フィレンツェだより番外篇
2014年4月30日



 




サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂の鐘楼が聳える
アクイレイア



§北イタリアの旅 - その2(グラード,アクイレイア)

とにかく,今回の北イタリア旅行は,成田からミュンヘンで乗り換え,トリエステに着いて,バスでグラードへ行き,2泊したグラードで,朝から市内を見学したところから始まった.


 古代にはローマ帝国の枢要な大都市であったアクイレイアについては,多少,予備知識があったが,グラードに関しては,前以て何の知識もなかった.この稿を書くにあたって,参考資料としているのは,今のところ,アクイレイア聖堂のブックショップで買った,

 Ezio Marocco, Grado: A Guide to the City, Trieste: Bruno Fachin Editore, 2000(以下,マロッコ)

という英訳版案内書と,伊語版,英語版のウィキペディアぐらいだ.日本語版ウィキペディア「グラード(イタリア)」も簡潔で要領を得ている.


「総大司教」
 グラードの起源は不明だが,近傍の大都市アクイレイアの外港として栄え始め,5世紀(452年)のフン族の侵入の際に,アクイレイア司教ニケタスが,そして6世紀(568年)のランゴバルド族の侵略の際には,総大司教パウリヌス(1世)が,潟の中の島であるグラードに避難し,戦乱の時代に防御に優れた要衝の地として繁栄することとなった.

 そのような訳語で良いかどうか確信が無いが,アクイレイアに「総大司教」(総主教)がいたことに驚く.ラテン語ではパトリアルカ(patriarcha)で,イタリア語も綴りは同じ,発音も良く似ている.ラテン語やイタリア語で語尾が「ア」で終わる場合は,女性名詞が多いが,この語はギリシア語のパトリアルケースに由来する男性名詞である.

 ギリシア語には主格(主語や主格補語になる形)の語尾が「エース」で終わる男性名詞が少なくなく,そのかなりの数が第1変化に分類される.同じくエースで終わっても,エウリピデス(エウリーピデース)は第1変化,ソクラテス(ソークラテース)は第3変化である.

 第1変化名詞にはもともと女性名詞が多く,変化形も良く似ている.ラテン語にも良く似た第1変化に分類される名詞群があり,ギリシア語の第1変化名詞は,ラテン語に外来語として受け入れられると,ラテン語の第1変化名詞になる.

 ギリシア語では同じ第1変化でも男性型は女性型と少し違うが,ラテン語では男性名詞であっても,殆んどの場合,女性名詞と全く同じ変化になる.英語のアスリートの語源であるギリシア語のアトレーテース(競技者)が,ラテン語ではアトレータになるのと同じ現象だ.

 ギリシア語のパトリアルケースは,パテール(父)と,アルケー(始源,秩序,支配)もしくはアルコー(支配する)を構成要素(ここから,たとえばアテネの執政官を意味するアルコーンが派生した)として,父系制社会の「族長」を意味する語となる.

 キリスト教は,父系制で族長の存在した社会を背景とするユダヤ教を母体にしているので,宗教指導者に,そのような由来を持つ名称が使われる.

写真:
床下に,さらに古い(4-5世紀)
改宗ユダヤ人“ペトルス”の教会
と呼ばれる遺跡がある
サンテウフェミア聖堂


 そうした語源はさておいて,私たちが高校の世界史で習った知識では,古代後期の地中海世界には,エルサレム,アレクサンドリア,アンティオキア,コンスタンティノープル,ローマというキリスト教の五大中心地があって,最後の2つが,後に東方正教会とローマ・カトリックの中心となり,それぞれの最高指導者が総大司教(総主教)であり,ローマでは特にそれを教皇(法王)と呼ぶというものだった.

 その知識から考えると,いかに古代後期には帝国でも指折りの大都市であったとは言え,大国の首都になったこともないアクイレイアの「総大司教」がいたことは,奇異に感じられた.



 伝説に拠れば,アクイレイアの教区創設者は,使徒ペテロに派遣された使徒マルコ(福音史家)である.

 この後,マルコはエジプトのアレクサンドリアに行き,そこで殉教するが,その遺体は中世に,ヴェネツィアの商人が略取して故国に持ち帰り,サン・マルコが都市ヴェネツィアの守護聖人となり,その象徴物である有翼のライオンが,ヴェネツィアのシンボルとなった伝説は有名である.

 アクイレイアは,都市ヴェネツィアが存在しなかった時代から,現在の国名で言うと,イタリア北東部の中心都市であるが,サン・マルコはもともとこの地域と,少なくとも伝説上は縁が深かったことになる.

 初代司教は紀元後70年に殉教した聖ヘルマゴラスとされる.次に名を知られているのが,280年に殉教した聖ヒラリウスで,その間はわからないが,1世紀から4世紀まで「司教」(ギリシア語でエピスコポス,ラテン語でエピスコプス,イタリア語でヴェスコーヴォ,英語でビショップ)職を務める宗教指導者がアクイレイアにいたことは確実なようである.

 アクイレイアには,その後,大司教(ラテン語ではアルキエピスコプス,イタリア語ではアルキヴェスコーヴォ,英語ではアーチビショップ)が置かれたが,これは大都市だったので,当然のことだろう.

 この大司教の中で,特により広い地域にその権威と権限がおよぶ者を首都大司教もしくは管区大司教と呼ぶようで,アクイレイアにはこの首都大司教が置かれるようになった.ギリシア語ではメートロポリーテースで,メーテール(母),ポリス(都市)の二語からなるメートロポリス(母市,大都市」)に由来する語だ.英語ではメトロポリタン・ビショップと言うようで,東方正教会にも同じギリシア語由来の聖職があり,日本語ではそちらは府主教と訳すそうだ.

 キリスト教の初期から,高位の聖職者がいたアクイレイアは,北東イタリアのキリスト教勢力拡大の拠点だった.


グラード
 あるいはその富を目指してのことか,アクイレイアは異民族の攻撃をしばしば受けた.紀元後458年にアッティラ率いるフン族が攻めてきた時,多くの住民は大司教と共にグラードに逃れた.この時,アクイレイアは徹底的に破壊されたが,復興した.

 568年にはランゴバルド族の侵入があり,アクイレイア総大司教となっていたパウリヌスがグラードに逃れ,この総大司教座はグラードに移った.

 その後,グラードにいる総大司教に対抗して,アクイレイア総大司教を称する聖職者が,チヴィダーレ・デル・フリウリに存在した.チヴィダーレの総大司教は773年から10311年までおり,一旦アクイレイアに戻り,その後はウーディネにその居所を移したが,この地域は15世紀にヴェネツィアに併合され,一時は総大司教を中心とする独立国家的存在の領域であったが,政治的中心はもとより,宗教的中心もヴェネツィアに移った.

写真:
サンテウフェミア聖堂の床モザイ
ク(6世紀)のインスクリプション

聖書朗読師ウィクトリヌスが
息子アントニヌスと家族ととも
に誓願を果たした」と書いて
あると思われる


 グラードの繁栄の始まりは,後にヴェネツィアがたどる道と似ていた.異民族の侵攻によって,人々が,先進地域から,陸戦による攻撃が困難な潟へ避難し,そこに都市が形成された.ただ,ヴェネツィアのように,人工的に居住のための陸地を造り出したわけではなかったようだ.

 グラードの旧市街は,現在は痕跡が残るだけの城壁によって囲まれ,狭小な街区に不似合なほど大きなサンテウフェミア聖堂がある.ここは既に司教座聖堂(カテドラル,イタリア語ではカテドラーレ,ドゥオーモ)ではない.

 グラードに居た初代総大司教はパウリヌス1世で,彼はアクイレイアでも初めて総大司教を称した人物の可能性があり(伊語版ウィキペディアのリストでは初代,英語版ウィキペディアのリストでは前任大司教のマケドニウスに続き2代目),ランゴバルド族の侵入が無ければ,あるいはグラードの歴史も違ったものになっていたかもしれない.

 いずれにせよ,フリウリ地方にまでランゴバルド族が侵入したことを契機に,グラードには古代末期を引き継いだ中世初期のキリスト教文化が栄えた.

 パウリヌスから数えて三代目がエリア(ギリシア語でヘリアス,ラテン語でヘリア)であり,この人物がサンタ・マリーア・アッスンタ聖堂(当初は「大聖堂」)の建設を始めた.

写真:
サンテウフェミア聖堂の謁見室
地下水が浸出している
モザイクの中央には
エリア総大司教のモノグラム


 グラードに多く残る床モザイクに,おそらくギリシア語名のヘリアスをラテン文字で書いて,それを一文字のように組み合わせたモノグラムがある.

 モノグラムという英語は,モノス(単独の)とグランマ(文字)と言う2つのギリシア語からの造語で,英語としては電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』には「ハンカチに刺繍したりする,頭文字など組合わせて図案化したもの」と説明されている.

 パウリヌスの二代後の総大司教がエリアで,下の写真のモノグラムは,ギリシア語名のヘリアスをラテン文字に転写して,それをモノグラム化したものである.サンテウフェミア聖堂の創建を開始した人物として知られる.

写真:
霊廟にもエリア総大司教の
モノグラムのモザイク
(HELIAS EPISCOPVSと解析
できると思われるが,あるいは
ARCHIEPISCOPVSであろうか)


 かつてグラードの大聖堂であったサンテウフェミア聖堂のファサードに向かって,右側がエリア総大司教広場(カンポ・パトリアルカ・エリア)で,左側が「総大司教たちの広場」(カンポ・デイ・パトリアルキ)であるが,「広場」をピアッツァ(ヴェネツィアで唯一のピアッツァがサン・マルコ広場)ではなくカンポと言うのは,ヴェネツィア風である.ヴェネツィアよりも早く栄えたグラードであるが,後にヴェネツィア共和国の支配を受けた名残りであろう.

 その「総大司教たちの広場」を挟んで,サンテウフェミア聖堂のファサードに向かって左側にあるのが,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ聖堂である.この聖堂の創建を開始したのもエリア総大司教とされる.

 この聖堂のファサードが面しているのが「長い通り」(カッレ・ルンガ)であるが,「通り」を「ヴィーア」ではなく「カッレ」と言うのもヴェネツィア風であろう.

写真:
サンタ・マリーア・
デッレ・グラーツィエ聖堂
グラード


 そもそも,そうした「ヴェネツィアの影響力」の遥か以前に,まだ都市ヴェネツィアが揺籃期だった頃※,グラードに総大司教があり,教義上の理由から,ローマ教皇に対立した時期があった(※都市ヴェネツィアの始まりは452年とされるが,その時点で居住地となったのはトルチェッロ島で,ヴェネツィア共和国の誕生は697年,現在ヴェネツィア本島が中心となるのは9世紀になってから).

 話は,451年のカルケドン公会議に遡る.


カルケドン公会議
 ローマ帝国の最後の統一皇帝テオドシウス1世の後,その息子アルカディウスが東の,ホノリウスが西の皇帝となって,ローマは最終的に東西に分裂し,二度と一つの帝国となることはなかった.

 アルカディウスの後継者は,その子テオドシウス2世で,その妻であるアエリア・エウドキアと,テオドシウス2世の姉プルケリアが権力を握り,プルケリアと結婚したマルキアヌスが,テオドシウス2世の死後,東ローマの皇帝となり,彼がカルケドン公会議を召集した.

 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会,1999(以下,尚樹)

を参照(p.122)すると,この会議は「唯一の神が三つのペルソナ(位格),すなわち父と子と聖霊(父と子との永遠の愛から発出し,キリストの復活から五〇日目に教会の全信徒共同体の上に降ったとされる)とにおいて存在し,それぞれのペルソナが神であるという三位一体説を支持し,イエス=キリストの神性と人性は混同・分離・変化されることなく,イエス=キリストは二つの本性を持つことを宣言し,イエス=キリストが二つの本性を持つ一つのペルソナであるという,カルケドン信条を採択」したものである.

 この時代はローマ帝国の東西完全分裂に伴って,相対的に他の総大司教に対して地位の高くなった,コンスタンティノープル総大司教(総主教)と,ローマ総大司教(教皇)をそれぞれ中心とする集団が形成され,前者は東方正教会,後者はローマ・カトリック教会に発展する.

帝国の完全分裂に遅れて東西両教会が完全に分離するのは,ずっと後の1054年であるが,巨大宗教となったキリスト教は常に分裂の危機をはらんでいた.


 それぞれの分裂(かつて高校の世界史ではドイツ語読みと思われるシスマと習ったが,古代ギリシア語ではスキズマ)の大きな契機となったのが,「正統的信仰とは何か」を議論する公会議で,8世紀までは東西の教会が共同で開催した.有名なのが,325年のニカイア(ニケーア)の公会議,381年の第1回コンスタンティノープル公会議,431年のエペソス(エフェソス)公会議,そして451年のカルケドン公会議である.

 ニカイアの公会議では,アリウス派が異端とされ,父なる神と子なるイエスが同じ本質を持つとする同本性論を織り込んだニカイア信条が採択された.

 第1回コンスタンティノープル公会議では,アリウス派と並んでマケドニウス派(アクイレイアでパウリヌス1世の前任者だったマケドニウスとは別人の説)が排除され,ニカイア信条の,「聖霊」に言及した改訂版が採択された.

 エペソス公会議では,ネストリウス派が排撃され,マリアが「神の母」(テオトコス)とされ,さらにアウグスティヌスからの激烈な批判で有名なペラギウス派も異端とされた.

 448年の宗教会議で異端とされた有名な宗教者にエウテュケスがおり,彼はネストリウス派とは別に「イエスは神性と人性とからなるが,この二つが受肉によって一致し,唯一の本性すなわち神性のみとなった」(尚樹,p.111)という「単性説」(単性論)を説いた.エウテュケスが権力者のつてをたどって,449年に第2回エフェソス公会議を開催させ,自身の正当性を認めさせたが,ローマ教皇レオ1世はこれを非合法と非難し,公会議とは認めなかった.

 この経過を受けて,カルケドン公会議が開催され,エウテュケスと単性説(単性論)は異端とされ,カルケドン信条(日本語版ウィキペディア「カルケドン信条」にギリシア語原文)が採択された.

 後世の東方正教会,ローマ・カトリック教会,主要なプロテスタント教会は,これを正統的な信仰の拠り所と考えているが,この時代にはそうは考えなかったキリスト教信者も多かった.これが「非カルケドン派」と総称される人々で,エジプト,シリア,アルメニア,エチオピアなどオリエントとさらにその東方に存在し,現在も存続している.

 6世紀にコンスタンティノープルに君臨し,既に滅亡した西の帝国領の回復も図り,大帝国を再構築したユスティニアヌス1世は,東方の自領に多く居住する非カルケドン派の,単性論を奉ずるキリスト教徒たちとの融和を図るために,553年,第2回コンスタンティノープル公会議を開催した.

 この会議は単性論を批判している3つの著書を非難したユスティニアヌスの勅令を追認し,単性論派取り込みを企てたユスティニアヌスの政治的意図に追随した.その際,ローマ教皇ウィギリウスは,ランゴバルド族などゲルマン人への対抗上,ユスティニアヌスの庇護を必要としており,やむを得ず公会議の趣旨に賛成したが,北イタリアの司教たちの中には,これに反発するものが少なくなかった.

 公会議は,3つの著書の問題を「三章」(ギリシア語でトレイス・ケパライア)と称して非難したが,これに対する賛否を「三章論争」と言い,これに基づく教会分裂は「三章分裂」と名付けられた.

この分裂は,主としてローマ教皇と北イタリアの諸司教との対立が基であり,後者の中心となったのがアクイレイア大司教パウリヌス1世で,彼は「総大司教」を称した.


 この問題の経緯を簡潔にまとめた日本語文献としては,

 E.ギボン,中野好之(訳)『ローマ帝国衰亡史』7(ちくま学芸文庫,1996)

の第47章(p.184)がある.今更だが,この大著を訳した2人の英文学者と1人の思想史家に頭の下がる思いがする.英語ができて,さらにそれを分かり易い日本語にするということには偉大な知性が必要だということが痛感される.

写真:
右側廊の床モザイク
表面が泥(埃)に覆われている
サンタ・マリーア・デッレ・
グラーツィエ聖堂(グラード)



サンテウフェミア
 グラードのサンテウフェミア聖堂の名は,聖エウフェミア(エウペーミア)(英語版伊語版ウィキペディア)を記念したものだが,この聖人はディオクレティアヌス帝の時代に異教の神への礼拝を拒否して309年に14歳で殉教したカルケドン生まれの女性で,カルケドン公会議の際,単性論派と正統派の両方の支持者たちがそれぞれの信仰箇条をまとめた巻物を,彼女の墓の中に置いたところ,翌日,正統派の巻物は彼女の右手に,単性論派の巻物は足元にあったという奇蹟物語が知られている.

 『黄金伝説』(邦訳3,pp.438-448)にもこの聖人の伝記が収録されているが,公会議をめぐる奇蹟は言及されておらず,名前の語源解釈は明らかに間違っているので,当時(13世紀)の大司教職にあった聖職者でもすでにギリシア語を殆んど理解していなかったことがわかる.

 この聖人を描いた絵画としては,スルバラン(プラド美術館,カンヴァス油彩,1637年頃),マンテーニャ(ナポリ,カポディモンテ美術館,布にテンペラ,1454年)の作品があるようだが,上記『黄金伝説』の訳注には,コンスタンティノープル(イスタンブール)の聖堂で,彼女の殉教を描いた連作絵画が1942年に発見されたとあるけれど,モザイクなのかフレスコなのか,詳しい情報はない.ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォの一連の女性聖人たちのモザイクの中にエウフェミアもいるようだが,アトリビュートではなく,名前が記されていることでわかるだけだろう.

 マンテーニャの作品では棕櫚と百合を持っているが,殉教と純潔を意味するもので,この聖人を特定するものではない.だが,左胸の下部に短剣が刺さっており,刑吏に脇腹を剣で刺され殉教した話は『黄金伝説』にあるので,これがアトリビュートだろう.

 また右手をライオンが噛んでいるのも,「三頭のおそろしい野獣のいる穴に投げ込まれた」が,野獣が彼女になついてしまった話が『黄金伝説』あるので,それを反映しているのかも知れない.ただ,ディオクレティアヌスの大迫害の際に,円形闘技場でライオンによって殉教した話も他で聞くように思われる(未確認)ので,あるいは別伝(英語版と伊語版ウィキペディア)があるのかも知れない.

 スルバランの絵は鋸のような金具を持っているが,これが『黄金伝説』にある,「五体を八つ裂きにする仕掛けを動かす鉄の用具」なのか,あるいは別伝があるのは今のところわからない.

 いずれにせよ,カルケドン公会議の成果を弱める第2回コンスタンティノープル公会議に教皇が政治的理由で賛成したことに反発して,分派行動をした総大司教の後継者が創建した聖堂がサンテウフェミアの名を冠したのには,十分な理由があったことになる.


2人の総大司教
 パウリヌスが総大司教となった直後に,ランゴバルド族の侵攻があり,パウリヌスはグラードに退避するが,この教会分裂は公会議開催の553年に始まって,698年まで続く.

 609年には,グラードの総大司教はローマ教会と和解し,再びその傘下に入るが,しかも,それ以前から,ビザンティン(東ローマ)の影響下にあったので,ローマ教会からの分離を堅持する者たちが,それに反発して,グラードの総大司教に対抗する総大司教をランゴバルド族支配下のアクイレイアで擁立した.

 ランゴバルド族はアリウス派信者であったので,それもローマ教会と対抗する理由になったのかも知れないが,とにかく,ローマ教会と和解したグラードの総大司教(名称としてはアクイレイア総大司教)と並立してアクイレイアにも総大司教がいたことになる.

 723年に最終的にローマ教会と和解し,アクイレイアの総大司教が「アクイレイア総大司教」,グラードの総大司教が「グラード総大司教」と言うことになったようだ.近傍に総大司教が2人も公式に維持されたのは,やはり政治的理由が大きかったのだろう.ローマ教会も,後世,世界に君臨するかに思われるほどの力はまだ無かったのだ.

 さらに,新しいアクイレイア総大司教は,773年から1031年までチヴィダーレ・デル・フリウリに拠点を移し,アクイレイアに再び遷座した後,1238年にウーディネが総大司教座(名目はアクイレイア総大司教)となる

 1031年にアクイレイア総大司教であったのはポッポ(イタリア語ではポッポーネ)であった.

 ランゴバルド王国が滅び,それを滅ぼして,「西ローマ帝国」を「復活」したフランク王国も王統が断絶して,962年にザクセン朝のオットー大帝が「神聖ローマ皇帝」となった.オットー2世,オットー3世と続いたが,直系が途絶え,傍系のハインリッヒ2世が「皇帝」に選出されるのが1014年,この皇帝ハインリッヒが,ポッポをアクイレイア総大司教に任命した(1019年).

写真:
サンタ・マリーア・
アッスンタ聖堂
アクイレイア


 高校の世界史で「聖職叙任権闘争」というのを習った.聖職者,特に司教を任命する権限が教皇にあるのか皇帝にあるのかという争いだったと理解している.これを象徴する事件が「カノッサの屈辱」で,起こったのが1074年,その時の皇帝は,王朝が代わっている(ザリエル朝)が,ハインリッヒ4世,教皇はグレゴリウス7世,この闘争に終止符が打たれるのが,1122年のウォルムス(ヴォルムス)協約と言うのが記憶から引き出された知識だ.

 ポッポの時代は,もう古代末期ではなく,まもなく12世紀ルネサンスを迎えようとする中世盛期が始まっている.


アクイレイア
 ポッポは,対抗関係にあったグラードを劫略するなど,およそ私たちが持つ「聖職者」のイメージに遠い人物だったが,チヴィダーレにあった総大司教座を再びアクイレイアに遷し,現在も残る聖堂と鐘楼が完成し,聖別されて聖母に奉献されたのも彼の時代だ.

 ただ,14世紀にアクイレイアは大地震に襲われており(1348年),現在の聖堂は,地震後の1365年から総大司教となったマルクヴァンド・フォン・ランデックという名のアウクスブルク生まれのドイツ人聖職者が修復したものである.その時代を反映して,現在の聖堂は,外観も堂内もゴシック様式を想起させる.

床から少し離れた高さのところに
ガラスの通路があって,モザイク
全体を見ることができる 
 
 


 以前,若い友人F氏がアクイレイアで撮って来た写真をくださって,憧れる気持ちで拝見していたのだが,初めて,アクイレイアのサンタ・マリーア・アッスンタ聖堂(以下,アクイレイア聖堂)を拝観し,実物を観た感動に打ち震えながら撮った写真は,帰ってきて比べてみれば,F氏の写真とほぼ同じものだった.

 個人差のあることだと思うが,なるほど実際に自分の目で見ることには意味があるのだと言う思いを新たにする.

 観光バスでの移動の中,アクイレイア聖堂の鐘楼が見えた時,何と大きく,何と新しい建造物だろうと思った.しかし,近くで見たら,大きいという印象は間違っていなかったが,歴史を経て古格に満ちた鐘楼であり,白く美しい姿が遠目にはそのように誤解させたようで,新しくはなかった.

写真:
サンタ・マリーア・
アッスンタ聖堂
アクイレイア


 もちろん,堂内に残る,床モザイクは,クリプタのものも含め,古いものは4世紀に遡り,古代後期から末期の遺産であり,これが,アクイレイア聖堂では最も観るべきものである.

 ピアッツァ・アルメリーナ近郊のカザーレの別荘跡で観た床モザイクに似ているように思われると言うのは,いかにも素人くさい感想かも知れないが,芸術としてどれほどの水準にあるものかはわからないけれども,幾何学的模様,「ヨナの物語」に描かれた海の生物たち,「善き羊飼い」などのキリスト教的主題,写実的ではないが生前の姿を活き活きと再現しているように思われる肖像群,堂内とクリプタの両方で見られる「亀と鶏の対峙」などの鳥や獣たちのモザイクは,その圧倒的な量と相俟って,アクイレイアを訪れる人を,古代モザイクの魔力へと引き込まずにはいないだろう.




 キリスト教の遺産でありながら,古代芸術の遺風を今に伝えるモザイクと対照的に,すべてがキリスト教的で,中世的な遺産が,モザイクが残るクリプタとは別の「マクセンティウスのクリプタ」(通称フレスコ画のクリプタ)(上の写真)であろう.

 この地下教会の建設を依頼したマクセンティウスは9世紀初頭の総大司教だが,フレスコ画は12世紀の今は名前も伝わらない画家たちによって描かれたもので,キリストの受難などとともにそこに描かれているのは,アクイレイアにキリスト教を布教した聖人たちの物語である.

 使徒マルコがアクイレイアにやってきて,初代司教となるヘルマゴラスに出会い,彼をローマに連れて行って,使徒ペテロに引き合わせる.ペテロから布教の使命を託されたヘルマゴラスは,アクイレイアに戻り,フォルトゥナトゥスを助祭として,多くの人を改宗させ,官憲の迫害を受け,死刑になり,信者たちによって埋葬される.

 決して端整とは言えない,色もけばけばしく見えるフレスコ画の迫力に圧倒される.

写真:
床モザイクにあるテオドロス
献堂のインスクリプション
サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂


 ロマネスクの遺風も遺しながら,全体としてゴシックの印象が残る※聖堂だが,その創建は古く,ミラノ勅令を跨ぐ308年から319年まで司教だったテオドロスがここに教会を献堂した.

 ※(宮下孝晴『イタリア美術鑑賞紀行 1.ヴェネツィア・ミラノ編』美術出版社,1993には,「現在の建築は基本的には11世紀のロマネスク様式を示しています.ただ部分的にはゴティック様式もあり,木骨天井は14世紀のものです」p.62とあり,私の「印象」にもかかわらず,こちらが正解であろうが,自分の印象としては,ゴシックが勝っていると思われた)

 モザイクの床にそのインスクリプションがある.一部破損があって全部は読めない(なお,鋭意考察中)が,大体「幸福なるテオドロスよ,全能の神と天からあなたへと委ねられた羊群の助けを借りて,あなたが全てを(..にも)建設し,栄光に満ちて献堂した」と解釈できる.POEMNIOは,ギリシア語のポイムニオン(羊群)から借用した中性名詞の奪格であろう.

 ウィキメディア・コモンズに英語とドイツ語の解釈が付されていて参考にした.そこでも復原を避けているAEATEの先頭にBを補って,二重母音のAEが長母音のEと同じ発音になっていて,表記もそうなったと考えると,後続の明らかに「栄光に満ちて」と読める副詞に対応して「幸福にも,祝福されて」と読めるかも知れないが,他に例がなければ間違いだろう.いずれにせよ,細部には検討の余地があるが,テオドロスが献堂の指揮をとった人物であることに間違いはない.

 (後日:イタリア・アマゾンに注文していた本が,今日届いた.

 Crisitiano Tiussi / Luca Villa / Marta Novello, eds., Constantino e Teodoro: Aquileia nel IV Secolo, Milano: Mondadori Electa, 2012

で,2013年に,アクイレイアのメイズリク宮殿,国立考古学博物館,聖堂を会場として開催された特別展の解説図録だが,このインスクリプションの解説もあった.やはり問題の箇所にBを補った上で,付されたイタリア語訳はfelicemente「幸福にも」で,gloriosamente「栄光に満ちて」と対になっている(pp.206-8).

 正直,まだ納得しきれないし,古典ラテン語を学んだ人間としては少し抵抗を感じるが,この図録に解釈を記載したダニーロ・マッツォリーニと言う研究者と,私の,世界中で少なくとも2名が別個に同じ解釈をしたということは,多少,尊重されて良いだろう.2014年5月17日記)

 後陣のコンク(半穹窿天井)に描かれた,マンドルラの中の玉座の聖母子とその周囲の福音史家たちの象徴物,両脇に並ぶ聖人たちとして,向かって右側にはヘルマゴラスとフォルトゥナトゥスの他にエウフェミアが,左側には使徒マルコと,ヘルマゴラスの後継者ヒラリウスとタティアヌスが描かれ,聖人たちより小さな姿で,右側には皇帝ハインリッヒ2世の後継者コンラート1世とその妻子,左側には生存中であったことを示す四角い光輪のあるポッポとその兄弟(別の参考書では皇帝ハインリッヒ2世,また別の本では聖アルベルトとも言われている)が描き込まれている(聖堂のブックショップで買った小冊子に拠る).

 ポッポが存命中の絵であれば,11世紀の作品であり,現存するフレスコ画としてはだいぶ古いものということになる.下部に並ぶ聖人は誰か不明だが,彼らが身に着けていると思われるタブリオンがビザンティン風に見える.

 堂内には,長い時代に渡る歴史を思わせる,床モザイク,フレスコ画の他に,石像,木彫,祭壇画もあり,興味は尽きない.

 アクイレイアでも,グラードでも洗礼堂も拝観し,それぞれ興味深かったが,機会があれば別の回で触れることとし,ひとまず,この回を終了する.



 前のページを書いてから1ヵ月が経ってしまった.授業はもちろん,校務と翻訳の仕事で,今後も難航が予想されるが,せっかく訪れた北イタリアで観たものを整理して,多少とも理解するためには,自分が知らなかった知識を大量に仕入れなければならず,であれば,自分の勉強にもなることなので,少しづつ報告をまとめて行きたい.

 今,仕上げを迫られている,恩師の手伝いで始めたローマ時代のギリシア語作家ルキアノスの翻訳の仕事が終われば,京大学術出版会が,ここ数年の懸案であったローマ帝国末期の詩人クラウディウス・クラウディアヌスの全作品を私に訳させてくれることが先日の編集会議で承認されたとの知らせがあった.

 偶然ではあるが,ローマが東西に分裂し,ヨーロッパが東と西で大きく異なる歴史をたどり始める時代に,ミラノやラヴェンナの西ローマ皇帝の宮廷で活躍したであろう,おそらくアレクサンドリア出身のギリシア語を母語とするキリスト教徒であったと思われる詩人のラテン語の作品に本格的に取り組もうとしている今,今回の北イタリア旅行は,所期の目的とは別の成果を自分に齎してくれているように思う.

 念願のクラウディアヌスの全作品を日本語にする.多くの仕事を停滞させ,あるものは断念してきたが,五十代後半に突入する今,この仕事は,何とか自分の力で完成させたい.






春の野にフォロ・ロマーノの遺跡
アクイレイア