フィレンツェだより番外篇
2014年5月20日



 




[悪魔の橋」から
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会を見る
チヴィダーレ・デル・フリウリ



§北イタリアの旅 - その3 (チヴィダーレ・デル・フリウリ)

アクイレイア聖堂とグラードのサンテウフェミア聖堂の鐘楼は,ともに,上部に各面2つずつの窓がある巨大な四角柱の上に八角柱の部分が乗っている.


 その上の屋根は,グラードは八角錐,アクイレイアは円錐形で,グラードでは八角柱の一面に,アクイレイアでは長い四角柱部分の一面に時計がついており,当然だが,新しい時代の手が入っていることは容易に想像がつく.

 もっとも,オリジナルの部分が古いと言っても,サンテウフェミアの現在の鐘楼は1455年の建設,屋根の上の大天使ミカエルはさらに7年後に付されたものだし,アクイレイア聖堂の鐘楼も現在の原形が建設され始めたのは,ポッポ総大司教の時代の11世紀初めであり,これらの教会の長い歴史を考えると,鐘楼自体はさして古いものとは言えない.

写真:
相当離れなくてはてっぺん
まで写らないほど巨大な
アクイレイア聖堂の鐘楼
写真上部に時計


 アクイレイアの鐘楼は石灰岩でできており,古代の円形闘技場の資材を再利用しているとのことだ.この巨大な鐘楼に下に,「発掘されたクリプタ」があり,紀元後1世紀の邸宅から4世紀の広間にいたる,時代の異なる3層の遺跡の多様な床モザイクを,現在はガラスの通路を通って見ることできる.


ユリウス・カエサルの都市
 チヴィダーレ・デル・フリウリと言う地名をどこかで聞いたという日本人は少ないと思う.私もどこかでは聞いていたかも知れないが,記憶には全く無かった.多分,今回の旅行案内を見て,初めて意識にのぼった地名ではないかと思う.

 フリウリ(フリウーリ)という語は,フォルム・ユリイー(ユーリイー)(ユリウスの広場)と言う,前44年に暗殺された有名なユリウス(ユーリウス)・カエサルが前50年に築いたローマの植民都市の名前に由来するとされる.この町は,現在のチヴィダーレ・デル・フリウリ(以下,チヴィダーレ)であり,チヴィダーレという地名も,キウィタス(civitasキーウィタース「都市」)と言うラテン語が語源だ.

 今回は空港に降り立っただけのトリエステ,古代遺跡と中世の遺産を併せ持つアクイレイア,チヴィダーレ,さらにウーディネも,すべてフリウリ=ヴェネツィア・ジュリアという長い名を持つ「州」(レジョーネ)に属している.「ジュリア」はユリウスの女性形であり,「ヴェネツィア」も都市ヴェネツィア(ヴェネーツィア)よりは,古代からこの地に住んでいたウェネティー族の土地という意味のウェネティアと言うラテン語にむしろ由来するであろう.

 日本語版「フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州」にも,「「ジュリア」はジュリア・アルプス山脈から来ているが,その山脈の名前もユリウス・カエサルに由来する」と説明されている.

写真:
カエサルの銅像が立っている
ピアッツァ・フォロ・ジュリオ・
チェーザレ


 チヴィダーレと言う地名は,以下の事情に由来する.フォルム・ユリイーがランゴバルド族に占領され,ランゴバルド王国の最初の首都となった.首都はその後パヴィアに移り,そのだいぶ後に,ランゴバルド最後の王デシデリウスの治世下,フロドガウドフリウリ公国の公爵に封ぜられた.ランゴバルド王国がフランク王カール(後の大帝)に滅ぼされた(774年)後,フロドガウドは臣従と叛乱を経て,その地位を奪われ(776年),後任の公爵にはマルカリウスが封ぜられた.

 彼はランゴバルド人ではなかったが,公国の首都であったフォルム・ユリイーを,キウィタス・アウストリアエ(東の都市)と改名した.カールの王国(後に帝国)では東方にあったからであろう.これが,チヴィダーレの語源とされる.

 キウィタスは英語のシティー,フランス語のシテ,イタリア語のチッタの語源である.イタリアの地名でチヴィタ・ヴェッキア(トスカーナ州)と言う町があり,「ヴィ」と言う発音が残った類例であろう.


ランゴバルドの小神殿
 観光バスでチヴィダーレに到着し,小さな城門をくぐった後,美しいナティゾーネ川(英語版伊語版ウィキペディア)にかかる「悪魔の橋」(悪魔の力を借りて橋をかける伝説は諸方にあるそうだ)を渡り,最初に向かったのが,「ランゴバルドの小神殿」(テンピエット・ロンゴバルド)と称される祈祷堂オラトリオ・ディ・サンタ・マリーア・イン・ヴァッレであった.

写真:
「悪魔の橋」のたもとに
ある「ケルトの地下墳墓」
の案内板


 橋を渡ったところに,「ケルトの地下墳墓」の案内板があった.注目したのは,ケルト人が居住していたと言う情報だけではなく,イタリア語の下に併記されている言語だ.この地方で使用される言語で,時にラディン語とも言われるが,ドロミテ地方で話されるラディン語とは区別され,フリウリ語と称される.

 イタリア語と同じイタリック語派に属しており,広くはラテン語の直接の子孫であるロマンス語グループに入れられるが,ドイツ語の影響も中世から続き,スロヴェニアと隣接しているので,スラヴ語の語彙が入り,古代末期のランゴバルド人の侵入以来ゲルマン語の名残りもあって,さらにヴェネツィア共和国との関係から,同じイタリック語派に属するヴェネト語からの借用もあるらしい.

 上の写真の説明板などで両方の語形を比べてみると,似てはいるが確かに違い,スペイン語(カスティーリャ語)とカタルーニャ語,ガリシア語などの関係を思わせる.

 さらに進むと,貴金属店であったろうかボッテガ・ロンゴバルダと言う店があり,その壁に下の写真の浮彫が飾られていた.ランゴバルド芸術の傑作とされる祭壇の4面のパネルのうちの1枚のコピーで,本物は,神殿を拝観した後,大聖堂の脇にあるキリスト教博物館(撮影禁止)でじっくり観ることができた.

写真:
「ラチス王の祭壇」の三王
礼拝の場面の浮彫
(ボッテガ・ロンゴバルダの
壁面に飾られていた模刻)


 ランゴバルドの小神殿は,もともとランゴバルド王の離宮の付属礼拝堂(カペラ・パラティーナ)であった.建設はフリウリ公爵で後にランゴバルド王となったアストルフォ(ラテン語でアイストゥルフス,ランゴバルド語でアイストゥルフ)とその妻(イタリア語式の発音ならジゼルトゥルーデ)によって造営された.彼がフリウリ公爵だったのは744年から749年のことである.

 何と言っても漆喰の浮彫彫刻がすばらしい.

 金沢百枝/小澤実『イタリア古寺巡礼 ミラノ→ヴェネツィア』新潮社,2010

には,「古代と中世の形 サンタ・マリア・イン・ヴァッレ修道院聖堂祈祷堂」を言う副題のついたチヴィダーレ・デル・フリウリの紹介ページ(pp.72-81)があり,チヴィダーレでは多くの場所で撮影禁止だったので,私たちが撮ることができなかった写真も紹介されていて,参考になる.

 美術史家である金沢はランゴバルド芸術について,歴史研究者の小澤は,ランゴバル族が生んだ歴史家パウルス・ディアコヌス(助祭パウルス)についてもコラムを書いていて,この本全体の中でも,チヴィダーレに関する紹介が最も力作であると思われた.

 金沢に拠れば,「中世美術が平面的なのは,聖書が偶像崇拝を禁じているため」であり,「キリスト教美術で立体的・写実的表現が現れるのは12世紀半ば以降」で,この礼拝堂に見られる彫刻は「孤立した作例」とのことである.まだ古代ローマの造形技術が残っている時代に,「注文主が古代ローマ風を好んだため」と指摘している.

 祈祷堂の現在の姿は元の通りではないようだが,ともかくも古格に満ちた雰囲気を残し,剥落したフレスコ画や,されよりもさらに古い漆喰浮彫に目を奪われる.事前に写真で見てはいたが,すらりとした立姿の6人の人物は特に素晴らしく,この時代には類例のない造形感覚に思われる.

 1970年代に出版された,「人類の美術」と言う翻訳のシリーズがあり,全部で何冊になるのかも確かめていないが,そのうちの他に日本語の本が手に入りにくい時代のものは,神田の古本屋街の投げ売りワゴンから購入していた.そのうちの1冊が,

 ジャン・ユベール/ジャン・ポルシェ/ヴォルフガング・フォルバッハ,冨永良子(訳)『民族大移動期のヨーロッパ美術』新潮社,1970


で,この本の中でに,「ランゴバルドの石彫美術の中心地として,北イタリアのフリウリ地方,とくにチヴィダーレが挙げられる」と言った上で,8世紀に制作された同地の諸作品に言及した後で,

 その後間もなく,チヴィダーレでは,北イタリアの作品のうち最も論議の的となったものの一つであるサンタ・マリーア・イン・ヴァッレ教会堂(ママ)の,いわゆる《テンピエット》の入口のストゥッコ装飾が制作される.エイナール・ディグヴェはこの教会堂の彫刻・絵画を,建築学的調査に基づいて,8世紀に位置づけた.ブレッシャ(ママ)のサン・サルヴァトーレ教会堂で発見されたストゥッコの作品は,そこにある,同時代に制作された壁画と並んで,この年代決定を裏書するものである.(pp. 245-246)

と記述している.別の研究者がオットー朝時代のものとしていることにも触れた上で,これらの漆喰(ストゥッコ)作品を分析して,ビザンティンの工人たちが,聖画像論争のために追われて北イタリアに来て,これらの作品を制作したか,彼らの影響があった可能性もほのめかしながら,「著しいビザンティンの影響」(p.247)を指摘している.

 「ランゴバルド芸術」を考える上で,上記の引用にもあったブレーシャのサン・サルヴァトーレ教会などに見られる同時代作品などもフォローしなければならないであろうが,ブレーシャも,ランゴバルド王国の中心であったパヴィアも未訪の地であり,しかも現存作品は断片的なので,理解が難しいように思われる.

 それでもチヴィダーレのキリスト教博物館に展示された洗礼井戸,上述の「ラチス王の祭壇」,その他の浮彫彫刻など,古拙で原初的エネルギーに満ちていると思われる「ランゴバルド芸術」の中にあって,6人の女性聖人(王族の女性,修道女などの可能性の指摘され,誰なのかは特定されない)と思われる人物像と,アーチや帯に彫り込まれた植物文様の漆喰彫刻の洗練された美しさは突出している.

 古代後期以来の石棺の浮彫彫刻の伝統もあり,そこにビザンティン風の人物造形や,漆喰装飾の伝統と,東方的な植物紋様など,様々な要素が流れ込んでランゴバルドの小神殿の漆喰彫刻と言う傑作が生まれたのではないかと思われる.

写真:
一行全員にプレゼントされた
ランゴバルドの小神殿のポスター
パネルにして自宅に飾っている


 私の乏しいバランス感覚から言うと,頭部に比して身体部分が細長く,古典的とかビザンティン風とか言い切るにはアンバランスにも思え,ウェブページや参考書の写真で細部を確認すると,顔も類型的に見え,個性には乏しいような感じもするが,堂内でこれらを見上げた時の感動は代え難いように思えた.間違いなく今回の北イタリア行で最も印象に残る芸術作品だ.


聖パルメリーナ
 「小神殿」内には,様々な時代のフレスコ画,コリント式柱頭を持つ数本の柱などがあり,興味深い.

 浮彫彫刻のある壁の向かい側は,アーチと柱と壁に支えられた3連のバレル・ヴォールト伊語版)の空間で,その中央の天井には,マンドルラの中のキリストと,浮彫彫刻の方を頭にして描かれたキリストに向かって左側に「三王礼拝」,右側に「聖人たち」のフレスコ画が描かれている.

 聖人たちは,見たところ,キリストの足元から,ベネディクト,大修道院長アントニウス,洗礼者ヨハネ,マグダラのマリア,アレクサンドリアの聖カタリナに見える.実際にそのような解説もあるが,現地ガイドのマルティアさんは,最後の人物に関しては「パルメリーナ」と言う女性聖人の名を挙げた.

 典型的な日本人である私はlrの区別が苦手なので,初めて聞くその聖人に関して,勝手に殉教の印「棕櫚」palmaと関係ある名前,Palmerinaであると思い込み,「パルメリーナとは何者で,何がアトリビュートなのか」と言う質問をした.

 それに対して,まず「パルマ」と言う町がイタリアにあるだろうとマルティアさんは前置きした上で,この聖人の名は「パルメリーナ」Parmerinaで,この地方で崇敬される聖人であるが,特定のアトリビュートはなく,別の聖人かも知れないと言うことであった.

 小神殿を出る時に,小さなブックショップで,

 Hjalmar Torp, Il Tenmpietto Lombardo: La Cappella Palatina di Cividale, Comune di Cividale del Friuli, 2011

と言う,この「小神殿」だけ扱ったにしては大き目の本を買ったので,中に説明があるだろうと安心していたが,8世紀の原形をとどめた装飾とフレスコ画,それに対するビザンティン芸術の影響を論じた,比較的専門性の高い本で,一般向けの案内書の役割としては十全なものとは言えない上,パルメリーナが描かれているかも知れないフレスコ画は14世紀の作品と考えられているので,全く言及も紹介もされていなかった.

写真:
ランゴバルドの小神殿の
拝観を終え,修道院横の
坂道を下る


 今回の旅行に先立って,予習を意図して,何冊かの本を買った.チヴィダーレに関しては,イタリア・アマゾンで入手可能な本がなく,イタリア・アマゾンでは古書を日本に送ってくれる店は今のところないので,イギリス・アマゾンのマーケットプレイス(古書)にローマの書店が出品した,

 Ameglio Tagliaferri, Cividale del Friuli: Intoroduzione e Guida all' Arte ed ai Monumenti della Citta Ducale, Del Bianco Editore, 1983

と言う白黒写真が多い案内書を入手した.この本は,それなりに有益だが,主として博物館所蔵の作品にフォーカスがあり,小神殿のヴォールト天井フレスコに関しては,14世紀の作品である以外に言及はない.

 インターネットで検索しても,Parmerinaは殆んどヒットせず,チヴィダーレの遺産を紹介したページに名前が挙げられているのみだ.チヴィダーレのキリスト教博物館のブックショップで購入した小冊子,

 Elisa Morandini, Il Museo Cristiano e Tesoro del Duomo di Cividale del Friuli, Udine: Disputazione di Storia Patria per il Friuli, 2013

に,私たちは博物館では見ていない古拙な感じのする14世紀の剥離フレスコ画の写真があり,写っている聖人について,「パドヴァの聖アントニウス,聖パルメリーナ,聖ウルスラ」という簡単な説明がある.活字では今の所,これが唯一の資料だ.

 この写真の右端にはもう一人,剥落して顔が分からない聖人がいるが,それ以外にも写真はないが,本文には言及がある聖人のフレスコ画があって,女性が多い(アナスタシア,アガペ,キオニア,イレーネ)ようだが,男性の名としてはクリュソゴノスとゾイロが挙げられている.

 ゾイロは初めて聞く名前だが,西語版ウィキペディアに情報(簡単だが英語版にも情報)があった.コルドバ出身でスペインで崇敬されている4世紀初頭の殉教聖人で,パレンシア県カリオン・デ・ロス・コンデスの守護聖人であり,同地にはその名を冠した修道院があるようだ.

 クリュソゴノス(ローマのトラステヴェレ地区にあるサン・クリソーゴノ聖堂が有名)も殉教聖人だが,アクイレイアで亡くなった.ゾイロとの共通点は,ディオクレティアヌス帝の迫害で殉教したくらいだろうか.

 アナスタシアは,現在のセルヴィアで生まれ,やはりディオクレティアヌスの迫害で殉教した聖人で,クリュソゴノスが彼女の教師だったと言う伝承もあるそうだ.いずれにしても,富裕な未亡人で,迫害されていたキリスト教徒を援助し,自身も殉教した人物のようだ.

 アガペ,キオニア,イレーネ(エイレーネー)は,テッサロニケ出身の3姉妹で,やはりディオクレティアヌス帝の迫害で殉教した.英語版ウィキペディアに説明があるが,それぞれギリシア語で,神の愛,純潔,平和を意味する女性名詞なので,実在の人物と言うよりは,寓意のような存在だろうか.

こうして並べると,写真の掲載のないフレスコ画に描かれた聖人たちは,ディオクレティアヌス帝の迫害で殉教したという共通点を持っている.もし,同じような趣旨で描かれたのであれば,パルメリーナとパドヴァのアントニウスウルスラとの間にも共通点があるのではないか.


 ウルスラは女性の殉教聖人だが,アントニウスは13世紀に実在したポルトガル出身でパドヴァ周辺で活躍したフランチェスコ会の聖人で,イタリアではおなじみだが,博物館の絵の写真を見ると,フランチェスコ会の修道服と,修道士らしい髪型で,手に百合を持っている.間違いなく,よく知っているアントニウスの特徴だが,彼は殉教はしていない.強いて関係を探すと,フランチェスコ会の修道士たちが,イスラム教徒に布教しようとしてモロッコで殺され,これは「殉教」と考えられており,その報せを聞いたことがアントニウスのフランチェスコ会入会の動機となったとされている.

 ウルスラも,ディオクレティアヌス迫害で殉教したのではなく,伝説ではブリタニアの王女で,自らがキリスト教に改宗させた王子と結婚する前に,1万1千人の乙女たちを伴って巡礼の旅に出て,フン族に襲われ,乙女たちは斬首され,ウルスラは矢で射殺された.ウルスラのアトリビュートは矢であることが多いようだ.

 博物館のフレスコ画は,2人の女性とも,棕櫚を持っていて,殉教聖人だということはわかるが,ウルスラとされる女性が他に持っているのは矢ではなく,本に見える.アントニウスも本を持っているので,これは聖書で,キリスト教の教えを象徴していると考えればよいのだろうか.であれば,ウルスラとされる根拠な何なのだろう.

 さらに言えば,パルメリーナとされる女性は,棕櫚の他に車輪のようなものを持っていて,とすると一層,アレクサンドリアの聖カタリナではないかという疑問が湧く.

 このアトリビュートに関しては,丸楯のことをラテン語でパルマと言い(イタリア語にはない),それがパルメリーナの語源と考えると,博物館の剥離フレスコ画の当該人物像が持っているのは車輪ではなくて丸楯かもしれず,そうであれば,カタリナではなく,パルメリーナという,私たちには未知の聖人の可能性は残るものの,これを楯と考えるには,車輪でいえば輻の間から,後ろの衣服が見えている.

 博物館の案内書にしか活字の情報はなく,ウェブ検索で「cividale, parmerina」で3つヒットするうちの2つも博物館の関連ページだ.後1つはドイツ語のPDFだが,名前以外に詳しい言及はない.ただ,このPDFには,サンタ・パルメリーナの前に,「1万1千人の乙女である同伴者の1人」とあって,もしこれが正確な情報なら,ウルスラともに「殉教」した女性の1人ということになるが,それでも,なぜ,その女性が,博物館の剥離フレスコではウルスラと並ぶほど重要な人物で,なおかつ,「小神殿」のフレスコ画では,ウルスラと切り離されて単独で,他の重要な聖人たちとともに描かれているのか,疑問はつきない.

 しかし,フリウリの世界遺産をまわって,観光的関心を越えて,宗教的背景を詳細に雄弁に語ったマルティアさんが,発音の矯正までして下さった上で強調した聖人だ.少なくとも,チヴィダーレではローカル・セイントの確固たる位置づけがあるのではないかと想像する.生涯,わからないかも知れないが,今後の課題だ.

写真:
サンティ・ピエトロ・エ・
ビアージョ教会


 小神殿拝観は2グループに別れ,最初のグループだったので,拝観後少し時間があり,川沿いの広場の風景を楽しんだが,サンティ・ピエトロ・エ・ビアージョ教会のファサードのフレスコ画が目をひいた.随分,新しいものが雨ざらしで色落ちしたように思えたが16世紀の作品とのことだ.

 YouTubeにこの教会の内部を紹介した映像があり,堂内にもフレスコ画その他があり興味深い.伊語版ウィキペディアに拠れば,堂内のリュネットに受胎告知のフレスコ画があり,1604年の作品で,作者もマルコ・ヴェチェッリオとわかっているようだ.

 ファサードのフレスコ画の作者はウィキペディアには情報がないが,別の紹介ページにザンネ・デ・トスカーニスとパウリ・インピントルに拠るとされているが,これらの画家がどういう人かはわからない.


サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と大聖堂
 ともかく,チヴィダーレでは,ランゴバルドの小神殿とキリスト教博物館に見るべきものが集中しているのだが,どちらも写真撮影は厳禁で,この町で写真を撮ることができたのは,風景と諸教会の外観の他には,サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と大聖堂だけだ.

 どちらにも,ヴェネツィア派の画家パルマ・イル・ジョーヴァネの絵があったのは,この地方はやはり,ルネサンス期以降はヴェネツィアの影響下にあったことを思わせる.

 サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会は,立派な鐘楼を持つ教会だが,内部はバロック以降を思わせる装飾で,新しい感じがする.複数の祭壇画と天井画が見られるが,パルマ・イル・ジョーヴァネの「福者ベンヴェヌータ・ボイアーニと,仲間を伴った聖ウルスラの間のキリスト磔刑」が最古である.最古と言っても1608年(堂内の解説版)の作品なので,すでに時代はバロックだ.

 1544年に生まれたこの画家をマニエリスムの芸術家と言って良いかどうかわからないが,絵を見る限り,まだバロックと言うよりも,遅いマニエリスムを思わせる.

 大聖堂で観た「最後の晩餐」も,フィレンツェなら,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂に付属する博物館となっている修道院旧食堂のアレッサンドロ・アッローリの油彩の「最後の晩餐」を連想させる.ピンクに見える色の衣を着た3人の人物が効いている.

写真:
パルマ・イル・ジョーヴァネ
「最後の晩餐」
チヴィダーレ大聖堂


 彼の「最後の晩餐」は,フィレンツェのサン・ガッロ通りにあるサン・ジョヴァンニーノ・デイ・カヴァリエーリ教会で,2007年の10月8日に観ている.

 伊語版ウィキペディアには彼の作品が相当数,年代順に並べられているが,私が観た「最後の晩餐」はどちらも言及されていない.もちろん,説明板等に,彼の作品とあるからそう思っているだけで,それ以上の材料は私にはないが,今まで数点以上は観ている彼の絵と比べて,これらを彼の作品ではないと疑う理由もない.

 伊語版ウィキペディアのリストに拠ると1604年の彼の作品は2つあり,どちらもパレルモのサン・ジョルジョ・デイ・ジェノヴェージ教会にある,「ジェノヴェージ」と言うからには,パレルモで活躍していたジェノヴァ人のための教会であろうか.北イタリア人ではあるが,ヴェネト人ではないので,パルマ・イル・ジョーヴァネへの依頼は,もっぱら地縁ではなく,芸術家の実力を評価してのことであろう.フレスコ画ではないから,本人がパレルモにいる必要はないので,当然,チヴィダーレの大聖堂に納める絵も描くことができたであろう.

 サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会の中央祭壇にあった絵は,説明板に拠れば,エルコレ・グラツィアーニ・イル・ジョーヴァネ(1688-1765)の「洗礼者ヨハネと福音史家ヨハネの間の聖母被昇天」(1750年頃),中央祭壇に向かって左壁の祭壇にパルマ・イル・ジョーヴァネの絵があり,右壁の祭壇にピエール・アントーニオ・ノヴェッリ(1729-1804)の「悪魔を倒す大天使ミカエルと,聖ベネディクト,聖スコラスティカ」(1790-95年頃)とのことだ.新しい絵で,とりたてて心魅かれることはなかったが,破綻のない綺麗な絵で,十分以上に祭壇画の役割を果たしている.その他の絵に関しては情報はない.

 ノヴェッリに関しては英語版ウィキペディア仏語版ウィキペディアにも情報があり,それらを総合すると,トレヴィーゾの貴族出身の父からヴェネツィアで生まれ,一時期ボローニャやローマにも行ったが,ヴェネツィアで亡くなった画家で,版画家としても知られていた.ロシアのエカテリーナ2世からも注文を受けたとのことなので,当時としては,一流の画家と見なされていたのだろう.

 エルコレ・グラツィアーニ・イル・ジョーヴァネに関しては,英語版ウィキペディアしか情報はなく,そこにもサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(そのページにはサン・ジョヴァンニ・イン・ヴァッレ教会とある)の中央祭壇の写真が掲載されている.生没地の情報はないが,主としてボローニャとピアチェンツァで活躍し,ドナート・クレーティマルカントニオ・フランチェスキーニの弟子とされているので(前者はクレモナ生まれでボローニャで活躍,後者はボローニャ生まれ),ボローニャの画家であろう.

 ヴェネツィア共和国が,ナポレオンの侵略(1796年)によって崩壊,消滅したのが1797年なので,この教会の中央祭壇画が描かれた時代は,1420年からヴェネツィア共和国に支配されていたチヴィダーレにとっても,激動の時代が迫っていた.ナポレオン没落後,オーストリア皇帝が国王を兼ねるロンバルディア・ヴェネト王国に支配され,1861年に成立したイタリア王国に,1866年に編入された.

 大聖堂は,ラテン十字型ではない,長方形の三廊式で,後陣も中央とその隣りに左右1つずつの計3つあり,奥に向かって左側の後陣の両側の壁にパルマ・イル・ジョーヴァネの油彩画があり,左壁に「最後の晩餐」,右壁に「聖ステパノの殉教」が飾られている.前者が1606年,後者が1597年の作品とされており(後述の案内書),この教会では油彩画としても最古の作品とは言えない.

 1546年と言うことなので,パルマ・イル・ジョーヴァネが2歳の時に描かれたポンポーニオ・アマルテーオの「受胎告知」が堂内に飾られている.ヴェネト州トレヴィーゾ県のモッタ・ディ・リヴェンツァで1505年に生まれ,フリウリ・ヴェネツィア=ジュリア州のポルデノーネ県サン・ヴィート・アル・タリアメントで亡くなったとのことである(伊語版ウィキペディア).ヴェネツィア派とされる画家では,ティントレットが1518年生まれなので,思ったよりも古い時代の画家だ.フィレンツェの画家と比べると,ブロンズィーノの2歳年下なので,時代的にはルネサンスが終わり,マニエリスムの画家と言えようか.

 他にも,広い堂内のポツポツと祭壇画が見られるが,特に目を惹く作品は無いように思えた.



 バロック風の彫刻が施された中央祭壇に飾られている,「ペッレグリーノ2世の祭壇飾り」は注目されて良いだろう.

 大理石の祭壇については,ブックショップで購入した,

 Claudio Mattaloni, Il Duomo di Santa Maria Assunta di Cividale del Friuli, Udine: Disputazione di Storia Patria per il Friuli, 2010

に拠れば,フランチェスコ・フォスコーニとジョヴァンニ・フォスコーニに拠る,1717年から24年にかけて造られたものとのことなので,バロックよりもさらに新しい時代の作品ということになる.作者に関しては,ネット検索では,フリウリ地方の諸教会で仕事をしたらしいことはわかるが,今の所,詳しい情報はない.十字架を囲む天使たちの顔が老け顔で可愛くないが,それでも特に不満はなく,有名な彫刻家の作品と言われれば,信じてしまうかも知れない.

写真:
「大天使に囲まれる聖母子」
サンタ・マリーア・アッスンタ
大聖堂の主祭壇の浮彫
1200年頃


 聖母子と大天使を中心に,両脇の三段に4人ずつ,向かって左側の最下段のみ5人,計25人の聖人を彫り込んだ,銀製の屏風型祭壇浮彫装飾は,1195年から1204年まで総大司教であった,ペッレグリーノ2世の依頼によって製作された.早い地域では12世紀後半から,芸術様式はロマネスクからゴシックに移行しているが,この祭壇飾りがロマネスク風なのか,ゴシック風なのかは私には判断がつきかねる.

 ただ,じっくり見ると,ロマネスクの生命力や,ゴシックの上昇志向よりも,ビザンティンの荘厳さを感じさせるようにも見える.

 ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のパーラ・ドーロ(黄金の祭壇衝立)を想起したのは,あまりにも素朴だろうか.そちらは1102年の総督が,コンスタンティノープルの職人たちに製作を依頼したもので,ビザンティン芸術であろうから,同列には論じられないだろう.しかし,時代も地域も比較的近いので,何らかの影響はなかったのだろうか.

 ミラノのサンタンブロージョ聖堂の中央祭壇にある,浮彫を施した金,銀の細工も,18面に3人くらいずつの聖人が彫り込まれているが,9世紀のカロリング時代の芸術ということなので,こちらは圧倒的に古い.

 チヴィダーレ大聖堂の祭壇飾りは,芸術的に目を見張るほど高水準のものではないだろうが,それにしても聖母子と,両脇の天使にそれぞれ円蓋のような,アーチと柱による区切りがあり,後の時代の三翼祭壇画を思わせる.それが,とりたてて注目すべきことなのかどうかもわからないが,ミラノやヴェネツィアの有名な祭壇装飾と比較した時,やはり,時代がゴシックに向かっていると思われる何かはあるように感じられた.

 フィレンツェ周辺で山のように見た三翼祭壇画,多翼祭壇画だが,最古の作品は何だったのだろうかと言う疑問が湧いてくる.これも機会があれば,別に考えて見たい.



 チヴィダーレでは他に,パッラーディオの設計とされるプレトリオ宮殿があり,考古学博物館になっている.考古学博物館は機会があればいつか見てみたいが,この建物の前を通り,写真に収めても,特にパッラーディオ的な特徴を読み取れるほど,今の所,この建築家に思い入れていないので,ガイドさんや案内書の説明を聞き流し,読み流した程度だ.

 ただ,それを格別変わったところのない当たり前の建築としてこちらが受け止めてしまう程,あちらこちらにパッラーディオの影響が大きいということであろう.

 今回は,チヴィダーレとウーディネの2都市についてまとめる予定だったが,長くなったので,チヴィダーレだけの報告とする.いずれにしても「ランゴバルド芸術」もあまりにも深く,あまりにも魅力的で,とても,1回見ただけでは理解に至らない.難しいとは思うが,機会があれば,チヴィダーレにはもう1度行きたい.

 ゲルマン語の1つである英語では「長い顎鬚」をロング・ビアド(long beard)と言うであろうが,男性の顎鬚が長かったのでそう呼ばれたらしいゲルマン民族の一派を,一般的に言うときには「ランゴバルド」,イタリア語の名称に関わるときは「ロンゴバルド」とした.

 ランゴバルド族が勢力を持っていた地域がロンバルディアであり,ヴェネトやフリウリはロンバルディア州には属していないが,かつてこの部族の影響を受けたことは,今回理解できた.






サンタ・マリーア・イン・ヴァッレ修道院回廊
突き当たりを右に,「ランゴバルドの小神殿」へ