フィレンツェだより番外篇
2013年4月3日



 




天使と預言者ハバクク
ジャン=ロレンツォ・ベルニーニ



§ローマ再訪 - その5 教会(2)

サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂は既に2回拝観しているので,今回,拝観する予定はなかった.


 しかし,5日目にトリニタ・デイ・モンティ教会を見学した後,スペイン階段の上で解散となり,多少,体力が回復していたので,そのまま宿に帰るのも勿体ないような気がして,じゃあ,地下鉄の一週間券も貰っていることだし,1駅だけ地下鉄に乗って,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂にカラヴァッジョを見に行こうと言うことになった.

 カラヴァッジョをもう一度見たいと言う気持ちもさることながら,前回,鑑賞が不十分だったキージ礼拝堂を再訪したかった.

 この礼拝堂の設計はラファエロで,彼はクーポラに見れらるモザイクの下絵も描いている.さらに祭壇画「聖母の誕生」はセバスティアーノ・デル・ピオンボの作であり,四隅の彫刻のうち2つはバロックの巨匠ベルニーニの手になる.

写真:
キージ礼拝堂
クーポラ



アゴスティーノ・キージ
 キージ礼拝堂の名称は,アゴスティーノ・キージという人物の墓があることによる.彼はシエナ出身の銀行家で,歴代の教皇や,ルネサンスの地方君主たちの財政を支える一方,稼いだ富を芸術に投下した.

 同郷の芸術家バルダッサーレ・ペルッツィに,後にファルネーゼ家に売却されるので現在はファルネジーナ荘と呼ばれている別荘を設計させ,内部にはラファエロ,ソドマ,ピオンボに神話や歴史を題材にした装飾フレスコ画を描かせた.

 人文主義者や文人と親しく,その中にはピエトロ・ベンボ,パオロ・ジョヴィオ,ピエトロ・アレティーノがいた.少なくともこのうち2人のピエトロはティツィアーノの周辺にいたし,ベンボはラファエロの墓碑にラテン詩を書いた.

彼らは思想,文学の面からルネサンスを支えただけではなく,視覚芸術にも深い影響を与えた.

 アゴスティーノは十分な教育を受けておらず,ラテン語も得意ではなかったとのことだが,ルネサンスを支えた人文主義への貢献に比べれば,些末なことに過ぎない.

 キージ家はアゴスティーノ以降,ローマで富裕な貴族として栄える一方,17世紀にはシエナの家系から枢機卿ファビオ・キージが教皇に選出され,アレクサンデル7世となる.教皇を出したパンフィーリ家がアルドブランディーニ家やジェノアヴァの有力家系ドーリア家との婚姻によって,現在,宮殿に名前が残るドーリア・パンフィーリ家となったように,ローマのキージ家も有力家系と婚姻を重ね,キージ・アルバーニ・デッラ・ローヴェレ家として続いているようだ.

 ただし,宮殿名はシンプルにキージ宮殿だ.ここは現在イタリア共和国政府の庁舎になっていて,TVのニュースは政治がらみだとキージ宮の前からの中継が多い.

 アゴスティーノの父マリアーノの兄弟ベネデットの家系はシエナで栄え,トスカーナ大公家に仕える貴族であった.

 いずれにしてもアゴスティーノは,家系伝説では中世初期の南トスカーナの領主の親族で,13世紀から記録に登場するシエナの名家の出身であるにせよ,地方出身の有能な人物である.それが自己の才覚で銀行家,実業家として成功を収め,芸術と人文主義を保護し,ローマのルネサンスに多大な貢献をした.

 当時の社会状況を現在の価値観で考えたとき,手放しの称賛はあり得ないが,歴史上の人物としては一定の評価をされるべき「ルネサンス人」であろう.1466年の生まれなので,同じトスカーナのフィレンツェの政治家ロレンツォ・デ・メディチが亡くなった1492年には,26歳の若者だった.

 メディチ家の歴史にはロレンツォと言う名前が複数出て来るので,このロレンツォはイル・マニフィコ(偉大な者)という添え名が付され,場合によっては公式の君主ではないのに「豪華王」と訳されるが,キージ家の場合も後にアゴスティーノと言う名の当主(18世紀)も別にいるので,キージ礼拝堂に葬られたアゴスティーノもイル・マニフィコと呼ばれることもあるようだ.

 1449年生まれのロレンツォ・イル・マニフィコと17歳違いのアゴスティーノ・イル・マニフィコは,歴史上すぐれた政治家として知られるが,メディチ銀行の経営に失敗し,息子がフィレンツェを追放される原因を作ったロレンツォと交代するように,主役とまでは言えないかもしれないが,重要な登場人物として,イタリア・ルネサンスの舞台に登場する.

 ルネサンスの中心がフィレンツェからローマに移って行く中,アゴスティーノが仕えた教皇の1人はメディチ家出身で,ロレンツォの息子ジョヴァンニ(レオ10世)であったし,アゴスティーノ自身もそうだったように,ローマの遅いルネサンスはトスカーナに縁の深い人々が中心になって支えた.

 アゴスティーノはラファエロと同じ1520年に亡くなるので,1527年の「ローマ劫略」は見ていない.しかし,いわゆる「宗教改革」は1517年に始まるので,これには政治的,経済的な面からも無関心でいられなかっただろう.

 宗教改革が起こった時の教皇はレオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ),ローマ劫略の時の教皇はクレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)で,後者はロレンツォ・イル・マニフィコの弟で,パッツィ事件で殺されたジュリアーノの婚外子で,ロレンツォに育てられた.

 歴史は個人の力では動かないが,こうして固有名詞を並べ,その背景を整理しているだけでも,何らかの物語が出来上がって来るように思われる.


サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂
 古い由緒を持つ教会だが,堂内は中世の再建により,ローマではめずらしいゴシック様式が見られる(身廊の天井はリヴのない交差ヴォールト)が,ファサードは代表的なルネサンス建築とされる(河辺泰宏『ローマ 「永遠の都」 都市と建築の2000年』河出書房新社,2001,p.73).

 ローマの教会では,サンタ・マリーア・デル・ポポロとサンタゴスティーノのファサードがルネサンス様式とのことだ.そう言われれば,バロック諸教会に比べて,簡素なファサードだ.

 堂内にはピントリッキオのフレスコ画というルネサンスの遺産と,アンニーバレ・カッラッチ,カラヴァッジョの祭壇画というバロックの傑作がある.

 ピントリッキオはウンブリア州ペルージャの出身で,ペルジーノを産み出したウンブリア絵画の伝統の中で育ったが,ペルジーノがフィレンツェにも工房を持っていたように,ピントリッキオもシエナで大きな仕事(大聖堂のピッコロミーニ図書館のフレスコ画など)をして,シエナで亡くなった.言って見ればトスカーナのルネサンスと深い繋がりを持った芸術家だ.

 それに対して,アンニーバレはボローニャ,カラヴァッジョはミラノの生まれで,芸術家が北イタリアから多く輩出された時代の人々だ.ローマのルネサンスはトスカーナが,バロックは北イタリアが支えたと言っては図式的過ぎて,正確でもないだろうが,傾向としては十分意識されて良いだろう.

写真:
キージ礼拝堂


 キージ礼拝堂を見てみよう.設計はラファエロ,祭壇画はピオンボだ.ラファエロはマルケ州,ピオンボはヴェネツィアの出身で,トスカーナの出身ではないが,ミケランジェロからトスカーナ芸術の伝統を引き継いでいる.

 4体の彫刻のうち,「天使と預言者ハバクク」,「ダニエルとライオン」を造ったバロックの巨匠ベルニーニは,父ピエトロはフィレンツェ近郊のセスト・フィオレンティーノの生まれなのでフィレンツェ出身の家系と言っても良いが,母アンジェリカはナポリの出身であり,本人は父の仕事先のナポリで生まれ,ローマで育ったので,トスカーナ出身とは言い難い.

 しかし,残りの2つの彫刻「鯨の口から出るヨナ」,「預言者エリア」を造ったロレンツェット(ロレンゼット)ことロレンツォ・ロッティ(ロレンツォ・ディ・ロドヴィーコ・ディ・グリエルモ)は,フィレンツェの生まれだ.どのような師匠について彫刻家となったかの情報はないが,ラファエロの工房で活躍し,ジュリオ・ロマーノの姉妹と結婚したとのことだ.

 ヨナの姿は,古代ローマの皇帝ハドリアヌスに寵愛された美少年アンティノオスの古代彫刻を意識したらしいが,せっかくの工夫も,多くの人の関心がベルニーニにあって,あまり注目されない.

 エリアの彫刻は未完のまま終り,これを完成させたのはラファエロ・ダ・モンテルーポだ.この人物もトスカーナ出身で,父は彫刻家のバッチョ・ダ・モンテルーポ(フィレンツェのサンタポロ―ニア旧女子修道院のカスターニョ博物館で見られる木彫の磔刑像がその作品)なので,詳細はわからないが,トスカーナの職人的芸術の伝統の中で育った人と言って良いだろう.巨匠ラファエロの周辺で仕事をした.

 フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂の新聖具室にもラファエロ・ダ・モンテルーポの作品がある.ここにはミケランジェロの傑作が複数あるが,その中の聖母子(通称「メディチの聖母」)の両脇に置かれているメディチ家の守護聖人コスマスとダミアヌスの大理石像のうち,ダミアヌスが彼の作品だ.傑作の傍らでさらし者のように言われることもあるが,ちゃんとなじんでいると思う.

 オルヴィエート大聖堂のファサードの「三王礼拝」の浮彫も彼の作品だそうだ.それで力尽きたのかどうかわからないが,オルヴィエートで亡くなった.能才の職人的彫刻家と言えると思う.



 やや,強引な言い方になるが,こうして見てくると,トスカーナ周辺で栄えたルネサンスは,フィレンツェの政治経済の力が衰えたとき,人文主義に傾倒し,権力志向の動物精気に満ちた教皇が続いたローマへと移っていった.

 ローマのルネサンスはイタリア・ルネサンスの最後の光芒だが,それも「ローマ劫略」で,一瞬にしてルネサンスの光輝は失われ,ローマは次の時代を模索しなくてはいけなくなる.

 それでも,ミケランジェロが,なお37年も生きたことはローマにとっては幸いだったろう.ルネサンスの芸術家として生きながら,マニエリスムの芸術家たちの手本となり,バロックへの道を開いたのは,まぎれもなくミケランジェロであろう.

 その人生は孤独で,不幸だったかも知れないが,理解する人,評価する人にも恵まれ,本人は意外だったかも知れないけれど,彼を愛する人も少なくなかったはずだ.

 バロックのローマへの道筋はミケランジェロがつけたと言っては言い過ぎかも知れないが,基本的な技術を修練と努力によって獲得し,恵まれた天分を存分に活用し,前代から学びながら,思いもよらなかった独創性によって,周囲に影響を与え,次代を切り開いた.

 有り余る天分に恵まれながら,ラファエロは夭折し,レオナルドはふさわしい場所を得られず,自己実現が十全ではなかった.フィレンツェに長く続いた家系の子として,トスカーナの田舎町に生まれ育って,フィレンツェで青春を過ごしたミケランジェロこそ,ルネサンス以降のローマにとって,最も重要な芸術家だったと言えよう.

 天才,偉人,超人という言葉はこの人のためにある.


バロックの時代の天才
 ミケランジェロがルネサンスを集大成したローマで,17世紀に3人の天才が活躍した.カラヴァッジョ,ジャン=ロレンツォ・ベルニーニ,フランチェスコ・ボッロミーニだ.

 ベルニーニの父がフィレンツェ近郊出身なのを除けば,カラヴァッジョはミラノ生まれで,父祖の地はミラノ近郊のカラヴァッジョ,ボッロミーニは現在はスイス領のイタリア語圏でルガーノ湖のほとりのビッソーネの生まれだ.バロック以後の時代にも,意外なほどフィレンツェ周辺やトスカーナ出身の芸術家がローマで活躍しているが,この3人だけを見ると,フィレンツェで生まれたルネサンスは遠くなったのだと思う.

 ただ,ロンバルディアからスイスにかけての湖水地方から建築家,彫刻家が出る伝統は中世以来のものだ.ボッロミーニ自身が意識していたかどうかはわからないが,巨視的には彼も長い伝統の中で生まれた天才のように思える.パレルモで活躍した15世紀の彫刻家ドメニコ・ガジーニも同じくビッソーネの生まれだ.

 ガジーニは昔過ぎるかも知れないが,ボッロミーニ前の世代で,ローマで活躍した彫刻家であり,建築家のステファノ・マデルノ,カルロ・マデルノの兄弟もビッソーネと同じカントン(州)に属するカポラーゴの生まれで,ボッロミーニの母方の親族にあたるらしい.

 カラヴァッジョもミラノで,ティツィアーノに学んだと言うシモーネ・ペテルザーノ(宮下規久朗はペテルツァーノと表記)の工房にいたことは意味があったはずだ.北イタリアのルネサンスは,フィレンツェ周辺の芸術の影響を受けて,パドヴァのスクァルチョーネ工房と,ヴェネツィアのヤコポ・ベッリーニ工房から始まり,後者からはヴェネツィア派の伝統が生まれ,前者で学んだヴィンチェンツォ・フォッパがロンバルディアのルネサンスを切り開いて,その後継者たちはレオナルドの深い影響を受ける.

 こうして見ると,カラヴァッジョはフィレンツェ・ルネサンス芸術の遠い子孫のようだし,ボッロミーニも中世以来のイタリア芸術の伝統の中にいると言う,考えてみれば当たり前の事実を再確認できるように思う.

写真:
サンタンドレーア・アル・
クィリナーレ教会
クーポラ(ベルニーニ設計)



サン・カルロ・アッレ・
クァットロ・フォンターネ教会
クーポラ(ボッロミーニ設計)


 上の写真の2つの楕円型クーポラはそれぞれ,ベッリーニとボッロミーニの作品だが,しみじみ見ても,この2人がローマのバロックを現出するライヴァルと言われるのがわかるように思える.

 前回はそれぞれの教会の拝観は短時間で,特に冬の夕方だったので,十分とは言えなかったが,今回は午前中の良い光の中での拝観だったので,両教会とも,満足の行く拝観ができた.特に,観光的視点からは注目されることが少ない,堂内の祭壇画や,聖具室までじっくり見られたのは本当に良かった.


サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会
 サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会は,1658年から20年かけてベルニーニの設計により建てられた.55年の教皇に就位したアレクサンデル7世とカミッロ・パンフィーリ枢機卿の委託による.アレクサンデルは完成前の67年に亡くなるが,本名はファビオ・キージ,シエナ生まれのキージ家(トスカーナ家系)出身の教皇だ.

 ベルニーニの設計ばかりが紹介されるが,堂内には有名無名の芸術家たちの作品がある.

 中央祭壇に向かって右側のサン・フランチェスコ・サヴィエーロ礼拝堂には,やはりバロックの巨匠の一人(イル・)バチッチョ(バチッチャとも言う)ことジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリの3枚の祭壇画がある.ジェノヴァ出身のこの画家の通称は,ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)という名のジェノヴァ風の愛称に拠るそうだ.

 フランチェスコ・サヴィエーロは日本にも来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルのことなので,以下ザビエルと言うと,中央には「ザビエルの死」,(中央の絵から見て)右壁面は「ザビエルの説教」,左壁面は「(インドの)女王に洗礼を施すザビエル」である.「ザビエルの死」が印象に残る.

 彼の作品としてはイル・ジェズ教会の天井画が有名だが,これは観ていない.トラステヴェレのサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会で「聖母子と聖アンナ」を観ている.

 向かって右側の「受難の礼拝堂」(カッペッラ・デッラ・パッショーネ)には,ジアチント・ブランディの「キリスト降架」(中央),「キリスト笞刑」(中央の絵から見て右),「カルヴァリオへの道」(左)があるが,この画家は今回のローマ行で初めて知った(と思う).

 1621年にローマに生まれ,彫刻家のアレッサンドロ・アルガルディの工房で徒弟修業を初め,画家となって,ジョヴァンニ・ランフランコらの工房の仕事をした.ナポリでも仕事をしたのはランフランコとの関係だろうか.ローマにもどり,サン・ルーカ美術学院の校長(「首席画家」と言うような言い方が良いのかもしれない)にもなってローマで死去したので,「ローマの画家」だ.

 たくさんの仕事をしたようだが,観光コースに入らない教会や宮殿が多く,作品を観られる機会は少ない.しかし,今回,実は,この人の作品を別の場所でも見ている.サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ聖堂のクーポラ周辺のフレスコ画を描いたのがこの人のようだ.一応,ヴァティカンの絵画館にも作品があり,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに1点のみ写真がある.

 中央祭壇に向かって左側の聖スタニスラオ礼拝堂には,「聖スタニスラオの前に現れる聖母子」というカルロ・マラッタの絵がある.やはり,マラッタらしい美しい絵だが,特に感銘はない.

 スタニスラオ・コストカは,ポーランドで生まれ,16歳でローマで亡くなった(1568年なので,シェイクスピアは4歳),貴族出身のイエズス会士で,若い学生・生徒の守護聖人とのことだが,列聖されたのは18世紀で,いかなる事情で聖人に列せられたのかは,よくわからない.病に罹っている時に,聖体拝領を受けた際,2人の天使があらわれ,それがきっかけとなってイエズス会に入ったとのことなので,もっぱらイエズス会にとって何らかの意味があって,その働きかけで列聖されたのだろうと想像する.1605年の列福,1726年の列聖なので,1713年に亡くなったマラッタがこの絵を描いた時はまだ聖人ではなかったことになる.聖母子の前に跪く若い修道士の後ろに2人の天使が描かれているのは,あるいは先の「故事」に基づくのだろうか.

 私たちには理解しがたいが,今回拝観していないコーナーに,この聖人が横たわっている姿の立派な色大理石の彫刻があるくらいなので,少なくともこの教会とイエズス会にとっては重要な人物なのだろう.

写真:
サンタンドレーア・アル・
クィリナーレ教会
中央祭壇
(コリント式柱頭を持つ
柱に支えられた神殿風
の祭壇が美しい)


 中央祭壇の「聖アンデレの殉教」だけは前回も見ているが,今回初めて作者を確認した.イタリア名をグリエルモ・コルテージ,本名をギョーム・クルトワと言うフランス出身の画家で,スイスと接する,現在のフランシュ・コンテ地域圏,大きくはブルゴーニュ地方のサンティポリットの生まれで,ローマで亡くなった.父と兄ジャック・クルトワ(ジャーコモ・コルテージというイタリア名と「ブルゴーニュ出身」を意味するボルゴニョーネの通称を持つ)に連れられて,イタリアに来て,さらにローマに移り住んだのが10歳の時だから,やはり「ローマの画家」と言えよう.

 ピエトロ・ダ・コルトーナに学び,ジョヴァンニ・ランフランコ,アンドレーア・サッキの影響を受けたとのことなので,フランス系の名前の画家の門下だったようだが,ボローニャで画家修業が始まって,グイド・レーニやフランチェスコ・アルバーニの仕事を手伝った,7歳年上の兄ボルゴニョーネ同様に,フランス出身だが,「イタリアの画家」だったことになる.

 サンタ・プラッセーデ聖堂のクーポラ天井にフレスコ画を描いているそうだが,拝観した時は見逃していると思う.

 聖具室の天井装飾画「聖アンデレの栄光」もフランス出身の画家の作品であろう.教会で喜捨により拝受したイタリア語・英語・ポーランド語による案内冊子にはジャン・ド・ラ・ボルドとあるが,この人に関しては情報が得られていない.きちんと描かれており,それなりに存在感のある絵だと思う.

 クーポラ裏側周辺のストゥッコ彫刻は,ベルニーニ弟子で,ナヴォーナ広場の噴水の彫刻などの作品が知られるアントニオ・ラッジに拠るものとのことだ(案内冊子).

 カルロ・ボッロミーニの設計で有名な,サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会のファサードには,この教会の名のもとになっているミラノの聖人カルロ・ボッロメーオの彫像があるが,この作者も上述のアントニオ・ラッジとされる.大筋で,大天才たちの競作ともいえる両教会に関しても,巨匠だけの力で完成したわけではないようだ.


サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会
 狭小な敷地に,クーポラが楕円型であるばかりでなく,本堂の平面構成も楕円を変形にしたものであるところが,斬新だったのだろう.この教会の大体の完成が1644年で,サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会の建設開始が1658年であれば,ボッロミーニが先行しており,ベルニーニと言えども,近傍のサン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネを意識しなかったはずはないと思う.

 結果として,それぞれ個性の違いが際立つことになったとは言え,ボッロミーニの独創性は驚嘆に値するのではなかろうか.さらに言えば,この教会の「波形」と表現すれば良いのか,うねる様な正面は,ボッロミーニや彼の影響を受けたローマ建築の一つの特徴にもなっているように思われる.

 この教会は,「至聖三位一体」(サンティッシマ・トリニタ)修道会の委託によって建設されたので,キオストロ(回廊)もあるいは,修道院の回廊ということになるだろうか.簡素で美しい回廊で,いかにも大都会の中の修道院回廊(修道院はどこにあるのだろうか)と言えるかも知れない.

写真:
キオストロ


 中央祭壇画が,ピエール・ミニャールの「修道会設立者とともに三位一体を崇める聖カルロ・ボッロメーオ」であることもわかり,その他の祭壇画の作者もわかる(伊語版ウィキペディア)ようだが,特に注目すべきものとは思われない.


サン・ロッコ・アッラウグステオ教会
 自由行動の日に,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂,サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ聖堂を拝観した後,テヴェレ川の方に向かって歩き,アウグストゥス霊廟を横目に見て,「平和の祭壇」(アーラ・パーキス)博物館へ行ったが,そのとき,通りをはさんである2つの教会のうち,1つの扉が開いていたので,「平和の祭壇」を見学後,拝観した.

 このサン・ロッコ・アッラウグステオ教会について,『地球の歩き方』には言及はないし,『望遠郷』の「クーポラ」特集のページには写真があるが,教会本体には触れられていない.特に拝観したかったわけではないし,今のところ,伊語版ウィキペディアと,英語版ウィキペディアの簡潔な紹介,堂内で撮った写真以外に特に資料はないが,それなりに興味深いものもある.

 もともと11世紀創建の,ラテン語で「ユクスタ・フルーメン」(川の近くの)と言う添え名を持つサン・マルティーノと言う名の小教会があったらしいが,そこを,1499年認可の聖ロクス(サン・ロッコ)信者会が16世紀にサン・ロッコ・エ・マルティーノと改称した病院付属の礼拝堂にし,その際にバルダッサーレ・ペルッツィのフレスコ画も描かれたらしい.

 現在の建物は,1654年完成のものを基本として,クーポラはジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシの作品で,彼はその他の部分の設計も手掛けたが,ファサードは19世紀の新古典主義建築で,設計者はジュゼッペ・ヴァラディエールというローマ出身の建築家だ.従って,外観の印象は新しい,16世紀にヴェネツィア,ヴィチェンツァで活躍した建築家パッラーディオの影響があるとのことだ.

 ヴァラディエールに関して,伊語版ウィキペディアには金銀細工職人とも書いてあって,もう19世紀まで生きた人なのに,職人階級から出て来た人なのだなと思ったが,父親ルイージは,有名な金銀宝飾職人の一族の出身で,自身も傑出した職人であったようだ.ジュゼッペは火災で大きな被害を受けたサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂の再建にもかかわり,ウルビーノ大聖堂の堂内,ポポロ広場にあるピンチョの丘の前の噴水など,彼の多くの仕事が現在まで残っている.

写真:
サン・ロッコ・
アッラウグステオ教会


 堂内は荘厳な雰囲気があり,やはりクーポラは印象に残った.中央祭壇画は,今回,サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ聖堂,サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会で,(多分)初めて出会った画家ジアチント・ブランディの「栄光の聖ロクス」で,地味だが,良く描けた絵で,祭壇画としては申し分ないと思う.

 額に納められた剥離フレスコ画,ペルッツィの「イエスの誕生」は,バチッチョが修復したとの情報もあるが,教会内の説明板にはそこまで書かれていなかった.

写真:
サン・ロッコ・
アッラウグステオ教会
クーポラ


 アントニオ・アモロージの「パオラの聖フランチェスコの法悦」も平凡な祭壇画かも知れないが,老聖人と若い天使の対照がそれなりに見事だ.この聖人の絵も,フィレンツェに比べれば,ローマでは比較的良く見られるように思えた.トリニタ・デイ・モンティ教会を創ったミニモ会という修道会の祖で,聖人はカラブリアの出身だが,フランスで崇敬された.私たちもニースの教会で初めて,この聖人のことを知った.

 アモロージは1660年,現在マルケ州アスコリ・ピチェーノ県に属するコムナンツァの生まれで,8歳からローマに住んで,ローマで亡くなった「ローマの画家」だ.コルシーニ宮殿の美術館にも作品があったようだが,特に気づかなかった.

 絵として魅力があったかどうかはともかく,グレゴリオ・プレーティ「パドヴァの聖アントニウスと幼児イエス」は作者の名前が気になった.私たちが注目しているカラブリア出身で,ローマでも活躍し,マルタ島で亡くなったマッティア・プレーティの10歳上の兄のようだ.

 英語版ウィキペディアにサン・カルロ・アイ・カティナーリ教会にフレスコ画を描いて(伊語版ウィキペディアの教会ページに拠れば,弟マッティアとの共作),1672年にローマで亡くなったという情報があるだけで,詳しいことはわからないが,一応,この教会で彼の作品が観られたことは心にとめておきたい.

 次回は,古代末期から中世の教会で見られたモザイクや建築を中心に報告したい.






ピオンボの祭壇画を撮る
キージ礼拝堂にて