フィレンツェだより番外篇
2014年1月2日



 




アンドレイ・ルブリョフ作
「救世主」 15世紀初頭
トレチャコフ美術館


§ロシアの旅 - その14 イコン

エルミタージュ美術館でイタリア絵画や古代の壺絵と石棺を見る,それが今回のロシア行の主たる目的だった.それでも,サンクトペテルブルクの新古典主義建築に興味を惹かれたあたりから次第にロシア文化に興味を持ち始め,中でも「イコン」のインパクトは,圧倒的だった.


 私の貧しい知識では,東方正教会は偶像崇拝への恐れから,ローマ・カトリックよりも宗教図像への制限が厳しく,特に8世紀から9世紀のビザンティン帝国で起こったイコノクラスム(聖像破壊)以降,紆余曲折を経て,宗教画そのものは認められたものの,画家の個性が発揮されない,一見すると同じように見える「イコン」というものが延々と描き継がれてきて,カトリック世界の宗教芸術に見られるような魅力は乏しい,という風な浅薄な理解が精々だった.

 そもそも,ビザンティンのイコンとロシアのイコンの違いにも殆んど興味が無く,およそ,画一的で,芸術家の個性が見えない退屈な宗教画と,極端に言えば,そのように思っていた.

 実際には,イコンを解説,紹介した本を,今までも少しずつ購入し,書架には既に複数並んでいたのだから,多分,何かしらの魅力を感じていたのだとは思う.

 今回,ロシアで体験できたイコン鑑賞はなかなか衝撃的なものだった.宗教教義的にそれで良いのかどうかわからないが,多くのイコンは,どれも同じように見えるものではなく,画家の個性も随分発揮されているように思えた.


イコンの「肖像性」
 イコンに関しては,全く知識が無いので,新たに入手したものも含め,何冊か本を読んだ.

著者 書名,出版社 発行年  文中引用略
クルト・ブラッシュ  『イコン』,三彩社  1966 以下,ブラッシュ
濱田靖子 『イコンの世界』,
美術出版社
1978 以下,濱田
鏑木道剛/
定村忠士
『イコン ビザンティン世界からロシア,日本へ』,
毎日新聞社
1993 以下,第1章「ビザンティン・イコンの成り立ち」は鏑木,第2章「ロシア・イコンの物語」は定村
南川治三郎 『イコンの道 ビザンチンの残照を追って』,
河出書房新社
1996 監修,濱田靖子
以下,南川
川又一秀 『イコンへの道 ビザンティンからロシアへ』,東京書籍 2004 以下,川又
  『芸術新潮 特集 ロシア・イコンの旅』 2003年
12月号
以下,『芸術新潮』
Irina Solovyova, et al., tr., Julia Redkina  The Russian Icon,St. Petersburg: P-2 Art Publishers 2006  以下,『ロシアのイコン』


 最後のものは,ロシア美術館のブックショップで買った英訳版案内書だ.トレチャコフ美術館でも『トレチャコフ美術館のイコン』という英訳案内書があったが,手持ちのルーヴルが無くなりかけていて,あきらめた.今のところインターネットで入手できず,少し悔やんでいる.

 上記の本を読んでも,もともとイコンになじみがないので,日本語による丁寧な説明にも拘わらず,理解できたとは言い難い.その中で,鏑木の概説は分かり易く,ロシア以前の「イコン」の歴史を多少は知ることができた.

その中で特に,キリストと聖人の絵に関する「肖像性」は勉強になった.


 まず,ペテロ,パウロの肖像性を示すものとして,ラヴェンナの「司教座礼拝堂」のモザイクが挙げられる.サンタンドレーア礼拝堂と称され,テオドリックの時代の祈祷堂(オラトリオ)に起源を持つもののようだ.

 ラヴェンナでは,随分たくさんのモザイクを見たが,これは見ていない.ウェブ上にも写真があまりない.この礼拝堂は,大聖堂に付属する博物館で見られるようだが,入館料を払って入ったにも拘わらず,大理石の「司教の座」とその周囲にあったモザイクだけを見て,洗礼堂へと急いでしまったようだ.

 コンクの部分には大きく十字架が描かれ,その前面のアーチ部分に聖人たちの顔が一つ一つ円形の枠の中に描かれており,頂点となる中心部分にはキリストの顔,その両脇にペテロ(向かって右),パウロ(左)がいる.

 キリストには肖像性はないが,ペテロは「角顔,白髪,短髯」,パウロは「卵型長頭,長髯,広い額(禿頭)」という特徴が認められ,確かにこれは,両聖人の特徴として以後引き継がれるように思われる.6世紀初頭のモザイクとのことだ.

 同じくラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のアーチ下モザイクにも,同じようなペテロとパウロの顔が見られるが,キリストは全く違う顔だ.サン・ヴィターレには,後陣コンクにも「栄光のキリスト」と思われるモザイクがあるが,顔は若者で,私たちがキリストに持つイメージとは違う.

 敷地内のガラ・プラキディア霊廟の「良き羊飼い」のモザイクも,題材から言って当然だが,若者の姿だ.

 キリスト教は,母胎となったユダヤ教と同様に「偶像崇拝」を禁じているため,聖像を崇敬することには,諸派ともに様々な葛藤があり,その過程で「聖像破壊」(イコノクラスム)も起きた.しかし,ヘレニズムを引き継いだ「ローマ帝国」という器の中で,教団が形成され,勢力を拡大していく中,聖像を求める声があがり,「魚」や「羊」,「十字架」といった記号や,「良き羊飼い」のような記号性の強い人物像がキリストや神の表現として使用される一方で,より人の姿に近いものが求められるようになった.

 この場合,成人男性の姿の場合はユピテル(ゼウス),若者の姿の場合はアポロのような,古代神話・宗教の聖像が参考にされたようだ.


「手で描かれざる主の御顔」
 「手で描かれざる」というのは,人類の罪を贖ってイエス・キリストが磔刑になった時,十字架を担って歩くイエスの汗を,ヴェロニカという女性がをで吹き,その布にイエスの顔が写り,これをもとにしたとされるのが,イコンのキリストの顔であり,これは人間の手で創作されたものではなく,真実のイエスの容貌を反映したものだ,と言うことと理解していた.

 今回,イコンについて初歩的な理解を与えてくれて,その魅力を紹介してくれたのは,すでに何度か言及している,

 木村浩『ロシアの美的世界』(同時代ライブラリー)岩波書店,1992

であったが,「その起源については,いわゆる<イコーナ・ニエルカトヴァールナヤ>(人の手によらざるイコン)と呼ばれるものがある.これはゴルゴタの丘にのぼるキリストが布で顔をぬぐったところ,その布の上に彼の顔が生き写しになったという伝説から生まれたもので,キリストの顔を布の上に描いた簡潔な図柄のものである」(p.73)とある.ヴェロニカへの言及はないが,概ね上述の私の理解とそうは違いがないだろう.

写真:
ノヴゴロド派
「聖顔 手で描かれざる
主の御顔」 
トレチャコフ美術館
12世紀
ノヴゴロド最古のイコン
(裏側にはロシア十字と
両脇に2人の天使の絵)


 鏑木には「手で描かれざる」について,ヴェロニカ伝説とは別の説明がある.

 そしておそらく五三〇年頃のことであろう,キリストの真性の肖像画がシリアの町エデッサ(現在のウルファ)の城壁のなかから発見される.それはキリストの顔が写ったタオルのことで,ラテン語の「マンテレ(タオル,ナプキンの意味)」,またアラビア語の「マンディル(ヴェール,ハンカチーフの意味)」から「マンディリオン」と呼ばれている肖像画である.画家た描いたものではなく,自然の力で写ったものであるから,キリストの真性の容貌を伝える,最も信頼できる肖像画として,「アケイオポイエートス(人の手によらない)」イコンとも呼ばれ,この「人の手によらない像は,六世紀末までに東ローマ帝国の野営地や都市に広まっていった」(p.30)(最後の「」による引用は,エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』の岩波文庫版から,とのことだ)

 ラテン語とギリシア語が出て来たので,少しコメントするとマンテレ(マンテーレ)は,手(マヌス)と「拭き清める」(テルゲオー)から出来た合成語で,アケイロポイエートスは,「ア」は否定の接頭辞(英語に入ったものとしてはapathyのa),「ケイル」は「手,腕」,「ポイエオー」は作るで,最後の「トス」は動詞から形容詞を作るときの接尾辞で,確かに全体として「手で作られるのではない」と言う意味の形容詞になる.男性形になっているのは,イコンの語源である男性名詞エイコーンを修飾するからであろう.

 鏑木に拠れば,マンディリオンのイコンの最初の記述は,6世紀末のエヴァグリウス(ギリシア語名はエウアグリオスで,学校で古典語を学ぶ際の発音エラスムス式ではエウァグリウス)『教会史』にあり,544年エデッサがペルシャ王ホスローに攻められた時,「手で作られたのではない神聖な像」の奇蹟によって落城を免れたが,エウセビオスの『教会史』(4世紀前半)も援用すると,「聖なる似顔」は,もともとキリストに会いたいと言った1世紀のエデッサ王アブガロスに,使徒を通してキリストが送ったものではないかと推測されるようだ.

 4世紀のエウセビオス(コンスタンティヌス大帝の同時代人)の記述,6世紀の奇蹟とエウァグリウスの記録を経て,ビザンティン皇帝ユスティニアヌス2世が,キリスト像に関して,記号的なものから肖像への転換をしたのが,7世紀末のことであり,その時代にキリストの顔を刻印した貨幣が鋳造された.



 真ん中で分けられたカールした栗色の肩にかかる長髪,通った鼻筋,高い鼻梁,上品な口元,豊かな髯,左右非対称のアーモンド型で思慮深い印象の青灰色の眼,など共通の特徴を持つ現存最古の肖像は,エジプトのシナイ半島に残る聖カタリナ修道院にあるイエスの蜜蝋画の板絵とされる.

 もちろん実物を観たことはないが,写真で見る限り,本当に6世紀の作品かと思うほど,写実的な印象を受ける.

 この修道院は,「キリスト変容」のモザイクも良く知られている(ジョン・ラウデン,益田朋幸訳『岩波 世界の美術 初期キリスト教美術・ビザンティン美術』岩波書店,2000,p.74)が,ビザンティン帝国支配下の宗教施設でありながら,辺境にあったので,首都で行われたイコノクラスムの被害を蒙らなかったということなのだろうか.

 やはり,この修道院に残っている「聖ペテロ」の蜜蝋画も上述の肖像性をそなえており,やはり6世紀の作品と言うことである.

 トレチャコフ美術館で見た「聖顔」は12世紀後半の作品なので,聖カタリナ修道院の蜜蝋画から600年後の作品だが,その肖像性の継承に驚く.

 これらの原型となったとされるマンディリオンはコンスタンティノープルにあったが,13世紀の第4回十字軍で占領された際に略奪されて西欧に移り,パリのサント・シャペルにあったが,フランス革命で行方不明になったとのことだ.

 いずれにせよ,あくまでも伝説に基づくもので,本当にイエスの肖像性を保証しているかどうかは,それこそ神のみぞ知る,であろう.それでも,私たちのキリストのイメージを支えるものであり,これに関しては東西共通に思われる.

 上掲のノブゴロド派の作品は,美術館以前には,モスクワ,クレムリンのウスペンスキー大聖堂にあったが,16世紀半ばにノヴゴロドから持ってこられたものと考えられているようだ.12世紀後半と言えば,チマブーエが生まれたのが,1240年頃とされるので,その100年ほど前であり,西欧ではイスラムの影響を受け,ようく12世紀ルネサンスと後世言われる時代になった頃である.

 アッシジのフランチェスコの誕生が1181年,まさにその頃が少し前に,ビザンティンの先進文化の影響があったとは言え,ロシアのノヴゴロドでこの絵が描かれていたことにひたすら驚く.


ノヴゴロド派
 「ノヴゴロド派」と言うのは,何だろうか.英訳案内書『ロシアのイコン』には,

 ノヴゴロドのイコン(12-17世紀)
 プスコフのイコン(13-16世紀)
 モスクワのイコン(14-17世紀)
 トヴェーリのイコン(13-17世紀)

と言う分類が施されている.この中では,ロシアのイコンの歴史に先行して栄え続けたのが「ノヴゴロドのイコン」と言うことになり,概ねこれを「ノヴゴロド派」を考えて良いのであろうか.

 古い本であり,外国人の方の日本語著書なので,訳語やカタカナ表記が若干こなれていないようにも思えるが,ある意味で,今回最も参考になっているブラッシュには,

 キエフ派に次いでノブゴロド派(ママ)が開花した.(中略)ノブゴロドはモンゴル族の侵略を受けなかったがため,この派の様式は後期のイコンに強い影響を与えた.特にビザンチン様式(ママ)よりも単純化され,端的で強い輪郭,色彩に富んでいる.(p.55)

とある.この後は,後述するフェオファン・グレック(ママ)の話になり,「ノヴゴロド派」に関する説明はほぼ「これだけ」だが,それでも大いに参考になった.

 ロシアのキリスト教化は,キエフ大公のウラジーミル1世が改宗した988年から始まるとされるので,それに従ってビザンティンからキエフ大公国領内にイコンも入って来たであろう.現在はウクライナ共和国の首都であるキエフからロシア諸地域に広まり,それぞれ発展したが,「タタールの軛」を免れたノヴゴロドなどで,伝統の継承と独自の発展が見られたと一応,理解しておくこととする.

 数十年前に勉強した高校世界史の記憶を掘り起こすと,ルーシと呼ばれるノルマン人(ヴァイキング)の一派がスウェーデンから来て,その中のリューリクという族長を中心としてスラヴ人を支配した「ノヴゴロド公国」と言うのが,ロシアの国家形成の最初で,その後,中心はビザンティンの影響の強いキエフ公国に移り,「タタールの軛」と言われるモンゴル人の支配があって,その中からモスクワを勢力を拡大し,「モスクワ大公国」が,後の「ロシア帝国」の基礎となる,と言うのが,大雑把な私の理解だ.

 正確な年代などは年表等で確認しなくては分からないが,おぼろげながらリューリクは9世紀の人で,チンギス・ハンの孫バトゥのロシア遠征は1240年前後,「タタールの軛」を脱するのが15世紀後半で,これは高校では教わらなかったが,モスクワ大公イワン4世(雷帝)が「ツァーリ」を称するのが1547年(日本語ウィキペディア「モスクワ大公国」)といったところが,上記の変遷を大まかに把握する目安となる.

 フランスで,ノルマン人の首長ロロがノルマンディー公に封ぜられるのが911年のことなので,「ノヴゴロド公国」の時代は,東西でノルマン人が進出して,それぞれの地域に基盤を、築いた時代と言える.

 ノルマンディー公国領からは,12世紀にシチリア,南イタリアを支配するアルタヴィッラ家が出,ロロの子孫からイングランドに君臨する「征服王」ウィリアム1世が出る.イングランド国王が現在に至るまで,何らかの形でウィリアムの血筋を引く者であるように,ロシアではロマノフ王朝以前の君主は,伝説もあろうが,リューリックの子孫と称される者たちであった.



 ここまで書いて,少し資料を確認すると,どうもリューリックの「ノヴゴロド公国」と言うのは,私の記憶違いで,知識の修正が必要なようだ.

 ホルムガルドと言う古名を改称した「新しい町」と言う意味のノヴゴロドと言う都市が既にあって,リューリックが,ラドガからそこに拠点を移したので,確かにノヴゴロドは,彼を中心としたルーシの国の一時的な首都であったようだが,ルーリックの後継者オレグがキエフに拠点を移したので,以後はノヴゴロドはキエフ大公国の影響下の一都市となる.

 こうして政治的地位は失ったが,キエフとバルト海を結ぶ交通の要衝としての有利さを背景に,経済的発展を遂げ,市民が招いた「公」を君主として,キエフから独立した地位を勝ち取った事実上の共和国が「ノヴゴロド公国」であるらしい.

 この都市はブラッシュも言っているように,「タタールの軛」を免れ,モンゴル人の略奪にも合わなかったので,キエフに代わって,ビザンティンの影響を受けたスラヴ文化を後世に伝える重要な役割を果たした.

 経済的発展と政治的独立を背景に栄えたノヴゴロド芸術の中心は,建築,フレスコ画,イコン(『ロシアのイコン』,p.62)であり,中でもイコンに関しては,ビザンティンの影響下からロシア独自の発展を遂げる.

写真:
ノヴゴロド派
「受胎告知」
1100-1130年
トレチャコフ美術館

金髪の大天使ガブリエル


 今回,トレチャコフで観た,上のノヴゴロド派のイコンは,「タタールの軛」以前の12世紀の作品なので,古いと言う意味ではこの上なく貴重な作例だが,むしろ「派」と称される特徴は,「タタールの軛」にロシアの他の殆んどの地域が喘いでいた時代にこそ,独自性を発揮したであろう.

 ロシア美術館で観たノヴゴロド派の14世紀と15世紀の作品はどちらも「龍を退治するゲオルギウス」なので,別の回で紹介,考察する.

 現在の大都市との位置関係で言うと,都市ノヴゴロドはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ線の,後者よりの西側に外れたところに位置している.

 ノヴゴロドが栄えた頃はサンクトペテルブルクはまだ存在せず,モスクワがロシアの中心となるのは「タタールの軛」を脱して行く過程でのことなので,当時のノヴゴロドは,バルト海とキエフを結び,さらに黒海に出て,コンスタンティノープルにつながる交易路「ヴァリャーギからギリシアへの道」の北の要衝であった.

 「新しい町」という意味からいって,他にも同名の都市があることは容易に考えられるが,特に有名なニジニー・ノヴゴロド(ソ連時代はゴーリキー)と区別するためもあって,「大ノヴゴロド」(ヴェリ―キー・ノヴゴロド)と称される.


プスコフ派
 都市プスコフは,ノヴゴロドから(広大なロシア全体から見ると)僅かに西南に位置し,現在の国境でいうと,まもなくエストニアに至ろうかという所にある.

 『ロシアのイコン』に拠れば,プスコフもまた「タタールの軛」を免れた都市であり,独自の伝統が継承されたが,隣接する諸国の攻撃による兵火を蒙り,13-14世紀の現存作品数は少ないと言うことである(p.53).

 特別展自体は見ていないが,ウェブ上の古書店で入手した図録,

 『国宝ロシア・イコンの世界 奇蹟の聖像画展』西武美術館,1978(以下,『聖像画展』)

には,

 プスコフ派の特徴は,特に顔を描く際の色は,光のコントラストのある対比,図線及び色彩面を考慮した上でのデフォルメォ(ママ)(歪曲)等,絵画及び構図手法によって伝達される内部的な内容の,普通と違った表現の伝達にある.そのほか,空気の様な感じと軽快さのニュアンスを加えるのに役立つ地元産の黄色い絵具で描かれた背景に,金色を僅かに使用するのも特徴である.
 ノヴゴロドのパレットが熱い感じの赤色に重点が置かれているのに比べ,プスコフの画家達は深い緑色を広く使用した.
 プスコフ派のイコンでは常に構図のダイナミックさが強調され,特に顔を描く場合,ロシアの他の派の描き方と異った自己の伝統が存在していた.顔はエネルギッシュな白色の細い線で褐色の最初の絵具層に描かれた.
(この図録にはページ番号の表示がない)

とある.編集,出版を急いでいたのだろうか,多少読みにくい翻訳だが,分からないと言う程ではない.この際は日本語で読める資料があることが有り難い.

 プスコフ派のイコンは,特にトレチャコフには複数の傑作が所蔵,展示されていうようだが,残念ながら,下の写真の作品以外に見た確信のあるものはない.

 『ロシアのイコン』の写真付き紹介を参照すると,プスコフの博物館にかなりの作品が所蔵,展示されているようだ.縁があるようなら,「神の母を描く福音史家ルカ」などは,是非観てみたい.

写真:
プスコフ派
「テッサロニケの聖デメトリオス」
15世紀後半
ロシア美術館


 この聖人「テッサロニケのデメトリオス」(ディミトリー・ソルンスキー)は,4世紀の殉教聖人で,テッサロニケに生まれ,軍人として活躍しながらディオクレティアヌス帝もしくはガレリウス帝の迫害で殉教したとされる.現存最古の文献上の言及は,7世紀の「聖デメトリオスの奇蹟」で,テッサロニケの聖デメトリオス大聖堂には,これに先行すると思われるモザイクも残っている.

 初伝に拠れば270年に生まれ,304年に亡くなっているので,亡くなった時点では当時としては若者ではないかも知れないが,若者の姿で描かれ,甲冑,楯,槍,もしくは元老院階級出身であることを表すタブリオン(※)がアトリビュートになる.  (※ ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイクでユスティニアヌス大帝がまとっている紫の外衣パルダメントゥムの前後に付けられた四角い装飾パネルで,このモザイクでは金地に赤い輪で囲まれた鳥のパターン刺繍が施されている.向かって左側の2人の侍者も白い外衣に紫のタブリオンが見える.千村典夫『西洋服装造形史 古代・中世』杉野学園出版局,1961,p.155など参照.他に仏語英語日本語のウェブページの論文等が写真付きで参考になった.)

 どちらかと言えば,図像が古いものほどタブリオン付きの長衣がこの聖人を示すアトリビュートであり,テッサロニケが外敵の攻撃にさらされた後代になるにつれて,この守護聖人に防衛の御利益を期待して,武装した姿になったようだ.

 聖デメトリオス聖堂に残る7世紀のモザイクも,2人の子供が侍し,聖人はタブリオンのついた長衣をまとい,武装はしていない.上で言及したより古いモザイク(聖人の両脇に司教と市政担当者)も同様だ.

 モザイクではなく,フレスコのように見えるが,やはり同聖堂にある9世紀の絵(文書を持つ聖母の向かって右隣でオランスの姿勢になっており,上部には光を放つキリスト)もタブリオンがアトリビュートになっていて,武装はしていない.

 ロシア美術館の作品は,見たところタブリオンはなく,甲冑の上に赤い外衣と,右手に十字架,左に剣と楯を持っている.まさに異教徒の攻撃からキリスト教徒を守護する戦士聖人として,「タタールの軛」に喘いでいたロシア人の心のよりどころとなっていたのであろう.

 この聖人に関しては,他にトレチャコフ美術館でキエフの教会にあったとされる12世紀のモザイクを見ている.鎧を着て右手に槍,左手に楯を持ち,腰に剣を帯びているが,ギリシア文字でデメトリオスと記されている.アルファが丸で囲まれているは,「聖」を意味するハギオスの省略記号であろう.

 主として東方正教会で崇敬されている聖人なので,少なくとも私はイタリアでは見た記憶がない.


モスクワ派
 『ロシアのイコン』で分類,紹介されている「モスクワのイコン」の諸作品を「モスクワ派」とまとめて良いのかどうかわからないが,『聖像画展』には以下のように説明がある.

 モスクワ派は形象の解釈でも,絵画材料による個性の強調面でも,繊細な色彩の取合せの創造面でも,洗練されたプロポーションでも,線の優雅さでもロストフ・スーズダリ派と緊密に結びついていることがわかる.14世紀の終りから15世紀の初めにかけて,モスクワで偉大な画家アンドレイ・ルブリョフ(1379?~1430年)が活躍した.

 個々のイコンは誰かが描いたのだから,当然どのイコンにも作者はいるわけだが,多くの場合作者名は伝わらず,その名が知られているのは,例外的と言うほどではないかも知れないけれども,作者の固有名詞が伝えられるためには,世に名人と称され,記録に残る大芸術家の出現を待たねばならないだろう.

アンドレイ・ルブリョフ(アンドリェーイ・ルブリョーフ)こそは,イコンに関心を持ち始めたら,誰もが記憶に留める芸術家であろう.


 同時代にイタリアで活躍したフラ・アンジェリコの生涯に関しては,ヴァザーリの伝記その他の史料があり,十全ではないが,その人生の輪郭を描くことができる.

 それに対して,ルブリョフに関しては,14世紀後半(1370年前後)に生まれたと推測されること,聖三位一体聖セルギウス大修道院(日本語ウィキペディアは「至聖三者聖セルギイ大修道院」で立項され,英語版より写真豊富で詳細)で修道士になっただろうと推測されること,1405年にモスクワのクレムリンにあるブラゴヴェシチェンスキー大聖堂で,フェオファン・グレク(フェオファーン・グレーク),プローホルなど当時高名だった画家たちとともに仕事をしたこと,1408年にウラジーミルウスペンスキー大聖堂(聖母の永眠もしくは被昇天を記念した聖堂で,日本語ウィキペディアでは「生神女就寝大聖堂(ウラジーミル)」で立項)でダニール・チョールヌィと共同してフレスコ画とイコンを描いたこと,1425年から27年にかけて,やはりダニールと共同で聖三位一体聖セルギウス大修道院で仕事をしたこと,ダニールの死後,アンドロニコフ修道院の救世主大聖堂でフレスコ画(現存しない)を描いたこと,1430年の1月29日(もしくは1428年の10月17日)にアンドロニコフ修道院で亡くなったこと,などが知られるのみで,どのような人生を送り,どのような思想の持ち主だったかは,現存する作品以外に知る手がかりもない.



 M.V.アルパートフ,本田純一/須山佐喜代/牧野美紀(訳)『イコンの画家 アンドレーイ・ルブリョーフ』美術出版社,1981(以下,アルパートフ)

を読み,アンドレイ・タルコフスキーの有名な映画「アンドレイ・ルブリョフ」(日本語ウィキペディア「アンドレイ・ルブリョフ(映画)」の粗筋が簡潔で分かり易い)を見た.

 映画は上映時間3時間の大作なので,年末年始の休みになってようやく見ることできた.名作と言われることに全て納得したわけではないし,特にルブリョフの作品を理解する助けになるとは思わないが,途中で放棄する気にはならず,ともかく見通したし,巨匠の先達フェオファンをアルテル・エゴのように描き,芸術と宗教と現実の葛藤を活写した点は共感できた(ような気がする).

 落合東朗(はるろう)『タルコフスキーとルブリョフ』論創社,1994

も参考になった.あくまでもタルコフスキーの映画に関する本だが,イコンへの愛も感じさせる.私が生まれる前に「早稲田大学第一文学部」をご卒業になった方だが,母校であり,勤務先である教育機関から,すぐれたロシア研究者が輩出し続けていることに,関係者への尊敬を新たにする.

 ルブリョフに関しては,可能なら,今後もフォローできるようでありたい.師匠ではないが芸術上の先達であるフェオファンとの,伝記的には全く再現できない葛藤を作品から追っていくことにも心魅かれる.

 フェオファンについては,古代語の発音ではテオパネースになるであろうが,「テ」の子音部分はは大文字ならΘ,小文字ではθなので,現代語では英語のthと同じく舌を歯で挟んで息を出す音で,「パ」の子音部分はΦ,φになるので,英語phと同じくf音になる.現代語からの類推では正確ではないだろうが,当時の発音とし,どっちみち日本語表記は正確ではないがセオファニスに近い音だったろう.

 中世のモスクワ周辺のロシア人がどのような発音体系の言語を話していたか想像もつかないが,それを彼らはフェオファン(フェオファーン)に近い音と聞き,このギリシアから来た巨匠を「ギリシアの」という修飾語を伏してフェオファン・グレク(グレーク)と呼んだらしい.

写真:
アンドレイ・ルブリョフ
「旧約の聖三位一体」
1422-27年
トレチャコフ美術館


 ルブリョフの「旧約の三位一体」は,『創世記』にある,アブラハムとサラ夫妻が3人の天使を供応した記述に典拠を持つ図像で,古くはラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイクが良く知られている.

 イコンでも,アブラハムとサラが給仕している図像があるが,ここからアブラハムとサラを除いた天使のみの絵はルブリョフの独創で,それを正教会が百年後に「三位一体」の表現として公認したとされる.

 しかし,『ロシアのイコン』を見ると,1399年頃の作品とされる,モスクワのクレムリンのアルハンゲルスキー大聖堂博物館所蔵の「大天使ミカエル」の周囲を囲むこま絵のうち,向かって左上のものが,やはり天使3人のみで,アブラハムとサラは描かれていないように見える.

 あるいは,トレチャコフ美術館HPの解説にあるような,テーブルに置かれた聖餐杯とその中のキリストの犠牲を象徴するであろう仔牛の頭とか,天使たちの祝福のポーズとかに,ルブリョフの神学的独創性が読み取れ,単にアブラハムとサラがいない,というだけのことではないのだろう.

写真:
シモン・ウシャコフ
「聖三位一体」
1671年
ロシア美術館


 このシモン・ウシャコフ(ウシャコーフ)の「旧約の三位一体」は,約250年後の作品で,ルブリョフの図像を引き継いでいるように見えるが,この絵に見られるテーブルの上の賑やかさとか,足元の銀の皿に乗った水差しとか,天使が座っている玉座のような椅子,豪華な掛け布,背景にあるルネサンス的な「理想都市」などには,固有の意味があるのだろうか.

 そうであれば,イコンが,単に伝統を踏襲し,同じ図柄の絵を延々と描き続けると言うのは,全くの先入観に過ぎず,カトリックの宗教画よりは保守性が強いとは言え,伝統と革新の葛藤によって新たな魅力が生み出されていく,通常の絵画と似たような展開の可能性を内包している芸術形式と言えることになる.



 探せば,日本語の参考書もあるもので,ここまで書いて,一応確認するつもりで見た,

 『NHK日曜美術館名画への旅4 天国へのまなざし 中世III』講談社,1992

に,

 富田佐知子「聖三位一体 天使たちの聖なる会話」(同書,pp.104-109)(以下,富田)

という紹介的論考があり,ルブリョフの「旧約の三位一体」,ラヴェンナの「アブラハムの饗応」,ウシャコフの「旧約の三位一体」の写真を示して,特にルブリョフのイコンの持つ意味を解き明かしている.

 イタリアで観た「三位一体」の多くは,磔刑のキリストの後ろに父なる神がいて,間に聖霊を象徴する鳩がいるものだったが,イコンでは,このタイプのものを見ていない.しかし,ノヴゴロド派の15世紀のイコンとして「三位一体と聖人たち」(探すと,便利なウェブページがあるもので,「ロシアのイコン」と言う写真が立派な英語ページがあった)がトレチャコフ美術館に所蔵されていることを『ロシアのイコン』が紹介しており,富田も写真を掲載して紹介している.

 このイコンは残念ながら,今回は観ていないが,玉座に座った老人のイエス(『ロシアのイコン』に拠れば,正教では「神」を直接描くことは禁じられているとのことだ)の膝に幼児にイエスが座り,後者は世界を意味するであろう円盤を持ち,そこに聖霊を意味する鳩が翼を広げている.



 ウシャコフだと新しすぎて,かえって魅力に乏しいが,ルブリョフの次の世代のディオニーシーだと,15世紀の作品もあり,イコンが持つであろう古格への期待を裏切らない.

 ローマ・カトリックの宗教画には山ほどある,イタリアではマドンナ・コル・バンビーノ,スペインではビルヘン・コン・エル・ニーニョ,フランスではヴィエルジュ・アヴェック・ランファンと称される「聖母子」の図像は,イコンにもたくさんある.幾つかのタイプに分類されるようで,「聖母子」図像の伝統を学ぶ際に大いに参考になる.

ディオニーシー作
「オディギトリアの聖母」 1482年
トレチャコフ美術館 
    ディオニーシー作
「オディギトリアの聖母」1502-1503年
ロシア美術館


 ギリシア語で「道」と言う名詞はホドス,「導く」と言う動詞はアゴー(不定法はアゲイン)と言うが,この合成語で,「道案内人」をホデーゴスと言う.さらにこの別形がホデーゲートールで,これらは男性の場合だが,道案内の女性はホデーゲートリアーになる.

 古典語で長音の「エー」を表す文字Η,ηは現代語では「イ」と言う音になる.したがって「ホディギトリア型」と言う時の,ホディギトリアは「女性道案内人,指導者」を意味する古典語のホデーゲートリアーの現代語風発音ということになる.ただ,現代語では語頭の有気音は無くなるので,「オディギトリア」と言う方が現代語風に近い.

 聖母子のタイプを分かり易く分類しているブラッシュでは「ホディギトリア型」と表記していて,ウェブ上でもこれでかなりヒットするが,参考書によっては「オディギトリア」と表記しているものもあり(鏑木など),一応ここでは「オディギトリア型」と表記する.

 「オディギトリア型」は,右手で嬰児イエスを抱いたマリアが左で彼を指し示し,イエスは右手で祝福し,左手に巻物を持つタイプの「聖母子」である.「教会またはキリスト教団の指導者であると言う意味」(ブラッシュ)と説明される.

 聖母がイエスの将来に受難に同情して頬ずりをして慈しんでいるエレウサ型(ブラッシュは「エレウザ型」としている)は,古典語で「憐れむ」を意味するエレエオー(母音融合してエレオー)の現在能動分詞の女性・単数・主格エレウーサに由来する.カトリックのミサ曲冒頭の「キリエ・エレイソン」(主よ,憐れみたまえ)(古典語の発音ではキューリエ・エレエーソン)のエレイソンはこの動詞のアオリストと言う時制の命令形である.

 トレチャコフ美術館の所蔵で,礼拝堂に置かれていて,拝観はできたが撮影はできなかったビザンティンから来たとされるロシア現存最古のイコン「ウラジーミルの聖母」は,このタイプである.フェオファンもルブリョフもこのタイプの聖母子を描いている.

 ブラッシュでは「グリコフィルサ型」と表記されるタイプの聖母子もあるが,この語源は「甘い」(グリュキュス)と「愛する」(ピレオー/フィレオ―)の現在・能動分詞・女性・単数・主格の組合せで,「愛撫する聖母」の意であろうか.

 これは,今のところ他の参考書には見られず,ブラッシュが図版で挙げている「14世紀 イタリア・ビザンチン様式 ペルジア美術館」(ママ)の「グリコフィルサ型聖母子」の写真は,見覚えがあるので調べると,シエナの国立絵画館にあるシモーネ・マルティーニ作「聖母子」のようだ.これを紹介した伊語版ウィキペディアに拠れば,シモーネの初期の作品とされる.

 この絵はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも掲載されており,それぞれこの絵の独創性は論じているが,肝心の,どのようなタイプの「聖母子」であるかの言及はない.

 英語版ウィキペディアで「永遠の助けの聖母」と分類されているタイプのものが,ブラッシュの言うグリコフィルサ型に近いように思える.イエスは聖母の顔と反対側を向き,母子は右手を握り合い,聖母子の両側に天使がいる.ブラッシュはエレウサ型との違いは,聖母に悲嘆の表情がないと言っているが,彼が例に挙げているシモーネの聖母は悲しげな顔に見える.

 「ガラクトトロプサ型」は,「乳」を意味するガラ(所有格にあたる属格がガラクトス)と,「育てる」を意味するトレポー(トレフォー)の第2アオリストと言う時制の能動分詞の女性・単数・主格から構成されていて「乳で育てる聖母」の意だ.仏語版ウィキペディアはこの語形で立項しているが,英語版はナースィング・マドンナ(マドンナ・ラクタンスと言うラテン語形も紹介されている)で立項している.イタリアではマドンナ・デル・ラッテで知られている.

 何を参考にしたか,もう忘れてしまったが,私はある時からこれを「授乳の聖母子」と呼んでいる.今回はこのタイプのイコンを見ていないし,ブラッシュもロシア・イコンの写真を挙げていない.

 「キリオティッサ型」として「救世主の母」と訳し,「立姿のマリアが胸にイエスを圧抱している図」としているだけで,作例の写真はない.Kyriotissaでグーグル画像検索をすると,立姿よりも圧倒的に「玉座の聖母子」(マドンナ・イン・トローノ)と思われる絵がヒットする.

 ブラッシュの説明では,その「玉座の聖母子」にあたるのが,「ニコポイア型」の聖母子で,「勝利をもたらせる者」(ママ)の意で,「マリアは幼いイエスを膝の上に抱き,クッションのある玉座に腰かけている.マリアの両側には聖母を祈る(ママ)天使二人が描かれている」と説明されている.

 伊語版ウィキペディアにこの用語で立項され,イスタンブール(コンスタンティノープル)のアヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂に残ったモザイクが作例とされている.そこでは,「ニコポイアの神の母(テオトコス)は,キリオティッサ(kiriotissa)とトスカーナの荘厳の聖母マドンナ・インマエスタに似ている」と言う説明がなされている.今回,見ることができたイコンでこれに相当するものが思い当たらない.


キエフ芸術の影響
 「立姿の聖母」と言うと,オランス(「祈っている」と言うラテン語の現在分詞)の姿の聖母を想い起こすし,これは随分たくさんの作例があると思ったが,グーグルの画像検索で見る限りそうでもないようだ.

 あらためてイタリア語形のorante madonnaで検索し,ヒットした画像を見ると,モザイクが多いように思えるが,その中には,フィレンツェのサン・マルコ聖堂にあったモザイクがあった.近くに住んでいたので,何度も観る機会があったが,そう言えばオランスの姿で,ビザンティン風の紫の長衣を着て王冠を被っていた.伊語版ウィキペディアには,ヴァティカンの旧サン・ピエトロ大聖堂にあったと説明されているが,いつの時代のものかはわからない.

 シチリアのチェファルー大聖堂,ラヴェンナ司教区博物館,ヴェネツィアのムラーノ島大聖堂などのモザイクなどのイタリアの作例の他には,キエフ聖ソフィア大聖堂にもモザイクがあるようだが,こうして見ると,フィレンツェのサン・マルコで,それと知らずに随分貴重な作品を観ていたことになる.

写真:
スーズダリ派
(ブラッシュはヤロスラヴリ派)
「偉大なるパナギアの聖母」
12世紀末-13世紀初頭
トレチャコフ美術館


 オランスの立姿の聖母の胸にメダイオンがあり,そこに嬰児イエスがいるタイプの図像をプラティテラ型(ブラッシュ),パナギア型(『ロシアのイコン』),「しるしの聖母」型(英語版ウィキペディア)と言うようだ.

 プラティテラは,古典ギリシア語の発音ではプラテュテラーで,「広い」(プラテュス)の比較級の女性・単数・主格で,後ろに比較の属格「天よりも」(トーン・ウーラノーン)が付き,世界の救世主を身籠る聖母は「天よりも広い」と言う意味であろう.

 パナギア(パナギアー)は「全て」と「聖なる」の組合せによる形容詞で,やはり女性・単数・主格なので,「全てに勝って聖なる(女性)」の意であろうか.

 「しるしの聖母」と言う時の「しるし」は,『イザヤ書』7章17節の「それゆえ,わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる./見よ,おとめが身ごもって,男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(新共同訳)を踏まえている.

 さらに「しるしの聖母」の図像は,『ルカ伝』1章にある「受胎告知」の場面で,受胎を告知する天使に対して,マリアが「わたしは主のはしためです.お言葉どおり,この身に成りますように」(1章38節,新共同訳)と言っている瞬間とされる.



 ヤロスラヴリは,モスクワの北北東約260キロにあるヴォルガ川沿岸の町で,『地球の歩き方』には,ウラジーミル,スーズダリコストロマウーグリチロストフ・ヴェリ―キーとともに,「黄金の環」と称される,環状に連なる古都群の中に入れられている.

 『聖像画展』に次のような説明があった.

 ロストフ,スーズダリ派は大都市であるウラジーミル,ロストフ,スーズダリ及びそれらと隣接した地方の芸術を連合するものである.
 その芸術はタタール・モンゴルの悲劇的な襲来と関連した2つの時期にはっきりと分離される.この時期までロストフ-スーズダリ地方の芸術は,古代キエフ芸術と一つの軌道内で発展し,12世紀には全般的な繁栄をなしとげた.
 そのあと14,15世紀にはロストフ-スーズダリ絵画は,それ独特の特徴,即ち形象の特別な詩的,叙情的性格,図像の繊細さ,色調の優雅さ及び軽やかさ,淡青,緑,黄色の優勢等を有するようになる.聖ボリース及び聖グレープの画像,聖ゲオルギウスの龍退治,聖母の慈愛(赤子の愛撫)など,特に好まれる題材の範囲が確定した.絵画のロストフ-スーズダリ派から,アンドレイ・ルブリョフ及びディオニーシのような天才的な画家を出したモスクワ芸術が分離した.


 上掲の「偉大なるパナギアの聖母」が,スーズダリ派であるにせよ,ヤロスラブリ派であるにせよ(トレチャコフHPは特に断定はしていないが,アメリカ・アマゾンに入手した1994年発行の古い英訳案内書は,はっきりヤロスラヴリで1220年代に描かれたとしている),キエフ芸術の影響下に発展した後に,「タタールの軛」で伝統が寸断されたことにより,今度は独自の発展を模索し,やがてモスクワへロシア文化の中心が移って行く時代を支える礎となった流派の,「タタールの軛」以前のキエフ芸術最後の残照と言って良いだろうか.

 現在はロシア連邦とは別の主権国家ウクライナ共和国の首都であるキエフは,ずっとロシアの政治と文化の中心であったが,1240年にモンゴル軍の襲撃で陥落,キエフ大公国は滅亡した.

 大公位は支配下にあったウラジーミル・スーズダリ公国に引き継がれ,モンゴルや国内諸公国の葛藤の中から,新興のモスクワ公国が頭角を現し,大公位を得て,諸公国を併合し,14世紀にはモスクワ大公国がロシアの中心的存在となる.そして1453年のビザンティン帝国滅亡後,1463年に初めてツァーリ(ローマ皇帝)を自称し,1480年に「タタールの軛」を完全に脱した.

 正直,ロシアの歴史も他国同様,複雑過ぎて,にわかに理解するには至らないが(日本語ウィキペディアの一連のロシア史に関する項目は詳細で参考になる),ノヴゴロド,キエフ,ウラジーミルとその周辺都市,モスクワの興亡が,イコンの歴史や諸流派の発展と衰退にも連動していることが,おぼろげながら分かる.

 これは,全くの個人的感想に過ぎないが,「偉大なるパナギアの聖母」を観て,ロシア的という以上に,ビザンティンの影響の深さを想起させられるのは,「タタールの軛」以前の北東ロシアの古都群の中に,コンスタンティノープルにより近い,キエフ芸術の影響が濃いからであろう.

写真:
フェオファン・グレク工房
「キリストの変容」
14世紀末
トレチャコフ美術館


 そのコンスタンティノープルでも活躍したとされるフェオファン・グレクは,ロシアが「タタールの軛」を脱して行こうとする時代に,滅び行くビザンティンから新風を齎し,ノヴゴロドとモスクワに足跡を残して,次代のモスクワ派の芸術家たちに大きな影響を与えた.

 今回,フェオファンの作品は,工房作品とする人も,巨匠本人の作品とする人もいる「キリストの変容」(トレチャコフHPは「フェオファンと彼の工房」)だけだが,キリストが光に包まれて変容する姿は,全くの偶然に過ぎないが,ロシアの芸術が大きく変わっていく時代にふさわしい作品と言えるのではないだろうか.

 ビザンティン帝国旧領には,フェオファンの作品は全く現存しないそうだ.

 人生で初めて,ロシアのイコンについて学び,考えてみたが,聳え立つ巨大な岩壁を見上げる思いがする.今後,これに興味を持ち続けるかどうかはわからないが,少しずつ勉強して,誤解や思い込みを正して行きたい.



 京都大学西洋古典研究会の12月例会で,OBとして発表をするようにと恩師の慫慂があった.

 給与生活者である以上は,私立大学の教員として校務の重要性に異議はなく,学生が聴いてくれる授業がもちろん最優先であり,時期的には,きつかった.

 しかし,自分も研究者を志したからには,「学問」,「研究」に何とかしがみついて,それなりに成果を上げて行きたい.きちんと,専門の研究者たちの批判も受けながら,研究活動も続行するようにと言う恩師の親心が有り難くもあり,自分としても,やはり何かすべきであろうと思い続けているので,「セネカ『オエディプス』の独創性 ピエタスをめぐって」と言う発表をしに,京都に行って来た.

 その準備もあり,しばらく「フィレンツェだより」番外編の更新ができなかった.

 セネカと言えば,次の旅として,フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館に所蔵されている,セネカの悲劇の最良の写本(通称「エトルスクス」もしくはE写本)が制作され,メディチ家のコレクションに入るずっと以前にはそこにあったとされるフェッラーラ近郊のポンポーザのベネディクト会修道院を拝観できる見込みがたった.

 実現するかどうかは,まだ不安な要因もあるが,その付属教会にあるゴシックのフレスコ画も魅力的だが,何よりも,ポンポーザに行けることが嬉しい.是非,実現したい.

 「フィレンツェだより」番外編の「ロシアの旅」編はついに越年してしまったが,自分がこの目で見たものを,帰国後,新たに勉強しながら,その感想を整理して報告するというこの方針は,自分の専門はしっかり深めつつ,学生の多様な興味と向き合って,お互いに新たなことを学んでいくという,現在所属している文化構想学部の複合文化論系と言うコースの精神に合致すると,少なくとも私は思っているので,今後も細々と続けて行きたい.

 次回は,イコノスタシスについて学んだことをまとめてみる.






ルブリョフ作 「使徒パウロ」,「使徒ペテロ」
作品が大きく,離れて撮影
ロシア美術館