§ローマ再訪 - その6 教会(3)
キリスト教は間違いなく,古代世界で生まれた宗教だし,ローマ帝国での公認前にも,多くの信者を獲得していた. |
ローマ皇帝がキリスト教信仰を公認した313年は,西ローマ帝国が滅びるまで,まだ163年ある.テオドシウス帝による「国教化」も4世紀末で,それ以前にもにキリスト教徒の皇帝と皇帝一族がたくさん出た.
コンスタンティナ
サンタ・コスタンツァ教会(もしくは聖堂)の俗称を持ち,実際に宗教儀式も行われるが,現地の案内板にはコスタンツァ霊廟(マウソレオ)とあり,そのような言い方が正しいと思うので,「霊廟」の呼称を用いる.
コスタンツァはイタリア語名で,これをラテン語で言うと(以下固有名詞に関しては長音を表記しない),コンスタンティアとなる.キリスト教を公認し,首都を東方に移した「大帝」と呼ばれるコンスタンティヌス1世の娘にコンスタンティナもしくはコンスタンティアと呼ばれる女性がいた.日本風に言えば皇女である.母ファウスタの父も皇帝マクシミアヌスだった.
高校2年の夏休み(もう34年も前の話だ),辻邦夫の『背教者ユリアヌス』を中公文庫で読んだが,コンスタンティヌスの一族には,コンスタンティウス,コンスタンスなど同じような名前が多く,それぞれに2世がいたりして,まことにややこしかった.
大帝コンスタンティヌス1世の父がコンスタンティウス1世,大帝の息子たちで,その後継者となったのが,コンスタンティヌス2世,コンスタンティウス2世,コンスタンスである.クリスプスという息子もいたが,叛逆の疑いで父によって処刑された.大帝の異母弟がユリウス・コンスタンティウスで,この人は皇帝にならなかったが,息子が皇帝となり,それが有名な「背教者」ユリアヌスである.
さらにややこしいことに,コンスタンティアという通称を持つ女性もいて,これは大帝の異母妹で,大帝のライヴァルだった東の正帝リキニウスの妻となった.現在のルーマニアの都市コンスタンツァは彼女を名祖とする.しかし,俗称サンタ・コスタンツァの「コスタンツァ」は以下の事情から,大帝の娘であるコンスタンティナを指すと思われる.
コンスタンティナの最初の結婚は335年で,まだ大帝の存命中だった.コンスタンティナは従兄弟ハンニバリアヌスと結婚したが,大帝の死後,血で血を洗う一族の争いが起こった時,夫は殺され,兄コンスタンティウス2世によって別の従兄弟ガッルスと結婚させられた.
ガッルスは東方の副帝(当時は4分割統治テトラルキアの時代で,東西にそれぞれ正帝アウグストゥスと副帝カエサルがいた)となり,コンスタンティウス・ガッルスと改名し,2人の間にアナスタシアと言う娘も生まれた.ガッルスの父はユリウス・コンスタンティウスなので,彼はユリアヌスの兄である.
ガッルスは東方の副帝としてシリアのアンティオキアに常駐したので,その妻であるコンスタンティナも,少なくとも2度目の結婚以降はローマに行ったことが無く,354年小アジアで熱病で死んだ後,遺体がローマに搬送されたらしい.
そもそもコンスタンティノープル(ギリシア語による造語なので,エラスムス式の発音ではコーンスタンティーヌーポリスになるが,英語読みに近い慣用に従う)とは縁が深いはずの彼女は生前,ローマに行ったことがあるのだろうか.
キリスト教を迫害したことで知られるディオクレティアヌスは,285年共治皇帝としてマクシミアヌスを指名し,それぞれ正帝(アウグストゥス)として,帝国の東部と西部を統治することにした.
東の宮廷はニコメディア,西の宮廷はミラノ(メディオラヌム)もしくはトリーア(アウグスタ・トレウェロルム)にあり,翌年さらにそれぞれに副帝(カエサル)を指名し,四分割統治(テトラルキア)体制ができあがった.
東の副帝はガレリウス,西の副帝は大帝の父コンスタンティウス1世であった.この時,大帝は,ニコメディアのディオクレティアヌスの宮廷で教育を受けていた.
当時一流の学者でキリスト教徒だったラクタンティウスの教えを受けた可能性もあるほどの好環境だったが,いわば人質の立場だったと考えられる.しかし,彼はディオクレティアヌスとガレリウスのために最前線で戦い,武勲を挙げ,地位を高めた.
303年の有名なキリスト教徒大迫害の後,305年に東でディオクレティアヌスが,西でマクシミアヌスが引退を表明し,ガレリウスが東,コンスタンティウス1世が西の正帝になり,副帝にはディオクレティアヌスの意志により,コンスタンティヌスとマクセンティウス(マクシミアヌスの息子)がなるはずだったが,実際にはセウェルス2世とマクシミヌス2世(マクシミヌス・ダイア)が指名された.
コンスタンティウス1世の要請により,コンスタンティヌスは西の帝国に移り,そこで赫々たる軍事的成功を収め,父の死(306年)後,西の正帝になれるだけの実力を蓄えたが,東の正帝ガレリウスの命令により,副帝となるにとどまり,西の正帝にはセウェルス2世がついた.
これに叛旗を翻したのが,マクシミアヌスの息子マクセンティウスで,彼はセウェルスを破って降伏させ,死に追いやった(307年).東の正帝ガレリウスも311年に逝去し,リキニウスが後継者となった.それに不満を抱いた副帝マクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んでリキニウスを倒そうとしたが,敗れて自殺した(313年).
その前年に,コンスタンティヌスとマクセンティウスの決戦が行われた(312年).有名なミルヴィオ(ミルウィウス)橋の戦いである.アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂バッチ礼拝堂のフレスコ画「真の十字架の物語」にも描かれた戦闘だ.
キリスト教の神の加護があったかどうかはともかく,もちろん,勝利を収めたのは,アルプスを越えて怒濤のように北イタリアを制圧していたコンスタンティヌスで,世界史的な事件と言って良いだろう.「簒奪皇帝」の死は溺死で,遺体はテヴェレ川から拾い上げられて,切り離された首は凱旋行進の見世物となり,さらにマクセンティウスの勢力圏のうち,北アフリカのカルタゴを鎮圧する道具となった.
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写真:
マクセンティウスに
勝利したことを記念
して造られた
コンスタンティヌスの
凱旋門(柱は装飾) |
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マクセンティウスが6年統治したローマに入城して,コンスタンティヌスはカピトリウムの丘のユピテル神殿ではなく,元老院議事堂で栄誉を受け,名実ともに堂々たるローマ帝国西部の正帝となった.
フォロ・ロマーノに現存する,「ロムルス神殿」は,マクセンティウスの子ウァレリウス・ロムルスが夭折した時,それ以前の別の神殿を改築して,建国伝説の英雄ではなく,息子を神として祀ったもので,6世紀にキリスト教の教会,サンティ・コスマ・エ・ダミアーノ聖堂となって現在に至っているが,コンスタンティヌスはこれを自身と元老院に捧げられた建築物としたらしい.
さらに有名なのは,やはりフォロ・ロマーノにある巨大な構築物「マクセンティウスのバジリカ」で,これも,「コンスタンティヌスのバジリカ」と呼ばれることもあるように,改築を施し,「簒奪皇帝」の痕跡を消そうとしたようだ.現在,カピトリーニ博物館の中庭にある,「コンスタンティヌスのコロッソス」と言われる巨像(現存は頭部と右手)も,元来はここに置かれたらしい.
有名な凱旋門(上の写真)もこの時,建造された.
この時期に,彼は,後にキリスト教徒のためにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂となる場所にあった邸宅を,ローマにおける自己の宮殿としたらしい.もしかしたら,それまでトリーアを中心に,アルプス以北にいたコンスタンティヌスの家族が,その時点でローマに住んだかも知れない.
コンスタンティヌスの正式な結婚は,307年にマクセンティウスが叛乱を起こした時で,その時マクセンティウスの父マクシミアヌスは,コンスタンティヌスのもとに逃れ,娘であるファウスタとコンスタンティヌスの結婚を提案し,コンスタンティヌスはそれを受け容れた.
その3年後,マクシミアヌスはコンスタンティヌスに対して,戦争をしかけるが,鎮圧されて自殺する.しかし,ファウスタとの婚姻関係は生涯続き,彼の子供は,後に叛逆の疑いで処刑されるクリスプス以外は全てファウスタとの子だ.
したがって,仮にコンスタンティナが第一子だったとしても,307年以降の生まれなので,当時の情勢を考えれば,コンスタンティナがローマに住んだことがあったとすれば,312年以後の僅かな時期しか考えにくい.
313年にミラノ(メディオラヌム)で,東の正帝リキニウスとの共同声明として,いわゆる「ミラノ勅令」を出し,キリスト教を公認し,異母妹コンスタンティアをリキニウスと結婚させて,同盟関係の強化を図るが,時間の経過とともに両雄並び立たずの関係となり,最終的に数度の決戦を経て,324年クリュソポリスの戦いで,リキニウスは敗れて降伏,一旦は助命されるが,翌年,叛逆の疑いで処刑される.
リキニウスとコンスタンティアの間に生まれたウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス(幼児,少年ながら父の副帝だったので,リキニウス2世とも呼ばれる)も,326年,クリスプスの叛逆容疑に連座して殺される.
その後の関連する主な歴史的事件としては,325年のニカイア(ニケーア)の公会議,330年のコンスタンティノープルの建設と遷都,337年の大帝の逝去があるが,列挙するにとどめる.
コスタンツァ霊廟
いずれにせよ,コンスタンティナは現在も残るコスタンツァ霊廟に葬られ,彼女の姉妹でユリアヌスの妻となったヘレナも360年に亡くなって,この建物に葬られた.
同年はヘレナの兄で,自身にとっては従兄にあたるコンスタンティウス2世に,西方の副帝だったユリアヌスが叛旗を翻した年でもあり,この時代のローマ帝国は分裂と崩壊に向けて,緊迫した情勢が続いていた.
ヘレナの埋葬について,ラテン語によるローマ史を書いたアンミアヌス・マルケッリヌスは,正帝となったユリアヌスが,ヘレナの遺体をローマに送り,ノメントゥム街道(ノメンターナ街道)沿いにあった自身の別荘(ウィッラ)に安置したが,そこには兄ガッルスの妻だったコンスタンティナが既に葬られていた,と報告している
今に残る「ノメンターナ街道」の名が出て来るので,私たちがコスタンツァ霊廟として知る建造物にコンスタンティナ,ヘレナ姉妹が葬られたであろうことは,かなりの確度の記録的根拠を持っていることになる.
ユリアヌス自身も3年後に東方で亡くなり,タルソス近郊に葬られ,後にコンスタンティノープルのコンスタンティヌス大帝一族の墓に改葬されたとのことだ.
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写真:
コスタンツァ霊廟 |
この霊廟の特徴は,平面構成が円形なことである.四角い入り口部分(上の写真)はあるが,基本的に本体は集中式の円形で,近傍のサンタニェーゼ聖堂が長堂型のバジリカ式であるのと好一対である.
集中式とバジリカ式の2つはキリスト教建築の基本であり,それを隣り合う聖堂と霊廟を見ることによって,再確認することができる.
ローマ建築
今回,建築家,建築学者の書いた啓蒙書を数冊読んだ.
河辺泰宏『図説 ローマ 「永遠の都」 都市と建築の2000年』河出書房新社,2001(以下,河辺)
香山壽夫/香山玲子『イタリアの初期キリスト教聖堂 静かなる空間の輝き』丸善,1999(以下,香山)
長尾重武『ローマ イメージの中の「永遠の都」』ちくま新書,1997(以下,長尾『ローマ』)
同『ミケランジェロのローマ』丸善,1988(以下,長尾『ミケランジェロ』)
がそうだ.
これに,案内書だが,
Livia Valeni / Giovanni Grego, Roma: Dove Trovare, Firenze: Scala, 2000(以下,ヴァレーニ&グレーゴ)
の,ミケランジェロ,ベルニーニ,ボッロミーニに関する紹介と,案内書や拾い読みしたその他の書物,英語版,伊語版のウィキペディアなどウェブページの情報を加えれば,今回,少し学習した,私の「建築」に関する知識は尽きている.
これらの中で,圧倒的に有益だったのは,河辺泰宏の著書だった.私たちが専門家に求めるものは,自己陶酔的なロマンティシズムや安直な啓蒙ではなく,素人にもわかるように書かれた正確な知識だ.その意味で,上記の本はそれぞれ,立派な著作だが,河辺の著書が1番参考になった.専門が全く違うが,専門書や論文と違う著述をする時の,手本とも言うべき名著だ.
河辺を主として参考にしながら,少し整理して見ると,ギリシアの神殿建築は,木造だった時代の後,直線(※)を基本とする構造で,縦の直線である柱(ただしそれ自体は円柱)と,横の直線である梁の組み合わせに三角破風の屋根をかけたものと言えよう(※実際には,アテネのパルテノン神殿に関して,数年前にNHKの特集番組で紹介されていたが,見た目が真っ直ぐに見えるように,微妙な曲線になっている).
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写真:
パラティーノの丘から
見たボアーリオ広場
中央にヘラクレス神殿
右端がポルトゥヌス神殿 |
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ローマに残る古い神殿としては,「真実の口」で有名なサンタ・マリーア・イン・コスメディアン聖堂とテヴェレ川の間の広場(ボアーリオ広場)に,ヘラクレス神殿(通称「ウェスタ神殿」)(英語版/伊語版ウィキペディア)と,ポルトゥヌス神殿(通称「フォルトゥナ・ウィリリス神殿」)(英語版/伊語版ウィキペディア)が残っている.
ポルトゥヌス神殿は,別の名前で伝わってきたが,「鍵,扉,家畜の神ポルトゥヌス(「扉」ポルタを語源とし,「港」ポルトゥスの連想もある)に捧げられた神殿である.かつてボアーリオ(ボアリウム)広場に河港があり,テヴェレ川を遡って,ローマの外港オスティアから家畜を乗せた船が到着したことに由来するらしい.
この神殿のつくりは基本的に柱と梁と屋根の直線的構成だが,正面に階段と,これも「前廊」と訳して良いのか,神室(ケッラ)の前にポルティコがある.これはエトルリアの伝統を引き継いだ形式で,ギリシア神殿とは一線を画している.
このポルティコ部分をギリシア語では,プロナオス(前室)と言うようだが,神室(ナオス)の「前」(プロ)の空間ということのようなので,もちろんギリシア建築にもあっただが,階段の存在により,はっきり「前」が強調されているところが,あるいはローマ的(もしくはエトルリア的)特徴なのだろうか.
「勝利者ヘラクレス」の神殿の方は,よく知られているギリシア神殿とは違う円形である.神託で有名なデルポイの古代遺跡に,円形の構築物(ギリシア語でトロス)があり,前4世紀のものとのことなので,円形が全くローマ的な特徴ということでなないだろう.
「アテナ神殿」と言われることもあるデルポイの円形構築物の,復元された円柱の柱頭はドーリス式だが,ボアーリオ広場のヘラクレス神殿の柱頭はコリント式だ.
ローマで好まれたこの柱頭の魅力に開眼したのは,今回の一つの成果だった. |
ただし今回,ボアーリオ広場はパラティーノの丘から眺めただけだし,前回行った時は,ポルトゥヌス神殿は修復中で,シートなどで覆われていた.ポルトゥヌス神殿の柱頭はイオニア式である.
円柱の柱頭と柱身,柱礎,台座,柱の上の「梁」部分の比率まで含意した「柱」全体をオーダー(ラテン語でオルド,イタリア語でオルディネ)と言うそうだが,これはなかなかわかりにくい.今回,実際に柱頭の装飾に心魅かれながら,実物を見た上で,上手に説明した本(河辺,pp.9-11)を読んだことで,多少は理解が進んだような気がする.
要するに,ギリシア神殿や古いローマ神殿では,躯体を支える構造上不可欠な部分であるオーダーを,アーチ(イタリア語ではアルコ)やヴォールト(イタリア語ではヴォルタ)と組み合わせることにより,建造物の装飾として活かした所に,ローマ建築の独創性があるらしい.
典型的な例として,河辺が挙げているのが,有名なコロッセオで,4層構造の第1層にドーリス式,第2層にイオニア式,第3層にコリント式,第4層に独特の形の柱頭が見られるが,柱そのものは装飾に用いられ,巨大建築の躯体を支えているのは,アーチを多用した壁であると言って良いのだろう.
さらに,オーダーが全く装飾的なのが,凱旋門で,上の写真のコンスタンティヌスの凱旋門にもコリント式の柱頭を見られる装飾オーダーが見られ,なおかつ効果的だ(河辺,pp.40-41).
アーチもヴォールトのギリシア建築にも見られるらしいが,大きな構築物にこれを多用したのがエトルリア人で,ローマ人は,こうした技術を借りた上で,ローマン・コンクリートの利用により,巨大建造物を造る技術を自身のものとして行った.
その成果が,現在も残るパンテオンであると言うこともできよう.現在のパンテオンは紀元前25年にアウグストゥスの腹心アグリッパによって建造されたオリジナルではなく,ハドリアヌス帝時代の再建(紀元後2世紀前半)であるが,この巨大な円蓋を持つ平面構成も円形の建物には,三角破風の屋根を持つ,方形の入り口部分(河辺は「前柱廊」プロナオス)が付加されている.
これと同じと言っては,あまりにも印象が違うので,乱暴な整理になってしまうが,コスタンツァ霊廟とよく似ていると言えるだろう.厳密には,パンテオンとは違い,コスタンツァ霊廟は同心円構造になっていて,壁の内側にもう一つ円環構造があり,それを構成しているのが2本一組で同心円を形成する列柱で,その周りは周歩廊になっている.
パンテオンは,入り口部分には屋根を支えるコリント式の柱があるが,内部のやはりコリント式の柱は,装飾であろう.躯体と円蓋は,壁によって支えられている.それに対して,コスタンツァ霊廟の列柱は,構造に対して,本質的な意味を持っているのだろうか.
それを私が判定することはできないが,少なくとも,それによってコスタンツァ霊廟の周歩廊の天井はトンネル・ヴォールト(河辺,p.53)になっていて,二本一組列柱はその一方を支える構造的意味を持っているように思われる.
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写真:コスタンツァ霊廟
周歩廊の天井を彩るモザイク(4世紀)
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構造については,これ以上,考察する術を持っていないが,周歩廊の天井のモザイクは素晴らしい.この楽園のイメージのモザイクは,異教の装飾としても,キリスト教の天国を想像させるものとしても十分以上の働きをするだろう.
堂内には,コインで明かりがつく仕組みがあり,それを試してみると,確かに良く見えるが,自然光での美しさは捨て難い.異教的要素をたくさん残しながらも,神を光と理解するキリスト教の霊廟,聖堂として十分に機能する建物だろう.
採光の仕組みこそが,この素晴しいモザイクにとって最重要の意味を持つ構造と思われる.
この霊廟は,何度でも観たいと思わせる要素を幾つも持っている.ラヴェンナのガッラ・プラキディア霊廟と双璧と思うが,「楽園」のイメージという点では,光に溢れたコスタンツァ霊廟が勝っている.血で血を洗いながら争った一族が建立したことを考えると,皮肉にも思える.
地理的にも遠く,時代も約700年下るが,浄土に憧れ,平泉に金色堂が建てられたことに,精神としては対応するかも知れない.
サンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂
これに先立って拝観したサンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)の後陣には,ビザンティン風のモザイクがある.この教会の静謐な空気は,このモザイクの荘重さが形成しているといっても過言ではない.これを見られるかどうかは,ローマに来た意味の相当の割合を支配すると思わせる.
真ん中にいるのは,この教会の名前のもとである聖アグネスである.通常,この聖人のアトリビュートとされる「仔羊」(アグヌス)は描かれていないが,聖人の頭上に省略形だが「聖アグネス」(サンクタ・アグネス)とラテン語で書かれている.
向かって左にいるのは,7世紀前半の教皇ホノリウス1世で,4世紀に献堂されたが,西ローマ帝国滅亡によって荒廃したこの聖堂を,彼が再建した.右側の人物は,5世紀末から6世紀初めの教皇シュンマクスである.後者は聖人である.
なお,この聖堂には,殉教聖人エメレンツィアーナ(エメレンティアナ)の墓があり,コロンナ宮殿でグエルチーノが描いたこの聖人の絵を見ている.
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写真:
後陣モザイク |
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ナヴォーナ広場に面してある,主としてボッロミーニの設計によって知られるバロック教会,サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)に対して,「城壁の外の」(フオーリ・レ・ムーラ)と呼ばれる.バジリカ式のこちらの聖堂の方が由緒は圧倒的に古い.
いたずらに固有名詞を列挙することには意味が無いかもしれないが,中央祭壇の前の聖体用天蓋付き祭壇は,フランス出身の彫刻家ニコラ・コルディエの作品(1605年)で,堂内には15世紀のフレスコ画,カルロ・マラッタの弟子筋で,コロンナ宮やスパーダ宮でその作品を見たジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリによるフレスコ画が見られるとのことだが,どれがそうかは確認していない.
古代から,バロックまで芸術が見られる,やはりローマならではの空間と言えるだろう.この教会にふさわしいかどうかはともかく,17世紀に造られ,19世紀の修復された豪華な格天井も間違いなく,費用と手間のかかったものだ.
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写真:
サンタニェーゼ聖堂
堂内は新しいが,
コリント式柱頭とモザ
イクが,古代,中世の
名残で美しい |
サンタニェーゼの堂外にあるブックショップで,受け付けてもらい,所定の時間になると,カタコンベが見学できる.カタコンベを実際に見るのは初めてだ.
本当に行きたいと思っていたのは「プリシッラのカタコンベ」(英語版/伊語版ウィキペディア)だった.そこには有名な宗教図像の原型のようなフレスコ画があるのだが,サンタニェーゼから少し距離があって,残りの時間でティツィアーノ展を見て,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂,「平和の祭壇」博物館を見るためには断念せざるを得なかった.
サンタニェーゼのカタコンベは,それに比べると,魅力の点では劣る.しかし,カタコンベの遺跡をこの目で見たことは間違いなく貴重な体験だった.
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古代墓地の場所に店を構えている「アンティカ・ローマ」
古代風料理を出す店として,日本のTV番組でも紹介された.「古代風」かどうかはともかく,料理は結構うまい. |
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遺体を納める空洞は,横長で,アッピア街道周辺に見られる火葬墓(上の写真)に比べて大きいのは,復活の日に備えて遺体を残す,キリスト教徒の土葬の習慣を示しており,これはとても勉強になった.中央祭壇下にはサンタニェーゼの遺体が安置されている.
後から入って来たドイツ人の団体に英語ガイドを取られた(その人はドイツ語でガイドしていたようだ)ので,イタリア人の高齢女性のお二人と同じグループで,イタリア語のガイドで案内してもらったが,ガイドが早口だけれど発音が明瞭なので,そこそこ内容を理解できた.相槌を打ちながら,ところどころ唱和するイタリア人観光客の方々とご一緒させていただいただけでも貴重な体験だった.
なにせ,ドイツ人のグループは20人超に1人のガイドだが,こちらは4人に対して1人のガイドで,コストパフォーマンスが大変良かった.
サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂
コスタンツァ霊廟のモザイクが古代末期,サンタニェーゼのモザイクがビザンティン芸術の特徴を示すものだとすれば,アルプス以北で聖母崇敬が広まったゴシックの流行を反映しているであろう,サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)の後陣の「聖母の物語」などのモザイクは,13世紀末(1291年)のもので,圧倒的に「新しい」.
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写真:
後陣モザイク
サンタ・マリーア・イン・
トラステヴェレ聖堂 |
作者のピエトロ・カヴァッリーニに関しては,フィレンツェの芸術家チマブーエとほぼ同世代で,次世代の大芸術家ジョットに影響を与えた可能性を持つ「ローマ派」の画家であるというくらいの知識しか持っていないが,それでもアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上部教会を見て以来,ヤコポ・トッリーティとともに,この名前には常に注意を払ってきた.
これまでのローマ旅行でも,多くはないが複数の作品(帰属,工房作品を含む)を観ることができたし,今回の旅行でも,この聖堂に先立って拝観したサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂で,ファサード裏の空間に残るフレスコ画「最後の審判」を,隣り合う女子修道院の入り口から入れてもらって,再び観ることができた.
ジョットとの関係については,専門的研究が積み重ねられており,素人が立ち入るべき問題ではないが,強烈に人を魅きつける力を持った芸術家だと思う.
印象派やルネサンス絵画が好きな日本人が,何の知識もなく,この画家の作品を見て,歴史的観点を抜きに関心を持つかどうかわからないが,少なくとも,ツァーの皆さんはサンタ・マリーア・イン・トラステヴェレのモザイクも,サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレのフレスコ画も熱心に鑑賞しておられた.心魅かれるものがあったようだ.
前回,うまく写真が撮れなかった「受胎告知」(角度的に難しい)は,今回は何度もしつこくチャレンジして,まあ,大体絵柄がわかる程度の写真は撮ることできた.ウェブ上にもたくさん写真のある作品なので,そんなにこだわらなくても良いのだが,やはり,一応の達成感が得られた.
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写真:
後陣モザイクの中の
「受胎告知」の場面 |
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ふと,パレルモのマルトラーナ教会で見た一連の聖母の物語のモザイクを連想した.
思ったほどキリスト教の浸透が進んでいなかったアルプス以北のヨーロッパで,おそらく,古代以来の「大地母神信仰」の系譜に連なるであろう「マリア崇敬」という新しい流行によって,農村部にもキリスト教信仰が普及し,それを基盤にゴシック芸術が栄えたということは,諸々の参考書によって,一応,理解できる.
では,マルトラーナ教会の一連の聖母の物語のモザイクもやはり,ゴシックの時代の風潮を反映しているのであろうか.12世紀の作品と言うことなので,ゴシックの始まり(12世紀半ば)と微妙に近いが,果たして影響関係はあったのだろうか.
マルトラーナのモザイクの製作はビザンティンの職人によるものだとしても,この教会の献堂に深くかかわった海軍提督アンティオキアのゲオルギウスの主君であるルッジェーロ2世は,ノルマンディー出身の家系だが,逝去が1154年,やはり,微妙な年代である.
特に本質的な連関がなく,偶然の産物かも知れないが,ピエトロ・カヴァッリーニに100年以上先行するマルトラーナ教会のモザイクとの類似が思い起こされたので,幾つかのデータを確認してみた.ビザンティン芸術の流れの中にあると考えれば,似ているのも当然だし,マルトラーナに見られる「受胎告知」や「イエスの誕生」は聖書の中に典拠が求めらるので,特にゴシックの「聖母崇敬」とは関連付ける必要がないのかもしれない.
サンタ・マリーア・トラステヴェレの堂内は,一部コリント式もあるが,概ねイオニア式の柱頭の柱が目立つ.カラカラ浴場の遺跡から持ってきたものらしいが,同じくローマ市内とは言え,随分遠くから運んだものだ.
列柱は古代のもの,モザイクは中世の遺産だが,格天井にはドメニキーノの絵も見られ,彼の意匠によるバロックの作品とのことだ.ルネサンスの名残は確認できていないが,やはり,古代,中世からバロックまでの息吹が残る,これもまたローマならではの教会ということになる.
強いて言えば,モザイクの下にあるフレスコ画を描いたのは,アゴスティーノ・チャンペッリで,「バロックの画家」(英語版ウィキペディア)だが,1565年フィレンツェ生まれ,サンティ・ディ・ティートの弟子なので,ルネサンス,マニエリスムの遺風くらいは感じられるかも知れない.
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写真:
正面入り口の壁面
一杯に張り付けら
れた墓碑 |
前回,確認を怠ったものとして,前廊の向かって左側の側壁に置かれた古代の石棺(3世紀)がある.ライオンの浮彫と,両脇に彫り込まれた,コリント式柱頭の小さな装飾柱が興味深い.
また,ギリシア語,ラテン語が描き込まれた大理石墓碑がたくさん壁に貼り付けらており中には素朴な絵が描かれているものもある.今回,余裕のある行動日程だったので,比較的ゆっくり見ることができ,写真にも収めることができた.
自分の研究主題に特に深くかかわるものではないが,中世,ルネサンス,バロックの傑作を知れば知るほど,それらの現代との連続性に比して,ものすごく遠くに感じられる,古典古代と古代末期について,何ほどかの実感を得るための貴重な資料に思われる.
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写真:
国立考古学博物館所蔵の墓碑
「オランス」の姿勢の男
「オリーヴの枝と鳩」
ギリシア語のクリストスの最初の2文字Χ(キー)とΡ(ロー)を組み合わせた「クリスム」
「6月1日に36歳で亡くなったプリスクス」の墓碑
クリスムの下の横顔は本人のものだろうか? |
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今回,サンタニェーゼのカタコンベでキリスト教徒の墓を,アッピア街道周辺で,キリスト教徒ではなかったローマ人の墓を,さらにサンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂の前廊で庶民の大理石墓碑を,またディオクレティアヌス浴場跡の国立考古学博物館で,ユダヤ教徒,キリスト教徒の墓碑をたくさん見ることできて,歴史の中で生きた個々人の人生を考えさせられた.
自分の力ではどうしようもない,天災や歴史のダイナミズムに翻弄されながらも,たくましく自分の人生を懸命に生きた多くの人がどの時代にもいた.当たり前のことだが,今回はそれをしみじみ感じずにはいられなかった.
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わずかに残る墓碑が往時を偲ばせる アッピア旧街道
人も犬も濡れそぼちながら歩く
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