§北イタリアの旅 - その4 (ウーディネ)
「ウーディネ」と言う名前に聞き覚えがあるのは,ジョヴァンニ・ダ・ウーディネと言うラファエロの弟子にあたる芸術家の出身地だからだ. |
ということは,何かでは調べているはずなのに,漠然とした印象しかなく,何となくヴェネト州の漁港を想像していた.実際は内陸の町で,そもそもヴェネト州ではなく,フリウリ・ヴェネツィア=ジュリア州だ.
ウーディネは,チヴィダーレもアクイレイアも属しているウーディネ県(グラードはゴリツィア県)の県都でもある.その起源は不明で,古代にも人は住んでいたであろうが,文書にその名が言及されるのは10世紀が終わろうとする頃とのことである.
1218年,メラニア公爵家出身のベルトホルトは,チヴィダーレ在住の「アクイレイア総大司教」に任命され,1238年にその大司教座をウーディネに遷した.神聖ローマ帝国の皇帝は,ドイツ国王でもあり,イタリア国王でもあるという伝統があり,バイエルンの伯爵,公爵を出した家柄の出身であるベルトホルトは,現在の国名で言うとドイツ人ということになるが,複数いるドイツ系の「アクイレイア総大司教」の最後の人物であるらしい.死亡地はアクイレイアとされているが,いかなる事情であったのはわからない.
いずれにしても,チヴィダーレ在住だった「アクイレイア総大司教」の居所は,以後ウーディネとなり,ベルトホルトが建造を指示した,ゴシック様式と思われる大聖堂が現在に残っている.
カスッテロのある丘
ウーディネの観光は,ピアッツァ・マッジョ(五月広場)という,大きな公園のような広場の周回道路の脇でバスを降り,城(カステッロ)のある丘を登ることから始まった.けっこうきつい坂だったが,しばらく行くと前方に教会の後陣が見え,期待を抱かせた.
この教会はサンタ・マリーア・ディ・カステッロ教会という名のウーディネ最古の教会のようだ.ロマネスクの遺風の残る12世紀の建造ということで,後陣の外観はそれらしく思えたが,丘の上に通ずる坂道に面する正面はルネサンス建築のファサードで,16世紀にガスパーレ・ネグロと言う芸術家の設計で始められ,ジョヴァンニ・ダ・ウーディネが完成させたとのことだ.
後陣の半穹窿天井の「キリスト降架」のフレスコ画は,13世紀の作品とのことなので,ゴシックの芸術かと思ったが,ウィキメディア・コモンズから辿れる写真の解説には「ロマネスク」とあり,写真を見ると,登場人物の顔,特に眼の形などは,確かにそう思わせられる.伊語版ウィキペディアに拠れば,ドイツ・バイエルン地方から来た職人たちの作品とされている.
ロマネスクからルネサンスの芸術を鑑賞できる興味深い教会ではあるが,今回は後陣の外観とファサードのみしか見ていない.鐘楼は立派だが,相当新しいものであるように思えた.
この教会の前が三叉路になっていて,左に降るとリベルタ広場に着くが,教会のファサードを見ながら右に上って行くと,「城」のある広い空間に出る.
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写真:
丘の上の広場
サンタ・マリーア・ディ・
カステッロ教会と城 |
城の前の草地の,城の方から見て右端に建物(上の写真には写っていない)は,カーザ・デッラ・コンタディナンツァと呼ばれる.中世初期から,伯爵(コンテ)と言う封建領主がおり,伯爵領をコンタードと言ったが,そこに住む住民は主として農民だったわけだが,コンタディーノと称される.コンタディーノは小学館『伊和中辞典』には「農民,農夫」の次に,《比喩的》と断った上で「粗野な人,下品な人,田舎者」とある.さらに3番目の項目として,古語として「コンタード(郡部)の住民」とある.ここで言うコンタディナンツァは,この3番目の意味の集合体であろう.
フリウリ地方の住民の代表が,議会のような組織をつくり,その人たちがおそらく議場として使っていた建物(カーザ・デッラ・コンタディナンツァ)が,別の場所に16世紀に建てられ,現在,丘の上にあるのはそれを20世紀に再現したものとのことだ.城の兵器庫もしくはその展示場として使われていたが,現在はフリウリ地方の特産物の試食会場などに貸し出されているそうだ(伊語版ウィキペディア).
それにくらべると,「城」の方はさらに古い由緒があり,伝説では,452年にアッティラがアクイレイアを劫略した際に,土盛りをしてこの丘を築き,兵士たちの冬越しの陣営とし,さらに町を建設して,塔を建てたとされる.この情報は日本語版ウィキペディア「ウーディネ」にもあるが,殆んど同じ記述のある英語版ウィキペディアではハンガリー語著書が典拠として示されている.
しかし,これはあくまでも伝説であり,証拠はない.最古の記録は,神聖ローマ皇帝オットー2世が,アクイレイア総大司教ロドアルドにウティヌム(ウーディネのラテン語形)の「城」を982年に寄進したことのようだ.ウーディネの歴史も,「城」の来歴も,記録上は10世紀末からということになる.
古くからの城は1511年の地震で倒壊し,1517年からジョヴァンニ・ダ・ウーディネの設計で再建が始まり,ジョヴァンニの死後,フランチェスコ・フロリアーニ(もしくはフローレアーニ)が引き継いで完成させた.これが現存するルネサンス建築の城で,現在は絵画館,考古学博物館などからなる市立博物館になっている.絵画館にはティエポロの作品などがあり,興味深いが今回は見ていない.
リベルタ広場界隈
丘の上から市街の眺望を楽しみ,再びサンタ・マリーア・ディ・カステッロ教会の前まで下り,今度は右側の坂道に沿ってあるリッポマーノの柱廊(ポルティカートもしくはポルティコもしくはロッジャ・デル・リッポマーノ)を歩いて,リベルタ広場に出た.
リッポマーノとは,1486年の柱廊建設時にヴェネツィア共和国から派遣された総督(ルオーゴテネンテ)であったトンマーゾ・リッポマーノの名に因むようだ(ウェブ上にあったフリウリ・ヴェネツィア=ジュリア州に関する観光案内ページ以外に今のところ情報が見つからない).
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写真:
リッポマーノの柱廊を通り
丘を下る |
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リッポマーノ柱廊は,内部にフレスコ画もあり,それなりに興味深いが,経年の汚れなどもあり,正直なところ,通り抜けるのが少し急ぎ足になる.とは言え,小さな街(人口10万程度)の歴史的建造物としては,全長といい,遠景には目を見張らせるものがある.
教会から「城」に登るときも,門があったが,柱廊を降りて,広場に出るところにも,ボッラーニ門(アルコ・ボッラーニ)がある.この門の設計者はパッラーディオとされるが,とりたてて感銘を受けるほどの建造物とは思えない.門の上には有翼の「サン・マルコの獅子」がおり,ウーディネが1420年からヴェネツィア共和国の支配下に入ったことを物語っている.
「サン・マルコの獅子」は,リベルタ広場の中央の記念柱(下の写真)の上にも置かれている.記念柱の奥にある建造物は,サン・ジョヴァンニの柱廊と小神殿(ポルティカート・エ・テンピエット・ディ・サン・ジョヴァンニ)と,それに組み込まれているように見える時計塔(トッレ・デッロロロージョ)で,前者はロンバルディア出身の建築家ベルナルディーノ・ダ・モルコーテ,後者は地元出身の芸術家ジョヴァンニ・ダ・ウーディネの設計による.
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写真:
記念柱,時計塔と
サン・ジョヴァンニの柱廊 |
ウーディネの観光写真に出てくるのは,多くの場合,この時計塔が見える風景なので,ある意味では最もウーディネらしいと言えるが,私としては,その向かい側にある,リオネッロの会堂(宮殿)(パラッツォ・デル・リオネッロ)が,最もウーディネの文化水準を感じさせる建造物に思われた.
日本式に言うと1階部分が「開廊」になっており,「リオネッロの開廊」(ロッジャ・デル・リオネッロ)としても知られる.金細工師で建築家のニッコロ・リオネッロの設計に基づいて,バルトロメオ・デッレ・チステルネが1448年に建設を開始し,1458年に完成した(伊語版ウィキペディア).
ヴェネト地方,フリウリ地方にも,多くの芸術家,建築家がいたと言うことであろう.幾つか見ることができたヴェネティアン・ゴシックの建造物の中でも,この建物は,コンパクトにまとまっていて,バランスも良いように思われた.色合いも美しい.
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写真:
リベルタ広場と
リオネッロの会堂 |
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多分,今後ウーディネに行くことはないであろうが,私にとっては,この会堂がこの街を最も鮮明に思い出させてくれるであろう.
リベルタ広場には,記念柱が2つあり,一方には前述のようにサン・マルコの獅子(1542年)が,もう一方には正義の女神(ジュスティツィア)の寓意像(1614年,上の写真向かって右側)が上部にある.また,ベルガモ出身の建築家ジョヴァンニ・カッラーラ設計の泉(1542年),ナポレオン没落後の戦後処理であるカンポフォルミオ条約締結を記念した,オーストリア皇帝フランツによる「平和」の寓意像(1819年,上の写真,中央)がある.
制作年代の情報が今一つはっきりしない(英語版ウィキペディアでは「平和」の寓意像と同年のように取れる)が,ヘラクレスとカクスの彫像(ヘラクレスは隠れて見えないが,カクスは上の写真の向かって左側)がある.
支配者がオーストリアであれ,ヴェネツィアであれ,ヘラクレスとカクスの像は,フィレンツェの作品がそうであるように,強者が弱者を打ち負かす図像である.リベルタ広場は,市外の権力者がウーディネの街を支配していることを感じさせる空間であると言えよう.
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写真:
通りの風景
市庁舎,リオネッロの会堂,
その先はリベルタ広場 |
ウーディネの旧市街は,決して広くはない.時間に少しゆとりがあれば,まわることができそうだ.ヴェネツィア支配以降のものが多いとは言え,ヴェネツィア共和国第2の都市(英語版ウィキペディア)であり続け,当時はパドヴァやヴェローナより人口が多かった繁栄した街であったので,街並は心魅かれるものがある.
上の写真向かって右に写っているのは,市庁舎(パラッツォ・デル・コムーネ)になっているダロンコ宮殿(パラッツォ・ダロンコ)の裏側で,フリウリ地方出身の建築家ライモンド・ダロンコの設計に拠るものである.20世紀前半のアール・ヌーヴォー建築とのことだ.1911年に建設を開始し,1932年に完成している.その最古の記録が日本では平安時代にあたるウーディネの中にあっては,本当に新しい建物だが,景観との調和を考慮したのであろう,どっしりとしているが,リオネッロの会堂の後ろにあって,違和感を感じさせない好感の持てる建築物である.
マッテオッティ広場 リベルタ広場から,リアルト通りを南西に進み,エルベ通りを右に曲がると,マッテオッティ広場(ピアッツァ・マッテオッティ)に出る.この名称については,確認がとれていないが,20世紀にファシストによって暗殺された社会主義者で政治家のジャーコモ・マッテオッティの名を冠したのではないかと想像している.
Udine e Provinzia, Milano: Touring Club Italiano, 2009
に拠れば,公式名称はマッテオッティ広場だが,サン・ジャーコモ広場(ピアッツァ・サン・ジャーコモ),エルベ広場(ピアッツァ・デッレルベ)と言う名称もあり,15世紀に旧市場(メルカート・ヴェッキオ)に代わって整備された「新市場」(メルカート・ヌオーヴァ)が広場の起源とされる.
これを整備したのは総督のリッポマーノであったと上記の案内書にはあるが,個人名は挙げられていない.1486年と言う年を勘案すると,柱廊の名に冠されたトンマーゾ・リッポマーノであろう.
エルベと言う名の広場は今までも,ヴェローナ,マントヴァ,パドヴァで見ている.「草」を意味するエルバ(ラテン語ではヘルバで,英語のherbの語源)の複数形エルベは「野菜」の意味になり,それこそ周辺地域の農民(コンタディーノ)が町に来て,野菜を売る広場であったのだろうと想像する.私の記憶では,パドヴァではまだ野菜も売っている市場が機能していたが,ヴェローナとマントヴァは既に歴史的名称になっていたと思う.
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写真:
マッテオッティ広場
背にした建物に
トンドの聖母子 |
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ウーディネではあるいは,日によっては市が立つ日もあるのかも知れないが,私たちが行った時は,広場は閑散としていた.周辺の建物の前には,日よけ傘の下にオープン・カフェのような椅子席が幾つもあって,それなりに埋っていた.リベルタ広場がヴェネツィアやオーストリアに支配された記憶を刻む公けの空間とすれば,こちらは地元市民のくつろぎの場と言うことであろう.
この広場で最も目立つ建造物は,聖母子を戴く記念柱とその後ろにあるサン・ジャーコモ教会(1番下の写真)であろう.前者はジョヴァンニ・ダ・ウーディネの設計であり,後者は1387年の創建だが,現在のファサードは,サン・ジョヴァンニの柱廊と小神殿を設計したベルナルディーノ・ダ・モルコーテが1525年に完成させた.
ベルナルディーノは,上述のようにロンバルディア人と説明されることもあるが,その出身地であるモルコーテは,現在はスイス共和国に属しており,ティチーノ州(カントン)のコムーネで,ルガーノ湖に面している.
ティチーノ州からは後にローマで活躍するマデルノ兄弟やその親族であるフランチェスコ・ボッロミーニが輩出しており,15世紀にシチリアで活躍したガジーニ一族も,本貫の地はこの州である.ロンバルディア北部からスイス最南端のルガーノ湖周辺は,彫刻家,建築家を古来陸続と生み出してきた.ルネサンス期のウーディネでも,その一人が活躍したのかと思うと,伝統と言うものの輝かしさがまぶしく感じられる.
サン・ジャーコモ教会の堂内にも17世紀,18世紀の芸術作品があるようだが,今回は拝観していない.ウィキメディア・コモンズで堂内の写真も見られる.バロック風の華やかな堂内だ.
ドゥオーモ 大聖堂(ドゥオーモ)の建設は,ウーディネに居所を遷した総大司教が指示した.1236年に開始され,完成は16世紀なので,もちろん総大司教ベルトホルトはその壮麗な姿を見ていない.当初,ドイツのアウクスブルクにゆかりの聖人オドリコ(ラテン語ではウダルリクス,ドイツ語ではウルリッヒ)に捧げられたのは,やはりドイツの影響が強かったからだろう.
様々な経過があって,1335年に聖別,献堂された時は,サンタ・マリーア・マッジョーレと言う聖母に捧げられた聖堂となった.
1348年,フリウリ地方に歴史的大地震があり,大聖堂も大きな被害を受け,20年後に修復の担当者に指名されたのが,ヴェネツィア出身のピエルパオロ・ダッレ・マゼーニョであった.兄弟のヤコベッロとともに当時有名な彫刻家,建築家であったらしいが,私は初めて聞く.
しかし,伊語版ウィキペディアをたどって行くと,私たちがボローニャの市立中世博物館で見て,フィレンツェだよりの2008年1月12日のページで写真を紹介した,大学の講義風景を描いた墓碑パネルは,ピエルパオロとヤコベッロ兄弟の作品であり,2007年9月22日のページの最後で写真を紹介し,翌日のページで言及したドメニコ・モローネの絵に現在とあまり変わらぬ姿で描かれていると述べたマントヴァ大聖堂の設計も彼らの仕事のようだ.
18世紀に大聖堂の改築を担当したのが,ドメニコ・ロッシで,彼もモルコーテの出身で,1737年までヴェネツィアで活躍したので,18世紀にもルガーノ湖周辺から建築家が出る伝統は続いていたことになる.
1762年にウーディネで亡くなった「アクイレイア総大司教」ダニエーレ・ドルフィンが,大聖堂を現在の名称サンタ・マリーア・アッスンタ(被昇天の聖母)に改めたのだそうだが,ヴェネツィア貴族出身の枢機卿も務めた人物が,名目に過ぎないとは言え,18世紀の半ばを過ぎて,「アクイレイア総大司教」となり,ウーディネにいたことに驚く.
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写真:
ドゥオーモと鐘楼 |
大聖堂は,改築後に付け足されたものも含め,ファサードに5つもバラ窓のある特徴的な外観だが,5つもバラ窓があるのに,私には大きな一つ目小僧のように見える.決して美しいとは言えない,ゴシックの武骨な姿に思え,ロンバルディア,ヴェネトに多いと勝手に思い込んでいる,煉瓦で装飾されたファサードも印象に残る.ポルターユは,高浮彫が見事なゴシック彫刻で,一見に値する.
鐘楼は八角形のずんぐりとした長筒型で,これもあまり他所で見た記憶がなく,印象的だ.1441年に建設が開始されたもので,たとえばフィレンツェ大聖堂のジョットの鐘楼より100年ほど後で造られたものだが,洗練の極みであるジョットの鐘楼に比べると,やはり古武士の巨躯という風格があるように思われる.
しかし,ゴシックの外観が目立つウーディネ大聖堂にあって,最も注目されるべき芸術は,何と言っても,ジャン=バッティスタ・ティエポロの一連の祭壇画であろう.
今回,旅行に先立って参考のためにイタリア・アマゾンで買った本の中に,
Paolo Pastres, Udine: I Colori del Tiepolo, Cittadella (Pd): Biblos, 2010
がある.「ティエポロの色彩」と言う副題のついた,大きな写真が美しいウーディネの案内書だ.必ずしもティエポロの作品だけを紹介したものではなく,表表紙のリオネッロの会堂の夜景をはじめ,建造物や街の景観,ティエポロ以外の芸術作品も多く紹介されている.それでも,あえて副題にティエポロが謳われるほど,ウーディネにはティエポロの作品が多く残っている.
博物館や宮殿で見られる作品は今回は全く見ていないが,それでも,大聖堂だけで,指折り数えて少し混乱をきたすほど,ティエポロ作の祭壇画や装飾画が見られる.
「三位一体」礼拝堂,聖ヘルマゴラスとフォルトゥナトゥスの礼拝堂で,それぞれの主題の祭壇画を,「至聖の秘蹟」(サンティッシモ・サクラメント)礼拝堂で「キリスト復活」の祭壇画,そしてグリザーユのフレスコ画「イサクの犠牲」,「アダムに現れる天使」,さらにコンクに彩色フレスコ画「奏楽の天使たち見た.(下の写真).
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写真:ウーディネのドゥオーモで見られたジャンバッティスタ・ティエポロの作品
左) サンティッシモ・サクラメント礼拝堂のフレスコと祭壇画「キリスト復活」
中) 「聖ヘルマゴラスと聖フォルトゥナトゥス」
右) 「聖三位一体」
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ヘルマゴラスとフォルトゥナトゥスは,アクイレイア聖 堂のフレスコ画のクリプタで,その活動をフォローすることができる,フリウリ地方にキリスト教を広めた聖人たちであり,ウーディネの守護聖人でもある.
この絵があることで,「アクイレイア総大司教」座が,チヴィダーレにあっても,ウーディネにあってもフリウリ地方の一体性を感じることができる.
「洗礼者ヨハネと聖エウスタキウスの礼拝堂」には,フランチェスコ・サルバトーレ・フォンテバッソの祭壇画があり,一見してティエポロに似た絵に見えるが,1707年ヴェネツィア生まれで,ティエポロより11歳年下,セバスティアーノ・リッチの工房で修業し,ローマで仕事をした後,ヴェネツィアに戻り,ティエポロの画風の影響を受けたとのことだ.特に感銘はないが,上手な画家だと思う.初めて彼の作品を観たのだと思う.
また,印象に残った祭壇画として,聖ヨセフ礼拝堂のマルティーノ・ダ・ウーディネ,別名ペッレグリーノ・ダ・サン・ダニエーレの「幼児イエスを抱く聖ヨセフ」,いわゆるサン・ジュゼッペ・コル・バンビーノがある.
1467年にサン・ダニエーレ・デル・フリウリで生まれ,1547年にウーディネで亡くなった.サン・ダニエーレは現在ではウーディネ県のコムーネなので,この人物はウーディネの地元の芸術家で言って良いであろう.最も有名なジョヴァンニ・ダ・ウーディネが1487年の生まれで,ラファエロの助手としてローマで活躍し,ローマで亡くなり,師匠と同じくパンテオンに葬られたことを考えると,ペッレグリーノこそ,今回初めて出会ったウーディネの地元の画家と言って良いのではないだろうか.
この作品の正確な制作年代は不明のようだが,堂内の解説版では1500年から1501年とされており,ジュゼッペ・コル・バンビーノの絵としては相当古いのではないだろうか.少なくとも,私の理解では,対抗宗教改革以降重んじられるようになった画題で,それまでは「イエスの誕生」,「牧人礼拝」,「聖家族」などに,専ら老人のような姿で脇に描かれていたヨセフが,この絵でも確かに老人ではあるが,イエスを抱いた立姿で,遠近法を駆使した古代風の列柱とアーチの中に描かれ,それを洗礼者ヨハネと思われる金髪の少年が見上げている.
ウーディネにあった,アントニオ・ダ・フィレンツェと言うからにはフィレンツェ出身であろう画家の塾に通い,やはり現在はウーディネ県に属するカナーレ・ディ・ゴルトに生まれ,ウーディネで亡くなったドメニコ・ダ・トルメッツォの工房で修業した.その後,マンテーニャ,ジョヴァンニ・ベッリーニ,チーマ,バルトロメオ・モンターニャなどの影響を受け,フェッラーラでエステ家に仕えた後に,フリウリ地方に帰ってきて活躍した画家のようだ.
弟子の中に,「城」の再建をジョヴァンニ・ダ・ウーディネから引き継いだフランチェスコ・フロリアーニ,また,今回の北イタリア行で,チヴィダーレなど諸方で作品を観ることができたイル・ポルディノーネなどがおり,芸術の伝統の革新と継承にそれぞれ貢献した芸術家と言えるのではなかろうか.
実は,ペッレグリーノ作品を,アクイレイア聖堂で既に観ていた.
アクイレイア大聖堂の後陣に向かって右側に,コンクに「玉座のキリスト」のフレスコ画のある壁龕があるが,そこに不似合なほど華やかな色彩の,ルネサンス期の油彩の多翼祭壇画があり,上部にはキリスト昇天,三翼になった下部には,各翼に2人ずつ,向かって左から,ヘルマゴラスとフォルトゥナトゥス,ペテロとパウロ,ゲオルギウスとヒエロニュムスが描かれ,小さくて見えないが,さらに下に各聖人の事績を描いたと思われるプレデッラ(裾絵)が3面,浮彫を施し金色に塗られた木枠にはめられて飾られていた.
現場で観た時に,よく描けたヴェネツィア派風の絵だなと思い,ペッレグリーノの名前も案内書等で確認したが,ウーディネでその作品と再会し,しかも,ウーディネの地元の画家であったことを知り,驚いた.
この他にも,美しい絵,注目に値する彫刻もあったが,記憶も薄れ,感動も去り,名のみを列挙する意味がなくなっているので,ウーディネの回はこれで終わりにする.
上記の本では,今回未見の,大聖堂以外で見られる複数のティエポロ作品も紹介しているが,その中に,大聖堂の所蔵作品とされているのに,観た記憶のない「キリスト磔刑と聖人たち」の祭壇画があった.あるいは今回見られなかった大聖堂博物館にあったのかも知れない.
博物館は,鐘楼の下に入口があったようだが,かえすがえすも残念なのは,ここにヴィターレ・ダ・ボローニャのフレスコ画があることを事前に調べていたのに,全く失念してしまっていたことだ.伊語版ウィキペディアの大聖堂紹介ページ最下段の方に写真がある「聖ニコラスの物語」の見事なフレスコ画だ.今回,ボローニャのサン・ペトロニオ聖堂でじっくり観ることができた,ジョヴァンニ・ダ・モデナの「東方三賢王の物語」と是非,比べて見たい作品だ.
宿に着いた後,少し自由な時間はあったし,大聖堂まで歩いて行けない距離ではなかったが,少し遠目で,疲れてもいたので,休息を優先した.もし,大聖堂をもう一度見に行ったとしても,ヴィターレのフレスコ画のことは全く忘れていたので,今回はこの傑作に出会えなかったかも知れない.
後日,ポンポーザで,彼の工房による堂内一杯のフレスコ画を観ることができた.人生は常に完璧から遠い.いつの日か,ウーディネを再訪し,ヴィターレのフレスコ画に出会い,ティエポロの今回観ていない作品も鑑賞できることを夢見ながら,無理をしなかったおかげで,他に様々なものが見られ,無事に帰れたのだからとあきらめることにする.
ウーディネはすばらしい,文化,芸術に溢れた都市だ.
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愛らしい街 ウーディネ
サン・ジャーコモ教会をバックに
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