フィレンツェだより |
ユダヤ人教会 (シナゴーガ) |
※「お願い」 5月21日の朝,メールをチェックしたら,勤務先をはじめとする関東地方の高校,大学では「はしか」流行の影響で大変なことになっており,その連絡メールがとびかっていて少し動揺したせいもあり,メールを整理している際に,読む前にうっかり削除してしまった題目の中に「シナゴーガについて」というメールがあったかも知れません.もし私の気のせいでなくて,実際にご教示,ご指摘のメールを下さった方がおられましたら,お手数ですが,もう一度メールを下さいませんでしょうか.(5月21日記)
§ユダヤ人教会(シナゴーガ)
フィレンツェに中世からユダヤ人がいたのは記録上間違いないそうだが,まとまった数の集団として確認されるのは老コジモが亡命から帰還した1437年前後のことらしい.ユダヤ人教会も古くからあったらしいが,確かなことはわからない. 1570年頃にユダヤ人居住地区,いわゆるゲットーが創設された.今のレプッブリカ広場のあたりのようだ.イタリア統一(リソルジメント,1861年)に際して,ユダヤ人にも一般国民と同等の権利が認められるようになり,現在のユダヤ人教会は1882年に建設されたとのことである. しかし,その後ムッソリーニが政権を取り,ナチス・ドイツと同盟を結ぶとフィレンツェのユダヤ人も迫害され,多くの人がアウシュビッツなどの収容所に送られ,虐殺された.いわゆるホロコーストである.シナゴーガのムゼーオにも,それを忘れないための一角があり,重い気持ちで襟を正す. ![]() たまたま私たちの前に小学生の団体がいて,入場までにだいぶ時間がかかったが,イタリアの小学生の課外授業を見ることができた. 堂内はキリスト教の教会の影響を逆に受けているのかもしれないが,ビザンチン様式の教会のようだった.しかし,大きな違いは人物像が一切なく,モザイク風の壁画もいわゆる「ダヴィデの星」をモティーフにしたパターン化された模様だった.ステンド・グラスもあったが,それもダヴィデの星を中心にしたものだった. 入堂に際しては,ユダヤ教徒でない私たちも,男性は小さな帽子のような被り物をすることを求められ,イタリアの小学生たちも,英語を話す観光客たちも素直に従っていた.もちろん私も被ったが,カメラ持ち込み厳禁なので,写真はない. ![]() 近くでは,入り口であんなに騒がしかった,イタリアの小学生たちが,ユダヤ帽を被った長身の青年係員の説明を神妙に聞いていた.みんなノートにメモをとっていたので,今日のレポートを後で課されるのだろうと想像した.
![]() 帰りも同じ道をもどった.サンタ・マリーア・マッダレーナ・デ・パッツィ修道院にはジョルダーノとペルジーノのフレスコ画があるそうだが,機会があれば是非見てみたい. この建物の角のところに三匹の蜂の家紋があるのを見つけ,これは確かローマのバルベリーニ広場とバルベリーニ宮殿で何度も見たバルベリーニ家の家紋だなあと思った.謂れは今のところわからない. ![]() 教会を背にして南西の方角を見ると,広場から伸びるセルヴィ通りの間にドゥオーモのクーポラが見える.ガイドブックに時々書かれているような「フィレンツェで一番美しい広場」とまでは思わないが,好きな場所の一つだ.何といっても寓居から近い. サンティッシマ・アヌンツィアータ教会 体力的にまだ余裕があったし,4時半からは夕方のお祈りのために開いているので,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に寄った. 「アヴェ・マリーア,ピエーナ・ディ・グラーツィア」と,私たちがラテン語の宗教音楽の歌詞「アヴェ・マリーア,グラーティア・プレーナ」(古典語の発音ではアウェー・マリーア,グラーティアー・プレーナ)でよく知っている句のイタリア語訳が何度も繰り返されていた. ここは「受胎告知」(アヌンツィアータ)という名称を持つ教会なので,聖母に対する崇敬の念が強いのだろう.イタリア人の女性たちが,祭壇の前で唱和していた.
人々の敬虔さは尊重されるべきだ.それはユダヤ教会もキリスト教会も同じだ.祈りの最中にフラッシュをたいていた観光客がいたが,どうかと思う.有名な絵がいくつかあるのは知っていたが,今日は観光は遠慮し,祈りの場の雰囲気に浸った.
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パラッツォを「宮殿」とすると,パラッツィーナは「小宮殿」と訳されるかも知れないが,小なりといえども「宮殿」,というほど豪華な建物ではない.下の窓はステンドクラスのようであり,壁についた文様も面白い.下の写真がその一つだが,交差する「豊穣の角」(コルヌコピア)に二匹の蛇と翼だから,ヘルメスを象徴する文様だろうか.
どういう意味があるのかはガイドブックにもなかった.居住者だった女性がどの大公の愛人だったのかも書いていなかったが,18世紀後半ならばメディチ家断絶以降なので,ロレーナ家の大公であろう.
![]() また,古い本としては,マルケージという学者が書いた『パエドゥルスとラテン語の寓話』(フィレンツェ,1923)がある.イソップ寓話をラテン詩の形で残した作家についての研究書だが,すでにボロボロなので,大切に日本に持ち帰り,じっくり読むべく,妻が日本から持参したジッパーつき保存用ビニール袋にしまった. 以前行った時に目をつけていた,メナンドロスの喜劇『デュスコロス』のギリシア語校訂本文にイタリア語訳をつけたもの(ガッロヴォッティ校訂,ローマ,1976),BURのシリーズではキケロの『アルキアス弁護』と『カエリウス弁護』,ミラノのモンダドーリ書店から出ている古典のイタリア語対訳・注解シリーズ(クラッシーチ・グレーチ・エ・ラティーニ)からは伝ロンギノスの文芸論『崇高について』を買った.作家の小田実が学生時代からこの本を研究し,河合塾から翻訳を出している. 先日,フィレンツェ大学の鷺山先生が,小田実とフィレンツェで会って,ロンギノスの本をもらったとおっしゃっておられた.小田実の『何でも見てやろう』を高校時代に読んで,私は影響を受けているが,いつも『何でも見てやろう』の話をされるのは作家としては不本意だろう. イタリア語訳がなく,テクストに注解だけついている本としては,ミラノのシニョレッリ書店が出した叢書の中から,エウリピデス『メデイア』とルクレティウス『事物の本性について』第6巻を買った.他にもほしい本もあったが,またじっくり選びながら少しずつ買っていくと思う.9冊で35ユーロ. ギリシア,ローマ関係の本を買っていく小柄な日本人は印象に残るのだろう.この店の主人かもしれないが,いつも店番をしている大柄な年配の女性が,「おもてにオックスフォード古典叢書もあるよ」と言ってくれた.もちろん見つけていたが,ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』なので,すでに持っていると言った. 代金に50ユーロ札を出したら,同行の妻に「アミーカ,5ユーロはないか」と声をかけた.お金は妻が管理していることをすでに知られているようだ.妻から5ユーロもらい,無事20ユーロのおつりをもらって店を出た. |
フェルディナンド1世の騎馬像とともに 左:サンティッシマ・アヌンツィアータ教会 右:捨て子養育院 |
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