「玉座の聖母子」があるが,これは,巨匠の息子ベネデット・カルパッチョの作品とのことだ.ヴィチェンツァでバルトロメオ・モンターニャの息子の作品を見ることができたように,ヴェネツィアでもカルパッチョの息子の作品を見ることができた.

 名画集等では,ほとんど見ることできないので,現地ならではの鑑賞と言えよう.私には佳品に思える.2階部分にもアントニオ・ヴィヴァリーニ派の作品とされる聖人像(ヒエロニュムスとトリュフォネ)など,まずまずの見応えの作品もあり,ヴェネツィアで余裕があれば,スキアヴォーニ同信会は是非とも訪ねるべきであろう.


カルパッチョの評価
 カルパッチョに関しては,他に,

 Peter Humfrey, tr., Odile Menegaux, Carpaccio: Catalogue complet, Paris: Bordas, 1992(以下,ハンフリー)

を参照した.もともと,フィレンツェのカンティーニ社から出版されたシリーズで,日本でも,ジョット,シモーネ・マルティーニ,マザッチョ,アンドレア・デル・サルト,ヴァザーリの翻訳が京都書院から出たが,出版社の倒産に伴い,邦訳の企画そのものが中断されたようだ.上記5冊の邦訳は,古書店で入手して持っているが,カルパッチョに関しては,最終巻のヴァザーリの巻末の「カンティーニ美術叢書」の刊行予定は10巻までとなっており,まだ企画段階にも入っていなかったようだ.

 神田の源喜堂で,仏語訳が安かったので入手した.大学の1,2年で学んだだけなので,特にフランス語がスラスラ読めるわけではないが,やさしい仏語訳で,用語も既知のものが多いから,辞書なしでほぼ読むことができる.

 それに拠れば,カルパッチョの経歴の絶頂は,1507年の7月27日であり,この時彼は総督宮殿の大広間の装飾画をジョヴァンニ・ベッリーニとともに担当すべく,ヴェネツィア共和国政府から招聘を受けた.

 カルパッチョの生年は不明だが,1465年頃とすれば(ヴァルカノーヴァ,p.3),ジョルジョーネより10歳以上年長の可能性が高い.それにしても,ジョルジョーネの新しさに比べ,カルパッチョの絵は何と古風に見えることだろうか.それでも総督宮殿の仕事を依頼された時,夭折したジョルジョーネはまだ存命であり,この時点で,公的仕事をベッリーニとともに請け負うことのできる画家と評価されていたことは,銘記されて良いであろう.

 総督宮殿の作品は,後年の火事により失われてしまい,カルパッチョの評価も下がるばかりで,近代になって再評価されるまでは忘れられた画家,もしくは「薄っぺらな物語画家,風俗画家」(ヴァルカノーヴァ,p.71)と言う評価しか得られなかった.

 この画家が描いた人物の顔を写真で見ていると,出来不出来がかなりあるように思え,上質な作品でも特に魅力を感じない.しかし,今まで実際に観ることができた作品で,ヴェネツィアのアカデミア美術館の「聖ウルスラの物語」連作,「イエスの神殿奉献」,ミラノのブレラ絵画館の「聖母マリア神殿奉献」,「聖母の婚約」,「聖ステパノの論争」,ルーヴル美術館の「聖ステパノの説教」には心魅かれた.アヴィニョンのプティ・パレ美術館の「玉座の聖母子と聖人たち」も傑作とは言えないが佳品だ.

 このうち「聖ウルスラの物語」は「聖ウルスラ同信会」,「聖母マリアの神殿奉献」と「聖母の婚約」は「アルバニア人同信会」,「聖ステパノの説教」と「聖ステパノの論争」は,「聖ステパノ同信会」のために描かれた.

 この時代,ヴェネツィアに「同信会」(スクオーラ)は多数あったようだが,「大」のつく同信会(スクオーラ・グランデ)で16世紀に存在したものは6つで,そのうちカルパッチョが仕事をしたのは,「福音書記者聖ヨハネ大同信会」のみのようだ.

 同信会の現存する建造物と内部の芸術作品に関しては,今回はスキアヴォーニ同信会の他に,サン・ロッコ同信会(スクオーラ・グランデ)を見ることができた.同信会に関しては,後者について報告する時にまとめるが,サン・ロッコとスキアヴォーニを比べても明らかなように,カルパッチョがかかわった同信会は,サン・ジョヴァンニを除いて,数多あった小規模な同信会であったようだ.

 スキアヴォーニは「スラヴ人」と言う意味なので,スキアヴォーニ同信会はヴェネツィアに貿易その他の理由で居住していた,主として現在のクロアティアに属しているダルマティア地方出身のスラヴ人で構成される同信会であった.

 さらに,カルパッチョはアルバニア人同信会に作品を残し,晩年を過ごした場所がイストリア地方(同地方は現在ではイタリア,スロヴェニア,クロアティアに属している)とされることもあり,彼の家系の出自をイストリア,ダルマティア,アルバニアなどに求める考えもあるようだが,ヴァルカノーヴァにも,ハンフリーにも全く言及がない以上,彼の出自や生涯には不明な点が多いとしておくしかないだろう.



 ヴァザーリがカルパッチョの伝を立てているかどうか参照して見たが,邦訳の3冊本(白水社)には見当たらず,エヴリマンズライヴラリーの英訳版を紐解いて見ると,全4巻中の第3巻の目次に,「ヴィットーレ・スカルパッチャとその他のヴェネト,ロンバルディアの画家たち」と言う「伝」が立てられている.

 英訳者(ハインズ)の訳注も,スカルパッチャはカルパッチョとしているだけでなく,「聖ウルスラの物語」にも言及しているので,間違いなくカルパッチョであろう.

 この画家をヴァザーリは,「これらの人びとの中で第一人者」と言っているので,高評価を与えていることになる.何と言っても「その他の画家たち」の中には,ステファノ・ダ・ゼヴィオ,アルティキエーロ(アルディギエーリ・ダ・ゼビオ),ヤコベッロ・デル・フィオーレ,グァリエント(グァリエーロ),ジュスト(ダ・メナブオイ),ヴィンチェンツォ・フォッパ,チーマ,バルトロメオ・ヴィヴァリーニ(ヴィヴァリーノ)など,私が,ヴェネト,ロンバルディアで目を見張り,心魅かれた芸術家たちが入っている.

 メナブオイをヴァザーリは「パドヴァの画家」と言っているが,この画家がフィレンツェ出身だったことを,フィレンツェで活躍した芸術家でもあった伝記作家は知らなかったことになる.

 私見では,これらの画家の中で,最高水準なのはアルティキエーロ,グァリエント,フォッパであり,カルパッチョが好きな私も,ヴァザーリの見解には賛成しない.しかし,これらの時代や地域の異なる画家たちを並べて,「第一人者」と評価したヴァザーリの考えは尊重したい.私はヴァザーリの意見には賛成ではないが,カルパッチョはそう言われるのに値する画家だと思う.

 「聖ウルスラの物語」の他に,同じく現在はアカデミア美術館にあるが,当時はサン・ジョッベ教会(英語版伊語版ウィキペディア)にあった「イエスの神殿奉献」に言及し,大体のところ「聖母は立姿で,儀式用の外衣をまとったシメオンは枢機卿の衣を着た2人従者の間に立ち,聖母の後ろには2人の女性がいて,1人は2羽の鳩を抱えている.下方には,3人の少年がそれぞれリュート,管楽器,ヴィオールを奏している」と言うようなことを述べている.

 私たちも,この同じ絵を少なくとも都合2回観たわけだが,残念ながら,詳細はヴァルカノーヴァ等に掲載された写真でフォローするしかなく,その写真と比べると,ヴァザーリの観察は正確で詳細だったことがわかる.

 しかし,ヴァザーリはそれに続いて,カルパッチョの画家として技量と精神を讃えながら,彼はラッザーロとセバスティアーノと言う兄弟を教え,この兄弟は彼を模倣したとしている.これは英訳者の注解をヒントに考えると,どうもラッザーロ・バスティアーニ(セバスティアーニ)と言う一人の画家を指している.

 そうであれば,1429年頃にパドヴァで生まれたこの画家がカルパッチョの弟子であるはずはなく,むしろ師と言われることもある(この情報は英語版ウィキペディアにあり,ほぼ同じ内容が日本語版ウィキペディア「ヴィットーレ・カルパッチョ」にもあるが,どちらにも典拠は示されていない.2014年7月12日参照).

 推定される年齢の上下関係からしても,ヴァザーリは師弟関係を正確には理解していなかったことになるが,それでも,私たちがミラノで心魅かれた画家ラッザーロ・バスティアーニを,ヴァザーリが「その他のヴェネト,ロンバルディアの画家たち」にも入れて,「彼ら」(ではなく,実は「彼」)が描いた,「聖カタリナ,聖マルタの間の聖母」に関して,比較的詳細に言及しているのは,何となく嬉しい.

 この絵が現存しているかどうかは英訳者の注解にはない.ただ,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,ヴァザーリがこの絵がそこのために描かれたとしているコルプス・ドミニー教会にあったとされる祭壇画の写真があるので,あるいはこの作品を指しているかも知れない.この絵は現在はアカデミア美術館にあるそうだが観た記憶はない.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,この作品は1470-75年の制作とあるので,であれば,その頃カルパッチョはまだ幼児,精々,少年なので,彼の「弟子」が描いた作品であるはずはない.

 カルパッチョの生涯に関しては,直後の時代の資料であるヴァザーリの『芸術家列伝』は,有益な情報を全く提供していないが,画家に対する評価は,作品を丁寧に鑑賞した上で,行っていたことわかる.

 私たちにとってカルパッチョと言う画家は必ずしも,なじみのある画家ではなく,「カルパッチョ」と言えば,その名を冠したのかも知れない料理が思い浮かぶこと多いであろうが,その名がヴィットーレ・カルパッチョの作品の華やかな色彩に由来しているのかどうかは,今のところそれほど関心はない.今後とも,カルパッチョの名で伝わる,できるだけ多くの絵画作品を鑑賞して行ければと思うのみである.

 今回,キオッジャのサン・ドメニコ教会で,カルパッチョの「聖パウロ」を観る可能性があったわけだが,午後2時まで待っても,教会の扉は開かなかったのであきらめた.この絵の写真は伊語版ウィキペディアに掲載されている.この写真を撮ったのは,名前からすると日本人のようだが,またいつの日か縁があれば,観られることもあるだろう.


パルマ・イル・ジョーヴァネ
 スキアヴォーニ同信会から宿に戻る途中,角度によっては「斜塔」に見える鐘楼を持つ,サン・ジョルジョ・デイ・グレーチ教会(英語版伊語版ウィキペディア)に寄ってみた.扉を開けると,大きなイコノスタシスが見え,東方正教の教会であることがわかった.誤解だったかも知れないが,儀式中だったように思えたので,中には入らず辞去した.

 正教の大聖堂(カッテドラーレ・オルトドッサ)で,日本語版ウィキペディアでも「聖ジョルジョ・デイ・グレーチ大聖堂」で立項されている.

写真:
サン・ザッカーリア教会
壁一面が絵画で埋め
つくされている


 サン・ザッカーリア教会(英語版伊語版ウィキペディア)は,翌日の観光予定に入っていたが,宿への帰路の途中だったので,予習も兼ねて拝観した.

 堂内ではやはりジョヴァンニ・ベッリーニの祭壇画が目を惹いたが,壁面が絵画で埋めつくされており,夕方で暗かったが,圧倒される思いだった.観光当日に時間がなくて買えない可能性もあるので,案内書,

 Irene Grifi / Girgio Pontello / Emmanuele Zucchetta, Chiesa di San Zaccaria, Saonara (PD): Il Prato Casa Editrice, 2013(以下,グリーフィ&ポンテッロ)

を修道士のように見える売り子から購入した.そこは付属の博物館の券売所にもなっていたが,翌日入館する予定だったので,その日は博物館には入らなかった.

 全作品ではないが,堂内で観ることができた主な絵画は,グリーフィ&ポンテッロにカラー写真付きで紹介されている.それに拠れば,上の写真の中央下部の祭壇絵(アップは下の写真)はパルマ・イル・ジョーヴァネによるもので,彼の作品は博物館(サンタナスタージオ礼拝堂)を含めて複数あり,今回の旅では,相当数の彼の絵を見ることができた.

写真:
パルマ・イル・ジョーヴァネ
「天使に囲まれた栄光の
ザカリア」(1599年)


 上記のカルパッチョのモノグラフを書いたハンフリーの別の著書が日本語訳されている.

 ピーター・ハンフリー,高橋朋子(訳)『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』白水社,2010

である.「まえがき」に「本書はヴェネツィア・ルネサンス絵画(一四四〇‐一五九〇)の簡明な入門書として専門家ではない読者を対象に書かれた」とあり,さらに日本語訳があるわけだから,私たちがまず参照すべき本だろう.不勉強で今回は拾い読みしかできていないが,最終章「後期ルネサンス」の最後の部分「ドゥカーレ宮の画家たち」に,パルマ・イル・ジョーヴァネに対する言及が少なくとも3か所ある.

 1574年と1577年に,総督宮殿(ドゥカーレ宮)は大火災に見舞われ,カルパッチョの晴れ舞台であった大広間の絵画を初め,多くの作品が失われた.その再装飾の仕事を請け負ったのが,まだ現役で活躍中だったティントレットとヴェロネーゼであったが,それに続く世代の画家たちの中に「パルマ・イル・ヴェッキオの有能な甥であったパルマ・ジョーヴァネ(ママ)」を挙げている(p.246).

 さらに,総督宮殿での作品「「勝利」に冠を授かるヴェネツィア」に言及して,ティントレットとヴェロネーゼの影響の他に,「七年間ローマで過ごした経験」の反映を指摘している(p.250).

 最後に,

 ヴェロネーゼとティントレットが亡くなり,一五九二年にはフランチェスコ・バッサーノも亡くなった後,競争相手のいなくなったヴェネツィア絵画の指導的な画家になったのがパルマ・ジョーヴァネ(ママ)であった.彼は十七世紀になってもまだその地位を保ち,大変な勢いで,ややもすると強迫観念に取りつかれたかのように旺盛に制作を続けた.しかし一五九〇年までに,彼の最高作はすでに完成し,終わっていたとする議論もある.(p.253)

と記している.この後,パルマ・イル・ジョーヴァネの作品が退屈なものとなり,それがヴェネツィア絵画の長い凋落の最初であると断じているが,とすれば1680年台にセバスティアーノ・リッチが登場する次の繁栄期までは,パルマ・イル・ジョーヴァネがヴェネツィア派最後の巨匠であったことになる.

 パルマ・イル・ジョーヴァネの没年は1628年である.1590年でヴェネツィアのルネサンスが終わったと考えている立場からすれば,38年におよぶ,それ以後の彼の活動は,まさにヴェネツィア絵画黄金期の長い黄昏と日没であったことになる.

 これまで,あちらこちらで彼の作品を観てきたが,特に感銘を受けたこともなく,それほど重要な意味を持つ画家だと思ったことはなかった.今後は,この画家の作品は制作年代に注目しながら,観ることにしよう.サン・ザッカーリアにある作品で,グリーフィ&ポンテッロに制作年の言及のある作品は,全てこの長い黄昏と日没に時期に描かれたものようだ.

 掲載写真で反芻する限り,「2人の天使に支えられた遺体のキリスト」(エンジェル・ピエタ)は1600年頃の作品とのことだが,私は素晴しい作品だと思う.



 絵画の鑑賞は,基本的には個人の嗜好に支えられるものであり,いたずらに専門家の考えを金科玉条とすることもないであろうが,それでも,多くの作品を分析的に論じつつ,総合的な判断を下す専門家の意見は尊重されねばならない.

 これまでハンフリーと言う研究者に関して,その著書は複数書架にあったが,意識したことはなかった.今後は,上記の本を参考にしながら,ヴェネツィア派の芸術を鑑賞して行こうと思う.

 ハンフリーは1440年から1590年をヴェネツィアのルネサンス絵画の繁栄期と考えているようだが,それぞれの年に何があったのだろうか.

 フィレンツェ芸術のルネサンスの開始は,1401年の洗礼堂の扉パネル伝説的な公募であり,1425年頃に着手されたサンタ・マリーア・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂のマザッチョのフレスコ画が出発点と言えようが,ヴェネツィアでは上記のそれぞれの年に何があったのだろうか.

 「ヤコポ・ベッリーニやアントニオ・ヴィヴァリーニといったヴェネツィアの画家たちが,一四二〇年代から三〇年代にかけてフィレンツェで興った美術革新に鋭く反応を示したのは一四四〇年頃であった」(p.46)とあり,とすると,かなり常識的な見方で,特にはっきり1440年に画期的な作品が描かれたというわけではなさそうだ.

 1440年頃の作品とされるヤコポ・ベッリーニの「聖母子とリオネッロ・デステ」(ルーヴル美術館)が(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは1450年頃)が図版で挙げられており,この作品が師匠のジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの影響を受け,国際ゴシックの遺風が色濃いのに,1444年に描かれた,ブレーシャのサンタレッサンドロ教会の「受胎告知」は,「フィレンツェの一点消失の遠近法を用いることでヴェネツィア絵画に初めて新しい合理的な空間をもたらした」(p.52)としている.

 アントニオ・ヴィヴァリーニに関しては,後で検討するとして,ともかく,1440年と言うのは,厳密な区分と言うより,この頃,ヤコポ・ベッリーニがヴェネツィアおよびその周辺にルネサンスの萌芽をもたらした時期ということであろうし,1590年と言うのは,ティントレットは1592年まで生きているものの,その衰えと軌を一にして,まだ若かった「最後の巨匠」パルマ・イル・ジョーヴァネも絶頂期に到達し,それ以後は長い停滞と衰退を迎えると言う象徴的な区切りと言うことであろう.

 とにかく,パルマ・イル・ジョーヴァネ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートとハンフリーはパルマ・ジョーヴァネ)の作品も,今後は丁寧に鑑賞することにしたい.


祭壇と祭壇画
 ハンフリーは,1440年頃のルネサンスの萌芽に言及した後,

 しかしヴェネツィアで真のルネサンス様式の特徴を備えた絵画が確立したのは,ヤコポの息子ジョヴァンニの初期作品においてであり,それは一四六〇年代のことであった.一四七〇年代には確実にヴェネツィアの中心的画家として頭角をあらわしていた.そしてその地位は,彼が亡くなる一五一六年まで維持された.彼の指導の下でヴェネツィア絵画は,フィレンツェで興った初期ルネサンスの革新を取り入れ吸収したばかりか,それらを見事にヴェネツィア独自の表現言語へと変換させた.ヴェネツィア絵画は十五世紀が終わるかなり前から,保守的な性格の強い地方色から脱して,ヨーロッパの他国と肩を並べ,広く受け入れられる最先端の様式へと展開していた(p.46)

と述べている.書架には,

 Peter Humfrey, ed., The Cambridge Companion to Giovanni Bellini, Cambridge U.P, 2004

があったのを見つけ,なるほど編者であるハンフリーは英語圏ではヴェネツィア芸術研究の最高権威であることがわかった.この本は言って見れば,項目別の紹介論文集であり,「ベッリーニと彫刻」とか「ベッリーニと建築」などの,今回非常に興味を覚えるに至った項目もあり,是非この本から学んで行きたいが,今後の課題とする.

写真:
絵の中の柱と実際の柱を
組合わせた遠近法によって
さらなる奥行が演出されている


 ヴィチェンツァのサンタ・コローナ教会に続き,ヴェネツィアのサン・ザッカーリアでも,実際に祭壇に飾られたジョヴァンニの祭壇画を見て,建築的な彫刻が施された祭壇との親和性に感動を覚え,恍惚とした.

 ジョヴァンニの祭壇画に関しては,2008年のヴェネツィア行で,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂で,豪華な木枠にはめられた三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」,サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂で,方形の豪華な木枠にはめられた,裾絵も合わせて計9面の絵が描かれた多翼祭壇画「ヴィンチェンツォ・フェッレルと聖人たち」を観てている.

 前者は今回再び観ることができて,またも深い感銘を受けたが,サンタ・コローナとサン・ザッカーリアでは,木の質感とはまた違う,石造りの祭壇の中で映えるベッリーニの作品の魅力に開眼することができた.

 写真を確認すると,ヴィンチェンツォ・フェッレル(フェッレーリ)の祭壇画は,大理石のコリント式の装飾柱頭を持つアーチ型の石像の祭壇に組み込まれているものの,木枠の彫刻は必ずしもそれと調和しているようには思えないし,絵画そのものは,石造祭壇と親和性を意識しては描かれていないように思える.

 しかし,サン・ザッカーリアの祭壇画では絵画部分にも,石造の柱が描き込まれており,祭壇の中で映えることが最初から意識されている.サンタ・コローナの作品は「洗礼」の場面なので,柱は描き込まれていないが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにある祭壇が写っていない写真を,現場での記憶と比較すると,やはり,この絵も,石造祭壇の中で映えるように描かれたのだ思いたい.

 アカデミア美術館所蔵の「サン・ジョッベ祭壇画」(1480年代)の見事さは今更言うまでもないであろう.この絵にも,石造の柱が描き込まれ,聖母子が座る玉座も立派な浮彫が施された石でできているように描かれ,その場所壁龕になっていて,アカデミア美術館の展示もそれを意識しているのであろうが,おそらくサン・ジョッベ教会にあった時には,見事な石造の祭壇に飾られていたと想像される(伊語版ウィキペディア「サン・ジョッベ教会」からたどっていけるウィキメディアコモンズには堂内で再建された祭壇に作品のコピーが飾られている写真が見られる).

 サン・ジョッベ祭壇画が画家の円熟期の作品とすれば,サン・ザッカーリアの祭壇画(1505年)は長命だった思われる画家が晩年を迎えようとする頃の作品で,なおその死までは十年ほどあるが,既に70台半ばの老大家に何らかの衰えが見えていてもよさそうなのに,静謐な「聖会話」(英語版伊語版ウィキペディア)の美しい色彩と,石造祭壇との親和性に圧倒されるばかりだ.

 マリオリーナ・オリヴェーリ,篠塚二三男(訳)『ジョヴァンニ・ベッリーニ』東京書籍,1995

に拠れば,「両隅に風景を入れる技法」はアルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの先行作品を参考にし,さらに大きくは,この時代にヴェネツィアで最も革新的であったジョルジョーネの画風(ジョルジョニスモ)を取り込んで,この作品が逆に若いジョルジョーネの刺激となった可能性があるようだ(p.62).

 長くなるので,引用は控えるが,ここで紹介されてる同時代の後進アルプレヒト・デューラーの証言は感動的で,ジョヴァンニ・ベッリーニの器の大きさを余すところなく語っている.

写真:
アントニオ・ヴィヴァリーニ
ジョヴァンニ・ダレマーニャ
ステファノ・ダ・サンタニェーゼ
多翼祭壇画
「聖母子と聖人たち」


 ジョヴァンニの父ヤコポとともに,ハンフリーが1440年代にヴェネツィアにルネサンスを齎した人物として名前を挙げたアントニオ・ヴィヴァリーニの作品も,サン・ザッカーリアにある.

 博物館になっている,サンタナスタージオ(聖アタナシウス)礼拝堂のさらに奥に,独立した教会の後陣のようになっているサン・タラージオ(聖タラシウス)礼拝堂があり,その中央祭壇に上の写真の多翼祭壇画ある.その制作に中心的役割を果たしたのが,ムラーノ島出身のアントニオ・ヴィヴァリーニ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 アントニオ・ヴィヴァリーニの名で伝わる作品はアカデミア美術館に複数あり,今回,カ・ドーロのフランケッティ美術館でも「受難の祭壇画」を見ている.これまでもヴィヴァリーニの名を冠した作品を複数観ており,漠然と「ヴィヴァリーニ一族」の名前は意識してきた.

 始祖のアントニオ,その義弟にあたるジョヴァンニ・ダレマーニャ,実弟のバルトロメオ,アントニオの実子のアルヴィーゼが,工房を支えた.ベッリーニ一族がヴェネツィアのルネサンスを推進したのに対し,ヴィヴァリーニ工房は国際ゴシックの遺風を引き継ぎながら,華やかだが,古風な作品を量産したと言うイメージがある.

 上の写真の多翼祭壇画は,良く見ると,「玉座の聖母子」を中心に,両脇に2人ずつの聖人が描かれているほかは,美しい装飾が施された木枠と,6体の木彫である.アントニオの作品は多くが義弟のジョヴァンニとの共作で,どの部分がアントニオで,どの部分がジョヴァンニの作品なのかわかりにくいとのことだ(ハンフリー『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』,p.54).

 最も美しいと思われる「聖母子」は,やはり共作者であるステファノ・ディ・サンタニェーゼの作品らしい.この画家の作品としてはアカデミア美術館で「聖母戴冠」を観ているはずだが,記憶にはなく,持っているアカデミア美術館の案内書にも小さな白黒写真しかないので,わかりにくい.

 サン・タラージオ礼拝堂には他に,2つの多翼祭壇画があり,そのどちらもアントニオが中心になって制作された.今回は,やはりジョヴァンニとの共作とされる「聖女サビナ多翼祭壇画」は修復中だったのか,見られなかった.もう一つの「キリストの御体の多翼祭壇画」は観ることができ,写真にも収めたが,多くは木彫で,絵画は2人ずつの聖人(ヒエロニュムスとパンクラス,ネレウスとアキレス)が描かれた2面のみである.


ヴェネツィアでのカスターニョ
 サン・タラージオ礼拝堂の多翼祭壇画は,どれも装飾が美しいので,目を魅かれるが,この礼拝堂で見逃してはならないのは,コンクに描かれたフレスコ画である.作者はフィレンツェの初期ルネサンスを代表する芸術家アンドレーア・デル・カスターニョとされる.

 カスターニョはヴェネツィアではサン・マルコ聖堂のモザイク「聖母永眠」等の図案も手掛けているが,サン・タラージオ礼拝堂では,「父なる神」を中心に,4人の福音史家と洗礼者ヨハネ(下の左写真の左端),そして聖ザカリア(右拡大写真)を描いた.

 ハンフリー(『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』pp.47-47)に拠れば,当時の元首(ドージェ)フランチェスコ・フォスカリ(英語版伊語版ウィキペディア)の「熱狂的な親フィレンツェ政策」が背景にあり,上記のモザイクはサン・マルコ聖堂内のフォスカリ創建の礼拝堂にあり,サン・ザッカーリア教会はベネディクト会の女子修道院の教会で,当時の院長はフォスカリの姉妹であった.

 カスターニョがヴェネツィアに来た翌1443年に,ドナテッロがパドヴァのサンタントーニオ聖堂で仕事をしたことが,北イタリアに本格的ルネサンスを齎したことは良く知られている.




 フィレンツェで生まれたルネサンスをヴェネツィアが受け容れようとする時代に,ゴシックの武骨な遺風も残るように思われるカスターニョの作品はまことに時宜を得た傑作のように思われる.この絵が描かれた1442年,まさにヤコポ・ベッリーニが国際ゴシックからルネサンスの画風に転換して行こうとする時にあって,この時点ではフィレンツェの芸術が圧倒的に先行していたことを示す作品と言えよう.

 この空間には中世の遺産もある.床モザイクと地下教会であるが,長くなったので,これらへの感想は控えることにする.一見以上の価値がある.


ティントレットに開眼
 同信会(スクオーラ)に関しては,

 『旅する21世紀ブック望遠郷 ヴェネツィア』同朋舎,1994(以下,『望遠郷』)

と言う,フランスのガリマール社から出た案内書の日本語訳の中に,簡潔な説明(pp.295-296)がある.それに拠れば,これは「一般信徒の組合」であり,

 信仰集団であり,互助組織であって,かならずしもひとつの職業に結びついているわけではない.会員は,1人の守護聖人をいただく教会に集まって儀式に連なり,信仰の実践に励んだ.(中略)スクオーラは本来の宗教的な機能のほかに,救済の役割も担う.会員は必要なときには,スクオーラが無料の住居とか,娘の持参金用の金を用意してくれることを知っていた.スクオーラによっては,貧しい病人に無料で薬を与えたり,医者の治療費を肩代わりしてくれるところもあった.なかでも貧しい者は,スクオーラで仕事にありつくか,あるいはここで定期的に配られる施しを頼ることができた.スクオーラは,こういった社会活動をなすことで,当時の都市生活において重要な役割を果たしていた(pp.295-296)

とされる.サン・ロッコ同信会は,数多あったスクオーラの中でも,「大」を冠される6つのスクオーラ・グランデに入っている代表的な組織であった.

 ここが1564年から87年にかけてティントレットが制作した50点を超える絵画で飾られていることは良く知られており,今回,自由時間に初めて見学することができた.

写真:
 中央:サン・ロッコ教会
 左:サン・ロッコ同信会


 それほど相性が良いとも思えないヴェネツィア派絵画の中でも,特にティントレットの作品は,これまで自分にとって好ましい印象を残すものではなかった.今回,サン・ロッコ同信会に先立って見学したアカデミア美術館でティントレットの複数の作品を見て,ようやく開眼することできたので,続いて行ったサン・ロッコ同信会では圧倒される思いで,ティントレットと言う芸術家の偉大さに心打たれた.

 同信会の建物の中は,金持ちの同信会からの仕事を自分の工房で独占的に注文を受ける押しの強さと我欲があって初めて実現できる業績で溢れかえっており,驚異の芸術に接しながらも,ティントレットと言う人物の俗臭を連想しないではいられなかった.

 しかし,この時代に注文を受けて,立派な作品を制作するためには,こうした個性は絶対に必要であったろう.私たちが忘れてはならないのは,ティントレットは俗臭に満ちた並才や能才ではなく,俗臭に満ちた天才であったことだ.間違いなく,ティントレットはこの時代を代表する大芸術家であったことは,今回良くわかったように思える.



 スキアヴォーニ同信会と同様,サン・ロッコ同信会,やはりティントレットの傑作で飾られたサン・ロッコ教会も,堂内撮影厳禁だったので,上に紹介する写真は,向かって左が,ヴィチェンツァのキエーリカーティ宮殿絵画館の「聖アウグスティヌスの奇蹟」(1549年頃),右はサン・ザッカーリア教会の博物館になっているサンタナージオ礼拝堂に展示されていた「聖母の誕生」(1563年頃)である.

 後者の絵柄は説明する必要がないであろうが,前者はローマ巡礼に向かう,40人の肢体不自由な人たち,目が見えない人たちに司教姿の聖人が現れ,自身の墓があるパヴィアの方角を指し,治癒の約束をしたというものらしい(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).

 北アフリカで亡くなった聖人の墓がなぜ北イタリアにあるかと言えば,後にイスラム教徒に支配された地域にあった聖人の遺体をキリスト教徒の住む地域に運んで聖遺物としたという類型の物語であろう.

 『黄金伝説』(人文書院版の邦訳第3巻,pp.305-306)に拠れば,8世紀にはサルデーニャ島に移されていた聖人の遺体を,同島もイスラム教徒の脅威にさらされたので,当時北イタリアを支配していたランゴバルド族の王が使節団を派遣して,莫大な財宝で聖遺骨を贖って,ジェノヴァに運んだ.多少の曲折があって,パヴィアのサン・ピエトロ聖堂に埋葬されたとされる.

 アカデミア美術館にあるティントレットの有名な作品「聖マルコの遺体搬出」も,聖遺体がエジプトのアレクサンドリアからヴェネツィアに運ばれる伝説を扱ったものだ.聖人の遺体がキリスト教圏に移される伝説としては,他にも聖ニコラス(南イタリアのバーリ),使徒大ヤコブ(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)など細部に違いはあるが,幾つか見られる.

 アカデミア美術館で真価を理解したように思えたティントレットの作品は,「聖マルコの遺体搬出」よりも,「奴隷を救う聖マルコの奇蹟」(1548年)で,幻視としての聖人の奇蹟において,聖人の空中浮遊が見られる点が,キエーリカーティの絵と似ている.制作年代も同じ頃だ.「聖マルコの遺体搬出」は1560年代の制作とされるので,サン・ザッカーリアの絵と同じくらいだ.サン・ロッコ同信会の作品も60年代以降の作品なので,サン・ザッカーリアの「聖母誕生」を描いたのが,サン・ロッコ同信会の仕事を受注しようとしていた頃ということになる.


美術館2つ
 今回,観光予定の中に入っていて,以前から是非行きたかったのが,フランケッティ美術館になっているカ・ドーロ(「黄金邸宅」とでも訳すべきだろうか)だ.

 同美術館でマンテーニャの「聖セバスティアヌス」が観たかったわけだが,やはりこの作品が最高傑作だった.他にも,カルパッチョの「受胎告知」,ルーカ・シニョレッリの「キリスト笞刑」などもあり,ジョルジョーネとティツィアーノの剥落したフレスコ画,ティントレット,ヴァン・ダイクなどの作品も見応えがあったが,ここで彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアの作品を複数観られたことは意味があった.

 この人の作品はローマのボルゲーゼ美術館にもあり,日本の特別展でも,観ることができたが,トレントで生まれヴェネツィアで亡くなったこの芸術家の複数の作品をヴェネツィアで観られることには意味があるだろう.少しフォローして見たい気もするが,だいぶ長くなったので,ここでひとまず絵画作品を中心としたヴェネツィア再訪の報告を終える.次回は,カ・ドーロなどの邸宅その他に見られる,ヴェネツィアのゴシックに関して,簡単な報告をまとめることにする.

写真:
カ・ドーロ
館の主フランケッティ自らも
舗装作業を行なった
中庭のポルティコのモザイク


 アカデミア美術館を再訪できて,ティントレットの芸術を少しでも理解できたのはこの上ない喜びであり,ベッリーニ,カルパッチョの作品を鑑賞し,ヤコベッロ・デル・フィオーレの宗教画を再確認でき嬉しかったが,期待していて見られなかった作品も少なくなく,若干不全感が残った.

 その中で,サプライズだったのは,ローマで活躍し,カラヴァッジョの周辺で活動して,カラヴァッジェスキの一人としても知られるカルロ・サラチェーニの特別展が開催されていたことだった.

 彼については何度か調べたはずなのに,迂闊にもヴェネツィアで生まれヴェネツィアで亡くなった(1579-1620)画家だとは知らなかった.しかも,上記でヴェネツィア派の長い黄昏を生きた「最後の巨匠」と認識したパルマ・イル・ジョーヴァネは彼よりも30年ほど年長でありながら,その没年はサラチェーニよりも遅い.

 サラチェーニを「ヴェネツィア派」の画家と考える人はおそらくいないであろうが,彼はパルマ・イル・ジョーヴァネよりも早く亡くなったヴェネツィア出身の画家だったことになる.ハンフリー『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』には,索引で見る限り,言及はない.まあ,基本的にバロックの画家だし,ハンフリーがヴェネツィア・ルネサンスの下限とする1590年にはまだ11歳前後の幼い少年だったわけだから,それはそうだろう.

 ヴィチェンツァのキエーリカーティにあるはずだった彼の「悔悟するマグダラのマリア」も,アカデミア美術館所蔵のほぼ同じ絵柄の作品と並べて展示されていた.何よりのサプライズはローマのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ教会の扉が開いているのを横目に見ながら,堂内を拝観して観ることが叶わなかった「聖母永眠」を観ることができたことだ.この絵ではなく本来はカラヴァッジョの「聖母の死」(ルーヴル美術館)(同じ主題の「聖母永眠」だが,「聖母の死」の方がピッタリくるように思えるので敢えて,別の題名にした)が飾られるはずだったという因縁の作品だ.

 とりたててすぐれた絵と言う印象は受けなかったが,気にかかっていたので,観られて良かったし,他にもすぐれた作品が複数観られ,貴重な体験だった.買ってきた簡易版の図録と,帰国後イギリス・アマゾンで入手した親版の図録で,しっかり勉強するつもりだ.

 やはり,アカデミア美術館は何度でも行きたい.






宝石を鏤めたようなモザイクの下
主(あるじ)は眠る カ・ドーロ