フィレンツェだより番外篇
2013年5月3日



 




「ポルトナッチョの石棺」
マッシモ宮殿 考古学博物館,2世紀



§ローマ再訪 - その9 古代ローマ(3)

マントヴァの公爵宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)で,数は少ないが見応えのあるコレクションを見て以来,石棺(サルコファグス)に魅せられ続けている.


 浮彫彫刻のある墓碑もまた,ギリシア以来の伝統を持つ見事な芸術だ.学生時代に,アテネに行く機会があり,その際にケラメイコスの墓地で,今思えばあれはコピーだったのかも知れないが,夏は少雨だが,秋冬は雨季なので,言って見れば雨ざらしのまま置かれている墓碑を見て,これは立派なものだと思った.

 その後,特に墓碑や石棺に興味を持ち続けたわけではないし,その時に撮って来た写真は津波で流されたので,今となっては,美しい芸術に見えたという記憶以外,思い出す術もない.

 Κεραμεικός(ケラメイコス)と言うギリシア語綴りは,ラテン語綴りだとCelamicus(ケラミークス)になり,ここから陶器をセラミックと言う英語が生まれる.


 津波で両親が亡くなった時,一番若い甥が携帯アドレスを変更して,ceramicshopという文字を入れた.何十年も陶器店を営んだ両親が3人の孫を愛しく思っていたことが,甥の行動につながったのだと涙が出た.

 ケラメイコスは周辺が陶工の居住地だったことからついた地名だが,現在は古代の墓地が残っている地域として知られる.いずれにせよ,継続性はなかったが,二十歳過ぎたばかりの頃に,古代の墓碑・石棺に興味を持ち始めたことは確かだ.


石棺の歴史
 「石棺」をサルコファグス※と言うのは.ギリシア語のλίθος σαρκοφάγος リトス・サルコパ(ファ)ゴス「肉体を食べる石」を語源とする.肉体を意味するサルクスと,食べるを意味する動詞パゲイン(ファゲイン)(アオリスト不定法)からの造語であろう.(※古代ギリシア語の音を再現するのは難しく,慣例通りに表記するとp音とph音区別せずサルコパゴスとなるが,現代語に近いサルコファゴスと言う表記もあり得る.それを借りたラテン語ではサルコパグスと表記すべきかも知れないが,今後サルコファグスで通す.イタリア語ではfを使い,サルコーファゴ,英語ではphを使い,サーカファガスに近い音になるだろう)

 石棺の起源は定かではないが,古代エジプトの王の木棺を彫刻されたアラバスターの蔽いに入れたのが古い例とされる.

 ギリシアでもクレタ島のアギア・トリアザ(古典語ならハギア・トリアスで「聖三位一体」の意.「ザ」は英語の定冠詞のように舌を歯で挟んで出す音))という土地で発見された「アギア・トリアザの石棺」(英語版のもとになっている現代ギリシア語版ウィキペディアの説明もある)が,紀元前1400年頃のものというのが本当であれば,古典ギリシアよりずっと以前のたいへん古い作例と言うことになるだろう.

 「アギア・トリアザの石棺」は,クレタ島の首邑イラクリオンの考古学博物館所蔵とのことだ.いつか見てみたい.彫刻ではなく,外側にフレスコ画の装飾が施されている.

 紀元前6世紀(アルカイック期)から5世紀(古典期)にかけての一連の石棺群が,小アジアのエーゲ海沿岸イオニア地方のクラゾメナイで発見され,「クラゾメナイの石棺」と称され,類似の石棺はスミュルナ,ロドス島,サモス島,レスボス島,エフェソスでも発見されている.

 粘土を焼き固めたものなので,土棺とか陶棺と言うべきであろうか.黒絵式陶器画の技法による装飾が見られ,一部には赤絵式の技法も用いられている.

 小アジア南部のリュキア地方のクサントスの支配者だった人物の棺「パヤヴァの墓」が,大英博物館に所蔵・展示されており,これが紀元前360年頃のものとされる.大きな屋根付きの石棺で,基部の上の段には,群像の浮彫が施されている.パヤヴァ本人と思われる人物や競技者,ペルシア帝国の地方総督,戦闘場面などが彫り込まれている.屋根にもライオンの頭や.四頭立ての戦車などが,ウィキメディア・コモンズの写真で見ることができる.切妻部分のスフィンクスもおぼろげながら確認できる.

 19世紀に発掘された,ヘレニズム時代以前の作品だが,「石棺」と言い切ってしまうには,ローマ時代の石棺とはまだまだだいぶ異なるイメージがある.とはいえ,浮彫彫刻を見ると,ローマ芸術に流れ込む,大きな流れの中にあったものだと言っても許されるであろう.


墓碑・石棺に表現された家族愛
 ディオクレティアヌス浴場で見た下の墓碑は,解説板によれば,妻ウェッティア・ホスピタと娘のウェッティア・ポッラが造らせたルキウス・ウェッティウス・アレクサンデルの墓碑である.

写真:
浮彫「右手による夫婦の結合」
ディオクレティアヌス浴場跡
国立考古学博物館


 ここに示されているのは右手を合わせた夫婦の結びつき(デクストラールム・ユンクティオー)と言う図像であることが分かる.1950年代にティブルティーナ通りのマンモーロ橋の付近で発見された,アウグストゥス時代の墓碑とのことだ.紀元前後のものなので,今回見ることできたローマ時代の浮彫の中で極めて古いものだ.

 ケラメイコスの墓碑彫刻に比べれば,400年以上後のものであり,既にギリシア美術の歴史が積み重ねられた後なので,「古拙」と言う用語は当たらないかも知れないが,権力者がすぐれた芸術家や職人に大金を払って造らせたものではないであろうと想像されるので,余計に「家族愛」を感じさせる.

写真:
クレオビスとビトンが
描かれた祭壇

ディオクレティアヌス浴場跡
国立考古学博物館


 上の祭壇浮彫彫刻を見たときに,もしかしたらと思い,解説板を確かめて,やはりと確信した.「母の乗る牛車を牽くクレオビスとビトン」と言っても,知らない人の方が多いかも知れないが,古典を学んでいる者は,ヘロドトス『歴史』の中の挿話に思い至るであろう.

 小アジアにあったリュディアの王クロイソスのもとを,アテネの賢人ソロンが訪ねた時,自分の幸福に自信があった王は,賢人に「クロイソス」と答えてほしくて,彼が出会った「この世界で一番仕合わせな人間」が誰かを尋ねた.

 それに対してソロンは「アテナイ(アテネ)のテロス」と答える.良い国に生まれ,子孫に恵まれ,祖国のために名誉の戦死をとげ,人々の顕彰を受けたと言うのがその理由であった.

 二番目は誰かと問われて,賢人が答えたのがアルゴスの「クレオビスとビトン」の兄弟であった.彼らは頑健で,体育競技会で優勝し,お祭りの際に,母を牛車で神殿まで連れて行くことになったのに,牛の都合がつかず,自分たちで車を牽いて母を神殿まで連れて行った.祭礼に集まった群衆が若者たちと母親を称賛すると,母は神像に,息子たちに「人間として得られる最善のもの」を与えてくれるように祈った.その夜は社で眠った兄弟が,翌朝目覚めることはなかった.

「人間にとっては生よりも死が願わしいものであること」を神が示した実例であるとの説明がなされる.アルゴス人は2人の立像をデルポイに奉納したとされる(ヘロドトス,松平千秋訳『歴史』岩波文庫,上,1971,pp.29-32).


 この後に続く,ソロンの説明や,クロイソスのその後の人生が興味深いが,それについては岩波文庫の翻訳を参照されたい.

 この白大理石の祭壇浮彫彫刻は,帝政時代のもので,ローマのジュスニティニアーナ通り付近で,1942年に発掘されたと言う以上の情報はない.右側面にディオニュソス(もしくはヒッポリュトス),左側面にアルテミスとアクタイオンの浮彫が施されているそうだが,「クレオビスとビトン」と思われる浮彫に気を取られ,それ以外のものはしっかり見ていない.

 神話ではない古典の物語が彫られためずらしい例に思えた.英語版ウィキペディア「クレオビスとビトン」には,現在デルポイ(デルフォイ,現代語ではゼルフィ)考古学博物館に展示されているクレオビスとビトンの名と,作者としてアルゴスのポリュミデスという刻銘のある,アルカイック期のクーロス(少年)彫刻のような石像の写真が紹介されている.




石棺の蓋「亡妻の胸像を抱く夫」
ディオクレティアヌス浴場跡 国立考古学博物館の回廊



 上の石棺彫刻(蓋)は,そこに遺体が入っていると思われる男性の彫像が,先に亡くなった妻であろうか,女性の胸像を抱えて,寝椅子(クリネー)に横たわっている.これも両親の「夫婦愛」を形に表したかった子供たちの気持ちが反映した彫刻であろうか.

 心なしか,男性が若く,女性が年配に見えなくもないので,亡母の胸像かも知れないが,エトルリアの石棺彫刻の夫婦像の伝統などを考えると,成人した男性がいる母子の像は考えにくいようにも思う.上の「クレオビスとビトン」のように,明確に「親孝行」と「敬神」を表していれば別だろうが,この像は母子ではないだろう.いずれにしても「家族愛」を実感させる彫刻だ.紀元後1世紀末の作品とされる.

 棺の上の彫刻は,今までエトルリアの骨灰棺(骨箱)をフィレンツェ,ヴォルテッラで複数見てきた.中でもヴォルテッラで観た「夫婦像」は忘れ難い.

 その写実性とはまた違う造形感覚に思えるが,ローマのヴィラ・ジュリア国立エトルリア博物館所蔵の「夫婦の棺」の上部(棺の「蓋」部分)の夫婦像は有名だ.テラコッタによる作品で,紀元前6世紀後半というから,ギリシアの歴史と比べてもペルシャ戦争以前で,相当古い.

 今回,ヴィラ・ジュリア見学は断念したので,実物はまだ見たことがない.ローマ芸術の伝統には間違いなくエトルリアの影響があるであろうが,残念ながら,大雑把にも把握しきれていない.

 この「寝椅子」(クリネー)タイプの石棺「蓋」部分の彫刻に関しては,今回,ディオクレティアヌス浴場跡博物館の回廊で,手と首が無くなっているが,明らかに女性が横たわっていて,その背後に果物を持ったプットーがいるもの(前1世紀末)や,解説板が無かったので詳しい情報はないが,利発そうな少年が横たわっているものをじっくり見ることができた.

 また,回廊に行く途中のホールで,下の浮彫も日常生活が描かれた興味深いものだが,「蓋」の上に女性が横たわっていて,頭のところと足元に1人ずつ赤ん坊なのかプットーなのか,幼児が横たわっている棺を見た.女性の頭のところにいる幼児が,自分で腕枕をして,口を開けながら熟睡していて,可愛らしいいびきが聞こえてくるようだ.これも解説はなかった.


「アチーリアの石棺」
 下の写真の彫刻は,楕円型石棺のものだ.向かって右側に孤立している坐像は,コンコルディア(和合,同心)もしくは「美徳」(ウィルトゥス)の姿で現された結婚と出産の女神ユーノー・プローヌバ(長音を保持)で,左側の群像は,フォン=ハインツェ(『ローマ美術』,p.123)によれば,「哲学者たちとひとりの子ども」ということだ.

 石棺全体では「アチーリアの石棺」と称され,伊語版ウィキペディアに立項されている.ローマからオスティアに向かう途中で,現在はローマ市内の一地区であるアチーリアで,1950年に発掘された.

写真:
「アチーリアの石棺」

マッシモ宮殿
国立考古学博物館


 殆んど丸彫りに近い高浮彫と言う意味では,ヴィラ・ジュリアの「夫婦の石棺」と共通しているが,紀元後235年頃の作品であれば,両者の間には,750年くらいの年代差があり,もちろん直接の影響があろうはずもない.

 この作品に対するフォン=ハインツェの評価は高くないが,マッシモ宮殿国立考古科学博物館の案内書は「芸術的に高水準の葬送彫刻のすばらしい実例」と言っている.案内書は「執政官就任式の行列」を表している彫刻としているが,フォン=ハインツェは,

 「楕円形の石棺の側面は,中央のほうに向かって動きをみせる男女の人物像の行列をめぐらす.それは,哲学者やムーサイであり,中央に立つ夫婦を自分たちの行列のなかに迎え入れている.たぶん,皇帝カリヌス(282-286)とその妃マグニア=ウルビカおよび息子ニグリニアヌスの石棺であり,隅の哲学者が息子の肖像につくり変えられたのであろう.子供は夭折したからである」(p.123)

と説明している.

 一方,伊語版ウィキペディアには,少年は皇帝ゴルディアヌス3世(238-244)に同定されるという,20世紀の考古学者で美術史家のラヌッチョ・ビアンキ・バンディネッリの説が紹介されている.

 いずれにせよ,この石棺の彫刻は,私的なものであると同時に,公共性を併せ持った,皇帝もしくはその周辺の人物のものである可能性があり,費用と手間のかかったものであると思われる.失われた部分も多く,全体像に関しては様々な解釈があり得るであろうが,今後とも注目され,場合によってはより説得的な新説が出されるだけの重要性を持っているかも知れない.

 好きか嫌いかでいうと,特に「好き」というほどではなく,写真も1枚しか撮っていないし,解説板も撮り損ねた.

写真:
サンタ・マリーア・イン・
トラステヴェレ教会
前廊の石棺





 それに比べると,上のライオンの石棺は,紀元後3世紀のものと言う以上の情報はないが,コリント式柱頭の柱が両側にあるだけのシンプルな浮彫で,大地を踏みしめている安定感が素晴らしい,と,少なくとも私は思う.

 サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂の再訪に向けて,改めて予習をしていて,この石棺の存在を知った.是非しっかり見て,写真に収めたいと思っていたが,果たすことができた.


ストリジラトゥーラの棺
 下の写真の石棺に見られる波型の模様は,イタリア語でストリジラトゥーラと言うようで,伊和中辞典に拠れば「(石棺の)S字形の溝浮彫り装飾」と説明されている.このようなタイプの装飾のある石棺をサルコーファゴ・ストリジラートと言うようで,sarcofago strigilatoでグーグル画像検索をすると,相当数の写真が見られる.

 イタリア語でストリージレ,ラテン語でストリギリスという,S字形をした,入浴後に使う垢落とし器具(これ自体もストリンゴー「触れる,擦り取る」という動詞に由来する)に形状が似ているので,このような名称になっているのだろう.

 英語にもstrigilと言う語がある.これを手元の電子辞書の入っている『ジーニアス英和大辞典』でひくと,1番目の項目に「(古代ローマ・ギリシア人が入浴のとき使った)あかすり器」とあり,2番目の項目は[建築]と分野を示した後,「(古代ローマ建築で用いた)S字形溝彫り装飾」とある.

 ルーヴル美術館に行った時に,多くの石棺の写真を撮ることができたので,確認したが,少なくとも私が撮った写真の中には,ストリジラトゥーラのものは無かった.どこかでは見ているはずだが,明確に意識したのは,今回が初めてだ.

 マッシモ宮殿の石棺にも,少なくとも写真で確認する限り,ストリジラトゥーラの棺は無かった.

 今回,他にはサンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂の聖具室で,古代の床モザイクのおもしろい断片を複数見ることができたが,そこにも,おそらく後世の聖職者の墓として再利用された古代石棺のパネルがあり,それもストリジラトゥーラの装飾の中に,中央上部にクリペウスのあるタイプのものだった.やはりクリペウスを交差するコルヌコピアが支えている.

 この聖堂のポルティコにライオンのサルコファグスとともに,S字形のストリジラトゥーラをまっすぐにしたような装飾の石棺もあった.




写真:
コルシーニ宮殿
コレクションの石棺


 ストリジラトゥーラの石棺は,ディオクレティアヌス浴場跡考古学博物館の回廊でも複数見ているが,ここではコルシーニ宮殿のエントランスに置かれていた石棺の写真を紹介する.

 一般に石棺は両端に枠をつくる浮彫その他があることが多いが,この石棺は向かって左側に竪琴を持つ女性(ミューズだろうか),右側に巻物(古代ギリシア・ローマの書物はパピルスのシートを繋ぎわせ,それを丸めたウォルーメンと言う巻物型で,コーデックスという冊子型は,その後に普及する)を持つ男性が見られる.音楽,あるいは芸術と学問などの寓意であろうか.

 真ん中は,私には「良き羊飼い」の浮彫に見えるので,キリスト教が優勢になってからのものに思えるが,仮に「良き羊飼い」であっても,キリスト教以前の場合もあり得るのだろうか.両端は非キリスト教的図像に見える.

写真:
「良き羊飼い」の図像

ディオクレティアヌス浴場跡
考古学博物館


 「良き羊飼い」(英語ではグッド・シェファード,イタリア語ではブゥオン・パストーレ)の図像は,それ以前にも写真等で見ている可能性はあるが,ラヴェンナでガラ・プラキディア霊廟を拝観した時から明確に意識し出した.

 『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」(以下,「ヨハネ伝」)で,イエスは,

 「私は良い羊飼いである」(新共同訳)(ギリシア語では「エゴー・エイミ・ホ・ポイメーン・ホ・カロス」,ラテン語では「エゴー・スム・パストル・ボヌス」)(10章11節)(ギリシア語では名詞と形容詞が修飾関係にある時,両方に定冠詞をつける場合があり,ラテン語には冠詞が存在しないので,このような違いが現れている)

と言っている.それに拠れば,「良い羊飼い」(ホ・ポイメーン・ホ・カロス/パストル・ボヌス)とは,羊のために命を捨てることのできる者であり,羊が信者たちを意味するとすれば,「良い羊飼い」とは,命を捨てて,復活するイエス以外の者は指さないことになる.

 パレルモで観たオルペウス(オルフェウス)が動物たちに囲まれた床モザイクが,ラヴェンナ「良き羊飼い」の姿のキリストのモザイクとイメージが重なったため,あるいはキリスト教以前にも「良き羊飼い」の図像があるように思えたが,誤解だったようだ.

 上の二つの絵柄をあわせたような感じの「良き羊飼い」のフレスコ画が,今回行くことができなかったプリシッラのカタコンベにあるようだ.やはり,キリスト教は古代に生まれた宗教なのだと言う思いを新たにする.

 それでも,未練がましいようだが,ディオクレティアヌス浴場跡の回廊にある,紀元後4世紀初頭の石棺にはサテュロスたちに支えられている酔っぱらったディオニュソスを中心とした浮彫が施されており,向かって右から2人目の若者が首の後ろから両肩で山羊を担いでいる.多分,「羊」ではなく,「山羊」であるように思われ,古代の牧歌文学では「羊飼い」(ポイメーン)と「山羊飼い」(アイポロス)は身分差がある設定になっているので,担いでいるのが「羊」か「山羊」かは大きな違いがあるわけだが,それにしても,「良き羊飼い」の例としてよく出される,ヴァティカン博物館所蔵の彫刻に良く似ている.

 ただ,羊なのか,山羊なのか,明確に区別できるかと言われると自信がない.ディオニュソスの周辺の人物が出てきて,サテュロス(下半身は山羊に描かれることが多い)のイメージから,山羊だと思い込んだだけかも知れない.ディオニュソスの周辺に牧羊神パンが出て来ることもあり,その意味では「羊」と考えても良いのかなとも思う.

写真:
山羊飼いが描かれた
石棺の浮彫(紀元後4世紀)

ディオクレティアヌス浴場跡
考古学博物館


 4世紀初頭であれば,ミラノ勅令の頃で,キリスト教的であっても不思議はないが,この石棺の浮彫がディオニュソスとその周辺の者たちを描いている以上,非キリスト教徒の棺であろうと思われる.

 羊飼いや山羊飼いが,羊や山羊を担いでいる光景など,牧畜社会では当たり前のことかも知れないが,わざわざ彫刻にすることにはやはり何らかの意味があろうかと思われる.キリスト教的図像と非キリスト教的図像の境界は,それほど明確な線引きはできないのかも知れない.

 古代ギリシアの彫刻にも,「牛を担ぐ男」とか,「牡羊を担ぐヘルメス」(彫刻壺絵)と言う図像もあるようなので,これはそれほどのこだわりを持つようなことではないのかも知れない.



 ディオクレティアヌス浴場跡では,回廊で少なくとも4つのストリジラトゥーラの装飾のある石棺を見ている.解説板を撮って来たのは2つだけで,そのうちの1つは,中央にコリント式柱頭の柱のある建物のなかにいるメレアグロスの浮彫があり,枠を作っている両端はカリュドンの猪狩りのモティーフで,おそらく向かって左はアルテミス,右はカリュドンと思われる.

 ということは,全く非キリスト教的なギリシア神話の浮彫ということになる.両端と中央の浮彫の間にストリジラトゥーラ装飾の浮彫があり,解説板に拠れば紀元後160年頃の棺とのことだ.

 もう1つ解説板の写真が撮れた石棺は,翼の無い少年(葬送に関係する守護霊のような存在とされる)が両端にいて,中央にメダイオンがあり,これはラテン語で丸楯を意味するクリペウスという円形浮彫であることが解説板に拠ってわかるが,その中には裕福な女性と思われる人物が彫られ,クリペウスを交差するコルヌコピア(豊饒の角)が支えている.確信はないが,非キリスト教的図像だろう.解説板は紀元後3世紀のものとしている.

 解説板が無かった,もしくは写真を撮り忘れた2つに関しては,保存状態がよく,1つは,両端は有翼の少年(エロスか)で,中央上部にメダイオンがあり,その中に多分被埋葬者と思われる男性の上半身,その下には,有髯の中年の神の右半分の顔が左に,髯のない若い神の左半分の顔が右に浮彫されていて,やはり中央と両端の浮彫の間がストリジラトゥーラになっている.

 もう1つは,全体的にストリジラトゥーラ装飾が施され,両端のそれぞれ上部にメダイオンがあり,それぞれに,冠についた太陽,月の印から,向かって左はアポロンもしくはヘリオス(ソール),右はアルテミス(ディアナ)もしくはセレネ(ルナ)と思われる神の顔が彫られている.やはり,非キリスト教的図像だ.

 実は,ディオクレティアヌス浴場跡では,第10広間(アウラ・デキマ)で,もう1点ストリジラトゥーラの石棺を見ている.これは,ラヴェンナなどで観られた,比較的簡素だが大きなタイプの石棺で,蓋の両端に切妻屋根のような装飾があり,そこに植物モティーフの浮彫がある以外は,全体的に本体に外壁にストリジラトゥーラが施されているだけの石棺だ.

 何の情報もないが,ラヴェンナで観た石棺との類似を考えると,キリスト教時代のものかと想像してしまう.しかし,置かれている場所を考えると,非キリスト教徒のものなのだろう.

 今回の旅の初日にパラティーノの丘を訪ねたが,コンスタンティヌスの凱旋門の先を少し進んだ,丘の西側の入り口(ここで料金を払う)を入った階段の所に,雨の日だったので,それこそ雨ざらしの石棺があり,これがストリジラトゥーラの装飾のあるものだった.中央には交差するコルヌコピアに支えられたクリペウスが彫られ,その中にはトガを着た被葬者であろう中年の男性像があった.両端は摩耗が進み,よくわからないが,「枠」を作っている一対の浮彫で,想像力を働かせれば,人を襲っているライオンのようにも見える.

 ディオクレティアヌス浴場跡の考古学博物館は見学を予定していなかったが,今回は,ストリジラトゥーラ装飾について,考察する巡り合わせだったような気がする.

 今回撮った写真では,他に,スパーダ宮の入り口の前の通りにある噴水が,古代の女神像と,おそらく石棺を再利用して作ったもので,その石棺にストリジラトゥーラの浮彫と,両側にライオンの顔があり,その口から水が出る仕組みになっていた.




 過去に撮った写真を確認すると,今回再訪したサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂の,今回は見ていない地下教会(クリプタ)で,少なくとも2点以上のストリジラトゥーラの石棺の写真を撮っており,その中の一つは真ん中上部のクリペウス(貝殻のような装飾が施されていて,厳密にはクリペウスとは言わないかも知れない)があり,その下に,何か寓意があるのか,動植物と人間がおりなす牧歌的風景に見える浮彫が彫られている.両端はおそらくコリント式柱頭を持つ柱だろう.

 もう一つは,クリペウスのあるべき所に,四角い枠があり,何らかの幾何学的意匠が施されている.その下におそらく花綱の両脇を持つ2人のエロス,もしくは有翼のプット―がいて,左右にそれぞれ,コリント式柱頭をもつ四角い2本ずつの装飾柱で囲まれたストリジラトゥーラの浮彫がある.「蓋」部分の前面には,おそらく当時の日常生活を描いた浮彫が見られ,それも興味深い.

 今なら,何枚も様々な角度から写真を撮っているだろうが,暗かったこともあり,良く映っていない写真をそれぞれ1枚ずつ撮っていただけだった.

 2008年2月に住んでいたフィレンツェから2泊3日でローマに行ったときは,モザイクとコズマーティ装飾に興味があり,写真もそれを中心に撮っているが,その興味の一環で拝観したサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂の回廊の壁にも,石棺パネルの断片が飾ってあり,この幾つかがやはりストリジラトゥーラになっていた.

 ピサのカンポ・サントでも複数の石棺を見たが,写真で確認できる限りでは,ストリジラトゥーラの浮彫はなかった.ピサでは,やはり「パイドラとヒッポリュトス」など神話を題材にしているであろう浮彫に興味を覚えた.

(後日:ストリジラトゥーラの石棺を初めて見たのがいつだったかは,確かめようもないが,偶然,

 Timothy Verdon, ed., Alla Riscoperta delle Chiese di Firenze, 6. Santa Trinita, Firenze: Centro Di, 2009

を眺めていたら,サンタ・トリニタ聖堂のダヴァンツァーティ礼拝堂にストリジラトゥーラの古代石棺を再利用した「ジュリアーノ・ディ・ニコラ・デイ・ダヴァンツァーティの石棺」の写真(p.31)が掲載されており,両端にライオンの顔,中央に「良き羊飼い」の浮彫があって,その間がストリジラトゥーラになっている,棺の脚にもライオンが彫刻されており,今見たら,大変興味深く注視するはずだが,その時関心があったのは,同礼拝堂の剥落したフレスコ画であったらしく,昔の写真を確認しても,石棺は部分的にしか映っていない.ただ,見たのは間違いがないので,少なくとも2007年4月8日には,このタイプの石棺をフィレンツェで見ていたことになる.

 中央祭壇のマリオット・ディ・ナルドの「聖三位一体の祭壇画」が置かれている石台の正面にもストリジラトゥーラの装飾が施され,中央のメダイオンには,三位一体を表現しているらしい3つの人面の浮彫が施されている.上記の本によれば,デジデリオ・ダ・セッティニャーノ作ということなので,古代風に作ったルネサンスの作品ということになる.両端にはコリント式柱頭を持つ2本ずつの四角柱の装飾浮彫があり,興味深いが,これも写真は上部の祭壇画を遠景で撮ったものに,ついでに映っているだけで,特に注目はしなかったようだ.

 サンタ・トリニタは,昨年(2012年)3月にも,比較的充実した拝観をしており,残念な気がするが,この教会はこれからも何度も拝観せよ,と言う天の声であろう.)


ギリシア神話を題材とした石棺
 古代石棺(サルコファグス)は,シンプルなものであっても魅力的なことは,今回深く認識することができたが,やはり,最も心魅かれるのは,ギリシア神話を題材にした浮彫であろう.




ヘラクレスの12の難業をモティーフにした石棺
ディオクレティアヌス浴場跡 考古学博物館,アウラ・デキマ



 上の石棺に描かれているのは,ヘラクレスの12の難業のうち,向かって左から,「ネメアの獅子」,「レルネの水蛇(ヒュドラ),「エリュマントスの猪」,「ケリュネイアの鹿」,「スティンパロス湖畔の鳥」,「アマゾン族の女王ヒッポリュテの腰帯」の6つであることは,例えば高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店,1960)の「ヘーラクレース」の項目と比べながら見るとよくわかる.

 他の6つも裏側か,側面のパネルにあるのかと思って見たが無かったので,あるいはもう1つ石棺がセットであったのかも知れない.ともかくその場にはこの1つしか無かった.




ディオニュソスをめぐる物語の浮彫の石棺
ディオクレティアヌス浴場跡 考古学博物館



 博物館の2つの案内書の両方で取りあげられている上の写真の石棺は,あるいは優れた作品なのかも知れない.ディオニュソスをめぐる物語ではつきものの,半人半獣のサテュロス,狂乱状態の女性信者マイナスたち,それに半人半馬のケンタウロスも見られる.向かって左側の男女はアリアドネとディオニュソスだろうと思われる.

 真ん中の女性は,マイナスの一人というよりは女神のように見えるが,カピトリーニ博物館にあるよく似た石棺浮彫では,同じく中央で,衣が風に膨れ上がっているように見える点で共通している女性がシンバルを鳴らしており,その左隣にはアウロス笛を奏する男性もいる.ディオクレティアヌス浴場の方は,アウロス笛の男性像はなく,シンバルがはっきり見えないが,女性が手を合わせて見えるので,やはりシンバルを鳴らすマイナスだろう.

 子供を抱いている男性はヘルメスだろうか.焼死した母セメレの胎内から取り出され,ゼウスの太腿に縫い込まれ,そこから生まれた嬰児ディオニュソスを,ヘルメスが人間に預けて,育てさせた.もし,ヘルメスであれば,ディオニュソスの凱旋行進などではなく,時間が違う複数の場面が彫り込まれていることになるが,正直,わからない.

 むしろ,何の神話であれ,向かって右端で鳥に何かをしている女性が,当時の生活感が出ているようで,面白いように思えるが,これも,私の思い込かも知れない.ケンタウロスの左にいる有翼の幼児はエロスであろうから,やはり右端の方にいる男女は,アリアドネとディオニュソスであろうと思う.

 これが石棺の浮彫彫刻として優れているのかどうかは,私には判断がつかないが,躍動感が感じられ,興味を持ったので,様々な角度から,複数の部分の写真も撮り,解説板も撮って来たが,書かれていたのは,ディオニュソスの行列を描いたものであり,紀元後3世紀初頭のもので,現在,サント・ステーファノ・ロトンド教会のある地域(サン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂とサンタ・マリーア・イン・ドムニカ教会の間)で見つかったもの,という説明だけだった.




クリペウスのあるタイプの石棺
ディオクレティアヌス浴場跡 考古学博物館



 上の写真の石棺のようなタイプの浮彫は複数見られたが,全く同じものはない.中央に丸楯型のクリペウスがあり,被葬者と思われる若い男性像が彫られている.実際は中高年で,若く美しい頃の理想化された姿が彫られたのかも知れないが,それにしても随分若く見える.

 そのクリペウスの両側から支えているのは,守護霊で,有翼なので死者の霊を天界に運ぶという役目を負っているかもしれない.

 ギリシア,ローマの神話では,生前の善行が顕著な人が行く世界も必ずしも「天」にあるわけではなく,アポテオシスと言う「神」化(ヘラクレス,アエネアス,ロムルス,など)が為されるのでなければ,天界に迎えられるわけではないので,運ぶ先は「天」ではないかも知れない.

 しかし,クリペウスの下に「鷲」と思われる浮彫があり,その両脇に男神「オケアノス」(大洋,もしくは世界の周辺を流れる大河,ギリシア語形で長音は無視した),女神「テッルース」(ラテン語で大地なので,ギリシア神話ならガイアにあたるだろうか.あえて長音を保持した)なので,それらと対照して「天」が暗示されている可能性もあるように思える.

 テッルースはコルヌコピアを,オケアノスは船の櫂のようなものを持っている.クリペウスの向かって左斜め下に「柄」のようなものがあり,それをオケアノスが持っているようにも見え,であれば,死者の行先はオケアノスの流れの近くにあるとされるエリュシオン(エーリュシオン)(「エリュシオンの野」をフランス語で言うとシャンゼリゼになる)と言うことになる.あるいは「幸福の島」,直訳すれば「幸福者たちの島々」(マカローン・ネーソイ,ギリシア語読みで長音を保持)かも知れない.エリュシオンと「幸福の島」を同じものと考える場合もある.

 いずれにせよ,家族を大事にし,神々を敬って,共同体の中で立派に生きた(か,もしくはそうなる可能性のあった)人物の石棺というメッセージが,浮彫からは読み取れるかも知れない.

 両端で「枠」を作っている,対称になっている2つの像は何を意味しているだろうか.ナポリの国立博物館にあるポンペイのフレスコ画の絵柄としてもよく知られる「少年のアキレウスに竪琴の弾き方を教えるケンタウロス」だ.これも石棺浮彫にはよく見られるようだが,あるいは死者がまだ教育を受けている少年であることを意味しているのだろうか.これに関しては,何か定説がありそうだが,今のところ勉強していない.


「ポルトナッチョの石棺」
 トップと最後で写真を紹介している石棺は紀元後180年頃のもので,現在はローマ市内に属するポルトナッチョ付近で発見され,通称「ポルトナッチョの石棺」(英語版伊語版ウィキペディア)と呼ばれている.マルクス・アウレリウス帝の遠征に参加した将軍の棺で,浮彫にはマルクス・アウレリウスの戦勝記念柱の浮彫の影響が見られるとのことだ.

 中心には騎馬の姿の,被葬者であろう将軍が彫られ(顔の部分は未完),石棺本体の両端は戦勝記念人型柱(トロパエウム)の下の男女の捕虜で,「蓋」部分の両端は「神」のように見える男性の横顔で,それぞれ「枠」を作っている.「蓋」部分の「枠」に類似したものは,ディオクレティアヌス浴場跡の考古学博物館で1点見ており,多分特定できる何かなのであろうが,まだ調べがついていない.

 フォン=ハインツェもこの石棺を取り上げているが,概ね評価は低く,「構図は,入り組んだ図像の解きほぐしがたい混乱を示すもので,表面の解体と空間の否定は,これ以上の例をみない」(p.124)とまで言っている.

 フォン=ハインツェがこれと対照して評価しているのが,少し後の時代の作品である「ルドヴィージの戦闘石棺」(英語版伊語版ウィキペディア)で,こちらは,アルテンプス宮殿の考古学博物館に展示されている.素人目には,どちらも手の込んだ,費用と手間がかかったものに思われ,確かに一見,心魅かれるものがある.

 しかし,そのどちらも,「ローマ帝国」というものが異民族を征服して成立し,常に異民族に対する戦勝をその存続の条件とし,さらに後には異民族の侵入を支えきれずに崩壊したことを思わせ,「古代」というものの持つ荒々しさだけが想起される.これを,それなりに高水準の芸術表現で表さないではいられなかったことを思うと,暗澹とした気持ちになり,心から素晴らしいと思って鑑賞することができない.

 偽善的な感想かもしれないが,当面は,そうした古代の荒々しさを忘れて鑑賞できるような石棺の浮彫彫刻に関して,一通り勉強し,その上で,必要なようだったら(間違いなく必要だろうが),こうした戦闘場面を,被葬者の「栄光」として表現した浮彫も詳しく見るようにしたい.






石棺から何かが伝わってくる
マッシモ宮殿 国立考古学博物館