§ローマ再訪 - その8 古代ローマ(2)
業務というものは,そう言うものなのだろうが,不測の事態が起こり,その対応に忙殺されて,様々な仕事が滞り,したがって,優先順位から言うと,私の個人的趣味に過ぎない「フィレンツェだより」(個人的には最も優先順位が高いのだが)の更新が遅れるのはやむを得ないことだった.
漫画(劇画と言うべきか)『テルマエ・ロマエ』は,中々の力作だと思って読んだが,それが映画化される際,ラテン語の台詞その他を作ってほしいという思いがけない依頼があった. |
「十分なお礼はできないのですが」と言われたが,お金にならない文化事業への協力は嫌いではないので引き受け,結果的に無報酬の仕事となった.大震災の混乱の最中だったし,思ったより注文が多くて,結構しんどい仕事(無報酬なので,厳密には「仕事」ではない)だった.
しかし,この映画は興業的に成功したらしく,前回は試写会への招待券をもらった(時間が無くて行けなかった)だけだったが,今度は些少でも報酬を払うので,続編のラテン語の台詞を作ってほしいと依頼された.
他に仕事もあり,授業も始まったので躊躇したが,間に立ってくれた人の勧め方がうまかったのと,大した分量でもなかったので,結局,今回も引き受けた.もう原稿は出したので,私の仕事は終わった.後は映画ができる過程で,前回もそうだったが,新たな注文があるかも知れないが,基本的に,するべきことはした.ただし,まだ薄謝はいただいていないので,これに関して,特に税務署に申告すべき事案は生じていない.
だからと言うわけでもないが,古代ローマにおいて,テルマエ(公衆大浴場)と言うものがどういうものだったのか,多少実感が欲しかったこともあり,今回のツァーの日程にカラカラ浴場が入っているのも意識して,自由時間に,ディオクレティアヌスの浴場跡の博物館を再訪した.
『テルマエ・ロマエ』(私の語感では,テルマエ・ローマーナエの方が良いと思うが,原作者には創作力があるので,特に何か言うつもりはない)は,ハドリアヌス帝治世下に時代設定されているが,カラカラも,ディオクレティアヌスもそれ以後の時代の皇帝だ.
カラカラ浴場
フィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)からローマ市内に向かう途中,「カラカラ浴場」の近くを通り過ぎるので,外観を見るのは初めてではない.今回もやはり空港から市内へ向かうバスの中から遠景として見た.夜だったので,ライトアップされていた.
ツァーの一環の見学は,ゆっくり時間が取られていたので,今後,よほど考古学的観点からの関心が新たに湧かない限り,もう見なくても良いだろうと思うほど十分な鑑賞が果たせた.
じっくり見た感想としては,こんなでかいものを作るというのは,私の感覚からは狂気の沙汰としか思えない,と言うものだった.「巨大な廃墟」としか言いようがない.
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写真:
カラカラ浴場 |
ただ,冷静に考えると,不安定な政権基盤しか持っていなかったローマ皇帝は,常に軍隊と民衆の支持が必要で,軍隊の支持を得るためには退役軍人のために快適な引退後の居住地と,財産形成のための農地を確保し,民衆のために娯楽と福利厚生を提供しなければならなかった.
娯楽と福利厚生を兼ねた施設がテルマエだった.テルマエという語はギリシア語のテルモス(熱い,温かい)と言う形容詞が語源だ. |
ギリシアの有名な地名として,ペルシア戦争の際に有名になったテルモピュライがある.英語の寒暖計サモミターとか,日本語でいうサーモスタットの,サモ,サーモの「サ」の部分はthで始まっており,テルモスと言うギリシア語を語源としている.
テルモピュライのピュライは「門」(複数形)と言う意味で,海岸線に山が迫っていて,「門」のように狭い通路しか確保できない地形で,温泉が出たということがテルモピュライの名称の由来だ.
皇帝カラカラ(カラカッラ)は,アフリカ出身でローマ皇帝となった一代の梟雄セプティミウス・セウェルスの子で,父の死後,弟のゲタと共治皇帝となったが,その弟を殺し,自身も最後は暗殺された暴君だ.
皇帝としての正式名はマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス・アウグストゥス(長音省略)と言うそうだが,カラカラの通称は,彼が愛用したガリア風のフード付きの衣に拠るものとのことだ.「仇名」で呼ばれることは,やはり暴君だった150年前のカリグラと双璧だろう.
実際の政治は彼1人でやっているわけではないから,カラカラの治世下にも多くの政策が行われたであろうが,有名な政策として,帝国内の全自由人に「ローマ市民権」を与えた(カラカラ勅令,もしくはアントニヌス勅令)ことが知られている.紀元後212年の出来事だ.
紀元前27年が「ローマ帝国」の始まりとすれば,その239年後に「ローマ帝国」は,自由民に限ってのことだが,平等な権利を持つ「ローマ国民」を持ったことになる.
ダマスカスのアポロドロス
ローマの最初のテルマエ(公営公衆浴場,日本語版ウィキペディア「古代ローマの公衆浴場」は,英語版の訳を基本としたものらしいが,詳細な情報が得られる)は,アウグストゥスの腹心だったアグリッパによって造られたアグリッパ浴場で,紀元前19年に完成したらしい.
パンテオンの最初の建物も建設したアグリッパは,「乙女水道」※によって巨大都市化しつつあったローマに水を供給し,それによって巨大浴場の運営も可能になった.(※古代人が伝える伝説に拠れば,喉の渇きを訴えたローマ兵に,少女が泉の場所を教え,それがこの水道の源泉となっているとされる)
アグリッパ浴場は紀元後80年に破損を蒙ったが,修復され,さらにハドリアヌス帝の時代に改修,拡張されて,5世紀まで利用され続けた.ローマ文人の作品にその言及があるとのことだ.
紀元前1世紀末の創建で,紀元後2世紀前半のハドリアヌス治世下に拡張され,5世紀まで存続したアグリッパ浴場に対して,カラカラ浴場は3世紀前半,ディオクレティアヌス浴場が3世紀末から3世紀初頭(300年前後)なので,その建設は,だいぶ後の時代だったことがわかる.
他の資料で確認していないが,河辺泰宏によれば,カラカラ,ディオクレティアヌスの浴場に影響を与えた画期的な建築はトラヤヌスの浴場で,それを設計したのは,ダマスカス※のアポロドロスとされる.(※ギリシア語はダマスコス,ラテン語はダマスクスだ.英語読みから通例になったこの表記を以後も用いる)
トラヤヌスの広場(フォルム),トラヤヌス戦勝記念柱など,ローマに残る遺跡だけではなく,アポロドロス作とされる建築物は少なくない.属州シリア出身ではあるが,名前からすると(「アポロンから贈り物を貰った男」と言う意味のギリシア語)ギリシア系であろうと思われる.
この建築家が公衆浴場に施した独創とは,「一本の軸線上にさまざまな形と規模の建物を配置してわかりやすさと壮麗さを同時に達成する手法」で,それはアポロドロスがダマスカスの出身で,「東方ヘレニズム建築に精通していたことがきているのであろうか」とのことだ.
さらに,「各部屋を有機的に結びつける必要のある浴場という建物に.一つの定型を与えることに成功したのは,自由度の高いコンクリート構造の利点を充分に知りつくした「ローマ人」アポロドロスの勝利であった」と言われている(以上,河辺,pp.37-38).
これに関しては理解するに至っていないが,要するに,テルマエが巨大化する過程で,ギリシア系のシリア人建築家が大きな役割を果たし,それにはローマ独特のコンクリート工法が大きな役割を果たした,と言うことであろう.
アンティノオス
下の浮彫は,マッシモ宮殿の考古学博物館にあったもので,紀元後130年代の作品とのことだ.現在はラツィオ州ラティーナ県に属しているアプリーリアの一地区であろうトッレ・デル・パディリーネで出土したものとの情報がウェブページにあり(博物館のプレートにも作者と発見場所の情報がある,ウェブページとほぼ同じだ),そこでは作者もアフロディスィアのアントニアヌスと特定されている.
アフロディスィアは,現在はトルコ共和国に属する小アジアのカリア地方の都市で,ヴィーナス(アフロディテ)の崇拝で有名なアフロディスィアスなので,作者の名前はローマ系だが,ギリシア系もしくは東方系の出自を持つ芸術家が想像される.
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写真:
浮彫「森の神シルウァヌス」
モデルはハドリアヌス帝が寵愛
した少年アンティノオス |
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アンティノオスの浮彫は,手の大きさや,体と頭のバランスに若干の違和感を感じながらも,心魅かれた.アンティノオスと言う名前は,多分『オデュッセイア』に出て来るペネロペイアへの求婚者たちの一人と同じ名前だが,ギリシア系の人物としてはごく普通の人物だったのだろう.「考えが違う」とか「反対の考えを持っている」と言う意味かと思われる.
ローマ皇帝として,最初に髭をたくわえ,「ギリシアかぶれ」と揶揄されたハドリアヌスに寵愛された美少年だが,その死も謎めいており,小アジア西北部のビテュニア地方出身のこの人物は死後,神として星座も定められ,そのせいか多くの彫像(胸像,立像)が造られ,諸方に残っている.
その中で,美術作品として特に優れているのかどうかは私には判断がつかないが,自分にとっては魅力的だったようだ.同じ部屋にあるとされる胸像(The
National Museum palazzo Massimo alle Terme, p.26)の写真は撮っていないのに,この浮彫は何枚も写真に収めている.
パラティーノの丘
予定にあった「アウグストゥスの家」は,降り続いた雨のせいで見られなかったが,今回,パラティーノの丘を再訪できて,博物館を再び見ることができて大変良かった.
「パラティーノの丘の競技場」(競馬・戦車競技場)は,「フラウィウス朝」のドミティアヌス帝の時代に造られた(紀元後92年の完成).
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写真:
パラティーノの丘の
競技場 |
ここに様々な芸術作品が飾られていたようで,下の写真の祭壇もここで発掘されたものだ.この競技場自体も18世紀に発掘されるまでは土に埋もれていた.「古代」の発見は,往々にして新しい時代に行なわれた.
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写真:
競技場付近で発見された
神々の浮彫のある祭壇
パラティーノ博物館の前庭 |
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この祭壇の浮彫は,向かって1番左が明らかに男性なので,案内書の情報と照らし合わせると,左からメルクリウス(ヘルメス),ウェヌス(アプロディテ),ミネルウァ(アテナ),幸福の女神フェリキタスと言うことになるようだが,その判断の根拠はわからない.
少なくとも私は見事な造形だと思うが,パラティーノの丘とパラティーノ博物館のそれぞれの案内書に取り上げられているので,やはり重要な作品と考えられているのだろう.
こういうのは「高浮彫」と言うのだろうか,量感が素晴らしい.案内書に拠ればフラウィウス朝の作品と言うことなので,紀元後1世紀後半のものだ.19世紀の発掘で発見された.
ディオクレティアヌス浴場
ディオクレティアヌスは,3世紀末から4世紀初頭(284-305年)に在位した皇帝で,ローマに巨大な浴場を建築し,現在のクロアチアに引退すると,今度はそこに大きな宮殿を建てた.まもなくコンスタンティヌスの治世となり,彼もクィリナーレの丘に浴場(テルマエ)を建設したらしいが,ローマ市内に現存する遺跡としては,何と言っても,カラカラ浴場とともに,ディオクレティアヌス浴場が立派だ.
ただ,ディオクレティアヌス浴場の一部は,ミケランジェロが設計に関わったサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ教会になっており,ミケランジェロの設計に基づく中庭付き回廊を巡るように博物館もあり,テルミニ駅正面を少し行ったところという立地からしても,カラカラ浴場の持つ廃墟感は薄い.
ここは遺跡というだけでなく,先史時代の遺物の他に,ローマ時代の墓碑,石棺,彫刻を多く所蔵する博物館としても立派だ.駅に近いし,時間に余裕があれば,近くのマッシモ宮殿と並んで是非見学したい場所だ.
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写真:
ディオクレティアヌス浴場
の中に移築された
「プラトリーニの墓」
下:壁龕に骨壺の並ぶ内部 |
第10広間(アウラ・デキマ)と言われる巨大な展示空間に移築,再現されている通称「プラトリーニの墓」は,紀元前18年のローマで貨幣鋳造の役職を務めたガイウス・スルピキウス・プラトリヌスの墓で,現在トラステヴェレと呼ばれるテヴェレ川(古代にはティベリス川)右岸にあり,1880年に発掘された.
室内の壁龕に骨壺が納められていたので,非キリスト教ローマの習慣に従って火葬墓であったろう.後の時代に構築されるアウレリアヌスの城壁の内側ではあるが,当時は城外の地であり,「市内」(セルウィウスの城壁内)では許可されなかった墓の建設が許されていた地域と言うことになる.
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写真:
アッピア旧街道の墓 |
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アッピア街道(アッピウス街道)沿いは,当然「市外」であり,多くの墓が造られ,現在もその遺跡が残っている.
アウラ・デキマには,他にも再建された墓室があり,石棺も少なくなく,それぞれ興味深かったが,資料がまだ入手できておらず,当然,勉強も足りないので,言えることは少ない.
かろうじて,下の写真の墓室は解説板は写真に収めて来たので,多少の情報は得られる.1951年に,クィリーノ・マヨラナ通りと言うから,やはりトラステヴェレ地区で,ネクロポリスと称される大規模墓地があったポルトゥエンセ通り周辺の近くで発見されたらしい.
双子座の神,有翼のエロス(クピド),季節の女神,風の神,サテュロスなどの姿や,幾何学模様の漆喰装飾がとても印象深く,紀元後2世紀という,今から1800年以上前のものとは思えないほど,綺麗に残っている.
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写真:
美しい漆喰レリーフ
で飾られた墓室
(2世紀前半) |
同じ空間に,ポルトゥエンセ通りで発見された色鮮やかなフレスコ画が描かれた墓室もあった.石棺を見ていても思うが,一体,誰に見せるためにこれほど見事な装飾が施されたのだろうか.そう思ったが,複数の骨壺が置かれていたことを思うと,一族や子孫がお参りや埋葬のために来たのであろう.
次回は,ずっと気になっている石棺浮彫を中心に報告する.
サンタ・チェチーリア管弦楽団コンサート
ツァーの最終日に,音楽会鑑賞が組み込まれていた.初日にサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂を観光したが,チェチーリア(カエキリア)は音楽の守護聖人で,それにちなんで,ローマにはサンタ・チェチーリア音楽院があり,ローマの有名な楽団はサンタ・チェチーリア管弦楽団だ.
この日の演奏は同楽団だったから,そうした関連性を意識してのことであったのだろう.特に期待していたわけではないのだが,バスで連れて行かれた郊外の音楽ホールは立派だったし,指揮者はオペラその他を指揮で来日公演も行うアントニオ・パッパーノで,演目がチャイコフスキーの「悲愴」と聞いて,指揮者と曲の組み合わせが意外な感じがして,俄かに興味を覚えた.
実際にはウェブページの情報によると,パッパーノ指揮のチャイコフスキーの交響曲集のCDも日本で売られているみたいなので,特にめずらしくないかも知れないが,現地でその組み合わせを聞いた時は,めずらしい取り合わせと思って,少しワクワクした.
パッパーノは2005年までこの楽団を率いていたチョン・ミュンフンの後任の音楽監督で,歴代の音楽監督には,イーゴリ・マルケヴィッチ,トーマス・シッパーズ,ジュゼッペ・シノーポリ,ダニエーレ・ガッティの他,ヴァイオリニストとして有名なウート・ウーギもいて,豪華絢爛という感じがする.
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写真:
ホールのロビーで
開場を待つ |
前半終了後,休憩時間にプログラムを買いに行き,前半の演目とソリストを確認した.今,再度確認すると,
エドワード・エルガー,管弦楽曲「南国にて(アラッショ)」
エルネスト・ショーソン,「声楽と管弦楽のための,愛と海の詩」
チャイコフスキー,交響曲6番「悲愴」
が当日の曲目だった.ショーソンの曲のソロは,ソニア・ガナッシ(メゾ・ソプラノ)で,これも大物歌手なので,たくまずして,めずらしいプログラムと,大物指揮者,大物歌手の演奏を鑑賞できたことになる.
会場で,芸大でラテン語の授業に出てくれていた方にお会いした.全くの偶然だ.実はこの方とは,サンタニェーゼ聖堂でも,ティツィアーノ展でも遭遇した.少なくとも,ローマで3人の知り合いと遭遇し,そのうちのお一人とは,短期間に3回も出会ったことになる.驚いた.
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ディオクレティアヌス浴場に展示されているモザイク
多くの足が これを踏んだ
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