フィレンツェだより番外篇
2013年6月4日



 




「アレクサンドロス大王」鍍金青銅像
マッシモ宮殿 国立考古学博物館,紀元後2世紀



§ローマ再訪 - その11 古代ローマ(5) 肖像

「写真」ができるまで,誰かの顔や姿を再現する方法は,絵か彫刻しか無かった.版画も絵の一種であろう.


 「写真」を意味する英語photographyは,「光」(ポース/フォース)と「書く」(グラペイン/グラフェイン)と言う古代ギリシア語からの造語で,「光を記述すること」と言うような意味であろうと思っている.「光の」と言う格変化形がポートスとなるが,t音が出て来ることはギリシア語を初歩だけでも学んだものなら容易に理解できる.

 もちろん,古代ギリシアには写真はない.

 高校の世界史の教科書などに掲載されている古代ギリシア,ローマの将軍,政治家,思想家,文人などの写真は,その殆んどが古代彫刻の写真で,ときには,それらをもとにした,もしくは全く想像で描かれたルネサンス以降の絵のこともある.

 ヴァティカン宮殿の「署名の間」にラファエロが描いた有名なフレスコ画「アテネの学堂」では,中心にいるアリストテレスとプラトンのうち,プラトンの顔は作者ラファエロが尊敬していたレオナルド・ダ・ヴィンチの顔(素描自画像が残っていて,確認が可能)だが,アリストテレスの顔は明らかに古代彫刻を手本にしている.ミケランジェロの顔はヘラクレイトスに適用され,ラファエロ自身も向かって右端に自画像を描きこんでいるが,ソクラテスの姿は,多分古代彫刻を参考にしたものと思われる.


古代の哲学者の肖像
 ソクラテス,プラトン,アリストテレスの胸像は多数現存しており,ソクラテスには有名な全身像(大英博物館)もある.ルーヴル美術館,カピトリーニ博物館で見ることができたし,マッシモ宮殿にも展示されている.パレルモの州立考古学博物館にあったものは,解説版に紀元前390年代の原作の,五賢帝時代のコピーとあった.

 アリストテレスに関しては,アルテンプス宮殿の考古学博物館のものが良く,感銘を受けた.パレルモで見た胸像も,ルーヴルで見た胸像も,それにくらべると威厳が足りない.前者には,リュシッポスの原作に遡る可能性のあるハドリアヌス時代のコピーとの解説があった.

 これらは実在の人物で,特に古代には「哲学」が学問として尊重されたので,これだけ多くの胸像が残り,その姿は概ね本人の実像を反映しているであろうと想像される.

 ソクラテスの胸像の風貌は,プラトン『饗宴』で登場人物のアルキビアデスが語った通りなので,もしかしたら,文字テクストの影響が大きいかも知れないが,やはり実在のソクラテスの姿に近いのだろうと思う.

 ジャック=ルイ・ダヴィッドの「ソクラテスの死」(メトロポリタン美術館)はかなり理想化されてはいるが,やはり古代彫刻を参考にしたのだと思う.

 いずれにせよ,3人の哲学者の胸像は,それぞれに独自の特徴があるとは言え,どれも一目見て「この人」と特定できるほど似ているのだから,実際の姿を反映していると思って良いと思う.

 しかし,ホメロスのように,いたかいないかもわからない人物に関して,その古代彫刻の胸像を見た時,多くの場合「ホメロス」と認識できるのは,非常に不思議な感じがする.


アレクサンドロス大王の肖像
 「大王」と称される,古代マケドニア王国のアレクサンドロス3世の肖像とされる彫刻も随分たくさんあるようだ.

 ヘラクレスの血を引くと自称していた王家に生まれ,ヘラクレスが行ったとされる所まで東方遠征を志しながら,自らを母方の祖先とされるアキレウスになぞらえていたように,「若く美しい」,「永遠の青春」といったイメージを人に抱かせるが,思ったよりも美形の胸像は少ないように思われる.

 ローマ時代の著述家プルタルコスはギリシア語で,ギリシアとローマの有名な人物を対比する形の列伝を書いたが,「ユリウス・カエサル伝」と対になっているのが「アレクサンドロス伝」で,

 さて,アレクサンドロスの姿を最もよく現した彫像はリュシッポスの諸作品であり,アレクサンドロスも彼だけに像を作らせるのが良いと考えた.何となれば後に彼の後継者たちや友人たちがまねた特徴である,くびを左に軽くまげるところとか目の潤いをこの芸術家は正確に把えたからである.(村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝 中』ちくま文庫, pp,10-11,訳者は井上一)

と記述している.

 国立西洋美術館の特別展で日本にも来たルーヴル美術館所蔵の胸像は,リュシッポスの作品のコピーとされるが,発見された場所はティヴォリなので,ローマ時代のものであろう.これもカールした長髪の若者ではあるが,決して美形とは言えない.

写真:
「アレクサンドロス大王」
紀元前4世紀リュシッポス作の
コピー(髪の部分に所々穴が
あるのは,冠のような装飾が
ついていたと思われる)

マッシモ宮殿国立考古学博物館


 上の写真の像が4世紀のリュシッポス原作のコピーだとすれば,プルタルコスの証言を信じれば,原作は大王本人後任の彫刻家の同時代作品だから,本人を反映していると思われるが,ルーヴルの胸像には似ていないように思える.

 そもそもルーヴルでは,少なくとももう1点,アレクサンドロスの胸像があるようで,これは繊細な美青年に見えるが,リュシッポス原作の私が見たコピーのどちらにも似ていない.

 アテネのアクロポリスにあるエレクテウス神殿(エレクテイオン)で見つかり,現在はアクロポリス博物館にある胸像も繊細な美青年だが,似ていない.トップに挙げた鍍金青銅像も,はっきりルーヴル所蔵の「最古」の胸像には似ていない様に見える.

 G.M.A.Richter, abridged and revised by R.R.R.Smith, The Portraits of the Greeks, London: Phaidon Press, 1984(以下,リヒター&スミス)

が,今,参考にしている本だが,死後に鋳造された貨幣に刻印されている横顔も若者で,2点の写真が掲載されているが,似ていない.トラキア王リュシマコス鋳造のものは理想化された美青年で,エジプト王プトレマイオス1世鋳造のものは力感に溢れた権力者に見える.



 J.J.ポリット,中村るい(訳)『ギリシャ美術史 芸術と経験』ブリュッケ,2003(以下,ポリット)

の第5章は「個人の世界」と題され,前4世紀とヘレニズム時代を扱っているが,その最終部分は「彫刻家リュシッポス 終焉と始まり」と言う見出しのもと,22ページに渡る考察になっている.

 そこには,

 ギリシャの肖像彫刻では,社会的機能と人間性の表現がバランスをとっている.リュシッポスはアレクサンドロスの彫刻をつくるときに,バランスを人間性のほうに傾けた.人物の個性だけでなく,鑑賞者がこの人物の気質を,もっと思いめぐらすように工夫している.(ポリット,p.228)

とあり,この時代の芸術の特徴を「ヘレニズムの独裁君主や将軍など,有力な個人の意思が,芸術を通して表された」として,リュシッポスの達成を「個性を表す肖像」と言う言葉に集約している.

 リュシッポス作ではないが,ペルガモンで発見され,イスタンブールの考古学博物館にあるアレクサンドロスの肖像彫刻は,少し後の時代の作品だが,リュシッポスが確立した傾向が実現しているとしている.

 特にこれに特化して勉強したことがないので,理解できていないことも多いと思うが,要するに,ヘレニズム時代の美術は,多民族,多文化社会であるヘレニズム諸都市において,同一民族の共通理解を超えて,多くの人の関心をひく個性の表出という特徴によって,それ以前の時代の諸作品とは一線を画しており,それを確立したのはリュシッポスであり,彼がアレクサンドロスの宮廷で活躍したことは美術史的にも重要な意味を持っているということであろうか.

 リュシッポス原作のアレクサンドロス像は全く現存しないと考えて良いのだろうが,後世の模刻や,彼の影響を受けたと思われる作品が複数存在することは,それを裏付けていると言えるかも知れないし,一方,リュシッポスの芸術性だけが理由ではなく,やはりアレクサンドロスという古代でも超一級の有名人だから,その姿を伝えるものが多く残ったとも考えられるだろう.



 イッソスの戦いを描いたポンペイのモザイク(国立ナポリ考古学博物館)は,リアルだが,「大王」に関しては,長髪という特徴は他の像と共通だが,やっぱりどれにも似ていないように思われる.プルタルコスによれば,

 アペレースはアレクサンドロスが雷電を持っているところを描いたが,顔色をそのままに描かず薄黒く汚く描いた.しかしアレクサンドロスは色白で胸と顔は特に白さに紅がさしていたといわれる.(上掲書,p.11)

とされており,アペレス(長音省略)はギリシアを代表する画家なので,アレクサンドロスを絵に描いた芸術家もいたと言う貴重な証言だが,プリニウスの『博物誌』に拠れば,マケドニア王カッサンドロスが,エレトリアのフィロクセノス(ピロクセノス)と言う画家にアレクサンドロスの戦闘場面を描かせ,リヒター&スミスは,ポンペイのモザイクをこの再現であるとしている.

 比較的丸顔,彫りの深い顔だち,カールした長髪で,髯をたくわえていない点が「アレクサンドロス大王」像の共通点だろうか.細かく見るとどれも似ていないにもかかわらず,私たちが共通してアレクサンドロスと認識するのは,上記の特徴を備えた青年戦士王のイメージに集約されていくからであろうか.


ゲルマニクスの肖像
 下の写真の像は,第2代ローマ皇帝ティベリウスの弟,大ドゥルスス,その子ゲルマニクス,ティベリウスの子,小ドゥルススそれぞれの可能性があると考えられてきたが,博物館の解説版ではゲルマニクスとされている.

写真:
ゲルマニクス胸像の頭部
紀元後1世紀前半の
ティベリウス時代

マッシモ宮殿国立考古学博物館


 ティベリウスは,政策上の実績としては名君の名に値するが,人間不信で,地味で,人気がなかった.そもそもある時からローマを離れ,カプリ島に常住していた.それに比べて,弟の大ドゥルスス,甥のゲルマニクスは人気があり,息子も,弟も甥もティベリウスの前に死んだので,皇位はゲルマニクスの子ガイウス,通称カリグラ(小さな軍靴)に渡った.

 彼への期待は大きく,即位当初は政治にも意欲的に取り組んだようだが,精神に異常を来して,ローマ史上でも有数の暴君として,暗殺された.

 ゲルマニクスの母は,アウグストゥスのライヴァルだったマルクス・アントニウスと,アウグストゥスの姉オクタウィアの娘(小アントニア)なので,ゲルマニクスはアウグストゥスから見て姪の息子であり,血縁者ということになる.ということは,暴君カリグラはマルクス・アントニウスのひ孫ということになり,アウグストゥスから見ると姪の孫,ユリウス・カエサルとも遠縁(姉妹の孫のひ孫)ということになる.

 第5代皇帝の通称ネロの母,小アグリッピナはカリグラの妹なので,皇帝ネロは,カリグラから1代下がって,やはり上記の英雄たちの血を引いていることになる.



 全く関係ない話だし,ずっと後世のことだが,豊臣秀頼は,もし秀吉の実子だとすれば,母である淀君(茶々)は浅井長政と,織田信長の妹お市の間に生まれた娘なので,豊臣秀吉の子,浅井長政の孫,織田信長の妹の孫ということになり,このような生まれは,本人には迷惑なことだと思われる.カリグラもさぞ,しんどかったことだろう.ちなみに徳川秀忠の妻は,淀君の妹なので,三代将軍家光と弟の駿河大納言忠長も,家康の孫,秀忠の子,長政の孫,信長の妹の孫ということになる.

 カリグラにせよ,ネロにせよ,英雄の家系に生まれ,ローマ皇帝になると言う巡り合わせを背負っていなければ,もしかしたら,才気に溢れた有能な若者として青春時代を過ごし,それなりの政治経歴もこなしながら,幸せな人生を送れたかも知れない.豊臣秀頼も気の毒な人生だったが,カリグラもネロも,確かに統治下の国民に多大な迷惑をかけた暴君であったのは間違いないが,個人としては可哀そうな人生に思える.

 カリグラには兄が2人いて,どちらも成人し,政治的キャリアを積んで,それなりに有能だったが,陰謀に巻き込まれ,一方は流刑となって自殺の可能性がある死を遂げ,もう一方は獄死した.
ティベリウスの息子,小ドゥルススも,権臣セイアヌスに毒殺され,小ドゥルススの息子,すなわちティベリウスの孫は,皇帝となったカリグラに殺害された.セイアヌスも,ティベリウス在世中に失脚し,処刑された.300年後のコンスタンティヌスの一族の殺し合いを思い起こさせる.

 内乱の時代を収拾し実現された「ローマの平和」はこうした,皇帝一族の殺し合いと,外敵の絶え間ない脅威の上に築かれていた.ローマ時代で,最も文学が栄え,芸術にも独自性が芽生えた時代は,不安定で,1つ間違えば崩壊の可能性が常に内在していた.

 ユリウス・クラウディウス朝,フラウィウス朝,五賢帝時代という,時には崩壊の危機に見舞われながらも100年を超える安定の時代が続いた背景は,やはり多くの人にとって大帝国としての統一体であることが望ましかったからだろう.


アウグストゥスの肖像
 「ローマの平和」を実現したのが,アウグストゥスの尊称を得,元首(プリンケプス)として「ローマ帝国」の頂点に立ったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(以下,アウグストゥス)であろう.

 下の写真の彫像は,トゥニカの上にトガをまとったローマ伝統の服装をしているが,アウグストゥスは紀元前12年に,大神祇官(ポンティフェックス・マクシムス)に就任しており,父祖以来の宗教の伝統を復興しようとした彼の決意が漲っているように見える.威厳に満ちた顔には,ヘレニズム時代の君主像彫刻の影響が見られるらしい.

写真:
大神祇官の姿のアウグストゥス
前1世紀から後1世紀
マッシモ宮殿国立考古学博物館


 ブロンズ原作の大理石コピーとされるものがヴァティカン博物館にあるが,こちらは武具を纏った将軍の姿の「プリマ・ポルタのアウグストゥス」と双璧とも言うべきアウグストゥス像で,軍事力と宗教的権威を背景にした彼の政治力によって「ローマの平和」が実現したことを思わせる.

 この大神祇官の姿の彫像を見るのは,3度目だが,何度見ても見惚れる.

 なお,ルーヴル美術館に「執政官の姿のアウグストゥス」があり,これは見て,写真にも収めたが,
 Cecil Giroire & Daniel Roger, Roman Art from the Louvre, New Yok: American Federation of Arts, 2008

に拠れば,「トガを纏うアウグストゥス」という立像も,2点の胸像もあり,うち1点は,マッシモ宮殿の立像の胸から上の写しのように見える.しかし,髪型には明らかに違いが見られるので,「写し」,「模刻」と言い切ってしまえるかどうか判断がつきかねる.


「皇帝」の肖像が多い理由
 キリスト教を迫害する動機として,「皇帝崇拝」が挙げられるが,これがどれほど実体を持ったものだったのかは,不勉強で確信がない.

弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』日本基督教団出版局,1984(以下,弓削)

と言った歴史研究者の著作もあるが,日本語で書かれてあっても,すぐに理解するのは難しいように思える.

 暴君ではなかった「皇帝」たちも,キリスト教徒を,ローマの伝統宗教に反する者たちとして迫害した.それを理解できるとしても,どこまで本気で自分たちへの「崇拝」を強要したのかは,疑問に思う所もある.

 「皇帝」,「帝国」という訳語に引きずられがちだが,ローマは少なくとも五賢帝の時代までは,建前として「共和国」(レス・プブリカ/レース・プーブリカ)のままであり,彼らは「王」ではなく,「市民」の1人であったはずだ.

 しかも,ユリウス・クラウディウス朝の「皇帝」や五賢帝は,最高水準に近い哲学その他の教育を受けており,先帝たちが,人間として「死すべき者」であったことは良く知っていたはずで,自分たちを「神」と認識するには,彼らは余りにも高い教養と常識を持ち過ぎていたように思う.

 アウグストゥスという名称を「皇帝」たちは引き継いでおり,これが宗教的権威に支えられていることは理解できるが,彫像が多く作られ,それが「帝国」の各地に残っている背景には,「皇帝」が神として喧伝されたというより,現世の支配者として「帝国」各地の民衆に認知せしめる政治的意図が,主たる理由だったのではないかと思う.

 「帝国」支配下の広い地域に残っていた多くの「皇帝」たちの像は,崇拝の対象である諸々の宗教の神像とは異なり,第1に「帝国」の「臣民」に支配者が誰かを知らしめる政治的な意味を持っていたのであろうと想像される.

写真:
ハドリアヌス帝
マッシモ宮殿国立考古学博物館
後2世紀前半

テルミニ駅近くの
サンタ・ビッビアーナ地区で発掘


 ギリシアの有名人の胸像は殆んどの場合,有髯で,中年以上の顔であることが多いように思える.ギリシア人は髯を蓄え,ローマ人は剃るということは良く知られており,ローマ皇帝で最初に髯を蓄えたのはハドリアヌスとされ,彼はそれ故にギリシアかぶれと揶揄された.

 ギリシア語による著作がある哲人皇帝マルクス・アウレリウス,その息子コンモドゥスの肖像も有髯で,「背教者」ユリアヌスも髯を生やしていた.彼もギリシア語による著作が残っている.

 ハドリアヌスは,「皇帝」たちの中でも第一級の知性と教養を持った人物だが,その彼にして,寵愛した美少年アンティノオスがエジプトで死んだ時に,彼を神格化※し,多くの胸像,立像,浮彫を作らせたが,それらの像が「神像」の役目を果たしたことは間違いないとしても,それは,あくまでも皇帝の個人的心情の現れで,当時としても,それに公共性を持たせることは奇異なことと受け取られたと思う.(※アポテオシスというギリシア語は「神」として祀ることであり,「神」化の方が正確だと思うが,日本語としてなじまないようなので,「神格化」と言う用語を用いる.弓削は「神化」を用いている)

 ヘレニズム君主たちを「生き神」のように祀ることは,アレクサンドロスがエジプトで,ペルシャ帝国の支配からの解放者,救済者として,神と同一視される栄誉を受けて以来,ギリシア人にも受け容れられたオリエント的慣習であろうと,漠然と想像していたが,弓削に拠れば,

 今のトルコに当たる小アジア,ローマ時代はまだギリシア人都市の世界で,思想的・宗教的伝統はギリシア的である.この世界では,生きた人間の神化,ことに外国(自分の都市以外)の権力者の神化の歴史は古く,アレクサンドロス大王以前に遡る.それはおそらく,ペロポンネソス戦争の末期の前四〇四年にサモス島で始められたスパルタの将軍リュサンドロスに対する祭祀である.(中略)こうした例はアレクサンドロス大王の死後増加し,利害関係や政治的計算を背後にもった外交的慣行となった.こうした慣行が頻繁化すると,神的栄誉の形式も数も高まってゆく.受拝者はアレクサンドロス以後,ヘレニズム諸国の王やその先行者で,彼らは,「善行者(エウエルゲテース)」,「救済者(ソーテール)」あるいは「(都市の)建設者(クティステース)」などの称号を受けた.
 このように長い歴史をもっていた小アジアのギリシア人による人間神化は,ローマの支配がこの地域に及ぶに従ってローマの将軍や総督に向けられるようになった.
(上掲書,pp.271-272)

とのことで,この後,弓削は,ディオ(ディオン・カッシオス)のギリシア語著作から,

 オクターウィアーヌスがこの時に許可した祭祀の形態が他の属州における皇帝礼拝として,他の皇帝の時代にも踏襲されたこと,しかし首都ローマでは,皇帝は如何なる意味でも生前に神化されることはなく,「正しい統治を行った」皇帝が死後神化を受ける決まりだった

と述べられている箇所を引用している.

 やはり,崇拝の対象としての神像の代わりではなく,自分が現世の支配者であることを明示するプロパガンダ的な役割に重点があったと考える方が,妥当だろう.今の感覚からは,その程度で果たして効果があったのかどうか疑問に思いもするが,これだけ多くの「皇帝」の像が造られたということは,少なくとも同時代的には有効だと考えられていたのだろう.


哲学者エピクロスの肖像
 たとえ模刻であるにせよ,古代のエピクロスの胸像の実物を見たのは,フィレンツェ滞在中の2007年5月,ボーボリ庭園内の「レモン温室」で開かれていた「バビロニアからローマまでの古代庭園」展を見に行ったときのことだと思う.

 庭園の模型や,植物に関する書物などとともに古代彫刻も幾つか展示されていて,ホメロス,プラトン,アリストテレス,テオプラストスとともに,エピクロスの胸像もあった.

 図録はあったのかも知れないが,購入しなかったし,写真も撮影禁止だった(注意されていた人がいた)ので,どこの所蔵の作品かわからないが,下の写真と似ていたように思う.案外,この作品だったような気もするが,記憶が定かではない.

(後日:若い友人のF氏から,この特別展に図録があり,勤務先の図書館も所蔵しているとのご教示をいただいた.イタリア・アマゾンに1冊在庫があったので,注文した.

 Giovanni da Pasquale & Fabrizio Paoluzzi, eds., Il Giardino Antico da Babilonia a Roma: Scienza, Arte e Natura, Livorno: Syllabe, 2001

である.これに拠れば,この特別展に来ていたエピクロス胸像はローマのカピトリーニ博物館所蔵のものだった.であれば,もう一度見た可能性がある,写真を撮っているかも知れないので確認したが,少なくとも写真には写っていなかった.2012. 6. 20)

 そもそも,この胸像が「エピクロス」と同定されるのも,他にいくつもの古代彫刻が残っており,それらのうちのあるものは,名前が書かれていて,エピクロスとわかるからであろう.

写真:
哲学者エピクロス
紀元前3世紀の原作からの
後1世紀のコピー
マッシモ宮殿国立考古学博物館


 ストア派の方が,禁欲的で高尚な感じがするので,「エピキュリアン」というだけで堕落したイメージもつきまとうが,節度あってこその快楽という,抑制の効いた思想で,支持者も多い.

 ローマの思想家は,ストア派を基礎とする人が圧倒的に多いが,エピクロスの思想をラテン語の詩で書き記したルクレティウスは言うまでもなく,ウェルギリウス,ホラティウスを始めとする詩人はかなりの人がエピクロス派の考えを思想的背景として持っていたとされる.

 エピクロスの胸像は,私たちがイメージする「エピキュリアン」よりも,やはり古代を代表し,ローマを始めとする後世にも多大な影響を与えた「哲学者」と言う印象を受ける.


女神の肖像
 先日,新たに,

 Carlo Gasparri & Rita Paris, Palazzo Massimo alle terme: Le Collezioni, Milano: Electa, 2013

と,

 Rosanna Friggeri, The Epigraphic Collection of the Museo Nazionale Romano at the Baths of Diocletian, Milano: Electa, 2001(以下,フリッジェーリ)

をそれぞれ,新刊と古書で入手できた.前者は,博物館の収蔵品をほぼ網羅する解説で,若い友人F氏に教えてもらった.後者は,イタリア語原本もまだ手に入るようだが,英訳版を入手できた.

 フリッジェーリに拠れば,下の写真の胸像は,農業の女神デメテル(大地母神を意味するギリシア語で,ローマのケレスに同定される)をテラコッタで表現したもので,紀元前4世紀末から3世紀前半の作ということで,ローマの考古学博物館所蔵作品の中でも,かなり古いものと言えよう.

写真:
デメテル(テラコッタ)
ディオクレティアヌス浴場跡
考古学博物館


 この像は,ラツィオ州ローマ県アリッチャ(古名アリキア)のカーザレット地区で,やはりテラコッタのコレー(デメテルの娘ペルセポネ,ローマではプロセルピナ)胸像,3体の玉座の女神像などとともに発掘された.

 南イタリアにあった大ギリシア地方(マグナ・グラエキア)やシチリアの影響が見られると言うが,これほど古いのに,洗練度の高い見事な彫像が,「ローマ芸術」と言えるのかどうかは,判断がつきかねる.



 ローマの南東に広がるアルバーニ丘陵(コッリ・アルバーニ)の火山湖であるアルバーノ湖とネミ湖周辺に点在する小邑群はカステッリ・ロマーニと称され,『地球の歩き方』にも4ページに渡って紹介されるなど,よく知られた観光地でもあるが,この像が発見された現在のアリッチャ,古代ラティウム地方の都市アリキアという名を聞いて,古典文学を学ぶ者には多少とも思い当ることがある.

 ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』7巻で,ウィルビウスという地元イタリアの武将が戦死する.彼は「ヒッポリュトスとアリキアの子」とされる.

 「ヒッポリュトス」は,エウリピデスの悲劇『ヒッポリュトス』の主人公で,義母パイドラの不倫の恋情を拒んで恨みを買い,彼女の死を賭した詐略によって,父テセウスの呪詛を受け,追放の身となり,海獣の登場に驚いた馬が暴れ,戦車の車輪に巻き込まれて死ぬ.

 彼の敬神を愛した女神アルテミス(ローマ神話ではディアナ)が,医神アスクレピオスの技によって,彼を蘇らせ,イタリアにあった,ニンフのエゲリアの森で,ディアナの神殿と聖域を守りながら暮らし,ウィルビウスと名前を変えたとウェルギリウスは述べている.

 つまり,『アエネイス』7巻で戦死したウィルビウスは,同名の息子ということになる.

 これに対して,紀元後4世紀から5世紀初頭に活躍した文法家セルウィウスがつけた古注が残っており,この伝承への疑問を呈しながら,「アリキア」という地名を挙げている.

ちなみに,エウリピデスのギリシア語原作とセネカのラテン語による翻案(『パエドラ』)を参考に,傑作『フェードル』を書いた17世紀フランスの劇作家ジャン・ラシーヌは,この地名をヒントにアリシー(アリキア)という名の,主人公イポリット(ヒッポリュトス)の架空の恋人を造形している.


 いずれにせよ,アリキアという古名を持つアリッチャは,古代ローマの伝承とも関係の深い由緒ある都市である.

 息子ウィルビウスの母とされるアリキアがエゲリアと同一人物かどうかはウェルギリウスでもセルウィウスでもわからないが,多分,別の人物であろうことは,オウィディウス『変身物語』15巻に出て来るエゲリアの物語からわかる.

 エゲリアは不死のニンフであったが,ローマ第2代の王ヌマ・ポンピリウスの妻となり,夫は人間なので死を免れないが,その死を悲しんで,「アリキアの谷のみどり濃い森に隠した」(中村善也訳,岩波文庫,下巻,p.323).

 彼女をウィルビウスと名前を変えたヒッポリュトスが自分の不幸な身の上を語りつつ慰めたが,亡夫を想うエゲリアの悲しみは癒されることなく,女神ディアナはその貞節に心打たれて,エゲリアを尽きることのない泉に変身させた.

 こうして見ると,アリキアはラティウムのディアナ信仰の聖域で,古伝承に満ちた土地であることがわかるので,古い神像が出てきても不思議はない.

 ディアナ信仰もオレステスがギリシアからその祭儀もたらしたとオウィディウスはしており,ギリシアとの関係も,事実はともかく,伝承上は常に意識されていたであろう.

 ディオクレティアヌス浴場跡の考古学博物館で見ることのできる神像は,ディアナ(アルテミス)ではなくデメテル(ケレス)とペルセポネ(プロセルピナ)であるが,後者がヒッポリュトスの父テセウスが冥界に行く伝説と関係が深く,エウリピデス『ヒッポリュトス』の設定とも深く関係するので,あるいはディアナ信仰,ヒッポリュトス(ウィルビウス)信仰との関連が考えられるかも知れないが,根拠とすべき材料がないので,わからない.



 観光初日の朝,トラステヴェレのサン・コジマート市場を訪れた.青果の露店が並ぶ端に,一軒だけ古本屋の露店があり,ゆっくりとテーブルに本を並べ始めたところだった.

 わずかに並んだ数冊を手に取って見ていると,買う気があると見たのか,老店主(下の写真の向かって左から2人目.倉庫は写真の右奥)が,まだまだ倉庫に在庫があるが,と声をかけてきたが,フィレンツェでその存在を初めて知った「イタリア悲劇の父」アルフィエーリの『ミッラ』の薄い本1冊だけ買って,自制した.

この話もオウィディウス『変身物語』が主たる典拠で,不倫の恋情によって,美少年アドニスの母となる女性の物語だ.アドニスは後にアプロディテ(ヴィーナス)に愛されるが,若くして死に,女神を嘆かせる.

 その起源を大地母神に擬せられる女神は,愛人にせよ,敬虔な信者にせよ,若者と関連する物語を持つ.ディアナ(アルテミス)にはエンデュミオンもいるが,ディアナにとってのウィルビウス(ヒッポリュトス)は,大地母神(キュベレ)にとってのアッティス,ミネルウァ(アテナ)にとってのエリクトニオス,ウェヌス(アプロディテ)にとってのアドニスの如くである,とセルウィウスは述べている.

 上の写真の胸像がケレス(デメテル)であれば,農業の起源譚に関係づけられるエレウシスのトリプトレモスもまた,そのような関係を想起させる.

 デメテルは「デー(ゲー)」(大地),「メーテール」(母)の合成語で,名前からして大地母神であり,一方,伝承上トリプトレモスは夭折しないが,常に死の危険と隣り合わせであることから,永遠なる存在としての大地母神と,若者の死と再生の物語は,植物の連想から農業や栽培の起源譚と結び付けられた神話伝承の一つであろうことは,想像に難くない.






どこで出会うか 古書の愉しみ
サン・コジマート広場の市場にて