§フィレンツェ再訪 - その10 ルネサンス(1)
ポッライオーロの祭壇画はコピーで,本物はウフィッツィにあるが,その他は,オリジナル作品だ.曰く,アレッソ・バルドヴィネッティの「受胎告知」,ルーカ・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタによる天井装飾,アントニオ・ロッセリーノ作の廟墓,礼拝堂全体の設計はブルネレスキの追随者であるアントニオ・マネッティである.
果たして,それもマネッティの設計なのか,だとしてもこれを実現した職人がいるはずで,そのレヴェルの高さに驚くのは,床のコズマーティ風装飾である.
コズマーティ風の床装飾は,ローマ,パレルモに見られるが,トスカーナではピサの大聖堂と洗礼堂で見ている.コズマーティ一族は12世紀から13世紀には活躍したので,ピサの作品はオリジナルであろうが,ポルトガル人礼拝堂の床は間違いなく模倣の産物であろう.しかし,見事だ.
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写真:
ポルトガル人
枢機卿の礼拝堂 |
また,ロッビア工房の彩釉テラコッタは,これこそがトスカーナのルネサンスと言いたくなるほど見事なものだ.
ロッビア工房の作品はフィレンツェとその周辺で見られ,始祖ルーカ,甥のアンドレーア,その息子ジョヴァンニが中心だが,その他の一族(ルーカ2世,アンブロージョ,マルコなど)の作品も見られるし,作者のはっきりしない工房作品とされていても,大抵は再見,三見に値する水準である.この天井の装飾は5つのメダイオン(中央が聖霊,他の4つが美徳の寓意)だけでなく,全体が上品で,精緻で,簡素で,ともかくフィレンツェのルネサンスを体現している.
日本にいて,ルネサンスの勉強をしていても,多くの人はロッビア工房の彩釉テラコッタに注意が向かないかも知れない.私も,最初にバルジェッロ国立博物館にあるロッビア作品の部屋に入った時,一体これは何だと奇異な感じがした.
大聖堂博物館で,ドナテッロの合唱隊席と向い合せになっている,ルーカ作の合唱隊席と,その下にあるオリジナル・パネルの浮彫を見て,ルーカの彫刻家としての実力を見直し,それから「ロッビア」ブランドの作品を真剣に見るようになった.
フィレンツェには街角にも,中世,ルネサンスの芸術が見いだされ,多くの場合タベルナコロ(壁龕)に絵や浮彫が収められているが,ロッビア工房の彩釉テラコッタはその中でも傑出した芸術作品に思われる.
ロッビア工房の作品に注目してこそ,フィレンツェのルネサンスを真に愛することができると言うのが(余計なお世話だが)私の持論だ.その中でも,ポルトガル人枢機卿の礼拝堂の天井装飾は素晴らしい.
廟墓が芸術作品であることは,フィレンツェに滞在するまで思い当らなかった.確かに,今,自宅に残っている昔見た特別展の際に買った絵葉書を見ると,もともと古代石棺の浮彫には魅かれていたようだ.
しかし,それはもっぱらギリシア神話を扱った古代芸術としての側面を意識してのことだと思う.ルネサンスと言えども,キリスト教世界であるから,必ずしも廟墓にギリシア神話をモティーフにした装飾が用いられるわけではない.
今回もゴシックの時代のものとしては,ティーノ・ディ・カマイーノの作品を,大聖堂,サンタ・クローチェ聖堂付属博物館,サンタ・マリーア・マッジョーレ教会で見ることができ,ルネサンス期のものは,ミケロッツォ・ミケロッツィの「対立教皇ヨハネス23世の墓」(洗礼堂),ベルナルド・ロッセリーノの「レオナルド・ブルーニの墓碑」(サンタ・クローチェ聖堂),デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「カルロ・マルスッピーニの墓碑」(サンタ・クローチェ聖堂)を比較的しっかりと鑑賞できた.
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写真:
デジデリオ・ダ・セッティニャーノ
「カルロ・マルスッピーニの墓」
サンタ・クローチェ・聖堂
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レオナルド・ブルーニとカルロ・マルスッピーニは,2人とも,当時のフィレンツェ共和国の高名な人文主義者(ヒューマニスト/ウマニスタ)で,相次いで書記官長を務めており,前者がダンテの研究家としても知られ,後者には複数のラテン語著作があり,フィリッポ・リッピに通称「マルスッピーニの聖母戴冠」と称される祭壇画(ヴァティカン美術館所蔵)を描かせた.
彼の2人の息子クリストフォロと父と同名のカルロは,マルシリオ・フィチーノの『恋についてのプラトン『饗宴』注解』(*)において,作者自身を含む9人の登場人物になっている.
(*) 国文社刊行のアウロラ叢書に『恋の形而上学』という邦題で左近司祥子の邦訳がある.この邦訳は立派だが,冒頭の「プラトーンは十月七日が誕生日であった」と言うのは明らかに誤訳である.訳注にも言及されているディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によれば,プラトンはタルゲーリオンの月の7の日に生まれた.ギリシアの暦は,現在までつながるローマ風の月名称とは違い,このタルゲーリオンは1年で11番目の月になる.フィチーノの原文を確認するとラテン語で「11番目の月」と書いてある.なぜこんな些末なことにこだわって,大先生の名訳に対してわざわざ「誤訳」とあげつらうかと言えば,私の誕生日が10月7日なので,学生時代にこの邦訳を読んで,自分はプラトンの生まれ変わりかと糠喜びし,調べた後にがっかりした経験があるからだ.
フィチーノは自作の登場人物たちの父カルロを「詩人」と呼んでいる.後世への影響はともかく,代表的なフィレンツェのルネサンス人であろう.
この墓碑は,天才デジデリオの最高傑作と言っても言い過ぎではないだろう.嘆息あるのみだ.
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写真:
マンドルラの中の「聖母子」
アントニオ・ロッセリーノ |
サンタ・クローチェ聖堂はルネサンス彫刻の傑作に満ちている.
アントニオ・ロッセリーノの「聖母子」の浮彫では,聖母子はマンドルラの中にいる.ファサードの近くの柱にあって,常に良い光で見ることができることもあって,印象に残る.
ベネデットとアントニオのロッセリーノ兄弟は,デジデリオと同じセッティニャーノ(現在はフィレンツェ市内の一地域)で生まれ,フィレンツェで活躍したルネサンスを代表する彫刻家である.兄は1409年,弟は1427年の生まれなので,兄弟と言っても18歳の年齢差があり,当然その芸術家としての成長期の体験が異なる.
セッティニャーノでは16世紀(1511年)に,マニエリスムの時代の彫刻家バルトロメオ・アンマンナーティも生まれた.母を失ったミケランジェロが幼時,石工の妻であった乳母に預けられたのもセッティニャーノだった.良い石を産するので,偶然ではなく石工,彫刻家を産する土地であった.
兄ベルナルドの作品としては,バディア・フィオレンティーナ教会に「ジャンノッツォ・パンドルフィーニの墓碑」,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の「福者ヴィッラーナの墓碑」,ピストイアのサン・ドメニコ教会の大理石のポルターユ他がある.彼は多くの彫刻を制作し,さらに建築家としても活躍して,ピエンツァの大聖堂,司教館,ピッコロミーニ宮殿,コムナーレ宮殿を設計した.
弟はサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂ポルトガル人枢機卿の礼拝堂で枢機卿の墓碑を制作したばかりでなく,世界各地の美術館に収蔵されている多くの彫刻作品を創った.また兄との共作でピストイアのサン・ドメニコ教会に「法律家フィリッポ・ラッザーリの墓碑」を制作した.
サンタ・クローチェ聖堂の堂内には,フランチェスコ会の教会らしく,聖フランチェスコの物語の浮彫を施した説教壇があり,作者はベネット・ダ・マイアーノだ.
この芸術家も,幾つもの彫刻を遺しただけでなく,建築家としても活躍した.スピネッロ・アレティーノの息子パッリ・ディ・スピネッロの「慈悲の聖母」があることでも知られるアレッツォのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会を設計している.ブルネレスキが設計したフィレンツェの捨て子養育院の影響を受けた開廊が特徴的な建造物だ.
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写真:
ドナテッロ
「受胎告知」(部分) |
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しかし,何と言っても,ドナテッロの「受胎告知」が最高傑作だ.何度見ても素晴らしい.この聖堂にある彼の作品としては他に,信者に限定された区域の礼拝堂にあるので,遠目にしか見えないが,ブルネレスキとの競作の逸話が有名な,キリスト磔刑像もある.
また,付属博物館にはもともとオルサンミケーレ教会の壁龕にあった「聖ルイ」の彫刻もあり,通常はタッデーオ・ガッディの「最後の晩餐」がある旧・食堂に展示されているが,今回は修復中で,その痛々しい姿が博物館内のいつもとは別の場所に修復中のまま置かれていた.
さすがに,フィレンツェのルネサンスを考えると,「簡潔に」まとめるという訳には行かないようだ.次回は,二度目の鑑賞を果たすことができた,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂に見られるマザッチョ,マゾリーノ,フィリピーノ・リッピのフレスコ画をヒントに,さらにフィレンツェのルネサンスについて考えてみたい.
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ドゥオーモにて
色大理石の床装飾を撮影中
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