フィレンツェだより番外篇
2013年3月28日



 




「豆を食べる男」
アンニーバレ・カッラッチ



§ローマ再訪 - その3 パラッツォ(2)

コルシーニ宮殿では,同僚とばったり出会うというサプライズもあったが,ここの収蔵作品にはかなり期待していた.


 『地球の歩き方』で紹介されている絵画は,カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネ」とルーベンスの「聖セバスティアヌスの殉教」など4点のみだが,コルシーニ家が19世紀にイタリア国に売却して,現在は国立美術館になっているこの宮殿には,美術作品の紹介が充実しているHPがあって,主だった作品は予習済みだった.


コルシーニ宮の美術作品
 美術館を宣伝するバナーにも使われているグイド・レーニの「サロメ」は,実際に見ても,しばしばレーニが描く類型的な,日本風に言うと「可愛い女性」であった.名画だと思う.このサロメは,顔が無垢に見えるだけに不気味だ.

 レーニに関しては,今回の旅を通して,数はともかく,質は充実した鑑賞が出来たので,教会篇で別途まとめたい.よって,今回は言及しない.

 ゴシック絵画では,HPに写真付きで充実した解説のある,ジョヴァンニ・ダ・ミラーノの聖母子を中心とした祭壇画があり,写真で見ると良い絵に思えるのだが,現場では期待通りの感動は得られなかった.ジョッテスキの大物に対して失礼だったが,今回はゴシック絵画をじっくり鑑賞する余裕がなかった.

 フラ・アンジェリコの宗教画も,まあ,コレクションの一部としては立派なのだろうが,やはり現場では,期待した感動は得られなかった.「最後の審判」を中心とするこの絵もまた,写真で見る限りは華やかで立派な作品だ.

 フィレンツェ・ルネサンスの最後の光芒であるアンドレア・デル・サルトの「聖母子」,フラ・バルトロメオの「聖家族」では,後者が見事で,前者からはあまり感銘を得られなかった.

 バロック以降では,レーニと並ぶボローニャ派としてはジョヴァンニ・ランフランコ,トスカーナ出身としてはオラツィオ・ジェンティレスキの作品があったが,今一つに思えた.むしろ,ナポリなど南イタリア出身の,サルヴァトール・ローザの「内臓を啄まれるプロメテウス」,マッティア・プレーティの「貢の銭」が印象に残る.ルーカ・ジョルダーノもあったが,今回はそれほどの作品とは思えなかった.

 18世紀絵画ではピアッツェッタの「ユディトとホロフェルヌス」が意表をつかれたように思え,じっくり鑑賞したが,地味な印象は免れない.

 スペイン出身の画家では,ムリーリョの「聖母子」の聖母がスペイン女性のように見え,その意味ではオリジナリティーがあり,フセペ・デ・リベーラの「ヴィーナスとアドーニス」はバロックの神話画として,まずまずの作品だった.

 こうして見ると,カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネ」,ルーベンスの「聖セバスティアヌスの殉教」を含めても,この美術館で世紀の大傑作を見たようには思われないのだが,コレクションの上品さと,平均的な質の高さは注目して良いだろう.

 英語版ウィキペディアの作品リストは,作品名がかなり空欄のままだが,それでも相当詳細なもので,それに拠れば,レーニは6点,ランフランコは3点あり,これらの画家に先駆けてボローニャで活躍したイル・フランチャの作品も1点ある.

 それに対して,プレーティ2点,ローザ1点,ジョルダーノ1点で,後者を「ナポリ派」と総称すれば,数では「ボローニャ派」に及ばない.

 1点しか思い出せないが,リストに拠ればカルロ・マラッタの作品が6点あったようだ.ボローニャ周辺出身の画家が多くローマで活躍する中,めずらしくローマ出身であるとの説明があり,この画家に注目したが,生まれたのはマルケ州アンコーナ県のカメラーノ(まぎらわしいが,「カメリーノ派」と総称される一連の画家を輩出した同じマルケ州のマチェラータ県カメリーノとは別の地名)とのことで,ローマに出たときは11歳だったようだ.その後はローマで活躍し,そこで亡くなっている.

 この画家に関しては,やはり数はともかく,質の点で,多少満足の行く鑑賞ができたので,レーニとともに教会編で報告する.


コルシーニ家
 コルシーニ宮殿の設計者はフェルディナンド・フーガで,1699年にフィレンツェで生まれた建築家だ.作品はローマとナポリで見られるようで,今回,私たちが見た建築物では,サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ聖堂のファサードが彼の作品のようだ.他に,これまで見たことがある建物では,同じくローマのサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂のファサードも彼の作品で,パレルモの大聖堂でも仕事をしたらしい.

 18世紀だから既にバロックとは言えないであろうが,英語版ウィキペディアに拠れば「後期バロック」に分類されるらしい.

写真:
コルシーニ宮殿
(美術館入館後は
撮影禁止)


 15世紀のリアーリオ家の別荘から始まり,同家の当主の1人がスウェーデン女王クリスティナを客人として迎え,17世紀後半の30年間住まわせていたようだが,教皇クレメンス12世の甥,ネーリ・コルシーニ枢機卿が1736年にリアーリオ家から購入し,フーガに現在の宮殿を建てさせた.

 トラステヴェレと言う立地条件もあり,比較的土地を入手しやすかったのか,同じように美術館になっているその他の諸宮殿よりも,コルシーニ宮殿は敷地が広いように思えた.

 コルシーニ宮殿の向かいにある,ファルネジーナ荘もキージ家,ファルネーゼ家と有力家系の所有であったが,名前は「別荘」(ヴィッラ)であり,キージ宮殿,ファルネーゼ宮殿は別に中心市街地にある.トラステヴェレに教皇の一族が「宮殿」(パラッツォ)を構えたのは,既に18世紀で,ローマが都市として,以前よりも拡大してきたことを示しているのだろうか.

 コルシーニ家の宮殿は,フィレンツェにもあり(パラッツォ・コルシーニ・アル・パリオーネ),フィレンツエの「宮殿」としては例外的に豪壮な感じがし,郊外のカステッロには,メディチ家の別荘に連れて行っていただいた時に通りかかって,外観を見て写真を撮っただけだが,ヴィッラ・コルシーニ・ア・カステッロがあり,これも目を引く建築物だった.



 コルシーニ家について,特に勉強したことはなく,これからも特に興味を魅かれないかも知れないが,とりあえず,簡単に整理してみる.

 家系伝説によれば,コルシカ島(現在はフランス領コルス)から祖先がトスカーナに来たので,コルソ,コルシーノ,コルシーニと言う家名になり,12世紀に始祖とも言うべき有力者が現れ,14世紀に家門からフィエーゾレの司教アンドレーアが出て,この人は15世紀に列福(「福者」ベアートと認定)され,さらには1629年にフィレンツェ出身の教皇ウルバヌス8世(マッフェーオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ)によって列聖(「聖人」サントと認定)された.

 またウルバヌス8世は,既に侯爵(マルケーゼ)だったコルシーニ家に公爵(ドゥーカ)の爵位を与えている.

 フィレンツェのサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会は,マザッチョ他の傑作フレスコ画のあるブランカッチ礼拝堂で有名だが,全体に簡素な教会なのに,コルシーニ礼拝堂だけは,豪華絢爛なのが最初から印象に残った.好き嫌いで言うと,嫌いだが,ともかく目は魅く.

 魅かれた目を別に背けたわけではないが,ルネサンス都市フィレンツェのイメージにそぐわないように思えたこの礼拝堂には,丸屋根(クーポラ)があり,その円天井にはルーカ・ジョルダーノのフレスコ画があったのに,全く気づかなかった.ローマでは,ごく普通に見られる華美な装飾も,あくまでも私の好みだが,フィレンツェには似合わないように思える.

 キリスト教は,貧しい者にも平等に愛を注ぎ,人々の信仰を獲得したはずなのに,有力な聖職者を出した家系が貴族としても栄えることが不思議だ.人生や社会の矛盾が凝縮されているように思えてならない.誰も注目する人はいないと思うが,トレヴィの泉の神殿風建築物の頂きに,コルシーニ家の家紋が燦然と輝いているらしい.


コロンナ家
 コルシカ島出身は伝説だが,フィレンツェで栄え,ローマで富と権力を得たコルシーニ家とは違い,コロンナ家(伊語版英語版ウィキペディア)は,家系伝説では古代ローマのユリウス氏族(アエネアスの子,ユルス・アスカニウスを始祖と仰ぎ,この家系からガイウス・ユリウス・カエサルが出た)の出身で,中世にはオルシーニ家と並んで,都市ローマで勢力を競う二大貴族だった.

 コロンナ家から教皇が出たのは,教会大分裂を収拾して,再びローマをカトリック世界の中心にしようとする15世紀前半であるが,教皇を出したことが,この家門を繁栄させたというより,もともとローマで栄えていた家系から教皇(マルティヌス5世)が出て,ローマの求心性を取り戻す力となったということだろう.

 それだけの有力な一門なので,その後,教皇は出なかったが,多くの枢機卿を輩出した(後に教皇になったマルティヌス5世を除き,19人).ただし,中世の有名な党争の色分けで言うと,オルシーニ家が教皇党(グェルフィ)であるのに対し,コロンナ家は皇帝党(ギベッリーニ)であったようだ.

宗教や政治面を除けば,この家系から出た最も有名な人物は,ヴィットリア・コロンナであろう.


 ミケランジェロの心の友であり,彼の詩想の重要な源泉でもあり,おそらく彼の芸術の理解者でもあっただろう.ミケランジェロの影響を受けた芸術家セバスティアーノ・デル・ピオンボが描いた肖像画が残っている.

 もう一人のミケランジェロ,ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの父フェルモはカラヴァッジョ侯爵家に仕えた執事だったが,侯爵夫人コスタンツァはコロンナ家の出身で,画家が殺人を犯してローマから逃亡する際には,ラツィオ州のパレストリーナにあるコロンナ家の邸宅にかくまわれるなど,様々な庇護を受けたようだ(宮下規久朗『カラヴァッジョ巡礼』p.84).


コロンナ宮殿
 記録上,13世紀からコロンナ家の居館が同じ場所にあったらしく,隣接するサンティ・アポストリ教会も由緒ある教会だが,その再建を命じたコロンナ家出身の教皇マルティヌス5世も,枢機卿時代からここに住んでいたとのことだ.

 また,コロンナ家の祖先と親族であった可能性のあるトゥスコロ(ラテン語ではトゥスクルムで,キケロの別荘があったこと有名だ.ここで,良く知られる哲学談義がなされた)伯爵家が,やはり,コロンナ家以前に,サンティ・アポストリの隣に住んでいたと言う記録があるらしい(宮殿で買った,英訳版案内書,Daria Borghese, A Tour of Palazzo Colonna, Roma: Campisano Editore, 2010, p.7,なお,この本には日本語版もあったようだ).

 ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせ,自分の廟墓の設計をさせた教皇ユリウス2世によって,一時ユリウスの出身家系であるデッラ・ローヴェレ家の所有となったが,マルカントニオ・コロンナ1世が,ユリウスの姪と結婚したことにより,再びコロンナ家の所有に帰した.ハプスブルク家と親しい関係にあったので,1527年の「ローマ劫掠」の際も,大きな被害は免れたらしい.

 16世紀末から,当主フィリッポ・コロンナが宮殿の再建を開始し,それにかかわった人々として,ジャーコモ・ライナルディ,パオロ・マルチェッリ,アントニオ・デル・グランデ,ジローラモ・フォンターナ,ニコラ・ミケッティ,パオロ・ポージらマニエリスムから後期バロックに至る時代の建築家の名前が挙げられている.

 この中では,ミケッティがロシアのピョートル大帝の宮廷建築家としてサンクトペテルブルグで活躍したことが知られている.一応,ライナルディも建築家として,ベルニーニとライヴァル関係にあるほどの大物だったようだ.

 正直,街中で外観を鑑賞する余裕がなかったが,中庭は美しかった.


コロンナ宮の美術作品
 コロンナ宮は,「フラッシュ無し」(センツァ・フラッシュ)なら,写真撮影可だった.これは意外なことで,あまりの嬉しさに我を忘れて撮影していて,あまり絵に近づきすぎるなと,係員からやさしく注意を受けた.当然の対応だろう.

 ビッグネームの画家の作品がたくさんあることにも興奮したが,この宮殿では,大広間の豪華さに圧倒された(一番下の写真).宮廷文化が苦手で,豪華な宮殿を好まない私が,ドーリア・パンフィーリの「鏡の間」と並んで,ともかく,その意味を見直した.

 昔の映画「ローマの休日」でも,バルベリーニ宮などと並んで,コロンナ宮が撮影に使われた(長尾重武『ローマ イメージの中の「永遠の都」』ちくま新書,1997,pp.10-12,29-33)らしいが,さもありなんと思う.

 絵画作品にフォーカスすると,最初に出会う絵が,ブロンズィーノ(一応,今回は今まで通りとして,ブロンジーノとは表記しないことにする)と,ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ(本姓トズィーニ)の神話画で,トスカーナのマニエリスムの作品(ヴィーナスや,暁の女神,夜の女神など)から始まるのは嬉しい.

 その後,大広間の豪華さに圧倒されつつ,絵画も比較的しっかり鑑賞した.



 教会編で紹介しようと思っているカルロ・マラッタは,先に述べたようにローマ生まれではないが,ローマを中心に活躍した画家だった.

 カルロがいた工房の親方はアンドレーア・サッキ(1599-1661)で,この人はローマ近傍のネットゥーノの生まれだ.この地名は,ラテン語ではネプトゥーヌスになり,ギリシア神話の海の神ポセイドーンに同定されるので,当然,ティレニア海に面した海の町だ.

 そこで生まれたことがサッキにとって意味があったかどうかはわからないが,ローマに出て,ボローニャ派のフランチェスコ・アルバーニの工房で修業し,枢機卿アントニオ・バルベリーニの保護を受け,ピエトロ・ダ・コルトーナのライヴァルとして,同じくバルベリーニ宮殿にフレスコ画を描いた.

 そのサッキの師匠が,アンニーバレ・カッラッチの弟子であるアルバーニだと言うことに興味を覚えた.師弟関係を画風で追及するほど,サッキの絵も,アルバーニの絵も観ていないので,そう言われれば,そうかと思うだけだが,アルバーニの絵は,ボローニャの国立絵画館,ルーヴル美術館などで見ている.綺麗な神話画を描く画家で,師匠ほどの天才性とインパクトは感じないものの,好きな画家の一人だ.

写真:
「エウロパ」
フランチェスコ・
アルバーニ


 アルバーニは神話画だけでなく,もちろん宗教画も多数描いたわけだが,弟子のサッキと同じく,装飾フレスコ画も描いた.英語版ウィキペディアの作品リストに拠れば,ドーリア・パンフィーリで「アエネアスの間」のフレスコ画を描いたようだ.部屋の名前から考えると,アエネアスを主題とする作品であると思われるが,見ておらず,残念だ.ボローニャのファーヴァ宮殿でも「アエネアスの間」のフレスコ画を描いているとのことだ.

 もちろん,師匠のアンニーバレ・カッラッチも装飾フレスコ画を描いた.現在はフランス大使館になっているファルネーゼ宮殿に描いた天井装飾画の中心が,史上稀なる傑作とされる「バッカスとアリアドネの凱旋行進」である.アルバーニも,この宮殿での仕事に参加していたらしい.

 華やかな作品が多い一方で,コロンナ宮殿の絵画コレクションの最大の目玉は,アンニーバレの「豆を食う男」(トップの写真)だ.これは紹介写真で見るより,とにかく実物を見たい.カラヴァッジョが史上最高の静物画を描いたように,天才は何でも描けるのだと言う思いを新たにした.

 たった1年だが,イタリアで暮らした経験から言うと,イタリアは豆が多種多様でうまい.

 アルバーニの作品は他に,「タッソーの作品に現れる風景」(叙事詩『エルサレム解放』の中で,エルミニアが牧人たちのところに到着した時の風景)が見られた.

 グエルチーノの「受胎告知の聖母」と「告知する天使」,「トビアスを導く大天使ラファエル」,グイド・レーニの「祈るフランチェスコと2人の天使」など,この美術館ではボローニャ派に関しては充実したコレクションが鑑賞できる.



 「豆を食べる男」の上に,ブロンズィーノの「聖母子とエリザベス,幼児の洗礼者ヨハネ」という華やかな色彩の絵があるが,トスカーナ絵画もなかなかの顔ぶれだ.

 ブロンズィーノの甥で養子になったとされ,場合によっては2代目ブロンズィーノを名乗ったアレッサンドロ・アッローリの作品があった.画題は示されていなかったが,師匠の作品がフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にある「リンボのキリスト」であろうと思われる.

写真:
「リンボのキリスト」(?)
アレッサンドロ・アッローリ


 地味だが手堅い絵だと思う.しかし,フィレンツェ絵画も,アッローリの絵をローマで見ると,もうローカルな作品にしか見えないのが残念だ.

 サンタ・クローチェの旧修道院博物館に,ブロンズィーノ同様,大きく華やかな絵が残っているフランチェスコ・サルヴィアーティ(チェッキーノ・サルヴィアーティ)の作品も複数(肖像画と「ラザロの復活」)見られた.

 他に,トスカーナ絵画では,古いところで,ロレンツォ・ディ・ビッチ「聖母子」,ヤコポ・デル・セッライオ「嬰児虐殺」と「キリスト降架」,ボッティチェリ工房の作品(「聖母子」)があった.アンドレア・デル・サルトの「2人の天使に戴冠される聖母と幼児イエスと洗礼者ヨハネ」は,傑作ではないであろうが,見られて嬉しかった.

 マルケ州カメリーノ出身のジョヴァンニ・ボッカーティの,おそらく祭壇画の裾絵だったと思われる「聖母の誕生」,「祈る2人の寄進者たち」もあり,それ自体に特に感想はないのだが,それぞれの額に「ピエール・デッラ・フランチェスカ」とあったのは,以前はピエロ・デッラ・フランチェスカの作品とされてコレクションに入ったと言うことなのだろうか.



 ヴェネツィア派も肖像画では,ティントレット,ヴェロネーゼの作品が見られた.ロレンツォ・ロットに帰せられる「枢機卿ポンペーオ・コロンナの肖像」もあったが,水準を考えるとロットの作品とは思えない.

 肖像画以外の作品では,ティントレットの息子ドメニコの「ある家族が礼拝する聖霊」,レアンドロ・バッサーノの「天使たちに支えられた死せるキリスト」(いわゆる「エンジェル・ピエタ」),パリス・ボルドーネの「聖家族と聖セバスティアヌス」の他に,古い所では,バルトロメオ・ヴィヴァリーニ「玉座の聖母子」と「司教聖人」,カルロ・クリヴェッリの「聖アウグスティヌス」と「聖母と天使に支えられる死せるキリスト」が見られた.

写真:
「オノフリオ・パンヴィーニオ
の肖像」
ティントレット


 ヴェローナ周辺の画家では,ジョヴァンニ・フランチェスコ・カロートに帰せられる作品(「聖母子聖人たち」で聖人はフランチェスコとバルトロマイ)がまずまずだった.他には,ピザネッロの「マルティヌス5世」のコピーがあり,通称ステファノ・ダ・ゼビオの「玉座の聖母子と天使たち」が見られた.

 ラヴェンナの画家ルーカ・ロンギの「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネと聖人」(聖人はトレンティーノのニコラの名を挙げて疑問符を付している)も美しい絵だった.



 こうしたイタリアの画家たちの作品の中で,目立っていた絵が2枚あった.オランダ語を勉強したことがないので,そのような表記で良いかどうか自信がないが,ベルナルド・ファン・オルレイの作品とされる「聖母の七つの悲しみ」と「聖母の七つの喜び」である.

写真:
「聖母の七つの喜び」
ベルナルド・ファン・オルレイ


 フランドルの画家で,ブリュッセルを中心に多くの作品がベルギーで見られ,カール5世の若い頃の有名な肖像画を描いた人でもあるので,プラド美術館にも複数の作品があるようだ.有名な時祷書の絵のようで,北方絵画の魅力を小品ながら教えてくれる.



 再び,ボローニャ派の画家を振り返ってみると,グイド・レーニについては,本人の作品は思ったほどでなく,むしろ,工房作品とされる「聖アグネス」(サンタニェーゼ)の方が,綺麗にまとまっているように思えたが,ジョヴァンニ・ランフランコの実力を再認識したのは収穫だった.

写真:
「聖カルロ.ボッロメーオ」
ジョヴァンニ・ランフランコ


 カルロ・ボッロメーオは,教皇の甥にしてミラノの名門貴族の出身,本人も従弟もミラノ大司教を務め,枢機卿になるという,「この世の栄光」(教皇が選出された時,有頂天を戒めるために,「この世の栄光ははかなし」スィーク・トラーンスィト・グローリア・ムンディーと唱えられると,高校の時,岩波新書の『法王庁』で読んだが,今もそうなのだろうか.この本は津波で流された)を一身に集めた人だ.

 疫病流行に際して,私財も教会財産も投げ打ち,自ら先頭に立って,民衆に尽くし,人々の尊敬を集めたと言われる.個人の資質としても,質素な生活を旨とする,謙虚な人だったらしい.

 カルロ・ボッロメーオを描いた図像は,フィレンツェでも,まさに彼を記念したサン・カルロ・デイ・ロンバルディ教会(オルサンミケーレ教会の裏側の向かい)にマッテーオ・ロッセッリの「カルロ・ボッロメーオの栄光」があり,トスカナ大公家の教区教会サンタ・フェリチタ教会のカッポーニ礼拝堂の有名なポントルモの剥離フレスコ画の「受胎告知」の天使と聖母の間に,この聖人の顔を描いた輝石細工が挿入されている.

 ローマにも彼の名を冠した教会が,私の知る限り少なくとも3つはあり,今回そのうちの2つを拝観している.

 対抗宗教改革(宮下規久朗の本にある「カトリック改革」が意味上は私も良いと思うが,英語のカウンター・リフォーメイション,イタリア語のコントラ・リフォルマ,ドイツ語のゲーゲン・レフォルマツィオーンの中に見られる「対抗」の語感は捨て難い)を推進した教皇の甥で,その改革に献身した存在感に満ちた聖人だけのことはある.もちろん,何らかの意味で批判的な視線というのは,必要なのではないかと思うが.

 この聖人を平凡な画家が描くと,「またか」と言う感じで,正直,それほど熱心に見る気はしないが,ミラノのサンタ・マリーア・デッラ・パッショーネ聖堂で観たダニエーレ・クレスピの「聖カルロ・ボッロメーオの正餐」以来,心打たれたのが,この美術館で観ることができたランフランコの「聖カルロ・ボッロメーオ」だった.

 ミラノのサン・ゴッタルド・イン・コルテ教会にあった,ミラノでは大物のジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル・チェラーノ)の「聖カルロ・ボッロメーオ」からは,これほどの感銘は得られなかった.

 コロンナ宮では他に,「栄光の聖母」と「天使に導かれて牢獄を脱する聖ペテロ」の2点のランフランコ作品を大広間の壁に見出すことができて,この画家の実力を痛感し,感銘を受けた.高い技術に支えられて,深い精神性に満ちた作品であり,奇を衒って言っていると思われるかも知れないが,この宮殿の絵画の最高傑作はランフランコの3作品ではないかと思っている.

何の疑問もなく「ボローニャ派」と言う用語を使ってしまったが,ランフランコはパルマの生まれのようだ.


 パルマ生まれの画家を自動的にボローニャ派に分類するなら,コレッジョ(コッレッジョ)もパルミジャニーノもボローニャ派になってしまい,これはあり得ないことだが,ランフランコについてはカッラッチ一族に学び,仕事もボローニャ派の画家たちとともにしたので,通常「ボローニャ派」に分類されるように思えた.私の思い込みかもしれない.

 ランフランコが13年もナポリに滞在し,「ナポリ派」の形成に大きく影響したことは,以前日本に来た「カポディモンテ美術館展」の図録から学ぶことができた.この画家の評価がこれから高まるかどうかは私には何とも言えないが,今後,私の中では彼は大芸術家である.

 ミラノ周辺出身の画家では,ベルナルディーノ・ルイーニの「聖母子とエリサベト,幼児の洗礼者ヨハネ」,エネーア・サルメッジャの「聖カタリナの殉教」があった.後者がまずまずであるのに対し,前者は,幼児とは言え,救世主と洗礼者が相撲をとって戯れている姿はほほえましいが,とてもルイーニの作品とは思えない.



 何と言っても,フェッラーラの巨匠,コスメ・トゥーラの作品が2点見られたのは,望外の幸運だった.

 フェッラーラの特別展を見て以来,コスメ・トゥーラが好きだと思い続けて,はや5年,この間,ウフィッツィやルーヴルなどの大美術館では,さすがに彼の作品を見ることができたが,宮殿としては豪華だけれども,美術館としてはあくまでも貴族のコレクションの延長であり,言って見れば比較的小規模な美術館で,2点も彼の作品を見ることができるとは思わなかった.

 小品で決して傑作ではないかも知れないが,見るからにコスメの作品と分かる絵を見て,欣喜雀躍した.もう1作所蔵されているようだが,それは今回は公開されていなかった部屋にあったようだ.


コスメ・トゥーラ
「聖母子」(左),「受胎告知の聖母」(右)



 現地で入場者割引価格で買ったフェッラーラの特別展の図録は津波で失ったが,アメリカのアマゾンでヒューストンの古書店から割高な値段で再入手した.それで再確認すると,「受胎告知の聖母」とは再会のようだ.

 鬼面人を驚かす絵を描く画家が,穏やかなやさしい表情の聖母を描かせても一定以上の成功を収める.この画家も真に天才の名に値する.



 コスメ・トゥーラとともに,フェッラーラの特別展で取り上げられていたフランチェスコ・デル・コッサの作品はコロンナ宮で見られなかったが,よく似た名前のフランチェスコ・コッツァ(伊語版英語版ウィキペディア)の「聖母の誕生」があり,この作品も見事だった.

 ウィキペディアを見ると,同名のサッカー選手もいるようで,検索には若干手間がかかるが,多少以上の情報は得られる.

 以前,ボルゲーゼ美術館展の感想を書いた時,マッティア・プレーティとともに少しだけ言及したことがある.コッツァはカラブリアの出身でローマで修業をしたので,「ナポリ派」には入らないかも知れないが,師匠のドメニキーノに従ってナポリにも行っている.ボローニャ派とカラヴァッジョの影響による「ナポリ派」形成の過程で,その周辺にいた南イタリア出身の画家と言えるかも知れない.

 要所要所で時々気になる画家だ.いずれにせよ,主たる活躍の場はローマで,亡くなったのもローマだ.南イタリア出身の「ローマの画家」と言って良いだろう.



 ピエトロ・ダ・コルトーナの「キリストの復活と,終末時のコロンナ家の者たち」は,美術館一押しの作品のようだが,残念ながら,キリストの表情が能天気に見えて,全体的に緊張感に欠ける絵のように,少なくとも私には思われた.

 ピエトロの絵のある部屋にあった絵で印象に残ったものとして,「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」の両脇に聖人の絵がおかれ三連祭壇画のようになったカンヴァス画がある.少なくとも真ん中の絵の作者はジローラモ・シチオランテ・ダ・セルモネータとあり,ラツィオ州の山間の地方ラティーナ県セルモネータの生まれで,ローマで活躍したので「ローマの画家」と言って良いだろう.

 1521年に生まれ,1580年頃の死亡なので,ボローニャ派以前のローマ画壇で活躍したようだ.時代的にはバロック以前のマニエリスムの時代になるだろうか.師匠はルネサンスの画家レオナルド・ダ・ピストイアとあるので,師匠のレオナルドがどんな画家かは知らないが,トスカーナ出身なのは間違いないだろう.ナポリで活躍して,ナポリで亡くなったようだ.

 いまさらだが,ボローニャでジローラモの絵を見ていることがわかった.サン・マルティーノ聖堂の「玉座の聖母子と6人の聖人たち」で,撮った写真も確認した.中央祭壇左脇の礼拝堂の正面の壁に,豪華な額に入れられて飾られている.まずまずの作品だし,大事にされている.

 他にもローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会,サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂,サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂に作品を残しているので,見ていた可能性はある.これも見た記憶がないが,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂にフレスコ画断片「聖ルキアと聖アガタ」があり,伊語版ウィキペディアに写真が紹介されているが,美しい絵だ.

 今まで,複数の作品を見た可能性がありながら,全く意識していなかった画家だが,今後は注目したい.



 大広間には,他にも気になる作品が複数あり,写真は撮ったのだが,誰の何と言う作品がまだ確認できないものもある.案内書に各部屋の「主要作品」として挙げられている作者・作品名と撮ってきた写真を照らし合わせると,

 フランチェスコ・アルバーニ「エッケ・ホモ」
 ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニ「敬虔な女性たちに傷を癒される聖セバスティアヌス」
 フランチェスコ・サルヴィアーティ「アダムとイヴ」
 グエルチーノ「隠修士聖パウロ」

は,かろうじて確認できたと思うが,グエルチーノの「聖エメレンツィアーナの殉教」,サルヴァトール・ローザの「洞窟の洗礼者ヨハネ」,「洗礼者ヨハネの説教」は確認できていない.他にも,魅かれていても作者名を確認できなかったものも少なくない.

 実は,ほとんどの作品には作品番号が付されており,それに対応した作者・作品名を掲載した一覧の貸し出しが受付であったのだが,それを知ったのがもう退館する時間が近づいた頃だった.残念だが,少しずつ,写真で絵柄を思い出せる絵に関しては確認していきたい.

 宮殿なので,装飾画も見事なのだが,案内書によると,大広間はジョヴァンニ・コーリとフィリッポ・ゲラルディによる「マルカントニオ・コロンナ2世とレパント海戦」などであり,豪華家具も置かれている「風景画の間」の天井画はセバスティアーノ・リッチの「レパント海戦におけるマルカントニオ・コロンナ2世の勝利の寓意」,「豆を食べる男」のある「天界に迎えられるマルティヌス5世の間」の天井にはめ込まれている複数のカンヴァス画の作者として,ポンペーオ・バトーニ,ピエトロ・ビアンキーニの名前が挙げられている.

 後期ヴェネツィア派のリッチ,ルッカ出身の古典主義者バトーニの作品があることは注目されても良いと思うが,今回は鑑賞が十分ではない.

 大広間の壁で区切られていない前室(「戦争の柱の間」)にはブロンズィーノとミケーレ・ギルランダイオの絵があるが,その天井フレスコ画は「天界で聖母に紹介されるマルカントニオ・コロンナ2世」で作者は,ジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリとのことだ.スパーダ宮殿でも,この画家のオウィディウスの『変身物語』に基づいた神話画を複数見ている.

 ルッカの生まれで,カルロ・マラッタとその弟子たちのもとで修業した.ウルビーノの大聖堂,ローマのサン・クレメンテ聖堂,サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂,サン・ピエトロ大聖堂などで仕事をもらい,聖ルカ美術学院の校長になっているようなので,世俗的な成功を収めた画家と言えよう.しかし,作品を見ての感動は薄い.

 今回,公開されていなかった礼拝堂に,カルロ・マラッタの美しい「聖母子」があることが案内書でわかる.また,大広間に飾られた鏡に描き込まれた,古代風裸体女性の浮彫のある壺に飾られた花のまわりで有翼の子供たちが戯れている装飾画の作者は,案内書に拠れば,カルロ・マラッタとマリオ・デイ・フィオーリ(マリオ・ヌッツィ)とある.「花のマリオ」と言われているので,花は彼が描いたのだろうから,その他の部分はマラッタが描いたのだろう.やはり,今回の旅行ではマラッタと縁があるように思う.

 また,上記天井画の主人公でもあるマルカントニオ2世の肖像画をセバスティアーノ・デル・ピオンボが描き,「バルダッキーノの間」にそれがあることは案内書に紹介され,写真でも確認できるが,今回は公開されていなかったと思う.



 宮殿を辞去する時に,ここでもサプライズがあった.「先生」と若い女性に声をかけられたのだ.「先生」と呼ぶからには学生さんだろうと思ったのだが,思い出せない.向こうも私の名前までは覚えていないみたいだったので,ワセダの学生ではないかも知れないと思いつつ,彼女が言ってくれたことをヒントに,初めてのスペイン旅行に連れて行って下さったスペイン語堪能の添乗員Yさんであることを思い出した.

 すぐに思い出せなかったのに矛盾するようだが,印象に残る方だったので,スッとフルネームが出てきた.

 今回は女子大の学生さんたちの卒業旅行の添乗員としていらしたらしかったので,まわりにいた学生さんたちと,実は学生ではなかったYさんに,「この宮殿は超絶的にすばらしいので,是非,鑑賞を楽しんでください」と興奮して語って,別れた.少し,興奮しすぎていたので,今振り返ると,恥ずかしい.






またしても見上げながら立ち尽くす
コロンナ宮 大広間
(大きな「柱」(コロンナ)が印象に残る)