フィレンツェだより番外篇
2013年4月14日



 




平和の祭壇
中には入れるが登壇はできない



§ローマ再訪 - その7 古代ローマ(1)

私が勉強している「古代ローマ」の中心は,もちろんローマという都市だったわけだが,実際にローマに来てみると,中世,ルネサンス,バロック,現代と,古代以外に見るべきものが多い.


 しかし,そればかりか,古代ですら,たとえば伝説上の建国の年,紀元前753年から,西ローマ帝国が滅亡した紀元後476年まで,1200年以上の長い期間である.

 はじめは小さな村落に過ぎなかったローマが,エトルリアの先進文明の影響を受けながら,都市国家として自己形成し,やがてラティウム地方,イタリア半島,西地中海世界,東のヘレニズム諸国を併呑して,地中海世界全体からオリエント,西アジアまで勢力を伸ばしていく.

 さらには,北はゲルマニア,西はブリタニアに至る,とてつもなく広い地域にわたって,「ローマ帝国」が形成された.それらを全て理解することは,不可能としか言いようがない.


紀元後70年
 新宿の朝日カルチャーセンターで,ギリシア語の初歩の文法から始まったクラスで,先日『新約聖書』の中の「ルカによる福音書」を読了した.

 一つのまとまった古典を,連続性のあるクラスで読了したのは,大阪の淀屋橋で,実業家の故・藤村泰司さんが主宰していた語学教室「エリニカ」で,ラテン語による叙事詩『アエネイス』12巻を読了して以来の快挙だ.

 古典語を大学で教える私にとっても,稀有の出来事で,それほど熱心な受講者に長期に渡って出席してもらえるのは,大阪,東京という大都市ならではのことだと思う.

 半年単位で,長期の休みもある大学では,なかなか考えにくいことだが,それでも現在,意欲ある卒業生,在学生等の参加を得て,大学の方でも自由参加の読書会形式で再度『アエネイス』に挑戦し,現在10巻の途中まで来ている.他大学の大学院に進学した人が中心だが,早稲田大学という,大都市に拠点を持つ巨大な人材輩出機関の存在抜きには考えられない.

 ローマが多大な影響を受けたヘレニズム世界に,エジプトのアレクサンドリアという大都市があり,そこでユダヤ教文書(キリスト教で言う『旧約聖書』)がギリシア語に訳され,ユダヤ教の中から,ローマ時代に生まれたキリスト教の文書群(このうち,原始教団生成の過程で「正典」カノンに採用されたのが『新約聖書』)がギリシア語で書かれた.

 これを教えの中心とする宗教が,ローマ帝国という大きな器の中で,世界宗教になり,現在に至っている.

全く専門的な勉強をしたことがないにもかかわらず,「ルカによる福音書」(以下,「ルカ伝」)をテクストとして取り上げたのは意図があった.


 古典ギリシア語に比して,若干やさしめで,なおかつ新約文書群の中では,おそらく作者が最もギリシア語能力が高かったとされる,いわゆる「ルカ文書」(「ルカ伝」と「使徒行伝」もしくは「使徒言行録」)を,細かい文法を確認しながら,初歩の文法を終えた人たちと読んでみたかった.

 しかし,まさか「ルカ伝」読了につながるとは思っていなかった.

 その中で,多少とも関心がある人なら,誰でも知っていることなのであろうが,キリスト教徒でもなく,聖書学を勉強したわけでもない私は,紀元後70年という年代の重要性を,今更ながら感じないではいられなかった.

 この年に,ローマ帝国の支配に叛旗を翻したユダヤ教徒たちは,大軍団に鎮圧され,聖都エルサレムは占領されて,世界にただ一つのユダヤ教神殿は破壊された.



 66年に叛乱が始まった時,ローマ皇帝はネロで,ウェスパシアヌスはユダヤ鎮圧に派遣された将軍だった.しかし,ネロが暴政への反感を買って失脚し,ウェスパシアヌスはその後継者を目指してローマに向かったので,第1次ユダヤ戦争の決着は長引くことになった.

 その後,対立皇帝たちを倒して,ローマでただ一人の皇帝になったウェスパシアヌスは,ユダヤ戦争の終結を図り,息子のティトゥスがエルサレムを陥落させ,神殿を破壊した.これを記念して建造されたのが,コロッセオから,フォロ・ローマに向かうと,入り口を通った後,最初に出会う巨大な構築物,ティトゥスの凱旋門である.

写真:
奪われたユダヤの7本
枝の燭台と銀のラッパ

ティトゥスの凱旋門の
浮彫


 第1次ユダヤ戦争自体は,エルサレム陥落後も,有名なマサダの戦いで,残党が玉砕する73年まで続く.

 戦争初期にガリラヤで玉砕したユダヤ人たちの生き残りでありながら,エルサレム陥落の際には,ティトゥスの幕僚としてローマ側についたフラウィウス・ヨセフスと言うラテン名を持つユダヤ人がいた.彼が書き残した『ユダヤ戦記』を日本語訳(ちくま学芸文庫など)で読むことができる.したがって,史料として十全ではないかも知れないが,かなりのことがこの戦争に関してはわかる.

しかし,新約聖書を読む際に,意識せざる得ないのは,圧倒的に,「紀元後70年にエルサレムが陥落し,ユダヤ教の神殿が破壊された」と言う1点である.


 歴史的人物としてのイエスの処刑が,紀元後30年頃であったとすれば,キリスト教団の形成や,正典である『新約聖書』の文書群の成立は,その後のことと考えられるが,それにしても,エルサレム陥落と神殿破壊は,イエスの死後,少なくとも30数年は経て起きた事件である.

 ところが,新約文書の中でも特に重要な4つの福音書(イエスの生涯と教えを語ったもの)の複数がこれを意識していて,特に「ルカ伝」に,この事件を経験もしくは見聞していなければ書けなかったであろう記述が見られることは,全体の中で重要な意味を持っていると思われる.



 ヘレニズム時代,アレクサンドリアには,全人口に対してかなりの割合で,ユダヤ人が住んでいたとされる.「民族」の歴史や性格を簡単に割り切ってしまうことは,弊害も多いであろうが,一方でユダヤ人という民族が,エジプトなど地中海文明の中の有力他地域に移住して,そこでコミュニティーを作って暮らしていたことは了解して良いであろう.

 紀元前1世紀末の「ローマ帝国」の成立以後,あるいはその前から,ローマにもたくさんのユダヤ人が定住していたことは,考古学博物館で見られる墓碑の存在からも知ることができる.下の写真のように7本枝の燭台を図案化した絵が描きこまれているものもあり,多くの場合墓碑銘はギリシア語で記載されている.

写真:
シナゴーグの会堂長を2度
務めたポンポニオスの墓碑
ディオクレティアヌス浴場跡
国立考古学博物館


 ユダヤ人で,古代イスラエルの領域を離れ,世界各地に広がったユダヤ人を「ディアスポラのユダヤ人」と称し,中でもヘレニズム時代,ローマ時代を通じて東地中海世界の共通言語であったギリシア語を話すユダヤ人をヘレニストと称した.

 こうしたヘレニスト・ユダヤ人の中から,イエスの死後,回心の体験をして,イエスの教えを信奉するようになったパウロが出,彼の活躍がキリスト教の発展に大きく寄与したのは間違いないだろう.

 話が飛躍してしまうが,スペインの長い歴史と文化を考えるとき,イスラム教徒だけではなく,ユダヤ人,それとある時代からキリスト教への改宗ユダヤ人(コンベルソ)の存在を無視することはできない.

 時代も地域も違うのに,これをそのまま「ローマ帝国」にあてはめることはできないが,どのようにして広い領域にわたってユダヤ人が広がり,それぞれの地域でコミュニティーを作り,巨視的にも,微視的にも,文化形成にどのような貢献があったのかを是非,少しずつでも勉強したい.

 後に「ローマ帝国」の支配宗教に成長するキリスト教がユダヤ教の中から生まれたのは,まぎれもない事実だし,キリスト教徒ではないユダヤ人も多くローマに定住した.彼らの使用言語が主としてギリシア語であったことは,注目されて良いであろう.


ローマの神々
 ローマにはローマ固有の宗教があって,多神教であったが,それぞれの神はギリシア神話の神々と違って,個性に乏しく,神への信仰とは,畏怖の念を忘れずに,淡々と宗教行事をこなしていくであった.祭日,祭礼は少なくなかったが,個々の神々には,ギリシア神話のような物語性が欠けていた.

 建国の英雄ロムルスは,伝説に拠れば,昇天して神になったが,ギリシア神話の英雄ヘラクレスに比べれば,その性格や人物像に,はっきりとした個性が感じられない.

 神が個別の宗教行事の祭神という以上の意味を持たないように思えるのと同じく,英雄も個性や人物造形よりも,事績の方に注目が集まり,英雄伝説にも物語性が少ないように思える.

 そこに,ギリシアの文学と芸術が入って来て,影響すると,元々共通の性格を持つ神々も少なくなかったことから,ローマ神話がギリシア神話に取って代わられるという現象が起こる.

 ユピテルはゼウス,ユノーはヘラ,ミネルウァはアテナ,ケレスはデメテル,ウェヌス(ヴィーナス)はアプロディテ,ディアナはアルテミス,ウルカヌスはヘパイストス,マルスはアレスに対応させられて,僅かながら存在したはずのローマ固有の神々物語は,ギリシア神話に乗っ取られてしまう.

 そのおかげで,逆に,英語などの近代語でギリシア神話の神々を呼ぶときは,ラテン語によるローマの神々を英語読みして,ジュピターとかジュノーとか,マーズとがヴァルカンと称されるという現象も生じる.



 ギリシアの神々の物語を付与されたローマの神々は,そのあまりの人間的物語性ゆえに,宗教としての存在感や説得力を失い,帝政期には,東方から来た宗教的エネルギーに満ち満ちた宗教の浸透を許す.

 エジプトから来たイシス信仰,遡ればはるか東方に起源を持つミトラ教,そして,中近東が発祥の地であるキリスト教がその代表だ.

 
写真:
上:牡牛を屠るミトラス神
  フリュギア帽子を被っている

下:創世の岩から生まれるミトラス神
  松明と短剣を持っている

いずれもディオクレティアヌス浴場跡
国立考古学博物館所蔵


 下の写真の鍍金青銅像は,龍の首を持つ蛇が体に巻きついているが,オリエント起源の宗教の偶像で,中近東のバール信仰に関係があるかも知れないと言う説明がある.

 紀元後4世紀頃のもので,七つの丘に入らないが,現在はローマ市内であり,トラステヴェレにあるジャニコロ(ヤニクルム)の丘から出土したとのことだ.国立考古学博物館のHPでは「ジャニコロの偶像」という名前で呼ばれている.

 以前,イタリア・アマゾンで購入していた,

 Adriano La Regina, ed., Museo Nazionale Romano, Milano: Electa, 2005

は,この作品の表裏のカラー写真を掲載し,取り上げているが,それによれば,当時の属州シリアのヘリオポリス(「太陽の都市」の意のギリシア語)で崇拝されていた「ヘリオポリスのユピテル」という別名を持つバール神(中近東で崇拝された神),アタルガティス神(最初はヘラに対応し,後にはアプロディテ,ウェヌスにも対応),シミオス神(ローマのメルクリウス,ギリシアのヘルメスに対応)の信仰と関係が深いと推測されている.

写真:
「ジャニコロの偶像」
ディオクレティアヌス浴場跡
国立考古学博物館


 七重に巻いた蛇が「死と再生」を思わせるからか,エジプトのオシリス,ギリシアのアドニス(起源はオリエント)をも想起させるとのことだが,東方宗教の聖域があった場所から発見された,謎の偶像というところであろう.この像に関して,

小川英雄『ローマ帝国の神々 光はオリエントより』中公新書,2003

に言及があった(p.81).そこには,紀元後4世紀「シリア人の宗教の聖所」の説明があり,ローマにおける,東方諸宗教の葛藤と,それらがキリスト教信仰に集約されていく過程が述べられており,「ローマ帝国」と言う巨大な器の中で,「ローマ文化」そのものが変容していく様子を窺い知ることができる.

 いずれにしても,この像は,私たちが「ギリシア・ローマ」,「ヘレニズム」と言う用語から連想する,均整がとれた,理想の肉体を持つ彫像からは限りなく遠いところにいる姿に思える.

写真:
アウグストゥス時代
(前29-後14)の
アポロ神殿の装飾
パラティーノ博物館


 一方,パラティーノの丘の博物館(ムゼーオ・パラティーノ)で見たこの浮彫装飾は,優美な姿だ.テラコッタに彩色を施したもので,型のようなものがあったのではないかと思われるほど,複数の似た浮彫が展示されている.

 よく見ると,「ヘラクレスとアポロ」とか,「アテナとペルセウス」と言ったアトリビュートによってわかるものもあるが,上の写真の浮彫は,女神なのか巫女なのかわからない.他の巫女の浮彫と髪型が違うので,あるいは女神かも知れない.曲線的な体型から言って,女性像であるのは間違いないだろう.などと考えていたが,以前にイタリア・アマゾンで買って,書架にあった英訳案内書,

 Maria Antonietta Tomei, Museo Palatino, Milano: Electa, 1997

に拠れば,燭台を間に置いて,宗教儀式で,それに火を灯そうとしている若い女性たちの1人であるようだ.

 上部の彩色が残っている部分に,おなじみの魔除けのメドゥーサの顔が見られる.「アテナとペルセウス」の浮彫の間には,さらに大きなメドゥーサの顔があり,この女怪が,装飾としていかに愛好されていたかがわかる.メドゥーサを含めた3人の女怪をゴルゴンたちと称するが,こうした浮彫装飾をゴルゴネイオン(複数はゴルゴネイア)と言うようで,英和辞典(gorgoneion)にも登録されている(手元の電子辞書に入っている『ジーニアス英和大辞典』).


ローマ文化の理解
 オットー・ブレンデル,川上幸子・中村るい(訳)『ローマ美術研究序説』三元社,2008
 H.フォン=ハインツェ,長谷川博隆(訳)『ローマ美術』グラフィック社,1969

を読み,「ローマ美術」の定義と性格付けは,難しく,学問的にもその研究はまだまだ発展段階にあるのだと言うことはよくわかった.

 上記の2冊は原著が古い時代のものであり,現代では状況が異なっているのではあろうが,「ローマ美術」をわかりやくす説明してくれる啓蒙的な参考書になかなか出会えないでいる.

 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(日本語版ウィキペディア「ヴィンケルマン」に簡潔でわかりやすい説明)という偉大な古代美術研究者が出て,ギリシア美術の研究は日進月歩で進み,「新古典主義」と言う,美術や文学の思潮にも大きな影響を与えたのが,18世紀の半ば過ぎのことだ.

 ヴィンケルマンは偉大な業績を残したが,ギリシア偏重の弊害もそこから生じた.ドイツ人は,イタリアやフランスのローマ直系のラテン文化に対して,劣等感を含む偏見があり,ラテン文化はギリシアの偉大な影響で成立したもので,何らの独自性も持たず,ヘレニズムを後世に伝えた以外の意味はない,と言ってしまうのは極端にしても,それに近い主張がその後,ごく当たり前に行われるようになった.



 日本が西洋文化を受け容れた時,ロマン主義的な考え(ローマを貶める思潮が,ローマを語源とするロマン主義の名称を持つのは皮肉なことだ)から,オリジナリティー尊重の思考が受容され,ローマ文化や芸術,ラテン語による文学は,ギリシア文化を支えたヘレニズムの亜流であり,そこから学ぶ価値がないと考えられた.

 旧制高校文化のドイツ偏愛の雰囲気の中で育ったギリシア美術研究家の著作には,ギリシア偏重で,ローマの芸術を貶める傾向が明らかにあるように思える.今の時代に,それをまともに受け取る研究者は皆無であると信じたいが,ヨーロッパを研究する人たちの中に,ギリシアは素晴らしいが,ローマは亜流に過ぎないと今でも考える人が少なからずいるとしたら,大変残念なことだ.

 専門の研究者よりも,むしろ塩野七生のような作家の著作の影響を受けて,ローマに興味を持つ人がたくさん出るのも故無いことではない.専門家にローマ文化への愛情が足りないのだろうか.ヨーロッパをまじめに研究する人が,ローマの偉大さをしっかり見つめ,それを世間に知らしめてこそ,今まで営々と築き上げられてきた学問的業績が真に活かされる途であろう.

 ローマで様々な古代遺跡や遺物を見聞し,その影響を受けた中世,ルネサンス,バロック,古典主義の遺産に感銘を受けながら,ローマの文化や芸術の偉大さに思いが至らないはずはない.ギリシア芸術の偉大さは自明としても,それ理解できる人が,ローマでローマ芸術の遺産を見て,その素晴らしさに感銘を受けないはずはない,と思いたい.

写真:
ニオベの娘

マッシモ宮殿
国立考古学博物館


 上の写真の彫刻「ニオベの娘」は,ローマ時代の模刻ではなく,ギリシア芸術のオリジナル作品と考えられているようだ.

 ギリシアのエウボイア島にある都市エレトリアのアポロン・ダプネポロス神殿にあった群像彫刻が,ユリウス・カエサルによってローマに齎され,それが,歴史作家のサルスティウスの所蔵品となり,最終的にローマ国家の財産となった(Palazzo Massimo alle Terme, Milano: Electa, 1999, p.19)とのことだ.

 有名作家のものではないとは言え,ギリシアのオリジナル彫刻であることは,やはり大変意味のあることだ.紀元前440年頃の作品と考えられているようだ.


「平和の祭壇」
 「ローマ芸術」が,いつ確立したかは,これからも議論が続けられるあろうが,初代「皇帝」(元首)アウグストゥスの時代に創られた「平和の祭壇」(トップの写真)とその浮彫は,まぎれもなく独創性を湛えた「ローマ芸術」であろう.

 これは,今回のローマ行で,優先して観たい作品であった.ところが,これを展示するための近代建築の博物館は,「これだけ?」と言いたくなるような,拍子抜けするほど少ない展示で,「平和の祭壇」そのものも,思っていたより浮彫は少なかった.

 しかし,この博物館は,それだけでは終わらなかった.奥に進むと,現代芸術の大きなモザイク作品があって,その手前の階段を降りた下の階は特別展の会場となるようで,当日は「トゥッティ・デ・シーカ」という,映画監督ヴィットリオ・デ・シーカに関する特別展示が行われていた.

 曲がりなりにも古代ローマを研究対象としている人間として恥ずかしい話だが,この特別展が,たいへんノスタルジーを誘うもので,思ったより地味だった「平和の祭壇」よりも,こちらの方に主として感銘を受けた.やはり,イタリアは深い.

 「平和の祭壇」は,ブレンデルの訳者であり,ハーヴァード大学で学位を得た優れた古代美術研究者である中村るいの解説によると,「東地中海各地(ペルガモン,アレクサンドリア,アテネ)の彫刻様式がこの祭壇で合流し,いわゆるアウグストゥス様式を形成したことがわかる」(ブレンデル,p. XXIV)と言う,重要な意味を持つ作品である.

 やや若干生硬な感じは否めないが,荘厳な雰囲気を醸し出す,見事な浮彫が施されていて,「ローマ芸術」の創成期を代表する作品と言って良いと思う.

 エトルリアやヘレニズム文化の影響を受けた「ローマ芸術」が,古典ギリシア美術への志向を見せる時代の「アウグストゥス様式」と言うキーワードは注目されて良いであろう.


リウィア
 ローマからアドリア海に向かう道がフラミニウス街道で,その出発点がフラミニウス門である.その門の市街地側は現在,ポポロ広場となっており,そこにサンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂がある.

 フラミニウス街道はアペニン山脈を越え,アドリア海に至り,ピサウルム(現ペーザロ)から,アルミニウム(現リミニ)に至る.リミニからアルプスにボノニア(現在のボローニャ)に至る道が,アエミリウス街道で,これが,現在のエミリア・ロマーニャ州の名のもとになっている.

 この街道は,ボノニアからメディオラヌム(現ミラノ)を通って,アルプスを越え,ガリアに至る.アルミニウムの先に有名なルビコン川(ラテン語でルビコ)がある.

 このフラミニウス街道をローマから12キロ北に行った所に,プリマ・ポルタ(プリーマ・ポルタはラテン語で「第1番目の門」)という地名の場所がある.この名の由来は,水道の始まりを示すアーチにあったようだが,その水道が水を供給していたところのひとつに,「リウィアの別荘」があった.

写真:
リウィアの別荘の
フレスコ画(部分)

マッシモ宮殿
国立考古学博物館


 この写真は,その別荘の壁に描かれていたフレスコ画である.現在ヴァティカン美術館に展示されている有名な「アウグストゥス像」(日本でも「世界史」の教科書などによく写真が掲載されている)も,ここにあったようだ.像も見事だが,このフレスコ画も見事だ.

 像のオリジナルは現存しないブロンズ像で,作者がギリシア人だとしても,これを注文し,大理石のコピーまで造らせたのは当時のローマ人であり,ここにはやはりローマ的な嗜好が反映され,それはローマ芸術の歴史に大きな足跡を残したであろう.

 このフレスコ画は,リウィアという女性が実家から継承した財産である別荘の食堂に描かれたものだが,伝説がある.

 ある日,鷹が月桂樹の枝を咥えた白い雌鶏をリウィアの衣の襞に落とし,その枝がこの別荘の庭に植えられて,やがて彼女の夫と,彼女の子孫でローマ皇帝になった者たちの頭を飾った月桂冠を提供したというものだ.掲載した写真とは別の部分に,もしかしたら,その伝説を反映した絵の一部かも知れない,白い鳥と成長した月桂樹と思われるものが描かれている.

 この作品には楽園を描いたヘレニズム時代の絵の影響があるらしいが,そうだとしても,ポンペイなどヴェスヴィオ火山周辺の遺跡で見られるフレスコ画との類似から考えても,それだけの数がローマ支配下のイタリアで見られるのであれば,立派にローマの,もしくはイタリアの芸術と言うことができると思う.

 たとえ,法隆寺の原型が中国や朝鮮半島にあっても,やはり法隆寺で見られる,もしくは見られた建築や仏像,壁画は日本の芸術である.ローマ支配下のイタリアにあるものは,やはりローマ芸術なのだと,少なくとも私は思う.

写真:
「平和の祭壇」(部分)
中央右がリウィア


 「平和の祭壇」の行進の浮彫に登場するリウィアと言う女性は,初代「皇帝」アウグストゥス(鳥占と言う宗教行為によって権威を付与された「尊厳有る者」)と称されたオクタウィアヌス・カエサルの再婚同士の妻で,彼女の連れ子であるティベリウスが2代目の「皇帝」(元首)となったことからもわかるように,夫と深い愛情で結ばれた女性だったようだ.

 「皇帝」の妻であれば,「皇后」と言う用語を使っても良く,実際にそれに相当するアウグスタという称号を得ていたわけだが,「皇后」と言う用語だけでは説明しきれないほどの現実的影響力を持っていたようだ.

 マルクス・リウィウス・ドゥルスス・クラウディアヌスの娘で,ティベリウス・クラウディウス・ネロに嫁いだ.父の名前を見ると,クラウディウス氏族から養子に来たようなので,そのつながりだろう.アウグストゥスも,オクタウィウス氏族の出身で,祖母の兄弟ガイウス・ユリウス・カエサルの養子となったので,ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと呼ばれた.

 リウィアの最初の夫は,父の出身氏族で,ローマでも指折りの名門クラウディウス氏族の一人で,カエサルの部将も務めたが,前44年のカエサル暗殺後は,元老院派(閥族派)として行動した.同じく,反カエサル派であったリウィアの父は,フィリッピの戦いで反カエサル派が敗れた時に自殺したが,リウィアの夫は,ローマに戻った.

 アウグストゥスとアントニウスが反目した時,リウィアの夫はアントニウス側に立ったが,劣勢となり亡命を余儀なくされた.

 前40年に一旦,アウグストゥスとアントニウスが和解したので,妻子(リウィアと後の皇帝ティベリウス)を連れてローマに帰還するが,この後,リウィアに会って,彼女を愛したアウグストゥスが,妻スクリボニアを離婚し,リウィアの夫にも離婚を同意させて,第2子をみごもっていたリウィアと結婚した.

 前33年に前夫が死去した後,2人の子供はリウィアが引き取り,アウグストゥス(当時はまだこの称号は得ていない)の家で育てた.

 リウィアの前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロの名は,クラウディウス氏族のネロ家のティベリウスと言う意味だが,ローマ人には個人名の選択肢が少なく,同氏族,同家族には幾世代にも渡り,同名の人物がいた.

 彼の同名の息子は皇帝となり,その通称はティベリウス,彼の次男ネロ・ドゥルスス・クラウディウス(通称ドゥルスス)の息子が通称ゲルマニクスで,その子が第3代皇帝の通称カリグラ,ドゥルススの弟が第4代皇帝で,通称クラウディウス,ゲルマニクスの娘で,皇帝クラウディウスの姪でありながら,後妻となったアグリッピナ(小アグリッピナ)が前夫との間に設けた子が,第5代皇帝,通称ネロ(彼はネロ家の出身ではなく,生まれた家での名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスだが,母がネロ家の出身で,大叔父の養子になった)である.

 と言うことは,リウィアの前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロは,ローマの第2代皇帝の実父,第3代皇帝の曾祖父,第4代皇帝の祖父,第5代皇帝の高祖父ということになり,しかも,彼の3つの名前は全てローマ皇帝たちの通称となった.彼らは全てリウィアとの間の子供の子孫なので,リウィアもそれに対応して,実母,曾祖母,祖母,高祖母と言うことになる.

 初代皇帝アウグストゥスの祖母の出身氏族で,自身にとっても養子先であるユリウス氏族と,第2代皇帝のティベリウスの出身氏族クラウディウス氏族(リウィアはリウィウス氏族の出身だが,父はクラウディウス氏族からの養子)の名を取って,第5代まで皇帝がいた時代を「ユリウス=クラウディウス朝」と称する.

 この「王朝」の皇帝たちの異常な行動を見ていると,とても安定した時代とは思えないが,それでも広大な領域を,軍事力を基盤とする不安定な政治システムで支配していたローマ帝国としては,「〜朝」と称される同一家系及びその周辺から皇帝が出た時代は比較的安定していたと考えられる.

 ネロの在世中に叛乱(68年)が起き,翌年4人の「皇帝」が乱立した(「四皇帝の年」)が,ウェスパシアヌスが動乱を収拾して最終的勝利者としてローマを治めた.彼の氏族名がフラウィウスであり,彼の2人の息子ティトゥスとドミティアヌスも「皇帝」になったので,「フラウィウス朝」と呼ばれる.

 ドミティアヌス暗殺(96年)後が有名な「五賢帝」時代となる.「五賢帝」時代も,養子関係による連続が見られるので,「ネルウァ=アントニヌス朝」と言う言い方があるようだ.

 「〜朝」と言うような言い方には,若干抵抗も感じるが,それでもローマ美術に関する参考書を読んでいると,ある程度以上に作風や流行を説明するのに有効な所もあるようなので,今後は自明の用語として使う.



 下の写真の彫像は,マッシモ宮殿の国立考古学博物館所蔵の作品だ.前3世紀ヘレニズム時代のもので,ディオニュソスの祭儀に関わった少女(巫女または入信志願者)の可能性が指摘されている(前掲書,p.32).

 もとは何処にあったのかは不明のようだが,現在はラツィオ州ローマ県に属している,ティレニア海岸の小都市アンティウム(現在のアンツィオ)にあった皇帝ネロの別荘に飾られていたものらしい.

 果たして,「ユリウス=クラウディウス朝」のローマ芸術にどのような影響を与えたのかわからないが,こうしたギリシア古典期,ヘレニズム時代のオリジナル作品を鑑賞しながら,ある時代のローマ芸術の趣味や嗜好が育まれたのであろうと想像する.

 L.クルツィウス,小竹澄栄(訳)『ギリシア彫刻の見方』みすず書房,2007

の第6章は,この彫刻の考察にあてられている.研究的論考と言うよりは.耽美的感想と言う面が強いように思われる.なるほど師であるアドルフ・フルトヴェングラーの子で大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの個人教師を務め,大人になってからも書簡を交わしただけのことはある.

 この論考の結論とも言うべき説と,この訳書の解題を書いた中村るいの見解を読み比べると,研究者ではない私たちは,美しいとか好ましいとか言うのは容易だが,研究的な部分に立ち入ることは不可能に近いなと言う感想を抱く.






「アンツィオの少女」 (紀元前3世紀)
乙女の腕が健康的に逞しい