フィレンツェだより番外篇
2013年11月1日



 




スーリコフ作
「貴族夫人モローゾワ」(部分)
カンヴァス油彩,1887年
トレチャコフ美術館



§ロシアの旅 - その11 ロシア絵画(その2 移動派の画家たち)

シャガールや,カンディンスキーを「ロシア絵画」と言われると,「えっ」と思ってしまうほど,「ロシア」を意識させない普遍性を感じるのに対し,初めてまとまった点数を観た「移動絵画展派」(以下,移動派)の作品は,「ロシア性」に満ちているように思われた.


 もっとも,最後に行ったトレチャコフ美術館新館に展示されているシャガールやカンディンスキーの作品をじっくり眺めると,彼らもまたロシアの画家なのだなあ,と思えた.気のせいかも知れないが.

 イコンを別にすれば,やはり,移動派が,ロシア絵画が独自性を発揮していく,重要な契機に思われる.これについては何も知らなかったので,勉強が必要だが,良い参考書に出会うことができた.

 デ・ヤ・ベズルコーワ,本田純一(訳)『ロシアの美術 トレチャコフ美術館物語』新潮社,1976(以下,ベズルコーワ)

は,専門家の意見も聞かなければいけないかも知れないが,単に知識だけではなく,画家たちと作品への愛を感じさせ,訳文も達意ですばらしい.他に,

 岡部昌幸『近代美術の都モスクワ トレチャコフ美術館とプーシキン美術館』(ユーラシア・ブックレット29)東洋書店,2002(以下,岡部)

が,ハンディで参考になった.


ワシリー・スーリコフ
 トップの写真の絵は,岡部に拠れば,トレチャコフ美術館のコレクションの中で「最も重要とされる作品」とのことである.

 ワシリー・イワノヴィチ・スーリコフは,1848年,シベリアのクラスノヤルスクで生まれた.英語版ウィキペディアに拠れば,俳優で映画監督の二キータ・ミハルコフ,やはり映画監督のアンドレイ・コンチャロフスキー(この2人は兄弟だそうだ)は彼のひ孫にあたるとのことだ.

 コンチャロフスキーが監督したTV映画「オデュッセイア」(NHKで放映された際は「魔の海の大冒険」という副題が付されていた)は授業でも使わせてもらっているので,なじみのある名前である.

 スーリコフは,サンクトペテルブルク帝国芸術院で正統的な教育を受け,優秀な成績を収めたが,モスクワに定住して,首都の保守的な芸術家たちとは一線を画し,移動派の人々に共感して,自身も移動展覧会に出品(1887年の第15回から)し,傑作を生みだした.

 それらの作品はパーヴェル・トレチャコフ(以下,パーヴェル)が購入したので,有名な反乱(1698年)に加担した銃兵の処刑と,それを視察するピョートル1世を描いた「銃兵処刑の朝」(1881年)も,トップに掲げた「貴族夫人モローゾワ」もトレチャコフ美術館に飾られている.後者の制作には4年の歳月が費やされ,物心両面からそれをパーヴェルが支えた.

 この絵は,ロマノフ王朝第2代の「皇帝」(ツァーリ)だったアレクセイ治下の17世紀半ばに,総主教ニコンが打ち出した改革に反発して,旧来の信仰を守ろうとした貴族の女性が,尋問にかけられるためにクレムリンへと,橇に乗せられて連行される姿が描かれている.

 天に伸ばした彼女の右手は,改革後は十字を切る際に3本の指を使うのに対し,古い習慣である2本の指で十字を切り続ける意志を鮮明にしている.

 強烈な絵だが,歴史画を理解するためには,その背景となる事情も多少は知らねばならず,ロシアにおける宗教対立を理解するために必要なロシア正教,東方正教に関する知識もほとんどないので,女性の毅然たる顔と真っ直ぐに天に向けられた2本の指を見て,そのただならぬ意志を呆然と感じることしかできない.

 移動派とそれに共感した画家たちの思想的背景として,保守的なアカデミズムへの反感があるが,同時にこの時期にロシア社会に芽生えて来ていた社会改革や,場合によっては革命を志向する精神があるだろう.


イリヤ・レーピン
 イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン(1844-1920)は,現在では,様々な流行を超越して,「ロシア芸術」を代表する画家と考えられているであろうが,彼もまたアカデミズムの中で育ち,移動派に共感して自己の芸術を確立していった.

 下の写真の絵と,そこに描かれた行事は,英語版ウィキペディアにも立項されているくらい有名なもののようだが,ロシア美術について全く知らなかった私には予備知識が全然無かった.

写真:
イリヤ・レーピン
「クールスク県の聖行列」」


 カトリックよりは東方的な要素があるのだろうが,それでもキリスト教の儀式には違いないと思いながら,「神輿」や「幡」のようなものに目が行く.

 日本の「神輿」や「幡」は,やはり,西から来たのであろうし,この光景は,子供の頃に故郷で見た,それどころか震災のわずか数か月前に,東京で仕事を終えた後,夜行バスで帰省し,体力的に行列に堪えられなくなった父の代理で参加した,氷上神社の五年祭その他の祭を思い出させた.特に画面の上半分弱を占める青空が,日本の秋祭りの季節を想起させる.

 ただ,トレチャコフ美術館HPの写真では,もう少し空がくすんでいて,どちらが本当の季節を表しているのかはわからない.

 トレチャコフ美術館のHPに,レーピンの作品は11点の写真が掲載されている.ロシア美術館では,撮って来た写真を確認すると,「ニコライ2世の肖像」(1896年),「無実の罪人を救うニコライ・ミルリキイスキー」(1888年),「裸足のトルストイ」(1901年),「ベラルーシの男」(1892年),「新規徴集兵の家族との別れ」(1879年),「作曲家アントン・ルビンシテインの肖像」(1887年),「水中の王国のサトコ」(1876年),「イアイルの娘の蘇生」(1873年),「ヴォルガ川の船曳」(1870-73年),プレートを撮ってこなかったの題名がわからないが,中近東風の格好をして胡座すわりをしている黒人少女の絵(ウェブ上に「イリヤ・レーピン油彩全作品」というページがあり,そこには「黒人少女」とあり,制作年代1879年の作品とのことだ)を観ている.

写真:
イリヤ・レーピン
「イワン雷帝とその息子イワン」
カンヴァス油彩,1885年
トレチャコフ美術館


 トレチャコフ美術館で観た,「イワン雷帝とその息子イワン」が印象に残る.父が息子を殴り殺してしまって,後悔している絵だ.

 ダヴィデとアブサロムを思わせ,父子相克という普遍的なテーマとも言えるが,ロシア美術館所蔵の,ニコライ・ゲー作「ペテルゴーフで皇太子アレクセイを詰問するピョートル1世」(1871年)をも想起させ,この時代の底流にあったかも知れない,「皇帝」(ツァーリ)の支配体制に対するある種の感情を思わせる.

 ゲーの絵の36年後,レーピンの絵の22年後にはロシア革命が起こる.


ワシリー・ペローフ
 ワシリー・グリゴレヴィチ・ペローフは,1834年,地域的にはウラル山脈を越えて,シベリアの主邑の一つトボルスクで生まれた.レーピンより10歳,スーリコフより14歳年長である.モスクワ絵画・彫刻・建築学校で学んだが,サンクトペテルブルクの帝国美術院から賞を授与されているので,ロシアの正統的な美術教育を受けて,自己形成した芸術家と言って良いだろう.

 1871年に企画された第1回移動絵画展の,発起人の筆頭として名を連ねているので,移動派の創設者の1人である.

 彼はドストエフスキーの有名な肖像画を描いた画家として知られるが,それを描かせたのはパーヴェル・トレチャコフであるから,やはりパーヴェルの審美眼に適い,評価された画家と言えよう.

 ドストエフスキーやオストロフスキーの肖像画を描いているので,それに限られるわけではないが,歴史画よりは風俗画に長じているのであろうか.トレチャコフ美術館(HPには9点の作品の写真が掲載されている)の作品では,「狩人たちの休息」(服装からすると,あくまでも日本語の語感だが,「狩人」よりは「ハンター」がしっくり来るように思える)が印象に残る.

写真:
ワシリー・ペローフ
「トロイカ
水を運ぶ見習い労働者たち」
カンヴァス油彩,1866年
トレチャコフ美術館


 上の写真の絵は,子どもの清らかな顔が悲惨さを弱め,「労働」と言うよりは「お手伝い」のようにも見えるが,子どもたちの訴えかけるような視線に,当時の社会の矛盾が表現されているのかも知れない.

 ロシア美術館で,ペローフの絵を観たかどうかは,今は確認できない.


ニコライ・ゲー
 ニコライ・ニコライェヴィチ・ゲーは1831年の生まれで,ペローフよりもさらに3歳年長である.ウクライナに近いヴォロネツで,フランス貴族の家系に生まれた.祖父がフランス革命に際して移住して来たとのことだ.

 キエフのギュムナジウムと大学で学んだ後に,サンクトペテルブルク大学に移った.大学で学んだのは理工系の学問であったが,帝国芸術院に入学し,ピョートル・バシンの指導を受け,カルル・ブリュロフの影響を受けた.画家としての出発点は新古典主義だったことになる.

 金賞の評価を受け,優秀な成績で卒業したので,奨学金を得て,西欧諸国に学び,1860年からイタリアに住んだ.ローマではアレクサンドル・イワーノフに会い,影響を受けた.

写真:
ニコライ・ゲー
「最後の晩餐」
カンヴァス油彩,1863年
ロシア美術館


 ゲーの「最後の晩餐」は,写真(Last Supper, London: Phaidon Press, 2000, pp190-191)で見て,以前から観たいと思っていた.

 着手したのは1861年,1863年にサンクトペテルブルクでこの作品が展示された時,購入したのは皇帝アレクサンドル2世で,ゲーは帝国芸術院の教授職を得たが,翌年からフィレンツェに住んだ(英語版ウィキペディア).ベズルコーワに拠れば,「最後の晩餐」を買い取ったのは美術アカデミーであり,教授の称号を与えた(p.60)とある.

 ベズルコーワには,フィレンツェでの挿話が紹介されている.

 1866年12月のある日,フィレンツェのゲーのアトリエに,アレクサンドル・イワノヴィチ・ゲルツェンが訪ねて来た.歓談の後に,「あなたのためではなく,自分のだめでもなく,人間として,作家として,あなたを大切な人物として認めているすべての人々のために機会を与えて下さいませんか.私はあなたの肖像を描きたいのです」と画家は思想家に申し入れ,快諾を得た.

 「ロシア社会主義の父」と言われ,国外亡命を余儀なくされていたゲルツェンをゲーは尊敬し,亡命先のロンドンを訪ね,肖像画を描きたいと思ったが,ロンドンに行くことはできず,ゲルツェンに手紙を書いたところ,ポートレート写真が送られてきて,その写真をもとに「最後の晩餐」のキリストの顔が描かれたとベズルコーワは言っている.ペテロはゲー自身の顔になっているとも言われている.

 それほど思い入れたゲルツェンの肖像画を携えて,ゲーはフィレンツェからロシアに帰国し,それを手放そうとはしなかった.パーヴェル・トレチャコフの購入申し入れにも,8年間断り続けたが,パーヴェルの,すぐれた肖像画を集めて,一般に公開したいという熱意を察して,「本当の収集家として,私が全面的に信頼する真の愛好者であり,一個の人間として,貴殿をつねに評価していました」と書き添え,ゲルツェンの肖像画を譲った.

 ベズルコーワの用語として,日本語訳は「譲渡した」,「贈った」とあるのは,売却したのではなく,贈与したという意味なのだろうか.

ゲルツェン,金子幸彦(訳)『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫,1950

という日本語訳がある彼の著書の,1975年に出た改訳が,1990年に復刊されたものを京大の生協で買い,老後の楽しみとして,陸前高田の父の倉庫の2階に置いてもらっていたが,津波で流された.最近,高円寺の都丸書店で再入手できたので,機会があったら読んでみたい.

 母がドイツ人であり,それもあってか,父がドイツ語の「心」(ヘルツ)から名付けた姓を名乗っていた彼は,金子の解説によれば,ヘーゲルを批判し,フォイエルバッハの影響を受けながら思想を形成し,同時代のロシア人に影響を与えたが,政府からは危険人物見なされ,流刑も経験し,1848年に国外に政治亡命して,二度とロシアの土を踏むことはなかった.

 1870年にパリで政治デモに参加し,風邪をこじらせた亡くなったが,ゲルツェンの死は,ゲーがパーヴェルに彼の肖像画を譲る契機となったようだ.

 ニコライ・ゲーの作品は,トレチャコフ美術館のHPに5点の写真が掲載されているが,疑問に思うのは,そこでは「最後の晩餐」と「ペテルゴーフで皇太子アレクセイを詰問するピョートル1世」の写真が見られるが,これらはロシア美術館に所蔵されている作品のはずであることだ.少なくとも,この2作品をトレチャコフ美術館で観た記憶がない.さらに,「ゲルツェンの肖像」はトレチャコフ美術館の所蔵かと思っていたが,HPには紹介が無い.


イワン・シーシキン
 イワン・イワノヴィチ・シーシキンは1832年に,現在はロシア連邦タタルスタン共和国のエラブガで生まれ,1898年にサンクトペテルブルクで亡くなった.レーピンより12歳年長である.

 ペローフと同じくモスクワ絵画・彫刻・建築学校で学べ,さらにサンクトペテルブルクの帝国芸術院に進み,金賞を得て,優秀な成績で卒業し,奨学金を得て,スイス,ドイツに学び,サンクトペテルブルクに帰った後は,移動派に参加した.

 移動派の画家たちとの共通点は,絵空事ではない写実を旨とすることであろうが,彼は風景画家として優れ,ロシア美術館とトレチャコフ美術館で観た限りでは,森を描いた絵が美しく思えた.

 HPで確認すると,トレチャコフ美術館に彼の作品は4点あるようだ.ロシア人ガイドのスヴェトラーナさんのお話では,4頭の熊が森で戯れているように見える「松林の朝」は,熊は他の画家が描き加えたそうだ.私も熊はいなくても,十分に立派な作品に思える.

写真:
イワン・シーシキン
「白樺の森の風景」
カンヴァス油彩,1883年
ロシア美術館


 しかし,上の写真の作品に関しては,川に橋が架かって,道が通じ,森も人間の生活の場として描かれているので,女性であろう2人の人物はいた方が良いように思う.

 白樺の森に光が射して,ロシアの大地に緑が溢れ,美しい光景の中に,人々の日常が描き込まれ,このような絵は,完全に私の好みだ.

 旅を終えて,モスクワ市街から空港に向かうバスの車窓から,これほど美しくはないが,白樺の群生が方々に見え,サンクトペテルブルクでも郊外には白樺の林が多いように思えた.平庭高原からバスで盛岡に向かうとき,これほどスケールは大きくはないが,似たような風景を若い頃見たように思う.北方的な風景は,私にとっては郷愁を誘うようだ.もちろん,ロシアの冬のような厳しい環境で暮らしたことはないので,あくまでも想像上の郷愁であろう.


アルキプ・クインジ
 シーシキンと同じく「風景画家」とされるが,アルキプ・イワノヴィチ・クインジの絵は,時代も傾向も全く異なるように思われる.しかし,彼は1842年の生まれであれば,シーシキンとの年齢差は僅か10歳,レーピンより2歳年長なので,絵を観てそう感じるような現代の画家ではなく,20世紀初頭には晩年を迎えていた19世紀の芸術家である.

写真:
クインジ
「夜の光景」
カンヴァス油彩,1905-08年
ロシア美術館


 このような画風を「幻想的」というのであろうか,彼の名を冠した作品をロシア美術館でもトレチャコフ美術館でも複数観ているが,やはり一定の傾向があるように思われた.

 トレチャコフ美術館には2点収蔵されているようだが,「ドニエプル河畔の月夜」は,上の写真の絵と見た目に似ているし,同じ場所ではないだろうが,シーシキンと同じように陽光の射す森を描いた「白樺の森」は,明るい絵でありながら,やはり「幻想的」な雰囲気を湛えている.

 クインジは,現在はウクライナに属するマリウポリで,ギリシア出身の製靴職人の子として生まれたが,6歳で両親を失い,アゾフ海沿岸のタガンログで,生活のために,教会建設現場,家畜の餌やり,穀物商の下働きなどの仕事をし,1860年から5年間写真スタジオの修正係を務めた.

 10代後半から20代前半の時期に写真の仕事をしたことは,おそらく彼の画風に影響したのではないかと,素人考えで思ってしまうような経歴だ.

 技術は教えることはできるが,天性の素質は教育で生み出すことはできないので,学校とは無縁に芸術的才能を開花させる人は現代でも少なくないだろう.とは言え,前世代の教師から技術を習得し,同世代の才気あふれる若者たちと切磋琢磨する意味を学校は持っており,美術アカデミーから多くの俊英が育ったことは西欧も,ロシアも,そして近代以降の日本も同じであろう.

 クインジのような経歴の人は,普通に考えると,学校教育とは無縁に思われるが,彼は独立して経営していた写真スタジオが成功せず,サンクトペテルブルクに出て,独学でも勉強したようだが,帝国芸術院で学ぶことができた.

 経歴を書き連ねていると,チャンスに巡り合ったことも当たり前のように一項目になるだけだが,貧しいギリシア移民の孤児が,様々な職業を経ながら,写真工房の助手のような仕事をしたことが唯一の芸術的キャリアと言える状況で,多くの芸術家を輩出した首都の帝国芸術院で学ぶチャンスがあったということに,驚きを覚える.

 学校がなくても,天才は天才だが,天才が世に出て,評価されるためには,様々な社会的条件をクリアしなければいけないのも,また現実だ.クインジがどのようにして,そのチャンスをつかんだのか,非常に興味深く思える.

 英語版ウィキペディアにはその言及がないが,トレチャコフ美術館のHPには,クインジは,アイヴァゾフスキーの工房で修業したとしている.であれば,私たちがロシア美術館,トレチャコフ美術館で観た多くの絵の関係性を考える重要なヒントであるように思える.

 いずれにせよ,クインジはサンクトペテルブルクに出たことにより,「画家」となるチャンスを掴んだ.トレチャコフHPに拠れば,帝国芸術院への入学に関しては,トライアルと失敗の繰り返しがあって,多少は苦労したようだが,最終的には認められ,ずっと後の話だが,風景画の主任教員にもなっているので,ある意味では彼は独立不羈の芸術家ではなく,アカデミズムの中に取り込まれたという見方もできるかも知れない.

 一方で,芸術院に反抗的な学生を支持して,教授職を解任されるなど,一定の在野精神も彼にはあったものと思われる.

 教師としては魅力的な人だったらしく,画風の分かり易さもあるのだろうが,「クインジ派」と称される一群の画家たちを育て,「芸術家協会」を創設するなど,決して孤高の芸術家ではなかった.1910年に68歳でサンクトペテルブルクで亡くなった.

 作品からは,全く読み取れないが,成功した人生を送った芸術家と言えよう.画家としての経歴の中で,帝国芸術院に在籍しながら,移動派の人々と行動をともにしたことは,大きな意味があったのだろう.パーヴェル・トレチャコフが彼の作品を購入したのも,そのことと無縁ではないかも知れない.


イワン・クラムスコイと移動派
 イワン・ニコライェヴィチ・クラムスコイの名前を知っている人は,日本にそれほど多くないとしても,「忘れえぬ女(ひと)」(名も知らぬ女性/見知らぬ女性)と言う日本語題名の絵を,特別展もしくは写真で見たことがある人は少なくないだろう.

 この絵が,発表当時,なぜセンセーショナルだったかは,今の感覚では全くわからないが,この絵が発表された1883年には,すでに画家としての名声も確立し,トルストイやパーヴェル・トレチャコフの肖像画も描いた後なので,仕事もたくさんあったに違いない.1886年には皇帝アレクサンドル3世の肖像画も描いている.

 今回,写真ではよく知っていた「忘れえぬ女」(多くの人が言うように,過剰な意訳であろうが,せっかく人口に膾炙しているので,この名前を使わせてもらう.日本語ウィキペディアは多分,ロシア語を熟知している人が書いているので「見知らぬ女」で立項されている)をトレチャコフ美術館で見ることができた.じっくり見られて良かったが,特に感想はない.むしろ,「荒野のキリスト」(1872年)が私には傑作に思えたが,この作品にも毀誉褒貶があるようだ.

 鈴木竹夫『忘れえぬ女 帝政ロシアの画家・クラムスコイの生涯』蝸牛社,1992(以下,鈴木)

と言う本を,ウェブ上にある「日本の古本屋」で入手した.

 著者の経歴には「旧制盛岡中学校卒業」とあるので,石川啄木,宮沢賢治同様,私の出身高校の大先輩にあたるようだ.東京理科大の前身である物理学校をご卒業後,都立高校の数学教師を長く務め,ロシア語を勉強されたのも,中年以降のことのようで,ロシア旅行と美術展での出会いを契機に,この画家に魅せられ,ついにクラムスコイのモノグラフを書き上げたという,これ自体が感動物語に属するような話だ.「忘れえぬ女」を書名に使いながらも,きちんとロシア語をお勉強なさったので,それが過剰な意訳であることも「まえがき」で断っておられる.

 読みやすいだけでなく,一作一作の誠実な解説もあり,専門的な観点からは瑕瑾もあるかも知れないが,多くの人が読むべき本だと,少なくとも私は思う.「娘ソフィアの肖像」(ロシア語を勉強された方だからであろうが,「ソーフィア」としておられる)についての解説もある(鈴木,pp.237-239).後に画家になり,父の故郷オストロゴースクに記念館を作ることに尽力したとのことだ.



 そのオストロゴースクで,クラムスコイは1837年に生まれた.レーピンより7歳年長で,ゲーより6歳,シーシキンより5歳年下である.帝国芸術院で学んでいたが,彼自身を入れて14人の仲間とともに,イタリア美術を理想とする保守的思想に叛旗を翻し,放校された(鈴木,pp.55-60).

 帝国芸術院(美術アカデミー)を放校になった若者たちは,様々な道を模索していたが,最年長のクラムスコイを中心に「サンクトペテルブルク画家協同組合」を結成し,14人のうち10人が参加,別の1人(彫刻家)の参加を得て11人で,新たな出発点に立ち,芸術家の経済的基盤の確立を目指した.

 協同組合は思った以上の注文を受け,経済的にはまずまずの成功を収めた.「木曜の夕べ」という定期的な会合を開いていたが,そこに素描教室でクラムスコイの指導を受けたこともあるレーピンも参加していたことをレーピン自身が証言している.

 クラムスコイは,組合員たちの作品を展示する展覧会を企画し,ニージニー・ノヴゴロドの定期市で,その開催を実現した.1865年のことであるが,そこにはニコライ・ゲーの「最後の晩餐」が出品されたらしい(鈴木,p.81).

 展覧会は盛況であったが,経済的には失敗であったらしく,学校経営や出版事業も成功せず,組合活動は,当時の皇帝の暗殺未遂事件があったこともあって,反動化した情勢の中,下火になっていった.

 1870年,クラムスコイは自らが設立した組合を脱会し,翌年,組合自体も消滅した.それでも,クラムスコイの才能は評価され,パーヴェル・トレチャコフなど有力者が彼に援助の手を差し伸べ,仕事の注文もあった.

 そんな時に,モスクワで活躍していた画家グリゴリー・グリゴリェヴィチ・ミャソエードフと言う画家が,彼自身も帝国芸術院(美術アカデミー)の出身であり,イタリアにも留学していながら,反アカデミズムの画家を結集して,独自の芸術活動を行うことを考えていた.

1869年,彼はモスクワの同志たちを代表して,サンクトペテルブルクの画家協同組合,「木曜の夕べ」の参加者たちに呼びかけ,それに賛同した画家たちによって,翌年「移動展覧会協会」が設立された.

 全国各都市で移動展覧会を開催しながら,地方の住民たちにも,ロシア美術への関心を喚起し,社会全般に美術愛好の気持ちを涵養しながら,芸術家の経済的基盤を確立しようとすることが,設立の趣旨であり,この後展開される運動の方針であった.

 初代の理事としてクラムスコイなど5人が選ばれ,その中にはゲー,ペローフ,ミャソエードフもいた.あと1人は,ミハイル・コンスタンティノヴィチ・クロート(ユルゲンスブルク男爵)で,彼の美しい風景画をロシア美術館で観ることができたし,観た記憶が無いが,トレチャコフ美術館HPでも1点確認できる.

 この協会と,その展覧会がロシア美術の歴史に果たした役割と意義は大変大きく,ここの関わった画家たちを「移動派」と称する.クラムスコイは没年の1887年(サンクトペテルブルク)まで,数度理事を務め,この協会の活動に尽力し,ロシア美術の発展に貢献しただけでなく,自らも多くの傑作を残した.偉大な芸術家と言うべきだろう.

写真:
クラムスコイ
「娘ソフィアの肖像」
カンヴァス油彩,1882年
ロシア美術館


 クラムスコイの作品で,ロシア美術館で観たものは,写真で確認する限り,上の写真「娘ソフィアの肖像」,「侮辱されたユダヤ人の少年」(1874年),「シーシキンの肖像」(1880年)の3点のみだが,いずれも印象に残る作品だ.

 トレチャコフ美術館HPには23点の作品が紹介され,肖像画だけでも,自画像,トルストイの他に,クインジ,シーシキン,ネクラーソフ.パーヴェル・トレチャコフ,トレチャコフ夫人ヴェーラなど有名人の肖像画を手掛けた上で,他にも数点がトレチャコフ美術館に展示されている.

 人物の描写に優れるという印象はどうしてもつきまとうが,「忘れえぬ女」の背景のアニチコフ宮殿が良く描けているだけでなく,「フランスの村の家の前庭」(1876年)など風景を描かせても優れた技量を発揮し,「人魚たち」(半人半魚ではないので「水辺の妖精たち」の方がピンとくるように思えるが,原題はドヴォルザークのオペラで知られる,スラヴ神話の水の妖精「ルサルカ」であることは,おぼろげながら美術館HPのロシア語ページから確認できる)(1871年),「月夜」(1880年)などの「幻想的」な作品もあるようだ.

 「忘れえぬ女」への毀誉褒貶を超えて,クラムスコイの偉大さは銘記されねばならない.そのことを教えてくれた鈴木竹夫氏の労作に感謝したい.






額のプレートを確認すると,ヴァスネツォフ作
「イーゴリ・スヴェトシラーヴィチと
ボロヴェツ人との激戦の跡」
カンヴァス油彩,1880年,ロシア美術館