フィレンツェだより番外篇
2014年6月2日



 




「ジョルジョーネの家」博物館
フリーズにフレスコ画のある部屋
カステルフランコ・ヴェネト



§北イタリアの旅 - その5 (カステルフランコ・ヴェネト,ヴィツチェンツァ前編)

何度も言うようだが,私にとってジョルジョーネは,レオナルドと並んで,謎に満ちて,遥か彼方のいる芸術家である.憧憬の念を持って見ているが,理解を越えている.これも一種の思い込みで,昔,多分何かで読んだことに影響されて,そう思い続けている可能性も高い.


 とは言え,ジョルジョーネは,レオナルドに比べれば,まだ分かり易い.彼の名で伝わる作品を見て,これは好き,これはそうでもない,と自分の好みに合うかどうかの判定は即座にできる.


カステル・フランコの祭壇画
 写真で見て,いつかこの目でしっかり観たいと思ったジョルジョーネの作品のうち,エルミタージュ「ユディト」は昨年の夏,エルミタージュで観ることができた.それに続き,彼の生まれ故郷カステルフランコ・ヴェネト(以下,カステルフランコ)の大聖堂の祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」を観ることに,今回の旅のかなりの比重があった.

写真:
背景に2人の兵士の姿が
描き込まれている
(サンフランチェスコの右上)
写真:
向かって左側の武装した聖人
聖リベラーレといわれるが
別の聖人の説もある


 祭壇画の「聖人たち」の1人はフランチェスコで疑問の余地はないが,武装した聖人の方は,大聖堂が捧げられている守護聖人リベラーリス(イタリア語ではリベラーレ)(被昇天の聖母にも捧げられている)とされることが多いようだが,他にゲオルギウス,ニカシウスと言う説もある.

 ニカシウスに関しては,西語版ウィキペディア「ニカシオ」(イタリア語ではニカージオ)に同名の聖人の情報があり,そこから英語版ウィキペディア「ランスのニカシウス」に辿り着くが,確かにヴァンダル族やフン族の侵入に際して殉教したのであれば,北イタリアとも関係がなくもないが,司教聖人なので,甲冑姿であるのはおかしい.

 後述のチェッケットの案内書に拠ると,甲冑の聖人が持っているのはマルタ騎士団の旗で,リベラーレでは説明がつかないところから,マルタ騎士団,すなわち聖ヨハネ騎士団が十字軍に際し,パレスチナで結成された12世紀に「殉教」した,同じニカシウスという名の聖人であろうと推定している.

 この人物は,祭壇画の注文者である傭兵隊長トゥツィオ・コスタンツォの出身地シチリアのメッシーナで崇敬されていたとのことだ.トゥツィオ自身が聖ヨハネ騎士団員だった.この騎士団がマルタに本拠地を移すのは1522年,祭壇画の制作は1502年頃とされており,まだロードス島に本部があった頃なので,「マルタ騎士団」ではなかったことになる.

 いずれにせよ,トゥツィオが若くして亡くなった息子のマッテーオの追慕のために注文した作品とされているので,であれば確かに,ヨハネ騎士団の戦士ニカシウスは,この祭壇の登場人物としてふさわしいことになる.

 私は単純にジョルジョーネが描いたので,ゲオルギウス(ジョルジョ)だと思っていたのだが,作者よりも注文主の意向がより反映する可能性が高いだろう.

写真:
ジョルジョーネ作
「玉座の聖母子と二人の聖人」
聖母が視線を落とす玉座の
下の基台と祭壇にそれぞれ
コスタンツォ家の紋章


 今回,この絵を観ることができ,他に観たいと思う作品は,残すところ,ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館にある「眠れるヴィーナス」とブランシュヴァイクの大公アントン・ウルリッヒ博物館所蔵「ダヴィデの姿の自画像」のみと言っても良い.



 日本語版ウィキペディア「ジョルジョーネ」は充実していて,この画家の情報に関する情報は美術史を勉強しているのでなければ,これで十分だろう.もちろん,私には十分以上である.写真の組合せは変えているが,英語版ウィキペディアとほぼ同じ内容に思えるので,2014年5月27日参照したものは,おそらく英語版の翻訳であろう.

 しかし,もともと情報が限られている画家なので,当然,同じような内容になるだろうし,そもそも翻訳されて,読みやすくなり,参考になるのは間違いない.どこかに英語版の翻訳である旨,断っていれば,何の問題もないと思われる.

 日本語版ウィキペディアは,カステルフランコの祭壇画に関して,

その他にジョルジョーネの生まれ故郷カステルフランコの聖堂にある『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』と呼ばれることもある『カステルフランコ祭壇画』もジョルジョーネの真作であるという評価が高い絵画だが、ドイツの倉庫に描かれていた祭壇画の一部だったとする説もある。

と記述している(2014年5月28日午前11時参照)が,これだと,カステルフランコの祭壇画は「ドイツの倉庫」にもともと描かれたのだとという説があることになり,いかに何でも,この祭壇画の現状を考えても,あり得ないように思われる.英語版ウィキペディアの該当する箇所を参照すると,

In addition, the Castelfranco Altarpiece in his home-town has rarely, if ever, been doubted, nor have the wrecked fresco fragments from the German warehouse.

となっている.要するに,カステルフランコ祭壇画も,ヴェネツィアのドイツ人商館に描かれた,破損したフレスコ画断片も,その真作性が疑われることはまずない,と言う意味であろう.norで分かれる2つの文の主語がそれぞれ違うことは,助動詞has(単数)とhave(複数)であることを考えればよく分かる.それぞれ,「祭壇画」(単数)と「断片」(複数)が主語で,どちらの助動詞も,rarely been doubtedと結び付けられて,受動態の現在完了文になっている.

 日本語版ウィキペディア「ジョルジョーネ」は,読み易く,有益なページで,上記の点は多少の正確さを犠牲にしても,大筋で正しく詳しい情報をより早く提供することに主眼があったのだと思うので,これは瑕瑾に過ぎないが,今回,最も関心のある絵に関する情報だったので,敢えて指摘した.

 「ドイツの倉庫」(the German warehouse)は,日本語版ウィキペディアでも,最初の方で言及されていて,英語版ウィキペディアにリンクされているヴェネツィアの「ドイツ人商館」のことであろうと思われる.ここにジョルジョーネとティツィアーノ作とされるフレスコ画が描かれ,破損している断片は,現在はカ・ドーロにあるフランケッティ美術館に展示され,私たちも今回それを観ることができた.


ジョルジョーネの出自
 英語版,日本語版のウィキペディアがともに指摘しているように,ジョルジョーネの伝記に関しては,最古のものはヴァザーリの『芸術家列伝』である.幸いなことに,

 平川祐弘/小谷年男/田中英道(訳)『ヴァザーリ ルネサンス画人伝』白水社,1982

に翻訳がある(小谷訳)ので,読んでみた.簡にして要を得たおもしろい伝記だったのは意外だった.

 有名な画家の伝記を語る文章は,多くの場合,ヴァザーリの伝記の不備と不正確さへの言及から始まる.しかし,虚心坦懐に全文を読むと,少なくとも「ジョルジョーネ伝」に関しては,一定以上の感銘が得られ,この芸術家に対する興味を間違いなく喚起されると思う.

 1点気になったのは,彼が「トレヴィーゾ領内カステルフランコ」で1478年に生まれたことに言及した後,「画家は大きな体と寛大な心の持主であったため,のちに大きなジョルジョすなわちジョルジョーネと呼ばれるにいたった.生まれは卑しかったが,終生礼儀正しかった」(p.157)と書かれていたことだ.

 ヴァザーリが言っている「生まれは卑しかった」と言う点に関して,今回の現地ガイドさんは対照的に,「彼は良い家の生まれだったので,生活のために描く必要がなく,それで現存作品が少ないのだ」とおっしゃった.現地でそれを聞いた時には,説得力があるように思われたが,真作かどうかはともかく,ジョルジョーネ作とされる作品の数は,三十数歳で亡くなった夭折の天才としては決して少なくないので,一概にそうは言えないのではないかと今は思っている.

 ただヴァザーリも言っているように,社交に巧みで様々な教養を身に着けていた点は,何かしら当時としては良家の子弟だったのではないかと思えなくもない.もし,ブランシュヴァイクにある「自画像」が本当に彼の顔だとしたら,たとえ婚外子だとしても,家柄の良い父もしくは親族を持っていたのではないかと思ってしまう.レオナルドも,貴族ではなく,地方農村の出身で,婚外子だが,それでも父が公証人としてフィレンツェで活躍していたので,彼は当時としては下層階級出身とは言えないだろう.

 ヴァザーリが何を根拠に「生まれは卑しかった」と言ったのかは不明で,そうだったかも知れないし,そうでなかったかも知れないが,家名がわかるかどうかは,この時代において良家の子弟かどうかを示す指標になるだろう.

 ミケランジェロはブオナッローティ家の出身で,芸術家としての収入によって没落貴族の一家の支柱となったが,彼の父は,彼が生まれた時,地方都市の代官を務めており,決して無能ではなかった.ミケランジェロにもフィレンツェの名門の子弟であるという自負は終生有ったらしい.

 伊語版ウィキペディアは,別のウェブページを典拠として,ジョルジョ・ディ・ジョヴァンニ・ガスパリーニが彼の姓名の可能性があるとしている.父の名前がジョヴァンニ,家名がガスパリーニと言うことになろうが,父の名と家名が明らかになることは,基本的に父系制社会である当時のヨーロッパでは重要なことであろう.ヴェネツィア古文書館の新発見資料を根拠として2011年に出された説のようだが,広く認められているのかどうかは,私には分からない.

 我が家にあるジョルジョーネに関する資料としては,

 辻 茂『詩想の画家ジョルジョーネ』新潮社,1976年(以下,辻)
 Terisio Pignatti, Goirgione, Clovis Whitfield, tr., Giorgione, London: Phaidon Press, 1971(以下,ピニャッティ,イタリア語原著は1969年刊)
 サルヴァトーレ・セッティス,石井元章/足立薫(訳)『絵画の発明 ジョルジョーネ「嵐」解読』晶文社,2002(イタリア語原著は1978年)


の3冊があるだけだ.出版年が古い本ばかりなので,家名ガスパリーニ説は全く言及がないが,辻とピニャッティには,17世紀から言われ始めたバルバレッラという「姓」への言及がある.辻はこれを根拠薄弱と断じている(p.21)が,そこでの辻の説明は,興味深い.

 これはやはり,その時代に始まったジョルジョーネの神話化と動きをともにして名誉でもって彼を飾ろうとする意図に発した捏造であったろうと推察される.つまり,<きわめて微賤な家柄に生まれた>とヴァザーリも指摘しているとおり,レオナルドを初めとするルネサンスの少なからぬ芸術家がそうであったように,彼もまた,私生児であったと推定されるが,十七世紀のジョルジョーネ賛美者たちは,彼のために姓を見つけ出すことで,彼への栄誉たらしめんとしたのであろう.(pp. 21-22)

 ピニャッティも完全否定である.(p.10)



 長い間持っていた辻の著書は,専門と関係が薄いので実家に置いていて,津波で流されたが,「詩想の画家」と言うタイトルに魅かれていたので,震災後早い時期にアマゾンで古書を再入手していた.

 きわめて堅実でアカデミックな業績を挙げたこの学者を,私は,その名のポエティックな響きから,詩人だと思い込んで,この本も文学的随想だと思い続けていた.自分が片田舎の高校生だった頃,東京藝大の気鋭の助教授だった著者が渾身の力を籠めて書いたこの本は,多分,今後も私の書架の宝であり続けるだろう.

 恥ずかしい話だが,この本のタイトルにもなっている「ジョルジョーネ」と言う名と,私がイタリアその他で断片的に少数の作品を観ることができて,憧れ続けていた同名の画家がどうしても重ならず,今回,ジョルジョーネについて感想を書き始めた段階では,この本が貴重な参考書であることすら思い出せなかった.

 日進月歩の学問分野であろう美術史学において,1970年代半ばに出た著作は既に,研究上の意味は薄れているかもしれない.それでも,当時としては最先端の知見を見事に整理しながら,些末な諸問題を越えて,天才芸術家の「詩想」を語ってくれるこの本から,今後も学び続けたい.


「ジョルジョーネの家」博物館
 辻はジョルジョーネの作品として伝わった111点の絵を,A(真作),B(新作とみなすのに多少の疑問の残るもの),C(一部の学者によって支持されているが,真作とは判定し難いもの)に分類している.

 Aに分類された21点をさらに,A1(単独の筆になる真作であることが.充分信頼に足る記録で裏づけられるもの),A2(記録による証拠がなく,またあったとしてもその信頼度は劣るが,様式や出来栄えその他から推して,充分に真作とみなしうるもの),AO1(ジョルジョーネが着手して他の画家が加筆完成したことが,信頼しうる記録によっても判明しているもの),AO2(信頼に足る記録はないが,ジョルジョーネが着手してのち,他の画家が加筆完成したと信じられもの)に分類している.

 A1は「嵐」(テンペスタ)と,「ドイツ人商館の壁画」断片の2点のみで,カステルフランコ大聖堂の祭壇画,エルミタージュの「ユディト」とともに13点のA2作品に分類されているものとして,「「自由諸科目」その他の壁画装飾(カステルフランコ,カーサ・ペリッツアーリ)」が挙げられている(トップの写真).

 辻は,この作品に関して,他の箇所(pp.94-96)でも,「確証を欠くにもかかわらず,真作としてその重要性がとくに学者たちに注目されているもの」,「全体としてはきわめて装飾的な性格のものでしかない.しかし視線を近づけて仔細に観察すると,ジョルジョーネの筆の面目をうかがわせる充分に力のこもった作品であることは理解される」とわざわざ言及している.

 このフレスコ画をジョルジョーネが描いたかどうかは,もちろん,私には判断できない.かなり踏みこんで,ジョルジョーネ作と言い切る人もいるが,一方,観光案内のような本であっても,あくまでも比定であることを断っている抑制の効いたものも少なくないように思われる.

 しかし,ルネサンス期の「人文主義」と言う流行思想を考える上では,このフレスコ画を観ることができたのは貴重な体験であったように思う.

写真:
フリーズのフレスコ画
ラテン語の警句のある
部分


 現場では,上の写真の中央の人物はイスラム教徒でアリストテレスの思想をヨーロッパに紹介する契機となったアヴェロエス(イヴン・ルシュド)であると説明を受け,あくまでも当時の人のイメージに過ぎないとは言え,ターバンを頭に巻いているところから,私もなるほどと思い,特に興味を魅かれ写真に収めた.

 向かって左側のラテン語は,直訳すると「影の移行が,私たちの時である」,右側は「徳のみが明らかで,永続するものと思われている」と言う意味になる.前者の冒頭のVNBREは最後のEを二重母音のAEに置き換えれば,学校で習う古典ラテン語の綴りになる.

 それぞれ,古典ラテン語らしい綴りに置き換えて,ウェブ検索にかければ,前者は旧約聖書(プロテスタントでは外典)『知恵の書』2章4節(新共同訳では「我々の年月は影のように過ぎゆき」)のラテン語訳(ウルガータ聖書),後者はローマ共和政末期の歴史家サルスティウスの『カティリーナ戦争』第1章4節からの引用であることがわかる.

 C.=サッルスティウス=クリスプス,合阪學・鷲田睦朗(翻訳・註解)『カティリーナの陰謀』大阪大学出版会,2008

には「精神力は優れており,永続的であるとみなされている」と訳されていて,「精神力」にウィルトゥスと言うルビふられている.手許にあるロウブ古典叢書(羅英対訳)の英訳もmental excellenceと訳してあり,直前の「富や容姿の栄光は儚く壊れやすい」(合阪・鷲田)と対照されているので,この文脈では確かに「徳」よりも「精神力」の方が適訳であろう.

 中央の人物がアヴェロエスがどうかは,両側のラテン語からは根拠づけられないが,この絵の写真を掲載し,解説しているイタリア語のウェブページでは「アヴェロエス」の名を挙げて,「?」を付している.

 フィレンツェ,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,旧修道院博物館「緑の回廊」のスペイン人礼拝堂にあるアンドレーア・ボナイウートの「栄光のトマス・アクイナス」では,玉座にかけているトマスの足元にターバンの人物が描かれており,これがアヴェロエスであろう.

 ドメニコ会が注文した作品だけに,トマスがアリストテレス解釈と神学体系構築においてアヴェロエスを凌駕したことを現す図像であるが,思ったよりもイスラム哲学者に対して敬意のこもった描き方に思える.ムハンマドを地獄に落としたダンテの『神曲』でも,「偉大な註釈を成し遂げた」と形容されて,過去の偉大な学者たちとともに,リンボ(辺獄)に置かれている.

写真:
ジョルジョーネの唯一の
完存フレスコ画の可能性の
あるとされるフリーズ(部分)


 再び,辻の言葉を借りると,「漆喰壁に黄土で下塗りをし,その上に,暗褐色で形をとり,さらにそれで陰影をつけながら白色で明部を浮き立たせた,ほとんど単彩素描と称するのにふさわしい」これらの絵に描かれているのは,「トロフィーや頭像のほかに,楽器,画具,書物その他の器具類で,それらは,音楽,絵画,幾何学または天文学などの自由諸科を表していることは明らかだが,全体としての意味は必ずしも明確ではない」.

 ただ,有名な貴族の屋敷でもなく,単なる装飾として描かれたのであれば,その主題や寓意を厳密に読み取る必要はないように,私には思える.

 現在,このフレスコ画フリーズが描かれているカーザ・ペッリッツァーリは,「ジョルジョーネの家」博物館となっており,そのブックショップで買った,

 Giacinto Cecchetto, tr., Alexandra MacMillan, Castelfranco Veneto: The Town of Giorgione, Cittadella (Pd): Biblos, 2008(以下,チェッケット)

には,歴代の所有者として,バルバレッラ家,マルタ家,トレヴィザーニ家,ペッリッツァーリ家の名が挙げられ,チェッケットはバルバレッラ家にジョルジョーネが属していたかも知れないことをほのめかしている.

 辻もこの家がジョルジョーネの生家だったと言う「伝説」に言及しているが,「信ずべき根拠」があるわけではないと断っている.もちろん,辻もピニャッティもジョルジョーネがバルバレッラ家の出身であることは否定している.

 この博物館には,ジョルジョーネ以外の画家が後に描いた華やかな色彩のフレスコ画も残っており,また,当時の人文主義者の書斎が再現されており,他にも興味深い展示物もある.

 カステルフランコに足を伸ばすということは,大聖堂でジョルジョーネの祭壇画を観ることであり,大聖堂とその関連施設にはヴェロネーゼのフレスコ画やパルマ・イル・ジョーヴァネの絵(今回は観られていない)もあるようだが,他には,中世,ルネサンスの雰囲気を残す街並みくらいしか見るべきものがないこの町で,この博物館に寄らないという選択肢はないだろう.

 素人目には,現存するフレスコ画の芸術的価値はわからないが,ルネサンス期のヴェネト州地域の知的環境に思いが至るこの博物館は,一見の価値があると思う.



 この町を訪れたことで,ジョルジョーネへの距離が縮まった感は特にないが,雰囲気の良い街とジョルジョーネの貴重な遺産に触れることができたのは,望外の喜びだった.

 カステルフランコは,近隣の都市トレヴィーゾがライヴァルだったパドヴァへの対抗上,1195年に築いた城砦が起源で,トレヴィーゾとともにヴェローナのスカーラ家の支配を受け,後にヴェネツィア共和国に併合された.

 中世の城壁と,掘割が残っていて,ルネサンス以降の建築とよく調和していて,本来なら,じっくり散策を楽しみたいような街だが,今回は誰もが真作とするジョルジョーネの祭壇画と,辻のような優れた研究者が芸術家自身の作とするフレスコ画を観ることができて満足している.

 大聖堂は1785年に新古典主義様式で建てられた新しい外観で,とりたて魅力は感じないが,堂内にジョルジョーネの祭壇画があることを思うと,入堂の際は気持ちが引き締まる.

 この町で,少なくとも2人の有名な音楽家が生まれている.バロック時代のオペラ作曲家でドイツで活躍したアレッサンドロ・ステッファーニと,私たちがフィレンツェのペルゴラ劇場でその演奏を聴くことができた現代のチェリスト,マリオ・ブルネッロだ.


キエーリカーティ絵画館
 瞬く間に時が過ぎ,もう優に2ヵ月以上前のことになってしまったが,3月20日の夕方,カステルフランコをバスで出発した後,ヴィチェンツァの宿に着いた.16世紀の建築家アンドレーア・パッラーディオが設計した建築物が多く残る街だ.宿は郊外だったので,観光は翌朝から始まった.

 有名なテアトロ・オリンピコから観光は始まったのだが,それに関しては次の回で報告することとし,同じくパッラーディオが設計し,現在は絵画館になっているキエーリカーティ宮殿で観た芸術作品の報告を先にする.

 Giovanni C. F. Villa, ed., Palazzo Chiericati: Cinquanta Capolavori dal Trecento al Cinquecento, Cinisello Balsamo, Milano: Silvana Editoriale, n.d.
 Id., Palazzo Chiericati: Cinquanta Capolavori del Seicento e Settecento, Cinisello Balsamo, Milano: Silvana Editoriale, n.d.

の2分冊を,前以てイタリア・アマゾンで入手し,多少の予習をしていたので,この絵画館には大いに期待していた.最も期待していたチーマ・ダ・コネリアーノの「玉座の聖母子と聖人たち」は多分,特別展に出張中で見られなかったし,それぞれ「50の傑作」として紹介されている都合100作品全てが見られたわけではなかったが,かなりの数の傑作,佳作を観ることできた.

 最初に通された部屋の天井画は,ヴェローナで出会った懐かしいドメニコ・ブルーザソルチ(ブルーザソルツィ)の作品であった.父である太陽神からその馬車を借りたパエトンが描かれているであろう.

写真:
ドメニコ・ブルーザソルチ
キエリカーティ宮殿
天井フレスコ画


 写真の向かって右側の,三日月から白い光を発し,馬車を御している女性が月の女神(本来はギリシアではセレネ,ローマではルナ,ヘレニズム以降はそれぞれアルテミス,ディアナ)だとすると,天を馬車で運行して地上を照らす昼と夜の役割交代の場面であろうから,黄色い光を発している裸体の男性は太陽神(ギリシアではヘリオス,ローマではソルが,ヘレニズム以降はそれぞれアポロン,アポロ)とも考えられる.しかし,手綱を放しそうな不安定な感じから,馬車を御しきれずに墜落を予感させるパエトンであろうと思った.特に感銘は受けないが,端整な装飾画だと思う.

 ドメニコは,やはりヴィチェンツァ市内で,パッラーディオが設計したポルト宮殿では,ヴェロネーゼとともに装飾画を担当し,天上画「巨人族の失墜」を描いているとのことだ.1552年から建設が始まった建物なので,12歳年下のヴェロネーゼは24歳,後の巨匠とは言え,まだ若者だった同郷の天才をドメニコがリードしていたかも知れない.キエーリカーティ宮殿の建設は51年からなので,同時並行の仕事であったのだろうか.

 いずれにしても,パドヴァ生まれの建築家が設計したヴィチェンツァの建物に,ヴェローナ出身の画家が装飾画を担当しており,ヴェネト地方がヴェネツィア共和国主導のもと,芸術においても一体性を持っていたことが察せられる.

 上記の案内書では,ヴェローナの画家としてはジョヴァンニ・バディーレ「聖クリストフォロス」(15世紀前半),ドメニコ・モローネ「聖ブラシウスの物語」(15世紀後半か)が見られるはずだが,見ていない.

 古い絵としては,14世紀中頃のパオロ・ヴェネツィアーノの「聖母の永眠」があり,油彩画の時代になって大いに栄えるヴェネト地方の絵画の中で,板にテンペラのゴシック絵画は貴重な作例と言えよう.保護ガラスに覆われているので,反射して観にくい.もとは三翼の祭壇画であったのかもしれないが,聖母永眠の絵の左右に,フランチェスコと,パドヴァのアントニウスが描かれた「翼」が並べられている.

写真:
ハンス・メムリンク
「キリスト磔刑」
1468-70年頃


 メムリンクの作品としては,上の写真の作品は傑作には数えられないであろうが,北方絵画の影響を受け,油彩画も発達し,風景を描き込む技法も取り入れられたであろうことを思うと,イタリア絵画の中に置かれるとよく目立つこともあり,見入ってしまう.

 聖母,福音史家ヨハネ,マグダラのマリア,洗礼者ヨハネの他に,向かって右側の白い修道服の人物は跪いているのが,シトー会の修道院長ヤン・クラッベで,その後ろにいるのが,シトー会の精神的支柱クレルヴォーのベルナルドゥスとされている.

 北方絵画によく見られるタイプの,長方形屏風型の三翼祭壇画の中央パネルだったかも知れない.

写真:
フランチェスコ・カイロ
「洗礼者ヨハネの首に
恍惚とするヘロデア」


 ミラノで出会ったバロックの画家フランチェスコ・カイロの作品は,暗めだが目立っていた.

 宗教的恍惚=法悦(エクスタシー)というモチーフが,聖書に関連する題材とは言え,聖人の処刑に満足している女性の姿に応用されている.ミラノから電車と徒歩で「遠征」を敢行して見た,カスティリオーネ・オローナのマゾリーノのフレスコ画(2009年10月22日のページ参照))が思い起こされるが,美しい色彩を追求した200年ほど先行するマゾリーノとのあまりの違いに目を見張る.

 ミラノの画家としては,ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォの「我に触れるな」の写真が上掲書で紹介されているが,観た記憶がない.

写真:
バルトロメオ・モンターニャ
「玉座の聖母子と聖人たち」
(聖人はオノフリオと洗礼者)


 バルトロメオ・モンターニャは,父が現在はロンバルディア州ブレーシャ県に属するオルツィヌオーヴィの出身で,ヴィチェンツァに移住した.父の移住前の生まれであれば,オルツィヌオーヴィの生まれ,移住後であればヴィチェンツァの生まれで,伊語版ウィキペディアは前者,キエーリカーティ絵画館の案内書は後者(ただし「?」を付している)である.

 いずれにせよ,彼は幼少期からヴィチェンツァで過ごし,1523年にヴィチェンツァで亡くなっているので,ヴィチェンツァの「地元の画家」である.

 「ヴェネツィア派」と言う時,ジョヴァンニ・ベッリーニ,ジョルジョーネ,ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼの名前はすっとでてきても,ヴィヴァリーニ一族,カルパッチョ,チーマともに,モンターニャの名前は,すぐには出てこないかも知れない.しかし,私は,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館でこの画家と出会って以来,この画家が好きだ.

 確かに,ジョヴァンニ・ベッリーニやアントネッロ・ダ・メッシーナの影響を活かしきるだけの才能も,ジョルジョーネやティツィアーノのように,新しい画風を切り開く気力も欠けていたかも知れない.また,16世紀になってからも20年以上生きた画家としては,その作品が古くさく思えることは否めない.それでも,堅実な構成力と,奇を衒わない色彩の配合は,その絵を美しいと思わせるに十分であり,この画家の作品は今後ともフォローして行きたい.

 上掲の案内書には5点が写真で紹介されているし,絵画館HPの検索では15点がヒットするが,今回実際に観ることができたのは,上の写真の1点のみだと思う.聖母の玉座の台座の向かって右下にラテン語の省略形で「バルトロメオ・モンターニャの作品」とある.

 ペルージャで観たルーカ・シニョレッリの祭壇画以来,イメージ通りのオノフリオが,裸体でありながら品位を失うことなく見事に描かれていると思う.背景の空の青も美しいし,均衡感が観る者の心を落ち着かせ,ごつごつとした岩山と台座が調和している.

 モンターニャが30代半ばぐらいの時に,ヴィチェンツァで生まれた画家がマルチェッロ・フォゴリーノである.絵画館HPの検索では3点がヒットするが,観たのは「三王礼拝」の祭壇画だけだ.岩山や,聖堂,城塔のごつごつした量感が良い.色彩も美しい.

 他に,ヴィチェンツァで生まれ,ヴィチェンツァのルネサンスを現出したであろう画家として,ジョヴァンニ・スペランツァがいる.この画家は伊語版ウィキペディアにも情報がないように思われるが,絵画館HPの検索で2点がヒットし,どちらも案内書の写真で観ることできる.フォゴリーノより10歳以上年上のこの画家の「聖母被昇天」と聖人たちは美しい絵だと思うが,観た記憶がない.

 スペランツァとほぼ同年と推定されているジョヴァンニ・ボンコンシーリオ(ブォンコンシーリオ)は,絵画館に6点が収蔵されているようだが,やはり観た覚えがない.案内書に写真が掲載されている「聖母の膝に抱かれた降架のキリスト哀悼」は,上記の画家たちよりも新しい画風が見られるように思う.モンターニャの弟子で,ジョヴァンニ・ベッリーニやアントネッロ・ダ・メッシーナの影響が色濃いとのことだ.

 彼は,現在ヴェネト州ヴィチェンツァ県に属しているモンテッキオ・マッジョーレで生まれ,ヴィチェンツァで亡くなったので,ヴィチェンツァの地元の画家と言って良いだろう.

 これら15世紀の後半に生まれ,16世紀の前半に活躍したヴィチェンツァの「地元の画家たち」の作品で,現在キエーリカーティ絵画館で見られる作品の幾つかは,同地のサン・バルトロメオ教会にあったようで,これらの絵が教会の祭壇に飾られているところを見てこそ,その真価がわかるように思われる.



 上掲書で写真を紹介されている絵でも,観た記憶が全くないものが相当数ある一方で,フラッシュ無しの撮影可とのことだったので,印象に残る絵は,写真を撮って来た.しかし,上掲書を入手していたので,説明パネルは必要がないと思い,作者名等を確認してこなかった,もしくは忘れてしまった作品も複数ある.カラヴァッジョ風の「イサクの犠牲」の他,「エンジェル・ピエタ」,「ユディトとホロエルヌス」,「ルクレティアの自害」,「天使に導かれるトビアス」「聖ステパノの殉教」などは名のある画家が描いたのではないかと思わるが,上掲書からは情報が得られず,残念だ.

 伊語版ウィキペディアからたどって,絵画館のHPにたどりつくと,写真はあまりないが,検索機能がついていて,イタリア語だけだが,作者名,題名,コレクション名での検索ができる.「イサクの犠牲」(Sacrificio di Isacco)は4作あり,アンニーバレ・フォンターナ(16世紀),イル・コンスタンティーニ工房(18世紀)は,カラヴァッジョ風の絵なので考えにくいとして,ジュゼッペ・ヴェルミーリオパドヴァニーノは時代的にどちらも可能性があるが,「深くカラヴァッジョの影響を受けた」(英語版ウィキペディア)とされる前者の可能性が高いと思われる.

 「エンジェル・ピエタ」は「天使に支えられる死せるキリスト」(Cristo morto sorretto da un angelo)だと,フラ・センプリーチェ・ダ・ヴェローナ(英語版伊語版)の作品ということになり,「天使による降架のキリスト哀悼」(Cristo deposto compianto da un angelo)だと,ピエトロ・デッラ・ヴェッキア作ということになる.後者であれば,ヴィチェンツァ出身の地元の画家で,上掲書でも絵が紹介されているが,この絵は紹介されていない.

 昨年,エルミタージュで観たヴェロネーゼの「キリスト哀悼」に良く似ているように見え,私には良く描けているように見える.伊語版ウィキペディアの情報に拠れば,フラ・センプリーチェは,ヴェロネーゼ,コレッジョの模倣者と見なされたとあるのを考えると,前者の可能性が高い.

 「ホロフェルヌスの首を持つユディト」(Giuditta con la testa di Oloferne)と言う題名の絵が2点あり,デッラ・ヴェッキア工房(17世紀)とパドヴァの画家(16世紀)の作品とされる.カラヴァッジョの影響が見られるように思えることを考えると前者であろう.

 検索すると「ルクレティアの自殺」(Il suicidio di Lucrezia)という名の絵があって,17世紀のヴェネツィアの画家の作品とされる.題名から行くとズバリだが,絵の大きさの情報から考えると,縦と横がほぼ同じサイズで,私が撮って来たものではないようだ.他に「ローマのルクレティア」(Lucrezia romana)という題名の絵が2点あって,こちらはパドヴァニーノとルーカ・ジョルダーノの作品だ.

 「トビアスの帰還」(Il ritorno di Tobia)という絵と,「守護天使」(L’Angelo custode)という絵があり,前者であれば,ピエトロ・パオロ・ダ・サンタ・クローチェという17世紀初頭の未知の画家,後者であれば,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館でその「最後の晩餐」を観ているフランチェスコ・マッフェイの作品と言うことになる.マッフェイの作品も上掲書で数点紹介されているが,トビアスの絵は言及されていない.

 題名が「トビアスの帰還」である場合は,それによって眼病を癒される父親トビトも登場することが多く,「守護天使」という図像は,セビリア大聖堂で観たマッティア・プレーティの絵のように,大天使ラファエルがトビアスの手を引いて道を歩いている.やはり後者の可能性が強いように思うが,であれば,ヴィチェンツァ生まれの地元の画家の絵と言うことになる.

 「聖ステパノの殉教」(Martirio di santo Stefano)に関しては,1点がヒットして,ルーカ・ジョルダーノの作とされる.ルーカの作品はこの絵画館で多く見られ,上掲書でも複数の作品が紹介されている.この絵はルーカと言う大芸術家が描いたにしては,それほど優れた作品との印象はなかったが,ルーカの作品であろう.であれば,「ルクレティア」に関しても,ルーカ作品の可能性があるかも知れない.ルーカの作品の殆んどが同じ部屋にまとめて展示されていた.

写真:
ルーカ・ジョルダーノ
「アエネアスをオリュンポスに
導くヴィーナス」


 数多あったルーカ・ジョルダーノの作品のうち,上掲書にも紹介されている,「パリスの審判」,「カナの婚礼」,「バテシバの入浴」などはさすがに美しい絵だったが,何よりも,私の専門に近くて関心を惹く「アエネアスをオリュンポスに導くヴィーナス」を実際観ることができたのは良かった.

 いわゆるアポテオーシス(英雄もしくは優れた人物が神に列せられること)をモティーフにしており,アエネアスを主題にした作品は複数観ているが,ルーヴル美術館のピエトロ・ダ・コルトーナの作品に匹敵するほどの感銘を受けた.

 オウィディウスの『変身物語』14巻に取材した作品で,向かって右側がアエネアス,左側の老人は河の神で,原作ではヴィーナス(アエネアスの母)は,河の神によって浄められた英雄の体に香油を塗り,「神酒」(ネクタル)を混ぜた「神饌」(アンブロシア)で彼の口を拭った(中村善也訳,岩波文庫,下巻,p.282)とあるが,この絵では,河の神の娘たちに支えられた老人となった息子に,空中に浮遊している若い姿の母神が水差しから,多分ネクタルを飲ませている.

 全体的に色調が暗いが,ラウレンティウム地方の葦が茂っている川の夕景がすばらしい絵だと思う.西方に見えるティレニア海に日没の光が射して,彼岸である天界にこれから老いた英雄が若返って迎えられ,イタリアの守護神になると言う近未来を雄弁に物語っている.

 しかし,この絵画館で,もっともすばらしい作品は,ナポリ派のルーカの作品ではなく,やはり後期ヴェネツィア派の2人の巨匠の作品であろう.ティエポロの「無原罪の御宿り」はプラド美術館の同名作品の方が優れているかも知れないが,その簡素化された図像は魅力的であり,ピアッツェッタの「聖フランチェスコの法悦」は真に傑作の名に値する.


   
左) ジャンバッティスタ・ティエポロ 「無原罪の御宿り」
右) ピアツェッタ 「聖フランチェスコの法悦」

 


 ジャン=バッティスタの息子ジャン=ドメニコ・ティエポロの「洗礼者ヨハネの斬首」も上掲書の写真で見る限り,傑作だと思うが,残念ながら,観た記憶がない.

 今回,絵画館で観ることができた作品の中で,ティントレットの「足の不自由な者たちを癒す聖アウグスティヌス」は立派な絵だったが,案内書で写真が紹介されているヴェロネーゼ,ヤコポ・バッサーノ,レアンドロ・バッサーノなどヴェネツィア派の巨匠たちの作品は,少なくとも2点あるヤコポの1点を除いて,多分見ていないと思う.


サンタ・マリーア・イン・フォーロ・デイ・セルヴィ教会
 ヴィチェンツァでは,パッラーディオ設計の建物の外観を見ながら,街歩きをすることが主たる目的であったが,テアトロ・オリンピコと,絵画館のあるキエーリカーティ宮殿は内部も見学し,大聖堂,サンタ・コロナ教会は堂内を拝観し,短い自由時間にサンタ・マリーア・イン・フォーロ・デイ・セルヴィ教会も拝観できた.

 この教会は,外観はヴェネト地方のルネサンス様式で,ポルターユを造った工房の一員にまだ,建築家になる前で,パッラーディオを名乗っていなかったアンドレーア・ディ・ピエトロがいた可能性があると言う(伊語版ウィキペディア).やや小さめのコリント式の柱頭を持つ柱と,三角破風がいかにもルネサンス風の感じがする.

写真:
サンタ・マリーア・イン・
フォーロ・デイ・セルヴィ教会


 堂内は,交差リヴ・ヴォールトのゴシック風で,赤い煉瓦が柱とリヴに使われて,白赤が交互に繰り返される模様になっている.

 堂内に何点かある祭壇画の写真を撮ることができたが,いずれも満足には写っておらず,残念だった.その中で「聖母子と聖人たち」は比較的良く写った.聖人はセバスティアヌスとロッコなので,疫病の平癒が祈願されたのだろう.作者はベネデット・モンターニャで,伊語版ウィキペディアには情報がないが,英語版ウィキペディアに拠れば,バルトロメオの息子で,そこからリンクされている英語ページに拠れば,版画家としてより重要な芸術家であり,デューラーの影響を受け,神話の版画などで好評を博したようだ.

 1480年頃ヴィチェンツァで生まれ,1556年から58年頃ヴィチェンツァで亡くなった地元の芸術家と言えよう.


サンタ・コロナ教会
 サンタ・マリーア・イン・フォーロ・デイ・セルヴィ教会(聖マリア下僕会)に比べると,ドメニコ会の教会であるサンタ・コロナ教会は,遥かに大きく,遥かに重要な芸術作品に満ちていた.コロナ(コローナ)とは「冠」を意味するラテン語に由来し,キリストが被せられた荊冠を意味している.

 この教会のポルターユのタンパンには,2人の兵士の侮辱される荊冠のキリストの高浮彫があり,他では,少なくとも私は見たことがない.

写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
「キリスト洗礼」


 芸術の価値にも貴賤はないだろうが,少なくとも私にとっては,最もすばらしく思えたのは,ジョヴァンニ・ベッリーニの祭壇画である.ヴェネツィアのサン・ザッカーリア教会の祭壇画と並んでサンタ・コロナの祭壇画が素晴らしかったのは,何と言っても,そこに飾るのを意図して描かれたままの姿で観られることだ.

石造の祭壇が素晴らしい出来で,その中で最も映えるように,ベッリーニの祭壇画は描かれた.それが今回よく分かった.


 2次元の芸術である油彩画が,抑制された立体感を見せる祭壇と組み合わされて現出される魅力を教えてくれたのは,このサンタ・コロナの「キリスト洗礼」だ.この後,アカデミア美術館などで,彼の傑作を複数観ることができたが,絵のみが展示されている場合でも,オリジナルな姿を想像して観ることができ,理解が深まった.

 不世出の大芸術家ジョヴァンニ・ベッリーニが描いたのだから,絵画技法も色彩も最高水準にあるのは,いまさら言うまでもないのであろうが,それでも,彼の最高傑作と言われているわけではない,言うなれば地方の中都市にある決して大きくはない教会の地味な祭壇で,この作品は輝きを放っていた.祭壇にもコリント式柱頭の柱が用いられており,これはまさにルネサンスの芸術と言えるだろう.

写真:
バルトロメオ・モンターニャ
「マグダラのマリアと聖人たち」
聖人たちは向かって左から
ヒエロニュムス,パオラ
モニカ,アウグスティヌス


 ヴェロネーゼの「三王礼拝」も華やかで立派な絵だと思うが,印象に残ったのは,バルトロメオ・モンターニャの「マグダラのマリアと聖人たち」だ.聖母子が中心にいれば「聖なる会話」になる図像の中心に立姿のマグダラのマリアがおり,その堂々たる姿は,アレッツォ大聖堂で観たピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画を思わせる威厳に満ちている.私が知る限り,バルトロメオの最高傑作であろう.

 なお,この祭壇画のあるパジェッロ家の祭壇の下には,シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の原作の1つにあたる散文作品を書いた文筆家ルイージ・ダ・ポルトの墓がある.

写真:
棺の上のフレスコ画
ミケリーノ・ダ・ベゾッツォ
「玉座の聖母と聖人たち」


 この教会は基本的にラテン十字型であるが,中央祭壇に向かって右側翼廊の中央祭壇側の付け根のところにあるティエーネ家礼拝堂には,祭壇画としてジャン=バッティスタ・ピットーニの「聖母子と聖ペテロとパウロ,教皇ピウス5世」があり,それよりも両側の壁にそれぞれある後期ゴシックの立派な石棺付き墓碑の上部のリュネット型の装飾の中に,ミケリーノ・ダ・ベゾッツォの「玉座の聖母子と聖人たち」を描いたフレスコ画がある.

 ロンバルディア出身の国際ゴシックの画家で,ミラノのサンテウストルジョ聖堂で礼拝堂の天井に描かれたフレスコ画を見ており,フィレンツェだよりの2009年10月8日のページで写真を紹介している.そこにも書いたが,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館の誇るべき収蔵品の1つで,ステファノ・ダ・ヴェローナ作と言われていた美しい「バラ園の聖母」の真の作者かも知れない芸術家だ.

 今回の旅でも,ヴェネツィアのアカデミア美術館でヤコベッロ・デル・フィオーレの作品に再会したが,国際ゴシックの芸術を鑑賞できた数少ない機会だったことになる.

 後陣のステンドグラスや,中央祭壇のフィレンツェの職人集団コルバレッリ工房が制作した輝石細工の祭壇,木製の合唱隊席,今回見ることができなかった,パッラーディオ設計とされる地下のヴァルマラーナ家礼拝堂など,この教会を拝観する時は3時間はほしい.

 いずれにしても,ヴィチェンツァでも多くの芸術に出会えたことになるが,パッラーディオ設計の諸建築と大聖堂に関しては,次回以降に報告をまとめ,今回はここまでとする.






ルーカ・ジョルダーノの作品が並ぶ部屋で
キエーリカーティ絵画館