§フィレンツェ再訪 - その9 ゴシック
サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂のファサードは,白と暗緑色大理石で装飾が施されている.上部には,遠目には古拙に見えるモザイク(祝福する玉座のキリストを聖母とミニアスが囲む)があり,これぞフィレンツェのロマネスクと言う感じだ. |
ファサードのモザイクについては,ルッカのサン・フレディアーノ聖堂で,より大きなものが見られるが,白と緑の大理石の模様に関しては,フィレンツェのロマネスクの,ピサやルッカのそれに対する独自な点のように思っていた.
ピサの大聖堂や斜塔,ルッカの大聖堂やサン・ミケーレ・イン・フォーロ教会のように,外壁を柱列で飾っている教会建築は,フィレンツェでは少なくとも私は見たことがない.
外壁の装飾列柱がピサ,ルッカ風のロマネスクであり,白と緑の大理石装飾がフィレンツェ周辺のロマネスクで,フィレンツェ周辺ではエンポリやプラートでそれが見られるという風に単純に思い込んでいた.
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写真:
サン・ミニアート・アル・
モンテ聖堂ファサードの
色大理石の象嵌装飾と
モザイク |
しかし,ベルターニの解説によると,白と緑の大理石による象嵌装飾はピサ・ルッカ風ロマネスクの影響とのことだ.
ピサ,ルッカの大聖堂は,全体的に白いイメージがあるが,よく見ると,ルッカの大聖堂には白と緑の石を交互に組み合わせたアーチが複数見られるし,ファサードに見られる幾何学模様や幻獣などの白と緑の象嵌装飾がある.ピサの大聖堂,斜塔,洗礼堂の外壁も,じっくり見ると,フィレンツェのそれに比べると色が薄いが緑色その他の色大理石が使われている.
さらに,以前ピサに行った際に,大聖堂の堂内で撮った写真を確認すると,堂内の方がより白と緑の対比が鮮明な装飾があり,このタイプの装飾は,やはりピサやルッカがフィレンツェに先行していたのだと納得せざるを得ない.
池田健二『イタリア・ロマネスクへの旅』(中公新書)中央公論新社,2009
では,トスカーナのロマネスク教会として,ピサ大聖堂,ルッカのサン・ミケーレ・イン・フォーロ教会,オルチャ渓谷のサンタンティモ修道院教会が取り上げられている.最後のものは,トスカーナ風ではなく,ロンバルディアとオーヴェルニュのロマネスクの影響があるようだ.この本で見られるサン・ミケーレの写真を見ると,やはり自分が見たときには柱列と白い浮彫だけが目についたが,実際は緑と白の象嵌装飾が見られるようだ.
いずれにせよ,フィレンツェのロマネスク芸術は,先行するピサ,ルッカの影響を受けながら醸成されていった.
サン・ミニアートの説教壇に類似した,テラモン(男性型柱像)の上に翼を広げた鷲が支える書見台があるタイプの説教壇は,ルッカ近郊のサン・ジョルジョ・ア・ブランコリ教区教会に見られる.サン・ミニアートのもの方が遥かに見事だが,古拙な味わいのロマネスク感ではサン・ジョルジョが勝っているかも知れない.1194年のグイデット親方の作と,作者と制作年代がはっきりしているようだ(伊語版ウィキペディア).
Giliano Chelazzi, Lucca: History and Masterpieces, Firenze: Bonechi Edizioni,
1999(以下,ケラッツィ)
の写真を見ると,ルッカ県のバルガの大聖堂にある説教壇は,やはり男性人型の柱(テラモン)の上に鷲が翼を広げた書見台のあるタイプである.ケラッツィに拠れば「ニコラ・ピザーノ以前の作品」とあるだけだが,伊語版ウィキペディアの「バルガ」紹介のページには,コーモ地方から来た職人の作品で,グイード・ビガレッリ・ダ・コーモ(13世紀)に帰せられるとしている.
ルッカの大聖堂でもコーモから来たグイデットが活躍しており,トスカーナのロマネスクには,ロンバルディアのロマネスクの影響があったと考えて良いのだろうか.
あまり,俄かな新知識を列挙しても仕方がないが,テラモンの上に翼を広げた鷲が支える書見台のある説教壇は,サルデーニャ島カリアリの大聖堂にもあるようだ.ぜひ,いつの日かサルデーニャのロマネスクも見てみたい.たまたま今日,仕事先で,フィレンツェ大学で中島先生に日本語を習ったと言うサルデーニャ出身のジョヴァンニさんと話ができたので,なおさらそう思う(彼はカリアリではなくサッサリが地元だそうだが).
Guido Tigler, Toscana Romanica, Milano: Jaca Book, 2006(以下,『トスカーナ・ロマニカ』)
Sara Rinaldi / Aldo Favini / Alessandro Naldi, Firenze Romanica, Empoli:
Editori dell' Acero, 2005(以下,『フィレンツェ・ロマニカ』)
を参照すると,今はウフィッツィ美術館の最もヴェッキオ宮殿側の地階に遺構のあるサン・ピエール・スケラッジョ教会にあったとされる説教壇が今,市内の丘の上のアルチェーティ地区にあるサン・レオナルド・アド・アルチェーティ教会に残っており(『フィレンツェ・ロマニカ』,p.47),それに付随していた男性人型柱(テラモン)は,弦楽器を引くダヴィデで,原形をとどめた断片がピサのサン・マッテーオ国立博物館に所蔵されているようだ.サン・レオナルド教会の前を通ったことがあるが,開いていなかったので,ファサードにある新しいモザイクを見ただけだし,ピサの博物館は行ったが,この彫像は覚えていない.『トスカーナ・ロマニカ』の想像復元図に拠ると,やはりテラモンの上に書見台があると考えられているようだ.
サンタガタ・ディ・ムジェッロ教会(本文にどこのコムーネにあるか言及がないので,本に載っている地図とウィキペディアの地図を照合するとフィレンツェ県スカルペリアのサンタガタ教区教会であろう.伊語版ウィキペディアに外部リンクがあり,教会自体がコムーネの博物館になっており,問題の彫刻への言及はないが,それが映っている写真にたどりつく)に,ライオンの上に立つ修道士型のテラモンが残っている(『トスカーナ・ロマニカ』)が,書見台も説教壇も残っていないようだ.
ピストイアのサンタンドレーア教会は,ジョヴァンニ・ピザーノの素晴らしい説教壇で有名で,これはゴシックの作品だが,ファサードに白・緑の大理石装飾と,ポルターユに残る彫刻はロマネスクだ.これをよく似たファサードを持つサン・バルトロメオ・イン・ポンターノ教会は未見だが,堂内にある説教壇は前方向かって左角でテラモンの上で鷲が翼を広げて書見台を支えている説教壇があり(『トスカーナ・ロマニカ』,p.286),右角でも3人の人型柱が書見台を支えているが,鷲はいない.グイード・ダ・コーモの作品とされるので,やはりロンバルディアの芸術の受容と言えよう.この説教壇とファサードの彫刻はいつの日か是非見てみたいと夢は広がる.
サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂では,ゴシックの作品も数多く見られる.
フレスコ画とテンペラ祭壇画で,ジョッテスキの名前を列挙しても,タッデーオ・ガッディ(地下祭室の天井フレスコ画),アーニョロ・ガッディ(聖ジョヴァンニ・グァルベルトと聖ミニアスを中心とする祭壇画),ヤコポ・デル・カゼンティーノ(聖ミニアス像と彼の生涯の8つの場面の祭壇画),スピネッロ・アレティーノ(聖具室の連作フレスコ画「聖ベネディクトゥスの物語」)など錚々たるものだ.
サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院「緑の回廊」にあるスペイン人の礼拝堂のフレスコ画を描いたアンドレーア・ダ・フィレンツェ(アンドレーア・ボナイウート)の作とされるフレスコ画「大修道院長アントニウス」が立派だ.
一見古く見えるが,マリオット・ディ・ナルド,マリオット・ディ・クリストファノ,パオロ・スキアーヴォは,国際ゴシックがルネサンスに向かう時代の人たちで,ゴシックと言うには新しい.
それに比べると,オルカーニャの工房にいたとされるピエトロ・ネッリは少し古い.
彼はフィレンツェ近郊バーニョ・ア・リーポリのアンテッラ地区近傍のサンタ・カテリーナ・デッレ・ルオーテ祈祷堂で,堂内後陣の奥まった部分(イタリア語でスカルセッラ「紐で首に吊るした財布,巾着」と言う名称)に「受胎告知」,「聖ベネディクトクス」,「聖ステパノ」のフレスコ画をバルベリーノの親方と共作している.
この祈祷堂に,名称のもととなった殉教聖人の連作フレスコ画を描いたのが,スピネッロ・アレティーノだ.
Maurizio De Vita, ed., L' Oratorio di Santa Caterina nell' Antico Piviere
dell' Antella, Firenze: Pagnini e Mrtinelli Editori, 1998
Angelo Tartuferi, ed., L' Oratorio di Santa Caterina all' Antella e i
Suoi Pittori, Firenze: Mandragola, 2009
という参考書を入手し,多少の知識を得たので,今回見られるものなら,このフレスコ画を見たいと思った.祈祷堂の公開時間やバスの経路と運行時間をインターネットで調べ,ウェブ上で得られる航空写真で位置も確認し,最後まで検討を重ねたが,自由時間の調整がつかず,今回はあきらめた.もし行っていれば,ネッリの作品も見られたわけだが,これはもちろん後日の楽しみとなった.
スピネッロ・アレティーノ
通勤電車の中で,ヴァザーリ『芸術家列伝』中の「スピネッロ伝」を,エヴリマンズ・ライブラリー版の英訳で読んだ.
スピネッロ・ディ・ルーカ・スピネッリと言う本名は,スピネッリ家のルーカの息子スピネッロと言う意味で,イタリアでは家名(これはおそらく先祖の名前などに由来するであろう)に因んだ個人名をつける場合が少なくとも歴史上はめずらしくなく,良く知られた例としては17世紀のガリレオ・ガリレイ(ガリレーオ・ガリレーイ)がいる.アレティーノは「アレッツォ出身」の意だ.16世紀にティツィアーノの友人としても有名な作家ピエトロ・アレティーノも「アレッツォ出身のピエトロ」と言う通称である.
スピネッロの父ルーカは,フィレンツェでは少数派の皇帝党に属し,党争に敗れてアレッツォに亡命,そこでスピネッロが生まれた.スピネッリ家はフィレンツェ出身の家系と言うことになる.フィレンツェとアレッツォの間の小邑インチーザが父祖の地であるが,フィレンツェで活躍した父ペトラッコが,やはり党争に敗れてアレッツォに亡命し,そこで生まれた大詩人で人文主義の祖ペトラルカのケースと似ている.
ペトラルカの誕生が1304年なので,スピネッロが1346年だとすれば,中世末期の画家で,最後のジョッテスキの1人と考えられているスピネッロも,実は「ルネサンスの開祖」で,1374年まで生きるペトラルカがまさに人生の絶頂にある時に生まれたことになる.
1346年ペトラルカは南仏ヴォークリューズに居住して,ラテン語の『牧歌集』を書き始めていた.やはりラテン語による叙事詩『アフリカ』によって1341年にローマで桂冠詩人になっており,1327年の出会い以来,片思いを綴ったイタリア語によるソネットなどの詩を捧げたラウラが,1348年のペストで亡くなっている.
ペトラルカにとっても,重要な時期にスピネッロは生まれたが,もちろんこの時点で2人の間に接点はなく,以後の人生でも関わりはなかったであろう(ペトラルカの年譜は,近藤恒一『ペトラルカ 生涯と文学』岩波書店,2002を参照).
グェルフィ(教皇党)がギベッリーニ(皇帝党)を圧倒し,前者がさらにビアンキ(白党)とネーリ(黒党)に分かれ,白党だったダンテがフィレンツェを追放されるのが1302年であるから,ルーカ・スピネッリが本当に「皇帝党」だったのかどうかも多少疑問が残る.そもそもヴァザーリは,スピネッロの生年を随分昔に設定している.
Stefan Weppelmann, Spinello Aretino e la Pittura del Trecento in Toscana,
Firenze: Edizioni Polistampa, 2011(以下,ヴェッペルマン)
に拠ると,ヴァザーリはスピネッロの生年を1308年と考えていた.少なくとも英訳本で読む限り,ヴァザーリははっきりと生年を記していないが,実際には1405年に描かれたと考えられるフレスコ画を1334年の作としている箇所があり,没年も記していないが92歳で亡くなったとしている.
英訳本は根拠を示していないが,冒頭に1333-1410と言う生没年を記し,例えばリーダーズ英和辞典でSpinelliを引くと,c.1346-1410,伊語版ウィキペディアはca.1350-14 marzo 1410,英語版ウィキペディアはc.1350-c.1410,マクミラン社のゴウイング編『芸術家辞典』はc1345-1410と記している.ヴェッペルマンは父の婚姻記録,再婚記録などの資料を挙げて1346年と推測しているので,おそらく現時点ではこれが最も説得力があるだろう.
ヴァザーリが示唆する生年は論外だが,概ね1345年から1350年頃アレッツォで生まれ,フィレンツェで修業し,トスカーナの諸方で活躍し,故郷のアレッツォで亡くなったと考えて良いだろう.
ヴァザーリに拠れば,彼は多くの仕事を成し遂げ,アレッツォに帰っていたが,英訳本が1384年と注解を付す,教皇党と皇帝党の紛争の影響で,家族を連れてフィレンツェに移住し,ピサのカンポ・サントに今も残る仕事を請け負った.やはり私は未見だが,ピサのサン・フランチェスコ教会に今も残っていると言う情報がある(ヴェッペルマン,p.369など)絵を完成させた後,アレッツォに帰った.
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写真: スピネッロ・アレティーノ
「聖ベネディクトゥスの物語」
(部分) |
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スピネッロの師匠に関しては諸説あるが,ヴァザーリは特定の師はおらず,アレッツォに仕事をしに来ていたヤコポ・デル・カゼンティーノ(ヴァザーリはデルではなくディを使用)の影響を受けたとしている.まだニ十歳になっていなかったスピネッロが既に老人だったヤコポの技量をまもなく凌駕したというのは俄かに信じがたいが,それだけヴァザーリがスピネッロを評価していたと言うことだろう.
「スピネッロ伝」の前に短いが「ヤコポ・ディ・カゼンティーノ伝」があり,これを英訳本で参照すると,ヤコポはタッデーオ・ガッディに学び,ジョヴァンニ・ダ・ミラーノの影響を受けたらしいので,後者に関しては再確認の必要があるかも知れないが,今は措くとしても,アレッツォ滞在中に「アレッツォのスピネッロに彼自身がアーニョロから学んだ絵画の諸原理を教え,後にそれをスピネッロがベルナルド・ダッディに教えた」と言う記述は見のがせない.
この後,ヴァザーリはベルナルド・ダッディの画力と画業を讃え,その作品を列挙している.ジョッテスキ第1世代で,ペストの年(1348年)に亡くなったであろうダッディの「伝」がヴァザーリにないのは不思議だったが,その力量を評価していたことがわかったのは良かった.
しかし,この文脈ではジョッテスキ第1世代のベルナルドが,第3世代もしくは第4世代で,ジョッテスキの最後を飾るスピネッロ・アレティーノの弟子筋にあたることになり,俄かに信じがたいどころか,そもそもヴァザーリに『芸術家列伝』の信頼性をも揺るがすのではないだろうか.
いきなり出てきたと思われる「アーニョロ」はアーニョロ・ガッディであろうが,これだとタッデーオの息子で間違いなくジョッテスキ第3世代の芸術家がヤコポに教えたことになり,アナクロニズムの批判は免れないように思える.
逆に伊語版ウィキペディアの「ヤコポ・デル・カゼンティーノ」は,彼の工房にアーニョロ・ガッディとスピネッロ・アレティーノがいた可能性を示唆しており,これは魅力的だが根拠は示されていない.
Bruce Cole, Agnolo Gaddi, Oxford at the Clarendon Press, 1977
は,アーニョロに関する同時代資料を挙げながら,彼の人生を説き明かしているが,私が見た限りヤコポへの言及はない.いずれにせよ,ヴァザーリの『芸術家列伝』はおもしろく,資料性も高いが,「弘法も筆の誤り」を遥かに越す誤解や不正確があることは否めない.
しかし,こうした巨大な「叩き台」があることが,ヴェッペルマンやブルース・コールに至る現代の研究者たちが,同時代資料を発掘して,できる限り真実に近い芸術家たちの姿を明らかにし行く大きな動機の一つになることは間違いないだろう.総合芸術家であったヴァザーリの伝記作家としての価値がなくなることは,今後もないと思う.
ヴァザーリはアレッツォ出身であるから,地元出身のスピネッロ・アレティーノの伝記は詳しく書いているし,おもしろさも,たとえば「ピエロ・デッラ・フランチェスカ伝」の平板さと比べると,相当の水準にあるように思われる.
ここにはスピネッロがどこで仕事をし,どんな作品を描いたか,またその背後の事情はどうだったかが丁寧に記されている.現存しない作品が少なくないこともわかり,ヴァザーリ自身が破却されたスピネッロの絵に代わって自身の作品を描いたことも言及されている.
その中で,サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の「聖具室」の連作フレスコ画「聖ベネディクトゥスの物語」は,サン・ミニアート・アル・モンテ修道院長ヤコポ・ダレッツォ(アレッツォ出身のヤコポ)が描かせたとされている.同時にテンペラによる「聖ベネディクトゥスの物語」の祭壇画を描いたとし,ヴァザーリはこれを絶賛しているが,今はこの聖堂にはない.
ジョット以後,ルネサンスに至るまでのゴシック芸術が数多く見られるサン・ミニアート・アル・モンテだが,私にとって最も見ごたえがある作品は,ゴシックも終わろうとする時期だが,国際ゴシックには分類されないスピネッロ・アレティーノの連作フレスコ画「聖ベネディクトゥスの物語」だ.
ガイドさんの案内でサン・ミニアート・アル・モンテまで行った割には,堂内の観光はあっさりと終わり,聖具室は開いていなかったので,多くの人がスピネッロを見ることなく,すぐに堂外に出たが,私は,修道士が鍵を持って来たのが見えたので,再び階段を上って,扉の開いた聖具室に入って,いつものように喜捨で明かりがつく仕組みを利用して,じっくりと見た.
前日行ったアレッツォのサン・フランチェスコ教会でもピエロ・デッラ・フランチェスカだけではなく,スピネッロの作品に魅入っていた私に興味を持って下さった画家のSさんも戻ってきて,聖具室に入り,共感の言葉を述べて下さった.
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写真:
サンタ・トリニタ教会
ファサードはマニエリスム
(ブオンタレンティ設計)だが
内部はゴシック |
フィレンツェのゴシック建築としては,大聖堂(ファサードは19世紀のネオ・ゴシック,有名なクーポラはルネサンス),サンタ・クローチェ聖堂(ファサードは19世紀のネオ・ゴシック),サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂(ファサードはロマネスクの伝統を意識したルネサンスの作品),サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の他に,城門,邸宅,宮殿,開廊などがある.
これらは興味深く,それに対する感想を述べてみたい誘惑に駆られるが,それは後日のこととし,次回は,サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂に見られるルネサンス芸術を契機に,マザッチョ,ピエロ・デッラ・フランチェスカなどフィレンツェ,アレッツォ周辺で見られる「ルネサンス」についてなるべく簡潔に考察してみたい.
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スピネッロ・アレティーノ「聖ベネディクトゥスの物語」
サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の聖具室で
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