フィレンツェだより番外篇
2013年5月12日



 




床モザイク
カラカラ浴場



§ローマ再訪 - その10 古代ローマ(4)

古代の床モザイク(イタリア語でモザイコ・パヴィメンターレ)を初めて見たのは,大学時代,ギリシアに行った際に,船でキプロスに立ち寄り,その沖の海でヴィーナス(アプロディテ)が生まれたと言う伝説のある古代都市パポスに上陸した時のことだ.


 小さな古代奏楽場(オーデイオン)の跡があり,そこに床モザイクがあったと記憶しているので,その時が始めてだと思う.撮った写真などは津波で流れたので,かすかな記憶だけが根拠だ.

 その次は,おそらく,日本に来た特別展等で見ていなければ,20数年後に初めてローマに行き,マッシモ宮殿の国立考古学博物館で,相当数の床モザイクを見た時だと思う.この時,古代彫刻のコレクションと共に,カラヴァッジョ,ベルニーニなどバロック芸術の至宝で有名なボルゲーゼ美術館にも行きたかったが果たせず,翌年の10月,滞在中のフィレンツェから足を延ばして訪問し,ここでも予想以上に多数の古代の床モザイクを見ることができた.

 翌年2月に4度目のローマ旅行をした時には,マッシモ宮殿ではポンペイの壁画の特別展が開かれており,これが素晴しかったし,帰りの電車の時間も迫っていたので,床モザイクをじっくり鑑賞するにはいたらなかった.

写真:
愛らしいモザイク

マッシモ宮殿
国立考古学博物館


 同じ年の3月,やはりフィレンツェからシチリアに行ったとき,パレルモの考古学博物館でオルペウスを中心にした床モザイク,多少ともエロチックな要素も含んだ床モザイクを見ることができた.

 さらにわざわざリクエストして,運転手のニーノさんに立ち寄ってもらったピアッツァ・アルメリーナ近くのカザーレのローマ時代の別荘で,かなりのものが修復中であったが,それでも印象に残る多くの床モザイクを見ることができた.


時代の中にあって,時代を超える
 古代美術を少しでも扱っている本には,モザイクの写真も載っていて,古代マケドニア王国の首都があったペラには,見事な床モザイクがあり,また,ナポリの考古学博物館には,ポンペイから出土した,イッソスの戦いでアレクサンドロスが愛馬ブーケパラスに跨って,ペルシア王ダレイオス3世を敗走させるモザイクがあることが紹介されていて,これもまたギリシアからローマが伝統を引き継いだものであることがわかる.

 紀元前100年頃の作品とされるので,「ローマ帝国」成立以前の作品で,もしかしたら作成はギリシア出身の職人かも知れないが,ポンペイにあった以上,これも古典ギリシア,ヘレニズムの伝統を立派に引き継いだ,ローマ,イタリアの芸術だろう.

 ミケランジェロやベルニーニの彫刻,レオナルド,ラファエロ,カラヴァッジョの絵画と違い,多くの古代美術の作品は,作者が特定されず,特定される場合でも,さして有名ではない人のものばかりで,彫刻家ならペイディアス(フェイディアス),プラクシテレス,ミュロン,画家ならアペレスなど古代でも超一級の芸術家の作品は全くと言って良いほど残っていないというのが,定説だ.

 したがって,ルネサンスやバロックの芸術作品のように,「誰々の何々という作品」と思って見るわけではないので,世界史の教科書にも載っている「ミロのヴィーナス」とか「サモトラケのニケ」のような誰でも知っている作品でない限りは,多くの人が展示風景の一部としてしか認識せず,通り過ぎた後は,記憶にも残らないケースが多いように思う.

 ボルゲーゼ美術館で,カラヴァッジョやベルニーニを見て熱くその感激を語る人はいても,剣闘士の床モザイクを見て,めずらしいものを見ることができたと記憶に残っている人はまだ良い方で,多くの人にとって古代の芸術がそこにあったことすら記憶に残らないであろう.

しかし,どんな時代でも,工芸品の需要があって,傑出した職人を輩出するような時代背景の中から,天才的芸術家も生まれる.確かにどんな条件下にあっても天才は天才だが,天才にも作品を産み出すチャンスがなければ,偉大な芸術作品は生まれない.


 ローマ時代の,床モザイクや,フレスコ画,ギリシア彫刻のコピーを見ていると,たとえ現代には無名になってしまっていても,これらを作った能才の職人がいて,その中には天才的な才能を持った人がいたかも知れないと思う.

 さらに彼らに仕事を与えた注文主が少なからずいて,その中には傑出した審美眼と洗練された趣味を持つ人もいれば,単に職人技の見事さに目を奪われただけであっても,草の根の芸術環境を支える多くの有名無名の人々が生きたことに思いをいたさずにはいられない.

 古代の美術を真に理解しようと思えば,ローマ時代の模刻には目もくれず,高水準のオリジナル作品だけを見ろと言うような,ある時代には仕方がなかったかも知れないが,歴史に対して極めて傲慢に思える言辞を,日本で最先端にいた古代美術研究者が言っていたことは,私には信じ難いことだ.



 英語版ウィキペディアのPaphosおよび,そこからリンクされているウィキメディア・コモンズの写真を見ると,30年前のパポスの記憶には誤解や思い込みもあるように思えるが,その存在を知らなくて,その後も特に出会いがなかったのだから,初めて見たのがパポスだったのは,間違いがないと思う.

 現在,額装などの処置が施されて,壁にかかっているものを含め,大体見た順に並べると,

 マッシモ宮殿国立考古学博物館
 オトラント大聖堂(ただし,中世の作品)
 ヴェローナ考古学博物館
 ラヴェンナの旧サン・ドメニコ教会の東方(シリア)床モザイク修復2007年特別展示
 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
 フォロ・ロマーノ(特に元老院議事堂)
 パラティーノの丘
 パラティーノ博物館
 カピトリーニ博物館
 ボルゲーゼ美術館
 コロッセオの特別展(ヴァティカン博物館)
 サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂の聖具室
 クリプタ・バルビ国立考古学博物館
 パレルモ州立考古学博物館
 カザーレのローマ時代の別荘
 アグリジェント考古学博物館の劇場跡
 ヴォルテッラ考古学博物館
 ペーザロ大聖堂
 ルーヴル美術館
 カラカラ浴場遺跡
 ディオクレティアヌス浴場跡考古学博物館

で,床モザイク,もしくはその断片と見ている.他にも考古学博物館は,フィレンツェ,フィエーゾレ,オルヴィエート,ターラント,ヴァステ,シラクーザで行っているが,撮って来た写真その他では確認できない.

 ヴェローナでマッフェイアーノ石碑博物館では,私たちは写真を撮らなかったので,後で若い友人F氏からいただいたかなりの数の写真を確認したが,そこには床モザイクは無かったようだ.

 上記で観た床モザイクの中で,何が1番印象に残るかは,とても言い難い.ただ,質的にも,分量的にも,マッシモ宮殿とカザーレの別荘が圧倒的だったように思える.


浴場のモザイク
 カラカラ浴場からは,中世,ルネサンス時代に,建築材料として色々なものが持って行かれたが,そればかりでなく,芸術作品も持ち出された.たとえば,ナポリの国立考古学博物館にある通称「ファルネーゼのヘラクレス」像ももとはここにあって,16世紀に出土したものだ.

 床モザイクは,ごく一部だが,ここに残されており,雨ざらしで大丈夫なのかどうかが心配だが,しかし,古代的雰囲気感じるためには,必須の残存物と言えよう.白地に黒の文様のモザイクも興味深いが,特に緑,赤,黄色の色鮮やかな模様は,雨天の鑑賞で,気持ちを明るくしてくれて,深く印象付けられた.

写真:
カラカラ浴場
床モザイク


 カラカラ浴場に残っているモザイクは,床の形に復元されているものの他に,壁に立てかけられているモザイクの断片も複数ある.これらには,白地に黒い石で絵柄が描かれているものが多く,植物文様や神話の登場人物が多いように思われた.

 前々回,最後の写真で紹介した,ディオクレティアヌス浴場跡の大きな床に再現されたモザイクもこのタイプだ.ちなみに,この部屋はアウラ・デキマに続く,11番目の広間(アウラ・ウンデキマ)と言うらしい.

 モザイクの四隅には一人ずつ,植物文様に囲まれた人物がいて,内2人は女性に見える.中央の円の中には,立ってライオンの首を持っているように見える人物と,横たわっている人物がいて,少なくとも中央の円内の人物はヘラクレスだ.

 全体にライオンを始めとする猛獣や植物,人物が意味ありげに配置されたこのモザイクは,紀元後2世紀の「ヘラクレスのモザイク」とされ,ネロ帝がかつて所有していたアンツィオの別荘から発掘されたものらしい.

 中央の植物文様で造られた円の中に描かれた絵は,高津春繁『神話辞典』を参照しながら,ウェブページの情報をつきあわせていくと,ヘラクレスと,彼と戦って敗れた川の神アケロオスで,ヘラクレスが手にしているのはライオンの首ではなく,アケロオスが牡牛に変身した時にヘラクレスが折り取った角が血を流しているものと思われる.

 アケロオスはギリシア最大の川の神で,デイアネイラをめぐってヘラクレスと争い,降参の印に自ら所有していたアマルテイア(クレタ島で隠し育てられた嬰児ゼウスに乳を与えた山羊)の角を与えた.アマルテイアの角は,ラテン語ではコルヌコピア(正しくはコルヌー・コーピアエ)「豊饒の角」と呼ばれるもので,ギリシア語ではアマルテイアス・ケラス(アマルテイアの角)と言うようだ.



 「豊饒の角」に関しては別伝があり,そこにもヘラクレスとアケロオスが関係する.紀元前後のローマ詩人オウィディウスの『変身物語』第8巻(岩波文庫の邦訳(上)pp .333-349)で,アケロオスは,アテネの英雄テセウスに様々な物語を語った後,第9巻で自分のことを語り始める(同(下)pp. 11-16).

 そこでは,アケロオスは万策尽きて,最強の牡牛に変身してヘラクレスと戦ったが,角をもぎ取られ,その角に水の精たち(ナイアデス)が,果実や花を盛って神に捧げ,「『豊富』(ゆたか)の女神が豊かであるのはわたしの角のおかげなのです」と話が締めくくられている.女神の名はボナ・コピア(良き豊饒)とされる.

 このモザイクは2世紀のものとされており,『変身物語』が典拠であっても不思議はないので,四隅の人物のうち,棍棒を持って水を撒いているように見えるのはヘラクレス,女性に見える2人の人物は豊饒の女神か水の精なら説明がつく.

写真:
ディオクレティアヌス浴場
アウラ・ウンデキマの
床モザイク


 上の写真の人物(四隅の一人)は,植物文様の間で,杖のようなものを持っている.特に神話的人物とも思えなかったので,もしかしたら入浴後の男性がストリギリス(垢落とし器具)を使っているところであれば,話題的には好都合なのだが,どうも違うようだ.しかし,持っている棒状のものはストリギリスしか今の所思いつかないので,勝利したヘラクレスが,沐浴して汗と垢を落としているところかも知れない.

 もとからある場所ではないけれども,浴場跡に再現されるのにふさわしい絵柄かも知れないが,果たしてどうだろうか.

 ヘラクレスはアケロオスを倒して,デイアネイラと結婚するし,さらにこの勝利が豊饒の角の起源ということであれば,一層めでたい図柄ということになる.

 もっとも,デイアネイラとの結婚は,ソポクレスの悲劇『トラキスの女たち』,セネカの『オエタ山上のヘルクレス』におけるヘラクレスの死(『変身物語』でも語られている)につながっていくが,最終的に,ヘラクレスが「神」として天界に迎えられる結末まで織り込むと,ネロの死後の作品とは言え,皇帝の別荘だった場所にあるのにふさわしい図柄と言えるだろう.

 後世の画家ではグイド・レーニが「ヘラクレスとアケロオス」を描いて,現在は,他のヘラクレス主題の絵とともに,ルーヴル美術館に所蔵されているが,題名が無いと,この主題であることがわからないし,「ネッソスとデイアネイラ」,「火葬薪積みの上のヘラクレス」などは良く覚えているのに,この絵は見た記憶がない.

 このアウラ・ウンデキマの壁には,やはり白地に黒の床モザイクの断片が掲げられており,それは男の体が,戦車に引かれている姿に見えるので,叙事詩『イリアス』で語られている,アキレウスがヘクトルの遺体を戦車で引きずって,トロイアの城壁を3周する場面で,アキレウスの姿は失われたものと思われる.



 白地に黒の一連のモザイクを諸方で観たが,おそらくこれに関してであろう言及を,

ラヌッツィオ・ビアンキ=バンディネッリ,吉村忠典(訳)『ローマ美術』新潮社,1974

で見つけた.1969年フランスで出た原著の翻訳で,「人類の美術」という叢書に中に入った1冊である.

 この本の存在は前から知っていたが,著者については意識していなかった.今回,読んでみようと思い,少し予想より高かったけれどもインターネットの「日本の古本屋」で入手し,著者が,この番外篇を書くにあたって様々調べているうちにその名を知ったビアンキ=バンディネッリであることに驚いた.優れた古代美術研究者である中村るいさん(個人的に教えてもらったので,ここでは敬称をつける)に聞いたところ,立派な本であるとのことだった.監修者が作家のアンドレ・マルローであることは,名前だけだろうが,それでも当時彼がフランスの文化行政に関わっていたことを思うと,この叢書に対する力の入り方を感じる.

 たった一か所だが,ティボリのハドリアヌス別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)に言及して,

 これらの室の舗床モザイクは,一つ一つ異なったもので,この時代とつぎの時代に典型的な白と黒の配合の変化による手法の好例を示している.この別荘の他の部分では,形象を描いた多色のモザイクも発見されたが,そこには絵画を複製するというヘレニズムの習慣が認められる.
 ハドリアヌス時代には,舗床モザイクにおいて,白と黒による典型的な装飾が普及した.これこそ,モザイク芸術が独自の発展をとげる端緒となったもので,それはのちに,とくに3世紀に,ローマ帝国の芸術文化の特徴的な構成要素となるのである.


とある.この記述が,今,私たちの注目している白地に黒の床モザイクに関するものであるならば,このタイプのモザイクが,ヘレニズムの影響を脱して,ローマ独自の芸術が出来上がっていく重要な要素であることになる.


モザイクの技法
 英語版ウィキペディア「モザイク」(伊語版)とその関連項目に拠れば,モザイクの技法として,直径4ミリ以下の細かいテッセラ(石やガラスでできたモザイクを構成する最小単位)を使う,オプス・ウェルミクラートゥム(虫食い細工?)と,4ミリ以上の大きなテッセラを使う,オプス・テッセラートゥム(角石細工?)の2つの技法に大きく分かれ,多くの場合,両者は併用されたが,後者から発達した白と黒の組合わせの床モザイクは,費用が安く済み,技法的にもやはりローマ独自のものであるらしい.

写真:
モザイク
ディオニュソス(バッカス)
(部分)

マッシモ宮殿
国立考古学博物館
紀元後3世紀


 その意味で上の写真のモザイクは,周辺の「枠」部分は,オプス・テッセラ―トゥムを併用しているが,中央は典型的なオプス・ウェルミクラートゥムで,描かれている少年は,獣皮の衣と,葡萄の房のついた冠によって,ディオニュソス(バッカス)の子供時代の姿と想像される.3世紀半ばくらいのものと推測されている(Palazzo Massimo alle Terme, p.63).

 素人目には,やはり,色のついた細密なモザイクは,より魅力的に思われる.このタイプのモザイクも,マッシモ宮殿にはたくさんあるし,有名なオプス・ウェルミクラートゥムの作品は,断片が額装されたものを幾つか,カピトリーニ博物館で見ることができる.

写真:
象嵌細工のパネル
パラティーノ博物館
紀元後1世紀(?)


 さらに装飾技法として,オプス・セクティーレ(切れ目細工?)があり,これは言って見れば「象嵌」であり,他のモザイクとは一線を画されるべきものであろう.

 上の写真はイタリア語でジャッロ・アンティーコ(古代の黄色)と呼ばれるものに特徴のある幾何学模様だが,マッシモ宮殿の国立考古学は物館には,「水の精たちに引き込まれるヒュラス」,「2頭立ての戦車に乗る将軍と従者たち」,さらに,カピトリーニ博物館で見られる「仔牛を襲う虎」と言った,神話主題,現実世界を描いた諸作品の断片が残っている.

 マッシモ宮殿の2つは紀元後331年に執政官だったユニウス・バッススの名が伝わる屋敷跡から発掘されたものなので,4世紀前半の作品と考えられ,戦車に乗る将軍はバッスス自身の可能性もあるとされている.

 断続的とは言え,後世フィレンツェで発達する輝石細工の原型がここにあるのかと思うと,こうした作例も,今度からは丁寧に見て行きたいと言う思いに駆られる.



写真:モザイク(部分) 紀元前1世紀末 
マッシモ宮殿 国立考古学博物館



 以上,見てきたように,古代のモザイクもしくはそれに関する作品と言っても,多くは紀元後のもので,古い物は意外に少ない.それを考えると,上の写真の菱形の枠の中に女神がいるモザイクは,一応紀元前の作品とされているので,貴重な作例だろう.

 写真ではカットしているが,演劇の仮面のモザイクが周囲に配置されていて,今のところ,どう関連があるかわからないが,中央の有翼裸体の女性は,案内書に拠れば勝利の女神ウィクトリア(ニケ)と考えられているようだ.



 駆け足で見てきたが,マッシモ宮殿には他にも,色つき,白黒の様々な床モザイクがあって,時間と心に余裕があれば,いつまでも見ていたいし,写真に収めたものを帰って来てから勉強すると,ある程度の達成感を伴う喜びが得られる.

 勤務先の不測の事態で,休日もまとまった時間を取りにくくなっているのがつくづく残念だが,当面,ローマの博物館は無くならないだろうし,若い友人のF氏にも紹介してもらったが,新たな参考書も入手できるようになって,学び続けていくことができるだろうから,楽しみは先に残して,モザイクに関する報告はここまでとする.

 起源は相当古く,直接にもヘレニズム期のギリシア芸術の影響を受けていることは間違いないのだが,各地(北アフリカ,中東を含む)に現存する作例の数から言えば,これは立派なローマ芸術であり,今後,日本にも専門に研究する人が増え,わかりやすい考察を私たちに示してくれることを切に望む.






モザイクといっても色々
マッシモ宮殿 国立考古学博物館