フィレンツェだより番外篇
2014年6月23日



 




パッラーディオの傑作 ヴィッラ・バルバロ
マゼール



§北イタリアの旅 - その6 (マゼール,ヴィツェンツァ後編)

学会があったり,遅れている原稿の部分的提出があったりで,またしばらく間があいてしまった.今回はアンドレーア・パッラーディオ設計の建築物について,知識の補填が間に合わず,自分の印象が中心となるが,見ることができたものに関して報告する.


 その前に学会に行った話を少しすると,会場は京都女子大学で,京都の8年半を含めて11年間関西に住んで,行くのは初めてだった.

 もう20年以上も前になるか,この大学でドイツ語の先生をしておられる先輩が,ある科目の非常勤講師を探していて,共通の恩師である故・岡道男先生に,「宮城君に来てもらいたいのですが」と言って下さった.しかし,当時,塾,予備校,大学の非常勤講師と,私が掛け持ちでアルバイトばかりしているのが目に余ったのだろう,岡先生は「宮城君にはもっと勉強してもらわないと」とおっしゃって,京都女子大に非常勤講師に行く話はなくなった.

 仕事の紹介をして下さろうとした先輩の恩と,「まず勉強」と言って下さった師恩の両方を,京都女子大学の名から思い出してしまう.

 会場の話をしたのは,日曜日とはいえ,大学から旅費を出してもらって学会に出席している身で京都国立博物館の特別展に行ったのは,単に国立博物館と京都女子大学が近くて,行くことができたからと言い訳したいからだ.

 京都駅で「南山城の古寺巡礼」のポスターとパンフレットを見て心魅かれた時は,まだ国立博物館の特別展であるとも,国立博物館が学会の会場の近くだとも知らなかったが,駅からバスで会場に向かう途中,博物館の傍を通り,そこで開催されていることを知った.

 海住山寺の彩色が鮮やかに残る小振りな四天王像(奈良国立博物館寄託),岩船寺の普賢菩薩騎象像,現光寺の十一面観音坐像が特に感銘深い.これらの諸像は,全てその存在を知らず,写真でも見たことがなかったので,日本文化の奥深さにただただ心打たれるばかりだった.最後の尊像は数多い十一面観音の中で,立像ではなく坐像と言うのは珍しいように思えたし,何よりも顔も姿も立派で,思わず「拝みたくなる」と言うのはこういう気持ちだろうかと思った.

 今,授業で,イソップ寓話など宣教師が日本にもたらした文学の影響について扱っているが,それについて考察する過程で,日本の仏寺や仏像は,宣教師たちにとって単なる偶像崇拝の産物にしか感じられなかったことを知り,不可思議と憤りの念を禁じ得ないでいる.

 しかし,考えてみれば,私たちがジョットやラファエロの宗教絵画に感動するのも,実は歴年の啓蒙の成果であり,何の予備知識もなく初めて見たら,異文化が生み出したグロテスクな図像としか思わないかも知れない.芸術には絶対的美が宿っていると思うのは,私たちが直接プラトンをギリシア語で読んで理解しなくても,西洋文化受容の歴史の中で,知らず知らずのうちに身に沁み込んだ考え方なのかも知れないと思った.

 ともかく,日本の宗教芸術はすばらしい.行きたいと思い続けて,とうとう浄瑠璃寺も岩船寺も蟹満寺も拝観せずに関西を離れたので,今回の特別展は非常に貴重な体験だった.


ヴィッラ・バルバロ
 今回の旅で,パッラーディオが設計したとされる建築物を十指に余るほど見たことになるが,正直な所,深い感銘を受けたとまでは言い難い.おそらくは,パッラーディオが打ち出した新機軸が,当時は新機軸であっても,その後,余りにも影響が大きすぎて,私のように建築の歴史に疎い者にとっては,あちこちで見ることができる,ごく普通の建築様式に思えるからであろうと愚考している.

 パッラーディオを賛美する人は多い.それらの人々の著作や見解を目にして特に反論するほど,この建築家に反発を感じたり,相性の悪さを覚えたりしているわけではない.言ってみれば教科書で学んだことを鵜呑みにしている受験生と同じで,私もパッラーディオの偉大さを知識として知っており,特に反対する理由は無い.

 だが,パッラーディオの偉大さを真に理解するためには,自分にはもっと勉強が必要だ.


 今回初めて多くのパッラーディオの作品に接して,そう実感したが,その中でヴィッラ・バルバロに関しては,唯一とまでは言わないが,見ることができて本当に良かったと素直に思えた.何と言ってもロケーションが良いと言うか,やや人工的な感じも否めないが,それでも自然環境に恵まれ,ともかく「心地よい場所」(ラテン語ではロクス・アモエヌスと言うが,こうして用語があると言うことは,それだけ,こうした場所への憧れがあったということだ)であった.




 内部に描かれたヴェロネーゼのフレスコ画は見事であり,騙し絵の工夫も決して失望するようなものではなかった.見学者も少なかったので,じっくり観ることもでき,旅行をご一緒させていただいた皆さんから絵解きを求められたりしたこともあって,置いてあった英語の解説を見ながら,まずまず丁寧に鑑賞したと思う.

 それでも,絵そのものに心奪われるような体験ではなかった.何と言ってもヴィッラ・バルバロは周囲の景観との調和が素晴らしい

 それに比べると,近傍のテンピエット(英語版ウィキペディアは「ヴィッラ・バルバロ」のページ内で説明)は,特に風景に溶け込んでいる感じはなく,まだパッラーディオの偉大さに開眼していない私にしたら,無いなら無くても,特にマゼールの観光資源としてはヴィッラ・バルバロだけで十分に思えた.

写真:
このテンピエット(小神殿)の
建築半ばにパッラーディオは
亡くなった



建築家パッラーディオ
 2007年にイタリアに滞在して,多くの芸術に心奪われていた最中でも,私はパッラーディオと言う名前を知らなかった.あるいはどこかで聞いていたかも知れないが,少なくとも,私が複数知っている偉大なイタリア芸術家の中にはいなかった.

 滞在前に多くのことを教えて下さったイタリア人の同僚と,若い頃からの付き合いで様々な影響を受けてきた友人でもある日本人の同僚から,翌年(2008年)がパッラーディオのメモリアル・イヤー(生誕500年)であることを,ほぼ同時にメールで教えてもらって,なるほど,後世のイングランドその他の諸国の建築にも影響を与えた偉大な建築家がイタリアにいたのかと,また一つ勉強をさせてもらった.

 ただ,ヴィチェンツァという都市のイメージも,その地図上の位置も全く思い描くことができず,結局,滞在中にパッラーディオの作品を観ることはなかった.

 帰国後,勤務先の図書館の特別展示で,彼の『建築四書』とそれに関する複数の稀覯書を見ることができ,『建築四書』の英訳(注解付きの日本語訳も出版されていて,まもなく入手できる見込み)を上野にあった古書店で入手し,少しずつ,知識を蓄えた.

 いたずらに参考文献を挙げても,それらを読んできちんと理解しているわけではないので,あまり意味がないかも知れないが,とりあえず,参考にした本を挙げる.

 キャロライン・コンスタント,福田晴虔(せいけん)(訳)『建築ガイドブック パッラーディオ』丸善,2008(以下,コンスタント)
 ヴォーン・ハート/ピーター・ヒックス(編),桑木野幸司(訳)『パラーディオのローマ 古代遺跡・教会案内』白水社,2011(以下,ハート&ヒックス)
 福田晴虔『パッラーディオ 世界の建築家』鹿島出版会,1979(以下,福田)
 長尾重武『パラディオへの招待』(SD選書222)鹿島出版会,1994(以下,長尾)
 渡辺真弓『ルネサンスの黄昏 パラーディオ紀行』(建築巡礼6)丸善,1988(以下,渡辺)


 ルネサンス,マニエリスムの芸術家としては,日本語で読める参考書に恵まれていることになる.個人的には,長尾の付録「パラディオ建築ガイド30」がコンパクトに個々の建築について簡潔に説明していて,参照しやすいように思えた.

 パッラーディオの建築では平面図が重要な意味を持つようだが,同じ建築別の解説でもコンスタントには,平面図と立面図が必ず付されており(長尾にも可能な限り付されているが全部ではない),高水準の案内書であるのはわかるが,それだけに素人にはハードルが高い面もある.私はその水準まで遠いが,将来的に勉強が進んだ段階での参照にはコンスタントが良いであろう.

 ハート&ヒックスは,「訳者あとがき」に拠れば「パラーディオ(ママ)が都市ローマの古代遺跡ならびに教会について解説した二冊のガイドブックの英訳版」であるが,「簡素な本文テクストへの膨大な訳注と美麗な図面・写真によって大幅に補完し,(中略)詳細な参考文献リストを付す」などした,「魅力的な一冊」(p.257)ということである.パッラーディオが古代,中世,ルネサンスのローマから受けた影響を考える上では必読書であろう.

写真:
ヤーコポ・サンソヴィーノ
聖母子像(漆喰彫刻)
キエーリカーティ絵画館


 パッラーディオに関して,ヴァザーリは独立の「伝」をたてていないが,ヤーコポ・サンソヴィーノ伝(『ヴァザーリ 彫刻家建築家列伝』白水社,1989年に越川倫明・森田義之訳が収録.また原文英訳もウェブ上で見られる)の中で,相当の分量の言及(邦訳で4頁弱)がなされている.

 ヴィチェンツァのあらゆる芸術家のなかで最高の称讃に値するのは,卓越した才能と見識を持った人物である,建築家アンドレーア・パッラーディオであろう.このことは彼が故郷ヴィチェンツァやその他の場所に造った数々の作品,とりわけヴィチェンツァの市庁舎の建築によってはっきり示されている.(邦訳,p.322)

と称賛したうえ,ヴィツェンツァを彼の「故郷」と言っているかのように読める.ウェブ上の原文では,「nella sua patria e altrove」,英訳では「in his native country and elsewhere」,エヴリマンズ・ライブラリー版の英訳も「at his native place and elsewhere」とあり,確かに「彼の故郷(patria)」は,この文脈なら,絶対とは言えないが,ヴィチェンツァと取るべきであろう.とすれば,ヴァザーリはパッラーディオがパドヴァ生まれだったのを知らなかったことになる.

 自身も画家であり,彫刻家であり,建築家であった最後の「万能人」(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)でありつつも,その全てに超一流というわけにはいかず,強いて言えば「芸術都市」の演出家と,伝記作者として傑出していたヴァザーリだが,このサンソヴィーノ伝の中のパッラーディオへの言及を読んだだけも,これだけの情報を一人で集め,自分の才能を越える芸術家たちの作品を実見し,冷静に分析して伝えている,その広範な活動範囲と,精緻な批評は驚嘆に値する.

 ヴァザーリの誤解は時として,瑕瑾とは言えない場合も少なくない.しかし,同時代に誰がヴァザーリと同じような伝記を書けただろうか.また後世の誰がヴァザーリの伝記を読まずしてルネサンス芸術家の生涯を追うことができただろうか.彼は自身はマニエリスムの芸術家でありながら,その精神と才能の観点からは「最後のルネサンス人」と言えよう.

 これ以上,彼については語るまい.なぜなら,これまでに述べてきたことで,その美しい作品を見た誰もが思うように,彼が優秀な建築家であることは十分にわかっただろうから.さらにいうならば,彼はまだ若くてたえず芸術の研究に励んでいるので,日々ますます偉大な作品が彼の手から生み出されことが期待されるであろう.(邦訳,p.325)

と,ヴァザーリはパッラーディオについてこうも述べている.「まだ若い」(トスカーナ方言形でアンコ・ジョーヴァネ)と言っているヴァザーリは1511年の生まれ,言われているパッラーディオは1508年の生まれと言うのが正しければ,驚くべきことにヴァザーリはパッラーディオより若かったことになる.

 芸術家列伝の初版は1550年,第2版が1568年で,初版の時ヴァザーリは大体39歳,パッラーディオは42歳,第2版の時は前者が57歳,後者60歳で,「まだ若い」というからには,初版の際の言及ならまだしもと思われたが,邦訳の監訳者あとがき(p.453)に拠れば,邦訳は第2版の訳であるようだ.

 初版の全文と目次を掲載したウェブページを見ると,ヤコポ・サンソヴィーノ伝は見当たらず,第2版で追加された30人の中に入っているのだとすれば,ヴァザーリのパッラーディオへの言及は,若い頃のこととは言えず,であれば,そもそも,建築家本人のことは余り知らなかったことになるのだろうか.

 それでも,ヴィッラ・バルバロについての言及もある.

 トレヴィーゾ領内のアーゾロの近郊には,ヴィトルヴィウス(ママ)に関して書物を著した,アクイレイア総大司教候補ダニエーレ・バルバロ殿とその弟の高名なマルカントーニオ殿のために,たいへん快適な別荘を造った.(邦訳,p.324)

とあり,「これ以上のものは想像できないほど」美しいと称讃している.


バルバロ兄弟
 バルバロ家はヴェネツィアの貴族で,多くの著名人が輩出したが,ダニエーレは,パドヴァ大学で学び,自然科学にも造詣の深い人文主義者として知られ,ローマの建築理論家ウィトゥルウィウスの『建築十書』に詳注を付してイタリア語訳(1556)し,政治家としても,ヴェネツィア共和国の駐英大使を務め,聖職者としても1550年にアクイレイア総大司教(英語版ウィキペディア),1561年に枢機卿(伊語版ウィキペディア)に選任された.バルバロ家からは彼を含め4人のアクイレイア総大司教が出ているようだ(伊語版ウィキペディア).

 ただ,この総大司教職には,エレット「選ばれた」と言う修飾語が付き,上述のようにヴァザーリの邦訳では「候補」とされ,場合によっては「補佐役」(福田,p.192)とされることもある.叔父にあたるジョヴァンニ・グリマーニが,この職にあって,この後継者となる権利を付与されたが,叔父よりも先に亡くなったので,「候補」と言うヴァザーリ邦訳の用語選択が良いのかも知れない.ただ,伊語版ウィキペディアは「補佐役,代理」(coadiutore)と言う説明を付している.またハート&ヒックスには「総大司教選定後継者」と訳されている(p.26).

 枢機卿に関しても,ピウス4世による任命が,「非公表」(in pectore)であったらしいが,どのような事情かは今のところ,わからない.

 アムステルダム国立美術館にヴェロネーゼが描いたダニエーレの肖像画があり,英語版,伊語版のウィキペディアにも掲げられているが,聖職者の姿の彼が机の上に置き,一部手にとっている書物は彼が訳したウィトゥルウィウスの建築書とされる.ヴェロネーゼは聖職者ではない姿の肖像画(フィレンツェ,パラティーナ美術館)も描いており,ティツィアーノ作の肖像画(プラド美術館)もある.

 弟のマルカントーニオには,人文主義者としての赫々たる業績はないが,外交官,政治家として功績を残し,総督(元首)の候補にも複数回なり,芸術家を保護し,晩年,ガリレオが教鞭を執っていた母校パドヴァ大学の学長となった(英語版ウィキペディア).

 ダニエーレがウィトゥルウィウスの伊訳を出した後,1556年にラテン語の本文も校訂・出版し,その際に挿図をパッラーディオが提供し,その仕事は1547年に始まっており,パッラーディオは1541年から5度ローマを訪問しているが,4度目はダニエーレと一緒だった可能性があるとのことだ(コンスタント,p.X).

 パドヴァ生まれのパッラーディオがヴィチェンツァで有力だったペデムーロ工房(渡辺,p.100)で働き始めるのが1524年,21歳で親方として独立(長尾,p.30)したのが1530年,同地の人文主義者で建築も手掛けるジャン=ジョルジョ・トリッシーノに出会ったのが,1538年か39年とされる.コンスタントは37年頃としているが,それでも29歳,天才の準備期にしては既に青春が過ぎ去り,当時としては若者ではない.

後にトリッシーノの命名でパッラーディオとなるアンドレーア・ディ・ピエトロ・ダッラ・ゴンドーラの何が,この人文主義者の関心と保護を惹き寄せたのだろうか.


 トリッシーノに出会った段階で,既に大建築家となれる資質を備えていたのであろうが,少なくとも手元にあるどの参考書を読んでも,可能な限りウェブページを参照してもわからない.いずれにせよ,トリッシーノ,バルバロ兄弟と言う,建築に造詣の深い人文主義者との出会いと彼らの保護は,パッラーディオにとって大きな意味を持っていた.

 トリッシーノの後押しもあって,ヴィチェンツァの諸邸宅と,近郊の別荘の注文が取れるようになり,建築家としての名声を得たであろうし,さらに転機となるような大仕事を得ることができたのもトリッシーノのお蔭であったかも知れない(コンスタント,p.49).その計画案と木造模型が提出される前にトリッシーノとローマに行ったのも,これを古代ローマ風にするための研究取材のためであったかも知れない(渡辺,p.14).

 それはパラッツォ・デッラ・ラジョーネ(市庁舎)の建築で,市庁舎は1450年の時点に2つの建物が改築され,1494年に開廊(ロッジャ)で結ばれたが,まもなく(1496年)に開廊が崩壊し,再建されることになった.ヤコポ・サンソヴィーノセバスティアーノ・セルリオミケーレ・サンミケーリジュリオ・ロマーノなどの有名建築家に諮問され,試案が提示されたが,いずれも実現せず,最終的にパッラーディオと彼が関係していた工房に委嘱された.

 第2回ローマ旅行の後,第1案が出され,第3回のローマ旅行の後に修正案が出された1548年から工事が始まった(コンスタント,p.49).この工事は,建築家の死後,さらに37年度の1637年まで続き,装飾工事はその時点でも終わっていなかった.いずれにしても,これ以前に既に実績を積み上げていたパッラーディオの出世作となったのは間違いなく,未だに彼の代表作と言われ,その傍らに彼の彫像が立っている.

 1450年にトリッシーノはローマで亡くなり,パッラーディオはバルバロ兄弟の保護を受け,ヴィッラ・バルバロを設計し,彼らの後押しで後年,ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会,イル・レデントーレ教会の仕事を依頼される.


今回見ることができたパッラーディオの作品
 パッラーディオの仕事は,大きく

 1.邸宅・宮殿(パラッツォ,カーザ)
 2.別荘(ヴィッラ)
 3.教会(キエーザ)など宗教建築
 4.開廊(ロッジャ)
 5.その他:門(ポルタ,アルコ),橋(ポンテ)など

に分けられるかも知れないが,このうち,今回の旅行では2はヴィッラ・バルバロ,3はテンピエット・バルバロ,5はアルコ・ボッラーニ(ウーディネ)を見ただけで,チヴィダーレでもプレトリオ宮殿を見ているが,他には,ヴィチェンツァで複数見ることができた1と4,そのいずれにも分類できないテアトロ・オリンピコ(下の写真)のみだ.




 パッラーディオ最晩年の作で,彼の死後に完成したこの劇場は,1555年(伊語版ウィキペディア,長尾,渡辺は1556年)に創設され,パッラーディオ自身も参加していたアカデミア・オリンピカのための常設劇場として設計された.

 福田はその著書の第一章「テアトロ・オリンピコ」の第2節を「《アッカデーミア・オリンピカ》と千五百年代(チンクェチェント)のイタリア演劇」とし,その活動について詳述している.

 それに拠れば,この文化人サークルによって,1557年の謝肉祭には古代ローマの劇詩人テレンティウスの『アンドリア』(アンドロス島から来た女)のイタリア語訳が上演され,1561年と62年には,ラジョーネ宮殿の階上ホールで,シエナ出身の人文主義者アレッサンドロ・ピッコロミーニの喜劇『変わらぬ愛』(アモール・コスタンテ)とトリッシーノ作の悲劇『ソフォニスバ』が上演され,成功を収めた.

 イタリアの喜劇と言えばカルロ・ゴルドーニ,悲劇と言えばヴィットリーオ・アルフィエーリと,いずれも18世紀の作家を待たなければ本格的繁栄が始まらないが,それ以前にもこのような活動があり,高名な人文主義者たちが関わり,その活動の場を最初の目途としてパッラーディオがテアトロ・オリンピコを設計したのかと思うと,文化的伝統の重層性には感慨を覚えずにはいられない.

 劇場自体に格別の感慨を持つことはなかったが,初演の演目(1585年)がソポクレスの『オイディプス王』と聞いているので,舞台近くに行ったとき,誰にも聞こえないように,「オー・テクナ・カドムー・トゥー・パライ・ネアー・トロペー」(おお,いにしえのカドモスの新しき子らよ)に始まるプロロゴス(冒頭部)の台詞を数行唱えた.

写真:
パラッツォ・キエーリカーティ
(市立絵画館)
1551年着工(長尾)
1550年頃(渡辺)


 ヴィチェンツァ市内のパッラーディオ設計の建物でも,パラッツォ・キエーリカーティは早い方の作品だが,既にバジリカの改築を請負い,名声が確立した後の傑作と言えよう.

 ここは正面の手前が,ピアッツァ・デッリゾーラ(島の広場)と言う公有地で,地階のポルティコ(アーケード)部分は,公共性を持つとして公有地に張り出すこと認められたそうである.建築家自身は『建築四書』の中で,このポルティコを「開廊」(ロッジャ)と称している(渡辺,p.67).

 ヴェネツィア建築風の美しい建物で,私たち素人にもわかりやすいが,屋上の彫刻などは17世紀になってから加えられたとのことだ.周辺に開空間があるので,比較的じっくり鑑賞することができる.テアトロ・オリンピコのある建物(パラッツォ・テッリトーリオ)のはす向かいにある.

 ヴァザーリは,「その威風と壮大さによって,誉高き古代の建造物にたいへん近づいている」(邦訳,p.322)と述べているが,現存する建物は,「古代の建造物」と言うより,先取りの新古典主義建築のような印象を受けた.

写真:
パラッツォ・バルバラン・ダ・ポルト
(アンドレーア・パッラーディオ
国際建築研究センター)
1570-75年(長尾)


 パラッツォ・バルバラン・ダ・ポルトは,装飾豊かな二層構成がいかにもパッラーディオの作品らしい建物(長尾,p.200)とのことだ.一層目の装飾柱はイオニア式,二層目はコリント式の柱頭を持っている.一層目の「粗面仕上げ」が注目に値するようだが,通り過ぎる際に見て,写真をようやく撮っただけの鑑賞だった.

 最初の施主がモンターノ・バルバラーノと言う人物で,死後,遺言執行人が財政困難を理由に,アドリアーノ・ポルトに売却した(コンスタント,p.142)とのことで,それがおそらく現在の名称の理由になっているのであろう.単にパラッツォ・バルバラーノ(長尾,渡辺)とも言うようだ.

写真:
パラッツォ・ティエーネ(裏側)
1542-58年(長尾)


 パラッツォ・ティエーネはヴィチェンツァの有力貴族ティエーネ家のロドヴィーコが1490年に,建築家ロレンツォ・ダ・ボローニャに建造させた邸宅を,1540年代にマルカントーニオとアドリアーノ兄弟が,改築を計画し,パッラーディオに依頼したものと考えられる.ヴァザーリは「無数の装飾を豊かにほどこした,信じられぬくらい美しくて壮大な邸宅」と言っており,依頼者はオッターヴィオ・ティエーネ伯爵としている(邦訳,p.322).

 17世紀になって,この邸宅を若い頃訪れたイングランドの建築家イニゴー・ジョーンズが,ジュリオ・ロマーノの設計をパッラーディオが仕上げた,とパッラーディオの後継者ヴィンチェンツォ・スカモッツィとパルマ・イル・ジョーヴァネから聞いて,それを書き留めている(英語版ウィキペディア)が,『建築四書』に設計図が収録されていて,パッラーディオの作と考えられている(コンスタント,p.42).

 これも通りすがりに見て,写真を撮っただけの鑑賞で,もちろん内部は見ていない.

写真:
ロッジャ・デル・パラッツォ・
デル・ラジョーネ
(バジリカ・パッラディアーナ)
1545-80年(長尾)


 上述のパッラーディオの出世作であるバジリカはさすがに見事だが,やや装飾過剰にも思えた.しかし,それらの装飾は,古代ギリシア・ローマ神殿の,柱の「オーダー」と言う考えを定着させたセバスティアーノ・セルリオの『建築書』第5書に図が掲載された「ヴェネツィア風窓」にヒントを得た「セルリアーナ」と言うモティーフを,独自の様式で展開したもので,内部の不規則な構造に統一した外観を与える工夫であった(コンスタント,pp.49-50).

 パッラーディオの生存中は完成せず,1617年の一応の完成後も,17世紀半ばまでその装飾工事は続けられたとのことだ(長尾,p.166).

写真:
ロッジャ・デル・カピタニアート
1565-72年(長尾)


 ロッジャ・デル・カピタニアートのカピタニアートは,小学館『伊和中辞典』には辞書登録がないが,同じく辞書登録のないカピターニオ(通常のイタリア語はカピターノ)の統治を意味する語であろう.カピターニオは,ヴェネツィアから派遣された,ヴィチェンツァの行政,軍事を指揮する「代官」(福田は「監督官」)で,ラテン語の「頭」(カプト)と言う語を知らなくても,英語のcaptainとの類似から察することができるだろう.

 この建物は,「代官」の居所であったであろう(コンスタントは「ヴェネツィア軍司令部」,渡辺は「総督邸」))パラッツォ・デル・カピタニアートの付属建造物で,1527年に建てられた元の建物が老朽化して1571年に建て替えられた.設計者がパッラーディオであるのは側面バルコニーの刻銘でわかるそうである(コンスタント,p.134).

 複数階に跨るジャイアント・オーダー(もしくはコロッサル・オーダー)が特徴的で,コリント式の柱頭が豪壮な感じを加味している.

 シニョーリ広場(ピアッツァ・デイ・シニョーリ)を挟んで,バジリカと向かい合っているが,広場から見て右側が,モンテ通り(ヴィチェンツァでは「通り」は本来,ヴィーアよりコントラが好まれ,この「通り」もコントラ・デル・モンテ)で,そちら側の側面は,建設中の1571年の10月7日のレパント海戦の勝利を記念する浮彫が施されており,一つの大アーチがあることによって,凱旋門としての外観も付与されたと考えられるが,福田は海戦勝利による設計変更の可能性を示唆し(p.133),渡辺はそもそも海戦勝利を記念しての改築決定(pp.69-70)としている.

 個人的には福田の示唆の方が説得力があるように思えるが,コンスタントは設計変更には賛成しない(p.135)ようであり,証拠となる記録等が発見されない限りは,結論は出ないかも知れない.

 正面の3つの大アーチ,両脇にそれぞれ1つの大アーチからも察せられるように,初層は開空間になっていて,市民への布告の場所として意図されていた(コンスタント,p.134)と考えられ,上層は広間になっていて,現在は市議会の議場として使われている(コンスタントへの福田の訳注)とのことなので,いずれにしろ,パッラーディオ設計の公共建築が広場を挟んで向かい合っていることになる.

 福田の第三章「都市建築」の第8節「呪術的空間 ロッジア(ママ)・デル・カピタニアート」は充実した読み物になっているので,その当否は私には判断できないが,一読に値する.

写真:
パラッツォ・ポルト-ブレガンツェ
1570年代(コンスタント)
1571年(渡辺)


 おそらくヴィチェンツァで最後に見たパッラーディオ作品が,パラッツォ・ポルト-ブレガンツェで,昼食をとった食堂の向かいにあった.間の広場はピアッツァ・カステッロと言うようだ.

 3本のジャイアント・オーダーが目を惹き,見るからに未完成の感じがする邸宅だが,奥行きが深いので,住居として機能していたであろう.ジャイアント・オーダーはロッジャ・デル・カピタニアートで見ているが,この邸宅ではともかく基台部分の巨大さに圧倒される.

 福田の第三章の第9節「遠ざかりゆくヴィチェンツァ 「都市建築」の章の補遺として」の,最終部分に「悪魔の家」と言う小見出しがつけられて,この邸宅が取り上げられている.

 他の参考書に言及されているが,パッラーディオの後継者ヴィンチェンツォ・スカモッツィが,自著『普遍的建築の理念』で,この建造物はアレッサンドロ・(ダ・)ポルトの家であり,自分が完成させたと述べているようだ.ポルト家は前回,サンタ・コローナ教会の紹介で言及した『ロミオとジュリエット』の材源の一つの作者であるルイージを出した家系だ.

 地元で「悪魔の家」と称される,この邸宅がパッラーディオ作とされるようになったのは18世紀のことだが,誰が設計したにせよ,印象に深く刻まれる建造物だ.

 写真は掲載しないが,もう一つパッラーディオ作かも知れない建物を見ている.パラッツォ・キエーリカーティとテアトロ・オリンピコに挟まれた道を行き,サンタ・コローナ教会に向かう途中にあり,印象的な外観だったので写真に収めた.今,確認すると.ヴィチェンツァを訪れたゲーテが賞賛したと言うカーザ・コゴッロだったようだ.


ドゥオーモ
 ヴィチェンツァには,パッラーディオ設計の邸宅の他にも,ヴェネツィアン・ゴシック風の美しい建造物も少なくなく,街歩きには,余裕と予備知識が欲しい.

 大聖堂は戦災に遭い,大修復が施され,再建部分が多いようだが,ファサードは特徴的で,堂内には,幾つかの注目すべき芸術作品もある.

写真:
ロレンツォ・ヴェネツィアーノ
「聖母永眠」の多翼祭壇画
1366年


 バルトロメオ・モンターニャの祭壇画 「玉座の聖母子と聖人たち」(聖人はマグダラのマリアとルキア),フランチェスコ・マッフェイ「三王礼拝」などもあるが,ここではヴェネツィアとヴェローナで出会ったゴシックの画家ロレンツォ・ヴェネツィアーノの多翼祭壇画「聖母永眠と聖人たち」の写真を紹介するにとどめる.

 イタリアでは,どこの街もそうだが,ヴィチェンツァは間違いなく魅力的で,観光には時間が必要だ.何度でも行きたい.



 幼稚園から中学までの同級生だったOから,奥様ご逝去の報があった.私は地元での披露宴に招かれた時におみかけしただけだが,縁のあった方で,親友の伴侶だった方の死に呆然とせざるを得ない.

 Oは,同姓の一族がかたまって住む集落で育ち,幼い頃遊びに行くと,本家の広い庭に連れて行ってくれて,暗くなるまで遊んだ.彼は,サッカー部でともに汗を流した仲で,彼のリーダーシップは仲間の中でも高く評価され,勉学でも刻苦勉励して東北大で数学を大学院まで学び,今は,企業の研究職にある.仕事のかたわら,有名大学付属高校の女子サッカー部のコーチもして,充実した人生を送っていた.

 2011年の震災で,海から近かった彼の一族の住む集落は津波に流され,ご母堂は死亡,入院していて津波は免れた父君もその後亡くなり,彼はこれで3年に満たない間に3度の葬儀の喪主となる.告別式の時間は授業なので,前日の通夜に行かせていただく.せつない.






春の野に高らかに鳥の囀る
ヴィッラ・バルバロ