§ロシアの旅 - その12 ロシア絵画(その3 作家・芸術家の肖像)
移動派の画家たちは,有名,無名の多くの人たちの肖像画も描いた.有名人の肖像画にもパーヴェル・トレチャコフが関わっている場合が少なくない. |
上掲のドストエフスキーの肖像画が描かれた経緯について,ベズルコーワには次のようにある.
パーヴェルはドストエフスキーに直接,手紙を書いて,肖像画を作成し,それを他の作家たちの肖像画と一緒に,自分のロシア絵画コレクションに収めたいと申し出た.1872年4月のことだったが,巨匠はこれを受諾した.翌月にはペローフが作家を直接訪ね,既に『罪と罰』,『白痴』で有名となり,『悪霊』を完成させたばかりのドストエフスキーと心の交流を持ちながら,試行錯誤の末にペローフは肖像画を完成させ,第2回移動展覧会で展示され,それをクラムスコイは「ロシア画壇の最良の肖像画の一つ」と評価した(ベズルコーワ,pp.
67-71).
トルストイの肖像
ベズルコーワに拠れば,パーヴェルはトルストイの肖像画もコレクションに加えたいと思い,クラムスコイがトルストイの屋敷の近くに住んでいると知って,画家に交渉と肖像画作成の両方を依頼した.
クラムスコイはトルストイと親しくなることはできたが,肖像画作成の許可はなかなか得られなかった.
しかし,いずれにせよ,トルストイほど偉大な作家の肖像画は,いつの日か美術館に飾られることになるのだから,同時代よりも数十年経ってから,拙い肖像画が描かれるくらいならば,今,適切な時期に描かせてほしいという論理で,熱意ある説得を続け,ついに,パーヴェルのための1点の他に,自分の子どもたちのためにもう1点描くことを条件に,トルストイの承諾を得た.
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「レフ・トルストイの肖像」
左上:クラムスコイ作
1873年
左:レーピン作
「執筆中のトルストイ」
上:ニコライ・ゲー作
3点ともトレチャコフ美術館 |
当初,肖像画の作成承諾を渋ったトルストイだが,最終的には,私たちが今回観ることができただけでも,クラムスコイ,ゲーの作品各1点,レーピン作が2点有って,さすがに,一流の画家たちの作品だけあって,おかげで,私たちはトルストイと言う大作家の人生を想像することができる.
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写真:
レーピン作
「裸足のトルストイ」
ロシア美術館 |
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しかし,描かれた時期が異なるせいか,肖像画の作者がそれぞれ個性的な画家だからなのか,古代彫刻のように,どれを見ても,「一見してトルストイ」と言う安定したイメージを抱きにくいようにも思える.ロシア文学が私にとってはなじみが薄いからかも知れない.
チェーホフの肖像
トレチャコフ美術館で観たチェーホフの肖像画は,随分端整な絵で,印象に残ったのだが,画家の名前を全く知らなかった.
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写真:
オシプ・ブラーズ作
「チェーホフの肖像」
トレチャコフ美術館 |
オシプ・エマヌイロヴィチ・ブラーズは,現在はロシア連邦に属さないウクライナ共和国のオデッサに生まれ,そこで美術教育も受け,ミュンヘンの芸術学院(美術アカデミー)に留学した.その後,パリを経てオランダに行き,オランダ絵画の巨匠たちの影響を受けた.帰国後,サンクトペテルブルクでレーピンの工房にいたらしい.
1873年生まれで,逝去が1936年であるから,当然,1917年のロシア革命を経験している.1924年に絵を海外に売ろうとしたという容疑で逮捕,投獄され,彼の収集したオランダ絵画などは没収され,国有財産となった.釈放後,ドイツを経由してパリに移住し,パリで亡くなった.
ウィキメディア・コモンズで,複数の作品の写真を見ることができるが,そこで見る限り,有名な作品も,今回観た記憶のある作品もない.
とは言え,英語版ウィキペディアに立項されるくらいだから,まずまず知られた画家と言って良いのだろうと思う.不思議なことに,あれだけ充実したトレチャコフ美術館HPにこの作家とチェーホフの肖像画に関する情報は無い.
リムスキー=コルサコフの肖像 ヴァレンティン・アレクサンドロヴィチ・セローフは,やはり,ロシアを代表する画家のようだし,リムスキー=コルサコフは言うまでもなく世界的な大作曲家だが,この絵に関する情報もトレチャコフ美術館HPにはない.
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写真:
セローフ作
「作曲家リムスキー=
コルサコフの肖像」
トレチャコフ美術館 |
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HPでは,セローフの作品は13点取り上げられているので,この画家が特に取り上げるに値しないと考えられているわけではない.13点の内,2点は観た記憶があり,その内1点は次回言及する.
全く観た記憶がないが,ピョートル大帝を取り上げた有名な作品もあり,他にも「オデュッセウスとナウシカア」という,題目がわかっていれば絶対見過ごすはずもない作品も観た覚えがない.彫刻もあるようだ.「エウロパの誘拐」なので,知っていればやはり見逃すはずはない題材だ.
描かれた作曲家が超一流で,描いた画家もロシアを代表する一流の画家であり,しかもこの肖像画も破綻がないだけではなく,セローフの特徴であると思われる,少しモロモロとした色使いも,この画家の作品として,非常に個性溢れる絵と思われるので,HPに全く説明がないのは残念だ.
ムソルグスキーの肖像画
ムソルグスキーの肖像画は何点あるのか知らないが,英語版ウィキペディアでも,読めないがロシア語版ウィキペディアでも,1870年に撮られた写真の他に掲載されているのは,レーピンが描いたこの肖像画だ.後者には,1989年発行の切手の写真も載っているが,そこに印刷されているのはレーピン作の肖像画だ.
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写真:
レーピン作
ムソルグスキーの肖像
1881年
トレチャコフ美術館 |
それが正しいか実像を反映しているかどうかは別にして,強烈な個性が前面に出て,作曲家へのイメージを見る人の意識にしっかりと植え付けてしまうような,モデルと画家の両方の気魄に圧倒されてしまう.作曲家の死の直前に描かれたと言われると,思わず頷いてしまう.
今回,ロシアで観た肖像画の中では,最も印象に残る作品だ.
アントン・ルビンシテインの肖像
上田敏の『海潮音』に収録されているハイネの詩「花のおとめ」の訳文の後に,「ルビンスタインのめでたき楽譜に合せて,ハイネの名歌を訳したり」とある.
高校生の時,岩波文庫版『上田敏全訳詩集』を読んだときには,「ルビンスタイン」とは,20世紀を代表するピアニスト,アルトゥール・ルービンシュタイン(日本語版ウィキペディアの表記)のことだと思い,このピアニストはそんなに昔から,有名だったのかと思った.
『海潮音』の出版は1905年(この訳詩が「音楽」に発表されたのも同年)で,その時1887年生まれのアルトゥールは18歳くらいなので,全く不可能ではないが,作曲家として世に出るには少し早かっただろう.
生まれた時にはロシア帝国臣民だったポーランド生まれの天才ピアニストは,幼児から天才をうたわれ,7歳の時に,モーツァルト,シューベルト,メンデルスゾーンの曲を弾いてデビューを果たし,10歳でベルリンに留学,13歳でベルリン・フィルと共演したということなので,18歳ならば,上田敏が知っていても全く不思議と言うほどでもない.実際に『海潮音』出版の翌年には,19歳でアルトゥールはカーネギー・ホールでリサイタルを行い,以後,国際的なピアニストとして認知を得る(以上,英語版ウィキペディア).
彼も,あるいは余技に作曲もしたことがあるかも知れないが,上田敏が言及しているのは,ハイネの詩に曲をつけた別の音楽家である.
予備校時代に,ベートーヴェンの交響曲を全部暗譜していると言う超人的な友人に出会い,彼は音楽に関する知識も豊富で,この「ルビンスタイン」は,ロシアの作曲家アントン・ルビンシテインであることを教えてくれた.今,手許にある旺文社文庫版では,編者(吉田精一)の注解があり,岩波文庫にも注釈があったかも知れないが,少なくとも高校時代には気が付かなかった.
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写真:
レーピン作
「作曲家アントン・
ルビンシテインの肖像」
ロシア美術館 |
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アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインは,1829年に,現在はウクライナ共和国領になっているポドリア地方の小都市に,ユダヤ人の両親から生まれたが,5歳の時,一家全員がロシア正教に改宗した.
彼の父はモスクワで鉛筆工場を経営し,母が音楽に長じていたので,経済的にも環境的にも恵まれていたことになるが,幼いころからその才能を評価され,パリ音楽院に入学を許される.
僅か11歳の1840年に,パリで行なった小規模の演奏会を聞いたショパンやリストが彼に注目し,私的に招いて演奏を聞かせたり,有益な助言を与えたりしたのは,よほど才能に溢れた少年だったのだろう.
14歳の時,やはり後にピアニスト,作曲家として成功を収める弟のニコライとともに,サンクトペテルブルクでは冬宮殿で皇帝ニコライ1世とその家族のために演奏をしている.
翌年,ベルリンに行き,メンデルスゾーン,マイアベーアに会い,それぞれから作曲や音楽理論の高名な教師を紹介され,神童から大人の音楽家に脱皮するために苦労を重ねながらも,才能を開花させた.
アントン・ルビンシテインに興味を魅かれるのは,彼が20曲のオペラ,5曲のピアノ協奏曲,6曲の交響曲を作曲し,チャイコフスキーを教育したからではなく,チャイコフスキーも学んだサンクトペテルブルク音楽院を創設したからである.
ロシアにおける音楽教育の歴史をフォローする気力も能力もないが,ルビンシテイン兄弟の果たした役割の大きさは,計り知れないものがあり,実は日本にも周辺的に影響を与えている.
兄アントン同様,神童の誉れ高く,ピアニストとして名声を博し,数々の作曲も行っている弟ニコライは,モスクワ音楽院を創設し,チャイコフスキーもそこで教鞭を執った.
その学校で学んだ,ドイツ系ロシア人がラファエル・フォン・ケーベルで,彼は後にドイツの大学で哲学を学び,東京大学に外国人教師として招かれ,日本の哲学,文学,古典学に大きな影響を与えただけではなく,東京音楽学校でピアノを教え,日本におけるオペラの初演が,上野の奏楽堂で行われた時,グルックの「オルフェーオとエウリディーチェ」のピアノ伴奏編曲版のピアノ伴奏を務めた.
東大の「お雇い外国人教師」は,多くの分野に傑出した人物がいて,日本文化に多大な貢献をしたが,人文教養系では,ケーベルはラフカディオ・ハーンと双璧であろう.
ハーンも,不幸な家庭環境だったとは言え,比較的恵まれた階層に生まれながら,正規の学歴は得られず,アメリカでジャーナリズムの中で,知性と筆力を磨いた人物であるのに比して,ケーベルは父が医師であり,モスクワ音楽院でピアノを学んだだけでなく,ドイツの大学で哲学博士になった,正統的なアカデミズムの中から出てきた人だ,
ヨーロッパ出身の教養人でありながら,ハーンは古典語が全くできなかった(※).母がギリシア領出身だったので,ギリシア的なものへの憧憬は持ち続けたようだが,彼は正統的な教養空間にはおらず,反対にそれが功を奏して,日本の文化を海外に紹介し,日本でも作家としての地位を確立した.
(※と,長い間思っていたが,ある時,以前,私の勤務先の図書館に勤めていて,現在はハーンを研究しているという人が訪ねて来られ,旧制高校の試験問題の翻訳を依頼された.後に日本史の研究者で東大教授となる黒板勝美が熊本にあった旧制第五高等学校に在学していた時に,ハーンの授業に出席していて,そこで出された簡単なラテン文英訳と英文ラテン訳の試験問題とのことだった.ハーンは少なくともラテン語の初歩は知っていたのは間違いなく,もしかしたらある程度以上のラテン語力はあったのかも知れない.2016年5月3日)
ケーベルよりもハーンを評価する人は多いし,私もハーンの偉大さは認識しているつもりだが,遺した著作は質量ともにハーンに遠く及ばないとしても,日本の西欧文化受容におけるケーベルの貢献は決して小さくないと思う.
手元にある,端本の岩波書店刊行の新書版「漱石全集」第十七巻に,「ケーベル先生」と「ケーベル先生の告別」という2篇のエッセーが収録されている.後者は追悼文ではなく,ケーベルが離日することになっていた日に書いたもので,朝日新聞にケーベルの所感を掲載したいと思った人がいたが,本人が首肯しないので,漱石がケーベル離日への思いを綴ったものであるようだ.
しかし,横浜から船が出る直前に第一次世界大戦が勃発し,彼は帰欧が叶わず,その生涯を結局日本で終えることになった.漱石の死が1916年(大正5年)で,ケーベルはその7年後に横浜で亡くなった.墓は,雑司ケ谷霊園にあるそうだが,私は参ったことがない.
「ケーベル先生」にはこう書かれている.「文科大学へ行って,此処で人格の一番高い教授は誰だと聞いたら,百人の学生が九十人迄は,数ある日本の教授の名を口にする前に,まづフォン・ケーベルと答へるだらう」(新書版全集第十七巻,pp.89-90),と.「文科大学」とは東大の文学部の前身である.
ケーベルの師である,弟のニコライではなく,兄のアントンの肖像画ではあったが,西洋古典研究の末席に端座して,ケーベルを常に仰ぎ見ている私としては,「ルビンシテイン」という名前には無関心ではいられない.まして,ロシアに初めて行って,俄かに注目したレーピン作であれば一層のことだった.
プーシキンの肖像
プーシキンの偉大さは,今更言うまでもないだろう,と言いたいところだが,ロシア語ができず,ロシア文学に関しても全く不勉強なので,日本人の専門家の見解に耳を傾けてみる.
自らもプーシキンの作品を訳したこともある研究者の著作,
木村浩『ロシア的美の世界』(同時代ライブラリー)岩波書店,1992(以下,木村)
には,次のように書かれている.
恐らく,ロシア文学を研究しようとする異邦人にとって,プーシキンは永遠の謎を秘めた存在でありつづけるのではなかろうか.もちろん,一応<彼>を理解したとみずからに納得させて,トルストイなりドストエフスキーなりに転進することは可能である.むろん,それはゴーゴリでも,ツルゲーネフでも,チェーホフでも,いや,ソルジェニーツィンでもかまわない.だが,その場合でも常にプーシキンという巨大な存在をいや(傍点)というほど感じさせられる.どこまで逃げていっても,影法師のように,<彼>は追ってくる.しかも,振りかえったとたん,<彼>の実体は消えうせて,掴みどころがなくなってしまう・・・・・いや,私はまた性懲りもなく比喩をもてあそんでいるのではないか.(木村,pp.42-43)
「ロシア文学」と言う語から,「プーシキン」を連想する日本人は,専門家や愛好者を除けば殆んどいないであろう.翻訳は少なくないが,有名なオペラの原作者であることも知っている人は少なく,肖像画の容貌にも現れているように,祖先の一人がアフリカ人だったことや,決闘で倒れ,ようやく38歳になる年に亡くなった彼の人生も,それほど知られていないかも知れない.
プーシキンが学んだ学校があったと言う理由で,ツァールスコエセローがプーシキン市となり,モスクワにはプーシキン美術館があり,サンクトペテルブルクのロシア美術館の前の公園には大きなプーシキン像がある.
ロシア人ガイドからは,「プーシキンがロシア語を洗練させたので,上流階級も日常語にロシア語を用いるようになった」という説明も聞かされ,諸方で,その存在感を,ただの観光客であっても,感じずにはいられない.
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写真:
キプレンスキー作
「プーシキンの肖像」
1827年
カンヴァス油彩
トレチャコフ美術館 |
トレチャコフ美術館所蔵のプーシキンの肖像画の作者,オレスト・アダモヴィチ・キプレンスキーに関しても,全く予備知識はなかった.
1836年に地主の非嫡出子として生まれ,キプレンスキーという姓はギリシア神話の愛の神アプロディテ(ヴィーナス)の別名キュプリスに因んだものとのことだ.
オペラ演出家で映画監督のゼッフィレッリが,やはり非嫡出子で,母が出生届を出す時に「西風」(ゼフィロ)の縮小形ゼッフィレット,さらに姓に使われる複数形のゼッフィレッティ,さらに音の響きを尊重してゼッフィレッリにしたと自伝にあったのを思い出す.本人が言ったことでも,本当にその通りかどうかはわからないが,面白く読んだ.
農奴の家庭で養われ,実父の援助で,学校に通うことができ,帝国美術院にも入学し,優秀な成績を収め,イタリアにも留学した.1816年から6年間ナポリで暮らし,1828年に再びイタリアに赴き,そこでイタリア人と結婚し,ローマ・カトリックに改宗して,1836年にローマで亡くなった(以上,英語版ウィキペディア).
作品としては,学校で学んだのは歴史画(トレチャコフ美術館HP)のようだが,養父の肖像画で高い評価を受けて以来,肖像画を描き続けた画家のようだ.トレチャコフ美術館HPには24点の写真が掲載されているが,「ナポリで新聞を読む人々」に4人の男が描かれている他は,自画像も含めて,すべて1人の人の肖像画である.
彼の自画像はウフィッツィ美術館にもあるらしいので,ヴァザーリの回廊にあったかも知れないが観た記憶はない.
美術館,博物館等でユーロが使えるところは,今のところないようで,旅が終りに近づき,手持ちのルーヴルの残金が乏しい状態で行ったトレチャコフ美術館では案内書や図録を購入する余裕がなかったが,帰国後,アメリカ・アマゾンで古書,
Masterpieces of Tretyakov Gallery, Moscow: The State Tretyakov Gallery,
1994
を入手した.十全ではないが,コンパクトで読みやすい.
キプレンスキー作のプーシキンの肖像画も取り上げられており,それに拠れば,「私自身が鏡に映っているようだが/この鏡は私をおだてている/この絵を観ると,私が詩の神々の/ご愛顧をはずかしめないだろうと思う/ローマ,ドレスデン,パリの人々も/この絵を観て私の顔を知るだろう」(英訳からの意訳)という詩を,この肖像画を観た詩人が書いたそうだ.
アントン・デルヴィグと言う人の依頼で描かれたが,デルヴィグの死後,詩人が未亡人から買い取り,自室に飾っていたとのことだ(上記の案内書,p.53).トレチャコフ美術館HPの作品解説にはこの情報はないが,詩人の右肩にかかる外套と思われる布は,タータンチェックのスコットランド風で,英詩人バイロンを思わせるとの事だ.
ロシアの絵画も文学も,ロシア的個性に満ちていながら,顔はずっと西の方を見ていたことを思わせる.
多分,プーシキンの偉大さを理解する日は私には来ないだろうと思うが,少なくとも彼を偉大な詩人として想い続けている多くの人々がいることは忘れないようにしたい.
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青空の下 詩人が手を広げる
ロシア美術館前 芸術広場
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