フィレンツェだより番外篇
2013年10月28日



 




ヘンリク・シェミラツキ(ポーランドの画家)
「エレウシスのポセイドンの祝典のプリュネ」(部分)
ロシア美術館



§ロシアの旅 - その10 ロシア絵画(その1)

西欧絵画のロシア絵画への影響を,「新古典主義」を出発点に考えてみる.


 トップの絵は,いかにもギリシア風で,ロシアの新古典主義を表しているものと思い,写真を撮った.プレートを撮り忘れたので,ロシア美術館で購入した案内書

 The Russian Museum: A Pictorial Guide, St. Petersbuurg: P-2 Art Publishers, 2005

を見たが載っていなかった※ので,グーグルの画像検索で,「Russian Museum Greek Temple」で検索したところ,この絵の写真が出てきて,「シェミラツキ」という日本語表記がある「足立区綾瀬美術館」のページも見つけた.以下,それに従って「シェミラツキ」と表記する.(※実は後でよく見たら,写真と作者名は載っていた.)


アカデミック・アート
 ヘンリク・シェミラツキ(読めないがポーランド語版ウィキペディアもある)は,英語版ウィキペディアに拠れば,主としてギリシア・ローマの古典的題材や,キリスト教の宗教画を描いた画家で,「アカデミック・アート」(日本語ウィキペディア「アカデミック美術」も詳細で,もしかしたら英語版の要約になっているかも知れないが,とにかく分かり易くて便利だ)と言う流派のようのものがあるとすれば,そこに類別される芸術家らしい.

 新古典主義とロマン主義美術の後を受け,それらの統合を目指して,美術アカデミーで鍛えられた高度な技法を駆使して,端整で美しい絵を描いた人たちが,この「流派」に分類される.アレクサンドル・カバネルウィリアム・アドルフ・ブグローフランチェスコ・アイエツ,などの名前が挙げられている(シャセリオーの名も挙がるようだが,個性的で「アカデミック」と言う規定は当てはまらないのではないだろうか).

 私はこのような傾向の絵画は分かり易くて好きなのだが,中学校,高校の美術の教科書で取り上げられることのないこれらの画家の絵を,美術館や画集で観て,心魅かれる自分は,何か俗物で,「真の」美を理解していないような気持ちだった.

 実際に,アカデミック・アートの画家たちに対して,写実主義や印象派の画家たちからは厳しい批判があり,権威主義的で時代遅れの烙印を押され,後世の美術史では,全く主流から外されてしまった感がある.

 とは言え,高い技術に支えられたプロフェッショナルの画家たちの作品を観て,つまらないと思う人ばかりではないはずで,再評価の動きもあるらしい.慶賀すべきことだと思う.

 こうした背景を忘れても,ロシア美術館のシェミラツキの作品は,魅力的だと思う.心から感動するかと言われると,もうちょっとじっくり見て,ロシアだけではなく,ポーランド,ウクライナなどの美術館に多数あるとされる彼の作品をまとまった数見てみないと何とも言えない.

 それでも,1点でも観られたことは,やはり意味があるだろう.今後,可能な限り,注目して行きたい.



 シェミラツキは,現在はウクライナに属している都市カリコフの近郊の村で,ポーランド貴族の家系に生まれた.当時は「ロシア帝国臣民」だったことになるのだろうか.カリコフの中等学校(ギュムナジウム)で彼が学んでいた時の美術教師は,特に名を成した人ではないが,カルル・ブリュロフの弟子だったとのことだ.

 カリコフの大学で自然科学を学んだが,卒業後サンクトペテルブルクの帝国芸術院で絵画を学び,優秀な成績を治め,ミュンヘンに留学し,カール・フォン・ピロティの門下で研鑽を積んだとされる.

 ピロティと言う名を聞くのも初めてだが,この画家に関しても英語版ウィキペディアから情報が得られ,作品の写真を見ることもできる.古代ローマ史やドイツ史に取材した歴史画を描いた画家で,門下から一家を成した画家を輩出したようだが,数名挙げられても,初めて聞く名前ばかりだ.

 おそらく,専門的研究は為されているのであろうが,一般的には忘れらてしまった画家たちと言っても良いのかも知れない.写真で見る限り,ピロティの絵と,シェミラツキの絵には共通性があるように思えるが,強いて言えば,後者が風俗にも踏み込んで,明るい絵を描いているように思える.

 ウィキメディア・コモンズのリンクをたどると,ワグナーの保護者として知られ,森鴎外やルキーノ・ヴィスコンティの作品にもなったバイエルン王ルートヴィッヒ2世の,絵葉書などでよく見る肖像画を描いたのがピロティのようだ.

 シェミラツキは,1873年からローマに工房を構えたとあるが,いつまでのことかは情報がない.夏はポーランドの領地で過ごしたとされるので,短期間ではないだろう.大作をロシアやポーランドに複数残し,1902年にポーランドの村(読めないので地名は書かないが,英語版ウィキペディアに立項)で死去し,ワルシャワで埋葬されたが,クラコフの教会にある「パンテオン」と称される有名人墓所(作曲家のシマノフスキの墓もある)に改葬された.


プリュネの裸身が見られるのは・・・
 トップに掲げた絵の題材は,間違いなく新古典主義的である.裸体像がめずらしくないギリシア彫刻にあっても,女性の裸体彫刻は,前4世紀のプラクシテレスが制作した「クニドスのアプロディテ」と言う女神像が最初であったとされる.そのモデルとなったのが,彫刻家の愛人であった遊女プリュネであった.

 紀元後2世紀の終りから,3世紀初めの,ローマ時代のギリシア人作家アテナイオスの『食卓の賢人たち』(邦訳は柳沼重剛訳が,京都大学学術出版会「西洋古典叢書」から全5巻で刊行されている)に拠れば,

 実際にはプリュネは人目に触れない所の方が美しかった.だから彼女の裸身を見ることは容易にはできなかった.彼女はいつも体をぴったり包むキトンをまとうていたし,公衆浴場には行かなかった.エレウシアの祭典やポセイドニア祭では,全ギリシアの見守るところとなるが,そういう所で彼女は,上に羽織っているヒマティオンだけを脱ぎ,髪をほどいて海へ入って行った.アペレスは,彼女をモデルにして『海から上がったアプロディテ』を描いた.彫刻家のプラクシテレスは彼女を愛して,彼女をモデルにしてクニドスのアプロディテを作った.(柳沼訳,第5巻,p.122)

とある.

 遊女プリュネの裸身が美しく,ギリシア中の人々が祭礼において,それを目にする機会があったことは,この記述からもわかるが,エレウシスにおいてポセイドンの祭礼が行われ,そこに集まった人々がプリュネの裸体を目にしたのかどうかは,アテナイオスの記述からは不明だ.

 訳文に「エレウシアの祭典やポセイドニア祭」とあり,希英対訳のロウブ叢書の原文と英訳を見ても,大体「エレウシスの神々(デメテルとペルセポネ)の祭礼の集まりとポセイドンの祭礼の集まりにおいて」と読める(英訳は少し変化を持たせているが大差はない).

 しかし,エレウシスは,デメテルとペルセポネ(コレ),トリプトレモスをめぐる秘儀で有名で,「秘儀」であれば,大衆に公開されたとは思えないし,海が近い都市なので,ポセイドンの神殿があり,そのお祭りに人々が参集したと言うなら,辻褄はあうようだが,私のギリシア語読解力ではそう断言できるようには読めないし,柳沼訳もわかりいくいが,私の考えと同じだと思われる.英訳も「エレウシスで行われたポセイドン祭」とは言っていない.

 デメテルとペルセポネの秘儀を祭る行事で,プリュネが裸体を披露する機会があるとは思われないので,やはりエレウシスかどうかはともかく,ポセイドンの祭礼の一場面と考えるべきだろう.

 シェミラツキの絵をウィキメディア・コモンズ掲載の写真を拡大して見ると,向かって右上部のドーリス式柱頭を持つ神殿の前には,ポセイドンと思われる神(三叉の矛を持っている)が,女神(アンピトリテだろうか)と並んで玉座に座っている石像があり,人々が担いでいる神輿のようなものにも三叉の矛を持つ神がいる.

 プリュネの向かって右上方にいる女性が掲げている壁龕型の小祭壇のようなものには,女王の姿の女神の胸像があって,これがデメテルかペルセポネであれば,場所がエレウシスの可能性もあるかも知れない.

 中央の裸体の女性はもちろんプリュネで,その姿は確かに,「海からあがるアプロディテ」(アナデュオメネー・アプロディーテー・・長音を保持)によく見られる,両手を挙げて濡れた髪を支える姿になっている.プーシキン美術館には,有名な古代彫刻の石膏模型が多数あるけれども,本物の古代彫刻もあるようで,その中に,このタイプの像があるようだが,この絵とは無関係だろう.

 プリュネの向かって右後ろに彫像の台座があり,そこに描かれた浮彫が古代風だが,半人半魚で,ラッパを吹いているので,トリトンであろう.ポセイドンと正妻アンピトリテの息子なので,ポセイドンの神殿にふさわしい絵柄だ.


題材としての古典
 新古典主義(厳密には,それよりだいぶ後の「アカデミック・アート」)の絵は,古典古代伝承の細部にこだわり,典拠に関しても,ある程度以上に尊重しているので,絵解きは相当に楽しめる.知らないこともかなり出て来るので,古典を勉強している人間にとっては少しスリリングだ.

 シェラミツキ自身も意識していなかったかも知れないが,在学した学校の美術教師が,偶然にもロシアの新古典主義絵画の祖と言えるカルル・ブリュロフの教え子であった.

 アイヴァゾフスキー(日本語ウィキペディア「イヴァン・アイヴァゾフキー」も詳細)の「第九の波」とともに,ロシア美術館の移動絵画展派(以下,移動派)以前に分類される作品としては,ブリュロフの「ポンペイ最後の日」は,超有名な作品と言っても良いだろう.

写真:
「ポンペイ最後の日」
カルル・ブリュロフ
1827年
カンヴァス油彩
ロシア美術館


 しかし,ここにロシア的個性を読み取るのは難しいし,西欧の新古典主義絵画として観た場合,やはり平凡な絵にしか見えないようにも思える.

 ポンペイの実際の被災に関して文献的にフォローするのは不可能だが,小プリニウスが近傍のミセヌムの阿鼻叫喚を報告している.結果的に町が壊滅しなかったミセヌムでも,混乱の極みに陥っていたわけで,この絵からポンペイ最後の日を想像するのは相当に困難なように思える.

 しかし,こうした技量の確かな端整な絵を完成させ,それがまた求められる状況があって,ロシア絵画が,その後の独自の展開を準備する素地ができたと思えば,この絵にはやはり意味があるだろうと思う.画材を持った画家の自画像と思われる人物がポンペイの破滅に立ち会っているわけだから,この作品に描かれているのは,あくまでも画家の想像であることを画家自身が表明していることになる.

写真:
ピョートル・バシン
「アルキビアデスを守る
ソクラテス」
カンヴァス油彩,1828年
ロシア美術館


 画家の想像と言えば,上のバシンの絵も,殆んど想像で描かれた作品と言って良いだろう.ソクラテスが,戦闘で傷ついたアルキビアデスを救う話にはきちんと出典があり,しかもそれはプラトン作の古典中の古典『饗宴』(プラトンの作品を引用する場合は,16世紀のステパヌス版に拠る.この箇所は220Eである)である.しかし,この絵のような具体的描写は無い.

 確かな技巧と正確に見える遠近法によって描かれた端整な絵の量産は,間違いなく,ロシアの芸術史に貢献したと思われる.絵を観ただけではわからないが,プレートに「ソクラテス」という文字が見えたので,『饗宴』で言及されるポテイダイアの戦いのことであろうと察し,特にこの絵に魅かれたわけではないが,写真に収めた.

 アルキビアデス(向かって一番左)は富裕な上層階級の出身なので,華やかな姿なのは,ある程度納得が行くとしても,庶民のソクラテス(中央左寄りで槍を構えている)が,重装歩兵市民として,自弁の武具が意外に立派に思える.

 この画家に関して,見た限りでは,英語版ウィキペディアには立項されていない(読めないが,ロシア語版に立項されていることはウィキメディア・コモンズからたどれる)が,Pyotr Basinでグーグル検索すると,幾つかのウェブページに情報があった.1793年にサンクトペテルブルクで生まれ,1877年で同地で亡くなっている.帝国美術院で,ワシリー・シェブイェフ(と読むのだろうか)(ロシア語版ウィキペディア)に師事し,複数の賞を受賞し,11年間イタリアに滞在し,帰国後は母校で教授職を得た.火災後のエルミタージュの冬宮殿の修復にも関わり,イサク聖堂のイコンなどの宗教画を制作し,肖像画画家としても活躍した.

 エルミタージュHPに拠れば,同美術館に作品が1点あり,アレクサンドル1世の皇后エリザベータ・アレクセーエヴナの肖像の写真を見ることができる.とりたてて魅力的とは思えないが,新古典主義の芸術家らしく,端整で破綻の無い絵だ.

 ロシア美術館のHPは,エルミタージュのそれに比べると,格段に見劣りし,収蔵作品も本の一部が紹介されているだけだが,トレチャコフ美術館のHPは検索機能付きで収蔵作品が紹介されており,バシンの作品5点の写真が掲載されているくらいなので,おそらく殆んどの作品が写真付きで紹介されているのであろう.トレチャコフのHPは賛嘆に値する.


ヨーロッパ激動の時代に国を越えて
 ここまでに言及した画家の生没年を整理してみる.

 ピョートル・ワシリエヴィチ・バシン  1793-1877
 カルル・パヴロヴィチ・ブリュロフ  1799-1852
 アレクサンドル・アンドレイヴィチ・イワーノフ  1806-1858
 イヴァン・コンスタンティノヴィチ・アイヴァゾフスキー  1817-1900
 ヘンリク・シェミラツキ  1843-1902


 最年長のバシンが生まれた年は,1789年に勃発したバスティーユ襲撃を端緒とするフランス大革命後であり,ヨーロッパは激動の時代に入っていた.日本は寛政5年で,翌寛政6年に,東洲斎写楽の役者大首絵が刊行(版画なので「刊行」と言うようだ)された.ロシアはプロイセンとともに第2次ポーランド分割を行い,ポーランドは1795年の第3次ポーランド分割で独立国家としては消滅する.

 上の5人は,いずれも生まれた時は「ロシア帝国臣民」だが,民族としてはアイヴァゾフスキーがアルメニア人,シェミラツキがポーランド人で,まさにロシアが帝国主義的拡張を続ける大国となった時代の人々である.

 フランスの画家ではジャック=ルイ・ダヴィッドが1748年,ドミニク・アングルが1780年,ドラクロワが1798年の生まれなので,バシンが1歳年長なのを除けば,「新古典主義」以後の「ロマン主義」の画家とされるドラクロワよりも後の世代に属していることになる.

写真:
アレクサンドル・イワーノフ
「民衆の前に現れるキリスト」
カンヴァス油彩,1837-57年
トレチャコフ美術館


 「民衆の前に現れるキリスト」の制作年代は,トレチャコフ美術館のHPでは,1837-57となっており,であれば完成までに20年かかった大作ということになる.これより小さいサイズ(大体3分の1くらい)の,殆んど同じ絵柄に見える作品がロシア美術館にもあった.ロシア美術館の案内書解説には1836年から描き始められ完成は1856年以前ではないとされている.

 ヨルダン川で民衆に洗礼を施すヨハネが,遠くからやって来るイエスを指差している.洗礼者ヨハネの後ろに,福音史家ヨハネ,ペテロ,アンデレ,ナタナエルが描かれている.遠目には美しい絵だが,近くで見たり,アップの写真では,一人一人の顔に不満が残る.

 同じ画家の「我に触れるな」(下の写真)も聖書に取材した題材で,特にカトリック圏に限定される題材ではないだろうが,やはりイタリア絵画と比較して見てしまう.美しい絵だが,やはりマグダラのマリアの顔は,成功していないと思う.構図や色彩の見事さに一瞬目を奪われるが,細部をじっくり見ることなく,感心しながら通り過ぎてしまうタイプの絵だ.

写真:
イワーノフ
「我に触れるな」
カンヴァス油彩,1834年
トレチャコフ美術館


 イワーノフは,やはり画家だったアンドレイ・イワノヴィチ・イワーノフを父として,サンクトペテルブルクに生まれた.アンドレイは帝国芸術院で後進を指導しており,息子にとっても,ブリュロフにとっても師匠であったようだ.トレチャコフ美術館HPには,自画像を含む肖像画2点と,歴史画「ペロピダスの死」の写真が紹介されている.

 ペロピダスは古代ギリシアの都市国家テーバイの将軍で,紀元前4世紀に同僚のエパメイノンダスとともに,兵制を改革し,密集隊形戦法を駆使して,祖国を強国にしたが,キュノスケパライの戦いで戦死した.彼らの編み出した戦法はマケドニア王ピリッポス2世に継承され,さらにその子アレクサンドロス3世(大王)が,アジアを征服する有効な手段となった.

 父アンドレイの作品の題材からすると,イワーノフは父の代からの新古典主義の画家ということになるが,人生のかなりの部分をローマで過ごし,ドイツで流行した「ナザレ派」の影響を受けたとされる.

 ナザレ派は新古典主義に対して,批判的立場にたち,中世やルネサンス初期の宗教絵画に手本を求めたようだ.そうした姿勢が,ラファエロ以前に絵画の理想を見出すイギリスの「ラファエル前派」にも影響したらしく,その代表的な画家はヨハン・フリードリッヒ・オーヴァーベック(オーファーベックと読むべきだろうか)とされる.

オーヴァーベックと言う名には聞き覚えがある.アッシジの丘の麓にあるサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ聖堂内に復元されたポルツィウンコラの庵を模した礼拝堂の外壁のフレスコ画を描いたのがこの人だった.


 2007年9月にアッシジを訪れた時にその名を知った.特にその絵に感心したわけではないが,ドイツ人の名前がめずらしい感じがして,印象に残った.ナザレ派の主要メンバーはドイツ人だが,彼らはローマに住んでこの運動を展開し,イワーノフに影響を与えたのもローマなので,オーヴァーベックの絵がローマからさほど遠くはない,アッシジにあっても不思議はない.

 オーヴァーベックはドイツに,イワーノフはロシアに帰って,それぞれの国の絵画史に一定の影響を遺した.彼らに運動の展開と研鑽の場を提供したイタリアの芸術的環境は,19世紀であってもやはり相当に重要な意義を持っていたことになる.


新古典主義の本流,フランスの作品
 絵画における新古典主義の総元締めともいうべきダヴィッドの絵が,エルミタージュでたった1点だが見られた.題材は,紀元前7世紀末から6世紀前半に活躍した古代ギリシア随一の女流詩人だ.

写真:
ジャック=ルイ・ダヴィッド
「サッポーとパオン」
カンヴァス油彩,1809年
エルミタージュ美術館


 紀元後9世紀くらいのビザンティンの頭の固い聖職者が,ヘレニズム時代に9巻に編集された彼女の全集を焚書したという伝説があるが,12世紀のビザンティンを代表する学者ツェツェスがすでにサッポーの作品が失われたと言っているので,その時代までには湮滅してしまっていたのは間違いないだろう.

 現在は引用断片と近代に発見されたパピルス断片によって部分的にしかその作品を読むことはできないが,アイオリス方言に疎くても,その美しさは人を陶酔させるものがあることは容易に察せられる.間違い無く古今に冠絶する大詩人である.

 レスボス島の人で,若い女性に教育の場を提供したことで,同性愛の伝説ができ,女性の同性愛を「レスボス風」と言う習慣もできた.そのサッポーが美少年パオンに恋をして,失恋故に,レスボス島のミュティレネの岬から身を投げて死んだというのも,そうした悪意ある伝説の一つかも知れないが,何かしらのロマンティシズムを感じさせるので,ダヴィッドが左側に「抒情詩」の寓意である竪琴を捧げ持つエロスを登場させる「サッポーとパオン」の絵を描いたのであろう.

 美しい絵だ.サッポーの膝には詩の原稿であろうパピルスの巻物,エロスの向かって左側に睦みあう2羽の鳩が描かれていて,芸が細かい.



 世界の超一流美術館の中で,5本の指で数えても間違いなく上位に入るエルミタージュ美術館の収蔵作品としては,画題も地味で,水準もそれほどでもなく,さらに現在は殆んど忘れられた画家と言える作者の次の作品を取り上げるのは,全く個人的思い入れに過ぎない.

 しかし,新古典主義の題材として,ギリシアの神話,歴史,文学だけではなく,ローマの伝説や歴史も重要である.

 紀元前44年の3月15日に,ユリウス・カエサルが元老院で暗殺された.伝記作家スエトニウスに拠れば,マルクス・ユニウス・ブルトゥスが暗殺者の中にいるのを見て,「子どもよ,お前もか」(カイ・スュ,テクノン)とギリシア語で言って死んだかも知れない.それを16世紀後半から17世紀初頭を生きた劇作家ウィリアム・シェイクスピアは,傑作『ジュリアス・シーザー』において,「ブルータス,お前もか」(エト・トゥー,ブルーテ)と言うラテン語に置き換えた.

 その題名にも拘わらず,『ジュリアス・シーザー』の主人公は,次世代の主導権を争って,時間差でどちらも頂点に立つことはできなかった元老院派のブルトゥス(ブルータス)と,カエサル派のマルクス・アントニウス(マーク・アントニー)である.ブルトゥスはピリッピの戦いで,カエサル派に敗れ,自殺する.

 そのブルトゥスの妻がポルキア(ポーシャ)で,彼女の父がマルクス・ポルキウス・カトー(ポルキアはポルキウス氏族の女性という意味)であった.カトーの同名の曽祖父が有名な監察官カトー(カント―・ケンソル)で,ひ孫に対して大カトー(カトー・マヨル)と称される.

 ひ孫の小カトー(カトー・ミノル)はストア派の哲学者としても知られ,哲学者カトー(カトー・ピロソプス)とも言われるが,自ら命を絶った北アフリカの地名にちなんで「ウティカのカトー」(カトー・ウティケンシス)とも後世呼ばれる.

 「ウティカのカトー」という17世紀の作曲家ヴィヴァルディのオペラもあるほど良く知られた通称だ.

写真:
ギョーム・ギヨン・ルティエール
「ウティカのカトーの死」
1799年
エルミタージュ美術館


 カエサルが「賽は投げられた」と言って,武装したままルビコン川を越え(前49年),対立していた元老院派に宣戦を布告した時,ライヴァルのポンペイウスはローマから逃れたが,パルサロスの戦い(前48年)で敗れ,逃亡先のエジプトで殺された.

 カトーも北アフリカに逃れたが,元老院派はタプススの戦い(前46年)で敗れ,ウティカで後衛にまわっていたカトーは降伏を勧告された.しかし,霊魂の不滅をソクラテスが説く,プラトン作の『パイドン』であろう書物を読みながら,彼は自死を決意し,それを敢行した.

 この絵は,一度目の試みの後,医者が傷口を縫い合わせたが,「両手で臓腑を引きちぎり傷口を割いて死んだ」(岩波文庫,河野与一訳『プルターク英雄伝』(九),p.301)とされる場面の直前を描いたものだ.

 理想化され過ぎているが,カトーの思い込みとも言える強い確信と意志が表情に出ている.現実の死は苦痛に満ちていて,こんなものではないだろうが,この物語を伝えた人と,これをはるか後世に描いた人のメッセージが込められている.

 それほど,魅かれもしないし,美しい絵とも思わないが,「新古典主義」のある一面を間違いなく語っている作品に思えた.

 ルティエールは1860年の生まれで,ダヴィッドより12年後輩で,アングルよりも20歳年長なので,まさに新古典主義の時代の画家と言えよう.ウィキメディア・コモンズでも,この作品しか取り上げられていないので,具体的に絵画史の中でどのような位置づけになるのかはわからない.

写真:
ジャン=ジャック・ラグルネ
「オデュッセウスの子
テレマコスを認識するヘレネ」
1792年
エルミタージュ美術館


 同じ部屋に,ジャン=ジャック・ラグルネの上の写真の作品があった.1739年の生まれなので,ダヴィッドより9歳年長で,1760年から2年間ロシアに滞在しているが,作品は1792年の作品だから,フランスで描かれたものだ.

 24巻から成る『オデュッセイア』の最初の4巻は「テレマケイア」という通称を持つように,テレマコスが父の消息を聞くため,ギリシア本土を訪ねてまわる話になっている.最後にスパルタのメネラオスの宮廷を訪ね,父の生存に絶望して涙を流している場面で,座っているメネラオスと立っているヘレネが多分慰めているのであろう.

 題材は新古典主義にも通じるが,少し緊張感に欠ける感じがまだロココの遺風を感じさせる.15歳年長の兄ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネも画家で,やはり古典を題材に作品を描いたが,彼はフラゴナール(1732年生まれ)よりも年長で,弟よりも一層ロココを感じさせる.絵画の流行にも,やはり歴史と連続性があるのだということを実感する.



 10月26日,渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで,「ムーティ,ヴェルディを語る」というタイトルの,指揮者リッカルド・ムーティの講演があった.「マエストロ」の名にふさわしいだけでなく,真にヴェルディを愛し,音楽を愛する情熱が伝わってくる,すばらしい講演だった.人生には時々,こうした感動が必要だ.






カトーが此方をギュッと見る,新古典主義の部屋で
エルミタージュ美術館