§ローマ再訪 - その4 教会(1)
今回,自由時間に,どうしても見たいと思っていた教会があった. |
そのうち,郊外のサンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂と,街中のサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂(バジリカの呼称を持っているようだ)を見ることはできたが,もう一つ,サンタ・マリーア・デッラ・パーチェ教会は,情報では午前中しか開いていないということで,午前中の自由時間は1日しかなく,断念した.
今回のローマ行で,見られた教会を並べて見ると,拝観した順に,
サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂(再訪)
サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ聖堂(再訪)
ドミネ・クォ・ヴァディス教会
サンタ・マリーア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会(再訪)
サンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂
コスタンツァ霊廟(通称「サンタ・コスタンツァ教会」)
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂
サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ聖堂
サン・ロッコ・アッルアウグステオ教会
サンタンドレーア・アル・クィリナーレ教会(再訪)
サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会(再訪)
トリニタ・デイ・モンティ教会
サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂(再訪)
サンティニャツィオ・ディ・ロヨラ・イン・カンポ・マルツィオ教会
サンティッシモ・サクラメント・アル・トリトーネ祈祷堂(再訪)
となる.他に外観だけ見た教会も複数あるが,ともかく「病み上がり」(上がっていなかったが)の状態でスタートし,体力的な不安を抱えながら,健脚の皆さんに後れを取らないようにすることが課題だったので,いつもに比べると,拝観した教会が少ない.
トラステヴェレに行った際に,サン・ベネデット・イン・ピシヌーラ教会をぜひ拝観したいと思っていて,実際にその傍まで行ったが,ともかく体力温存を優先してあきらめた.
やはり,トラステヴェレで昼食をとった時,近くにあり,扉も開いていたのが,跣足カルメル会のサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ教会だ.ここの祭壇画になるはずだったのが,カラヴァッジョの「聖母の死」だが,受け取りを拒否され,様々な経緯を経て,今はルーヴル美術館にある.その代りに,カラヴァッジェスキの1人カルロ・サラチェーニの「聖母の死」(伊語版ウィキペディアの教会の紹介ページに写真)がある(宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』角川選書,2007,pp.129-134)ことを知識として知っていた.
列を離れて堂内に入り,せめてサラチェーニの祭壇画だけでも観たいと思ったが,あきらめてグループとともに行動し,食事が終わった後には,扉は閉まっていた.
他にも,自信家で嫉妬深いカラヴァッジョが賞賛したと言う(宮下,上掲書,pp.90-91),アンニーバレ・カッラッチの「聖マルガリータ」があり,以前,クリプタ・バルビの考古学博物館に行くとき,その前を通ったサンタ・カテリーナ・デイ・フナーリ教会,モザイクが立派らしい,ヴェネツィア宮殿に隣り合うサン・マルコ・エヴァンジェリスタ・アル・カンピドリオ聖堂など,モザイク,コズマーティ装飾などローマらしい特徴を備えた諸教会は,今後の楽しみに残された.
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂は,『地球の歩き方』では紹介されていないが,『望遠郷』には紹介があった.しかし,この教会を見たいと思ったのも,宮下規久朗の上掲書(pp.142-143)を読んだからだ.そこには,
「サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会にある≪磔刑≫は,レーニの晩年,一六三九年から四二年にかけて制作されたものである.近所に住んでいたカラヴァッジョの面影がこの界隈にはないにもかかわらず,カラヴァッジョがライヴァルと目したレーニの傑作が人々をひきつけてやまないのである.このレーニの絵は,古来無数に表現されたキリスト磔刑像の最高傑作であるだけでなく,ローマにあるもっともすばらしい絵であることはまちがいない」
とまで記されている.日本最高のカラヴァッジョ研究者がここまで言うのだから,多少とも美術に興味のある人で,この本を読んで,レーニの「磔刑」を見るために,この教会を拝観したいと思わない人はいないだろう.
もちろん,私は,万難を排してこの教会を拝観したいと思った.幸い,ウェブページで情報を確認すると,コルソ通り,コンドッティ通りという目抜き通りに近い街中で,昼休みもなく,1日中開いているとのことだった.
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写真:
サン・ロレンツォ・
イン・ルチーナ教会 |
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自由行動の日,午前中にサンタニェーゼ聖堂とコスタンツァ霊廟を拝観後,ティツィアーノ展を見て,そこからサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂のある同名の広場に直行した.
ファサードは一見すると新しくて平凡に見えるが,前廊(ポルティコ)があり,アーチ型の窓に柱がついている四角柱の,ロマネスク鐘楼を持っていて,サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会やサンタ・マリーア・イン・コスメディアン教会を見て,私が勝手に「ローマ型」と思い込んでいるタイプに見える.
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写真:
キリスト磔刑
グイド・レーニ |
専門的見地からは確かにレーニの磔刑は「最高傑作」かも知れないし,私も見ることができて幸福だったが,個人的にはレーニの磔刑としては,ボローニャの国立絵画館で見た作品の方がインパクトが大きかった.また,ジュンタ・ピザーノ,チマブーエ,ジョット,ジョッテスキ,ロレンツォ・モナコなど,フィレンツェを中心に多くの傑作磔刑像,磔刑図,磔刑彫刻を見ているので,あくまでも,傑出した磔刑像の一つであると思いたい.
にも関わらず,宮下規久朗の文章は,人をして感動せしめるパワーに満ちている.今後も刺激を受けたい.
この教会には,中央祭壇に向かって右側のフォネスカ礼拝堂に巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「ガブリエーレ・フォンセカ胸像」があり,受胎告知礼拝堂にピストイアで出会った画家ジアチント・ジミニャーニの「預言者エリシアの奇蹟」,その息子でローマで生まれたルドヴィーコ・ジミニャーニの「受胎告知」(グイド・レーニの原作のコピーとされる)が見られる.
また,中央祭壇に向かって左側の聖ジアチンタ・マレスコッティの礼拝堂には,フランス出身でカラヴァッジェスキの1人としても作品を描いたシモン・ヴーエの聖フランチェスコを描いた複数のカンヴァス画と,「全能の神」,「受胎告知」,「聖母被昇天」を含む諸場面の天上装飾画,コロンナ宮でその存在を知ったジローラモ・シチオランテ・ダ・セルモネータの「慈悲の聖母」,サン・ジュゼッペ礼拝堂にはヴェローナで出会った画家アレッサンドロ・トゥルキ「嬰児イエスを礼拝する聖母に差し出す聖ヨセフ」などの作品がある.
これらの作品は実際に見ることができ,写真も撮らせてもらったが,英語版ウィキペディアによれば,さらにカラヴァッジェスキである,マッシモ・スタンツィオーネの「聖アントニウスと幼児イエス」,カルロ・サラチェーニの「聖カルロ・ボッロメーオ」があるとされるが,観ていないし,伊語版ウィキペディアにはその情報はない.特に後者に関しては,教会内の説明板には違う情報があった.再訪の機会があれば確認したい.
墓に関しても,フランスの文学者,政治家,外交官だったフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンが依頼したニコラ・プサンの墓碑と,イタリア・ルネサンス(美術史との対応ではマニエリスムの時代だが,パレストリーナがルネサンスの作曲家なら,この人も立派にイタリア・ルネサンスの作曲家だろう)のマドリガーレ(世俗歌曲)作曲家として有名なルーカ・マレンツィオ(伊語版ウィキペディアの彼のページには,この教会の墓碑の写真がある)の墓碑がある.
ルーカ・マレンツィオに関しては多少思い入れがあるので,今となっては本人が本当に埋葬されているかどうか分からないが,墓碑に一礼できただけでも嬉しかった. |
ちなみにルーカは,ロンバルディア州ブレーシャ県コッカッジョの生まれで,フェッラーラのエステ家に仕え,トスカーナ大公フェルディナンド1世の宮廷に約2年間いて,ローマに移り,そこで活躍して,同地で亡くなった.
ペトラルカ,タッソー,サンナザーロ,グァリーニの詩に曲をつけ,これら大詩人たちの作品を音楽の形で表現し,文学と音楽の橋渡しをした,思った以上に重要な芸術家である.フランドルの音楽の強い影響を受けた北イタリアの芸術をローマに移植したと言う意味でも,大きな存在意義を持った人物だ.
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写真:
扉の横に置かれた
ライオン(吽形?)
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前廊には,12世紀の碑文,浮彫パネルなども少なくないが,堂内に入る扉の両側にいる狛犬のように置かれた一対の小さなライオンが,あるいはロマネスクの彫刻かも知れず,魅力的だった.
ウェブ上の紹介ページ(狛犬のようなライオンの写真もあるが,見ると気づくように「阿・吽」型になっている)に拠れば,古代には出産の女神ユーノ―・ルーキーナの神殿があり,その跡地に創建されたことが現在の名称のもとになっている(『望遠郷』には,「ローマの貴婦人ルチーナが殉教者の供養をするために屋敷を提供して建てたと伝えられる」とある).古代から現代まで何らかの形で連続し,中世,ルネサンス,バロックの名残をそれぞれ大切にしている.ローマならではの教会に思えた.
サンタ・マリーア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会
宮下規久朗『カラヴァッジョ巡礼』には,「骸骨寺にも名画あります」というキャプションのついたコラムがあり,そこで「名画」と言われているのは,主としてグイド・レーニの「大天使ミカエル」である.
「骸骨寺」は森鴎外以来の通称だろうが,正式にはサンタ・マリーア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会と言い,フランチェスコ会から分かれたカプチーノ修道会の教会である.2007年10月に一度拝観を果たしており,その時に「大天使ミカエル」を見た記憶はあるが,写真は撮っていない.
今回,宿から比較的近かったので,2日目,宿に戻った後の自由時間に再訪を果たした.本堂は修復中だったが,この絵は見せてくれていた.傑作芸術に煌々と白熱灯の光があたる展示はどうかと思うが,ともかく見ることができ,写真も撮らせてもらえた.
前に立って,言葉も出てこないほどの傑作だ.やはり,レーニは天才だと思う.
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写真:
「大天使ミカエル」
グイド・レーニ |
グイド・レーニの作品を,日本の特別展などで見ているかも知れないが,本格的な出会いはウフィッツィ美術館の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」だった.ルーヴル美術館にも類似作品があるこの絵は,レーニがカラヴァッジョの影響を受けていた時代に描かれたと思われるもので,とてもインパクトがあった.
その後,ローマのカピトリーニ博物館の絵画館で,相当数のレーニ作品を見たが,この画家を「天才」と認識するためには,出身地であり,そこで亡くなったボローニャの国立絵画館に行く必要があった.そこで,十字架の両脇に聖母と福音史家ヨハネのいる磔刑像を見て,真の芸術家の力量を見せつけられたように感じた.
今回も複数のレーニ作品に出会えた訳だが,天才の本領を発揮したと思われるのは,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂の「キリスト磔刑像」と,サンタ・マリーア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会の「大天使ミカエル」だけで,他にはコルシーニ美術館の「サロメ」が佳品に思えたくらいだが,繰り返しているように,数量はともかく,質の上では,最高のレーニ鑑賞を果たすことができた.
サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ聖堂
ローマ出身ではないが,「ローマの画家」と呼ばれるカルロ・マラッタとの出会いは,スペイン,カタルーニャ州モンセラットの修道院教会だった.堂内に明らかにイタリア絵画と思われる絵があり,写真に収めて,帰国後確認すると,カルロ・マラッタの「イエスの誕生」であった.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはカルロ・マラッティとあるが,複数の作品の写真が掲載されている.今回のローマ行では,宮殿だった美術館の他,諸教会で少なくとも3点の作品が見られた.
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写真:
「聖アンブロシウスと
聖カルロ・ボッロメーオの栄光」
カルロ・マラッタ |
サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ聖堂(バジリカの呼称)は,ローマ在住のロンバルディア人のための教会だけに,ミラノの守護聖人アンブロシウスと,ミラノ出身の聖人カルロ・ボッロメーオの名を冠している.
この名前の教会としての創建は1610年で,ロンバルディア州ヴァレーゼ県ヴィッジウ出身の建築家でカラヴァッジョの友人だったオノーリオ・ロンギの設計とのことだ.完成にはピエトロ・ダ・コルトーナが深く関わり,特にローマで3番目(1位はサン・ピエトロ大聖堂,2位はサンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂)の大きさを誇るクーポラ(丸屋根)は彼の傑作とされる.
この中央祭壇にあるのが,カルロ・マラッタの「聖アンブロシウスと聖カルロ・ボッロメーオの栄光」だ.絵の中央に「謙譲」を意味するラテン語があるのは,この聖人たちの美徳を表現しているのだろうか.ミラノのサン・ゴッタルッド・イン・コルテ教会のジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル・チェラーノ)の「聖カルロ・ボッロメーオ」にも書かれているので,聖カルロの徳性を意味しており,関わったロンバルディアの修道会に関係する標語であろう.
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写真:
ピエトロ・ダ・コルトーナの
クーポラ |
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ここでは他にも,ピエール・フランチェスコ・モーラの「聖バルナバの説教」など,複数の興味深い絵画が見られる.
モーラの作品は,宮殿だった美術館や宮殿の美術コレクションで複数見られたが,コロンナ宮の「カインとアベル」が印象に残る.現在はスイス領のイタリア語圏で生まれ,ローマで活躍してローマで亡くなった画家だ.
カピトリーニ美術館に「ディアナとエンディミオン」,コルシーニ美術館に「ホメロス」など,宗教画以外の絵画があったようだが,いずれも記憶にはない.もちろん,複数の教会に宗教画を描いており,ボルゲーゼ美術館(「牢獄を脱する聖ペテロ」),ルーヴル美術館(「東洋の兵士」),エルミタージュ美術館(「ラケルに出会うヤコブ」)にも作品がある.
建築家だった父がローマへの移住者なので,彼も生まれはローマではないが,「ローマの画家」と言っても良いだろう.
彼が師と仰いだ可能性があるのが,アンニーバレ・カッラッチ,ドメニキーノ,グエルチーノ,フランチェスコ・アルバーニ,それと「ローマの画家」だが,アルバーニの工房にいたアンドレーア・サッキと言うことなので,やはりボローニャ派の影響を受けた画家と言えよう.最終的に聖ルカ美術学院の校長になるので,やはり評価が高く,世俗的成功を収めた画家と言える.
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「聖母被昇天と教会博士たち」
カルロ・マラッタ
サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂 |
サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のカルロ・マラッタによる祭壇画「聖母被昇天と教会博士たち」をモザイクでコピーした作品も美しかった.確かにこの目で見て,写真にも収めたが,これがモザイクであるとは,写真を撮った教会の紹介プレートと伊語版ウィキペディアを帰国後見るまではわからなかった.
その原画は翌日,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂で見ることができた(上の写真).この教会に関しては,次回,報告する.
聖イグナティウス・デ・ロヨラ教会
観光の最終日,ドーリア・パンフィーリ宮を見学した後,昼食の予定だったが,予約時間までまだ間があったようで,宮殿のすぐ近くの,サンティニャツィオ・ディ・ロヨラ・イン・カンポ・マルツィオ(聖イグナティウス・デ・ロヨラ)教会を拝観することになった.
そのおかげで,アンドレーア・ポッツォが遠近法の魔術と騙し絵の技法を駆使して制作し,昨年NHKの「極上 美の饗宴」でも,バロックの極致として取り上げられた「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」をこの目で見ることができた.
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写真:
「聖イグナティウス・デ・
ロヨラの栄光」
アンドレーア・ポッツォ |
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ローマでの自由時間を過ごす候補として,サンティニャツィオ教会,同じくイエズス会のイル・ジェズ教会,オラトリオ会のキエーザ・ヌォーヴァ(「新」教会)など,ローマの対抗宗教改革とバロック芸術の精華とも言うべき教会群を思い描いていた.特にサンティニャツィオは,ドーリア・パンフィーリ宮のすぐ近くであることを地図で確認し,時間があれば見に行こうと思っていた.
しかし,何度も言うようだが,今回は体調が思わしくなかったし,特に初日に混んだバスで移動したときに,ローマであっても大都市である限り,「都市の不機嫌」のようなものを露骨に感じ,イタリア人が築き上げた文明,文化を,あえて差別的な言い方をすると,私たちアジア人が我が物顔に集団で観光することに,やや否定的な気分になった.
よく考えると,アリタリア航空の成田発ローマ直行便の乗客はあらかた日本人で,中国,台湾,韓国からの観光客も増えてきたとは言え,ローマで見られる観光しているアジア人は殆んどが日本人であり,観光が主要産業の一つであるイタリアのような国とっては,日本人の観光客はありがたいはずだが,体調もあって,もうイタリアも次回からは来なくても良いかなとまで思ってしまうような精神状態だったので,バロック教会の建築や絵画などは,どうでも良いような気持ちになってしまっていた.
しかし,ローマで数日を過ごし,いつものように素晴らしい芸術や遺跡をこの目で見ている内に,気持ちが前向きになって来て,昔は王侯貴顕でもアジアから来るのは難しかったヨーロッパに,お金の都合がつけば,比較的簡単に来ることができて,さらに,考えても見なかった素晴らしい古代遺跡やバロック芸術に会えるのだから,体力が許す限りは,ローマに来たいと思うようになった.
「都市の不機嫌」など東京ではいつものことだ.良いことではもちろん無いが,本音のところでは,多少人種差別的な傾向があるのは,日本人にも顕著なことで,イタリア人だけを非難する筋合いではない.
そうした,思考の連鎖よりも,やはり基本は体力の回復だろう.最終日に,ポッツォの装飾天井大フレスコ画を見上げている時は,すっかり前向きな気持ちなっており,予定外にこの教会を拝観できた幸せに浸っていた.
ポッツォは現在はトレンティーノ・アルト・アーディジェ州の州都であるトレントの出身だ.フィレンツェで私たちに数か月,部屋を貸して下さった,フィレンツェ歌劇場のチェリスト,アンナさんもトレントの出身で,部屋にはそれに関係するポスターも貼られていた.
ポッツォもまた北イタリアから来て,ローマで活躍した芸術家だ.1642年にトレントで生まれ,ミラノでイエズス会修道士となり,ローマで活躍し,1709年ウィーンで客死した.
清朝治下の中国で,東洋画と西洋画の技法を融合し,芸術活動をした朗世寧ことジュゼッペ・カスティリオーネは,西洋画の技法に関してはポッツォに師事したとのことだ(このことはもともと北京大学に留学したゼミの学生Oさんが教えてくれたのだが,一応,日本語による典拠を確認したので挙げおく.王凱『紫禁城の西洋人画家 ジュゼッペ・カスティリオーネによる東洋美術の融合と展開』大学教育出版,2009)
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写真:
平面に描かれた
騙し絵のクーポラ |
サンティニャツィオ教会は,いかなる事情か,クーポラをかける予算がなかったので,ポッツォに円蓋の裏側の騙し絵を描かせたとされるが,本当だろうか.見事だとは思うが,浮遊感に満ちた「聖イグナティウス・デ・ロヨラ」ほどには成功していないように思える.
今回,幾つかの教会で,クーポラの裏側を堂内から眺め,良い物だと言う認識を新たにした. 今回参考にしている『望遠郷』には2ページ使った「ローマのドーム」と言う特集(pp.
262-263)があり,写真と簡潔な説明がある.それぞれに個性があって魅力的だ.
これまで,それほどクーポラに注目してきたわけではないが,いくつか記憶に残ったものはある.シエナ大聖堂で,その堂内の荘厳さに目を見張った時,円蓋の装飾(簡素だが美しい)にも惹きつけられた.それに比べれば,フィレンツェ大聖堂のクーポラは,外観は古今に冠絶する傑作だが,ヴァザーリやズッカーリ(ツッカーリ)がなまじ頑張っただけに,内側は「?」である.
その後,ブルゴスの大聖堂で,円蓋裏の装飾に心魅かれるようになった.この時は,イスラム芸術の影響と思われる造形が契機となった.
今後,教会建築を見るとき,今までのようにファサード,堂内の芸術絵画はもちろんのこと,木組み天井,格天井,天上フレスコ画,床装飾,堂内から見上げたクーポラの裏側に注目しないことはありえないだろう. |
サンティニャツィオの騙し絵のクーポラは,自分たちが撮った写真ではわかりにくいが,堂内の売店で入手した英訳版案内書の表紙と中のページに,少なくともどんな絵柄かがわかる写真があった.それを見ると,古代建築風の列柱に支えられた円蓋のように描かれ,その一部に,ラッパを持った3人を含む5人の天使たちと幼児が描かれている.幼児は確信はないがイエスであろう.
「IHS」という文字も見える,「S」はラテン文字になっているが,ギリシア文字のシグマ「Σ」の代用で,「I」はイオータ,「H」はエータで,全体としてイエースースという古代ギリシア語でイエス・キリストの名を表す.イエズス会の印だ.
サンタ・トリニタ・デイ・モンティ教会 少なくとも2度,すぐ前を通りながら,未だに未拝観であった,スペイン階段の上のトリニタ・デイ・モンティ教会を短時間ながら拝観することができた.
いきなり,どこかで見たような絵に出会った.フィレンツェ・マニエリスムの画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニの「キリストの洗礼」だ.美しい絵だ.最盛期をとうの昔に過ぎ,残照に過ぎないとは言え,さすがにフィレンツェの芸術家の作品だ.技術の確かさ,構図の安定,色彩の美しさ,これが芸術でなくて何であろうか.ナルディーニはもっと評価されて良い画家のはずだ.
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写真:
「キリストの洗礼」
ジョヴァンニ・バッティスタ・
ナルディーニ
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トリニタ・デイ・モンティに関しては,双塔がフランス風でもあるフランス人教会なので,フランス・アマゾンから,古本のフランス語案内書をわざわざ買って,予習したくらいで,見たいものが一杯あったが,ただ,その案内書は若干明確さを欠き,一体何が見られるのか,今一つ良くわからなかった.
とは言え,この聖堂の最大の見ものは,ミケランジェロの弟子ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラのフレスコ画「キリスト降架」(額装されているように見えるが,フレスコ画とのことだ)と「聖母被昇天」であることは確かだった.
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写真:
「聖母被昇天」
ダニエーレ・ダ・
ヴォルテッラ
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ダニエーレの師匠であるミケランジェロが頂点を極めたと言われるフレスコ画の伝統の中で,マニエリスムの時代のフレスコ画は,フィレンツェでメディチ家の別荘の装飾画や,サン・ロレンツォ聖堂のブロンズィーノの壁画「聖ラウレンティウスの殉教」を見ている.知識として知っているせいかも知れないが,やはり,ミケランジェロまでの伝統とは一線を画した作品のように思える.造形的であるよりも,むしろ色彩に重点があるような印象を受ける.
ブロンズィーノのフレスコ画でも,ヴェッキオ宮殿のエレオノーラの礼拝堂の作品に関しては,やはり色彩に重点を置きつつ,浮かび上がって来るような立体感も感じるが,サン・ロレンツォの壁画や,ダニエーレの今回観ることができた作品に関しては,何か平板な印象を免れない.
一方で,もしかしたら,その点にミケランジェロ以前のフレスコ画とは違った独創性があるのかも知れないと思った.
少なくとも,彼の「聖母被昇天」と「キリスト降架」は,この教会で最も印象深い作品であるのは間違いなく,他にダニエーレにどういう作品があったのかも把握していない状況でも,十分に鑑賞に堪える絵画であろうと思う.特に,何度も見たいと言うほどでもないが,ともかく観ることができて良かった.
ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラこと,ダニエーレ・リッチャレッリは,1509年頃,トスカーナ西部の中規模都市ヴォルテッラに生まれ,シエナでソドマ,バルダッサーレ・ペルッツィに学んだが,そこでは目が出なかった.バルダッサーレの仕事手伝うためにローマに出て,その後,ペリン・デル・ヴァーガ(ペリーノ・デル・ヴァーガ)の工房で働いた.ミケランジェロの仕事を手伝い,影響を受けるようになったのはその後だ.
ペリンは1501年,フィレンツェ近郊の生まれで,リドルフォ・デル・ギルランダイオの工房などで修業したが,ローマに出てラファエロ工房で,ジュリオ・ロマーノに次ぐ主力メンバーとして師匠の仕事に貢献した.師匠の死後,フィレンツェに帰り,ロッソ・フィオレンティーノの仕事を手伝ったりしたが,ジェノヴァで,アンドレーア・ドーリア(この人にも,セバスティアーノ・デル・ピオンボ作の肖像画がある.またミラノのブレラ美術館には海神ネプトゥヌスの姿をしたアンドレーア・ドーリアの,ブロンズィーノ作の肖像画がある)の仕事を受け,それを起点に同地で活躍した.ローマに戻ってからの最初の仕事がトリニタ・デイ・モンティ教会の礼拝堂の仕事で,これをダニエーレが手伝ったようだ.
ペリンの名前は気になっていたし,実はコロンナ宮の大広間の前室「戦争の柱の間」の入り口の前にある「青の間」にペリンの「聖ユリアヌス」があった(コロンナ宮殿の案内書,p.81)ようだが,見た記憶がない.トリニタ・デイ・モンティ拝観に際しても,ペリンの作品は観られていない.
ペリンは教皇パウルス3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)に雇われ,様々な仕事をこなし,1545年に亡くなって,師匠と同じくパンテオンに葬られた.
ダニエーレは,マッシモ・アッレ・コロンネ宮殿の広間に古代ローマの将軍ファビウス・マクシムスの生涯を題材にした絵を描いた,この宮殿は師匠で,ファルネジーナ荘の設計もしたバルダッサーレ・ペルッツィの建築家としての最後の仕事だったようだ.マッシモ・アッレ・コロンネ宮殿の完成は1535年,バルダッサーレの死はその翌年で,1538年からダニエーレはペリンの仕事を手伝うようになった.
話が錯綜してしまうが,バルダッサーレ・ペルッツィは1481年,シエナ近郊の生まれなので,ラファエロより2歳年長だが,ローマに出て,ブラマンテ,ラファエロ,アントーニオ・ダ・サンガッロ(甥)とともに長年にわたってヴァティカンで仕事をし,ラファエロの死後16年目の1536年に亡くなって,やはりパンテオンに葬られた.
偶然だが,ペルッツィの名前で伝わる剥落したフレスコ画を,これも偶然訪ねたサン・ロッコ教会の礼拝堂で観た.
とても全部をフォローすることはできないが,古代とバロックの遺産に注目の集まるローマだが,実はルネサンス,マニエリスムがあって,バロックの花が咲き,ミケランジェロ,ラファエロ,ブラマンテのような大天才ばかりではなく,ローマのルネサンス,マニエリスムを支えたのは,今はもう名を挙げられることも少ない,トスカーナを中心とする地方の出身の芸術家であり,当時は,高い評価を受けていたことがわかる.
ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラが,トリニタ・デイ・モンティ以外でした仕事をフォローして行くのは,今となっては,面倒に感じられ,意欲が湧かないことかも知れない.しかし,彼の作品とされるブロンズ彫刻の「ミケランジェロ胸像」が,少なくとも4点,フィレンツェのバルジェッロ博物館,カーザ・ブオナッローティ,ルーヴル美術館,ミラノのスフォルツェスコ博物館にあって,これらは全て観ている可能性が高い.バルジェッロの作品は確実に記憶に残っている.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはフィレンツェのアカデミア美術館所蔵の作品も紹介しているが,これは観た記憶がない.
対抗宗教改革の峻厳な風が吹き始めた時,システィーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」が,男性の完全裸体が多すぎるとして,非難の対象となった.その際,非常に多くの男性裸体像に腰布を描かされたのがダニエーレで,彼には「腰布画家」(イル・ブラゲットーネ)とあだ名された.気の毒なことだが,それだけミケランジェロとの縁が深かったのだと思いたい.
オランダ,ハーレムの美術館にダニエーレが描いたミケランジェロの顔の素描がある.ダニエーレが間違いなく才能に満ちた能才画家であったこと,ミケランジェロへの愛情が深かったことを思わせる良い絵だ.
トリニタ・デイ・モンティの「聖母被昇天」の向かって右端の人物は,この素描にそっくりだ.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説では,この素描は,「聖母被昇天」の使徒の一人を描いており,70歳のミケランジェロの肖像になっているとのことだ.独立不羈で狷介,強情,頑固な性格と言う印象があるミケランジェロが,実は良く人に好かれたことをこの素描は教えてくれるような気がする.
「ミケランジェロの弟子」との自己認識を持ち,ローマで亡くなった巨匠の遺体をフィレンツェに持ち帰り,サンタ・クローチェ聖堂にその墓碑を造ったヴァザーリ同様,ダニエーレも初期の修業時代にミケランジェロの教えを受けたわけではないし,天分と言う点で巨匠には遠く及ばないが,彼らのような能才を育て,次代の芸術発展の土台を築き上げていく力が間違いなくミケランジェロにはあったのだろう.
今回の旅行では,ローマに幾つかあるミケランジェロの作品は全くと言って良いほど観ていないが,その存在感の大きさを感じないではいられない.
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ミケランジェロの原案に基づく
「ピア門」にて
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