§ロシアの旅 - その15 イコノスタシス
ルブリョフの人生については,タルコフスキーの映画を見ても,参考書を読んでも,全く再構成することはできない. |
それでも,天才性や同時代性に関してはフラ・アンジェリコを,先輩ダニールとの関係では,郷党の先達マゾリーノと共作しながら,常に主導権を握り,芸術の伝統を革新したマザッチョを,異国から来たフェオファン・グレクから何かを学び取りながら,独創性を確立した姿勢には,国際ゴシックやフランドル絵画の影響を自分たちの芸術に活かしたイタリアの初期から中期のルネサンスの画家たちを想起することができる.
今後の人生で,どれだけルブリョフ自身,もしくは協力者や追随者が描いた作品を観られるか分からないが,ルブリョフの芸術に魅かれる多くの人のように,私もまたルブリョフという存在を念頭に置かずに,キリスト教芸術を考えることはできないだろう.
それほど遠くない昔,敬愛する同僚が,「旧約の三位一体」の絵葉書をお土産に下さったことがあったが,当時の私には猫に小判だった.その真作性に関しては議論があると聞くが,それは私の守備範囲ではない.
今回,トレチャコフ美術館で「旧約の三位一体」を観たことは,フィレンツェ滞在の始めの頃に,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂でジョットの「キリスト磔刑像」を,サン・マルコ旧修道院でフラ・アンジェリコの「受胎告知」を観た体験に匹敵する.
ポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)
古代ギリシア語で「王」を意味するバシレウスから派生した固有名詞バシレイオスと言う名を持つ有名人物は複数いるが,キリスト教の聖人としては,4世紀の司教聖人カエサリアのバシレイオスがいる.(ラテン語地名とギリシア語の人名が混淆しているが,カエサリアのギリシア語読みはカイサレイア,バシレイオスのラテン語読みはバシリウスとなる.)
バシレイオス(バシリウス)は東方正教会でもローマ・カトリックでも聖人とされ,特に前者で崇敬を受けており,ロシアでは聖ワシリーとして知られる.ギリシア語のΒβ(ベータ)は,古典語では英語のBbと同じ音価とされるが,現代語ではヴィタと発音され,英語のVvと同じ音価になるように,ロシアでも,やはり語頭がv音になるので,ヴァシーリーに近い発音になるようだが,ワシリーがよく使われるので,この表記を用いる.
しかし,「ワシリー寺院」と言う時の「聖ワシリー」は,有名な司教聖人(正教ではカトリックの司教にあたる職名を主教と言うらしいが,聖人の名称分類としてここでは司教聖人としておく)とは別人であり,おそらく東方正教会のみの聖人である.
「佯狂者」ワシリーと言われる人物が,「ワシリー寺院」の通称のもととなった聖人である.16世紀の人なので,新しい聖人だ.
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写真:
「佯狂者」ワシリーのイコン
ワシリー寺院に多数展示されて
いる聖ワシリーのイコンのひとつ |
佯狂者と言う語には全くなじみがないが,日本語ウィキペディアにも引用されており,そこで典拠の一つになっている著作も参照できる.
佯狂者とは,ばかを装い,キリストの教える真理を明らかにする者である.先天的に佯狂者である者もいたが,その多くは自らを否定し,極端な形の修道として行なう者であった.彼らは極寒の中を,ぼろきれを身にまとい裸足で歩いてもなんともないというほど信仰強かった.(高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫,p.187)
この本は京都の古本屋で買い,専門と関係が薄いので実家に置いていたが,参照する必要があり,北本の茅屋に持ってきていて,津波を免れた.日本ハリストス正教会の司祭(執筆当時)の方の著書なので,信頼が置けるであろう.
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写真:
ワシリー寺院内部 |
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ワシリー寺院に関しては,日本語ウィキペディアでは「聖ワシリイ大聖堂」で立項されており,十分以上の情報がここから得られる.それに拠れば「ワシリイ」が,日本ハリストス正教会の伝統的な転写表記とのことだ.しかし,ここでは慣例に従い「ワシリー」と表記する.なお,正式な日本語訳は「堀の生神女庇護大聖堂」となるらしい.
ここからもわかるが,ワシリー寺院は通称で,「庇護」,「保護」を意味する語の形容詞を冠したポクロフスキー大聖堂が正式名称により近い.
この大聖堂は,元来は聖母(正教会では生神女)マリアに捧げられたもので,それを主聖堂として,他に8つ聖堂があり,それらの集合体として大聖堂になっていて,それぞれの聖堂は「三位一体」とか「アルメニアの聖グレゴリウス」とかに捧げられている.
後に,さらに2つの小聖堂が加えられたが,その一つが佯狂者ワシリーに捧げられ,この聖人が民衆に親しみを持たれていたからであろうか,大聖堂全体に「ワシリー大聖堂」の通称が生まれ,私たちがワシリー寺院と呼ぶに至っているようだ.
この聖堂自体は,イワン4世(雷帝)が1552年にカザン汗国を征服したことを記念して建設された16世紀後半のものであり,もともとは現在のような華やかな色彩は施されておらず,17世紀の終りから19世紀の半ばで長い時間をかけて現在のような鮮やかな外観になったとのことだ.
「ワシリー寺院」(ポクロフスキー聖堂)と言う名前は知らなかったが,子供の頃から写真で見ていて,異国情緒に溢れていて,憧れる気持ちがあった.「クレムリン」と言うのは,この建物のことを指し,昔はロシア皇帝の宮殿で,ここに当時のソ連の政府があるのだと思い込んでいた.
政治的なことには興味が無かったが,おとぎ話の王宮のように思え,小学校4年生の頃,図工という科目の課題が,エッチングだった時に,写真を見て,この建物を銅板にニードルで彫り込んだ.実家のどこかに現物が残っていたかも知れないが,津波で流された.
クレムリンと言うのは「城砦」を意味する普通名詞で,モスクワのクレムリンには,ロシアの政府や大統領執務室などがあり,ロシア帝国,ソヴィエト連邦,ロシア連邦の政治中枢をクレムリンと言うこともある.
従って,クレムリンは,その他の都市にもあるのだが,「モスクワのクレムリン」と言うと,特に,その外側の「赤の広場」を思い浮かべる人が多いだろう.クレムリン内部には,ロシアの宗教文化の至宝とも言うべき聖堂が複数あるが,ワシリー寺院はクレムリンの外側の「赤の広場」にある.
「赤」は,共産主義が主流だったからではなく,「赤」と言う色彩表現には,もともと“美しい”という意味があったということで,共産主義以前,共産主義以後も「赤の広場」と呼ばれている,とガイドさんから解説があった.
クレムリンの観光は,後述するウスペンスキー大聖堂と,武器庫がメインだった.武器庫といっても,ここは博物館で,王冠をはじめとする宝飾品,金銀細工,銀食器,陶磁器,歴代の皇帝に外国から贈られた高価な品々の他,エカテリーナ2世が使用した馬車などをガイドさんの解説で見て回った.
同じように,エルミタージュの2日目には「ダイヤモンド・ルーム」の予約がとれて,学芸員の解説つきで皇帝愛用の宝飾品の他,紀元前のスキタイの壺やエトルリア,ギリシャの考古学的な遺物を見ることができた.
8月24日,昼食をはさんで,トレチャコフ美術館本館と新館を見学した後,赤の広場に移動し,ワシリー寺院を外観だけ見て,グム百貨店の噴水のところで,いったん解散,短い自由時間となった.皆さんはお土産探しに向かい,私たちは,たとえ短時間でもワシリー寺院を拝観する決断をして,大急ぎで引き返した.
聖堂周辺の観光客の間を縫って,券売所で入場券を買い,入堂すると,外の混雑から予想されたほどの人は中にはいなかった.印象としては,やはり教会と言うよりは,完全にイコンとイコノスタシスの博物館になっているように思えた.それでも,幼い頃,写真を見て憧れ,様々な誤解があったとは言え,記憶に残り続けた建造物に入ることができ,つくづく,時代のめぐり合わせと種々の幸運に恵まれたことを思わずにいられない.
気ぜわしい拝観ではあったが,ともかく迷路のような堂内を,ひととおり見ることができた.
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展示されているイコノスタシスを構成する
各イコンの解説板(左写真の中央下部)
(ただし,解説はロシア語)
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イコノスタシスに関しては,濱田靖子『イコンの世界』(以下,濱田)が参考になった.上の写真で中央下部にある扉が「王門」と呼ばれる,至聖所への出入り口で,大きなイコノスタシスの場合には,向かって右側に「南門」,左側に「北門があるが,このイコノスタシスには無い.
「王門」の最上部は,「受胎告知」が原則で,向かって左側にガブリエル,右側にマリアが描かれるが,このイコノスタシスの「王門」には絵が描かれていない.このように中央上部に太陽のようなものがある王門のイコノスタシスは,この聖堂博物館に少なくとももう一つあった.
「受胎告知」の下には,4人の福音史家の絵が描かれ,多くの場合は,福音史家かその象徴動物が描かれるのが原則である.
「王門」は美術館でもいくつか観ることができた.ロシア美術館で観た,下の写真のノヴゴロド派の「王門」は,上部には原則通り「受胎告知」が描かれているが,下部では思い切って,左右一人ずつの聖人が描かれている.
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写真:
ノブゴロド派
王門(Royal doors)
15世紀後半-16世紀初頭
ロシア美術館
サンクト・ペテルブルク |
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西欧風に言うと「司教聖人」であるのは,聖職者と思われる格好をしているので,容易に想像されるが,これが一体誰なのか,すぐには分からない.
東方正教会で重んじられる司教聖人は,ニコラウスとバシレイオスくらいしか思い当たらないが,何がアトリビュートなのか知らない.イタリアではニコラウスなら,司教の姿に3つの金の玉を持っていたり,船乗りの守護聖人なので,航海している船が描かれたりするが,それはここには見当たらない.
『ロシアのイコン』の「ノヴゴロドのイコン」と言う章で,この王門が取りあげられているので,それを参照すると,どちらがどちらなのかはっきりしないが,バシレイオス(大ワシリイ)とヨハネス・クリュソストモス(日本語ウィキペディアでは「金口イオアン」で立項)とのことだ.
すぐには理解できないが,東方正教会には「聖体礼儀」(日本語ウィキペディアに立項)(高橋保行『ギリシア正教』,pp.192-201)を含む,カトリックの「典礼」にあたる「奉神礼」(高橋,pp.159-186)と称される儀礼があり,その中で「聖金口イオアンの聖体礼儀」と「聖大ワシリイの聖体礼儀」は,特に両聖人の名を冠して尊重されている.
東方正教会の重要な儀式の理念を支える重要な聖人ということで,それぞれ,その儀式で使われる祈りの式文の巻物を手にしており,そこにどちらの聖人かを示す内容が書かれている可能性はあるし,肩にかかる十字架の色とか,祭服の模様とかが,あるいはそれぞれの聖人を示す印になるかも知れないが,今のところ,これ以上の情報はない.
英語版ウィキペディアの,それぞれの聖人の項目には,アトリビュートなどが列挙されており,それによれば,バシレイオスは「司祭の祭服,オンフォリオン(オンポリオン)と言う儀式用の肩掛け布,手に持つ福音書もしくは巻物を,痩せて禁欲的で,先が細くとがる黒いひげ」が,ヨハネス・クリュソストモスについては「司祭の服装,手に持つ福音書もしくは巻物,右手を挙げて祝福,断食で憔悴,高い額,禿げかけた黒っぽい髪,短いあごひげ」が特徴とされる.
決定的な違いは「ひげ」にあるようなので,とすれば向かって左がバシレイオス,右がヨハネスということになろうか.
このタイプの王門は,トレチャコフにも少なくとも1点あるようだ.美術館のHPに写真,解説付きで取り上げられており,それに拠れば13世紀後半の作で,現存最古の王門の作例とある.上の写真より200年古い非常に貴重な遺産ということになるが,残念ながら,今回は観ていないようだ.

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写真:
ワシリー寺院内に展示されて
いるイコノスタシス
時代によってスタイルは
大きく異なる
素人目にも上の方が新しく
見える |
この写真の上の方のイコノスタシスも新しいが,王門は原則通り,上部に受胎告知,その下に4人の福音史家が描かれている.その下に,さらに2人の人物が描かれているようだが,これは誰だかよくわからない.
王門のすぐ上に「最後の晩餐が描かれているのも,濱田の説明の通りだ.「最後の晩餐」と同じ列には,「十二大祭」といわれるキリストの事績が描かれるはずだが,このイコノスタシスでは,4場面しか確認できない.
濱田に拠れば,通常,王門の向かって右に救世主,左に聖母子が来るが,これも原則通り描かれている.
下の方のイコノスタシスは少し古く見えるが,古いものを手本にした新しいものかも知れないし,本当に古いのかも知れない.
王門最上部が受胎告知である以外は,この写真ではよくわからないが,別に王門だけ撮った写真で確認すると,間違いなく受胎告知と4人の福音史家が描かれており,それ以外は扉部分には描かれていない.
王門の両側も救世主と聖母子で間違いないだろう.さらに,それぞれ隣には,王門の方向にお辞儀している司祭姿の聖人が描かれている.通常は救世主の向かって右側には,そのイコノスタシスがある教会の名称のもととなる聖人(濱田は「ニコライ聖堂」ならニコライ,と言う風に分かり易く説明している)が来るそうだ.
別の写真で,この部分を確認すると,王門の向かって右の「右手で祝福するキリスト」の右に描かれているのは,禿頭で祭服姿の聖人だ.「禿頭」なので,ヨハネス・クリュソストモスかも知れないが,トレチャコフ美術館で観たイコンでは,ニコラウスも「禿頭」に描かれているので,そちらかも知れない.聖母子の左側の聖人は,ひげの形からするとバシレイオスかも知れないが,この写真では分からない.
バシレイオスかも知れない聖人の左は「キリストの洗礼」で,さらにその左には「キリスト変容」と思われるイコンがある.
このイコノスタシスでは,王門上部の「最後の晩餐」と,その同じ列の「十二大祭」は見られない(もともと無かったのか,今は失われたのかはわからない).
通常下から下から三段目(この場合は二段目)の列に来るキリスト(濱田に拠れば「王または主教の服装をした救世主)を中心に向かって左側に聖母,右側に洗礼者ヨハネが描かれ,その両側にそれぞれ大天使ミカエルとガブリエル,さらにそれぞれの隣に祭服姿の聖人たちが,中央のキリストにお辞儀する姿で描かれている.それぞれ右手を挙げているのは,人々のための嘆願ととりなしを意味している.
これらの図像は,古典ギリシア語の発音ではデエーシスとなり,「祈願」,「嘆願」を意味するが,日本語では現代ギリシア語やロシア語を参考にしてデイシス(濱田はデエシス,木村はデイスス)と称される.
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ルブリョフとダニール・チョールヌィ作のデイシス
トレチャコフ美術館
(以前はウラジーミルのウスペンスキー聖堂にあった) |
美術館等で,単独の聖人が体を傾けている絵を観ると奇異にも感じられるが,イコノスタシスで観ると,その姿形は説得力がある.聖書を持って玉座に座るキリストは「最後の審判」を想起させる.ワシリー寺院の写真を拡大すると,四隅に福音史家の象徴動物が描かれていることがわかる.
今回は外観しか見ていないが,クレムリンのブラゴヴェシチェンスキー聖堂には,フェオファン・グレク作のデイシスを含むイコノスタシスがあり,このイコノスタシスにはルブリョフなど他の巨匠たちも製作にかかわっており,写真で見る限り,大変魅力的だ.
少なくともデイシスに限っては,ワシリー寺院で観たこのイコノスタシスはクレムリンのブラゴヴェシチェンスキー聖堂のものに似ており,古風に感じられる.ワシリーで観た多くのイコノスタシスが見るからに新しいものが多いだけに,このイコノスタシスは心魅かれるものがあった.作家名,出所等は説明板の写真を撮ってこなかったし,HPにも掲載されていないので,わからないが,トレチャコフ美術館で,少なくとも,デイシスの形で展示されている2組の一連のイコン(1組の写真は上に掲載)は,やはりこれに良く似たタイプだった.
多くの場合,下から四段目は聖母子像を真ん中にして,その両側には旧約聖書の預言者たちのイコンが並び,最上段中央に「父なる神」のイコンがある.濱田には言及は無いが,木村は,「父なる神」の両側に,アダム,ノア,アブラハムなどのイコンが置かれ,これを「<祖先>のイコン」と言っている.
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写真:
イサク聖堂の
イコノスタシス
サンクト・ペテルブルク |
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サンクトペテルブルクは町自体が新しく,イサク聖堂も19世紀の建築で,イコノスタシスも新しい.それぞれの絵もテンペラではなくモザイクで,全盛期のロシア帝国が贅を尽くして作成したもので,それがありがたく思えるかどうかは全く別の話だが,新古典主義の影響が見られても,よく見るとイコノスタシスの基本は,意外なほど良く守られているようにも思える.
王門の向かって右に救世主,左に聖母子,その両側に聖人たち,また王門上部にあたる部分を中心に下から第2段目には,聖人たちと天使が描かれ,王門の真上に「最後の晩餐」だが,その段に描かれているイコンは,多分「十二大祭」ではない.その上には,おそらく「父なる神」であろうが,イコンと言うより西欧宗教画のような絵が中央にあるだけだ.
王門の扉は開かれていたので,確認が難しいが,比較的大きく撮れた写真を確認すると,扉の真ん中に受胎告知(向かって右がマリア,左がガブリエルのそぞれぞれ立姿)があり,その上下に形4つのメダイオンがあり,これに人物が描かれているので,福音史家であろう.であれば,最上部に「受胎告知」と言う原則通りではないが,概ね伝統に則っていると言って良いだろう.
ウスペンスキー大聖堂
ワシリー寺院は完全に博物館なので,モスクワで唯一堂内を拝観できた教会は,ウスペンスキー大聖堂(聖母の「永眠」もしくは「就寝」を記念する名称)のみだ.ここも入堂料を取る博物館的施設で,現役の教会とは言い難いかも知れないが,雰囲気は十分残っているし,実際に今は宗教儀式が行われているらしい.
この聖堂は11世紀の「聖ゲオルギウス」のイコンなど興味深いものが少なくないが,堂内は撮影禁止なので,『地球の歩き方』,現地で購入した日本語版案内書『モスクワのクレムリン』,それと聖堂で貰える案内パンフレット(英語版はすでになく,仏,独,伊,露のものを貰った)だけが頼りだ.
ただし,日本語版『モスクワのクレムリン』は,殆んど役に立たない.購入の時,不安に思って「英語版を」と言ったのに,不機嫌な年配女性がアジア人への軽蔑感をこれ以上なく示しながら,有無を言わさず袋に入れたのは,後で見たら日本語版で,不安的中,解読できない日本語が並ぶ,要するにただの記念品で,役に立つのは写真だけだった.
ロシアには驚くほど,日本語に堪能な現地ガイドが山ほどいるようなのに,この案内書の翻訳のレヴェルといったら,今まで幾つか失望した日本語版現地案内書の中でも際立って低水準だ.しかし,無いよりはましだ.何かの機会に役に立つことはあるかも知れない.少なくとも,小さいが写真は豊富で,その点は不満がない.
この聖堂がある場所に,12世紀には木造の教会があったらしいが,14世紀にモスクワ府主教(日本語ウィキペディアは「府主教」で立項)聖ピョートルがモスクワ大公イワン1世に,ウラジーミルのウスペンスキー聖堂のような,「神の母」を記念した教会をモスクワにも建てるように進言し,1326年に着工,翌年に竣工,献堂が行われた.
15世紀になって,この旧聖堂が荒廃したので,1472年から地元の建築家たちによって再建が試みられたが,モスクワでは極めて稀な地震のために倒壊した.
大公イワン3世は,イタリアからボローニャの建築家アリストーテレ・フィオラヴァンティ(英語版/伊語版ウィキペディア)を招き,フィオラヴァンティはウラジーミルに行って,その地のウスペンスキー聖堂を精査し,ロシア聖堂建築を理解した上で,建築に取りかかった.具体的には,私にはわからないが,イタリア・ルネサンスとロシアの伝統の幸福な出会いと理解されているようだ.
クレムリンの大聖堂広場に面している西側と南側のフレスコ画が印象に残る.絵柄も興味深く,イタリア的な要素があるかと思ったが,唯一情報があった(一応,ロシア語版ウィキペディアも見たが,フレスコ画の情報はないようだった)『モスクワのクレムリン』には17世紀の無名のロシアの画家たちが描いた,とあった.
入堂した東側入り口にはフレスコ画はなく,北側外壁にも見事なフレスコ画があるが,これは見ていない.
聖堂でもらったパンフレットにはロシア皇帝の戴冠式の時に開けられる南門へ言及があり,その周囲のフレスコ画に少しだけ触れているが,門の上の「聖母子」は,かつてこの聖堂にあり,今はトレチャコフ美術館所蔵の「ウラジーミルの聖母子」がモデルとのことだ.
それも大きく華やかなフレスコ画だが,実は,西側外壁上部に3つ並んだフレスコ画が一番興味深かった.
南から北に向かって,「玉座の聖母子と聖人たち」,「三位一体」で,その次が,よくわからない.中央の玉座に王冠を被った人物が座り,その後ろに両手を広げるキリスト,その向かって左側に立姿の聖母子のような人物,右側に巻物を開いた有髯の中年から初老の男性がいて,最上部にはテーブルの左右で天使たちと聖人たち拝跪している.しかも,玉座の人物と両側の人物は3人とも有翼である.
有翼の聖母や聖人だとすると,今まで見たことがないが,中央をキリストもしくは神,向かって左が聖母,右が洗礼者ヨハネと考えれば,西欧でも東方正教会でも見られる「とりなし」の図像であろうかとも思う.ただ,向かって右の人物が洗礼者ヨハネに見立てるのは難しいかも知れない.
「三位一体」と思われるフレスコ画も,若者の姿の子なるキリストと,老人の姿の父なる神の間に聖霊を表す鳩が描かれているが,この図像はロシア正教的には「あり」なのだろうか.四隅には福音史家を表す人間,ライオン,牛,鷲が描かれているようだ.
いずれにしても,作者の名前も伝わらず,特に傑作と言う評判もない作品だが,外壁に描かれたフレスコ画は,私には興味深かった.ウスペンスキー大聖堂の他にも,同じく聖堂広場に面して建つブラゴヴェシチェンスキー聖堂,アルハンゲルスキー聖堂の入り口周辺にもフレスコ画が見られ,それぞれ興味深かったのだが,撮って来た写真を見ても剥落が進んでいて,残念な状況で,聖母子を中心とするもの以外は,何が描かれているのかも良くわからない.
今後の課題,と言って,今後何か,これについて知ることができるかどうかわからないが,機会があれば知識を得たい.そのためにはロシア語の学習は必須であろうが,残念ながらそのために必要な覚悟が全く足りない.
ウスペンスキー聖堂の設計者,アリストーテレ・フィオラヴァンティの名前は今回,初めて知ったが,ボローニャのサン・ペトロニオ聖堂と同じ広場に面している中世の建造物パラッツォ・デル・ポデスタのゴシック建築だったファサードをルネサンス風に改築したのが彼であるようだ.
その父フィオラヴァンテ・フィオラヴァンティも建築家で,ボローニャのパラッツォ・アックルシオの再建,ペルージャのサン・ロレンツォ大聖堂の増改築に関わっているようで,そ意味では,父の仕事も,息子の仕事も,私たちはそれと気づかずに見ていたことになる.
ここでも,また,ロシアにおける,イタリアの職人芸術家の影響をひとつ,確認できたことになる.
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パナギア型のイコン「神の母」(1780年代)
30分足らずの自由時間
夢中で駆け足で廻った ワシリー寺院
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