フィレンツェだより番外篇
2013年11月28日



 




ヴァスネツォフ作 「分かれ道に至った騎士」 1878年
ロシアの口承叙事詩(ブイリーナ)の英雄イリヤー
ロシア美術館


§ロシアの旅 - その13 ロシア絵画(その4 トレチャコフのコレクション)

ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフの絵を,ロシア美術館,トレチャコフ美術館で数点見たが,殆んどは「歴史画」という分野に属する作品である.


 「歴史画」と言った場合,通常,想起されるのは,ギリシア,ローマの歴史を題材にしたものだが,自国の歴史,同時代の事件を扱ったものも当然あり得る.ヨーロッパの新古典主義絵画でも,ダヴィッドの作品にはナポレオンを主人公としたものも多い.

 しかし,さすがに,ロシアの歴史や伝説を扱ったヴァスネツォフの作品を見て,即座に題材を言い当て,深く鑑賞するなどと言う芸当は,考えることもできない.


ロシアの中世叙事詩の世界
 植野修司『ロシヤ古代叙事詩 イーゴリ公遠征物語とその周辺』有信堂,1955(以下,植野)

という古色蒼然たる本が,どうして研究室においてあったのか思い出せない.ヨーロッパ諸語に堪能だった,亡くなった同僚の形見だと思っていたが,鉛筆書きの「350(円)」の値段の字が,明らかに早稲田近辺の古本屋が最近記したものなので,自分で買ったのかも知れない.

 この本の第3章は「イーゴリ遠征物語の基盤とその周辺」と題されていて,その3と番号を付された小項目が「ブイリーナ」(pp.71-150)となっており,そこに全ロシア的な英雄として,イリヤ・ムーロメッツ,ドーブルイニヤ・ニキーチッチ,アリョーシャ・ポポーヴィチの名前が挙げられ,さらにイリヤの物語の詩句が原文とともに紹介されている.

 原文は読めないが,解説と訳文を参照すると,イリヤー(以下,中村喜和編著『ロシア英雄叙事詩 ブィリーナ』(平凡社,1992)の表記に従って,この英雄に関しては「イリヤー」とするが,別の本からの引用の時にはこの限りではない)が遠征に出て野を行軍しているとき,三つ辻があった,そこには,次のようにな文句が石に刻まれていた.

 一つの道を行けば死せん.
 今一つの道を行けば嫁を得るべし.
 第三の道は宝にありつくべし.(植野,p.86)


 トップに掲げた絵は,この話を題材にするものと思われる.しかし,探せば別の説明もある.

 英語で「russian epic」で検索すると,ロシア文学一般のページから,ブイリーナを説明したページに辿り着き,「ロシア 英雄叙事詩」で検索すると日本語版ウィキペディア「ブイリーナ」がヒットする.それぞれのページにあるロシア語の綴りで検索するとロシア語版ウィキペディアの該当ページが見られる.

 ロシア語のページは,私も含め多くの人は読めないであろうが,掲載写真の数を比べても,日本語版ウィキペディアの充実度が相当高いように思われる.参考文献に挙げてある中村喜和と言う研究者の数冊の本と,ウェブ上にある研究論文の翻訳が,おそらくこの水準を主として支えているのであろうと思う.もちろん,執筆者も相当に勉強されたのであろう.

 日本語版ウィキペディア「ブイリーナ」には,ヴァスネツォフのこの絵が取り上げられ,「分かれ道に至った騎士」と題されており,「騎士(イリヤー)の前のメンヒルには,

「左に行けば馬を失い、右に行けば首を失う」

と文字が彫られている」と説明されている.植野の説明とはかなり違うが,テクストや伝承が別なのかも知れない(上記の中村喜和『ロシア英雄叙事詩』には植野とほぼ同趣旨の翻訳があった.同書,pp.125-126).

 三叉路が人生の分かれ道になるという設定は,ギリシア文学では『オイディプス王』が有名だが,これをパゾリーニが映画化した「オイディプス王」(イタリア語ではエディポ・レ,邦題は「アポロンの地獄」)で,三叉路にあった石碑に地名がイタリア語が刻まれていたのを思い出す.



 「メンヒル」については,日本語版ウィキペディア「メンヒル」にリンクされているが,英語版が詳しい.先史時代の巨大石柱で,私は南イタリアのプーリア州で実物を見ているが,詳細な英語版ウィキペディアでも,セルビアや北欧のメンヒルは説明されているが,ロシアとイタリアへの言及はない(ただし,伊語版ウィキペディアにはイタリアのメンヒルに関して詳細情報がある).

 これがメンヒルだとすれば,先史時代のものだから,刻まれている文字は後代のものか,神秘的な意味を持つ超歴史的なものと言う設定だろうか.

 確かに,何語かわからない(キリル文字に見えるので,ロシア語かウクライナ語などを学んだ人はあるいは読めるかも知れない)が,ヴァスネツォフの絵には石に文字が刻まれていて,アナクロニズムではあろうが,神秘的な雰囲気が醸し出されている.

 キリル文字は,その名のもととなったキュリロスと,彼の兄弟メトディオスがスラヴ人にキリスト教を布教するために,原型のグラゴル文字を作ったのが9世紀である.

 英雄イリヤーの時代の君侯と思われる「太陽公ウラディーミル」は,キエフ大公国をキリスト教化した,ウラディーミル1世か,その曾孫のウラディーミル2世と考えられているそうなので,前者とすれば10世紀半ばから11世紀初頭,後者であればその大公在位は12世紀初頭になるので,少し年代が遡る.その時代には,キリル文字もしくはその原形は存在していて,必ずしもアナクロニズムとは言えないだろう.

 西欧では中世だが,日本でも12世紀に終わる平安時代まで「古代」とされることもあるので,その時代のロシアが「古代」と意識されてもそれほど不当なことではないだろう.

 ただ,文学作品もしくはその原型ができたのはもう少し後であろうから,岩波文庫の『イーゴリ遠征物語』(木村彰一訳)で,訳者は同作品の成立を12世紀とし,「中世文学(十一 - 十七世紀)」と解説しているので,紀元後5世紀くらいまでの「古代」文学を勉強している私としては,一応,ロシアの古い文学は「中世」の文学と考えることにする.



 ヴァスネツォフがロシアの中世文学,ないし中世の歴史,伝説に取材した絵は,ロシア美術館で「スキュティア人とスラヴ人の戦い」,トレチャコフ美術館で「イーゴリ・スヴャストラヴィチとポーロヴェツの戦い」,「英雄たち」を見ている.

 トレチャコフで観た最初の作品が,叙事詩『イーゴリ遠征物語』(イーゴリ公戦記)に取材したものであり,2つ目の作品が,上述したイリヤーを始めとする3人の英雄を描いているので,やはりブイリーナに取材した作品であることがわかる.

 上掲の木村彰一の訳書の注と解説に拠れば,「ポーロヴェツ」とは東方の遊牧民を指し,作品中の「ポーロヴェツの野」とはドネープル(ドニエプル)川とヴァルガ(ボルガ)川の間のステップを漠然と意味するが,ドネープル川の支流スーラ川を境として,西が「ロシヤの国」,東が「ポーロヴェツの地」とされる.中世初期のロシア民族が,周辺の異民族との抗争を通じて,勢力を拡大して行く過程で生まれた民族の記憶とでも言うべきであろうか.

 いずれにしても,若い世代もそうなのかどうかはわからないが,ロシアに民族主義的考えが勃興した19世紀に,こうした「民族の記憶」が発掘され,ボロディンが「イーゴリ公」,リムスキー=コルサコフがブイリーナに取材して「サトコ」というオペラを作曲し,ヴァスネツォフたちが歴史画を描いた,その一端を今回は垣間見たことになろう.

 ヴァスネツォフは,モスクワの700キロほど東北にあるキーロフと言う都市を中心としたキーロフ州の同名の大河にちなむヴャトカ県ロブィヤルという村で1848年に生まれた.父は司祭,祖父はイコン画家で,8歳下弟アポリナリーも画家で,トレチャコフ美術館に作品が収録されている.

 ヴィクトル・ヴァスネツォフは,イコンを売る店の店番をしながら,県都ヴャトカの学校で学び,ポーランド人の画家アンドリオリが,同市のアレクサンデル・ネフスキー大聖堂にフレスコ画を描いたのを手伝った.やがてサンクトペテルブルクに出て,帝国芸術院(美術アカデミー)に学び,クラムスコイやレーピンと親しくなり,レーピンの誘いで,パリに行き,アカデミー派や印象派の影響を受けた.

 モスクワに定住して,ブイリーナを題材にした作品を描いた後,キエフのウラディーミル(ヴォロディームィル)大聖堂のフレスコ画を制作し,この時期に「英雄たち」も描かれた.

 1890年以降は,リムスキー=コルサコフのオペラの舞台美術や衣装デザイン,ロシアン・リヴァイヴァル建築による建物の設計が主な仕事となり,設計した建造物の中には,現在のトレチャコフ美術館本館もある.

 革命後は赤軍の軍服のデザインなども手掛けたようだが,それ以上の情報はない.ロシア革命から9年後の1926年にモスクワで亡くなった.


戦争に取材したシリーズ
 ワシリー・ワシリエヴィチ・ヴェレシチャーギンの「戦勝の祝い」(次の写真)も,自分の生きた時代に取材した歴史画と言えるであろう.

 やがては遠くカスピ海に注ぐヴァルガ(ボルガ)川は,源流からしばらくは東に流れ,遠く離れたニジニーノヴゴロド(旧ゴーリキー市)の所で南に向きを変えるが,東に流れる途中,ルイビンスク湖南端の傍を通る.その大きな湖の北端にある,モスクワからは真北,サンクトペテルブルクからは真東に位置するチェレポヴェツで,1842年にヴェレシチャーギンは生まれた.

 サンクトペテルブルクの海軍士官学校に学び,同地の帝国芸術院(美術アカデミー)に入学して,英語版ウィキペディアに拠れば,「求婚者たちを殺すオデュッセウス」という絵で銀メダルを得た(日本語版ウィキペディアも「ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン」も詳細で有益だが,そこには,「優秀な成績だったが授業方法を退屈に思い3年で退学」とある).さらにパリの芸術学校(エコール・デ・ボザール)に学び,アカデミック・アートの画家ジャン=レオン・ジェロームに師事した.

 1867年にコンスタンティン・ピョートロヴィチ・フォン・カウフマンのトルキスタン遠征に従軍し,サマルカンド攻撃にも居合わせた.トルキスタンで見た光景を描きとめ,完成させた作品を出展して展覧会を開き,1874年にサンクトペテルブルクで開催された展覧会を,パーヴェル・トレチャコフがモスクワから観に行った.

 ベズルコーワ『ロシアの美術』に拠れば,ここに展示された「トルキスタン・シリーズ」は大変評判になり,パーヴェルが入手したいと思ったのはもちろん,皇帝アレクサンドル2世がこれを高く評価したらしい.

 この作品群をめぐって,一部の人から,愛国心に欠ける作品であるなどとして,非難,中傷が起こり,パーヴェルがこの作品群を入手するまでに,随分危うい経緯があったようだ.感情が激した画家が破却した数点以外は,パーヴェルが入手し,現在トレチャコフ美術館に飾られている.

写真:
ヴェレシチャーギン
「戦勝の祝い」
1872年
トレチャコフ美術館


 「戦勝の祝い」は,題名からすると,トルキスタンで勝利したロシア人がそれを祝っているのかと思ってしまうが,サマルカンドのレギスタン広場にあるイスラム教徒学院「シュル・ドール・マドラサ」の前に集っているのは,明らか中央アジアのイスラム教徒の人々であり,アーチの上部両側に虎の絵が描かれた美しい青い建造物の前に,数本の長い杭が並んでいて,よく見ると,その上に曝されているのは斬首されたロシア人兵士の頭部である.

 であれば,確かに,ロシア人の国粋主義者から非難が起こったとしても無理はないが,パーヴェル・トレチャコフも,ロシア皇帝も彼の画力を高く評価した.

 「トルキスタン・シリーズ」に入っていたと思われる他の作品としては,トルコ人のアルメニア人虐殺を意味しているらしい,頭蓋骨で築かれた山にカラスが群がっている光景を描いた「戦争の極致」(と一応,訳したが,美術館HP,英語版ウィキペディアなどは,何かを神として祀ることを意味するapotheosisと言う語を用いており,日本語版ウィキペディアは「戦争の終末」,ペズルコーワの訳者は「戦争礼賛」としている)と,これから城内に攻め入ろうとする兵士たちを描いた「城壁のもとでの突入待機」,矢で一杯の箙と弓を腰にして槍を持った二人のイスラム兵士が扉を守っている「ティムールの扉」の3点を,今回,トレチャコフ美術館で観ることができた.

 14世紀の中央アジアに覇を唱えた梟雄ティムールはサマルカンドを首都としていたので,最後の作品は一種の歴史画であろうか.内容が充実していて,解説も豊富なトレチャコフ美術館HPだが,ヴェレシチャーギンの作品は5点のみの紹介で,「ティムールの扉」は写真と題名は紹介されているが,解説はない.

 1877年に,彼は露土戦争に従軍し,「シプカ峠の戦い」を目撃し,死屍累々の状態になった雪の峠を描いている.この絵も,トレチャコフ美術館で観ることができた.

 彼の絵から,反戦思想を読み取ることができるかも知れないが,士官学校出身でロシア軍と常に密接な関係を保っていた彼の絵は,反戦と言うよりは,厭戦のように思える.彼の兄弟は露土戦争で戦死し,彼自身も1904年,日露戦争に従軍し,司令長官に招かれて乗っていた戦艦ペトロパヴロフスクが日本軍が仕掛けた機雷に触れて沈没し,司令長官のマカロフとともに亡くなった.


抒情的な風景を描いた佳品
 アレクセイ・コンドラチェヴィチ・サヴラーソフは,「風景画家」に分類される芸術家であろうが,英語版ウィキペディアに拠れば「抒情的風景画」(トレチャコフ美術館HPでもこの用語は使われている)を確立したとされる.

 彼は1830年モスクワで商人の子として生まれ,モスクワ絵画・彫刻・芸術学校に学んだ.彼はパーヴェル・トレチャコフ,ヴァシリー・ペローフと親交を結び,1860年代に彼はイングランドとスイスに行き,ジョン・コンスタブルの影響を受けた.

 1870年に移動派に加盟し,翌年サンクトペテルブルクで開かれた第1回移動展覧会に「みやま烏の飛来」(ペズルコーワの訳書に従ったが,トレチャコフHPでは「ミヤマガラスが帰って来た」となっているので,夕方の風景だろうか.教会の鐘楼の左隣の煙突から白い煙が上がっている)が出品され,パーヴェル・トレチャコフが深い感銘を受けたとされる(ペズルコーワ,p.42).

写真:
サヴラーソフ
「みやま烏の飛来」
1871年
トレチャコフ美術館


 1871年に娘を喪ったことから,彼の不幸は始まり,アルコール中毒となり,収容施設を転々とする貧困者として彼は,1897年に亡くなった.葬儀に参列したのは,モスクワ絵画・彫刻・建築学校の門衛とパーヴェル・トレチャコフだけだったとされている(英語版ウィキペディア).

 まだ,不幸ではなく,アカデミズムを離れ,これから未来の芸術を仲間とともに築いて行こうとしていた頃の作品であるにも関わらず,「みやま烏の飛来」は暗い絵のように思える.サヴラーソフが生来持っていたかも知れない心象風景がこの絵に現れていると,彼の不幸な人生を知ってからは想像することもできるが,すばらしい作品だと,少なくとも私には思える.


光と色彩の美しい佳品
 リムスキー=コルサコフの肖像画を描いたセローフは,1860年にサンクトペテルブルクで作曲家のアレクサンドル・ニコライェヴィチ・セローフの子として生まれた.母のヴァレンティナ・ゼミョーノヴァ・セローヴァ(旧姓ベルクマン)も作曲家であったようだ.

 レーピンが,政権を握りながら,異母弟ピョートル1世によって失脚させられたソフィア・アレクセイイェヴナの絵(これは,肖像画ではなく「歴史画」であろう)を制作する際,ヴァレンティナがモデルをつとめたとのことで,その準備のためか,レーピンが描いたヴァレンティナ自身の肖像画も残っているらしいが,個人蔵とのことで,ソフィアの絵はトレチャコフで観たが,ヴァレンティナの肖像画は観ていない.

写真:
セローフ作
「桃の実を持つ少女」
トレチャコフ美術館


 「桃の実を持つ少女」は,同じく二十代の作品である「陽光の中の少女」とともに印象に残る佳品だ.「ロシアの印象派」という言い方もあるようだが,46年の人生で,様々な画風の作品を制作したように思われる.革命前の1911年,モスクワで亡くなった.


文学作品からインスピレーション
 ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ヴルーベリは,1856年にウラル山脈を越えた,西シベリア低地の,現在はウズベキスタン共和国との国境に近いオムスクで弁護士の子に生まれた.彼自身も,1880年にサンクトペテルブルク大学法学部を卒業したが,翌年,帝国芸術院(美術アカデミー)に入学した.父方の先祖はポーランド系,母の血筋はデンマーク系とのことだ.母は,彼が3歳の時に亡くなっている.

 28歳になる1884年にキエフの聖キュリロス修道院の教会の壁画制作を依頼され,中世キリスト教芸術の知見を深めるべくヴェネツィアに行く.

 英語版ウィキペディアのリンクから,聖キュリロス教会のために制作された「玉座の聖母子」を見ることができるが,アール・ヌーヴォー調の聖母子が鎮座している壁龕のアーチを支えるコリント式柱頭を持つ柱が見事で,すばらしい.

写真:
ヴルーベリ
「ファウスト三連画」
中央:グレートヒェン
左:メフィストフェレスと学生
右:ファウスト
1896年
トレチャコフ美術館


 トレチャコフ本館のヴルーベリのコレクションは,壁画の役目を果たすように大きく描かれた作品があるせいか,随分広い専用の空間があり,相当点数が多いように思えたが,美術館のHPでは絵画が12点,ブロンズ像が1点と,マヨルカ焼きの胸像が1点紹介されているだけだ.

 しかし,撮って来た写真を確認すると,プレートは撮っていないので確信はないが,作風からヴルーベリのものと思われる絵が3点,陶器胸像が数点他にあったようだ.

 上の写真の「ファウスト三連画」は見るからにアール・ヌーヴォー風の絵で,印象に残ったが,美術館HPには写真も解説もない.



 出世作の「座る悪魔」は,グーグルで「ヴルーベリ 悪魔」で検索すると,日本語のブログその他が,山ほどとは言わないまでも相当数ヒットして,写真が掲載され,熱い思いが語られている.日本人はこういう作品が好きだろう.私も好きだ.

 この作品のタイトルは,あるブログが「座っている堕天使」という邦題を紹介しており,「堕天使」が良いようにも思うが,後述するレールモントフの作品の邦訳が『悪魔』なので,「悪魔」とする.このブログでも絵の写真には「座る悪魔」@MOSCOWトレチャコフ美術館と言うキャプションがついている.日本語版ウィキペディア「ミハイル・ヴルーベリ」は「座るデーモン(悪魔)」としている.

レールモントフ,一條正美(訳)『ムツイリ・悪魔』(岩波文庫)岩波書店,1951年

と言う本が,書架にあった.岩波文庫の復刊の翻訳文学作品は出た時に,ワセダや京大の生協でこまめに買うことにしていた.この本は,京大にいた1990年の復刊で,その時に買ったが,さしあたり必要ではないので,老後の楽しみに実家の父の倉庫に置いていて,津波で流された.今持っている本は,高田馬場駅前のビルで1ヵ月に一度開かれる古書市で再入手したものだ.

 私が生まれる前の古い訳だが,意外に読みやすいどころか,名訳ではないかと思うほど,引き込まれる訳文だ.「叙事詩」と言いながら,短いので一気に読めるし,親切な解説もついている.

 要するに,詩人を自己投影した理想主義者の悪魔(堕天使)が,孤独な生活を送っていたが,グルジア人少女に恋をして,「愛と善と美の神聖」に目覚め,天使であった頃に立ち返って,過去の悪行を捨てる誓いを立てて,少女の愛を得る.しかし,口づけをすると,悪魔の毒が少女の命を奪ってしまうという,いかにも19世紀的な作品に思える.

 ヴルーベリは,この「叙事詩」に思い入れ,いくつもの習作を試み,作品を完成させた.トレチャコフ美術館では,出世作の「座る悪魔」(1890年)と,後期の「倒された悪魔」(1901年)を見ることができた.多くの人の意見と同様,前者により魅力を感じた.

 個性に満ちた画家でありつつも,当時の流行であった象徴主義とアール・ヌーヴォーも作品に反映し,後援者マモントフの理解も得,オペラ歌手のナジェージダ・ザベラと結婚し,それらの幸福が彼の芸術活動に本質的な影響を与えた.しかし,精神を病み,失明の危機に瀕して,1906年に創作活動を断念した後,1910年に満54歳になる前に亡くなった.


ペトロフ=ヴォトキンと出会う
 木村浩は『ロシアの美的世界』の中で「イコンの美」に一章をわりあて,意欲的にこの宗教芸術を論じているが,そこで「イコンから直接的影響を受けている美的世界を創り出している」画家としてペトロフ=ヴォトキンを挙げ,写真も掲載している(同書,p.79,写真はp.78).

写真:
ペトロフ=ヴォトキン
「母子像」
(1918年のペトログラード)
1920年
トレチャコフ美術館


 クジマ・セルゲエヴィチ・ペトロフ=ヴォトキン(1878-1939年)は,東流して南に向きを変え,北からカスピ海に流れ込む,ヴォルガ川沿いにある都会サラトフを中心とする州の小都市フヴァリンスク(と読むのだろうか)に生まれた.父は靴職人であったらしい.

 彼が画業の道に進むためには多くの紆余曲折があったようだ.少年時から画才が際立っていたことは,偶然も助けてくれたとは言え,様々な出会いや援助があって,サンクトペテルブルクに出て,最後にはモスクワ絵画・彫刻・建築学院と言う名門に学ぶことができたことが物語っている.そこで,彼はセローフ,レヴィタンコロヴィンと言う当時の一流画家たちに学ぶことができた.

 彼の斬新な作風は,賛否両論を引き起こし,レーピンは彼の作品に批判的であったらしい.いずれにしても,1917年のロシア革命後も,彼は芸術家としての位置を保ちながら,1939年に当時のレニングラードで結核で亡くなった.



 30代前半の作品「赤い馬の水浴」(1912年)が,彼の代表作と考えられているようで,トレチャコフ美術館のバナーにも使われていた.美術館のHPに拠れば,この作品にもイコンを意識した構図などが見られるそうだし,多分,その通りだと思うが,何か妙に生々しい感じがして,私は上の写真の「母子像」の方が好きだ.

 トレチャコフ美術館HPでは,この作品の題名は「1918年のペトログラード」とあるので,革命の翌年のサンクトぺテルブルが背景に描かれていることになる.労働者階級出身の女性とその子供は,西欧の宗教画にも,イコンにも見られる「授乳の聖母子」の姿になっていて,やはり伝統的な宗教画を意識していたと考えるのが妥当だろう.

 上の写真の「母子像」の近くに,村を見下ろす丘の上の草地で授乳する女性を描いた「母」という作品もあったが,これは美術館HPで取り上げられておらず,プレートも撮って来なかった.WIKIPAINTINGというページでこの作品が紹介されており,それに拠れば1913年の作品ということなので,上の写真の作品に先行していることになる.良く似た作品もあるようで,どちらが先かはわからないが,同年の作とされている.

 グーグルの画像検索で探すと,1915年に描かれた授乳する女性像もあるようなので,作者が好んだ図柄であるらしく,宗教画の伝統を革命という時代背景で描いたところに,上の写真の「母子像」の特徴があるのかも知れない.

 ロシア美術館で購入した英訳案内書の表紙は,1914年作の,両手を挙げるオランスの姿勢になっている聖母の絵が採用されているが,この作品を観ることはできなかった.ロシア美術館を見学した段階では,ペトロフ=ヴォトキンという名前すら知らず,ただ,表紙になっている,この印象的な聖母の絵が観られなくて残念に思った.これが,この画家の作品だと知ったのも,帰国後だった.

 ペトロフ=ヴォトキン以降の世代の画家の作品は,トレチャコフ美術館でも新館に置かれている.「ピンクを基調にした静物画」,「ヴォルガ河畔の少女たち」など,この画家の作品は写真を見返していても,十分楽しめる.

 日本語版ウィキペディアに今の所,ペトロフ=ヴォトキンは立項されておらず,日本語の参考書は探した限り無い.それどころが,イギリスやアメリカのアマゾンの古書を探しても,殆んどがロシア語で描かれたものばかりで,間違いなくロシア国外でも一定以上の評価を受けて当然の画家だと思うが,今後に期待したい.

 好き嫌いで言うと,私はこの画家の絵は好きだ.


カジミール・マレーヴィチ
 カジミール・セヴェリーノヴィチ・マレーヴィチ(一応,この表記にしておく)に関しては,日本語版ウィキペディアにも立項されている(名前の日本語表記に関しては,間違いなく1番参考になるだろう).

 勤務先でロシアを専門としている人たちにとってお家芸である「ロシア・アヴァンギャルド」については,何が有り難いのか全く理解できず,もともと興味もないので,大学なんだから,もっとアカデミックな領域の専門家を集めれば良いのにと心密かに思うことはしばしばだが,そうして集まった専任,非常勤の教員たちは個人として能力が高く,人間的にも魅力的な人が多いので,「まあ,ロシアだから,仕方がないか」というような失礼なことは全く思わず,「なるほど,ワセダでも,ロシアを勉強した人たちはもともと優秀なんだな」と恐れ入っている.実際に,大学院生も,総数は少ないが,圧倒的に優秀だと言う印象がある.

 何が「ロシア・アヴァンギャルド」なのか,正直まだ全く理解していないし,多分,これからも理解に至ることはないだろうが,トレチャコフ美術館で,マレーヴィチと言う画家の作品を数点見て,これが「ロシア・アヴァンギャルド」と言われると,なるほど魅力に満ちていると思ってしまう.

 「ロシア・アヴァンギャルド」と言っても,絵画だけではなく,デザイン,建築,文学,音楽,映画,演劇と多岐に渡り,大雑把にでも把握することはとても無理なので,

 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)岩波書店,1996(以下,亀山)

を参照することとし,まず,英語版ウィキペディアをもとに,マレーヴィチの生涯を見てみる.

 マレーヴィチは,1879年,ウクライナのキエフ近郊でポーランド人の両親のもとに生まれた.英語版ウィキペディアには,彼の生得言語はロシア語とポーランド語とあるが,日本語版ウィキペディアには,「ウクライナ語で話し,ポーランド語で書き,後に習得したロシア語で活動を行うという語学的分裂が生まれたとされる」と説明している.典拠は挙げられていないが,後者に説得力があるように思える.

 父が砂糖工場を経営していて,砂糖大根の農園の近くの村を転々とし,農民たちの中で育って,それが彼の芸術的資質の形成に貢献したとのことだ.父の死後,モスクワに出て,モスクワ絵画・彫刻・建築学院に学んだ.

 ロシアと言うと,19世紀まで農奴がいた遅れた社会で,少数民族を抑圧する後発の帝国主義国家のイメージがあるが,地方の農村や小都市から,たとえ異民族出身であっても,才能ある若者を,芸術家に育て上げるシステムがあったかのように見えることには感心する.

 実際には才能があっても世に出ないどころが,そもそも才能すら(本人も含めて)誰にも見出されないまま生涯を終えた人も山ほどいるであろうが,思いつくままにロシアの芸術家の経歴を見ていると,かなりの人が,非ロシア人,もしくは祖先が非ロシア人で,地方の貧しい家庭の出身であることに驚く.

 いずれにせよ,子供の頃に,有名な芸術作品を見たこともなく,芸術家の名前を知る術もなかった少年は,自身が芸術家になる出発点に立ち,流行し始めていたロシア・アヴァンギャルドの影響を受け,キュビズム未来派の影響を自身の中に取り込んだ.双方からの進化形と考えられたのか,「立体未来派」(キュボ・フュチュリズム)という流れが生じ,それを象徴する出来事が,二幕六場のオペラ「太陽の征服」の上演であった.1913年12月2日,サンクトペテルブルクのルナ・パルク劇場で,詩人マヤコフスキー作の「悲劇ウルジーミル・マヤコフスキー」と共に上演された(亀井,pp.43-51参照).

 「太陽の征服」の台本を書いたのがアレクセイ・クルチョーヌィフ,作曲はミハイル・マチューシン,舞台美術を担当したのが,マレーヴィチであった.

 見た記憶が無いが,トレチャコフ美術館HPに拠れば,同館には「芸術家ミハイル・ワシリエヴィチ・マチューシンの肖像」と言う絵がある.写真で見ると,キュビズムの絵のように見える.英語版ウィキペディア「立体未来派」のページに掲載されている「ナイフを研磨する人」と同年の1913年の制作で,後先はわからないが,「太陽の征服」の上演と同じ年だ.

 美術館HPの解説に拠れば,未来派の主たる理念は動きを表現することであるけれども,この肖像画には,描かれた人物の人生を思わせるものが描き込まれており,それらは彼を想像させる髪型の頭部であり,音楽家を想起させる鍵盤であり,芸術理論関わる知性と教育への連想を喚起する机の引き出し,である.

 今,考えると,その程度のことが何で斬新なのか疑問にも思うが,当時としては新奇な発想だったのだろう.アイディアよりも絵の完成度と全体的印象が大事だと思うが,その点はさすがにプロの画家なので,立派な作品に思える(と言う気がする).

 マレーヴィチはこの後,立体未来派を超えて,「絶対主義」(シュプレマティズム)を唱えるようになる.それを,手許の電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』では,マレーヴィチの主張とした上で,「絵画は長方形・円・三角形・十字形で構成されるそれ自体で価値を持つべきとする抽象芸術の主張」と説明している.

 トレチャコフ美術館のマレーヴィチ作品の展示室で,ほぼ中央の柱に目立つように展示されている有名な「黒い正方形」(1915年)は,この主張に基づいて描かれた作品で,まだ,ロシア革命以前のものということになる.

写真:
カジミール・マレーヴィチ
「農具を持つ女性」
1930-31年
トレチャコフ美術館


 上の写真の作品は,それよりもさらに15年後に描かれたもので,1935年に癌で亡くなるマレーヴィチの作品としては晩年のものということになる.

 晩年は,社会主義体制の中で保守化する芸術観に翻弄されながら,具象絵画へと帰って行った(日本語版ウィキペディア)とされ,トレチャコフ美術館HPに紹介されている1930年以降の4作品は,いずれも人物を描いているが,上の写真の作品以外は,顔が描き込まれている.

 1917年のロシア革命前後までに,究極の抽象まで行ってしまった画家の作品としては平凡なのかも知れないが,ある種の安定感と抽象性の中に,新体制に生きる農民の女性(であろう,多分)を描いて,抽象性の中に具象性を込めたことは,彼にとっては,冒険であったかも知れない.つまらない作品と言われれば,そうかとも思うが,私はこの絵に愛情を感じる.政治体制に翻弄された芸術家の一つの到達点と評価する人はいないのだろうか.

 この作品の隣に,同じく1930年の作品である「牧草を刈る人」(邦題は岡部昌幸『近代美術の都モスクワ』から)があった.美術館HPでは紹介されていないが,英語版ウィキペディアには写真がある.これには,具象とは言えないと思うが,顔は描き込まれている.ウィキメディア・コモンズまでたどっていくと,「農具を持つ女性」の写真も掲載されているが,こうした選択は現代の評価とどうかかわるのかまではわからない.


ロシアの外で活躍した画家
 マルク・シャガール(1887-1985年)がユダヤ系ロシア人であることは知識として知っていても,それを意識することはほとんどない.厳密に言えば,現在はベラルーシ共和国のヴィテブスク近郊のリオズナで生まれた.

 サンクトペテルブルクの美術学校で学び,パリに出て,故郷に帰り,ベラと結婚し(1914年),途中ロシア革命を経験して,ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けるが,1923年に再度パリに行って,1941年にナチスの影響を避けてアメリカに亡命するまでそこで活動する.第2次大戦後の1948年にフランスに戻り,永住するが,ベラは1944年にアメリカで亡くなった.

写真:
シャガール作
「街の空」
トレチャコフ美術館


 教科書的にはロシア(当時はベラルーシもロシア帝国領)で教育を受け,画家となってからもロシア・アヴァンギャルドの活動に参加していたので,彼にロシア性があって当然なのだと思うが,この芸術史上の巨人に対して,そのようなアプローチが必要なのかどうかも,私には判断できない.シャガール作品が出品される特別展も複数回観ているが,特にそれを意識したことはない.

 トレチャコフ美術館HPには,彼の作品は6点が紹介さているが,はっきり観た記憶があるのは,上の写真の「街の空」(邦題は岡部,上掲書から)と,「結婚」だけだが,全て佳品に思える.

 「街の空」の入手経過は説明されていないが,1914年から18年の作品で,であればロシア革命前後のロシア帝国領内在住の時期の作品と言うことになる.一緒に空を飛んでいる女性は,新婚のベラで,私たちが良く知っているシャガールの絵柄は既にこの時からあったことになる.

 トレチャコフ収蔵の作品は,1914年から1920年までに描かれた作品とのことなので,全てロシア帝国領在住の時の作品ということになる.少なくとも,トレチャコフ美術館の作品で見る限り,シャガールはロシア(ないしは同帝国領であったベラルーシ)の画家と言うことになる.トレチャコフ美術館HPの紹介ではマルク・ザハロヴィチ・シャガールと父称のついたロシア風の名前になっている.

写真:
カンディンスキー作
コンポジションVII
1913年
トレチャコフ美術館


 ワシリー・ワシリエヴィチ・カンディンスキー(1866-1944年)に関しては,シャガールよりもさらに「ロシアの画家」というイメージはなく,私は全く無知で何の根拠も無く,スラヴ系だがアメリカで活躍した画家だと思っていた.しかし,シャガールがフランスからアメリカに亡命したのに,カンディンスキーは,最後までヨーロッパに踏みとどまってフランスで亡くなった.シャガールと違い,ユダヤ人でなかったからかも知れない.

 モスクワで生まれ,オデッサで育ち,モスクワ大学で法学と経済学をおさめ,とある大学からローマ法の教授職のオファーがあったほどの秀才だったようだ.彼が絵画の勉強を始めたのは,どういう経緯かは分からないが,30歳からとのことである.

 ミュンヘンで,後にペトロフ=ヴォトキンもそのもとで学んだ,スロヴェニア出身のアントン・アシュベの私的指導を受けた後,美術アカデミーに学んだ.日本語版ウィキペディア(「ワシリー・カンディンスキー」)には「象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事した」とある.彼はドイツで活躍していたが,ロシア革命後の1918年にロシアに帰国する.

 トレチャコフ美術館HPには6点が紹介されているが,1910年の作品が2点ある.「湖」と言う作品は抽象画のようにも見えるが,山の見える森の湖に甲斐で漕ぐボートが3艘浮かんでいて,向かって右側に塔のある城か館のような建物があり,左上に蒸気を出している大きな船があるようにも見える.これは「表現主義」の絵であるとのことだ.

 表現主義(expressinosim)を『リーダーズ英和大辞典』で引くと,「20世紀の初めドイツで興った芸術・文学上の運動で,外面的真実よりも誇張・歪曲などによる感情を表現した」と説明されている.写実的ではないが,そこに描かれている像は具体的であり,これはやはり具象画と言うべきだろう.

 ところが,同じ年に描かれた「即興7」と題された作品の中に,何か具体的な形象を見出すことは,少なくとも私にはできない.カンディンスキーという名から想起される「抽象画」にはなり切っていないようにも思えるが,やはり抽象画の一種であり,カンディンスキーの作品が1910年を境に作風に変化を生じてきたと考えて良いのであろうか.

 英語版ウィキペディアに掲載されている写真を見る限り,1913年に描かれた作品にも,何かしらの具体的な形象が読み取れ,カンディンスキーの「抽象画」と誰が見ても思う作品は,「コンポジションVII」であり,これは1913年に描かれた作品で,私たちがトレチャコフ美術館で観て,上の写真で紹介している絵だ.

 具体的なイメージが全くわかないかどうかは,良く考え,参考書も読んでみないとわからないが,1913年は最初にドイツにいた時期であり,彼にとっては初期の作品ということができるだろう.

 いったん帰国し,革命政府にも評価されたカンディンスキーだったが,権力者の交代による自分への評価が変わったのを察知したのか,1921年にドイツに戻り,そこで芸術活動を展開し,翌年から有名なバウハウスで教鞭を執った.1933年にナチスがバウハウスを閉鎖したので,フランスに移り,そこで市民権も得た.ナチス占領下のパリ郊外で1944年生涯を終えた.

 シャガールもカンディンスキーも,どこにロシア性が根ざしているのか,具体的には良くわかっていないが,少なくともその人生において,「ロシア」が意味を持っている画家だというのはおぼろげながら理解できた.



 オペラ「太陽の征服」が上演されたルナ・パルク劇場では,その7年前に,メイエルホリドが演出したブローク作の芝居「見世物小屋」が上演された(亀井,p.44).それについて,私が深く理解することはないであろうが,メイエルホリドはロシア・アヴァンギャルドにおいて,演劇の面で多大な活躍をし,革命後も演劇革新運動の中心であったが,スターリンの恐怖政治の中,粛清された.スターリン死後のソ連政府によって名誉回復がなされたそうだが,いたましいことであるには違いが無い.トレチャコフ美術館新館では,メイエルホリドを描いた絵を少なくとも2点見ている.

 エルミタージュ美術館,ロシア美術館,プーシキン美術館,トレチャコフ美術館本館とどの美術館も素晴らしかったが,やはり,1番「ロシア」を感じさせてくれたのは,実はトレチャコフ美術館新館であり,ここは人気(ひとけ)も少なく,じっくり鑑賞ができ,興味深い作品も少なくない.

 スターリン時代も含め,ソヴィエト政権下の「芸術」に関しても,じっくり鑑賞して,その意味を考え,人間が「美」を求めるとは,どういうことなのか,もちろん,結論が出るようなことではないが,大いに考えさせられた.

 トレチャコフ美術館は本館,新館とも何度でも行きたい.できれば,時間に余裕を持って,じっくりと鑑賞する機会を持ちたい.






小雨に濡れたマルクスの頭の上に鳩
革命広場の向こうはクレムリン